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スロバキア共和国
The Slovak Republic

ヨーロッパ

■地理
スロバキアの国土は東西400km、南北200kmという比較的小規模なものである。しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。基調となっているのは大陸性気候である。年平均降水量は649mmである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2000mmに達する。このような気候を受け、国土の1/3が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。

中央ヨーロッパ
Central Europe、は、ヨーロッパの中央部に位置し、西ヨーロッパと東ヨーロッパに挟まれた歴史的・文化的世界で、人口が大きくかつ社会資本も高いレベルで充実しており、ドイツのようにすでに経済大国となっているかあるいはポーランドのように着実に経済大国化を進めている国々を含む非常に活発な地域である。


ドナウ川
スロヴァキア語:Dunaj、は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。「ハンガリーの門」を抜けた後、ブラチスラヴァ上流でスロバキアとハンガリーの国境をなすようになる。

カルパティア山脈
主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。 スロバキアのブラチスラヴァ付近から北東に延び、東、南東へ向きを変えてルーマニア中部のトランシルヴァニアに達し、さらに西、北へと向きを変える。

タトラ山脈
ポーランドとスロバキアの国境に位置する山脈で、カルパティア山脈の一部。スロバキアの国歌にも歌われている。この地方はウィンタースポーツでよく知られている。

ヴィスワ川
(Wisła)は、ポーランドで最長の川である。全長は1,047km、流域面積はポーランド国土の60%以上におよぶ。ポーランド南部のベスキト山脈の標高1,106m地点に源を発し、ポーランド国内を大きく蛇行しながら北へ流れ、バルト海へと注ぐ。


<歴史>
■古代
ケルト人が先住民であるが、1世紀ごろゲルマン人が、この地を支配した。5〜6世紀ごろにスラブ人が移住して来、9世紀には、大モラヴィア帝国を創り上げた。

■大モラヴィア王国
9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方に大モラヴィア王国が成立。

■ハンガリー王国
10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立すると、この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。

■チェコスロバキア独立
オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアは共に連邦国家構想を支持していたが第一次世界大戦の終了と共にオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。

■独立スロバキア(1939年-1945年)
1938年9月29日、ミュンヘン会談。ハンガリーのスロバキア領要求が列強に確認される。1938年11月2日、第一次ウィーン裁定。南部スロバキアをハンガリーに割譲することが決まる。1938年11月9日、スロバキア自治政府が成立。1938年11月30日、チェコスロバキアの国名がチェコ=スロバキア共和国に変更される。1939年9月1日、ポーランド侵攻に参加し、枢軸国として第二次世界大戦に参戦。1944年8月29日、スロバキア民衆蜂起。1945年4月4日、ブラチスラヴァをソ連軍が占領。

■共産党体制下のチェコスロバキア(1945年-1989年)
1945年チェコスロバキア亡命政府が帰国、チェコスロバキア共和国が再興される。1948年 共産党政権が成立(二月政変)。1960年 国名をチェコスロバキア社会主義共和国に改称。民主化から連邦解体へ(1989年-1992年) 1989年11月、ビロード革命。共産党政権が解体される。1990年3月、スロバキア社会主義共和国が国名を「スロバキア共和国」に改称。1990年4月、ハイフン戦争の末、チェコスロバキア社会主義共和国が国名をチェコおよびスロバキア連邦共和国に改称。

■スロバキア共和国(1993年-)
1993年1月1日、チェコとの連邦を解消(ビロード離婚)。2000年12月、経済協力開発機構 (OECD) 加盟。2004年3月29日、北大西洋条約機構 (NATO) 加盟。2004年4月17日、新大統領に元国会議長のイヴァン・ガシュパロヴィッチが当選。2004年5月1日、欧州連合 (EU) に加盟。2009年1月1日、EUで16カ国目にユーロを導入。


スロバキア人
ヨーロッパ中東部、現在のスロバキア共和国を中心に居住しているスラブ系民族。西スラブ人に分類され、スロバキア語を用いる。現在はスロバキア共和国の多数民族であり、他には隣国のチェコ共和国やハンガリーの他、移民によるアメリカ合衆国やカナダ、あるいはセルビアなどでの居住者が多い。


モラヴィア王国
9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国。大モラヴィア王国などとも表記される。現在のモラヴィア、スロヴァキア辺りの地域を支配した。9世紀前半、文献にモラヴィア王国についての記述があらわれる。初代君主のモイミール(位830頃-846)は、カトリックのザルツブルク大司教座による布教をみとめた。しかし、846年に即位したラスチスラフ(ロスティスラフ)は、東フランク王国の圧迫に対抗する必要性から東ローマ帝国・正教会との結びつきを図り、宣教師キュリロスとメトディオスを招いた。この際にグラゴル文字が作成された。

