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ハイチ共和国
Republic of Haiti
<中南米>

北中アメリカ

■地理
ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰はラ・セル山(2680m)で、ゴナーブ島、トルチュ島、ヴァシュ島、グランド・チェミット島などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都のポルトープランスで、2番目は60万人のカパイシャンである。


中央アメリカ
中米(ちゅうべい)ともいい、メキシコの南東部の国境からコスタリカとパナマとの国境までの地域を指す。西インド諸島を含み、メキシコや南アメリカと併せてラテンアメリカ(中南米)と呼ばれる。地理的には、メキシコのテワンテペック地峡からパナマ地峡までである。


ジャマイカ海峡
(Jamaica Channel)は、カリブ海に浮かぶジャマイカ島とイスパニョーラ島との間にある海峡である。海峡の中にはアメリカ合衆国領のナヴァッサ島がある。北のキューバ島とイスパニョーラ島の間はウィンドワード海峡(Windward Passage)で、キューバ島とジャマイカ島の間はケーマン海峡(Cayman Channel)がある。

西インド諸島
West Indies、は、南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島である。アメリカ合衆国のフロリダ半島南端、および、メキシコのユカタン半島東端から、ベネズエラの北西部沿岸にかけて、少なくとも7000の島、小島、岩礁、珊瑚礁がカーブを描くようにして連なる。これらの島々が、大西洋と、メキシコ湾、カリブ海の境界線を形成している。

大アンティル諸島
Greater Antilles、は、中央アメリカのカリブ海にある諸島。フロリダ半島およびバハマの南方、ユカタン半島の東方、小アンティル諸島の西方に位置する。北は大西洋に面している。カリブ海にある西インド諸島は大きさや位置から、バハマ諸島(バハマ)・大アンティル諸島・小アンティル諸島の三つに大別される。大アンティル諸島は4つの大きい島、すなわちキューバ島(キューバ)、イスパニョーラ島(ハイチおよびドミニカ共和国)、ジャマイカ島(ジャマイカ)、プエルトリコ島(プエルトリコ米国自治連邦区)及び付属する小島からなる。

イスパニョーラ島
ハイチ語:Ispayola)は、カリブ海にある大アンティル諸島に属する島であり、西側3分の1をハイチ共和国、東側3分の2をドミニカ共和国が統治している。東はモナ海峡、西はウィンドワード海峡およびジャマイカ海峡となっている。島の面積は76,480km2と、世界の島の中で23番目の大きさである。カリブ海の中ではキューバ島に次いで2番目に大きい。イスパニョーラ島はウィンドワード海峡を挟みキューバの80km南東に位置し、ジャマイカ海峡をはさんでジャマイカ島の北東に位置する。プエルトリコからはモナ海峡を挟んだ西にあり、バハマ諸島の南に当たる。

ウィンドワード海峡
(Windward Passage)は、カリブ海上のキューバ島とイスパニョーラ島との間にある海峡である。キューバの東方、ハイチの北西に位置している。海峡の幅は80kmで、1700mの水深閾値(threshold depth)を有する。南のジャマイカ島とイスパニョーラ島の間はジャマイカ海峡(Jamaica Channel)である。

ゴナイーヴ湾
(Golfe des Gonaives)は、ハイチの西海岸に広がる湾である。ハイチの首都のポルトープランスの他、ゴナイーヴ、サン・マルク、ミラゴアーヌ、ジェレミーなどが湾岸に位置している。湾内には多くの島が存在し、最大のゴナーブ島、2番目に大きいカイミートなどがある。ゴナイーヴの前だけをさす場合やゴナーヴ島からラゴナーヴ湾と呼ばれる場合もある。

タークス・カイコス諸島
Turks and Caicos Islands)とは西インド諸島に属するタークス諸島とカイコス諸島からなる、イギリス領の海外領土。 首都はタークス諸島のグランドターク島にあるコックバーンタウン(Cockburntown)。

トルトゥーガ島
カリブ海北部ハイチの島。17世紀に海賊で栄えた島として有名。面積はおよそ180km2。1984年時の人口は 22,080 人[2]。イスパニョーラ島の北西沖にある亀の形をしたこの島は、天然の良港と水に恵まれている。ここを拠点とすれば、スペイン輸送船の航路であるエスパニョーラ島とキューバとの間のウィンドワード海峡を抑えることができたことから、17世紀前半からは海賊(バッカニア)たちの溜り場となった。

アルティボニット川
Latibonit,は、カリブ海のイスパニョーラ島西部を流れる島最長の川である。ドミニカ共和国のエリアス・ピーニャ州およびハイチ北県、中央県、アルティボニット県を流域としている。先住民のタイノ族はハティボニコ(Hatibonico)と呼び。イタリア出身の歴史研究家ピエトロ・マルティーレ・ダンギエーラはアッティボニ(Attiboni)やアッティボニカス(Attibonicus)などと表現している。

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塩湖
saline lake)または塩水湖(えんすいこ)とは、塩水をたたえる湖のこと。淡水をたたえる湖である淡水湖と対になる。陸に閉ざされた湖(内陸湖)の塩分(主成分は塩化ナトリウム)やその他塩類の濃度が通常の淡水湖よりも高くなった湖をいう。

ギアナ地方
Guayana) 、あるいは単にギアナは、南アメリカ大陸北東部の大西洋に面した一画である。北東で大西洋に面し、北西はオリノコ川で画され、南は赤道[1]またはアマゾン川とその支流ネグロ川で画される。面積178万7000km2。この地方には以下の国々が含まれる。

