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8

2016

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イーグルス ■エディット・ピアフ ■エラ・フィッツジェラルド ■オスカー・ピーターソン ■キース・ジャレット
ザ・クルセイダーズ ■シカゴ ■ジャニス・ジョプリン ■ジョーン・バエズ ■ナット・キング・コール
ボブ・ディラン ■ビートルズ ■ビリー・ホリデイ ■ビル・エヴァンス ■プロコムハルム
ブラックサバス ■プリンス ■レッドツェッペリン ■ロッドスチュワート ■ジャコパストーリアス


イーグルス
イーグルス(英語:Eagles「イーグルズ」)は、1971年にデビューしたアメリカのロック・バンド。アメリカ西海岸を拠点に活動しながら世界的人気を誇り、トータルセールスは1億2000万枚を超える。・・・主な代表曲は、「テイク・イット・イージー」「ならず者」「呪われた夜」「ホテル・カリフォルニア」など。・・・イーグルス結成の先駆けとなったのは、1971年にリンダ・ロンシュタットのバックバンド(Linda Ronstadt & Her Band )編成のためにミュージシャンが集められた機会であった。これにグレン・フライ、ドン・ヘンリー、ランディ・マイズナー、バーニー・レドンの4名が顔をあわせ、後に彼らは独立して、1971年8月にバンドを結成することを思いつき、ロンシュタットが所属していたアサイラム・レコード(拠点・ロサンゼルス)からイーグルスとしてデビューした。

メンバー
ドン・ヘンリー
ジョー・ウォルシュ
ティモシー・B・シュミット

旧メンバー
グレン・フライ
バーニー・レドン
ランディ・マイズナー
ドン・フェルダー

https://ja.wikipedia.org/wiki/イーグルス

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エディット・ピアフ
エディット・ピアフ(Edith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手。フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne a l'amour」 (1949年)、「ミロール Milord」 (1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien」 (1960年)などがある。

47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌により死去する。
死はその翌日に公表されたが、同日に友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女のそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。

生誕 1915年12月19日
出身地 フランス・パリ・Belleville
死没 1963年10月11日(満47歳没) フランス・リヴィエラ・Plascassier
https://ja.wikipedia.org/wiki/エディット・ピアフ

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エラ・フィッツジェラルド
エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald、1917年4月25日 - 1996年6月15日)はアメリカ合衆国のジャズ・シンガー。ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンと並び称される20世紀の女性トップ・ジャズ・ボーカリストの1人。・・・13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュからは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。

エラ・フィッツジェラルドは1917年4月にヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれ、ニューヨーク州ヨンカーズで成長した。内縁の関係であった両親は彼女の誕生後間もなく関係を解消している。母はエラを連れて別の男性とニューヨークへ出た後、妹をもうける傍ら、彼女を孤児院に預けた時期もあった。さらに14歳の時には母が心臓発作で死亡し彼女は孤児となった。境遇の劣悪化にともない、学業への関心は薄れ、やがて売春宿やマフィアの下働きをするようになる。警察による補導や少年院送りを繰り返しながら、ホームレス生活をし 辛酸を味わう。


生誕 1917年4月25日
出身地 アメリカ合衆国ヴァージニア州ニューポート・ニューズ
死没 1996年6月15日(満79歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州ビバリーヒルズ

https://ja.wikipedia.org/wiki/エラ・フィッツジェラルド

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オスカー・ピーターソン
オスカー・エマニュエル・ピーターソン(Oscar Emmanuel Peterson, 1925年8月15日 - 2007年12月23日)は、カナダ、ケベック州モントリオール出身のジャズ・ピアニストで作曲家。・・・スイング期の流れを汲む奏法にモダンな和声感覚を取り入れたスタイルで、ジャズ界きっての超絶技巧を誇り、88鍵をフルに使いこなすダイナミックな演奏と流麗なアドリブから、「鍵盤の皇帝」の異名をとる。ミスタッチのほとんど無い極めて強靭なタッチと明快でハッピーな演奏が身上。・・・5歳より父からピアノとトランペットを習い始める。しかし7歳の時結核にかかり、ピアノに専念するようになる。アート・テイタムやナット・キング・コール等の影響を受けた。


