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目をこらせば不思議な形や命にあふれる山は最大の美術館であり博物館です。

 

 

デザインと山

 

<山にはデザインのソースがいっぱい>

 

日本は山国で、大抵の人は住んでいる所から少し電車にでも乗れば小さな山の近くまで行くことが出来ると思います。僕の場合は気が向いたときにさっと電車に乗って山が線路に近づいたところで駅を降ります。よく登るのは大抵は名前も分からないような小さな山です。街歩きの延長の感覚です。

でも近くに見えていた山がいざ歩いてみて思ったよりも遠いこともよくあります。いつも街から小さな集落を抜けて山の登り口についたときはほっとします。麓の村の人に、こんな何もない山に何しに来たのかと怪訝な顔をされることもたまにあります。気分転換ですと村人に声をかけて登り始めます。


登り出すと街の騒音が一歩ごとに小さくなって、しばらくすると人工の音に慣れた耳には何も聞こえなくなります。風向きにもよりますが木と土が作る自然の防音効果に驚かされる時があります。それからまた暫く歩き続けると今度は、自然の音がたくさん聞こえるようになってきます。最初に風がおこす木の葉のざわめきの音が聞こえてきます。それから小さな水の流れる心地よい音。最後に小さな虫や鳥がたてる音も聞き取れるようになります。

一時間も歩くとすっかり街でいるときとは心持ちが変わってきます。頭をよぎることや考えることが違ってきます。自然が作る多彩な形と色、普段聞き慣れない音が感性を変えてしまうのかも知れません。 山には自然の無限のバリエーションがあります。街中では注意してみると同じ情報があふれている事に気付きます。知らない間にテレビコマーシャルと同じように同じ情報を繰り返し与えられているのです。コーラに、ハンバーグに、化粧品に、車・・・・同じデザインがこれでもかと襲ってきます。

その点、自然には同じモノはありません。道でも、川でも、土でも、石でも、木でも、そして動物たちも、全部違う顔をしています。デザインにとってはこの「違い」がとても大切です。何かのコマーシャルにありましたが、微妙な違いがわかる事、自然を観察することは、そのための訓練になります

 


 

 

山歩きから得られる利点のいくつかを書いてみます

 

<普段使わない筋肉を使うこと>

 

都市生活では殆どの道路は舗装され歩いていても障害物や凹凸に悩まされることはあまりありません。階段もステップの間隔がほぼ同じように作られていて意識せずに登ることが出来ます。いきおい身体の筋肉や関節を微妙に使うことは少なくなります。そのかわり、自動車や電車などの乗り物にひかれそうになったり、肩をぶつけただけで絡んでくるような変な人間に神経を使ったり、不自然な疲れを経験します。

山道では、足元を常に確認しながら歩かないとしょっちゅう躓いてしまいます。小さな石や枯れ枝、穴や木の根っこ等に足を取られて怪我をします。普段、人工的な平面しか感じていない足の裏にとっては、驚くような感覚です。体も足に合わせて微妙なバランスを強いられるため普段使われない体中の筋肉が使われることになります。これは普段使われない脳細胞を活性化させることにもなって、新しいアイデアを考えるための刺激となります


 

 

<意味を持たされた色や形>

 

都会で目にする形の殆どは人工的な形で、その一つ一つが意味を持たされた形です。電話ボックスなら場所をとらず使いやすく低コストでとか、舗道なら歩きやすくとか、お店の看板は目立つようにとか効果のほどは分かりませんが、目に入るモノの殆どが意味を持たされたものです。私達は無意識の中にこの意味を持たされたモノの中から自分と関係のない情報を無視して、意味のある情報だけ認識するように訓練されています。人工物にはダイヤモンドの指輪からタバコの空き箱に至るまであらゆる価値観が植え付けられているのです。

価値観に個人差はあるでしょうが、ダイヤの指輪よりタバコの空き箱の方に価値を見出す人はそういないでしょう。でも都会で目にする自然物、樹木や鳩等の鳥や猫などの小動物に出会ったときにはどのような意味や価値をを見いだしているのかには疑問があります。公園の鳩を見て汚らしいと石を投げる人もいますし、愛情一杯に接する人もいます。木の葉っぱ一枚ちぎることをためらう人もいますし、平気で枝を折る人もいます。自然物に対しては人によって価値観が大きく違っている場合があります。何故なら、それらは意味を持たされたモノではなく、私達が意味を見つけなくてはならないモノだからです。


