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モルドバ共和国
Republic of Moldova
NIS

ヨーロッパ

ドニエストル川
モルドバ語/ルーマニア語:Nistruニストル)は、ポーランド国境に近いウクライナ西端・リヴィウ州のドロホブィチ付近から発し、ウクライナとモルドバ共和国の国境を形成しながら南ブジャク地方を貫流し、トランスニストリアでドニエストル潟を経てオデッサ州の黒海に注ぐ河川。総延長は、1,362 km。ドニエストル川下流では川の西岸は高地で起伏があるが、東岸は低地となっている。ドニエストル川から東がユーラシア・ステップと言える。

ヴォルガ川
ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。この地のテュルクはかつてイティル川と呼んでいた。


沿ドニエストル共和国
通称ドニエストル、沿ドニエストルは、東ヨーロッパ、モルドバの東部ドニエストル川東岸のウクライナ国境に接する地域(国家)。現在、国際的には国家として承認されていない。ドニエストル川西岸の都市ベンデルを除けば、もともとこの地域はモルダビア公国やベッサラビアに属していなかった。 18世紀、ロシア帝国の西の国境であったこの一帯を防衛する意味もありロシア人、ウクライナ人が移住した。 ただし南スラブ族は、6世紀の後半からこの地域にいた。 1924年にソ連がドニエストル河東岸にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の構成部分としてモルダヴィア自治共和国を創設した。 そのころはルーマニア人が大部分を占めており、ルーマニア語で教える学校も開校した。

モルダヴィア
Moldavia、は、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称である。ルーマニアの東北部、すなわちカルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指す。スラヴ人、ハンガリー人、タタール人など様々な民族の支配を経て、ルーマニア人がこの地域にモルダヴィア公国を成立したのは14世紀の中頃であった。一般には、ルーマニア人の公(ヴォエヴォド)ボグダンがハンガリー軍を破った1359年がモルダヴィア公国の建国年と考えられている。

モルダビア・ソビエト社会主義共和国
Moldavian Soviet Socialist Republicは、ソビエト連邦構成共和国の一つ。1940年に成立し、1991年、ソ連の崩壊に伴いモルドバ共和国と沿ドニエストル共和国として独立した。


<歴史>
■古代
モルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ軍撤退後は、ヨーロッパとアジアを繋ぐという戦略上重要な位置にあるためキエフのルーシ、モンゴル系などの様々な侵略を受けた。

■16世紀
モルダビアはオスマン帝国の属国になったが、他のバルカン諸国と違って部分的な支配だった。

■1812年
ブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアに併合される。第一次世界大戦終了後の1918年、ベッサラビアは独立宣言して、同年ルーマニアの一部になる。

■ソビエト連邦は1940年6月
ベッサラビアを占領、モルダビア・ソビエト社会主義共和国が建国されソ連の一部となる。これは一部戦略的に重要な黒海沿岸などをウクライナ領としたもので、トランスニストリアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。

■1991年8月ソビエト崩壊後
モルドバとして独立を宣言し、1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に加盟。なお、ソ連時代のモルダビア・ソビエト社会主義共和国の国旗と国章は、スラブ系住民が多いことから分離独立を宣言した沿ドニエストルがそのまま継承し、独立以降のモルドバの国旗はルーマニアとよく似たものに変更した。

■2001年
与党の共産党が党首のウラディミール・ボロニンを第3代大統領に指名、2005年に再選された。

■2009年
自由党のミハイ・ギンプ国会議長兼大統領代行は、たとえ民主派に政権が交代しても、ルーマニアとの再統合やCISの脱退、あるいはNATOに加わる考えのいずれもないと明言した。モルドバは軍事的に中立国のままEU加盟を目指している。


モルドバ人
Moldoveniは、モルダヴィア地方に住むラテン系の民族集団であり、ルーマニア人の一部をなす。現在のルーマニアやモルドバ共和国、ウクライナ領にまたがるモルダヴィア地方に伝統的に居住してきた。この地方では19世紀から20世紀にかけて国境線が激しく変動してきた。第二次世界大戦後にソビエト連邦の領土とされたモルダヴィア地方の北東部(現在のモルドバ共和国およびウクライナ領)では彼らはルーマニア人から切り離され、その言語もルーマニア語ではなく「モルドバ語」とされた。