出身地 カナダ
ケベック州
モントリオール
死没 2007年12月23日(満82歳没)
カナダ
オンタリオ州
ミシサガ
https://ja.wikipedia.org/wiki/オスカー・ピーターソン

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キース・ジャレット
キース・ジャレット(Keith Jarrett、1945年5月8日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・クラシックピアニスト、作曲家。・・・ジャズ・ピアニストとして広く認識されているが、クラシック等、ジャンルを超えた音楽表現を身上とする。演奏楽器もピアノにとどまらず、ソプラノ・サックス、パーカッション、ハープシコード、リコーダーなど多岐にわたる。メロディーの美しさもさることながら、中腰の姿勢で、時折うめき声を出しながらピアノを弾く姿が印象的。・・・ペンシルベニア州アレンタウンにて出生。5人兄弟の長男として育ち、3歳頃よりピアノのレッスンを受ける。幼い頃から音楽の才能を発揮し、8歳の頃にはプロのピアニストとして自作の曲をコンサートで演奏するという経験をしている。幼少期はクラシックの教育を受けていたが、高校時代からジャズに傾倒するようになった。

生誕 1945年5月8日(71歳)
出身地 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州
アレンタウン

https://ja.wikipedia.org/wiki/キース・ジャレット

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ザ・クルセイダーズ
ザ・クルセイダーズ(The Crusaders)は、主に1970年代に活躍したアメリカのフュージョングループ。ジャズ・クルセイダーズを前身とする。・・・そのサウンドは、トロンボーンとテナーサックスという管楽器によるアンサンブルに、スティックス・フーパーとゲスト・ベーシストによるリズム隊。ジョー・サンプルのフェンダー・エレクトリック・ピアノによるアドリブやソロ・プレイがからむことで醸しだされる、洗練されたフィーリングが特徴である。フュージョンはおろかクロスオーバーという言葉もなかった時代から、ジャズという既成概念にとらわれずにさまざまなジャンルの音楽を取り込み、独自の音楽世界を表現しようとしてきた点に、このグループの革新性がある。・・・もともとはテキサス州のハイスクールで同級生だったウェイン・ヘンダーソン(Tb) ウィルトン・フェルダー(T.Sax) ジョー・サンプル(Key) スティックス・フーパー(Dr) の4人が結成したグループで、何度かグループ名を変更した後、1961年にジャズ・クルセイダーズとしてアルバム「フリーダム・サウンド」でメジャーデビューした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・クルセイダーズ

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シカゴ
シカゴ(Chicago)は、アメリカのロックバンド。ロックにブラスを取り入れた形式のバンドとして先駆的な存在であり、同じ ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデュースしたバンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズやバッキンガムズ(英語版)などと共に“ブラス・ロック”と呼ばれた。・・・1967年にデ・ポール大学の学生たちが中心になり、前身バンドである"ビッグ・シング"を結成。1969年にジェイムズ・ウィリアム・ガルシオのプロデュースによりコロムビア・レコードからデビュー。その後、"シカゴ・トランジット・オーソリティ(シカゴ交通局)"から"シカゴ"とバンド名を変えたが、これはシカゴ交通局からの苦情がきっかけであった。バンドはデビュー・アルバムから3作連続で2枚組アルバムを発表。1970年にはシングル「25 Or 6 To 4(邦題: 長い夜)」が世界的に大ヒットした。・・・

前身となったバンド「ビッグ・シング」は、ロバート・ラム(Vo,Key)、テリー・キャス(Vo,G)、ジェイムズ・パンコウ(Tb)、ウォルター・パラゼイダー(Woodwinds)、リー・ロックネイン(Tp)、ダニー・セラフィン(Drums)、ピーター・セテラ(Vo,Bass)の7人編成であった。
その後、元セルジオ・メンデスのメンバー、ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ(Perc)が加入(アルバムへの参加はVIIから14まで)。アルバム「XI」のリリース後には、テリー・キャスが死亡している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/シカゴ_(バンド)

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ジャニス・ジョプリン
ジャニス・リン・ジョプリン(Janis Lyn Joplin、1943年1月19日 - 1970年10月4日)は、アメリカ合衆国テキサス州ポートアーサー出身の女性ロックシンガー。魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍。また、死してなおロックの歴史を代表する女性シンガーとして、今日に至るまで人気を博している。・・・父のセスはテキサコに勤める労働者で、両親と本人、マイケルとローラの2人の弟妹を含む5人家族であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加していた。1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。・・・

彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組であった。6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラにおさめられている。この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。・・・1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルス、ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル、105号室、ベッド横の床に倒れ死亡しているのが発見された。そのかたわらには4ドル50セントと、封の切られていないマールボロ (たばこ)が一箱残されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャニス・ジョプリン

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ジョーン・バエズ
1941年に、ニューヨーク州のスタテン島にてメキシコ系の家に生まれる。彼女の一家は、クエーカー教徒であった。・・・また、父親のアルバートは物理学者であり、軍需産業への協力を拒否し、それはジョーンの1960年代から現在まで続く公民権運動と反戦活動へ影響を及ぼした。妹のミミ・ファリーニャ(1945年4月30日 - 2001年7月19日)もフォーク歌手であった。・・・歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルから始まった。ファースト・アルバムの『ジョーン・バエズ』は、1960年にヴァンガード・レコードから発売される。同作は「ドナドナ」「朝日のあたる家」[1]などトラディショナルのフォーク・バラード、ブルースと哀歌が、彼女自身のギターによって演奏された物であった。・・・

バエズは、1960年代初頭から中期に掛けて、アメリカにおけるルーツ・リバイバルの先頭に立ち、自らの聴衆に対し、ブレイク前のボブ・ディランを紹介し、また多くのアーティストらは彼女を模倣した。1968年12月、ディランの作品のみを歌った2枚組のアルバム『Any Day Now』を発表。シングルカットされた「ラヴ・イズ・ジャスト・ア・フォー・レター・ワード」はバエズのコンサートの定番曲のひとつとなった。

生誕 1941年1月9日(75歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州スタテンアイランド

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョーン・バエズ

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ナット・キング・コール
ナット・キング・コール(Nat King Cole、1919年3月17日 - 1965年2月15日)は、アメリカのジャズ・ピアニスト、歌手。・・・アラバマ州モンゴメリーで生まれた。父はバプテスト教会の牧師で、母・ペリーナは教会のオルガン奏者で、コールは12歳まで母からオルガンを習った。1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年にピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなる「ナット・キング・コール・トリオ」を結成。

ビッグバンドの時代におけるコールの編成は革新的とみられ、トリオバンド流行の火付け役となった。・・・1950年以降の歌唱では、「モナ・リザ(Mona Lisa)」「スターダスト」「ルート66」「トゥー・ヤング(Too Young)」「ホエン・アイ・フォール・イン・ラブ」「ネイチャー・ボーイ(Nature Boy)」などが知られる。「スマイル」は、もともと喜劇王チャールズ・"チャーリー"・チャップリンの映画「モダン・タイムス」のテーマ曲(インストゥルメンタル)であるが、コールのレコードのために歌詞が加えられたものである。

生誕 1919年3月17日
出身地 アメリカ合衆国 アラバマ州モンゴメリー
死没 1965年2月15日(満45歳没)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナット・キング・コール

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ボブ・ディラン
ボブ・ディラン(英語: Bob Dylan、1941年5月24日 - )は、アメリカのミュージシャン。出生名はロバート・アレン・ツィンマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している。・・・「風に吹かれて」「時代は変る」「ミスター・タンブリン・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍している。・・・

1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディランと名乗っていた。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取ったとも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける。・・・1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響からか、コンサートやレコーディングでも常に少し酔っ払ったような状態になっていた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期で、中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにした曲を多く残したのは、ディランと関わったのがきっかけとされている。なかでも1965年頃のジョン・レノンが熱病のごとく傾倒し、作風から精神面、スタイルに至るまでディランに触発された。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。


生誕 1941年5月24日(75歳)
出身地 アメリカ合衆国 ミネソタ州ダルース
https://ja.wikipedia.org/wiki/ボブ・ディラン

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ビートルズ
ザ・ビートルズ(The Beatles)はイギリス・リヴァプール出身のロックバンド。主に1960年代に活動した世界的に有名なロックバンド。1962年10月5日にレコードデビュー 。1970年4月10日に事実上解散した。"Fab Four"という愛称もある。・・・活動期間内に母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売し、その内11作が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得した。11作の週間第1位の合計獲得数は162週。年間売り上げ最高アルバム4作と第1作『プリーズ・プリーズ・ミー』による連続30週第1位はいずれも1960年代の最高数。シングルは22作発売し、その内17作が第1位を獲得。

