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アルメニア共和国
Republic of Armenia
NIS

ヨーロッパ

■地理
アルメニア共和国は、黒海の南部、カスピ海の西部に位置するアルメニア高地の最東端にあり、面積はこの高地全体の一割に過ぎない。北側に小コーカサス山脈と西側にはアルメニア高地が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1000m〜3000メートルであり、3000m級の山岳も珍しくない。最高地点はアラガツ山頂で標高4090メートル、最低地点は北部のデペート川下流にあるベルタヴァン村近くの渓谷の標高380メートルである。

国内最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地で肥沃。名前の通りアララト山(「ノアの方舟」で有名、高さ5165メートル)を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラクス川(キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800m以上。一万年前から人が居住していたことが考古学的発掘で知られている。


黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。バルカン半島、アナトリア半島、カフカースと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。

カスピ海
中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。現代のペルシア語では一般に「ハザル海」と呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザル王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」とも呼ばれる)。

コーカサス山脈
黒海からカスピ海まで東西に走る山脈。ロシア語からカフカース山脈ともよばれる。ギリシャ神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメテウスを鎖で繋いだ場所でもある。ウラル山脈、カスピ海とともにアジアとヨーロッパの境をなす。山脈の北は北コーカサス地方とよばれロシア連邦領、南は南コーカサス地方とよばれグルジアとアゼルバイジャンの領土である。

セヴァン湖
アルメニア・ゲガルクニク地方にある湖。アルメニア最大の湖で、大規模な湖としては世界で最も高地にあるものの一つ(海抜約1900m)。一部の水のみ北西のフラズダン川へ流出し、これはクラ川に流入してカスピ海へ注ぐが、乾燥地帯にあるため90%の水は直接蒸発している。

アララト山
トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山(成層火山)。アルメニアとの国境から32km、イランとの国境から16kmである。アララト山は古くからアルメニア人の多く居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。

<歴史>
■紀元前6世紀頃
国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。

■紀元301年
世界で初めてキリスト教を国教とした。その後サーサーン朝ペルシアの支配下に入り更にアラブの侵攻を受けるが、9世紀半ばにはバグラト朝が興り、独立を回復。しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝やモンゴル・ティムール朝などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった。

■19世紀
オスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され(アルメニア人虐殺)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。

■1988年
1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突が起り、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ紛争)に発展した。これを契機としてアルメニアは独立を宣言したがソ連軍の侵攻を受けた。

■1991年
ソ連保守派のクーデターが失敗した為、同年9月にアルメニア共和国は独立を遂げた。しかしナゴルノ・カラバフ自治州を巡るアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いている。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。同年12月31日付で、ソ連邦は解体・消滅した。アルメニアは、独立国家となった。


アルメニア王国
紀元前190年から紀元前66年まで独立していた王国であり、428年までローマとペルシア帝国に従属していた国家だった。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした。

ザカフカース民主主義連邦共和国
1918年4月から5月にかけてカフカース地域(アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア)に存在した連邦国家。ロシア革命にともない、アゼルバイジャンの平等党(ムサワート)、アルメニアのダシナクツチュン(民族主義者)、グルジアのメンシェヴィキを中心としてロシアからの分離、独立を果たしたが、2ヶ月も経たないうちに3カ国に分裂した。


アルメニア人虐殺問題
19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。アルメニア人共同体の影響力の大きいヨーロッパ諸国では、特に第一次世界大戦に起きたものをオスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺とみなす傾向が強い。そして、その説を支持する人々は、この一連の事件を「アルメニア人ジェノサイド」と呼び、21世紀に至る現代でも、「歴史問題」として事あるごとに持ち出し、オスマン帝国の主な後継国家であるトルコ共和国を非難している。一方、トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。19世紀末と20世紀初頭の二度にわたり、オスマン帝国領内でアルメニア人に対する大規模な虐殺が起きた。このうち第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地 (いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部 (いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これにともなって数多くのアルメニア人が犠牲になった。アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えれている。


ディアスポラ
Diaspora, diaspora、とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。


アルメニア人
アルメニアの主要民族。インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用している。アルメニア人の7割はアルメニア共和国外在住である。古代から国家を建設し、世界で初めてキリスト教を国家宗教とした。また中世の東ローマ帝国ではアルメニア系の王朝が建てられたことがある。なお、アルメニア人は単性論のアルメニア教会の信者がほとんどである。

アゼルバイジャン人
Az?rbaycanlı東ar)もしくはアゼリー人とは、アゼルバイジャン共和国とイラン北西部を中心として、その周辺地域であるグルジアやアルメニア、イラク北部、トルコ、ロシア連邦内のダゲスタン共和国などに居住しているテュルク系民族。トルクメン人やトルコ人の兄弟民族であり、アゼルバイジャン・トルコ人と呼ばれることもある。

クルド人
Kurds)は、中東のクルディスタンに住む山岳民族。トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布し、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2500万〜3000万人といわれている。クルド人の居住地は中世から近世にかけて広大な版図を保ったオスマン帝国の領内にあった。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断されたが、長く統一した民族主義的な勢力が興らず、これらの国の中で少数民族として生活している。