ダキア人
ダキア人は紀元前1000年頃から、ダキア地方(現在のルーマニア)に住んでいたトラキア系の民族のこと。現在のルーマニアでは、このダキア人とローマ人の混血した人々がルーマニア人の祖先であるとされている。

キンメリア人
Cimmerians, Kimmerians, は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。ギリシア語ではキンメリオイと呼ばれる。そのため、彼らの住む地域(南ウクライナ)はキンメリアと呼ばれた。キンメリア人はその居住地である南ウクライナを追われても、相当長く黒海沿岸を占拠していた。ただ彼らがどの方面から現れ、どの民族系統に属するのかについて確証がない。イラン人系統説とその他のインド・ヨーロッパ語族(特にトラキア人)説の2つが有力である。アルチュール・ランボー「地獄の季節:おれの健康はおびやかされた。恐怖がおとずれた。何日もつづく眠りに落ちた。眠りから覚めても、最も悲しい夢を見つづけた。おれには死の時が熟していた。危険な道を通って、おれの衰弱がこの世と、影と竜巻の祖国、キンメリアの境へと、おれを連れていった。― 「錯乱II」より」

タタール人
おもにロシア・CIS諸国(旧ソ連)に居住するテュルク系民族。タタールという名は、もともとキプチャク・ハン国支配期のロシア人によって東方・南方の草原地帯に住むモンゴル帝国のモンゴル系・テュルク系の人々を漠然と指す民族名称であったのが、ロシア帝国の拡大とともにロシア支配下の旧キプチャク・ハン国系のテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の人々を指す語に転じ、やがて自称としても用いられるようになったものである。

スキタイ
Scythae, Skythai,は紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナ南部を中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その土地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称で「スキュティア地方の人々」の意味であるが、国家的な意味では後に述べる王族スキタイを指した。

トラキア人
古代の東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族。インド・ヨーロッパ語族に属するトラキア語を話した。古代ギリシアやローマ帝国の文献に現れ、当時のヨーロッパでは有数の人口と勢力を誇ったといわれる。考古学的には多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡で知られる。有史以前については明確ではないが、ブルガリアで紀元前3千年頃の墓などが見つかっており、これが原トラキア人のものと見られる。彼らは新石器時代のヨーロッパ先住民族と青銅器時代初期の原インド・ヨーロッパ民族が融合した(あるいは後者が前者を征服したとの考えもある)民族と考えられる。


■民族
モルドバ人(ルーマニア人)(約78.2%)、ウクライナ人(8.4%)、ロシア人(5.8%)、ガガウズ人(4.4%)、ブルガリア人(1.9%)の順に多い。ほかにドイツ植民者などもいた。政府の統計では少なく見積もられているが実際はロマ人もかなり含まれる。

■言語
モルドバ語(公用語)76.51%、ロシア語11.2%、ウクライナ語5.51%、ガガウズ語4.07%モルドバ語は比較的近年になってから政治的意図によりルーマニア語から区別されたものであり、多少発音や表現に差異があるが、相互理解に不自由はほとんどない。(詳しくはモルドバ語に記載)。ロシア語は沿ドニエストル共和国では公用語になっているものの、モルドバでは公用語になっていない。しかし、ビジネスやメディアでは広く使われ、ほぼ全国民に通用する。


■宗教
正教会が主であり、主にルーマニア正教会と、ロシア正教会系のモルドバ正教会の2者が並存している。1992年、ロシア正教会のキシナウ府主教区が自治権を得て、自治教会としてのモルドバ正教会が成立した。モルドバ正教会は、ルーマニア正教会のベッサラビア府主教区と教区が重複しており、両者の関係は良好ではない。古儀式派の信徒も居住している。

ルーマニア正教会
Romanian Orthodox Churchは正教会に属する独立教会のひとつ。かつてはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、19世紀末に独立教会となった。ルーマニアに住むルーマニア人の大多数を信者とする(2002年の統計によれば約2千万人)。現在、正教会において、信徒数第2位を誇る(1位はロシア正教会)。


ガガウズ人
(Gagauz)は、主にモルドバ共和国に居住する民族。モルドバのガガウズ人口は17万人ほどでモルドバ総人口の約4%を占める。モルドバの他、ブルガリア、ウクライナ、ロシア、ルーマニア、トルコなどにも居住し、総人口は30万人ほどとされる。