ハンガリー王国
かつて現在のハンガリー共和国を中心とする地域を統治した王国。1000年頃、イシュトヴァーン1世の即位によって王国が成立した。その一族であるアールパード朝による統治が300年続いたが1301年に断絶し、以降は選挙王政によって王位が継承されるようになった。1526年にオスマン帝国の攻撃を受けて領土を失陥した。前後してハプスブルク家による王位の世襲が固まり、ハンガリーはハプスブルク君主国の一部となった。

オーストリア=ハンガリー帝国
かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク家の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。


独立スロバキア
ナチス・ドイツの同盟国であり従属国として、1939年3月14日から1945年5月8日まで存在していた、スロバキア人の国である。アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツはチェコスロバキアを解体し、チェコをベーメン・メーレン保護領として併合する計画を立てていたが、スロバキアに対する処遇はなかなか定まらなかった。当初ドイツ当局には、「スロバキア人がハンガリーに加わることを望んでいる」という情報をつかんでいたが、これはハンガリー人達によって流された誤った情報であった。最終的には、ドイツがポーランドと他の領域への攻撃を行うための潜在的な戦略基地として、ドイツの保護国としての独立国スロバキアが建国されることが決定された。


ハイフン戦争
(英語: Hyphen War)または「ダッシュ戦争」は、社会主義政権崩壊(ビロード革命)後のチェコスロバキア連邦議会を中心に、チェコ人政治家とスロバキア人政治家の間で行われた国名表記を巡る政治論争を揶揄した名称である。結果的に、チェコスロバキアの連邦解消(ビロード離婚)につながった。


チェコスロバキア
Cesko-Slovenskoは、1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家。現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義に基づくものである。


■住民
2001年の国勢調査による民族構成は、スロバキア人が85.8%、マジャル人が9.7%、ロマが1.7%、チェック人が0.8%である。この他に、チェック人ではなくモラヴィア人、シレジア人としてのメンタリティーを持っているもの、ルテニア人・ウクライナ人、ドイツ人、ポーランド人、クロアチア人がいるがその総数はおよそ2%である。

ケルト人
Celt, Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ロマ
ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり、ロマでない集団との関係は不明である。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。

マジャル人
国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。固有の言語はウラル語族のハンガリー語である。人種はコーカソイドである。極めてごく一部モンゴロイドの遺伝子を持つ者もいる。民族としてはユダヤ系(アシュケナジム)も混じっている。マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)のマジャル人が居住している。

ルシン人
ウクライナ語の方言とされるルシン語を話すスラヴ人の民族集団である。ルーマニア、スロヴァキア、セルビア、ウクライナなど東ヨーロッパ各地に広く住む。ルーシ人が19世紀から20世紀初めにかけて「ウクライナ人」として民族意識が形成されていく中、ルシン人はそれを受け入れてこなかった少数民族を起源に持つ。

グラル人
Gorals、意味は「高地の人々」はポーランド南部、スロバキア北部、チェコ北東部といった地域に住んでいる原住民。現在のスロバキアではグラル人は北スピシュ地方(34村からなり、全体としてさらに2つの下位集団に分かれている)、オラヴァ地方の1村、キスツェ地方の1村、スロバキア北部一帯のそれぞれ孤立した7村、と、大きく4つの集団に分かれている。

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ボイイ族
Boiiは、中央ヨーロッパにいた鉄器時代のある部族に対して古代ローマ人がつけた名称である。特にバイエルンやボヘミアはボイイ族の名と関係が深いとされている。共和政ローマ後期からローマ帝国にかけてのローマ人またはギリシア人の歴史家はボイイ族をケルト人またはガリア人とみなしていた。

マルコマンニ
(Marcomanni)は、古代ヨーロッパに存在したゲルマン系の民族の1つで、ブリ族やスエビ族などと関係が深いと見られている。マルコマンニという名称の語源には2つの説がある。第一は古いゲルマン語の "march"(前線、境界の意)と "men"(人々)を組み合わせた語という説である。第二は、紀元前13年ごろ大ドルススのローマ軍団によるゲルマン遠征の際に副官として同行したマルクス・ファビウス・ロマーヌスの名を由来とする説である。


ルサチア文化
Lusatian culture、は後期青銅器時代から初期鉄器時代(紀元前1300年ごろから紀元前500年ごろまで)にかけて、ポーランドを中心に、チェコ・スロバキア・ドイツ東部・ウクライナのそれぞれ一部地方にかけて広がっていた文化。


トラキア
Trakya)は、バルカン半島東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。


■言語
言語はスロバキア語が公用語である。また、一部でハンガリー語も使われている。

スロバキア語
スロヴァキア語はスロバキア共和国の公用語である。インド・ヨーロッパ語族、スラヴ語派に属する。スラヴ語派ではチェコ語、ポーランド語などと同様西スラヴ語であり、とりわけチェコ語には近く、チェコ語の話者とスロヴァキア語の話者とが互いの言語で会話が成立する程である。大雑把に言って8割程度は同じだともいう。スロバキア語は、スロバキア共和国でおよそ500万人が使用している。国外では、アメリカで移民を中心に50万人が使用しているほか、チェコで32万人、ハンガリーで11万人、セルビアで8万人、ルーマニアに22,000人、ポーランドに2万人、カナダに2万人、オーストラリア、ウクライナ、ブルガリア、クロアチアなどに各5,000人ずつ存在する。