ハイチ帝国 (1804年-1806年)
Empire du Haiti)は、1804年に独立したハイチが、皇帝としてジャン=ジャック・デサリーヌ(ジャック1世)を戴くことで成立した国家。フランスの植民地だったサン=ドマングは、激しい独立戦争の末に独立を達成した。1803年11月30日からサン=ドマングの総督となっていた独立戦争の英雄ジャン=ジャック・デサリーヌは、1804年1月1日にゴナイーヴにて、公式にサン=ドマングの独立を宣言し、国名を「ハイチ」に改めた。

サン=ドマング
(Saint-Domingue)は1697年から1804年までの間、カリブ海のイスパニョーラ島の西三分の一を占めていたフランスの植民地である。砂糖とコーヒー貿易でフランス植民地の中でも最も利益を上げていた。今日のハイチ共和国にあたる。


レイスウェイク条約
Treaty of Ryswickは、1697年9月20日にオランダのレイスウェイクで締結された国際条約。1688年に勃発した大同盟戦争(アウクスブルク同盟戦争、ファルツ継承戦争)を終結させた。この条約で1679年のナイメーヘン条約以降に占領された地域の回復を基本的に定めた。条約締結によってルイ14世のフランスはストラスブールとサンドマング(現在のハイチ)を獲得し、南インドのポンディシェリとカナダのノヴァスコシアを回復した。


サン=ドマング
Saint-Domingue)は1697年から1804年までの間、カリブ海のイスパニョーラ島の西三分の一を占めていたフランスの植民地である。砂糖とコーヒー貿易でフランス植民地の中でも最も利益を上げていた。今日のハイチ共和国にあたる。

タイノ族
アラワク族語系に属するキューバ、イスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国)、プエルトリコ、そしてジャマイカを含む大アンティル諸島とバハマ諸島の、クリストファー・コロンブス到着以前から先住するインディアン部族である。南アメリカのアラワク族が航海してきたものと見られる。

アラワク族
(Arawak)とは、南米ボリビアの北西部やペルーのモンクーナヤ地方、スリナムとガイアナおよびアマゾン下流域などに定住するインディアンで、アラワク語を話す。かつては南米からカヌーでカリブ海の島々に渡り住んでいた。スペイン人が新大陸侵攻を始める前は、カシーケと言われる首長を頂点に、近隣の部族との戦争でとらえられた捕虜を奴隷として使う成層社会を形成していた。

クリオーリョ
criollo) とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。ポルトガル語のクリオーロ (葡: crioulo) も同様の語義を持つが、現地生まれの黒人の意味合いで用いられることのほうが多い。

ムラート
(Mulatto, Mulato)は、ラテンアメリカ及び北アメリカでヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血を指す言葉である。ムラットともいう。なお、女性だけを指していう場合はムラータ(Mulata)という。元々は、片方の親がヨーロッパ系でもう片方の親がアフリカ系の子供のことを指していたが、現在ではある程度両方の血統が混じっている人々のことを指すようになった。

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ブードゥー教
Vodou)は、カリブ海の島国ハイチやアメリカ南部のニューオーリンズなどで信仰されている民間信仰。「宗教」と規定されることも多いが、教義や教典がなく、また宗教法人として認可された教団も皆無で、布教活動もしないため、民間信仰といった方が現状に即しているといえる。その儀式は太鼓を使ったダンスや歌、動物の生贄(いけにえ)、神が乗り移る「神懸かり」などからなる。


ハイチ地震 (2010年)
2010年ハイチ地震はハイチ時間の2010年1月12日16時53分(UTC21時53分)にハイチ共和国で起こったマグニチュード (M) 7.0の地震。地震の規模の大きさやハイチの政情不安定に起因する社会基盤の脆弱さが相まり、死者が31万6千人程に及ぶなど単一の地震災害としては、スマトラ島沖地震に匹敵する近年空前の大規模なものとなった。震源はハイチの首都ポルトープランスの西南西25km、深さは13km、マグニチュード(モーメントマグニチュード Mw)は7.0と推定されている(アメリカ地質調査所)。この地域は北アメリカプレートとカリブプレートの衝突型境界の近傍であり、震源が浅い典型的な直下型地震(内陸地殻内地震)である。


<歴史>
■先コロンブス期
紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。
■植民地時代
1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島にはアラワク人(タイノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンのカリブ人が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。
■黒人反乱と黒人国家の成立
1789年からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート(混血の自由黒人)たちはその報を受けたヴードゥーの司祭デュティ・ブークマンに率いられ、1791年に蜂起した。ルーヴェルチュールは戦乱によって疲弊したハイチを立て直そうとしたが、奴隷制の復活を掲げたナポレオンが本国から派遣したシャルル・ルクレールの軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、1804年1月1日に独立を宣言し、ハイチ革命が成功した。
■賠償金の圧迫と国内の混乱
この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテンアメリカ最初の独立国が誕生し、南北アメリカ大陸の他の植民地の黒人たちや、独立主義者、そしてアメリカ合衆国の黒人奴隷たちを刺激した。1843年、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度ドミニカ共和国としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。
■米国による占領
1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、シャルルマーニュ・ペラルト将軍などが海兵隊と戦ったが敗れ、数十万人のハイチ人がキューバやドミニカ共和国に亡命した。
■デュヴァリエ独裁政権
1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデターが繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任した。

■デュヴァリエ以降
1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティドが1991年に大統領に就任。しかし、同年9月のラウル・セドラ将軍による軍事クーデターにより、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。アリスティドは1994年に大統領に復帰した。1996年、アリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領となった。


サイザルアサ
Agave sisalana)はリュウゼツラン科リュウゼツラン属の植物、またはこれから取れるロープなどに使う繊維。アサの仲間ではないが、歴史的に最も使われてきた繊維である麻にちなんでサイザルアサと命名された。「サイザル」は以前よくこの繊維が船で積み出しされていたユカタン半島のサイザル港にちなむ。


