シューベルト
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バイオリン

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<ピアニスト2>

ジャン=マリー・ボーデ
(Jean-Marie Beaudet, 1908年2月20日 - 1971年3月19日)は、カナダの指揮者、ピアニスト。セットフォード・マインズの生まれ。 レヴィ大学でアルフォンス・タルディフ神父の元でピアノとオルガンを修め、さらにケベック神学校に進んでアンリ・ガニョンとロバート・タルボットの薫陶を受けた。1932年に帰国して聖ドミニク教会のオルガニストに就任し、同時にラヴァル大学でも教鞭をとり、指揮者、ピアニストとしても活動を始めた。

ルドルフ・フィルクスニー
(Rudolf Firkusny, 1912年2月11日 − 1994年7月19日)は、チェコのピアニスト、作曲家。日本ではフィルクスニーとして知られているが、チェコ語ではフィルクシュニーに近い音で発音する。ドヴォルザークやヤナーチェクといったチェコ音楽を得意とするピアニストとして国際的名声を得ている。 5歳の時知人の紹介でヤナーチェクと会った。この時、フィルクスニーがドヴォルザークのスラヴ舞曲を弾いたところ、ヤナーチェクはテンポが違うと叫んで弾いて見せたという。さらにヤナーチェクはベートーヴェンの月光ソナタの終楽章を弾いて聴かせた。その演奏に魅了されたフィルクスニーは、ヤナーチェクの下で音楽を学ぶことができるようにしてくれと母親に懇願した。

ホルヘ・ボレット
(Jorge Bolet, 1914年11月15日 - 1990年10月16日)はピアニスト・指揮者である。キューバのハバナに生まれ、フィラデルフィアのカーティス音楽学校にてレオポルド・ゴドフスキーとデイヴィッド・サパートンに師事。卒業演奏ではショパンのピアノ・ソナタ第3番とゴドフスキーの『こうもり』によるパラフレーズを演奏した。学生時代の貴重な録音には、ブゾーニ版の『ラ・カンパネッラ』が収録されている。


ディヌ・リパッティ
(Dinu Lipatti, 1917年3月19日 - 1950年12月2日)は、ルーマニアのピアニスト、作曲家。ブカレスト生まれ。アルフレッド・コルトーに魅入られて教えを受けるが、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。 彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである。純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。 ショパンやモーツァルトなどを得意とした。ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。


アンダ・ゲーザ
(Anda Geza 1921年11月19日 ブダペスト − 1976年6月14日)はハンガリーのピアニスト。全盛期においては、美しい音と自然で滑らかな演奏技巧ゆえに驚異的な演奏家と見なされていた。古典派やロマン派をレパートリーとした。フルトヴェングラーをして「ピアノの吟遊詩人」と言わしめたように、ピアノ曲の抑制の効いた演奏を保ち続けた。同胞バルトークの作品に力を注ぎ、フェレンツ・フリッチャイの指揮でバルトークの《ピアノ協奏曲 第3番》を演奏している。


ジョルジュ・シフラ
(Georges Cziffra, 1921年11月5日 - 1994年1月17日)は、ハンガリー出身のピアニスト。超絶技巧で名高い。リストの再来と呼ばれる。ブダペストにてロマの家系に生まれる。5歳のときに、居酒屋やサーカスで民謡を主題とする即興演奏を行なって有名になる。

ブダペストのフランツ・リスト音楽院に入学し、エルネー・ドホナーニらに師事。ソ連軍支配下の祖国から脱出を試みるも失敗、1950年から1953年まで投獄され、懲役刑に服す。併せて収監された同名の息子が、獄中で死にかけるほどの悲惨な体験だった。


コンスタンス・キーン
(Constance Keene, 1921年2月9日 - 2005年12月24日)はアメリカ合衆国のピアニスト・音楽教師。1964年にラフマニノフの《前奏曲集》の録音を発表して、高い評価を勝ち得る。最晩年にはフンメルやウェーバーのピアノ・ソナタ全集の録音で話題を呼んだ。1943年にナウムブルク国際ピアノコンクールに優勝。1946年にヴラジーミル・ホロヴィッツの代役として演奏会に出演。

