memo
2024

20181

記憶の中の日本の俳優

1■東千代之介 2■石倉三郎 
3■オダギリジョー
 4■緒形拳 
5■風間杜夫
6 ■蟹江敬三 
7■北村一輝 8■北村総一朗 
9■草刈正雄
 10■千葉真一 
11■近藤正臣 12■田村正和 
13■寺尾聰
 14■原田芳雄 
15■三浦友和
 16■水谷豊 
17■左とんぺい
 18■斎藤工 
19■椎名桔平
 20■橋爪功 
21■鹿賀丈史 22■菅原文太 
23■仲村トオル 24■松田優作 
25■山崎努
26 ■萬屋錦之介 
27■長谷川博己 28■平田満 
29■吉岡秀隆
 30■笠智衆
31■佐藤蛾次郎 32■萩原健一 
33■渡瀬恒彦
  34■藤田まこと

ウィキペディアより抜粋

 

19■椎名桔平

 
椎名 桔平(しいな きっぺい、1964年7月14日 - )は、日本の俳優、映画プロデューサーである。B型。本名・旧芸名は、岩城 正剛[注釈 。かつてはユマニテ、現在はスターダストプロモーションに所属。三重県上野市(現在の伊賀市)出身。小学校3年生よりサッカーに親しみ、高校時代には三重県代表として国体に出場。さらに高いレベルでの活躍を求めて大学に進学するも、スポーツメーカーのCM出演がアマチュア規定に抵触して謹慎処分を受けたことを機に退部することとなる。


大学の知人を介して知り合った寺田農の付き人を経て、21歳だった1986年、『時計 Adieu l'Hiver』への出演でデビュー(当時は本名で活動)。その後、トラック運転手など、さまざまなアルバイトを29歳になるまで続け、端役やアングラ劇団を渡り歩く時代を送る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/椎名桔平

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20■橋爪功

 
橋爪 功(はしづめ いさお、1941年9月17日 - )は、日本の俳優。演劇集団 円代表、円企画所属。身長168cm、体重63kg。O型。大阪府大阪市東住吉区に生まれた。路地奥の上下に二間、内風呂と小さな庭のある借家で育つ。

父は和歌山県の海南出身。母は愛人であり、父には本妻が別にいた。11才上の兄はいったん母親の兄の籍に入った後、父の籍に入ったので、当初は功が母の戸籍上では長男となっていた。

1961年、文学座附属演劇研究所の1期生に応募し合格。同期には岸田森、草野大悟、寺田農、樹木希林、小川眞由美、北村総一朗がいた。1963年、文学座を離れ劇団雲に参加する。1974年、尊敬する芥川比呂志演出の舞台『スカパンの悪だくみ』で大阪弁でスカパンを演じ、この仕事が俳優としての転機となり一躍演劇界のスターとなる。


1975年、芥川、仲谷昇、岸田今日子、有川博らとともに、演劇集団 円の創立に参加。以降も所属する円を中心に、舞台活動を続けている。2006年、前代表の仲谷昇の死後、円の代表となる。野田秀樹との二人芝居『し』や、椎名桔平と共演の『レインマン』など、外部出演も多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/橋爪功

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21■鹿賀丈史 


鹿賀 丈史(かが たけし、1950年10月12日 - )は、日本の俳優、声優、歌手。本名、勝田 薫且(かつた しげかつ)。石川県金沢市出身。O型。・・・1950年10月12日、石川県金沢市に生まれる。父は洋服の仕立て屋、母は北陸一のゴム風船屋の裕福な家庭で育つ。

9歳から中学校2年まで少年合唱団に所属。小学3年生から4年生の間は父の都合で金沢から東京の麻布十番に転居していたが、その後は再び金沢に戻る。そして石川県立金沢二水高等学校に入学。

高校在学中は合唱部でテノール、指揮者として活躍をしていた。クラシックの声楽家を志して東京音楽大学などの浪人中に友人に勧められて一緒にオーディションを受けたのがきっかけで1972年に劇団四季へ入団。・・・退団後は舞台だけでなく、映画・テレビドラマなど多方面で活躍した。