<世界遺産>
国立歴史公園-シタデル、サン・スーシ、ラミエール
サン=スーシ城(Palais Sans-Souci)はハイチのアンリ・クリストフが居城とした建物である。現在の北県のミロー (Milot) にある。建設は1807年に始まり、1813年に完成した。サン=スーシはフランス語で「憂いなし」を意味する。サン=スーシ城のモデルになったのはヴェルサイユ宮殿であり、建造にあたってバロック様式がとり入れられた。内装も高級木材や大理石などを使った豪奢なもので、フランスやイタリアから取り寄せられた建材や装飾品も用いられた。


■教育
6歳から11歳までの初等教育が無償の義務教育とされているが、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率はアメリカ大陸で最も低い52.9%である。主な高等教育機関としてはハイチ大学(1920年)が挙げられる。


ハイチ料理
kizin ayisyen)は、カリブ海にある国ハイチの料理である。
1492年コロンブスがイスパニョーラ島に到達して以来スペイン領だったハイチは、17世紀半ば頃からフランスによる植民が始まり、フランス人によって多くの黒人奴隷がアフリカから連れて来られた。これにより、ハイチの料理はフランスとアフリカの料理の影響を強く受けている。


■ハイチ文学
19世紀末から20世紀初頭にかけて一群の知識人達が国民小説と呼ばれる文学を創始した。「国民小説」は、フランス文化を身に付けたハイチ知識人によって担われたため、フランス文化的な背景を持たない農村部の住民の文化とは隔絶していたが、人種主義が猛威を奮っていた時代において、黒人知識人によって担われる文学はそれだけで人種主義への抵抗や、国威発揚を果たした。

■音楽
ハイチは国民所得や識字率が低いこともあり、音楽が重要な娯楽とメディアの役割を果たしている。主な音楽のジャンルとしては、メレング、ヴードゥー音楽、ララ、コンパ、ヒップ・ホップ、ミジック・ラシーンなどの名が挙げられる。

■絵画
アンドレ・マルローがハイチ絵画を絶賛したように、20世紀においてハイチの絵画は、第一次世界大戦でヨーロッパが没落した後の、新たに創造的な美術であるとみなされてきた。絵画のジャンルにはハイチの日常生活を描くもの(生活描写派)、ヴードゥー教の儀式を描くもの(ヴードゥー派)、ハイチの歴史を描くもの(歴史画派)などが存在し、独特の色遣いと表現形式により、ハイチ絵画は世界的に高い評価を受けている。ハイチの画家:ペティオン・サヴァン、エクトール・イッポリト、フィロメ・オバン、リゴー・ブノワ、カステラ・バジル

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ラファエル・サバチニ
(Rafael Sabatini、1875年4月29日 - 1950年2月13日、サバティーニ表記もある)は、イタリアイェージ生まれのイギリスの小説家。1890年代から短編を書き始め、最初の小説は1902年に出版された。 しかし作品はヒットせず、四半世紀の長きにわたる不遇の時代を過ごしたが、1921年の「スカラムーシュ」の大ヒットによって国際的なベストセラー作家になった。 また1922年に発表した「キャプテン・ブラッド(Captain Blood)」は同じく大ヒット作となった。

ジャン=ジャック・デサリーヌ
(Jean-Jacques Dessalines,1758年9月20日 - 1806年10月17日)は、ハイチ独立運動指導者、独立後最初の統治者であり、1805年には自らジャック1世として皇帝の座に就いた[1]。今日もハイチ建国の父として敬愛されている。ハイチ革命において、フランスの植民地だったサン=ドマングで、トゥーサン・ルーヴェルチュールの部下として活躍した。1802年に彼が拘束されると反乱軍の新たな指導者として再蜂起し、1803年11月18日ヴェルティエルの戦いでナポレオンの派遣したドナチアン=マリ=ジョゼフ・ド・ロシャンボー率いるフランス軍を破り、サン=ドマング領内から駆逐した。

トゥーサン・ルーヴェルチュール
フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(François-Dominique Toussaint Louverture, 生年不詳・1739年から1743年 - 1803年4月7日)は(フランス革命期の)ハイチ独立運動指導者であり、ジャン=ジャック・デサリーヌ等とともにハイチ建国の父の一人と看做されている。トゥーサンの父祖は祖父ゴー=ギヌーまで西アフリカのダホメ王国(現在のベナン)のアラダ(ダホメ王家の発祥の地)の首長であったが、トゥーサンの父イポリト・ゴーは捕えられて奴隷としてフランス王国の植民地サン=ドマング(現在のハイチ)のカプ=フランソワ近くの北県のブレダの不在領主のノエ伯爵に売られた。トゥーサンは彼の長男で5月20日か11月1日(諸聖人の日、フランス語でトゥーサン)に生まれた。農園の管理者ベヨン・ド・リベルタは“比較的に人間的で親切な”管理人でトゥーサンに読み書きを奨めた。そのためトゥーサンはフランス語の基礎とラテン語を自由黒人の司祭ピエール・バチストに学んだ。

ジャン=ベルトラン・アリスティド
(Jean-Bertrand Aristide, 1953年7月15日 - )は、ハイチの元司祭・元大統領(在任1期前半1991年2月7日 - 9月29日、後半1994年10月15日 - 1996年2月6日、2期2001年2月 - 2004年2月29日*法的には任期未了)。元サレジオ会司祭で、解放の神学の熱心な実践者であった。退会後、政治活動に身を投じ期待されて民主的な選挙で選ばれた初の大統領となった。貧困層を支持母体に教育の普及に努めた。評論家の中には「彼が独裁者となり、不人気であったために2度打倒された」と看做す者もいる。1度目は1991年9月の軍事クーデターであり、2度目は2004年2月の元軍人が多数参加した反乱である。