アメリカなど世界各国においても高い販売数を記録し、ギネス・ワールド・レコーズに最も成功したグループアーティストと認定されている。・・・「BEATLES」という名称はジョン・レノンとスチュアート・サトクリフが考えた造語である。ジョンの証言では、この名前が考案されたのは1960年の4月で、バディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツにあやかり、昆虫の名前で同じように2つの意味を含んでいる言葉としてビートルズを、映画『乱暴者』から思いついた。

しかし、バンド名を「ビートルズ」とした頃、クラブ出演を依頼してきたブライアン・キャスは難色を示し、改名を出演条件として「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー」という名称を提示した。話し合いの上、互いに譲歩して『ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ』と称する事になったが、その後ロング・ジョンを除いて「シルヴァー・ビートルズ」と称した(シルヴァー・ビートルズのつづりは途中までThe Silver Beetles)。ただし1960年8月から行った最初のハンブルク巡業で出演したクラブ「カイザー・ケラー」の広告[4]には「The Beatles」と記載されている。


メンバー
ジョン・レノン(ギター)
ポール・マッカートニー(ベース)
ジョージ・ハリスン(ギター)
リンゴ・スター(ドラムス)
旧メンバー
ピート・ベスト(ドラムス)
スチュアート・サトクリフ(ベース)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビートルズ

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ビリー・ホリデイ
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。「レディ・デイ」の呼称で知られる。サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられる。人種差別や、麻薬・アルコール依存症との闘いなど壮絶な人生を送った彼女は、多くの人々を魅了したその声も晩年にはかれ、音域も極端に狭くなっていた。しかし、なお情感豊かな唄声は他に並ぶ者がないほどの高い評価を与えられ、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。・・・ビリーことエリノラ・フェイガン・ゴフは、1915年にフィラデルフィアで生まれ、メリーランド州ボルチモアのフェルズ・ポイント地区で育った。

彼女が生まれたとき、母、セイディ・フェイガンは19歳。母子家庭で育てられ、父はクラレンス・ホリデイ17歳とされているが、確かなことは不明。ただ、母が「あなたの父さんはクラレンス・ホリデイ」と言っていたことから、「ホリデイ」を名乗る。・・・やがてビリーは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。大量のアルコールと朝まで響きわたるジャズ。無一文で、住むところも追い立てられる状況の中、地元のクラブで「Body & Soul (身も心も)」を唄うビリーに、観客は皆、涙したと伝えられる。様々なクラブで仕事をするようになったホリデイは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも唄い始めた。この頃、エリノラの父クラレンス・ホリデイはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。

そんな中、偶然に導かれるように彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。エリノラ、15歳。芸名を決める時期がきた。何でもよかった訳ではない。幼い頃、自分に会いに来た父が男の子みたいな娘をからかって「ビル」と呼んでいたことを覚えていた彼女は、そのニックネームに、父の姓をつけて芸名とした。不世出のジャズ・シンガー、「ビリー・ホリデイ」の誕生である。

生誕 1915年4月7日
出身地 アメリカ合衆国・メリーランド州・ボルチモア
死没 1959年7月17日(満44歳没) アメリカ合衆国・ニューヨーク州・ニューヨーク市・マンハッタン区・ハーレム
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビリー・ホリデイ

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ビル・エヴァンス
ウィリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans、1929年8月16日 - 1980年9月15日)は、アメリカのジャズ・ピアニスト。モダン・ジャズを代表するピアニストとして知られ、ドビュッシー、ラヴェルなどのクラシックに影響を受けた印象主義的な和音、スタンダード楽曲を題材とした創意に富んだアレンジと優美なピアノ・タッチ、いち早く取り入れたインター・プレイといった演奏は、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットなど多くのピアニストたちに多大な影響を与えたほか、ジョン・マクラフリンといった他楽器のプレイヤーにも影響を与えている。・・・エヴァンスはアメリカニュージャージー州のプレインフィールドに生まれ、母はルシン人の系統を持ち、父は相当な身分を持つウェールズ系の人物であった。彼の父は、兄のハリーと同様に、幼い頃からエヴァンスに音楽を学ばせている。クラシック音楽に親しんだ後、10代に入ると兄と共にジャズにも関心を持つようになり、余暇にはアマチュアバンドでピアノ演奏するようになった。・・・1979年の「We Will Meet Again」は、ピアニストかつピアノ教師であった兄ハリーのための作品でもある。この年の録音の4ヶ月前にハリーは動機不詳の拳銃自殺を遂げている。