ヤズィーディー
Yazidi、ヤジーディー、ヤズィード、ヤジディ)は、中東のイラク北部などに住むクルド人の間で信じられている民族宗教。イスラーム化する以前の諸宗教の系譜を引く、クルド人の宗教と言われる。イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教の影響を受けており、天使マラク・ターウースを信じる。多数派のムスリム(イスラム教徒)から邪教扱いされている。


ヘムシン人
トルコ東部に居住する少数民族。トルコ東部の黒海沿岸付近に居住し、アルメニア語の一方言を話す人々で、トルコ国内に居住する数多く(一説には70近く)の少数民族のうちの一つである。


アルメニア教会
Armenian Apostolic Churchはアルメニア、ならびに世界各地にあるアルメニア人コミュニティで信仰されているキリスト教・非カルケドン派の教会。約500万人の信者を擁する。使徒教会の名は、伝承に十二使徒がアルメニアにキリスト教を伝えたとあることに由来する。アルメニア正教会(Armenian Orthodox Church)とも呼ばれる。


ギルガメシュ
(Gilgamesh、在位:紀元前2600年頃?)は、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王。数多くの神話や叙事詩に登場するこの王は実在の人物であったと考えられている。シュメール王名表によれば彼はリラの息子であり127年間在位した。ただし、後世の神話ではルガルバンダの息子とされている。ギルガメシュ自身に関する考古学的史料は現在の所発見されていないが、伝説の中でギルガメシュとともに登場するエンメバラゲシの実在が確認されていることからギルガメシュも実在したとする説が有力である。


<世界遺産>

ハフパット修道院
アルメニアは、世界最古のキリスト教を国教とした国家として知られる。ハフパット修道院が建設されたのは、再独立が達成された以降である970年代である。991年には完成したが、度重なる地震が修道院を破壊したのも事実であり、1105年には、セルジューク朝の攻撃を受けた。
サナイン修道院
サナイン修道院は、アルメニア・ロリ地方のサナイン村に建設された。ハフパット修道院とほぼ同時期に建設が開始されたのも、アルメニアがアラブ人から解放され、独自の宗教文化を再興するのが目的であった。
ゲガルド修道院とアザト川上流域
ギガルド修道院は、301年に歴史上初めてキリスト教を国教と定めたアルメニアでも古い歴史を持つ修道院で、初期キリスト教時代にはすでに開設されていたと伝えられている。アイリヴァンク、すなわち洞窟修道院とも呼ばれ、院域のいくつかは岩盤を穿って造られた洞窟となっている。修道院の名称である「ギガルド」は槍を意味する言葉で、キリストの脇腹を突いた聖槍の一部がここで発見されたことにちなむ。
エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡
現在の教会群は、610年から670年頃にアルメニア建築が高度に洗練された頃に建設されたものを中核とする。この時期、アルメニア高地は、暗黒時代に突入した東ローマ帝国本土に代わり、ビザンティン建築を牽引するはたらきを担った。


アルメニア文字
アルメニア語の表記に用いられる文字である。38文字(加えて、合字が2つ)から成り、大文字と小文字がある。書記順序はラテン文字と同じく横書きで、左から右に向けて順次書いていく。アルメニアの歴史書によれば、アルメニア文字は聖人メスロプ・マシュトツ(Mesrop-Mashtots, 361年-440年)によって、404年(または406年)に創られた。1音1文字の原則や、左から右への書記方向(その頃の中東の文字はセム系の右から左へ書くのが主流)、そしてアルファベットの順序から、ギリシア文字を参考に創られたと推定される。

サーサーン朝
Sassanid、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。しばしばササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャとも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝かアケメネス朝を指すことが多い。

セルジューク朝
11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。

ウラルトゥ
紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。

第三次ミトリダテス戦争
ポントス王国とローマの間に紀元前75年から紀元前65年に起きた戦争で、3度にわたるミトリダテス戦争の最後のものである。この戦争ではミトリダテス6世が率いるポントスが先手を打って攻勢に出たが、ローマが逆転し、グナエウス・ポンペイウスの遠征軍がポントスを滅ぼした。ポンペイウスは余勢をかってアルメニア、シリア、ユダヤまでローマの勢力圏におさめた。


■教育
教育制度は、5、6歳までの幼稚園や保育園、6、7歳から中等教育(10、11年制。小学校にあたるのが1、2、3年生、中学校にあたるのは4、5、6、7、8年生、高等学校にあたるのが9、10年生、高校とは別に2、3年制の専門学校があり、2年で卒業して専門技術職に就くなり、3年で卒業して専門職あるいは大学に行く。)、その上は大学である。義務教育期間は中等教育の8年生までで、授業料無料で、全国に1439校ある。(2003年現在)。

■文化
古くからワインの製造が盛んで、特にブランデーは有名。アルメニア・コニャックと呼ばれる。アルメニア語は、インド・ヨーロッパ語族の仲間で、印欧祖語から派生したといわれている。