ジャン=マックス・ベルリーヴ
(仏: Jean-Max Bellerive、1958年 - )は、ハイチの経済学者。元首相。ポルトープランスで世界保健機関 (WHO) の医師の子に生まれ、スイス・フランス・ベルギーで政治学と国際関係学の学位を得て、ジャン=クロード・デュヴァリエ政権末期の1986年に帰国した。ピエール=ルイ内閣で計画・対外協力相を務め、これまでに6度の閣僚経験がある。

ジャン=クロード・デュヴァリエ
(Jean-Claude Duvalier、1951年7月3日 - ) は、ハイチの政治家、大統領。独裁者と呼ばれた大統領フランソワ・デュヴァリエの息子。父の後を継いで大統領になり、15年間独裁者として君臨した。1951年、父フランソワ、母シモーヌのもとで生まれる。ハイチ国立大学法学部で学び、父が死んだ直後の1971年、19歳で世界最年少の大統領となった。アメリカとの経済協力を強めたが、国民の生活は窮乏した。1980年に国内の財閥令嬢ミシェル・ベネットと結婚。1983年には終身大統領になり一族ともども贅沢に生活し、閣僚たちは蓄財に励んだ。その腐敗ぶりから1978年ごろから反政府暴動が盛んになり、武装蜂起や暴動が相次いだが徹底的に弾圧して対応し国際問題化した。1985年に全国規模の反乱が発生。反乱の共産主義化を恐れたアメリカ、フランスによって説得され、1986年に米軍機でフランスに亡命した。

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ワイクリフ・ジョン
Wyclef Jean、1972年10月17日 - は、ハイチ人のミュージシャン、俳優、音楽プロデューサーである。ハイチ生まれだが、9歳でアメリカ合衆国のニューヨーク市に移住した。3人組ヒップホップグループ、フージーズのリーダーであったが、1997年にグループが解散して以降はソロで活動。

シモン・ボリバル
Simon Jose Antonio de la Santisima Trinidad Bolivar y Palacios、1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。

シャルル・リヴィエル=エラール
(Charles Riviere-Herard)1789年2月16日 - 1850年8月31日) はハイチ革命時のハイチ軍将校。シャルル・エラール・エネはポルトープランスで生まれた。彼の生立ちの詳細はあまり知られていない。ハイチ革命に際し、黒人軍の大隊指揮官クラスの将校になった。彼が有名になったのはジャン・ピエール・ボワイエ大統領を追放することになった農民蜂起の指導者となったためである。

フランシスコ・デ・ミランダ
Sebastian Francisco de Miranda Ravelo y Rodriguez de Espinoza、1750年3月28日 - 1816年7月14日)とは、ベネズエラの革命家。一般的にはフランシスコ・デ・ミランダ(スペイン語発音: [f?an?sisko ðe mi??anda])として知られ、シモン・ボリバルの継承者とも見做されている。ミランダはスペイン帝国からの独立及びイスパノアメリカの統合を狙ったが、失敗し、1812年にスペインに捕えられ、刑務所内で1816年に死去した。

ミカエル・ジャン
Michaelle Jean, 1957年9月6日 - )は、第27代カナダ総督(任期2005年9月27日 - 2010年10月1日)。ハイチ・ポルトープランス生まれのハイチ系カナダ人。1968年フランソワ・デュヴァリエ独裁政権下のハイチから難民として逃れた。彼女が最近和解した父はデュヴァリエ政権の下で拷問を受け、30年間家族と隔離された哲学者だった。

ジョン・ジェームズ・オーデュボン
(John James Audubon, 1785年4月26日 - 1851年1月27日)はアメリカ合衆国の画家・鳥類研究家。北アメリカの鳥類を自然の生息環境の中で極めて写実的に描いた博物画集の傑作『アメリカの鳥類』(Birds of America, 1838年)によって知られる。西インド諸島のフランス領サント・ドミンゴ島(現ハイチ)でフランス人小間使いである母のもとに生れるが、まもなく母と死別し、フランス人船長オーデュボンの養子となる。4歳のとき父とともにフランスに渡り、7歳から絵を習った。

ジャック・ルーマン
Jacques Roumain、1907年6月4日 - 1944年8月18日)は、ハイチの作家、政治活動家。ハイチ文学を代表する文人で、マルクス主義を支持した。英語圏での知名度は低いがヨーロッパに多くのファンを持ち、カリブ海・ラテンアメリカ諸国でも高名である。ポルトープランスの裕福な家庭に生まれる。祖父のタンクレード・オーギュストは1912年から翌年まで大統領を務めた。市内のカトリック系学校で教育を受けた後、ベルギー、スイス、フランス、ドイツ、スペインに遊学。20歳でハイチに帰国し、フィリップ・トビー=マルセラン、カール・ブルアール、アントニオ・ヴューと La Revue Indigene: Les Arts et La Vie を発表。

サミュエル・ダレンバート
(Samuel Davis Dalembert, フランス語読みサミュエル・ダランベール, 1981年5月10日 - )は、カナダのプロバスケットボール選手。NBAのミルウォーキー・バックスに所属している。ハイチの首都ポルトープランス出身。ポジションはセンター。身長211cm、体重113kg。2004年以降もシクサーズでプレー。2005年にはフリーエージェントとなり、長期大型契約を結んだ。才能の開花が待たれる若手プレーヤーである

ハイチ Haiti
中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置する共和制国家である。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス。