サルミゼゲトゥサ
(ラテン語: Sarmizegetusa)とは、古代ダキア人による軍事・宗教・政治上の最も重要な古代都市である。1200メートルの高地に建設され、狭隘なオラシュチエ山脈の立地を生かした6箇所の要塞群の一つでもあり(なお、サルミゼゲトゥサ以外はブリダル、ピアトラ・ロシエ、コステシュティ、カプルナ、バニツァ)、戦術的な防衛システムが設置されていた。ムルス・ダキクスと呼ばれる石によって形作られた四角形の要塞は約30,000平方メートルの領域の中に5つの台地が構築され、サルミゼゲトゥサにはダキア人の聖所となる有名な「Circular Calendar Sanctuary」も設置されていた。


ムルス・ダキクス
(ラテン語 : Murus Dacicus, 「ダキア人の城壁」)は、ローマ帝国征服以前にダキア王国で発達した城壁や要塞の構築理論である。それは、従来のダキア人の伝統的建築理論と、ギリシャ・ローマ建築や石工術から輸入された理論を混成させたものである。それは、それ以前にも、その時代にも、後代にも幾分似通った建築技術はあるものの、ムルス・ダキクスを独特のものとならしめている要素はある。ムルス・ダキクスは直方体に切り分けられた石のブロックを組み上げた2つの外壁から成っている。それらはモルタルを用いていない切石積みの好例であるが、ブロックの規格は平均的なものよりも大きい。これは技術的要請によるものである。


モルドバ共和国
1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。第一次世界大戦終結時にはルーマニア王国と合併した。1991年、モルダビア・ソビエト社会主義共和国はソビエト連邦から独立を宣言し、モルドバ共和国となった。


アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル
1875年2月26日 キシナウ - 1961年11月26日 モスクワ)はベッサラビア出身のロシアのピアニスト。ユダヤ系。ヴラディーミル・ソフロニツキーがスクリャービンの後継者と呼ばれ、軽やかなタッチと自由奔放なリズム感覚、幽玄な音色を特色としているのに対し、ゴリデンヴェイゼルは硬質なタッチとイン・テンポによる安定したリズム感とやや遅めのテンポ設定、旋律を纏綿と歌い上げる傾向においてラフマニノフの演奏様式に近い。

I・A・L・ダイアモンド
1920年6月27日 - 1988年4月21日は、1940年代から1980年代にかけて活躍したアメリカ合衆国のコメディ脚本家。ルーマニアはヤシ県ベッサラビアのUngheni(現モルドバ)にて生まれた。ハリウッドでは "Iz"と知られ、イニシャルは "Interscholastic Algebra League"とのひっかけとしてもしられている。9歳のころ、彼は家族に連れられてアメリカに移り、ブルックリン区のクラウンハイツに住んだ。それから彼は男子高で数学の才能を開花させ、1936年・37年に開催された州の数学オリンピックでは金メダルをいくつか獲得した。1951年から55年まで20世紀フォックスで働いていたが、独立したいと考え、退社。1957年の映画『昼下りの情事』がきっかけで、ビリー・ワイルダーと共作を開始する。

イェジ・ネイマン
1894年4月16日 ベンデリ Bendery(現モルドヴァ) - 1981年8月5日 カリフォルニア州オークランド)は数理統計学者。エゴン・ピアソンとともに現代の推計統計学の中心的理論を確立した。父はポーランド系(元来ユダヤ系だがカトリック信者)の法律家で、ロシア帝国内各地で仕事をしていた。イェジは次男として生まれ、1912年ハリコフ大学に入学、セルゲイ・ベルンシュテインに数学を学んだ。在学中にカール・ピアソンの「科学の文法」を読み強い影響を受けた。

ミハイル・ラリオーノフ
Mikhail Fyodorovich Larionov、1881年6月3日 − 1964年5月10日)はロシア・アヴァンギャルドの画家。オデッサ近郊のティラスポリ出身。1898年にモスクワ美術・彫刻・建築学校にてイサーク・レヴィタンとヴァレンティン・セーロフに師事。過激な意見のために3たびにわたって停学の憂き目を見るが、1900年にナターリヤ・ゴンチャローワと出逢い、生涯にわたる関係を築く。