アルメニアの映画
1923年4月16日にアルメニア政府が Armenian State Committee on Cinema を設立したことから始まった。1924年3月、初の映画スタジオであるアルメンフィルム (英語: Armenfilm,がエレバンに設立された。1924年のドキュメンタリー映画 "Soviet Armenia" がアルメンフィルムの制作した初めての作品である。1925年に Hamo Beknazarian が監督した "Namus" はアルメニア初のサイレント映画である。


ジャン・ジャンセン
Jean Jansem,1920年 - はフランスで活躍するアルメニア人画家。 卓越したデッサン力により様々なコンクールで受賞を重ね、現在に至る。 日本では1993年4月24日、安曇野に世界で初めての彼の美術館「安曇野ジャンセン美術館」が開館した。 また、アルメニア大虐殺のシリーズを描いた後に画家としての功績が認められ、フランスのレジオンドヌール勲章と故国アルメニアの国家勲章を受章した。

アラム・ハチャトゥリアン
Aram Il'ich Khachaturian), 1903年5月24日(グレゴリオ暦6月6日) - 1978年5月1日)は、ソビエト連邦の作曲家・指揮者。1903年 - 製本工の息子として、グルジアに生まれ、カフカス地方で民族音楽に親しみながら育つ。姓は、ハチャトゥリャーン、ハチャトゥリャンなどとも表記される。ソ連人民芸術家。トビリシに生まれたアルメニア人で、甥に作曲家カレン・ハチャトゥリアンがいる。モスクワで音楽を学んだ。レーニン賞など多数の賞を受け、高い評価を受ける一方、自作の指揮者としても活躍。映画音楽も手がけ、チェコスロバキア国際映画祭個人賞も受賞した。作品の中でも、バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」から抜粋した演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中では「剣の舞」が、アンコールピース、オーケストラ入門曲、映像BGMなどとして知られる。

セルゲイ・パラジャーノフ
Sargis Hovsepi Parajanyan1924年1月9日 - 1990年7月20日は、ソ連グルジアのトビリシに生まれた映画監督、脚本家、画家、工芸家。アルメニア人。1973年にはアンデルセンの童話集のテレビ用の脚本に許可が下りたものの、ウクライナ人歴史家ヴァレンチン・モロツの裁判で告発への証言を拒否したためか、その後12月にモスクワから短い旅行の帰りに尋問を受けキエフにて検挙される。パラジャーノフの逮捕に対しソ連政府に対し映画同業者からは抗議運動や擁護が国内外からあったものの、1974年パラジャーノフは有罪になり不当な罪状で5年間の懲役判決を受け投獄される。しかし国際的な映画祭を通じてすでにその名声が高まっていたパラジャーノフを救うために、フェデリコ・フェリーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開。その成果もあって、1977年12月に釈放される。しかしその後もソ連当局からの危険人物扱いはやまず、1982年2月に家宅捜査を受けてトビリシで逮捕されるものの、無罪となって同年11月に釈放。しかし重ねて2回の投獄に合い過酷な労働を課せられ苦痛を味わう。

ビック・ダルチニアン
Vic Darchinyan, 男性、1976年1月7日 - は、オーストラリアのプロボクサー。アルメニア出身で現在はオーストラリアでプロボクサー活動をしている。元IBF世界フライ級王者。元WBA・WBC・IBF世界スーパーフライ級王者。元WBCスーパーフライ級名誉王者。2階級制覇王者。変則的な動きで相手を惑わし、大振りのパンチを的確に当てる突進力のあるボクシングスタイルから「レイジング・ブル(怒れる雄牛)」の異名と8割近いKO率を持つ。1976年にアルメニアで生まれ、8歳の頃からボクシングを始めた。ジュニアアマチュアボクシングで直ぐに実力を発揮し始め、48kg級で12歳から16歳までチャンピオンに君臨し続ける。

システム・オブ・ア・ダウン
System Of A Downは、1995年にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッドで結成されたハードコアバンド。バンド名は、ダロン・マラキアン(G)の書いた『VICTIMS OF A DOWN』という曲に由来する。 メンバー全員がロサンゼルスのアルメニア・コミュニティ出身であり、社会的・政治的メッセージの強い歌を歌うことで有名。

ドン・アスカリアン
Don Askarian,1949年 - はナゴルノ・カラバフ出身の映画監督・脚本家。1967年よりモスクワで歴史と芸術を学ぶ。1978年に西ドイツに移住し、30年以上の間ドイツで製作活動を行う。旧ソ連邦ナゴルノ・カラバフのステパナケルト市に生まれるが祖父母や両親はそれぞれ違う村の出身であった。少年時代は森など自然に親しんで過した。1967年モスクワ大学でマルクス主義とレーニン主義を学ぶ。歴史学の学位と歴史の教員免許を取得。その後大卒者のための監督コースをとり映画の勉強をしながら映画批評を書きはじめるものの、正式には映画学校で映画制作を学ではいない。