ポルトープランス
Port-au-Prince)は、ハイチ共和国の首都。フランス語で「王子の港」を意味する。ゴナーヴ湾に面し、湾岸が商業地区、丘陵が高級住宅地となっている。北緯18°32'西経72°20'に位置する。首都への人口集中が起きてスラム化が進んでおり、首都圏に250万-300万人の人口がある。クリストファー・コロンブスの到着以前は、永住者はいなかった。15世紀末、この地域はハラグア (Xaragua) 地方のタイノ族首長のボヘチョ (Bohechio) の支配下にあった。祖先たちと同様、周辺の島に住んでいるカリブ族の標的になることを畏れ、彼も海岸近くに居住することを避けた。海に近いこの地域は狩猟の場とされていた。


ポルトープランス国際空港
トゥーサン・ルーヴェルチュール国際空港(Toussaint L'Ouverture International Airport)は、ハイチ共和国の首都、ポルトープランスにある国際空港。ハイチの独立運動家、トゥーサン・ルーヴェルチュールに由来する。


外務省:ハイチ共和国
在ハイチ日本国大使館


ハイチ大学
1980年代のハイチにおいて最も重要な高等教育機関はハイチ国家大学だった。同大学の起源は1820年代に設立された医学と法学の単科大学にまで遡る。1942年に複数の学部がハイチ大学に統合された。1960年の学生によるストライキの後、フランソワ・デュヴァリエ政権は大学を固く政府の支配下に置き、ハイチ国家大学と改称した。

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ゴナイーヴ
(Gonayiv) はハイチ北部の都市、アルティボニト県の首都。2003年の人口は約 104,825 人 (調査値)。ゴナイーヴの名はタイノ人の村ゴナイボ (Gonaibo) による。2004年9月にはハリケーン・ジーンがこの町にも洪水と泥流をもたらした。ハイチ全土で 3,006 人が犠牲となり、ゴナイーヴでは最大の 2,000 人が亡くなった。全ての建物が被害を受け、25万人が家を失った。

サン・マルク
(仏: Saint-Marc, ハイチ語: Sen Mak)はハイチ中部、アルティボニット県南部の港湾都市。ポルトープランスの北西約100km、ゴナイーヴの南約37.8km。アルティボニット川の河口から一山越えて南に位置し、ゴナイーヴ湾内のサンマルク湾に面する。

ミラゴアーヌ
(ハイチ語: Miragwan, ミラグワーヌ)はハイチ南部の都市。ニップ県の県庁所在地。2003年の国勢調査による人口は89,202人。ポルトープランスの約100km西に位置し、ゴナーヴ湾に面しマイアミなどからの中古品の輸入港となっている。南東にミラゴアーヌ湖がある。かつてはコーヒーや果物、木材が輸出された。タバコとサイザルアサの加工品が生産される。ボーキサイトも産出される。1960年代から1970年代にレイノルズ社がアルミ箔の生産を始めたが、電力供給に問題があった。当局は住民より工場を優先し、レイノルズ社は経営を続けている。

ジェレミー
ハイチ語: jeremi)はハイチ南西部の都市。グランダンス県の県庁所在地。南部ではレカイ、ジャクメルに次ぐ都市である。ポルトープランスから約297km西のチビュロン(チビウォン)半島の西端の北東部に位置し、ゴナイーヴ湾に面している。アレクサンドル・デュマ・ペールの父トマ=アレクサンドル・デュマの出身地で、1793年9月にはフランス革命に乗じたイギリス軍が侵攻した。著名な出身者に詩人が多く詩人の町と呼ばれることもある。

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アンシュ
Ench)はハイチの内陸北東部の都市。中央県の県庁所在地である。ドミニカ共和国とハイチとで帰属が変遷した地域で、スペイン語名はインチャ (Hincha) であり、1929年の国境条約と1936年の同条約の改定で恒久的にハイチ領とされた。

クロワ・デ・ブーケ
Kwadebouke,は、ハイチ共和国西県のコミーン。中心市街は首都ポルトープランスの北東およそ12.9kmに位置する。クロワ・デ・ブーケは、ポルトープランス首都圏の北東のクルドサックと呼ばれる低地にあり、マメ、トウモロコシ、サツマイモなどが栽培される。

カパイシャン
(Kap Ayisyen, Okap, オカプとも)はハイチの都市。2003年の人口は11万人。北県の県庁所在地である。フランス植民地時代のサン=ドマングにレイスウェイク条約を受けて王命で1711年にカプ=フランソワとして建設された。

フォールリベルテ
Folibete)はハイチ北東部の港湾都市。北東県の県庁所在地。フォールリベルテ湾に突出した岬の付け根にある。ヴァンサン=マリ・ヴィエノは著名な入植者である。フランス植民地時代は砂糖の積出し港の一つ、後もコーヒーなどの輸出港の一つである。

ポールドペ
Podpe)はハイチ北西部の都市。大西洋に面しトルチュ島の対岸にあり、北西県の県庁所在地である。2003年の国勢調査による人口は120,267人。1492年にクリストファー・コロンブスが上陸した際にこの辺りがバルパライソと名付けられ、イギリス勢によりトルチュ島を逐われたフランス系フィリバスターが1665年に現在よりもモールサンニコラ寄りに町を建設したとされる。

レカイ
Okay)はハイチ南西部の都市。南県の県庁所在地。名前は沖合に浮かぶグランド・カイやプチ・カイなどからカイの街という意味である。ラヴィヌディシド川(Ravine du Sud, 南部渓谷)の河口の北に位置しハリケーン時には洪水が多い。

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ジャクメル
(Jakmel) は1698年に建設されたハイチ南部の都市。南東県の首都。タイノ語のヤキメル (Yaquimel) から。推定人口は4万人で町の様子は19世紀からあまり変わっていない。港町であり、ニューオーリンズ風の大邸宅に住む富裕なコーヒー商人の拠点となった。ジャクメルはその相対的な静けさと首都の最近の政治的混乱からの距離のためハイチでも人気の観光地となっている。