映画では角川春樹から着目され、松田優作主演の『野獣死すべし』の重要な助演を経て、篠田正浩監督の『悪霊島』では金田一耕助役に抜擢された。・・・クラブ歌手、消火器の販売など様々なアルバイトの経験がある。
劇団四季時代はマンションの隣の部屋にタモリが住んでいた。鹿賀宛てに届いたファンからの差し入れのケーキを、タモリが自分宛てと勘違いして食べてしまったことがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿賀丈史

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22■菅原文太


菅原 文太(すがわら ぶんた、1933年〈昭和8年〉8月16日 - 2014年〈平成26年〉11月28日)は、日本の俳優、声優、ラジオパーソナリティ・農業従事者である。宮城県仙台市出身。O型。・・・1931年(昭和6年)より河北新報社(仙台市)の記者をしていた父親の菅原芳助(洋画家・詩人:狭間二郎)のもと、1933年(昭和8年)8月16日に宮城県仙台市に生まれた。4歳から小学校4年までは東京府(現・東京都)育ち。・・・

早稲田大学第二法学部法学科に進学。在学中に中原淳一のモデルとなり、1954年(昭和29年)、旗揚げしたばかりの劇団四季に1期生として入団、初期の作品に端役として多数出演した。

・・・1973年(昭和48年)から始まった『仁義なき戦い』シリーズで、東映を代表するスターのひとりになった。・・・2009年(平成21年)より山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始める。当時、俳優業は「半分引退した」と語った。
2012年(平成24年)2月初旬、2013年1月に公開予定の『東京家族』(監督・山田洋次)主演から既に降板したことを発表。

2月23日に都内で行われた「第64回日本消防協会定例表彰式」に出席した際にプレスインタビューに応じて映画を降板した理由として、クランクイン直前に東日本大震災が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。

それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。・・・入院直前の11月1日には、沖縄知事選候補の翁長雄志の応援演説に出席していた。 また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原文太

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23■仲村トオル


仲村 トオル(なかむら トオル、1965年9月5日 - )は、日本の俳優、タレント。本名、中村 亨(なかむら とおる)。A型。・・・東京都大田区に生まれ、0歳から3歳まで大阪府寝屋川市で育ち、幼稚園に入る前に神奈川県川崎市に転居。小学校3年から千葉県流山市で育つ。

専修大学文学部在学中の1985年に『ヤングマガジン』に連載されていた漫画『ビー・バップ・ハイスクール』の映画化に際し公募された主演オーディションに応募し合格、映画主演デビューでの芸能界入りを果たす。

・・・憧れの俳優は松田優作。松田の生前は同じセントラル・アーツに所属し、松田本人も仲村を弟のようにかわいがっており、松田が癌で他界した際も遺体の前で「優作さん、起きてください!早すぎます!」と絶叫しながら泣き崩れた
https://ja.wikipedia.org/wiki/仲村トオル

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24■松田優作 


松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年(昭和24年)9月21日 - 1989年(平成元年)11月6日) は、山口県下関市生まれの俳優、歌手。A型。山口県下関市で、日本人の父と韓国人の母との間に非嫡出子として生まれた。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった。2人の異父兄がおり、(異母兄弟もいる) 兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。


1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら下関市立第一高等学校 (現: 山口県立下関中等教育学校)を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。

カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退し帰国する。・・・1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。

また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。

翌1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で主演。この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/松田優作

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25■山崎努


山 努(やまざき つとむ、1936年(昭和11年)12月2日 - )は、日本の俳優・ナレーター。千葉県東葛飾郡松戸町(現:松戸市)出身。東京都立上野高等学校卒業。A型。・・・俳優座養成所を経て、1959年に文学座に入団。
1960年、岡本喜八監督作品の『大学の山賊たち』で映画デビュー。
1963年、劇団雲結成に参加し、1975年の劇団雲分裂を機にフリーになる。
1963年、黒澤明監督作品の『天国と地獄』で誘拐犯・竹内銀次郎役を演じ、一躍注目を浴びる。・・・1984年の『お葬式』以降、伊丹十三監督作品には連続起用された。
2000年、紫綬褒章受章。同年に緒形拳も受章している。