アントン・ルビンシテイン
Anton Grigoryevich Rubinstein, 1829年11月28日 - 1894年11月20日)はロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者である。現在のモルドバ共和国に属するポドリスク地方ヴィフヴァチネツ, 現ルブニツァ )に生まれ、ペテルブルク近郊のペテルゴフに没した。姓は日本ではドイツ風に“ルービンシュタイン”と表記されることも多い。ロシア人ピアニストとしてはじめて世界的名声を博し、ロシア・ピアノ流派の祖となった。また、1862年にロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設し、1859年にはロシア音楽教会を創設した。それまでオペラ中心であったロシアの音楽活動に交響曲や管弦楽などを持ち込ませるなど、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために計り知れぬ貢献をした。

ルイス・マイルストン
Lewis Milestone, 1895年9月30日 - 1980年9月25日は、アメリカ合衆国の映画監督。ベッサラビア(現モルドバ共和国)のキシナウ生まれ。ベルギーのヘント大学に学び、1913年ロシアが第一次世界大戦に参戦したため、兵役逃れでアメリカ合衆国に帰化するものの、米国も参戦を始めたため、フランス戦線ですぐ兵役につき、終戦まで新兵のための教育映画の製作に関わった。その経験を生かして終戦後の1918年にハリウッド入りする。編集者、脚本家、助監督などを経て、1925年『裏表五人組』で監督デビュー。第1回アカデミー賞では『美人国二人行脚』(1927年)で喜劇監督賞に輝いた(この賞は第1回のみ存在)。

O-Zone
モルドバ共和国出身の男性3人組によるルーマニアの音楽グループである。1999年、Dan Balanとその友人Petru Jelihovskiの2名で結成。モルドバ国内で、アルバム『Dar, Unde Esti』からタイトル曲の他ファーストシングルの『Timpul Trece fara Noi』、『Fiesta de la Noche』『Crede-ma』など7曲のメガヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。しかし、作詞作曲を担当し音楽を真剣に考えるDanはルーマニアでの活動を希望、あくまで音楽を趣味と考えるPetruとの対立が表面化し、二人は袂を分かつがその後も友人関係は続いている。

ガリー・ベルティーニ
Gary Bertini, 1927年5月1日 - 2005年3月17日)はイスラエルの指揮者。ベルティーニの故郷は旧ソ連に属していたモルドバのキシニョフ近郊のシュテットル・ブリチェヴォ (Bricheva) だが、幼い頃パレスチナに移住、テルアビブでヴァイオリンを学び始め、その後ヨーロッパに渡り、ミラノのヴェルディ音楽院、パリ音楽院、エコールノルマル音楽院、ソルボンヌ大学に在籍、ナディア・ブーランジェやオリヴィエ・メシアン、アルチュール・オネゲルらに師事、作曲や指揮を学んだ。

ペトル・ルチンスキー
(Petru Chiril Lucinschi (Lucinski),1940年1月27日 - )はモルドバの政治家で、第2代大統領。ベッサラビア人。1991年〜1992年、ロシア科学アカデミー社会・政治研究所の先任科学職員、社会科学発展財団総裁代行として働く。1992年〜1993年、駐露非常全権大使。1993年2月4日、第12期国会議長、1994年3月29日、第13期国会議長に選出される。

アヴィグドール・リーバーマン
Avigdor Lieberman、 は、1958年6月5日・モルドバ出身のイスラエルの政治家。ソビエト連邦・モルダビア・ソビエト社会主義共和国(現モルドヴァ)のキシニョフに生まれる。若い頃はキシニョフのナイトクラブで用心棒をしていた。1978年、20歳の時にイスラエルに移住し、ヘブライ大学で政治学、国際関係学を学び、卒業する[1]。青年時にはラビ・メイル・カハネに傾倒していた。

ミハイル・ゲルシェンゾーン
1869年7月13日−1925年2月19日、ロシアの文芸批評家、評伝作家。キシニョーフの商人の子として生まれた。キシニョーフのヘデルで学び、1887年にギムナジウムを最優秀の成績で卒業し、1889年までベルリン工科大学で歴史と哲学の講義を聴講した。モスクワ大学に入学し、歴史と言語学、特に古代ギリシア史の研究に専念した。

アンナ・レスコ
Anna Lesko1979年1月10日キシナウ - は、ルーマニアのポップス歌手である。生まれはソ連構成共和国のひとつであったモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国(現在のモルドヴァ共和国)の首都キシナウ(キシニョフ)で、両親の出自によりウクライナ人・ロシア人・モルドヴァ人系である。姓はウクライナ系である。17歳までモルドヴァに住まい、その後ルーマニアへ移って本格的なアーティスト活動を開始した。