ホロヴィッツの代理という栄誉にあずかった唯一の女性ピアニストであると言われる。ルービンシュタイン曰く、「その音色、勢い、想像力、それに……信じがたいほどの演奏技巧には吃驚仰天した。思うに、誰だって、ラフマニノフだって、ピアノをこんなに美しく弾けはしない」。

クロード・エルフェ
(Claude Helffer, 1922年6月18日 - 2004年10月27日)は現代音楽の擁護者としてとりわけ有名なフランスのピアニスト。1922年6月18日パリ生まれ。ヴァイオリニストだった母親の影響より、5歳でピアノを始め、10歳から第二次世界大戦の勃発までロベール・カサドシュに師事した。戦時中はレジスタンス運動に身を投じ、少数精鋭、グラン・ゼコールのひとつ、エコール・ポリテクニークに進学した。戦後にルネ・レイボヴィッツに音楽理論と作曲を師事。1948年にパリでデビューし、1954年から定期的にドメーヌ・ミュジカルの演奏会に出演した。

サンソン・フランソワ
(Samson Francois ,1924年5月18日、フランクフルト・アム・マイン - 1970年10月22日、パリ)は、第二次世界大戦後のフランスにおける代表的なピアニストの一人である。主に、ショパンやドビュッシー、ラヴェルの演奏を得意とした。5歳でピアノを始め、早くから天才といわれた。

1934年、一家でニースに戻った時、アルフレッド・コルトーに見出されて1936年にエコールノルマル音楽院に入学、1938年にはパリ音楽院に入学後はマルグリット・ロン、イヴォンヌ・ルフェビュールに師事。ロンの最後の生徒の一人であったが、彼の態度はいたずらっ子のような様相を呈していて従順ではなかったため、ロンも手を焼いたという。フランソワは、酒を愛した人でもあった。3回の来日歴があるが、来日するたびに酔漢の風貌へ変わっていったと言われる。

ユージン・イストミン
(Eugene George Istomin, 1925年11月26日 - 2003年10月10日)は20世紀を代表するアメリカ合衆国のピアニストである。ユダヤ系ロシア人を両親にニューヨーク市に生れた。6歳から母親とともに公開演奏を行い、12歳でカーティス音楽学校に入学、ルドルフ・ゼルキンとミエチスワフ・ホルショフスキに師事。

アルド・チッコリーニ
(Aldo Ciccolini, 1925年8月15日 - )はフランス在住のイタリア人ピアニスト。ナポリ出身。16歳のときサン・カルロ劇場にデビューし、1949年にパリのロン・ティボー国際コンクールに優勝する。1969年にフランスに帰化し、1970年から1983年までパリ音楽院で教鞭を執った。

パウル・バドゥラ=スコダ
Paul Badura-Skoda, 1927年10月6日 ウィーン - )は、オーストリアのピアニスト・音楽学者。イェルク・デームスやフリードリヒ・グルダとともに、いわゆる「ウィーン三羽烏」のひとり。ウィーン音楽院に学び、1947年にオーストリア音楽コンクールに優勝し、その結果エトヴィン・フィッシャーの薫陶を受ける。1949年にヴィルヘルム・フルトヴェングラーやヘルベルト・フォン・カラヤンらといった著名な指揮者と共演する。

アレクシス・ワイセンベルク
1929年7月26日 - 2012年1月8日)は、ブルガリアのソフィア出身のピアニスト。現代の音楽界で巨匠と称される音楽家のひとりである。幼い頃から作曲家のウラディゲロフに作曲とピアノを学び、ピアニストとしてのデビューは14歳の時であった。第二次世界大戦中は収容所に入れられ、苦難の日々を送るが、イスラエルを経てアメリカに逃れる。

ジャズに関心を持つという一面も持ち、シャルル・トレネの「ブン!」などの歌の編曲や、自作曲『ジャズの形式によるソナタ』などを残している。これらのピアノ曲はマルカンドレ・アムランが録音している。

グレン・グールド
(Glenn Herbert Gould, 1932年9月25日 - 1982年10月4日)は、カナダのピアニスト、作曲家。母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロント王立音楽院に合格。同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルヴェスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。