アルティボニット県
Latibonit, はハイチ中北部の県 (depatman)。県庁所在地はゴナイーヴ。面積は 4,984 km2 で最大である。人口は 1,168,800 人 (2002年) 。南部はアルティボニット川の平野部で稲作地帯である。主要都市はゴナイーヴとサン・マルク。

中央県
Sant, はハイチ東部の県 (depatman)。県庁所在地はアンシュ。面積は 3,675 km2 、人口は 564,200 人 (2002年)。唯一の内陸県でアルティボニット川上流に1950年代に建設された最大の淡水湖であるペリグル湖及びペリグル水力発電所がある

グランダンス県
Grandans)はハイチ南西部の県 (depatman)。県庁所在地はジェレミー。面積は 1,871 km2、人口は 465,800 人 (2002年)。2003年に東部がニップ県に分割された。

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ニップ県
Nip)はハイチ南西部の県 (depatman)。県庁所在地はミラゴアーヌ。面積は 1,219 km2、人口は 266,379 人 (2003年)。2003年にグランダンス県から分割された。

北県
No, ノー)はハイチ北部の県 (Depatman)。県庁所在地はカパイシャン。1789年当時砂糖のプランテーションにより北県の辺りはサン=ドマングでも最も栄えた地域だった。山塊に遮られ奴隷たちが他の地域から孤立していたため、入植者は特に経済的な自治を強く望み、奴隷たちが反乱に参加しないだろうと予想したが、1791年8月22日多くの奴隷が蜂起し内戦が始まった。

北西県
Nodwes, ノードウェス)はハイチ北西部の県 (depatman)。県庁所在地はポールドペ。面積は 2,176 km2 人口 488,500 人 (2002年)。ポールドペ沖合にラトーチュ島がある。南東に北県及びアルティボニット県と接する。北西県は乾燥して不毛となり、コロンビア産の麻薬の中継地点となっている。


国際連合ハイチ安定化ミッション
United Nations Stabilization Mission in Haiti, MINUSTAH)はハイチに展開している国際連合平和維持活動(PKO)。2004年4月30日の国際連合安全保障理事会決議1542号を受けて設立された。ハイチの治安を回復し、選挙を含む民主的政治プロセスの回復支援、難民帰還をはじめとした人権擁護活動を任務とする。


■国名
公式の英語表記はRepublic of Haiti(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haiti(ヘイティ)。「ハイチ(アイティ)」は、先住民族インディアン/インディオのアラワク系タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味し、独立に際してそれまでのフランス語由来のサン=ドマングから改名された。


1.面積:27,750平方キロメートル(四国と九州の中間程度の面積)
2.人口:1008.9万人(2010年 ECLAC)
3.首都:ポルトープランス
4.民族:アフリカ系(約9割)、その他混血
5.言語:フランス語、クレオール語(共に公用語)
6.宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント等)、ブードゥー教等

492年 コロンブスのエスパニョーラ島発見
1697年 フランス領となる
1804年 独立
1915年〜1934年 米国による軍事占領
1957年9月 F.デュバリエ政権誕生(1964年以降終身大統領)
1971年4月 J.C.デュバリエ(F.デュバリエの子息)大統領就任
1986年2月 J.C.デュバリエ大統領ハイチ出国
1987年4月 民主憲法発布
1991年2月 アリスティッド政権成立
1991年9月 軍事クーデター、アリスティッド大統領国外脱出
1993年7月 アリスティッド大統領の帰国に向け合意成立
1993年10月 国連安保理制裁再開
(6月に実施、8月末に停止されていたもの)
1994年5月 国連安保理制裁強化(全面禁輸等)
1994年7月 国連安保理、加盟国に多国籍軍創設を認める決議を採択
1994年9月 カーター合意により軍指導部は退陣に合意。多国籍軍、展開

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1994年10月 アリスティッド大統領帰国
1995年3月 多国籍軍が国連ハイチ・ミッション(UNMIH)に移行
1996年2月 プレヴァル大統領就任
1997年11月 国連ハイチ・ミッション(UNMIH)がハイチから撤退
2000年5月〜7月 議会、地方選挙
2001年2月 アリスティッド大統領就任(2期目)
2004年2月 武装勢力の活動先鋭化、アリスティッド大統領国外脱出、アレクサンドル暫定大統領就任、多国籍軍展開(安保理決議1529)
2004年3月 ラトルチュ首相就任、暫定政府発足
2004年4月 多国籍軍が国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)に6月から移行(安保理決議1542)
2004年7月 対ハイチ支援会合開催(於:ワシントンDC)
2004年11月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期6ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1576)
2005年6月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期を2006年2月15日まで認める決議を採択(安保理決議1608)
2006年2月〜4月 大統領・国会議員選挙
2006年2月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期6ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1658)
2006年5月 プレヴァル大統領就任(2期目)、国会設置・開会
2006年6月 アレクシー内閣発足
2006年7月 対ハイチ支援会合開催(於:ポルトープランス)
2006年8月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期6ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1702)
2006年12月 統一地方選挙(一部国会議員選挙含む)
2007年2月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期8ヵ月延長を認める決議を採択(安保理決議1743)
2007年10月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期1年延長を認める決議を採択(安保理決議1780)
2008年10月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期1年延長を認める決議を採択(安保理決議1840)
2009年4月 対ハイチ支援国会合開催(於:ワシントンDC)
2010年1月 ハイチ地震発生を受け、国連安保理は国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)の増員(3,500名)を決定(安保理決議1908)
2010年1月 ハイチに関する閣僚級会合(於:モントリオール(カナダ))
2010年3月 ハイチ支援国会合(於:ニューヨーク国連本部)
2010年10月 国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)任期延長を認める決議を採択(安保理決議1944)
2010年11月〜2011年4月 大統領・国会議員選挙
2011年5月 マルテリー大統領就任