エヴァンスは、前述のキーストン・コーナーでのライヴに続き、1980年9月9日にニューヨーク市のライブハウス「ファッツ・チューズデイ」において同バンド出演初日演奏を行った。既に激しい体調不良に見舞われていたものの、ジョンソンやラバーバラによる演奏中止要請を振り切って演奏を続行した。しかし、同バンドの開催2日目にあたる9月11日、ついに演奏を続行できない状態となり、やむなく演奏を中止し自宅で親しい人達によって3日間にわたり看護された。9月14日に再度ラバーバラの説得により、市内のマウント・サイナイ病院に搬送されたが、翌9月15日の月曜日に死去した。51歳没。
死因は肝硬変ならびに出血性潰瘍による失血性ショック死であった。永年の飲酒・薬物使用で、人体の薬物・異物分解処理を司る肝臓に過剰な負担をかけ続けた結末で、疫学的には周知されている結果であった。


生誕 1929年8月16日
出身地 アメリカ合衆国
ニュージャージー州プレインフィールド
死没 1980年9月15日(満51歳没)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビル・エヴァンス

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プロコル・ハルム
プロコル・ハルム(Procol Harum )は、1960年代から1970年代に活動した、イギリスのロックバンド。デビュー曲「青い影」(1967年)は世界的な大ヒットを記録し、バンドは一躍スターダムにのし上がった。クラシックやブルースの要素を色濃く取り入れた独特の作風で人気を博した。・・・「青い影」で一躍有名になった彼らの初期のサウンドを特徴付けるのは、ゲイリーのピアノとマシューのオルガンからなるツイン・キーボードの編成である。このスタイルについては、ザ・バンドとの影響関係も指摘されている。

また、R&B的要素とクラシック的要素を融合させた独特の音作りは、70年代のプログレッシブ・ロックの先駆をなしたとも評される。特に、5部構成のロック組曲「In Held Twas in I」が収録されたセカンド・アルバム『月の光』(1968年)と、ポップな作風を指向したサード・アルバム『ソルティ・ドッグ』(1969年)は初期の佳作とされている。その後、1969年にマシューがバンドを脱退すると、ジミ・ヘンドリックスに深く傾倒していたギタリストのロビン・トロワーの存在感が圧倒的となり、彼の奏でるギター・リフを前面に押し出したハードな楽曲が増加してくる。


メンバー
ゲイリー・ブルッカー
ジェフ・ダン
マット・ペグ
ジョシュ・フィリップス
ジェフ・ホワイトホーン
キース・リード

旧メンバー
デイヴ・ボール
デイブ・ブロンズ
マーク・ブレゼジッキー
アラン・カートライト
クリス・コッピング
マシュー・フィッシャー
ミック・グラバム
ボビー・ハリソン
デイヴィッド・ナイツ
ディー・マーリー
レイ・ロイヤー
ピート・ソリー
ドン・スノー
ロビン・トロワー
B.J.ウィルソン

https://ja.wikipedia.org/wiki/プロコル・ハルム

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ブラック・サバス
ブラック・サバス(Black Sabbath)は、イギリスのロックバンド。1968年にバーミンガムで結成され、幾度ものメンバーチェンジを経ながら40年近くに渡って活動した。・・・ジャズやブルースを基調とし、「人を怖がらせる音楽を作る」というコンセプトで作られた音楽性は、後のヘヴィメタルに多大な影響を与えた。その怪奇的なイメージで度々黒魔術や悪魔と結び付けられ、ギタリストのトニー・アイオミがアメリカ・ツアーの最中、狂信者に楽屋で刃物を突きつけられたという危険なエピソードもある。・・・結成はオジー・オズボーンが新聞紙に新バンド結成のためのメンバー募集の公告を出したことによる。