ウィリアム・サローヤン
William Saroyan、1908年8月31日 - 1981年5月18日はアメリカの小説家・劇作家。アメリカの庶民を明るく書いた。サロイヤンとも表記する。トルコ東部から1905年にアメリカへ移住したアルメニア人の末子として、カリフォルニア州のフレズノに生まれた。一歳半のとき父を喪い、4人の兄姉とオークランドの孤児院に入り、5年後、女工の母に引き取られた。学業半ばの12歳のときから、電報配達や新聞売り子などで稼いだ。

アンドレ・アガシ
Andre Agassi, 1970年4月29日 - は、アメリカ・ラスベガス出身の元男子プロテニス選手。フルネームは Andre Kirk Agassi (アンドレ・カーク・アガシ)という。父親はイランからの移民者で、アルメニア系の元ボクシング選手であり、母親はイングランド系の白人である。姉のリタは往年の名テニスプレーヤーパンチョ・ゴンザレスの最晩年の妻でもある。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち、プレイスタイルはグラウンドストローカー。“世界一のリターナー”と言われる強力なリターンを最大の武器にした。

セルジ・サルキシャン
1954年6月30日 - はアルメニア共和国の現職大統領。姓はサルグシャンとも表記される。2008年2月の選挙で、自身が議長(党首)を務める保守系のアルメニア共和党の支持を受けて当選し、2008年4月に大統領に就任した。

チグラン・サルキシャン
Tigran Sargsyan、1960年1月29日 - は、アルメニアの政治家。2008年4月9日から同国の首相を務めている。現大統領のセルジ・サルキシャンと同姓であるが、血縁関係はない。アルメニア・ソビエト社会主義共和国のキロヴァカン(現 アルメニアのヴァナゾル)に生まれた。1980年から83年にサンクトペテルブルク財政・経済学大学で、83年から87年に大学院でそれぞれ学び、博士号を取得。

ドラゴ
Gago "Drago" Arutyunyan、男性、1985年3月8日 - )は、アルメニア出身のキックボクサー。ショータイム所属。ドラゴが「悲劇の難民ファイター」と呼ばれる所以は、彼が幼少の頃にアゼルバイジャンとの民族紛争(ナゴルノ・カラバフ戦争)に巻き込まれたことによる。彼はこのような状況の中で実兄を亡くし、4歳の頃に父親と共にオランダへと移住した。弟がいる。

アーシル・ゴーキー
(Arshile Gorky, 1904年4月15日 - 1948年7月21日)は、20世紀のアルメニア出身のアメリカの画家。1904年、アルメニアに生まれる。オスマン帝国領のヴァンの近くに住んでいたが、1915年のアルメニア人虐殺の間に母親を失い、生き延びたゴーキーは、先にアメリカに渡っていた父親を頼って1920年にアメリカに移住した。彼の後年は災難が続いた。スタジオが火事で焼けたり、癌を患ったり、事故で首に怪我を負って利き腕が麻痺したり、妻が子供を連れて家を出たりという不幸が続き、1948年、44歳の若さで自殺した。

アンドラニク・マルカリャン
Andranik Markaryan、1951年6月12日 - 2007年3月25日)は、アルメニアの政治家で首相。エレバン出身。アルメニア共和党所属。1999年10月27日にワスゲン・サルキシャン首相が国会議事堂で暗殺され、アラム・サルキシャンが首相に就任する。その後2000年5月2日にサルキシャンが罷免されたため、10日後の5月12日よりマルカリャンが首相に就任した。2007年3月25日、心臓発作により55歳で死去。

ロベルト・コチャリャン
Robert Kocharian、1954年8月31日 - )はアルメニアの政治家で第2代大統領(1998年 - 2008年)。アゼルバイジャンのアルメニア人系自治州であるナゴルノ・カラバフ自治州の州都ステパナケルトの出身。同自治州が「ナゴルノ・カラバフ共和国」として独立宣言したのちの1992年「ナゴルノ・カラバフ共和国」の首相兼防衛委員に就任。

アルメニア Armenia
西アジア、南カフカスに近接する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバン。黒海とカスピ海の間にある国で、西にトルコ・北にグルジア・東にアゼルバイジャン・南にアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国がある。山脈と高原が広がる山国。平地はまれで、国土の90%において標高1000mを超える。3000m級の山岳も珍しくない。最大の平地は首都エレバンが位置するアララト盆地。名前の通りアララト山を見上げる位置にあり、トルコとの国境を流れるアラクス川(キュル川)の左岸に広がっている。アララト盆地の高度は800m以上。

エレバン
Yerevanはアルメニア共和国の首都である。人口約106万人(2004年)。機械製造や金属業、ワイン、ブランデー製造、たばこ製造業が盛ん。フラズダン川が市内を流れる。南にアララト山を臨む。現存する世界最古の町のひとつである。紀元前8世紀ごろにはすでにウラルトゥのエレブニ要塞がアルギシュティ1世によって、北カフカースからの攻撃に備え、この地に築かれていた。


ズヴァルトノッツ国際空港
Zvartnots International Airportは、アルメニアの首都、エレバンにある国際空港である。アルマヴィアの本拠地である。