モルドバ Moldova
東ヨーロッパに位置する共和制国家。内陸国であり、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つであった。現在、ドニエストル川東岸地域が沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にある。

モルドバ人にとってルーマニア語は誇りであるとされ、その響きの美しさが他言語を話す者をも魅了すると自負することが多い。また、モルドバの有名な音楽グループであるO-Zoneも「Nu Ma Las De Limba Noastra」(僕らの言葉は渡さない)という歌を歌っている。

キシナウ
モルドバ共和国の首都。人口は647,513人(2004年)。キシネウとも。 地名は、ルーマニア語のchisla「泉」とnoua「新しい」、に由来する。この泉は今もプーシキン通りにあり、ここから町が形成された。1436年、僧院の集落として創建される。モルダヴィア公国の一都市であったが、16世紀にオスマン帝国の支配下に入る。18世紀には、帝政ロシアとオスマン帝国の係争地となり、1739年と1788年にオスマン軍によって焼き払われた。第二次世界大戦後、町は急速な復興を遂げた。キシナウにはソ連各地からの移住が奨励され、1944年に25,000人だった人口は、1950年には134,000人となった。


キシナウ国際空港
(モルドバ語:Aeroportul International Chisinau)は、モルドバ共和国の首都、キシナウにある国際空港。1970年代に建設されたターミナルビルは年間120万人の乗降客に対応している。


外務省:モルドバ共和国
在ウクライナ日本国大使館兼轄


バルツィ
モルドバで三番目に大きな都市であり、モルドバ北部の主要都市である。ロシア帝国時代(1812年-1917年)とソビエト連邦時代(1940年-1990年)にはロシア語に準じて Beltsy とも表記された。首都のキシナウから北へ135kmに位置する。ドニエストル川へ流れこむラウト川が流れ、周りは丘陵地に囲まれている。中世には森に覆われていたが、そのほとんどが切り開らかれている。

ベンデル
ドニエストル川西岸の都市である。国際的にはモルドバ共和国の一部とみなされているが、事実上同国から独立している沿ドニエストル共和国(トランスニストリア共和国)の実効支配下にある。沿ドニエストル共和国の支配地域も含めたモルドバの領土の中では、4番目に人口が多く、2004年の時点で9万7027人の人口を有する。

GUAM
とは、グルジア・ウクライナ・アゼルバイジャン・モルドバの4カ国による国家連合である。GUAMという名称は、加盟4カ国の頭文字を集めたもの。事務局をウクライナのキエフに置く。なお、1999年から2005年まではウズベキスタンも加盟していたため、GUUAMという名称であった。


ティラスポリ
モルドバ共和国の東部に位置する都市。人口は16万2000人(2005年)で、首都のキシナウに次ぐ第二の都市である。ドニエストル川東岸の河畔に位置し、モルドバ共和国から事実上分離した地域で独立を主張している沿ドニエストル共和国の首都でもある。市内にはソ連時代の記念碑や銅像がそのまま残っている。政府ビルの前にはレーニン像が建つほか、「大祖国戦争」でのソ連の対独勝利を記念したT-34戦車が広場の記念碑として飾られている。


1.面積:3万3,840平方キロメートル(九州よりやや小さい)
2.人口:約360万人(2009年世銀、沿ドニエストル地域を除く)
3.首都:キシニョフ(モルドバ語読みでキシナウ)
4.民族:モルドバ(ルーマニア系)人(78.4%)、ウクライナ人(8.4%)、ロシア人(5.8%)、ガガウス(トルコ系)人(4.4%)等
5.言語:公用語はロマンス語系のモルドバ語(ルーマニア語とほぼ同じ)。ロシア語も一般に通用。
6.宗教:キリスト教(正教)が優勢