アダム・ハラシェヴィチ
(Adam Harasiewicz ,1932年7月1日 - )は、ポーランド出身のピアニストである。ポズナン近郊のホジェシに生まれる。10歳でピアノを習い、15歳の時にジェシュフで開催されたピアノ・コンクールで優勝した後、カジミェシュ・ムルスキとヤニーナ・ストヤフスカに学び、クラクフ音楽院ではズビグニェフ・ジェヴィエツキに師事した。

1955年、ワルシャワで開催された第5回ショパン国際ピアノコンクールで、ウラディーミル・アシュケナージを抑えて優勝を果たし、ポーランド国内では一躍国民的スターとなり、有名となった。

ヴァン・クライバーン
(Van Cliburn、1934年7月12日 - )は、アメリカ合衆国のピアニストである。ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点と皮肉的な点数をつけた。

イーゴリ・ジューコフ
(Igor Mikhailovich Zhukov, 1936年8月31日 - )はロシアのピアニスト・指揮者・音響技師。ニジニ・ノヴゴロドに生まれるが、翌年、家族に連れられモスクワに移る。4年後に、第二次世界大戦中の戦乱を避けてキーロフ(ヴャートカ)に疎開せざるを得なくなる。戦後にモスクワに戻り、1955年よりモスクワ音楽院に学ぶ。

当初はエミール・ギレリスに、その後ゲンリフ・ネイガウスに師事した。ジューコフは、数多くの録音を発表しており、中でも2度にわたるスクリャービンのピアノ・ソナタ全集は名高い。録音技術そのものにも情熱を持って関心を寄せており、「私は録音技師のなかで最高のピアニストなのであり、ピアニストのなかで最高の録音技師なのだ」と発言したことがある。

クリストフ・エッシェンバッハ
(Christoph Eschenbach, 1940年2月20日 - )は、ドイツのピアニスト、指揮者。旧ドイツ領シレジア地方の都市ブレスラウ(現ポーランド、ヴロツワフ)に生まれる。幼時に両親を亡くし孤児となるが、ドイツの篤志家エッシェンバッハ家の養子として引き取られ、音楽教育を受ける。音楽的キャリアにおいては当初、優れたピアニストとして国際的に名声を馳せた。

ブルーノ・レオナルド・ゲルバー
(Bruno Leonardo Gelber, 1941年5月19日 - )はオーストリア系のアルゼンチン人ピアニスト。フランス人とイタリア人の血筋も引いている。3歳で母親からピアノの手ほどきを受け、6歳でヴィンチェンツォ・スカラムッツァ(マルタ・アルゲリッチとダニエル・バレンボイムの恩師として知られる)に師事。1948年に小児麻痺に罹患、闘病生活を余儀なくされるが、これを克服した。15歳でパリに留学し、マルグリット・ロンに入門、ロン最後の弟子となる。

ダニエル・バレンボイム
(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエル。1950年8月まだ7歳のうちにブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開いてピアニストとしてデビュー。

1952年に家族を挙げてイスラエルに移住。2年後の1954年夏、両親に連れられ、ザルツブルクでイーゴリ・マルケヴィチの指揮法のマスタークラスに出席。同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねる。(フルトヴェングラーが「これは天才だ!」と紹介している映画のワン・シーンがある。)

ネルソン・フレイレ
Nelson Freire, 1944年10月18日 - )はブラジルのピアニスト。3歳でピアノを始め、姉が弾いたばかりの曲をそらで演奏して周囲を驚かせた。フランツ・リストの孫弟子にあたるルシア・ブランコの指導を受け、5歳で最初のリサイタルを行い、モーツァルトの《ピアノ・ソナタ イ長調》KV.331を取り上げた。1957年に12歳でリオ・デ・ジャネイロ国際ピアノコンクールに出演し、ギオマール・ノヴァエスやマルグリット・ロン、リリー・クラウスら居並ぶ審査員を前にベートーヴェンの《ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」》を演奏し、7位に入賞した。

マリア・ジョアン・ピレシュ
(Maria Joao Pires、1944年 - )は、ポルトガル出身の女性ピアニスト。現在はブラジル・バイーア州・サルバドールに在住。リスボンで生まれた。幼少期からピアノを始め、7歳でモーツァルトの協奏曲を公開演奏した。9歳で、ポルトガル政府から青少年音楽家に与えられる最高の栄誉を受け取った。