行定勲監督作品にも2001年の『GO』、2004年の『世界の中心で、愛をさけぶ』と連続起用され、鍵を握る役どころを演じた。・・・1985年7月、自身でプロデュースした舞台『ピサロ』(PARCO劇場)に渡辺謙を起用。渡辺とはこの年、映画『タンポポ』でも共演しており、渡辺は以来、山崎を師と仰いでいる。2012年の映画『はやぶさ 遥かなる帰還』では久々の共演を果たした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/山崎努

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26■萬屋錦之介 


萬屋 錦之介(よろずや きんのすけ、1932年(昭和7年)11月20日 - 1997年(平成9年)3月10日)は、前名中村 錦之助(なかむら きんのすけ)、歌舞伎から映画に転じ一躍人気スターとなった時代劇俳優、またテレビや舞台でも活躍した。・・・

当時の梨園では“役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される”という危機感ともとれる見方が大勢であり、父時蔵は「中途半端はいけない。映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。

もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫ったといわれる。結局錦之助は歌舞伎を断念する道を選び、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月映画界に転向する。・・・

昭和30年代後半、テレビに人気を奪われ、映画産業が徐々に斜陽化の様相を呈するようになった頃から、時代を読むのに長けていた錦之助はテレビドラマへの進出を図る。東映俳優労働組合の委員長に就任したが、1966年に東映内部の労働争議を収拾できなかったこともあり東映を退社。

1968年に「中村プロダクション」を設立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出し、高い評価を得る。この頃の出演ドラマとして、『子連れ狼』や『破れ傘刀舟悪人狩り』、『破れ奉行』、『長崎犯科帳』、『破れ新九郎』等がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/萬屋錦之介

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27■長谷川博己 


長谷川 博己(はせがわ ひろき、1977年3月7日 - )は、日本の男性俳優。愛称は「ハセヒロ」。東京都出身。A型。・・・中央大学文学部卒業。大学在学中はマガジンハウスでアルバイトをしていた。2001年、文学座附属演劇研究所に入所(第41期生)。
2002年、TPT『BENT』で初舞台を踏む。2004年4月、研修科を終了し準座員として入座。同年、文学座支持会新人賞(座内賞)受賞。2006年4月、準座員から座員に昇格。同年12月22日付で退座。・・・2014年、TBSとWOWOWの共同制作で放送された『MOZU』で悪役、東和夫役を演じる。


2015年1月19日からフジテレビ系の「月9」枠で放送された『デート〜恋とはどんなものかしら〜』でオタク気質の高等遊民役を演じる。
2016年7月29日公開のゴジラシリーズ第29作『シン・ゴジラ』で、内閣官房副長官、矢口蘭堂役で主演。
2017年4月16日からTBS系「日曜劇場」枠で放送された『小さな巨人』で香坂真一郎役で主演。
2018年度後期放送のNHK連続テレビ小説『まんぷく』で、主人公の夫・立花萬平役(安藤百福がモデル)を演じる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/長谷川博己

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28■平田満 


平田 満(ひらた みつる、1953年11月2日 - )は、日本の俳優。愛知県豊橋市出身。アルファエージェンシー所属。AB型。大学1年生の時に、つかこうへいが出入りしていた早稲田大学の学生劇団で人気を得ていた知念正文主宰の「劇団暫(げきだんしばらく)」に入団(当時、母体とする劇団を持たなかったつかの作品を同劇団は知念と向島三四郎の演出で公演していた)。ここで、つか劇団の仲間となる長谷川康夫や夫人となる井上加奈子らと出会った。


以後、初期作から、のちにつかが個人的に事務所を立ち上げ、「難解で下世話で狂気と正気スレスレながら義理人情を前面に押し出した」作品群を加藤健一、根岸とし江、大津あきら、風間杜夫、三浦洋一、重松収らとその屋台骨を支えた。
その後、CMなどへの露出が少しずつ増えた矢先の1982年、『蒲田行進曲』の村岡安次役[1]で、深作欣二監督で映画化されることとなり抜擢を受け、ブレイクを果たした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田満

