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バイオリンバイオリン
<バイオリニスト1>

ジョージ・ブリッジタワー
(George Augustus Polgreen Bridgetower, 1778年または1780年 − 1860年2月29日)は、ポーランド出身のイングランドのヴァイオリニスト。黒人の父親と、おそらくドイツ人の母親との間に産まれた。1802年に賜暇を認められて、母親と兄弟をドレスデンに訪ね、同地で演奏会を開く。

その後1803年にウィーンに行き、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンと共演した。感銘を受けたベートーヴェンは、自身の偉大な《ヴァイオリン・ソナタ第9番》作品47をブリッジタワーに献呈したが、「気分屋の混血のためのソナタ(イタリア語: Sonata per uno mulaticco lunatico)」という、親しみからとはいえ茶化すような献辞がついていた。


カミッロ・シヴォリ
Ernesto Camillo Sivori, 1815年10月25日 ジェノヴァ − 1894年2月18日)はイタリアのヴァイオリニストで作曲家。神童の誉れ高くニッコロ・パガニーニに一人だけ弟子入りを許されたヴァイオリニストとして名を遺しているが、そのほかにレスターノやジャコモ・コスタ、デッレピアーネにも師事した。シヴォリの演奏はパガニーニ譲りの、わくわくするほど華麗な超絶技巧で名高かった。

パブロ・デ・サラサーテ
(Pablo Martin Meliton de Sarasate y Navascuez, 1844年3月10日 - 1908年9月20日)は、スペイン・パンプローナ出身の作曲家、ヴァイオリン奏者。バスク人である。8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露した。

1865年には一番初めに仲良くなったサン=サーンスと演奏旅行をした。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」などを献呈している。サラサーテはまた、ラロの「スペイン交響曲」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者かつ被献呈者でもある。

ウジェーヌ・イザイ
Euge`ne-Auguste Ysaye, 1858年7月16日リエージュ - 1931年5月12日ブリュッセル)は、ベルギーのヴァイオリン奏者、作曲家、指揮者。ヴァイオリニストとしては、アンリ・ヴュータン、ヘンリク・ヴィエニャフスキの指導を受けて才能を伸ばし、その高い技術で多くの聴衆を惹き付け、ヴァイオリン音楽に大きな影響を与えた。

エンリケ・フェルナンデス・アルボス
(Enrique Fernandez Arbos, 1863年12月24日 - 1939年6月2日)はスペインのヴァイオリニスト・作曲家。母国やブリュッセルの音楽院に学んだ後、ベルリンに留学してヨーゼフ・ヨアヒムの薫陶を受けた。ハンブルクで教授職を得たが、やがてマドリードに戻り、スペイン随一のヴァイオリニストとしての地位を築いた。

アルベニスのピアノ曲集《イベリア》にオーケストレーションを施して管弦楽組曲版を作成したことでも知られているが、後に同曲集を編曲しようとしたラヴェルがアルボスの編曲がすでに存在するを知って、やむなく作曲したのが『ボレロ』である、というエピソードがある。

フランティシェク・ドルドラ
(Frantisek Alois Drdla, 1868年11月28日 - 1944年9月3日)は、ライト・クラシックの作曲で著名なチェコのヴァイオリニスト。モラビアのズジャール・ナド・サーザヴォウ(Z?ar nad Sazavou)に生まれる。ヴァイオリンと作曲を最初にプラハ音楽院で学んだ後、ウィーン音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世にヴァイオリンを、アントン・ブルックナーに音楽理論を、フランツ・クレンに作曲を師事。

フレッシュ・カーロイ
Flesch Karoly, 1873年10月9日 モション - 1944年11月14日 ルツェルン)は、ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニスト。数々の演奏家を世に送り出した卓越した音楽教育者として世界的に知られている。『ヴァイオリン演奏の技法(ドイツ語: Die Kunst des Violin-Spiels)』(1923年-1928年)は、ヴァイオリニストを単なるヴィルトゥオーゾとしてよりも、芸術家として観念化したことで知られている。

「ある音楽家の教養の程度は、彼のモーツァルトに対する関係で分かる。相当の歳にならねばモーツァルトを理解することができない、というのは、よく知られた事実である。若い人たちは、モーツァルトを単純、単調、冗漫だと思う。人生という嵐によって純化された人だけが、単純さの崇高な要素と、霊感の直接性を理解するのである。」