1953年から1960年までリスボン大学で作曲・音楽理論・音楽史を師事。それから西ドイツに留学し、ミュンヘン音楽アカデミーとハノーファーに学ぶ。1970年に、ブリュッセルで開かれたベートーヴェン生誕200周年記念コンクールで首位となる。

オレグ・マイセンベルク
1945年4月29日 - )はウクライナ出身のピアニスト。オデッサのユダヤ系の家庭に生まれる。5歳で母親からピアノの手ほどきを受け、キシネフ中央音楽学校ならびにモスクワ・グネーシン音楽学校に学ぶ。1967年にウィーン国際シューベルト・コンクールに準優勝し、同年ウィーンの20世紀音楽コンクールで優勝する。1971年から1980年まで定期的に、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団などのソ連国内の著名なオーケストラと共演する。

クリスティアン・ツィマーマン
(Krystian Zimerman、1956年12月5日 - )は、ポーランドのピアニスト。5歳の頃父からピアノを学び、7歳からアンジェイ・ヤシンスキ(Andrzej Jasinki)に師事した。1973年のベートーヴェン国際音楽コンクールで優勝後、1975年の第9回ショパン国際ピアノコンクールに史上最年少(18歳)で優勝、その後も着実にキャリアを重ね、現在に至っている。学生当時はポーランドでの物資調達が困難で、ピアノ部品の製作・修理を自分で一から手作業で行わなければならなかった。これにより、ツィマーマンのピアノの構造、素材に対する知識が培われた。

アワダジン・プラット
(Awadagin Pratt、1966年3月6日 ペンシルベニア州ピッツバーグ − )はアメリカ合衆国のピアニスト。父セオドアはシエラレオネ出身の医学者で、母親は社会福祉学の研究者であった。母親がイリノイ州立大学に教授として着任したことから、3歳のときイリノイ州ノーマルに転居する。6歳でピアノの、9歳でヴァイオリンの学習を開始するが、少年時代はほとんどテニスに熱中し、米国中西部の選手権でも上位に食い込んだ。

フレドリク・ウレーン
(Fredrik Ullen, 1968年 ヴェステロース − )はスウェーデンのヴィルトゥオーゾ・ピアニスト。本業は精神科医である。ストックホルム音楽大学にてグンナル・ハルハーゲンやイレーネ・マンハイマーらに師事。その後ヘルシンキのシベリウス音楽院にてリーサ・ポホョラにも師事した。リゲティを録音していることからもわかるように、ウレーンは現代音楽に深い関心を寄せており、また演奏する対象が複雑であればあるほど、また困難であればあるほど意欲的に対象に取り組んでいる。

ディミトリス・スグロス
(Dimitris Sgouros、1969年8月30日 - )はギリシャのピアニスト。アテネ生まれ。神童の名をほしいままにし、10歳でギリシャ音楽院の教授となった。12歳のときにロストロポービッチ指揮でラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』でカーネギー・ホールデビュー。リストの『超絶技巧練習曲』(抜粋)と『メフィスト・ワルツ1番』を14歳の時に録音。また45曲のピアノ・コンチェルトをレパートリーにしていたという。アルトゥーロ・ルービンシュタインをして、”私を含めたすべてのピアニストの中で最も優れている”と言わしめ、愛用の金時計をプレゼントしている。

アレクセイ・スルタノフ
1969年8月7日タシケント - 2005年6月30日フォートワース)は、旧ソ連出身のウズベク人ピアニスト。その姓からも察しがつくように、中央アジアの有力なムスリム首長の家系に生まれるが、両親はヨーロッパ文化になじんだプロの音楽家だった。4歳から地元でピアノを学び、後にモスクワで研鑚を積む。

1995年ショパン・コンクールでは、圧倒的な演奏技巧と独創的な作品解釈によってワルシャワの聴衆に深い感銘を与え、地元紙の下馬評では優勝候補と目されたにもかかわらず、1位なしの2位をフィリップ・ジュジアーノと分かち合うという結果に終わった。

ウィビ・スルヤディ
(Wibi Soerjadi、1970年3月2日-)とは、オランダのクラシックピアニスト。1970年3月2日にインドネシア系オランダ人としてライデンに生まれる。11歳でピアノに触れ12歳から本格的に学びはじめた。クラシックのプロ・ピアニストを目指すには3〜5歳からの学習開始が通常であり、プロとしては極めて遅いスタートとなる中、約4年後にはクリスティーナ王女コンクールにて優勝。その才能が注目されアムステルダムのスウェーリンク音楽院に進学し最高評価にて卒業。