 

 

<意味のある形と色>

 

山道を歩いていると目に入るもの全てが自然のものです。当たり前です。でも良く考えると自然に存在する全てのものの形や色は必然性を持っていることに気づきます。足元に転がる無数の小石や枯れ枝も一つ一つがその色や形に必然性を持っています。地質学者でなくとも岩肌や小石の色や形状を見てある程度の堅さや重さぐらいは察しがつきます。石の欠けかたや割れ方から石の硬度や粘度を推察することが出来ます。

そしておおよその重さを量ることが出来ます。枯れ木と生木を見て誰でもが枯れ木の方が軽い事を知っています。この場合色目やテクスチュアーが基準となっています。これらのことは私達がそれぞれ経験上で確かめたいくつかの事例から類推されるものです。石なら石、木なら木、金属なら金属と数少ない経験が多くのものに対して当てはまるのです。それは、それらが必然性を持っているからです。もしあなたが急に山道の石や枝を蹴りたくなった時に、このことが分からないと足先は血だらけになりかねません。

ごろごろと転がる河原の石でも同じ色、同じ形の石は二つとありません。一つ一つが個性を持っています。それぐらいの偶然性は起こりそうなものなのにありません、少なくとも僕は今までに見つけたことがありません。この無限のバリエーションが勉強になります。緑といっても木の葉の中には無限の種類があります。灰色と言っても石の中では限りなく灰色のバリエーションがあります。そして自然が作る形には似ているようで違ったり、全然違うように見えてよく観察すると似ていたりすることもあります。

山道をてくてく歩きながら、この木はどうしてこんな形をしているのだろう、この石はなんでこんな色をしてるのだろう等と考えながら歩いていると、思わぬ発見やアイデアが浮かぶことがあります


 

 

<遠くを見ること>

 

頂上から町並みを見おろしたり、麓から山頂を仰いだりする事は、日頃忘れている遠近感やスケール感を思い出させてくれます。街中での視野はとても狭く遠くを見ることはあまりありませんし遠くが見えないところが多いですから。余談ですが友人があるとき殆どの人がUFOを目撃できないのは、空を見ている時間が少ないからだと言っていました。一理ありますが街中で空を見上げて歩いていると車に曳かれます。

山道なら足元の確認さえしておけば空を見ながら歩けます。木の間から猪はでても車は飛び出してきません。僕は普段見れない遠くの景色を長い時間見ることにしています。大阪上空を覆うスモッグのすごさを見ていると気分が悪くなりますが、瀬戸内海に浮かぶ船を見ていると何故か心がなごみます。このロケーションは六甲山や摩耶山の場合ですが。とにかく普段と違う環境でものを見たり考えたりするとアイデアは浮かびやすいと思います。

遠景の山はよく見るけど、逆に山頂から街を見下ろすことは日常では、少ないはずです。視点を変えると、モノの見方考え方が変わるときがあります


<近くを見ること>

 

山の中で毎回のように驚かされるのは、近くを見たときです。自分の足元あたりを見つめるだけでも沢山の生き物がいます。蟻やよく知らない虫がせっせと動いています。じっくり見れば見るほど沢山の生き物が視界に入ってきます。地面の中から突然出てくる奴もいます。舗装された街中では気づかないことです。一見何もいないような木の幹でもよく見ると色々な昆虫がいます。

街に住む昆虫は苦手な方なのですが、山の中ではそれほど苦になりません。じっと仕草を見ていると親近感を持ったりします。小鳥やりす等の小動物が逃げずに怪訝そうにこちらを見ている時なんかとてもうれしくなります。それにしても木の枝振りや葉脈のパターン、岩石の亀裂など美しい形が至るところに発見できる山は、デザインの原石が眠る宝庫と言えます

Copyright (C) 2010 Masaki Matsuura. All rights reserved.

 

次は空間についてです


 

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