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■宗教
2004年の調査によるとカトリックが最も多く60.3%を占める。次いで宗教的メンタリティを持たないものが9.7%、プロテスタントが8.4%、ギリシャ・カトリックが4.1%、東方正教会が4.1%等である。


<世界遺産>
ヴルコリニェツ
スロバキア共和国ジリナ県ルジョムベロク郡ルジョムベロク市内の街区の一つで、低タトラ山脈の中腹にある村落である。ホッローケーから120キロという近さのため、2つの村落はしばしば類似の景観として理解されるが、ヴルコリニェツには独自の文化的伝統に対する強い誇りが存在する。

バンスカー・シュティアヴニツァ
スロヴァキアの古い鉱山都市である。2002年時点の人口は10600人である。中世からハンガリー王国における金、銀の鉱山の町として、14世紀の地震の被害や、トルコとの戦いの前線の街であったことなどの歴史をもつが、鉱山の町として繁栄した。1627年には火薬による採掘がはじめて行われ、1762年にはマリア・テレジアによってヨーロッパ初の鉱山学校がこの地に設立された。

レヴォチャ
東部スロバキア、プレショフ県の市(Mesto)。中心市街地にルネサンス様式の歴史的建造物が数多く残ることで知られ、2009年6月27日にユネスコの世界文化遺産に登録された。

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スピシュスキー城とその関連文化財
東部スロバキアのプレショフ県レヴォチャ郡スピシュスケー・ポドフラジエ市郊外にある城。現在は廃墟であるが、中欧でも大きな城の一つである。スピシュスキー城は、スラヴ人の城があった場所に12世紀に建てられた。旧スピシュ県(現・プレショフ県およびコシツェ県の一部)の経済・行政・政治・文化の中心地であった。

バルデヨフ市街保護区
スロバキア東部のプレショフ県バルデヨフ郡の都市(mesto)。文献には1241年に初めて登場し、当時から温泉地として知られていた。バルデヨフは古くから著名温泉保養地として知られ、治療用鉱泉は腫瘍、血流、消化器症状に効能がある。郊外に古い温泉複合施設があり、民俗建築の野外博物館となっている。

カルパティア山脈地域のスロバキア側の木造教会群
16世紀から18世紀にかけて建造された9つのキリスト教建造物群を対象とするスロバキアの世界遺産である。ヘルヴァルトウ村の中心部に残るアッシジの聖フランチェスコ教会は、背が高いが幅は狭いという木造教会としては珍しい構造をそなえたゴシック様式の教会である。ヘルヴァルトウはバルデヨフから南西約9km に位置するポーランド国境にも近い村落で、その存在は14世紀には記録されているが、教会の正確な建造年は特定されていない。

アグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群
ハンガリーとスロバキアが共有する世界遺産である。それらは国境付近に広がるカルスト地形と700以上の鍾乳洞群で、一部は国境を超えてつながっている。 ハンガリー北部のアグテレク地方(オックテレック地方)に広がるカルスト(アグテレク・カルスト)景観は、アグテレク国立公園として保護されている。バラドラ洞窟は複雑に入り組んでおり、その形状に合わせて様々な異名が付けられている。中でも「コンサートの広間」は、夏に実際にオペラやオーケストラの演奏会が開催される。

カルパティア山脈のブナ原生林
スロバキアとウクライナが共有するユネスコの世界自然遺産である。東カルパティア山脈に残るブナの原生林は、ヨーロッパに残るブナ林の中でも樹齢、種類の多様さ、木々の大きさ、範囲の広さなどの点で突出した価値を持つ。登録対象はウクライナの6箇所とスロバキアの4箇所、ドイツの15箇所の計25箇所である。

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イェドリク・アーニョシュ
1800年1月11日 - 1895年12月13日は、マジャル人の発明家、技術者、物理学者で、ベネディクト会司祭。ハンガリー科学アカデミー会員でもあり、何冊か本も出版している。ハンガリーやスロバキアでは、ダイナモと電動機の父とされ、偉人の1人とされている。1817年、ベネディクト会に入信し、その後は同修道会で研究を続けた。1839年までベネディクト会の学校で講師を務め、その後40年間ブダペシュト大学理学部物理学科に勤めた。

トマーシュ・マサリク
Tomas Masaryk, 1850年3月7日 - 1937年9月14日は、チェコの社会学者・哲学者・政治家で、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領(在任:1918年 - 1935年)。チェコで流通している最高額の5000コルナ紙幣に肖像が使用されている。マサリクは若い頃鍛冶屋として働いていた。マサリクはブルノ、ウィーン、ライプツィヒで研究をして、1882年にプラハ大学の哲学教授に任命された。翌年にマサリクはチェコ文化のための雑誌を出版、またオットー百科事典の編纂にも加わった。