1349年 ボグダニア公国建国(後のモルダヴィア公国)
1457年 シュテファン大公即位(〜1504年)、モルダヴィア公国の最盛期
1512年 オスマン・トルコの宗主権下に
1792年 ヤシ条約(現在の沿ドニエストル地域がトルコからロシアに割譲)
1806年 露土戦争(1812年、ブカレスト条約によりベッサラビアがロシア領に編入)
1859年 モルダヴィア公国とワラキア公国の合併
1917年 ロシア革命、人民投票によりソヴィエトとの併合を決議
1918年 ルーマニア、ベッサラビア(現モルドバ共和国)を占領
1920年 パリ条約でルーマニアの領有を承認
1924年 ソ連、ドニエストル河東岸にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の構成部分として「モルダヴィア自治共和国」を創設
1940年 ソ連、独ソ不可侵条約秘密議定書に基づくドイツとの合意に従い、ベッサラビアを占領
1940年 ソ連、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国を創設
1947年 連合国とルーマニアの平和条約でベッサラビアのソ連への委譲を確認
1989年 モルダヴィア人民戦線の結成
1990年6月6日 共和国を「モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国」から「モルドバ・ソヴィエト社会主義共和国」に変更
1990年6月23日 共和国主催宣言
1991年5月23日 国名をモルドバ共和国に変更
1991年12月21日 独立国家共同体創設協定議定書に署名
1992年 沿ドニエストル紛争
1993年 通貨レイ導入
1994年 モルドバ共和国憲法採択

■主要産業(産業別構造比)鉱工業(17.1%)、農林水産業(10.6%)、建設業(5.9%)、サービス業(66.4%)(2008年:CIS統計委員会)
■主要貿易品目(2009年)(1)輸出 繊維、食品、植物製品(2)輸入 化学品、自動車、機械類


モルドバ・レウ
Leuは沿ドニエストル共和国を除くモルドバで利用される通貨単位。ISO 4217コードはMDL。ルーマニア・レウと同様に補助通貨はバン(モルドバ語: ban, 複数形はバニ: bani)で、1レウは100バニになる。単位の名前はルーマニア語の「ライオン」に由来する。


■政治
国家元首は、任期4年の大統領である。議会は、一院制で定数は101議席。民族的、歴史的にもルーマニアと極めて近い存在であり(両国の国旗が似ているのもそのため)、将来的にはルーマニアとの合併が計画されている。ただ、国内にはソ連時代に移住してきたスラブ系住民が独立を主張する「沿ドニエストル共和国」を巡る争いがあり、事実上ロシアとの紛争状態にある。


モルドバ暴動
2009年4月7日に、旧ソ連諸国の中の一国であるモルドバで議会選の選挙結果に抗議する若者らによって起こされた暴動。この暴動でデモ隊の1人が死亡、約270人が負傷、200人が逮捕された。2009年4月5日、モルドバで議会選が行われ、開票の結果ウラディミール・ボロニン大統領率いる与党共産党が60議席を獲得、第一党となった。しかし、「選挙に不正があった」と抗議する野党支持者の若者らが暴徒化。「共産党は去れ!」をスローガンに掲げ、大統領府や議会を一時占拠する騒ぎとなった。


ヨーロッパ通常戦力条約
Treaty on Conventional Armed Forces in Europe)は、欧州各国が核兵器以外の通常戦力の削減について締結した条約。通称CFE条約。第二次世界大戦後初の通常戦力削減に関する軍縮条約である。署名は1990年11月、暫定発効を経て1992年11月に正式発効した。条約が提起され、締結について議論されたのが冷戦中であり、条約は冷戦の継続を前提として通常戦力の削減について定めている。

トランスニストリア戦争
沿ドニエストル共和国とモルドバ共和国の間で、1992年の5月2日から7月21日にかけて発生した武力衝突。1992年5月2日、モルドバは国際連合に加盟し国際的な承認を不動のものとすると、同日、大統領のスネグルは、ルーマニアの支援を受け、ドゥベサリなどドニエストル川の東岸の12kmに及ぶ3箇所で沿ドニエストル共和国側の民兵やコサック集団に対する軍事行動を開始する。

ガガウズ自治区
Gagauzia)とはヨーロッパはモルドバの南部にある地域である。 正教会に属するトルコ系のガガウズ人が住み、当初はモルドバからの独立を主張していたが、現在はモルドバ内のガガウズ・イェリ自治区として、独自の自治権をガガウス側が持つことで収拾。ガガウス語の使用などが認められているが、現地の警察権・租税権はモルドバ側が握っている。


ベッサラビア
1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。

バルバロッサ作戦
Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バーバロサ)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたナチス・ドイツによるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。また、今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされる場合もある。