エルヴィン・ニレジハジ
(Ervin Nyiregyhazi,1903年1月19日 - 1987年4月13日)は、ハンガリーのブダペストに生まれ、アメリカのロサンゼルスで死んだピアニスト・作曲家である。2歳で作曲を始めた。幼い頃からモーツァルトにも比すべき音楽的神童として注目を浴び、レーヴェース・ゲーザのいるアムステルダム心理学研究所から研究の題材にされた経歴の持ち主である。

驚異的な暗譜能力があり、一度聴いた曲は何年経っても完璧に演奏する類まれな才能に恵まれていた。1930年代から人目を避けるようになり、隠遁生活に突入した。音楽界にはびこる商業主義への嫌悪が昂じたためと言われている。


フェリシア・ブルメンタール
(Felicja Blumental、1908年12月28日 - 1991年12月31日)はポーランドのピアニスト。ワルシャワにて、音楽家の家庭に生まれ、父親はヴァイオリニストであった。5歳でピアノを始め、10歳でデビューする。1938年に、夫マルクス・ミツネとともにニースに行き、ヨーロッパで反ユダヤ主義が蔓延するのを避けてブラジルに逃れる。後にブラジル国籍を取得し、ブラジルの作曲家や音楽を擁護するのに後半生を捧げた。

その後1962年にミラノに、1973年にロンドンに移住。ブルメンタールのレパートリーは、ポルトガルのバロック音楽から南米の現代音楽までと幅広く大胆だった。数々の忘れられた作曲家のピアノ協奏曲の蘇演を行い、カール・チェルニーやフェルディナント・リース、ジョン・フィールド、アントン・アレンスキーらの協奏曲を録音している。

ニキタ・マガロフ
(Nikita Magaloff, 1912年2月8日 サンクトペテルブルク - †1992年12月26日 ヴヴェイ)はスイスやフランスを拠点に活躍した世界的ピアニスト。ショパンやリストの専門家であり、教師としても数々の俊才を世に送り出している。豊かな楽才によって少年時代からプロコフィエフやラヴェルに可愛がられたと伝えられる。パリでイシドール・フィリップに入門。高名なヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティの伴奏者を務めたことが縁でその娘婿となり、ジュネーヴ湖畔に住まいを構えた。

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ヘルムート・ロロフ
(Helmut Roloff, 1912年10月9日 − 2001年11月 ベルリン)はドイツのピアニスト・音楽教師。1935年にベルリン高等音楽学校に入学し、リヒャルト・リュスラーに師事。1938年にはヴラディーミル・ボルコフスキーの個人指導を受ける。第2次世界大戦中は、「赤いオーケストラ」の呼び名で知られるレジスタンス集団のシュルツ=ボイゼン(またはハルナック)・セクトに所属して反ナチ闘争に従事し(1940〜42年)、1943年に仲間とともにゲシュタポによって逮捕される。

シャーンドル・ジェルジ
(Sandor Gyorgy, 1912年9月21日 - 2005年12月9日)は、ハンガリー・ブダペスト出身のピアニスト。彼はピアノの師であったバルトークの生涯の友人にして、バルトークのピアノ曲の演奏および解釈の第一人者でもあり、1945年のバルトークの葬儀に出席した10人のうちの1人であった。そして1946年にはバルトークが遺したピアノ協奏曲第3番の世界初演を行っている。

ハンス・ヘンケマンス
(Hans Henkemans、1913年12月23日 - 1995年12月29日)はオランダの作曲家、ピアニスト。デン・ハーグ出身。1931年からユトレヒト大学で精神医学を学ぶ一方、1933年から1938年までウィレム・ペイペルに音楽を師事した。第二次世界大戦終結後、医師を辞め、1945年12月にアムステルダムのコンセルトヘボウでピアニストとしてデビューした。1960年代はフローニンゲンの北オランダ音楽院で作曲と管弦楽法の教師をしたり、アムステルダムでピアノのレッスンを行ったりしていた。しかし1969年にピアニストを引退し、精神医学に専念して芸術家の創造のプロセスを研究したが、作曲は継続した。