ヴラジミール・メチアル
Vladimir Meciar, 1942年7月26日-は、スロバキアの政治家で、人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS、旧・民主スロバキア運動)党首。1992年にチェコスロバキア連邦共和国を連邦解体(ビロード離婚)に導いた一人。チェコとの連邦解消後、大統領(代行を2回)および首相(初・3代)を務める。権威主義的な政治手法が西側諸国から批判された。

ロベルト・フィツォ
Robert Fico, 1964年9月15日-は、スロバキアの法律家、政治家。現在、2期目の同国首相(2006年7月4日-2010年7月8日、2012年4月4日-現職)。中道左派政党「スメル(方向)・社会民主主義」(SMER-SD)の党首。フォークリフト作業員の父と靴販売員の母の次男として西部スロバキア県(現・ニトラ県)トポリュチャニ市で生まれる。1986年にブラチスラヴァ・コメニウス大学法学部を卒業。

ダニエラ・ハンチュコバ
(Daniela Hantuchova, 1983年4月23日 - )は、スロバキア・ポプラト出身の女子プロテニス選手。身長181cm、62kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス5位。これまでにWTAツアーでシングルス4勝、ダブルスで9勝を挙げている。1999年5月にプロ入り。2002年3月の「パシフィック・ライフ・オープン」でWTAツアー初優勝。決勝でマルチナ・ヒンギスを 6-3, 6-4 で下した。この年は女子テニス国別対抗戦・フェドカップでも、スロバキア・チームを初優勝に導いている。

アナスタシア・クズミナ
Anastasiya Kuzmina、1984年8月28日 - は、スロバキアのバイアスロン選手で、バンクーバーオリンピック金メダリスト。シベリア西部のソビエト連邦(現ロシア連邦)チュメニ州チュメニ市出身。8歳の時からスキーを始め、1999年からバイアスロン競技を本格時に始めた。スロバキア代表となって初の国際大会となった2009年2月のバイアスロン世界選手権平昌郡大会(韓国)では、12.5kmマススタートで銀メダルを獲得。さらに1週間後に開かれたバイアスロンオープンヨーロッパ選手権U26ウファ大会(ロシア)では7.5kmスプリントと10kmパシュートの2種目を制覇し、大復活を遂げた。同年暮れに手の骨を折る大けがを負ったがリハビリに努め、2010年バンクーバーオリンピックの7.5kmスプリントで金メダル[4]、10kmパシュートで銀メダルを獲得した。

フランツ・レハール
(Franz Lehar, 1870年4月30日 - 1948年10月24日)はオーストリア=ハンガリー帝国に生まれ、オーストリア、ドイツを中心にオペレッタの作曲により活躍した作曲家。ドイツ人を両親にハンガリーのコマーロムに生まれる。父フランツは元々スロヴァキアへの植民者だが軍楽隊長として帝国内の転勤族、母クリスティーネはハンガリーへの植民者であった。プラハ音楽院でドヴォルザークらに学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビュー。「銀の時代」とよばれたオペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となる。1905年「メリー・ウィドウ」で一躍人気作曲家となる。

ローベルト・ヴィッテク
Robert Vittek, 1982年4月1日 - は、チェコスロバキア・ブラチスラヴァ出身のサッカー選手。スロバキア代表である。トルコ・シュペルリガ・MKEアンカラギュジュ所属。ポジションはFW。2010年6月1日、2010 FIFAワールドカップ本大会に出場するスロバキア代表メンバー23人に選ばれた。グループリーグ初戦のニュージーランド戦で先制点を挙げると、第3戦のイタリア戦でも2得点を挙げスロバキアの決勝トーナメント進出に貢献。イタリア戦では大会選定のマンオブザマッチに選出された。

スタニスラフ・ヴァルガ
(Stanislav Varga, 1972年10月8日 - )は、スロバキア・リパニ出身でスロバキア代表のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。2000年の夏に、ピーター・リード監督によりスロバキアのスロヴァン・ブラチスラヴァからサンダーランドへ、650,000ポンド(約1億3,000万)の移籍金によって移籍した。プレミアリーグ初出場の時の対戦相手は強豪アーセナルだったが、サンダーランドが1-0で勝利し、アーセナルの攻撃陣を抑えたヴァルガはその試合のマン・オブ・ザ・マッチに輝いた。

ヤーン・コラール
Jan Kollar、スロバキア語Jan Kollar、1793年7月29日 - 1852年1月24日)は19世紀前半のスロバキア人の叙情詩人、学者(考古学者・言語学者)、ルター派の聖職者。コラールは作品のほとんどをチェコ語のみで書いた。彼は、スラブ諸語の関連性の概念を作り出した。彼はロシア語、ポーランド語、チェコ語・スロバキア語、セルボクロアチア語の4つの標準言語を認めた。