アシュタラク
Ashtarakアルメニアの工業都市。街の名はアルメニア語で「塔」を意味する。首都エレバンから北西へ20kmほど行ったカサグ川沿いに位置し、アラガツォトゥン地方の中心都市でもある。伝承によると、その昔アシュタラクには三姉妹が住んでいて、三人ともサルギス王子という男と恋に落ちた。上の二人は末っ子を幸せにさせるため自殺を決心し、一人はアプリコットのようなオレンジ色をしたドレス、もう一人は赤いドレスを着て峡谷に飛び降りた。その後、二人を捜し当てた末っ子も白いドレスを着て同じく身を投げた。王子は隠者となり、峡谷の縁に三つの小さな教会を見つけ彼女たちのドレスの色にちなんでそれらを命名した。

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ヴァナゾル
Vanadzorは、アルメニアの北部にある都市。人口は2001年の時点で10万7394人で、同国第三の規模を誇る。ロリ地方の中心都市でもある。夏は別荘地としてにぎわう。町の歴史は未だ大部分が謎に包まれている。墓など青銅器時代の遺物が発掘され地元の博物館に収蔵されていることから、そこまでさかのぼるのではないかとの説もある。


アルメニア地震
1988年12月7日にアルメニア共和国の北部にあたるロリ地方の一都市スピタク(英語版)を震央として発生したマグニチュード(Ms)6.8、(Ml)7.2 の地震。1988年アルメニア地震、スピタク地震などとも言う。死者は約2万5000人とされる。震央に近い地域の高層建築物はほとんど倒壊し、40万人を超える人が家を失った。レニナカン(現・ギュムリ)では数千人が死亡し、街が壊滅した。


マテナダラン
The Matenadaran archivesはアルメニア共和国エレバンに在る世界有数の古文書館である。アルメニア国字創設者メスロプ・マシュトツの名を冠している。現在約30万の古手稿を管理している。古文書の数は資料によってまちまちであり、未だ確認されていない資料が存在するものと思われる。


カパン
Kapanは、アルメニアの都市。首都エレバンから316kmのところに位置し、シュニク地方の中心都市でもある。この辺りでは谷を山々が取り囲んでいることから、カパンという地名はアルメニア語で「閉じ込める」という意味のkapelからきている。

アルマヴィル
Armavirは、アルメニア西部の都市。アルマヴィル地方の中心都市である。この地では紀元前5000年から6000年ごろに人が住み着いた。この年代に作られた黒曜石の石器、青銅器、陶器などが出土している。その後、紀元前1980年に街並みが建設され、ウラルトゥ王アルギシュティ1世はこの地にArgishtikhiniliという要塞を建てた。

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イジェヴァン
Ijevanは、アルメニアのタヴシュ地方北部にある都市。同地方の中心都市である。古くはイスティブラグ(Istibulagh)、カラヴァンサラ(Karavansara)とも呼ばれた。深い森と高い山に抱かれたイジェヴァンは、林間リゾート地になっている。1969年には街を通る幹線道路の北側に200台のベッドを備えた高層ホテルがオープンした。一帯にはアルメニア様式の歴史的建造物がいくつかある。

エチミアジン
Echmiadzinは、アルメニアにある同国第四の都市。アルメニア正教会の長のカトリコスが居るため、その総本山として知られる。首都エレバンの西20kmに位置し、アルマヴィル地方では最大の都市である。エチミアジン大聖堂は世界最古の教会で、街の歴史の中心地でもある。啓蒙者グレゴリオスによって301年から303年にかけてアーチ型のものが建てられた。

ギュムリ
アルメニア北西部の都市。人口21万100人(2001年)。旧称レニナカン(レーニンの町)。 首都エレバンの北西約90kmに位置し、すぐ西にトルコとの国境がある。1988年 大地震が発生する。死者は数千人を出し高層建築物の大部分が倒壊。1991年 ギュムリに改称。

ゴリス
Gorisは、アルメニアのシュニク地方にある都市。街の南部には岩山をくりぬいて築かれた洞窟住居がある。また、この地で生産されるフルーツウォッカは高品質で知られる。もともとは緑の丘につくられた洞窟都市で、その内部はアルメニア様式になっている。洞窟は現在でも保存されているが、ソビエト時代に街の住居のほとんどが近代的な建物になった。街の名がインド=ヨーロッパ語族の言葉で「岩場」を意味するのも、洞窟住居に関係がある。

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アララト地方
アルメニア共和国の行政区に一つで、首都エレバン市の南部に位置する。中心都市はアルタシャト。 その南部にアゼルバイジャン領のナヒチェヴァン自治共和国と接する。また西部はアラクス川を隔ててトルコに接する。トルコに入るとノアの方舟で有名なアララト山(5165メートル)が見える。

ロリ地方
アルメニア北部の地方。中心都市はヴァナゾル。北でグルジアに接する。国内では、西にシラク地方、南にアラガツォトゥン地方とコタイク地方、東にタヴシュ地方と隣り合う。10世紀から13世紀にかけてつくられたハグパトとサナヒンの修道院があり、ユネスコの世界遺産に登録されている。