アール・ワイルド
(Earl Wild, 1915年11月26日 - 2010年1月23日)はアメリカ合衆国のピアニスト・作曲家。19世紀のヴィルトゥオーゾの伝統を引き継いだことを自負しており、正統的なレパートリーよりは、専らトランスクリプションや編曲を好んで演奏している。

ジャズやガーシュウィンの演奏でも有名。ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。神童としてエゴン・ペトリほかに師事した。10代で作曲を始め、ロマン派音楽のトランスクリプションも手がける。1942年にトスカニーニに招かれ、ガーシュウィンの《ラプソディー・イン・ブルー》によってオーケストラと初共演を行い、大々的な成功を収め、名声を確かなものにした。

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ジークフリート・ラップ
Siegfried Rapp, 1917年2月24日 - 1977年)は、ドイツ出身のピアニスト。第一次世界大戦期のドイツ帝国でザクセン王国のケムニッツに生まれる。ライプツィヒ音楽院でロベルト・タイヒミュラーに師事した。1938年から第二次世界大戦に従軍したものの、右手を榴散弾で負傷して切断せざるを得なくなり、1943年に退役した。その後は、左手のみのピアニストとして活躍した。

ギデオン・クライン
(Gideon Klein, 1919年12月6日 - 1945年)は、チェコスロバキアのユダヤ系作曲家。1941年にナチスによってテレージエンシュタット強制収容所に送致された。そこは、ヤナーチェク門下のパヴェル・ハースやハンス・クラーサ、シェーンベルク門下のヴィクトル・ウルマンらがおり、(国際的な非難をかわすために)所内の芸術活動が推奨された数少ない収容所の一つであった。この時期に弦楽四重奏曲や弦楽三重奏曲、ピアノソナタを遺した。これらの作品は、響きにおいてアルバン・ベルクの作風を髣髴とさせる。

ルース・ギップス
(Ruth Gipps, 1921年2月20日 - 1999年2月23日)は、イギリスの女流作曲家、ピアニスト、オーボエ奏者。ギップスは幼少時は神童と呼ばれるほどの人物で、演奏コンテストにおいて参加者中最年少ながら優勝を果たすという功績を挙げた。8歳のとき、参加していた数多くの音楽祭の1つにおいて初めて自作の曲を演奏した後、この曲は出版社によって1ギニー半で購入されることとなった。彼女は熟練した万能型の音楽家で、オーボエとピアノ双方のソリストであると同時に多作な作曲家でもあった。しかし彼女は33歳の時に手のけがのため演奏家としての活動ができなくなり、以降指揮と作曲に専念することを決める。

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ウィリアム・カペル
(William Kapell, 1922年9月20日 - 1953年10月29日)は、アメリカ合衆国のピアノ奏者。ニューヨークでロシア系ユダヤ人の家系に生まれ、当地でドロテア・アンダーソン・ラフォレットに師事した後、フィラデルフィア音楽院及びジュリアード音楽院でオルガ・サマロフに師事した。音楽評論家のハロルド・ショーンバーグに「第2次世界大戦終焉後世代における最も有望なアメリカ人ピアニスト」と称されたが、飛行機事故(英連邦太平洋航空304便墜落事故)により31歳の若さで没した。


イヴォンヌ・ロリオ=メシアン
(Yvonne Loriod, 1924年1月20日 パリ近郊ユイ - 2010年5月17日)はフランスのピアニスト、教育者。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を暗譜で弾きこなす神童として将来を嘱望され、パリ音楽院に進みダリユス・ミヨーらに師事。メシアンが、ナチス・ドイツ軍の捕囚として強制収容所で出会ったギィ・ベルナール=ドラピエール(Guy Bernard-Delapierre)から、1943年から1947年まで自宅を開放されて音楽塾を開くと、ロリオもそこで作曲や楽曲分析を師事する。


イングリット・ヘブラー
(Ingrid Haebler、1926年6月20日 - )は、オーストリア出身の女性ピアニストである。ポーランド人の両親のもと、ウィーンに生まれる。10歳までポーランドで過ごし、その間にピアノを学ぶ。第二次世界大戦の勃発によってザルツブルクに移住、同地のモーツァルテウム音楽院に入学する。ウィーンの古典派音楽をはじめ、シューマン、ショパン、ドビュッシーなども得意として活躍し、特に気品に満ちたモーツァルトの演奏で高い評価を獲得している。