ヤーン・ムハ
(Jan Mucha, 1982年12月5日 - )は、スロバキア・プレショフ州出身のサッカー選手。プレミアリーグのエヴァートンFC所属。ポジションはゴールキーパー。2010年1月、ムハはイングランドのエヴァートンFCと同年7月1日に入団する前提で仮契約を交わした。8月4日にグディソン・パークで行われたチリのエベルトン・デ・ビニャ・デル・マールとの親善試合でハーフタイムにイアイン・ターナーと交代するまで45分間プレーし、エヴァートンでのデビューを果たした。

ラディスラフ・ムニャチコ
(Ladislav Mnacko、1919年1月28日-1994年2月24日)は、スロバキアの作家、ジャーナリスト。ズリーン州ヴァラシュスケー・クロボウキ生まれ。第二次世界大戦中、パルチザン運動に参加し、戦後はチェコスロバキア共産党の体制を支持した。しかし共産主義体制に失望し、批判的な姿勢をとるようになり、体制の暗部を描いた作品を発表した

ドゥシャン・ミタナ
(Dusan Mitana、1946年12月9日 - )は、スロバキアの小説家、ミステリー作家、脚本家。作品は17の言語に翻訳されている。代表作は『消えた作家を追って』(Hladanie strateneho autora, 1991)、『スロバキアのポーカー』(Slovensky poker, 1993)。社会の黒幕に立ち向かうアーティストやメディア関係の人間を好んで取り上げる。ブラチスラヴァのコメニウス大学でジャーナリズムを学んだ後、美術大学で映画を専攻。

ユリウス・フチーク
Julius Fucik 、1903年2月23日 - 1943年9月8日)は、ナチス・ドイツ占領下のチェコスロバキアのジャーナリスト、共産主義者。ナチスによって収監、拷問され、処刑された。『絞首台からのレポート』が有名。12才にして「Slovan」という名の新聞を発行する。政治と文学への関心は顕著。十代の時、地元のアマチュア劇団に所属。そのとき身につけた変装のテクニックは、後の地下活動に役立つ。彼が老人に扮した写真が残っている。

リュドミラ・パイドゥシャーコヴァー
(Ludmila Pajdusakova、1916年6月29日 − 1979年10月6日)は、スロバキアの女性天文学者。スカルナテー・プレソ天文台 (Skalnate Pleso Observatory) で観測を行い、1958年から1979年まで3代目の天文台長を務めた。小惑星 (3636) パイドゥシャーコヴァーは彼女から命名された。

エディタ・グルベローヴァ
(Edita Gruberova, エディタ・グルベロヴァー, 1946年12月23日 - )は、ソプラノ歌手。チェコスロバキア(現在はスロバキア)のブラティスラヴァに生まれる。父親はドイツ系で母親はハンガリー系である。同地の音楽院で学んだ後、プラハ、ウィーンで声楽を学ぶ。 1968年、わずか22歳でブラティスラヴァの歌劇場でデビュー、1970年にはウィーン国立歌劇場と契約、1973年にはザルツブルク音楽祭に出演する。

クリスティーナ・ペラーコヴァー
(Kristina Pelakova、1987年8月20日 - )、あるいはクリスティーナは、スロバキアの歌手である。東部スロバキアのプレショフ県スヴィドニーク市生まれ。幼少の頃より歌唱や舞踊を始める。音楽教師に勧められてコシツェの音楽学校に通い、歌唱を専攻する。

フランツ・シュミット
(Franz Schmidt, 1874年12月22日 - 1939年2月11日)は、後期ロマン派に属するオーストリアの作曲家。プレスブルク(現在はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)に生まれる。ピアノを短期間テオドール・レシェティツキーに学ぶが、そりが合わなかった。1888年に家族と共にウィーンに転居し、ウィーン音楽院にて作曲をローベルト・フックスに、チェロをフェルディナント・ヘルメスベルガーに師事、1896年に「優秀賞」を得て卒業した。

ヤーン・ツィケル
(Jan Cikker、1911年7月29日 - 1989年12月21日)は、スロバキアの作曲家。バンスカー・ビストリツァ出身。母と作曲家のヴィリアム・フィグシュ=ビストリから最初の音楽の手ほどきを受けた。高校卒業後の1930年から1935年までプラハ音楽院でヤロスラフ・クシーチカに作曲を師事し、その他に指揮とオルガンを学んだ。その後、ブラは音楽院の大学院で1946年までヴィーチェスラフ・ノヴァークについて学んだ。

ペーテル・フェラネツ
Peter Feranec、1964年 ブラチスラヴァ - )はスロバキアの指揮者。ブラチスラヴァ音楽院に学ぶ。1986年、音楽院卒業後、奨学金を得てレニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)に留学し、マリス・ヤンソンスに指揮法を学び、更にウィーンで研鑽を積んだ後、1991年、スロバキア国立歌劇場の指揮者陣に迎えられる。1993年からはウィーン室内オペラの指揮者としても活躍した。