フリッツ・クライスラー
Fritz Kreisler, 1875年2月2日:ウィーン - 1962年1月29日:ニューヨーク)は、オーストリア出身の世界的ヴァイオリニスト、作曲家である。ジークムント・フロイトと親しい医者の子としてウィーンに生まれる。父親は大の音楽好きで、アマチュアの弦楽器奏者でもあった。

その父の勧めで3歳の頃からヴァイオリンを習い始めたが、あまりにも飲み込みが早く、7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学してヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世に演奏を、アントン・ブルックナーに作曲を学び、10歳にして首席で卒業した。

ジャック・ティボー
(Jacques Thibaud, 1880年9月27日 - 1953年9月1日)は、フランス出身のヴァイオリニスト。フランコ=ベルギー派の代表格として知られ、フリッツ・クライスラーと並び称された。1896年にパリ音楽院を首席で卒業したティボーは、生活費のためにパリのカフェでヴァイオリンを弾いていたところを指揮者エドゥアール・コロンヌの目にとまり、コロンヌ管弦楽団に招かれる。以後たびたび独奏者として活躍して名声を高めた。


ジョルジェ・エネスク
George Enescu 1881年8月19日 - 1955年5月4日パリ)はルーマニアの作曲家、ヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者、音楽教師。20世紀の傑出した音楽家にして、存命中は最高のヴァイオリン演奏家の一人であった。

エネスクは、クライスラーやティボーと共に20世紀前半の三大ヴァイオリニストの一人とされる。1920年代半ばからはヴァイオリン教師としても著名になり、門下にユーディ・メニューイン、アルテュール・グリュミオー、クリスチャン・フェラス、イヴリー・ギトリスらがいる。また、作曲の弟子にルロイ・アンダーソンがいる。


エフレム・ジンバリスト
(Efrem Zimbalist, 1889年4月9日 - 1985年2月22日)は、ヴァイオリニスト。指揮者や音楽教師も勤めたほかに、作曲や編曲も手がけた。ロシアのロストフ・ナ・ドヌにてユダヤ系音楽家の家庭に生まれる。指揮者の父親の楽団で、8歳になるまでにヴァイオリンを弾き始める。12歳でペテルブルク音楽院に入学してレオポルト・アウアーに師事。1949年にいったん演奏活動から引退するも、1952年に復帰し、ジャン・カルロ・メノッティのヴァイオリン協奏曲(ジンバリストへの献呈作)の世界初演を務めた。

ヨゼフ・シゲティ
(Joseph Szigeti, 1892年9月5日 - 1973年2月19日)は、ハンガリー出身のヴァイオリニスト。20世紀を代表するヴァイオリン奏者のひとり。パガニーニやサラサーテの前世紀からの影響のもとに、アクロバティックな超絶技巧や磨かれた音色をむやみに追究しようとする風潮に対して、シゲティは演奏家の堕落する一因を見出していた。そのため、知的な理解にもとづく作品解釈をうちだし、楽譜の完全な再現や作曲者の意図に忠実な再現をめざした、「客観的な」演奏を行なった。

イェリー・ダラーニ
(Jelly d'Aranyi, 1893年5月30日 ブダペスト - 1966年3月30日 フィレンツェ)はハンガリー出身の女性ヴァイオリニスト。姉アディラ・ファキーリも著名なヴァイオリニストであった。当初はピアノを学ぶが、ブダペストのフランツ・リスト音楽院でイェネー・フバイに師事したのを機にヴァイオリンに転向した。欧州や米国で独奏者ならびに室内楽奏者として演奏旅行を続けた後、ロンドンに定住。ベーラ・バルトークと共演してロンドンやパリでヴァイオリン・ソナタのリサイタルを開いた。

シャールス・バルケル
Charles Barkel, 1898年2月6日 - 1973年3月7日)は、スウェーデンのヴァイオリニスト。ストゥーガンに生まれ、1915年までストックホルム音楽院にラーシュ・セッテルクヴィストに、1917年までコペンハーゲン音楽院でペーザ・メラに師事し、1918年にはベルリンに渡ってカール・フレッシュに師事した。1924年から1937年までリカド・アンデション音楽院の教授を務めたほか、1926年から1965年までストックホルム音楽院の教授を務め、数多くのヴァイオリニストを育てた。