エヴァ・クナルダール
(Eva Knardahl Freiwald, 1927年5月10日 - 2006年9月3日)は、ノルウェーのピアニスト。12歳のときオスロ・フィルハーモニー管弦楽団と共演してデビュー、その際にバッハのヘ短調協奏曲、ハイドンのニ長調協奏曲、ウェーバーのハ長調協奏曲の3曲を演奏して、激賞された。彼女はレコーディングでも、BIS(スウェーデンのレコード会社)に多数の録音を残した。同社の創設後の早い時期に、世界初の「グリーグ・ピアノ作品全集」を録音し、このグリーグ全集によって世界的にも高い評価を得た。

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ベラ・ダヴィドヴィチ
Bella Davidovich、1928年7月16日 - )はアゼルバイジャン出身のユダヤ系ピアニスト。1949年に、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカと並んで、第4回ショパン国際コンクールの覇者となった。あのラザール・ベルマンが「私より彼女のほうがショパンは上手い」と発言して注目を集めた。

アンドレ・プレヴィン
(Andre Previn, KBE, 1929年4月6日 - )は、指揮者、クラシック音楽、映画音楽及びジャズのピアニスト、作曲家である。10代の頃からジャズを演奏し、1940年代当時黎明期にあった初期モダンジャズのビバップスタイルに影響を受けたプレイで「天才少年」として注目された。

1953年からは、ウェストコースト・ジャズ界の名トランペット奏者ショーティ・ロジャースの楽団に所属した。ロンドン交響楽団とのメンデルスゾーン『夏の夜の夢』や、チャイコフスキー『眠りの森の美女』では、通常演奏されることが稀なナンバーを収めた全曲版を用い、いまだに各曲の代表的録音となっている。

フジ子・ヘミング
(1932年12月5日 - )、本名イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング(Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming)は、日本とヨーロッパで活躍するピアニストである。5歳の時に日本に移住する。当時、戦争への道にひた走り軍事色が濃くなる日本に締め出されるかのように、ほどなく父ヨスタは家族3人を残し、一人スウェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮らし、母・投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人であり、ドイツで母のピアノを師事したロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事する。

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ウラディーミル・アシュケナージ
Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )は、ソヴィエト連邦出身のピアニスト、指揮者である。身長168センチと小柄な体格だが、演奏至難なパッセージも楽々と奏出してしまう卓越したテクニックの持ち主である。その洗練された音色と端正で中庸を得た解釈は彼の音楽を万人に親しみやすいものにしている。レパートリーは極めて広汎にわたり、クラシック音楽のスタンダードなピアノ曲の大部分を網羅しているといって過言でない。

イディル・ビレット
(?dil Biret, 1941年11月21日 アンカラ - )はトルコの女流ピアニスト。ナディア・ブーランジェとアルフレッド・コルトーに学んだミトハト・フェンメンに5歳で入門してピアノを始める。7歳のとき、トルコ議会が特別法を通過させたおかげで、幼くして留学が可能となり、パリ音楽院に入学してブーランジェらの指導を受ける一方、ブラームスなどの作曲家を、マドレーヌ・ド・ヴァルマレットから教わる。15歳のとき3つの部門で受賞して卒業すると、コルトーやヴィルヘルム・ケンプに師事してさらに研鑚を積んだ。

マルタ・アルゲリッチ
(Martha Argerich, 1941年6月5日 - )はアルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。外交官の家庭に生まれ、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。翌1950年(9歳)にはモーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調K466とバッハのフランス組曲ト長調BWV816を演奏した。

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マウリツィオ・ポリーニ
(Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - )は、イタリアのミラノ出身のピアニスト。父親は建築家ジノ・ポリーニであり、また母親(彫刻家ファウスト・メロッティの妹)は声楽もこなすピアニストで、5歳からカルロ・ロナーティに、ロナーティの死後はカルロ・ヴィドゥッソ(イタリア語版)にピアノを学ぶ。1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールに審査員全員一致で優勝。審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインが「今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているであろうか」と賛辞を述べ、一躍国際的な名声を勝ち取る。