ラディスラフ・スロヴァーク
(Ladislav Slovak、1909年9月10日 ヴェリキー・レヴァーリ - 1999年7月22日 ブラチスラヴァ)はスロバキアの指揮者。ブラチスラヴァ音楽院で、はじめオルガンを、後に指揮法を学ぶ。音楽院卒業後はスロバキア放送に勤務し、合唱団を創設してその指揮を執った。1953年、ブラチスラヴァでヴァーツラフ・ターリヒに指揮法を学んだ後、1954年から1955年にかけて、レニングラードでエフゲニー・ムラヴィンスキーのアシスタントを務め、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団を指揮している。

スロバキア Republic
中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラヴァ。北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、その後幾らかの変遷を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。

ブラチスラヴァ
(スロバキア語: Bratislava)は、スロバキアの首都で同国最大の都市である。ドナウ川に面した都市。スロバキアの政治、文化、経済の中心都市であり、中央ヨーロッパ有数の世界都市。コシツェとともに特別市に指定されている。主権国家の首都としては珍しく市域がハンガリーおよびオーストリアの2か国の国境に接している。ウィーンに最も近接した首都でもあり、両者の関係は古来密接である。

コシツェ
ラテン語:Cassovia)はスロバキア第2の都市。人口は約24万2千人(2001年)。女子テニス選手マルチナ・ヒンギスの出生地。2013年の欧州文化首都になることが決定している。スロバキア東部に位置する代表的な工業都市。ホルナート川沿いに位置する。ハンガリー国境まで約20キロ、ウクライナの国境まで80キロ程度。


外務省:スロバキア共和国
在スロバキア日本国大使館


ブラチスラヴァ空港
英語:Milan Rastislav Stefanik Airport)は、スロバキアの首都ブラチスラヴァ市にある国際空港。空港名は第一次世界大戦時のスロバキア人軍人で、1919年にブラチスラヴァ近郊で搭乗のイタリア軍機が墜落して死亡したミラン・ラスチスラウ・シュテファーニクにちなむ。

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ブラチスラヴァ=ペトルジャルカ駅
スロバキアの首都ブラチスラヴァ市にある主要鉄道駅である。オーストリア、ハンガリー、ポーランド、チェコ方面行き国際列車の始発駅で、国内列車の発着本数は少ない。


トレンチーン電気鉄道
西部スロバキア・トレンチーン県にあるスロバキア国鉄(ZSR)の狭軌鉄道線である。開業100周年を迎えた2009年には、トレンチアンスケ・テプリツェ市で6月27日、28日の2日間、スロバキア科学技術協会交通輸送部門とスロバキア国鉄トルナヴァ地域局、地元鉄道愛好家団体の共催による開業100周年記念セミナーが開かれ、411.9形電車をチェコスロバキア国鉄時代の登場時の塗色に戻した記念列車が運行された。


スロバキア国鉄
チェコスロバキアの連邦制解消にともない、スロバキア国内のチェコスロバキア国鉄事業は、チェコスロバキア国家鉄道公団の解散に関する法律に基づき、1992年12月30日に設立された国有会社のスロバキア共和国鉄道国有会社が承継した。


スロバキアの都市交通
スロバキアにおいては2都市で路面電車が、5都市でトロリーバスが運行されているほか、多くの都市で路線バスが運行されている。国内最大の路線網を持つブラチスラヴァ市電は狭軌(1000mmゲージ)で、輸送力不足が課題となっているものの、都市交通の主幹を担っており、市街地中心部からドナウ川を挟んだ巨大団地が広がるペトルジャルカ街区を路面電車で結ぶ郊外線の建設が計画されている。


プレショフ
スロバキア東部の都市。プレショフ州の州都で、国内第3位の人口を持つ。1万人以上の生徒がプレショフ市内の大学に通う。8学部を擁するプレショフ大学、コシツェ工科大学である。プレショフには東方典礼カトリック教会の司教座、ルーテル教会の司教座、正教会の主教座がある。

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ジリナ
スロバキア北西の都市。首都ブラチスラヴァから200キロほど離れている。スロバキア第4位の人口を持つ、重要な産業都市である。今日のジリナ周辺地域には、後期石器時代から人が定住していた(紀元前2万年前後)。5世紀、スラヴ人がこの地に移り住んだ。しかし、1208年に初めてジリナの記載がなされたときには、小さなスロバキア人の町テラ・デ・サリナンとしてであった。

ニトラ
ドナウ川の支流であるニトラ川の河畔に位置する。食品産業が盛ん。近隣の都市としては、約70キロ西に首都のブラチスラヴァ、115キロ南東にブダペシュトが位置している。中欧・東欧で最大の盆栽博覧会であるボンサイ・スロバキアが毎年4月にニトラで開催され、市民・愛好家ら4万人が訪れる。