バンド名は、ベーシストのギーザー・バトラーが、1964年に公開されたマリオ・バーヴァのホラー映画『BLACK SABBATH』(邦題『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』)から取って命名した。

メンバー
オジー・オズボーン
トニー・アイオミ
ギーザー・バトラー

旧メンバー
ビル・ワード
ベヴ・ベヴァン
ロニー・ジェイムズ・ディオ
ヴィニー・アピス
イアン・ギラン
ジェフ・ニコルス
グレン・ヒューズ
デイヴ・スピッツ
エリック・シンガー
レイ・ギラン
ボブ・デイズリー
テリー・チャイムズ
トニー・マーティン
ジョー・バート
コージー・パウエル
ローレンス・コットル
ニール・マーレイ
ボビー・ロンディネリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブラック・サバス

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プリンス
プリンス(Prince, 本名:Prince Rogers Nelson、1958年6月7日 - 2016年4月21日)は、アメリカのミュージシャン、マルチ・インストゥルメンタリスト、シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー、俳優。身長158cm(157cm)。これまでに12作品のプラチナアルバムと30曲のトップ40シングルを生み出し、アルバム・シングルの総売り上げは1億2000万枚以上になる。・・・ジャズ・ピアニストだった父親のジョン・L・ネルソンは1960年代後半までプリンス・ロジャーという芸名でプリンス・ロジャー・トリオというバンドを組んでいたことから息子にその名を付けた。

母親のマティは17歳年下のジャズ歌手だった。プリンスが生まれたとき、ジョンには前妻との間に4人の子があり、プリンス誕生と同時期にも前妻との間に男児デュアンが生れ、その後マティとの間に女児ティカ(プリンスの実妹)をもうけた。幼少期のプリンスにはてんかんの持病があり、しばしば発作に見舞われた。・・・プリンスは1978年のデビュー以来、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ゴスペル、ジャズ、ハード・ロック、ヒップホップ、ディスコ、サイケデリック・ロックを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでおり、俗に言うミネアポリスサウンドの中心的存在である。

・・・デビュー以来、作詞・作曲・歌唱・演奏・プロデュースの全てを自ら行うスタイルを貫いており、27種類以上の多種多様な楽器を演奏できるのに加え、ジェームズ・ブラウンの流れを継いだ滑るようなステップやスプリット(股割り)、マイクスタンドを用いた様々な技などのダンスパフォーマンスも披露していたが、近年では楽器による生演奏と歌唱を中心とした「リアルミュージック・バイ・リアルミュージシャンズ」を掲げたライブになっていた。・・・プリンスは黒人でありながらロック音楽に革新をもたらした存在としてジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンと比較された。また若年の天才マルチプレイヤーとしてスティービー・ワンダーと比較される事が多かったが、エレキギターという楽器に興味を持ったきっかけはアイク・ターナーであったという。また、ギタリストとしてはジミ・ヘンドリックスよりもジョニ・ミッチェルとカルロス・サンタナの影響が大きいとインタビューで度々発言している。

生誕 1958年6月7日
出身地 アメリカ合衆国
ミネソタ州 ミネアポリス
死没 2016年4月21日(満57歳没)

https://ja.wikipedia.org/wiki/プリンス_(ミュージシャン)

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レッド・ツェッペリン
レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)は、イギリスのロックバンド。略称は、ZepもしくはLed Zep。なお、「ツェッペリン」はドイツ語の発音であり、英語の発音は「レッド・ゼペリン」に近い。・・・1968年に『レッド・ツェッペリン I』でデビューした彼らは、音楽シーンに衝撃を与えると同時に広い人気を得た。 アコースティック・ナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に亘る幅広い音楽性を持つ。

彼らはテレビでの演奏を拒否し、プレスに対し辛辣な態度を取るなど常にマスメディアと距離を置いており、最初期を除きテレビでは殆ど演奏しなかった。しかし、小さなクラブや大学のステージでの演奏が口コミで伝わり、人気を獲得していき、アルバムセールスや観客動員数で記録を破っていった。・・・スタジオ・セッション・ギタリストを経て、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックに続く、ヤードバーズ最後のリード・ギタリストとなったジミー・ペイジが、当バンドの録音を経験するうち、レコード制作に要求される配慮やボーカリストの重要性に目覚め、偶然性も加わってオーソリティーともいえる各パートのメンバーを揃えて結成されたものとされる。