カール・フォン・ガラグリ
(Carl von Garaguly, 1900年12月28日 - 1984年10月4日)は、ハンガリー出身のヴァイオリニスト、指揮者。マジャル語ではガラグイ・カーロイ。北欧で指揮者として活躍し、ジャン・シベリウスを得意とした。ブダペスト出身。ベルリンでアンリ・マルトーに師事し、長年イェーテボリやストックホルムでヴァイオリン奏者と指揮者の二足の草鞋を履いた。

ジノ・フランチェスカッティ
(Zino Francescatti、1902年8月9日 - 1991年9月17日)は、フランスのヴァイオリニスト。バッジーニと、パガニーニの門人カミッロ・シヴォリに学んだヴァイオリニストだった。パガニーニの専門家として知られる。超絶技巧の演奏家としてあらゆる協奏作品を録音したが、中でもサン=サーンスの《協奏曲 第3番》、ブルッフの《協奏曲 第1番》、メンデルスゾーンの《協奏曲ホ短調》は高い評価を受けており、フランチェスカッティの特長である、輝かしさと歌うような音色が際立っている。

ジョコンダ・デ・ヴィート
(Gioconda de Vito、1907年6月22日 - 1994年10月14日)はイタリアのヴァイオリニストである。1907年に北イタリアのマルティーナ・フランカに、中流の葡萄園主の娘として生まれ、1914年から地回り楽団のマスターについてヴァイオリンを学び、数年後には近くのペサロ音楽院でレミー・プリンチペに師事したが、2年間であらゆる賞を総なめにしたため、中途でパリ音楽院に移る。1953年以前はガリアーノの「エックス・カルマン・ロネイ」(1762年作)を使用し、それ以後はクレモナ産の名器「トスカーナ」(1690年、ストラディヴァリ作)を使用、これで演奏されたフィッシャーとのブラームスの第1番と第3番のソナタは同曲録音中の圧巻

ニコロ・パガニーニ
(NiccoloPaganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)はイタリアのヴァイオリニスト、ヴィオラ奏者、ギタリストであり、作曲家である。パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。

それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。

ヨーゼフ・ヨアヒム
Joseph Joachim1831年6月28日 - 1907年8月15日)は、ヴァイオリニスト・指揮者・作曲家。ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演ヴァイオリニストとして後世に名を残している。1843年、12歳になるとライプツィヒに出向き、メンデルスゾーンに師事した。なお、ライプツィヒ音楽院の入学試験でヨアヒムが演奏した際の試験官は、学院長のメンデルスゾーンであった。同年8月、ゲヴァントハウスで、メンデルスゾーン、クララ・シューマンらと共演し、12歳のヨアヒムはライプツィヒの聴衆の知るところとなった。

レオポルト・アウアー
Leopold Auer, 1845年6月7日 - 1930年7月15日)は、ハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリン奏者、教育者、指揮者、作曲家である。ヴェスプレームに生まれ、ブダペストとウィーンでヴァイオリンを学び、ハノーファーでヨーゼフ・ヨアヒムに師事した。アウアーは最も重要なヴァイオリン教師の一人として知られており、多くの有名なヴァイオリニストが子供時代からアウアーの指導を受けた。その中に、エフレム・ジンバリスト、ミッシャ・エルマン、ナタン・ミルシテイン、トッシャ・ザイデル、ヤッシャ・ハイフェッツがいる。

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フリードリヒ・ザイツ
(Friedrich Seitz, 1848年6月12日 - 1918年5月22日)は、ドイツ・ロマン派の作曲家、ヴァイオリニスト。初心者用のヴァイオリン協奏曲の作者としてヴァイオリン学習者には有名。学生のためのヴァイオリン協奏曲5作品などが知られている。ザイツにヴァイオリンを師事していた人物として、ヴァイオリニストを目指していた若かりし日のマレーネ・ディートリッヒが挙げられる。