バンスカー・ビストリツァ
スロバキア中部における中心的都市である。かつての主要産業であった鉱業は衰えたが、現在も大学街として多くの学生を集めるほか、観光地として首都ブラチスラヴァなどから多くの観光客が訪れる。古代においては、この地にヴィラ・ノヴァ(Villa Nova)と称される集落が存在していた。ただ、現在のバンスカー・ビストリツァに通じるのは、中世に形成されたスラヴ人集落である。

トルナヴァ
スロバキア西部の都市。トルナーヴカ河岸にあり、首都ブラチスラヴァ北東45キロ地点にある。トルナヴァ州の州都である。カトリック教会の大司教座(1541年 - 1820年まで。1977年より再設置)がある。歴史的中心部を抱え、城壁の中に多くの教会を持つ。『小さなローマ』を意味するパルヴァ・ロマと呼ばれ、最近は『スロバキアのローマ』とも呼ばれる。

マルチン
Martinは、スロバキア北部の都市。ヴァー川流域にあり、マラー・ファトラ山地の麓にある。ジリナ市が近い。最古の建物は、13世紀に建てられた、トゥールの聖マルタンに献堂したロマネスク様式の教会である。スロバキア国立博物館は民族学収集品を収める。郊外の野外博物館ヤホドニーツケ・ハーイェは、伝統的な民族建築、トゥリエチ地方の民俗伝承を展示している。

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ガランタ
Galanta、は、スロバキア南西部のトルナヴァ県ガランタ郡の市である。地熱の利用も盛んで、市街地には地熱利用の温水プールが設けられている。農業は小麦、トウモロコシの穀物および野菜果樹の栽培が盛んである。

クレムニツァ
Kremnicaは、スロバキアのバンスカー・ビストリツァ県ジアル・ナド・フロン郡の都市(mesto)。中世以降、金鉱山の町として栄えた。クレムニツァ市城は14世紀前半から伯爵の居城して使われた。城下の市街地は二重の城壁と要塞、塔によって防護された城郭都市を形成しており、中欧において最も良く保存された城塞の例として知られている。

ケジュマロク
Kezmarok、は、スロバキア東部プレショフ州の町。ケジュマロクへの定住は新石器時代へ遡る。13世紀、地方はサクソン人の共同体に入っており、スロバキア人の漁業の村として、ハンガリー王国とカルパチア系ドイツ人定住地の国境の目印となっていた。

コマールノ
Komarnoは、スロバキア南部ニトラ州の町。首都ブラチスラヴァから100キロほど離れている。ドナウ川に面した町であり、ドナウ川はハンガリーとの国境となっている。

ズヴォレン
Zvolenは、スロバキア中央部バンスカー・ビストリツァ州の町。古い城のある歴史ある町である。ズヴォレンは旧石器時代から人が住んでいた。9世紀、スラヴ人が定住を始め、現在の中央スロバキアの地域中心地となった。ズヴォレンは1760年代までズヴォレン地方の首都のままであった。ズヴォレンは現在も重要な鉄道のハブ駅をもち、広大な木材工場と科学技術大学がある。

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ピエシュチャニ
Piestany、は、スロバキア南部トルナヴァ州の町。首都ブラチスラヴァから75キロほど離れている。スロバキアの温泉街で最も大きく、最もよく知られていた鉱泉の町で、およそ30,000人の人口がある。

トレンチーン
Trentschin、は、スロバキア北西の都市。首都ブラチスラヴァから120キロほど離れている。スロバキア第9位の人口を持つ。トレンチーンは標高211メートル地点にあり、面積は82平方キロメートルである。

リプトフスキー・ミクラーシュ
Liptau-Sankt Nikolaus)は、スロバキア北部の都市。最初にリプトフスキー・ミクラーシュに関する記述がされたのは1286年のものとされる文献である。リプトフスキー・ミクラーシュは標高577メートル地点にあり、面積は70.1平方キロメートルである。


モショヴツェ
モショヴツェは昔の地域名のトゥレェツ(Turiec)にある最大の村のひとつである。現在残っている多くの歴史的な建物について770年以上前のものであると考える根拠がある。モショヴツェの環境は独特なものである。歴史的な並木道と林は、Tlstaをピークとするヴェルカーファトラ(Velka Fatra) 山地 の森林景観に延長として働く審美的で、印象的な景色を作成する。1784年建造のプロテスタント教会、現在は工芸博物館として使われているマウソレウム、モダニズムの温室、1800年建造の新ゴシック様式の庭園パビリオンなどの名所がある。この村は農業と漁業の学校を運営しており、この学校は中央ヨーロッパに数校しかないこの種の学校のひとつである。

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スロバキアの国旗
1992年9月3日にスロバキア憲法にて制定された。他のスラブ国家同様、汎スラヴ主義の三色、赤・青・白が使われている。国章の複十字(ダブル・クロス、またはPatriarchal cross「総主教の十字」)はビザンチン帝国(東ローマ帝国)の正教会のシンボルであり、その下の三つの丘は実在する三つの小山(タトラ山、ファトラ山、マートラ山)を表す。