コタイク地方
アルメニア中部の地方。中心都市はフラズダン。面積は2,100km2。人口は241,337人(2001年)。観光地として知られるガルニやゲガルドがある。アボヴャンに工場があるアルメニアの有名なビール「コタイク」の名前にもなっている。

アルマヴィル地方
アルメニア中西部の地方。中心都市はアルマヴィル。アララト山とアラガツ山に挟まれたアララト平野に位置し、アルメニア国内でも最も肥沃な地方の一つである。約60kmにわたってトルコと国境を接する。エチミアジンとも呼ばれるヴァガルシャパトには、アルメニア教会の総主教座であるエチミアジン大聖堂がある。エチミアジンやズヴァルトノツの教会群は2000年にユネスコの世界遺産に登録された。

アラガツォトゥン地方
アルメニア西部の地方。中心都市はアシュタラク。トルコと国境を接する。面積は2,755km2。人口は126,278人(2001年)。アラガツォトゥンとは、「アラガツ山の麓」の意(アラガツ山はアルメニアで最も高い山である)。

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ゲガルクニク地方
中心都市はガヴァル。アゼルバイジャンと国境を接する。アゼルバイジャン領に囲まれた飛び地であるアルツヴァシェンを含むが、アルツヴァシェンは現在は事実上アゼルバイジャンが支配している。アルメニア国内で最も大きな地方であり、国の面積の18%を占める。土地は非常に痩せている。

シラク地方
中心都市はギュムリ。北でグルジアに、西でトルコに接する。国内では、南のアラガツォトゥン地方、東のロリ地方と隣り合う。面積は2,679km2。人口は257,242人(2001年)。

シュニク地方
中心都市はカパン。南にイラン、東西にアゼルバイジャンと接する。西はアゼルバイジャン領のナヒチェヴァン自治共和国。国内では北にヴァヨツ・ゾル地方と隣り合う。面積は4,505km2。人口は134,061人(2001年)。面積ではアルメニアの国土の15%を占めるが、人口は国全体の4.8%に過ぎない。

タヴシュ地方
中心都市はイジェヴァン。グルジアとアゼルバイジャンに接する。アゼルバイジャン領の飛び地が2箇所ある。面積は3,120km2。人口は121,963人(2001年)。

ヴァヨツ・ゾル地方
中心都市はイェゲグナゾル。東西でアゼルバイジャンと国境を接する。西はアゼルバイジャン領のナヒチェヴァン自治共和国。面積は2,406km2。人口は53,230人(2001年)。アルメニア国内でもっとも人口密度が低い地方である。


ナヒチェヴァン自治共和国
Naxcı当an Muxtar Respublikası適は、アゼルバイジャンの飛地である。1991年までは、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部だった。5,500 km2のこの地域はアルメニア (221km) 、トルコ (9km) 、イラン (179km) に接している。首都はナヒチェヴァン市である。

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ナヒチェヴァン
Nakhichevan)はアゼルバイジャン内にあるナヒチェヴァン自治共和国の首都である。現在の人口は6万人を超えており、ガラス製品、家具、織物、絨毯、アルミニウム、タバコなどを生産している。空港、道路、鉄道網によって交通の要衝として栄えていたが、1988年から始まったナゴルノ・カラバフ戦争によってアゼルバイジャンの他地域から孤立してしまった。

ヴァン
Wan) はトルコ共和国東部の都市。人口は280,000人(2001年)。ヴァン県の県都。トルコ共和国で最大の湖であるヴァン湖の東岸に位置する。紀元前9世紀ごろから紀元前6世紀ごろまでウラルトゥ王国の首都としてトゥシパ(Tushpa)と呼ばれていた。その後、アルメニア王国の都市として栄えた。


メツァモール原子力発電所
アルメニアにある原子力発電所でアルメニア唯一の原子力発電所であり、国内の電力需要の40%以上をまかなっている。 地震多発地帯という立地と老朽化が進んでおり、原子炉格納容器がない旧式のロシア型加圧水型原子炉であることから安全性が不安視されており、世界で最も危険な原発といわれている。 しかし、アルメニアには他に有力なエネルギー資源がなく、諸外国からの即時停止要請にもかかわらず止める事ができない状況が続いている。



外務省:アルメニア共和国
在ロシア日本国大使館(アルメニア大使館兼轄)

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ナゴルノ・カラバフ
Nagorno-Karabakh、は、アゼルバイジャンの西部にある自治州だった地域。アルメニア人が多く居住しており、ナゴルノ・カラバフ共和国として独立宣言し、ナゴルノ・カラバフ戦争となった。現在は事実上独立しているが、アルメニアを除くあらゆる国、国際組織によっても認められていないままである(自治州だった領域と現在の実効支配領域は一致していない)。

ナゴルノ・カラバフ戦争
アルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る争い。日本の報道では「ナゴルノ・カラバフ紛争」と呼ばれることもある。戦争は泥沼化し、現在は事実上、アルメニア人の占領下にある。両国が争っているのはアゼルバイジャンの西部にある山岳地帯に存在するアルメニア人居住区である「ナゴルノ・カラバフ自治州」である。このナゴルノ・カラバフ自治州は住民の4分の3がアルメニア人である。この自治州がソ連崩壊直前からアルメニアへの帰属を求め、アゼルバイジャンとの紛争になったのである。