■主要産業:農業(米、コーヒー豆、砂糖、バナナ、カカオ、マンゴー、トウモロコシ)、軽工業(繊維製品、軽電気、機械組立)

■主要貿易品目(1)輸出 衣類、加工品、カカオ、マンゴー、コーヒー(2)輸入 食料品、加工品、機械・輸送機器、燃料、鉱物原料


グールド (通貨)
フランス語: Gourde ハイチ語: goud)はハイチの通貨単位。ISO 4217によるコードはHTG。100サンチーム(centimes)に分割できる。1912年からしばらくの間は、5グールド=1ドルの固定レートであった。そのため、5グールドで「ハイチ・ドル」という名称があった。

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トントン・マクート
Tonton Macoute)は、ハイチのフランソワ・デュヴァリエ政権下の1958年に作られた秘密警察を母体とした準軍組織。トントン・マクートを指揮したデュヴァリエ政権の第二位であったリュクネル・カンブローヌは2006年9月29日にマイアミで77歳で死亡した。


■経済
ハイチは西半球で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事しているが、規模が零細である上に灌漑設備等の農業インフラが不十分で天水に依存した伝統的農法に頼っており、過耕作、土地の荒廃なども影響して、農業生産性は極めて低く、食料自給率は45%、米の自給率は30%未満である。


マキラドーラ
(maquiladora de Exportacion)は1965年に制定された、製品を輸出する場合、当該製品を製造する際に用いた原材料・部品、機械などを無関税で輸入できる保税加工制度。一般にメキシコの制度を指す場合が多いが、他の中南米諸国でもパラグアイ、ドミニカ共和国、エルサルバドルなどで同様の制度をとっている国がある。


ロイヤル・カリビアン・インターナショナル
(Royal Caribbean International) は、1969年設立の世界最大規模の米国船会社。カリブ海を拠点にカジュアル・ファミリー向けのクルーズが中心となり、2009年4月現在、20隻の客船を保有する。


■民族
ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート(白人とアフリカ人の混血)である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。その他に、数は少ないが独立後に中東から移民したアラブ系ハイチ人が存在する。

■言語
公用語はハイチ語(クレオール言語)とフランス語。フランス語系のクレオール言語であるハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はハイチ語を日常的に使うが、公的機関やビジネス、教育では標準フランス語が使用される。

■宗教
国民の約95%がキリスト教徒であり、宗教の主流は国教ともなっているカトリックで、国民の約80%が信仰している。カトリックの他にはペンテコステ派、バプティストなどのプロテスタントや、少数ながら正教も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系のベナンにルーツを持つ宗教であるブードゥー教の慣習も行っている。

■文化
独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に、占領に対する抵抗のためにナショナリズムが称揚される動きの中で、特に詩人ジャン・プリス=マルスによってアフリカ的な民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直すノワリズム(黒人主義)に繋がり、1930年代から1940年代のマルチニークのエメ・セゼールとセネガルのレオポルド・セダール・サンゴールらによるネグリチュード運動の源流の一つともなった。


トマ=アレクサンドル・デュマ
Thomas-Alexandre Davy de la Pailleterie dit Dumas, 1762年3月25日 - 1806年2月26日)はフランスの軍人。『モンテ・クリスト伯』などの作品で有名な作家のアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)の父親。大デュマの作品には父をモデルにした人物が数多く登場する。仏領サン=ドマング(現ハイチ)で、アレクサンドル=アントワーヌ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー侯爵と黒人奴隷女性マリー・セゼットの間に生まれ、トマ=アレクサンドルと名づけられる。

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ルネ・ガルシア・プレヴァル
(Rene Garcia Preval, 1943年1月17日 - )はハイチの政治家。元大統領(第38、40代)。ポルトープランス出身。ベルギーのジョンブルー大学の農学部卒。プレヴァルは1963年にフランソワ・デュヴァリエ独裁政権下で命を狙われ家族とともに亡命を強いられた。ルネの父も農学者であり、デュヴァリエの前任者のポール・マグロワール将軍の政権で農業相を務めた。その経歴上デュヴァリエ政権の反対者となり、彼はベルギー領コンゴの国連機関で働くようになり、そこに家族を集めた。ニューヨークのブルックリンでウエイターをして5年間過ごした後、プレヴァルは国立鉱物資源研究所に職を得てハイチに戻った。そして数年後彼はポルトープランスに共同で出資してパン屋を開いた。開業と同時に彼は政治的サークルや慈善活動にも携わった。その中でサレジオ会司祭のジャン=ベルトラン・アリスティドの孤児院にもパンを提供し、彼とも親しくなった。

ミシェル・マテリ
(Michel Martelly, 1961年2月12日 - )は、ハイチの大統領、ミュージシャン。1961年2月12日生まれ。中産階級の石油工場現場監督の家庭で育つ。アメリカ合衆国のレッドロックス・コミュニティー短期大学(Red Rocks Community College)に留学する。アメリカでは、建設労働者としても働く。ハイチに帰国の後、1988年、ミシェル・マテリの実名で、コンパ(Kompa)というジャンルで、プロの歌手としての音楽活動を始める。

アンリ・クリストフ
Anri Kristof, 1767年10月6日 - 1820年10月8日ミロはハイチの軍人。1807年2月17日ハイチ国(北ハイチ)の大統領となり、1811年3月26日ハイチ王国国王即位を宣言した。1820年10月8日に自殺した。英領西インドのグレナダのフランス人が所有する農園の黒人奴隷の両親の元に生まれた(セントキッツなどの生まれとする説もある)クリストフは奴隷としてサン=ドマングに連れて来られた。彼はホテルのレストランで働き、後に自由を得たと言われている。