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29■吉岡秀隆


吉岡 秀隆(よしおか ひでたか、1970年8月12日 - )は、日本の俳優、ミュージシャン。埼玉県蕨市出身。A型。1977年、野村芳太郎監督の『八つ墓村』で主人公・寺田辰弥の少年時代役を演じ、映画初出演。

1980年公開の『遙かなる山の呼び声』の武志役のオーディションにて山田洋次監督に見出され、翌1981年公開の『男はつらいよ』シリーズ第27作『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』から最終作と特別篇まで寅次郎の甥・諏訪満男役でレギュラー出演し、こちらも代表作となる(主演の渥美清が病気で派手な演技ができなくなった『男はつらいよ ぼくの伯父さん』以降は登場シーンが増え、事実上の主役となった)。

・・・尾崎豊の数少ない友人の1人であり、「オレのことを兄と思ってくれていいよ」と本人から言われるほどの仲だった。飲んでケンカして朝方のゴミ捨て場によく尾崎を捨てていたという。今でも尾崎にもらったネックレスをプライベートでは常につけている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/吉岡秀隆

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30■笠智衆


笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年(明治37年)5月13日 - 1993年(平成5年)3月16日)は、日本の俳優。身長171cm。A型。1925年(大正14年)に大学を中退し、松竹蒲田撮影所の俳優研究所第一期研究生の募集に合格、入所した。俳優になることは本心ではなく、住職以外ならどのような職業でもよかったのだという。それでも同年7月に父の死で一度住職を継ぐが、結局翌1926年(大正15年)1月、兄にその座を譲って再度上京し撮影所に復帰。

以来、松竹映画の俳優としての道を歩み出す。・・・笠は演技について演出家と対立するようなことはなかったが、自ら泣くシーンを演じることは拒否していた。「明治生まれの男が泣くことはめったにない」というのがその理由である。小津作品でも小津の「言われたとおりに演技をした」笠であるが、『晩春』のラストで笠が林檎の皮を剥いてから慟哭するというシーンに対して「これはできません」と申し出、小津がそれを認めて、うなだれるシーンに変更した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/笠智衆

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31■佐藤蛾次郎


佐藤 蛾次郎(さとう がじろう、1944年(昭和19年)8月9日 - )は、日本の俳優・タレント。大阪府高石市出身。A型。1953年に朝日放送児童劇団に入団する。1961年に『神州天馬侠』の泣き虫蛾次郎を演じてから、芸名を佐藤 蛾次郎とする。
1968年にはテレビドラマ『男はつらいよ』に出演。1969年からは映画『男はつらいよ』に柴又題経寺の寺男源吉(愛称:源公)役で出演。最終作の1995年まで出演し続け、本シリーズに欠かせない存在となる。・・・

『男はつらいよ』の共演者・前田吟(佐藤と同い年)からは「蛾次やん」の愛称で親しまれている。持ち前の面倒見の良さから、松田優作ら当時の若手俳優からは「蛾次兄」 と慕われ続けている。『時効警察』で共演したオダギリジョー、麻生久美子ら若手俳優達からは役者としての姿勢を絶賛されている。・・・

『男はつらいよ』シリーズの渥美清を、作中の寅次郎と源公の間柄と同じ様に兄貴分として慕っていた。結婚式を挙げる費用がなかった事が渥美の耳に入り、その計らいで撮影所にあった紋付き袴・花嫁衣装を着せてささやかながら撮影所で結婚式を挙げている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤蛾次郎

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32■萩原健一


萩原 健一(はぎわら けんいち、1950年7月26日 - )は、日本の俳優・歌手。埼玉県北足立郡与野町(現:さいたま市中央区)出身。O型。ニックネームは「ショーケン」。・・・ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、17歳だった1967年「忘れ得ぬ君」でデビュー。翌1968年には「エメラルドの伝説」、「神様お願い!」、「おかあさん」(コーラス・ハーモニカ担当)など、次々と大ヒット曲を飛ばして人気を得る。