ヴィリー・ヘス
(Willy Hess, 1859年7月14日 − 1939年 ベルリン)はドイツの有名なヴァイオリン奏者・音楽教師。マンハイムに生まれ、ルイ・シュポーアの門弟だった父からヴァイオリンの手ほどきを受け、ヨーゼフ・ヨアヒムに師事。1904年から1910年までボストン交響楽団のコンサートマスターを勤めるかたわら、ハーヴァード大学でもヴァイオリンの指導を行う。


アルノルト・ロゼ
Arnold Josef Rose, 1863年10月24日:ヤシ- 1946年8月25日:ロンドン)はルーマニア出身でオーストリアで活躍したユダヤ系ヴァイオリニストで、アルマ・ロゼ Alma Rose の父。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを57年に渡って務め(65歳で定年となる現在ではこの記録が破られることはない)、ロゼ四重奏団を主宰した。

ウジェーヌ・イザイ曰く、「ロゼがソリストとして躍進を遂げなかった事は、他の全てのヴァイオリニストにとっては幸運であった」とあるように、ロゼはコンサートマスターとしての力量もさることながら、ソリストとして独り立ちしていたならば、世界有数のヴァイオリニストになっていた可能性もある。


リュシアン・カペー
(Lucien Louis Capet, 1873年1月8日 パリ − 1928年12月18日 パリ)はフランスのヴァイオリニスト・室内楽奏者・音楽教師・作曲家。超絶的な演奏技巧と力強く温かみのある音色とを併せ持ち[1]、ヴィルトゥオーゾとして名を馳せた。実家はパリの労働者であった。15歳までパリのビストロやカフェーでヴァイオリンを弾いて自活した。パリ音楽院ではモランに師事する。カペーは教育者としても一目置かれ、とりわけ運弓技術で名高かった。著名な門弟にヤッシャ・ブロツキー(またはヤッシャ・ブロドスキーとも)とイヴァン・ガラミアンがおり、いずれも今世紀の最も影響力あるヴァイオリン教師となった。

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アンリ・マルトー
(Henri Marteau, 1874年5月31日 - 1934年)は、フランス・ランス出身でスウェーデンに帰化したヴァイオリニスト・作曲家。母親はクララ・シューマンに学んだピアニストで、父親も名の知れたアマチュアのヴァイオリン演奏家だった。10歳でハンス・リヒターの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して公式デビューを果たし、さらにドイツ各地とスイスで演奏旅行を行なった。第一次世界大戦が勃発して、母国と第二の祖国が戦火を交えるに至ると、スウェーデンに渡り、同地でスカンディナヴィア楽壇の発展に貢献した。

グジェゴシュ・フィテルベルク
(Grzegorz Fitelberg, 1879年10月18日、ロシア領ヴィチェプスク県ダウガフピルス - 1953年6月10日、カトヴィツェ)は、現在のラトビア出身のユダヤ系ポーランド人のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。ヴァイオリニスト・パヴェウ・コハィンスキ(パウル・コハンスキ)らと共にシマノフスキの演奏者・協力者の一人であり、それによってシマノフスキの作品が全ヨーロッパに知られるようになった。

ヤン・クベリーク
(Jan Kubeli´k, 1880年7月5日 - 1940年12月5日)はチェコのヴァイオリニスト・作曲家。現在はプラハ市の一部となったミフレの出身。プラハ音楽院でオタカル・シェフチークに師事。少年時代は一日の半分を練習に使い、あるいは「自分の指から血が滲むまで」練習したという。

1898年以降はソリストとして演奏旅行に出て、間もなく超絶技巧と完全無欠のピッチによって有名になる。指揮者のラファエル・クーベリックは息子である。詩人のカール・サンドバーグは自作の詩の中でクベリークを詠んでいる。

シュテフィ・ゲイエル
Geyer Stefi, 1888年6月28日 ブダペスト - 1956年12月11日 チューリヒ)は、ハンガリー人の女性ヴァイオリニストで音楽教育者。父ヨージェフは監察医であり、自身もヴァイオリン演奏の嗜みがあった。1941年には、パウル・ザッハーが監督するコレギウム・ムジクム・チューリヒに入団してそのコンサートミストレスも受け持った。ゲイエルは多くの後進を育成し、クラウス・フーバーは主要な門弟の一人である。