ヤッシー=キシニョフ攻勢
関連する2つの主要都市(ヤッシー、キシニョフ)から名づけられた1944年8月20日から29日までルーマニア東部で行われたソビエト赤軍による枢軸軍への攻撃作戦のことである。ソビエト赤軍の第2、第3ウクライナ方面軍はドイツ国防軍とルーマニア軍で構成された南ウクライナ軍集団と対峙していたが、モルダビア・ソビエト社会主義共和国を取り戻し、この地域の枢軸軍を撃破してルーマニア及びバルカン半島への道を開こうとした。

大祖国戦争
ロシアをはじめとする旧ソビエト連邦諸国のいくつかで使われる用語。第二次世界大戦のうち、ソビエト連邦がナチス・ドイツおよびその同盟国と戦った1941年6月22日から1945年5月9日までの戦いを指す。旧ソ連諸国の外では、この用語は一般的に使われることはなく、東部戦線(Eastern Front)、独ソ戦などの用語が使われている。


シュテットル
shtetl,とは、イディッシュ語で小都市を意味し、ドイツ語 Städtchen に相当する。シュテートル、シュテーテレともいう。東欧の小規模のユダヤ人コミュニティーや、その総体を指す。 19世紀のアシュケナジム社会の中心をなしたのがこのシュテットルであり、イディッシュ語の文化が保持された。キリスト教徒の都市や村の中に作られたものが主だが、中にはユダヤ人(民族として見た場合)が他民族の人口を上回る地域もあった。

ユダヤ人
ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(民族集団)という2つの捉え方がある。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は差別する側からもされる側からも後者の捉え方が出現した。明治時代に作られた日本語である「ユダヤ人」という呼称が現在はほぼ一貫して使用されている。


デケバルス
(Decebalus, ? - 106年)はダキア族の王(在位87年-106年)であり、トラヤヌスとのダキア戦争で相対した人物である。ダキア人は紀元85年からローマ属州モエシアへと度々侵入、デュラス王に代わってデケバルスがダキア族の王となった87年にはドミティアヌス帝が派兵したローマ軍(2軍団)を全滅させ、ローマ軍の総指揮を取っていたコルネリウス・フスクスを討ち取った。106年よりローマ軍はダキア族の首都サルミゼゲトゥサへ攻め込み、長期に渡る包囲戦の末に陥落させ、デケバルスは捕虜となるのを拒み自ら命を絶った(ダキア戦争)。

ウラジーミル・ヴォローニン
(Vladimir Nicolae Voronin, 日本語では慣例として「ウラジミール・ボローニン」と表記 1941年5月25日 - )はモルドバの政治家。第3代大統領(在任:2001年 - 2009年)。1941年5月25日、当時ソビエト連邦の構成国だったモルダビア共和国のキシニョフ県(現在は沿ドニエストルのデュバサリ地区コルジョヴァ村)に生まれる。ボロニンはスラブ風のフルネームであるが、実際の民族的起源は全くのルーマニア系である。

ミハイ・ギンプ
(ルーマニア語:Mihai Ghimpu、1951年11月9日 - )はモルドバの政治家であり、2009年8月28日からモルドバ議会の議長を務める。ウラジーミル・ヴォローニンが2009年9月11日に大統領を辞職したことから、大統領代行に就任した。ミハイ・ギンプは1951年11月19日にモルダビア・ソビエト社会主義共和国・キシナウの村・コロニツァ(Coloniţ瘁)に生まれた。モルドバ国立大学(Moldova State University)にて法学を学び、共和国の司法機関に勤める。

シュテファン3世
1433年頃 - 1504年7月2日は15世紀のモルドヴァ公国の公。シュテファン大公と呼ばれる。正教会で聖人。トランシルバニアのフニャディ・ヤーノシュやワラキアのヴラド・ツェペシュと並んで反オスマン帝国闘争を展開した。1475年にはヴァルスイの戦いに勝利し、ローマ教皇から「キリストの戦士」とたたえられた。

エフゲニー・フョードロフ
Yevgeny Konstantinovich Fyodorov、1910年4月10日[1] - 1981年12月30日はロシアの地球物理学者、科学行政家。1910年にモルドバベンデルで出生。1932年にレニングラード大学で学位を取得し、卒業。1937年から翌年まで Soviet and Russian manned drifting ice stations に参加し、イヴァン・パーパニン (Ivan Papanin) 隊に同行した。帰国後の1938年3月22日にソ連邦英雄を授与された。