■経済
主要産業は、農業、工業、宝飾品加工業。都市人口率が65%と高く、農林水産業従事者は、国民の8%に過ぎない。農業では綿、ぶどう、野菜の栽培が盛ん。穀物としては小麦と大麦を産する。アルメニアはエネルギー資源を産出せず、地域紛争で近隣諸国から孤立していることから国内電力需要の40%以上を老朽化したメツァモール原子力発電所に頼っている。メツァモール原子力発電所は1988年のアルメニア地震の後、独立後の1995年まで6年半に渡って閉鎖されたが、その間、国内は深刻な電力不足に陥った。メツァモール原子力発電所で使用されているロシア型加圧水型原子炉440は格納容器を持たず、また既に設計寿命を終えているため、2012年から2016年完成を目処にロシア型加圧水型原子炉1000が建設される予定である。

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ロシア型加圧水型原子炉
ロシア型加圧水型原子炉(VVER)は、ソ連で開発された商業発電用の原子炉であり、基本的な原理、構造はアメリカ合衆国で開発されたPWRと同じである。初期のVVERは、アメリカ型(ウェスティングハウス系)のPWRと比較すると、炉心を構成する燃料集合体の断面が正方形でなく正六角形になっている、原子炉圧力容器が通常より縦長になっている、制御棒の挿入速度が遅い、蒸気発生器が横置きになっている、原子炉格納容器がない(一部例外)などの違いがある。なお、世界ではおよそ30機が稼働している。

アルメニアの国旗
赤、青、オレンジの三色旗。これらの三色はこの国の歴史とつながりがあり、色の解釈には諸説あるが、最も有名な説によると、赤は国を防衛したアルメニア人の血、オレンジは国民の労働による勇気、青は国土の自然を象徴しているという。

 


1.面積:2万9,800平方キロメートル(日本の約13分の1。旧ソ連邦の中で最小)
2.人口:310万人(2010年:国連人口基金)
3.首都:エレバン
4.民族:アルメニア系(97.9%)、ロシア系(0.5%)、アッシリア系(0.1%)、その他(1.5%)(アルメニア共和国国勢調査)
5.言語:公用語はアルメニア語(インド・ヨーロッパ語族に属し、独立の一語派をなす。独自の文字を持つ)
6.宗教:主としてキリスト教(東方諸教会系のアルメニア教会)。
 なお、アルメニアは、国家として、また民族としても、世界で最初に公式にキリスト教を受容した国である(301年)

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前4〜3世紀 東アルメニアにエルヴァンド朝成立
〜前1世紀 西アルメニアにソフェネ成立
前190年〜後10年頃 アルタシェス朝古代アルメニア王国成立
1〜5世紀 アルサケス朝の支配、ローマとペルシアにより分割
301年 アルサケス朝のトルダト3世、キリスト教に改宗
5〜7世紀 サーサーン朝ペルシアとビザンツ帝国による分割統治
652年 アラブ勢力により征服
885年頃〜1045年 バグラト朝成立
11世紀 セルジューク朝諸政権により征服
1050年頃〜1375年 キリキア(アナトリア南東部)にアルメニア系王朝
14〜15世紀 ティムール朝、カラ・コユンル朝、アク・コユンル朝による支配
16〜18世紀 オスマン朝とサファヴィー朝によるアルメニア争奪戦
1828年 トルコマンチャーイ条約により東アルメニアがイランからロシアに割譲
1918年5月 アルメニア共和国(第一共和国)成立
1920年 アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国成立
1922年 グルジア、アゼルバイジャンと共にザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国を形成、ソ連邦結成に参加
1936年 アルメニア・ソヴィエト社会主義共和国成立
1988年2月 ナゴルノ・カラバフ帰属を巡るアゼルバイジャンとの抗争が表面化
1990年8月23日 共和国主権宣言
1991年9月21日 共和国独立宣言
1991年10月 テル・ペトロシャン大統領就任
1994年5月 アゼルバイジャンとナゴルノ・カラバフ紛争に関し停戦協定締結
1996年9月 テル・ペトロシャン大統領再選
1998年3月 コチャリャン大統領選出
2003年3月 コチャリャン大統領再選
2008年2月 サルグシャン大統領選出

■主要産業:宝石加工(ダイヤモンド)、機械製作

■主要貿易品目(1)輸出 食料加工品、アルコール・ノンアルコール飲料、硫黄・土類、鉄鉱石、燃料(2)輸入 穀類、動物性・植物性食用油脂、タバコ類、製薬品、化粧品等日用品(アルメニア共和国国家統計局統計年鑑)


ドラム
dramは、アルメニアおよびナゴルノ・カラバフの通貨単位。通貨記号は。国際通貨コード(ISO 4217)は、AMD。2011年12月現在の交換レートは、1ユーロ=513.4ドラム。アルメニア語で、ドラム(dram)はお金(money)を意味する。