・・・1972年12月をもって音楽活動を停止(これによりPYGは事実上解散)。1974年には神代辰巳 とのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。続いて日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』と連続してドラマ作品に主演した。・・・

1984年、飲酒運転で人身事故を起こし、業務上過失傷害罪で逮捕された。1985年11月には、女優倍賞美津子との2ショット写真を週刊誌に撮られて激昂。カメラマンと編集者に暴行し、書類送検された。


1990年以降、音楽製作とは距離を置き俳優業をメインに活動を行うようになる。サントリーモルツのCMや東芝日曜劇場『課長サンの厄年』、山口智子、室井滋と共演した『居酒屋ゆうれい』(1994年/報知映画賞・高崎映画祭主演男優賞)、ドラマ『外科医柊又三郎』(1995年)に出演した。・・・

『約束』『雨のアムステルダム』で共演した三國連太郎は「彼は面白かった。なにせ彼は何するかわかんないですよ、演技で。毎回全部違う演技やってきてね、若手では彼ぐらいですかね」と評している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/萩原健一

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33■渡瀬恒彦


渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ、1944年7月28日[1] - 2017年3月14日)は、日本の俳優・歌手。本名、同じ。 AB型。

島根県安来市生まれ、兵庫県育ち。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。高校時代は水泳部に所・・・同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。

難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内」。・・・三田学園高等学校卒業後、1浪の末中央大学・早稲田大学・慶應大学に合格。尾崎士郎「人生劇場」にも影響され、早稲田大学の法学部に入学。

・・・1970年(昭和45年)、石井輝男監督の映画『殺し屋人別帳』の主役としてデビュー。岡田茂から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった。

しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、間違った世界に来たのかと思ったが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいったという。

・・・中島貞夫は渡瀬が演技に開眼したのは「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)における荒木一郎との出会いと話している。ある三兄弟の末弟を演じた渡瀬が、もぐらと仇名される気弱な男を演じる荒木一郎と不思議な友情で結ばれるあるシーン。2人には長回しするからと事前に伝えてあったが、どちらが言い出したのか2人だけでリハーサルを行っていた。妙にウマも合ったのか、演技にはうるさい荒木の影響を受けて、それまでのただ生身をぶつけるような演技から変貌を遂げた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/渡瀬恒彦

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34■藤田まこと


藤田 まこと(ふじた まこと、1933年4月13日 - 2010年2月17日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン。 AB型。東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退。・・・父は俳優の藤間林太郎。大正三美人の一人林きむ子は父の異父姉で伯母に当たる。

1933年4月13日、東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋に生まれる。父親は無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎で、母親は林太郎が大阪の帝国キネマに在籍していた時に身請けした芸妓であった。藤田は芸能人となった後、林太郎にしばしば「お前が生まれるのには金がかかっている。芸人ならばお前の代で元を取れ」と言われたという。・・・

1940年代後半、林太郎が所属していた一座に雑用係として参加するようになり、他の一座の巡業にも参加するようになった。17歳の時に歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌ったのが藤田の初舞台で、やがて舞台俳優としても活動するようになった。

「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったのはこの時期である。・・・1962年、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』に出演。それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢された。・・・

1973年、広島のキャバレー出演中に朝日放送プロデューサーの山内久司から電話で、時代劇『必殺仕置人』の中村主水役出演オファーを受ける。・・・藤田はその時、出演承諾から撮影開始まで1週間しかなかったことに合点がいったという[。藤田は『必殺仕置人』の放映開始時はまだ「コメディアン」で、2年ほどが経ってコメディのみならずシリアスな演技もできる「役者」になったと回顧している。・・・

1998年から放映された『剣客商売』シリーズは、藤田の晩年を代表する作品のひとつとなった。藤田は『東海林太郎物語』や『その男ゾルバ』を上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っているが、50代のうちに60代で行うことを考えなかったため、この先に何をすべきか迷い、頭の中が真っ白な状態になったという。藤田はそんな中で『剣客商売』に出会い、迷いが消えたと述べている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤田まこと

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