アレクサンドル・スヴォーロフ
Alexandr Vasiljevich Suvorov, 1729年11月24日(ユリウス暦11月13日) - 1800年5月18日(ユリウス暦5月6日))は、ロシア帝国の軍人。ルムニク・スヴォーロフ伯。イタリア大公。ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥。軍事史上でも稀な不敗の指揮官として知られる。常勝不敗の指揮官としてその名声は確立している。スヴォーロフの戦略、戦術の基本は機動と速攻、奇襲にあった。ポーランド侵攻や露土戦争で見られるように、しばしば少数精鋭の部隊を率いて速攻を仕掛け、成功を収めている。スヴォーロフは著書の中で「戦争において金銭は尊い。人命はより尊い。それよりもなお時間は尊い」と述べている。

アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル
1875年2月26日 キシナウ - 1961年11月26日 モスクワ)はベッサラビア出身のロシアのピアニスト。ユダヤ系。ヴラディーミル・ソフロニツキーがスクリャービンの後継者と呼ばれ、軽やかなタッチと自由奔放なリズム感覚、幽玄な音色を特色としているのに対し、ゴリデンヴェイゼルは硬質なタッチとイン・テンポによる安定したリズム感とやや遅めのテンポ設定、旋律を纏綿と歌い上げる傾向においてラフマニノフの演奏様式に近い。スクリャービンの難曲《幻想曲ロ短調》作品28の初演者である。

ヴィカ・ジグリーナ
(Vika Jigulina、1983年2月18日 - )は、モルダビア・ソビエト社会主義共和国生まれのルーマニアの歌手、ミュージシャンである。2009年夏、エドワード・マヤ 客演. ヴィカ・ジグリーナで、ファーストシングルである「Stereo Love」において、デビューした。 ファーストシングルである「Stereo Love」は、国際的に大ヒットを記録した。イギリスの全英シングルチャートにおいては、第4位を記録した。2011年には、アメリカ合衆国の全米シングルチャートにおいて16位を記録した。彼女は、2011年5月に、ビルボードからビルボード・ミュージック・アワードを見事受賞した。

イーゴリ・スミルノフ
(Igor Nicolaevici Smirnov 1941年10月3日 - )は、モルドバの政治家。国際的に未承認の沿ドニエストル共和国の大統領。手工業学校卒業後、ズラトウースト冶金工場で働く。1959年から1987年までノーヴァヤ・カホフカ市の電気機械製造工場で働く。沿ドニエストルの都市ティラスポリには、1987年から在住。1987年から1990年までティラスポリの「エレクトロマシュ」の工場長を務める。

ニカ・シロコラッド
(Nika Shirocorad, 1979年 - ) は、フランス在住のロシア人のピアニスト、画家。サンクトペテルブルク生まれ。モルドヴァ人の両親を画家に持つが、ニカ本人は作曲とピアノに関心を示した。旧ロシア語圏の国際コンクールで数々の入賞を果たす。現在はフランスへ留学中であるが、数年ほど前までクリストファー・フォックス、ジェイムズ・ディロン、マイケル・フィニスィーなどのイギリスの現代作曲家を中心に勉強しており、評価が高まりつつある。

ミルチャ・スネグル
Mircea Ion Snegur、1940年1月17日 - は、モルドバ共和国の初代大統領。1990年、対抗馬のいない大統領選挙において、モルドバ・ソビエト社会主義共和国(1991年5月23日からモルドバ共和国)大統領に選出され、9月3日に就任した。元共産党員であるスネグルはモルドバの独立を保証し、積極的に西側からの承認を求めた。モルドバは1991年8月にソヴィエト連邦からの独立を宣言。しかしスネグルがルーマニアとの即時再統一に反対した事が1991年10月のモルダビア人民戦線との決裂に発展。

ニコラ・ブルバキ
(Nicolas Bourbaki)は架空の数学者であり、フランスの若手の数学者集団の筆名である。この事は有名ではあったが、数学者集団は秘密結社として活動し、ブルバキを一個人として活動させ続けた。1934年に解析学の教科書を編纂するプロジェクトが始まり、1935年にブルバキという架空人物が生み出され、のちに「1886年生、モルダヴィア出身」というプロフィールが与えられた。

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