エリソ・ヴィルサラーゼ
Eliso Virsaladze, Elisso Wirssaladze、1942年9月14日トビリシ - )はグルジアの女性ピアニストである。演奏家としてのみならず、教育者としても名高い。グルジアで有名な音楽教師であった祖母アナスターシヤ・ヴィルサラーゼよりピアノの指導を受けた後、トビリシ音楽院で学んだ。

卒業後さらにモスクワ音楽院でゲンリフ・ネイガウスとヤコフ・ザークに学んだ。1962年にチャイコフスキー国際コンクールで3位に入賞し、1966年にはツヴィッカウのロベルト・シューマン・コンクールで優勝した。スヴャトスラフ・リヒテルと親交を結び、深く影響を受けたことでも知られる。

エリザーベト・レオンスカヤ
Elisabeth Ilinichna Leonskaja , 1945年11月23日 - )は、グルジアのトビリシ生まれの女流ピアニストである。11歳の時オーケストラと共演、13歳の時にはソロ・リサイタルを行うなど、幼いころから才能を発揮した。1964年から1971年までモスクワ音楽院にてヤコブ・ミルスタインに師事する。在学中、ブカレスト、ブリュッセル、パリで行われたコンクールにて受賞。1978年にはウィーンに移住、活動拠点を西側に置く。翌年のザルツブルク音楽祭にデビューし、成功を収めたことで国際的名声を確立するに至る。

ダニエレ・ロンバルディ
(Daniele Lombardi, 1946年 - )は、イタリアの現代音楽の作曲家、ピアニスト。フィレンツェに生まれる。師事歴は不明。ピアニストとして頭角を現し、主にイタリア未来派のピアノ作品の復興に力を注いだ異色の経歴を持っている。画家、彫刻家としても活躍し、自作の個展は何らかの形で視覚的な演出が施されていることがほとんどである。

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アンドラーシュ・シフ
(Andras Schiff, Schiff Andra´s, 1953年12月21日 - )は、ハンガリー出身のピアニスト。磨かれたタッチと、知性的でありながら愉悦感あふれる表現で、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどドイツのバロック音楽及び古典派音楽を中心としながらも、シューマンやショパンなどのロマン派音楽までこなす傑出したピアニストの一人。

ベルント・グレムザー
(Bernd Glemser, 1962年5月30日 デュルプハイム )はドイツのピアニスト・音楽教師。7歳でピアノの手解きを受ける。まだ学生時代の訓練期間に、ロシア出身のピアニストで音楽教師のヴィターリ・マルグリスに入門した。1981年より17の国際的な音楽コンクールに出場して注目を集め、1987年にミュンヘン国際音楽コンクールに入賞してからは、世界の少数精鋭の一人に数えられるようになった。

ジョナサン・パウエル
Jonathan Powell(1969年 - )は、イギリスのピアニスト、作曲家。近年ではソラブジの中規模作品(「トッカータ第一番」、「ソナタ第四番」ほか。)を次々と世界初演及び録音している。「オプス・クラビチェンバリスティクム」のNY初演は大成功に終わり、2005年の7月に行われたモンペリエのソラブジ個展で「ソナタ第一番」、「グリスターン」、「わが独演の為の協奏曲」、そして「金鶏変奏曲」からの抜粋を演奏し、このリサイタルも絶賛を博した。

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エレーヌ・グリモー
(Helene Grimaud, 1969年11月7日 - )は、フランスのピアニスト。
1969年11月、フランス、エクサンプロヴァンスの言語学者の家庭に生まれる。9歳でエクサンプロヴァンスの音楽院に入学、J・クルティエに師事。その後、マルセイユでピエール・バルビゼに師事。1982年、13歳でパリ国立高等音楽院に入学。ピアノをジャック・ルヴィエ、室内音楽をジェヌヴィエーブ・ジョワに学ぶ。

1987年よりプロのソリストとしてパリで活動に着手し、ダニエル・バレンボイム指揮のパリ管弦楽団と共演。両親は共に大学教授。本人は大学で動物生態学を学ぶ。1999年、ニューヨーク・ウルフ・センターを設立。ニューヨーク州郊外で野生オオカミの保護活動に取り組むようになる。

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チェンバロピアノ01ピアノ02チェロ
バイオリン01
バイオリン02声楽01声楽02
<ピアニスト2>


 

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