アルメニア共和党
アルメニア共和党は、アルメニアの政党の1つ。政治路線は自由主義的。現在は議会第1党で、同党のワスゲン・サルキシャン、アラム・サルキシャン、アンドラニク・マルカリャン、セルジ・サルキシャンはいずれも首相を務めている。

アルメニア革命連盟
Armenian Revolutionary Federation 略称:ARFは、アルメニアの民族主義・社会主義政党。日本語ではダシナクツチュン(党) またはダシナク党と表記されることもある。下記の経緯によりレバノンにも勢力を持つ。1890年創設。当初から社会主義を標榜し、オスマン帝国の支配下から脱し大アルメニアを建国すべく活動していた。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を頻繁に取り上げてきた。


アトム・エゴヤン
Egoyan, 1960年7月19日 - は、カナダの映画監督である。亡命したアルメニア人の両親の元、エジプトに生まれるが、彼が幼いときに家族で移住してカナダで育つ。トロント大学で国際関係学を学ぶが映画製作に興味を持つようになり、19歳のときに初めての短編映画を撮った。1984年に長編映画監督としてデビュー。

アラ・アブラハミアン
Ara Abrahamian、1975年7月27日-は、スウェーデンのレスリング選手。2004年アテネオリンピックレスリンググレコローマンスタイル84kg級の銀メダリストである。旧ソビエト連邦アルメニア共和国ギュムリ(レニナカン)出身。2004年アテネオリンピックでアレクセイ・ミチンとの決勝戦で延長戦の末に2位となったが、このときのことをブログに「1:1で同点であったが、相手がロシア人だったので負けになった」と書いたことが話題となった。

アンディ・サーキス
Andy Serkis, 1964年6月20日 - は、イギリス・ロンドン出身の俳優、モーションアクター。父親はアルメニア人の医師。父親の仕事の関係でロンドンやバグダッドで育つ。ランカスター大学で学んだ。当初は舞台美術の仕事に就くつもりであったが役者に転向し、舞台に出演するようになる。1989年からテレビに出演するようになり、1994年には映画デビューした。

ワスゲン・サルキシャン
(Vasgen Sarkissian) は、アルメニアの政治家で元首相。1959年、アルメニア・ソビエト社会主義共和国アララト地方生まれ。1988年のナゴルノ・カラバフ紛争では義勇兵を率い、アルメニア共和国軍の建軍にも尽力した。アルメニア国民の英雄、ナゴルノ・カラバフの英雄。アルメニア共和党所属。アルメニア国民は、彼の業績を称えて名誉称号「スパラペト」を与えた。2000年にはエレバンとナゴルノ・カラバフの通り、学校、部隊、軍事大学等の名称に彼の名前が付けられた。

メスロプ・マシュトツ
Mesrop Mashtots, 360年 - 440年2月17日)は、アルメニア人で、アルメニア文字を考案した人物として知られる。その功績を以って、アルメニア教会により聖人とされている。アルメニアの歴史書によれば、メスロプ・マシュトツがアルメニア文字を創り出したのは404年から406年ごろのことである。

レヴォン・テル=ペトロシャン
(Levon Ter-Petrossian, 1945年1月9日 - , テルペトロシャンとも表記)は、アルメニアの初代大統領(在任期間 1991年 - 1998年)。1945年シリアのアレッポに生まれる。父のハゴブ・テル=ペトロシャンはシリアの左翼運動家であったが、当時のソビエト・アルメニア人帰還運動の影響により、一家を連れて1946年にアルメニア共和国のエレバンに帰国した。

ジョルジオ・ペトロシアン
Giorgio Petrosyan、男性、1985年12月10日 - )は、アルメニア移民イタリア国籍のキックボクサー。アルメニア・ソビエト社会主義共和国(現:アルメニア共和国)のエレバンに生まれ、14歳のときにイタリアに移住し、そこでムエタイを習い始めた。2006年4月1日に、「Italian Extreme IV」という、K-1ルールによる70kg以下の4人制ワンデイトーナメントに出場。1回戦でリチャード・バーンヒル(イングランド)を1RKOで下すと、続く決勝戦も、ロエル・リンク(オランダ)を1RKOで下して優勝した。

カロ・パリジャン
(Karo Parisyan、男性、1982年8月28日 - )は、アメリカ合衆国の総合格闘家。アルメニア・エレバン出身。カリフォルニア州在住。ジャクソンズMMA所属。柔道黒帯、ブラジリアン柔術黒帯。元WEC世界ウェルター級王者。6歳の時に、家族と共にアルメニアからアメリカへ移住。9歳からカリフォルニア州のゴーコージムで同じアルメニア系であるゴーコー・シヴィシアンに柔道を習い始める。14歳でプロデビュー。

エドガル・マヌチャリアン
1987年1月19日 - )はソビエト連邦(現・アルメニア)・エレバン出身のアルメニア代表のサッカー選手である。FCウラル・スヴェルドロフスク・オブラスト所属。ポジションはFW。2004年にアルメニア代表デビューを果たした。U-19アルメニア代表として2005年にUEFA U-19欧州選手権に出場した。

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