・・・1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のため、ベックとジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、キース・ムーン(ドラムス、ザ・フー)の5人によるセッションが行われる。このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。その時にムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の気球(lead(発音は[led]) balloon)みたいに急降下するだろうぜ」と発言したことによる。

メンバー
ロバート・プラント(ボーカル)
ジミー・ペイジ(ギター)
ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース・キーボード)
ジョン・ボーナム(ドラムス)

https://ja.wikipedia.org/wiki/レッド・ツェッペリン

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ロッド・スチュワート
ロデリック・デイヴィッド・“ロッド”・スチュワート,Sir(Roderick David "Rod" Stewart,Sir, 1945年1月10日 - )は、スコットランド家系のイギリスのミュージシャン。1960年代後半からジェフ・ベック・グループ、フェイセズでの在籍を経てソロで活躍。独特のしゃがれたハスキーボイスの持ち主で、そのヴォーカルスタイルは同時代のロックミュージシャンに多くの影響を与えた。元サッカー選手でもあり、ライブでは客席にサッカーボールを蹴り込むパフォーマンスが定番となっている。

・・・ロバートとエルシー・スチュワート夫妻の5人兄弟の末っ子だった。彼の両親はロンドン北部で新聞販売業を営み、一家は店の2階に住んでいた。ロッドが、ロンドンのハイゲートで誕生する数分前に、ドイツのV2ロケットがちょうど通りの向かいの警察署へ命中した。墓掘り人夫などの日雇い仕事を転々とした後、彼はサッカー選手として西ロンドンを本拠とするブレントフォードFCに参加したが、わずか3週間ほどでクラブから退団。1960年代前半に、放浪の罪で追放されたスペインのフォーク歌手、ウィズ・ジョーンズのツアーに加わり、音楽の経歴が始まった。

・・・グループ時代から並行してソロ活動を続け、「マギー・メイ」や「ユー・ウェア・イット・ウェル」などのヒットを飛ばしていた。やがてフェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。ジャケット写真では、まさに大西洋を一跨ぎしようとするイラストが描かれている。スティーヴ・クロッパーやジェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが多数参加した作品で、ここから「セイリング」が大ヒット。自ら「イギリスでは第二の国歌」と言い切っており、ライブ後半の重要なレパートリーに数えられる。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する大ヒットとなる。

生誕 1945年1月10日(71歳)
イングランド
ロンドン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロッド・スチュワート

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ジャコ・パストリアス
ジャコ・パストリアス (Jaco Pastorius、本名 ジョン・フランシス・パストリアスIII世、1951年12月1日 - 1987年9月21日) は、ジャズとフュージョンのエレクトリックベース・プレーヤー及び作編曲家。 1970年代半ばに頭角を現し、1975年にはパット・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年にはファースト・ソロ・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』を発表すると共にウェザー・リポートにベーシストとして参加。その革新的なテクニックをもって、エレクトリックベースをアンサンブルでの花形楽器にまで昇華させたことで知られる。

・・・幼少の頃から地元の聖歌隊に参加し、音楽的な素養を身に付けていた。ジャコが7歳の頃、家族はフロリダ州フォートローダーデールに移住した。彼のアルバムでスティール・ドラムが多く用いられているのは、フロリダで過ごした影響が大きいとされている。地元のバンド「ラス・オラス・ブラス」にドラマーとして参加していたが、13歳の時にフットボールの試合中、右手首を骨折してしまいドラムを続けることが難しくなり、ベーシストへ転向した。

・・・1987年9月11日、地元フォートローダーデールに来ていたサンタナのライブに無許可で飛び入りしようとしたところ、警備員に取り押さえられ、会場から追い出されてしまった。翌日未明、「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店に泥酔している状態で入ろうとしたところ、空手技能を持ち合わせたガードマンと乱闘になる。乱闘の際、コンクリートに頭部を強打、脳挫傷による意識不明の重体 に陥ってしまった。


生誕 アメリカ合衆国, ペンシルベニア州, ノリスタウン
1951年12月1日
出身地 アメリカ合衆国 フロリダ州, フォートローダーデール
死没 アメリカ合衆国, フロリダ州, フォートローダーデール
1987年9月21日(満35歳没)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャコ・パストリアス

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