アレクサンドル・ペション
(Alexandre Sabes Petion, 1770年4月2日 - 1818年3月29日) はハイチの軍人。南部の「ハイチ共和国」の大統領 (1806年 - 1818年)。フランス植民地サン=ドマングのポルトープランスでフランス人のパスカル・サベを父、黒人女性のウルスラを母として生まれた。1788年にパリの士官学校で学ぶためにフランスに渡った。ペチョンは商業的なプランテーションを積極的に収容し、支持者と農民に土地を分配した。そして、Papa Bon-Kè「親切なパパ」という渾名を得た。土地分配は国の経済に重大な打撃となり、大部分の人々は自給農業以上のことを行わなかった。

ジャン・ピエール・ボワイエ
(Jean Pierre Boyer, おそらく1776年2月15日 - 1850年7月9日)はハイチの軍人/ハイチ共和国大統領 (1822年 - 1843年)。ボワイエはプロヴァンス人の父とギニア出身の母の子で自由なムラートとしてポルトープランスで生まれ、父の影響でフランスの士官学校で教育を受けた。その後フランス共和国軍に加わり、短期間で大隊指揮官に昇格した。次いで彼はフランスの代表部に加わり、白人と王党派に対する戦いに加わるためにサン=ドマングに戻った。

フランソワ・デュヴァリエ
(1907年4月14日-1971年4月21日)はハイチの大統領。疫病への取り組みを通じて高い評価をえたことで、「パパ・ドク」という愛称で呼ばれた。さらに1950年の軍事クーデターを鎮め、ポピュリズムとブラックナショナリズムを背景にして大統領に就任した。軍を弱体化させ、トントン・マクートと呼ばれた地方を基盤とする民兵組織や個人崇拝、ブードゥー教を利用したデュヴァリエによる独裁により、およそ3万人のハイチ人が命を亡くしたといわれ、それを逃れて亡命した知識人たちがハイチには戻ることはなかった。

フランケチエンヌ
(FrankEtienne,1936年4月12日- )とはハイチの作家、詩人、劇作家、音学家、画家である。彼はフランス語、ハイチ語双方で創作する。画家としては、彼は色彩豊かなアブストラクトの作品で知られ、しばしば青と赤が強調される。彼は2009年のノーベル文学賞候補者となった。

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フェリクス・モリソ=ルロワ
Feliks Moriso-Lewa, 1912年3月13日 - 1998年9月5日はハイチの教育者・作家、ハイチ語で最初に作品を公表した。ハイチ語を教育に取入れ、ハイチ語とフランス語で作品を公表した。1961年にハイチ語は公用語とされた。モリソはガーナとセネガルにも渡り国民文学の開発を援助しようとした。1981年モリソはマイアミに渡り、ハイチ人コミュニティの統合とハイチ語の学術化を試みた。

エドウィージ・ダンティカ
(Edwidge Danticat, 1969年1月19日 - )とはハイチ系アメリカ人の作家である。ダンティカはハイチの首都ポルトープランスで生まれた。彼女が2歳の時、彼女の父アンドレはニューヨークに移住し、2年後に母のローズも後を追った。12歳の時、彼女はニューヨークのブルックリンに移住し、ハイチ系アメリカ人の隣人の囲まれていた両親と合流した。彼女は10代の時移民したため、エドウィージのアクセントとしつけは彼女を当惑させる要因となったため、彼女は慰みのために文学に向かった。

アンドレ・リゴー
(Andre Rigaud, 1761年 - 1811年) はハイチ革命時のムラート軍の指導者。彼の庇護下からアレクサンドル・ペションやジャン・ピエール・ボワイエらが出た。リゴーはオカイでフランス人執行吏と黒人の母アラダの子として生まれ、ボルドーに渡り貴金属加工を身に付けた。1779年にはデスタン将軍が率いたアメリカ独立戦争へのサン=ドマングの自由有色人種の義勇軍に参加した。

エメ・セゼール
(Aime Fernand David Cesaire, 1913年6月26日 - 2008年4月17日) はフランス/マルチニークの詩人、評論家、劇作家、そして政治家である。代表作は『帰郷ノート』、『植民地主義論』である。ネグリチュード(黒人性)運動を牽引し、植民地主義を批判した。

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フージーズ
(The Fugees)は、アメリカ合衆国の3人組ヒップホップ グループ。1990年代半ばに絶大なる支持を集めた。彼らの楽曲は、ヒップホップを中心として、そこにソウルやカリブ系音楽(特にレゲエ)の要素を取り入れている。メンバーは、ラッパー/歌手のワイクリフ・ジョンがリーダーを務め、同じくラッパー/歌手のローリン・ヒル、そしてラッパーのプラーズ。ワイクリフ・ジョンとプラーズのルーツはハイチにあるが、ローリン・ヒルはニュージャージー州 サウスオレンジの出身である。グループの名は、「難民(refugee)」に由来する。

ヨアキム・アルシン
(Joachim Alcine、男性、1976年3月26日 - )は、ハイチのプロボクサー。元WBA世界スーパーウェルター級王者。ハイチ出身で、ハイチ人として史上初の世界王者となった。カナダ国籍を持つハイチ系カナダ人でもあり、ケベック州に在住し主戦場はカナダである。名前の一部をとって「Ti-Joa」の愛称を持つ。恵まれた体格を活かし、コンビネーションが巧い連打型のボクサー。総試合数32、勝ち31、KO勝ち19、敗け1

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