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グリゴラシュ・ディニク
(Grigoras Dinicu, 1889年4月3日 − 1949年3月28日)は、ルーマニアのロマの作曲家、ヴァイオリニスト。ヴィルトゥオーソ的なヴァイオリンの小品として頻繁に演奏される『ホラ・スタッカート』の作曲者である。1906年から1946年までの40年間、ディニクはポピュラー音楽のコンサートを監督し、ソリストおよび指揮者として海外ツアーも行った。ブカレストや西ヨーロッパのナイトクラブ、ホテル、レストラン、カフェでたくさんのライト・ミュージックの演奏も行った。


ミッシャ・エルマン
Mischa' Elman, 1891年1月20日:タリノエ - 1967年4月5日:ニューヨーク)はウクライナ出身のヴァイオリニスト。情熱的な演奏スタイルと美音で有名であった。キエフ地方の寒村タリノエ(あるいはタルノイエ)に生まれる。祖父はクレツマーすなわちユダヤ教徒の音楽のフィドル奏者だった。

幼少期に絶対音感が認められたが、当時の音楽家の社会的地位の低さから、父親は職業音楽家としての行く末を案じていた。ついに父親が折れて小型ヴァイオリンが与えられると、習い覚えた旋律を弾くようになった。第二次世界大戦後は同門のヤッシャ・ハイフェッツが「ヴァイオリンの帝王」として君臨する中、エルマンは地味に、しかし精力的に活動を続けた。


エレーヌ・ジュルダン=モランジュ
(Helene Jourdan-Morhange, 1892年 - 1961年)はフランスの女性ヴァイオリニスト。同時代の音楽の霊感豊かな演奏家として知られ、とりわけ1917年からモーリス・ラヴェルと親交を結び、そのお気に入りの演奏家になったことで知られている。1922年にはラヴェルの《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》を初演し、1927年には《ヴァイオリン・ソナタ》をラヴェルに献呈されている(また、ポール・パレーからもヴァイオリン・ソナタを献呈された)。

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フランツ・フォン・ヴェチェイ
Franz von Vecsey1893年3月23日 - 1935年4月5日 )はハンガリー人のヴァイオリニスト・作曲家。父ヴェチェー・ラヨシュの手解きでヴァイオリンを始め、8歳でブダペストにてイェネー・フバイに師事。2年後には10歳で、ベルリンのヨーゼフ・ヨアヒムに入門し、その後は燦然たる神童ヴィルトゥオーゾとして名を馳せるようになった。1910年代と1920年には、ヨーロッパ屈指のヴァイオリニストの一人に数えられ、一時はベラ・バルトークを伴奏者にして演奏旅行を行なった。ジャン・シベリウスからは《ヴァイオリン協奏曲ニ短調》を献呈されている。

ヴァーシャ・プルジーホダ
(Vasa Prihoda, 1900年8月24日:ポズナニ−1960年7月27日:ウィーン)はチェコを代表するヴァイオリニストの一人。1913年にプラハでデビューを飾る。第一次世界大戦後の1919年から本格的に演奏活動をするも評判はぱっとせず、生活費を稼ぐためにイタリアに向かい、ミラノのいくつかのカフェでヴァイオリン弾きのアルバイトをするが、あるカフェでミニリサイタルを開いた際、偶然カフェの客だったアルトゥーロ・トスカニーニに「現代のパガニーニだ!」と激賞され、一躍国際的に知られるようになった。

アルマ・ロゼ
(Alma Rose, 1906年11月3日 - 1944年4月4日 アウシュヴィッツ)は、オーストリアのヴァイオリニスト。父親はルーマニア出身のユダヤ人、アルノルト・ロゼーで母親はグスタフ・マーラーの妹ユスティーネ。したがって両親ともにユダヤ系であったため、ナチス政権によってアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送致されたが、そこで囚人オーケストラを編成して指揮をし、囚われの音楽家が少しでも生き延びられるように図った。ロゼのサポーターにより記録された、彼女の在職中のオーケストラのメンバーに死者がいないということが彼女の成功の証しとなっている。1944年に死亡。死因は食中毒と推定されている。

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