■国名
正式名称はスロバキア語で Slovenska republika。通称 Slovensko(スロヴェンスコ)。スロバキアの語源はスラヴ (Slav) であり、これはスロベニアと同じである。そのため似たような国名になっている。


1.面積:49,035平方キロメートル(日本の約7分の1)
2.人口:543.5万人(2010年12月スロバキア統計局)
3.首都:ブラチスラバ
4.民族:スロバキア人85.5%、ハンガリー人9.5%等(2007年末)
5.言語:スロバキア語
6.宗教:ローマ・カトリック69%、プロテスタント(ルター派)7%等(2001年:国勢調査)

9世紀 大モラビア国時代
10世紀 大モラビア国滅亡、ハンガリー王国の支配下に入る
1526年 スロバキア地域を含むハンガリー王国がハプスブルク家の統治下に入る
1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国への改組
1918年 第一次世界大戦後のオーストリア・ハンガリー帝国崩壊後、チェコスロバキア共和国建国
1939年 ナチス・ドイツの影響の下、スロバキア国独立
1945年 第二次世界大戦後、チェコスロバキア独立回復
1948年 共産主義体制確立
1968年 「プラハの春」事件
1969年 チェコスロバキアの連邦化
1989年 民主革命(「ビロード革命」)により共産主義体制が終焉
1993年 チェコと平和裡に連邦を解消し、独立
2004年 NATO、EU加盟

■主要産業:機械工業、自動車産業
■主要貿易品目(1)輸出 電気機器・部品、自動車・部品(2)輸入 電気機器・部品、自動車・部品


ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。


スロバキア共和国国民議会
NR SR, Národna rada Slovenskej republiky)はスロバキア共和国の議会。スロバキア共和国憲法において唯一の立法府と規定される。定数150人、任期4年。

方向・社会民主主義
SMER-SD, SMER-socialna demokraciaは、スロバキア共和国の社会民主主義政党。スロバキア共和国国民議会の第一党で、社会民主主義政党の国際組織である社会主義インターナショナル加盟政党である。

スロバキア国民党
Slovenska narodna strana, SNSは、スロバキアの政党。1990年3月にスロバキア共和国の自立を掲げるナショナリズム政党として結成。かつて存在した同名のスロバキア国民党のイデオロギー的後継を自認する。キリスト教、民族主義を党是として掲げているが、一般にはハンガリー系やロマ、同性愛者などマイノリティ排斥を主張する極右政党とみなされている。

人民党・民主スロバキア運動
スロバキアの政治家であるヴラジミール・メチアルが結成した民主スロバキア運動を前身とし、2003年に現在の党名に改められたものでキリスト教的伝統保守に立脚している。スロバキア人ナショナリズムとキリスト教的伝統保守に立脚し、党首メチアルのカリスマ的人気とポピュリスト的な政策で支持を集めてきた。

スロバキア民主キリスト教連合・民主党
キリスト教民主主義に立脚したスロバキア共和国における中道右派政党で、スロバキア共和国国民議会の第二党である。首相でSDK党首のズリンダが、SDKを構成する中道右派諸政党の議員と一部閣僚によって2000年1月に結成した(政党登録は2000年2月18日)。政治的立場はキリスト教民主主義に立脚しているが、キリスト教的保守主義の色彩が強いKDHよりも世俗的で、経済政策では自由競争を重視する立場である。

キリスト教民主運動
中欧地域に位置するスロバキア共和国の政党である。中道右派を志向するとともに、スロバキア人ナショナリズムとキリスト教的伝統保守の傾向が強い。欧州議会では欧州人民党に所属している。1989年11月のキリスト教民主主義を志向する市民団体による声明をきっかけに、1990年2月17日に設立大会を開催して発足した(政党登録は同年2月23日)。


ビロード革命
Velvet Revolutionとは、1989年11月17日にチェコスロバキア(当時)で勃発した、共産党支配を倒した民主化革命である。この革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。1989年8月19日、ハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが成功すると、オーストリアに隣接するチェコスロバキアにも西ドイツへの越境を求める東ドイツ市民が大量に流れ込み、プラハ市民は西ドイツ大使館内にあふれる数千人の東ドイツ市民を目撃するようになった。チェコスロバキア当局は東ドイツとの関係悪化におびえながらも、11月3日には西ドイツの求めに応じ、東ドイツ市民の西側への輸送を開始した。


■経済
工業国のチェコに比べ、スロバキアは昔から農業国だったが、最近ではフランスのPSA・プジョーシトロエンや韓国の起亜自動車が工場を設立している。2009年1月1日に通貨をスロバキア・コルナからユーロに切り替えた。

欧州金融安定ファシリティ
European Financial Stability Facility EFSF)とは、危機に陥ったユーロ圏の国に対する財政支援を提供することでヨーロッパの金融安定を図ることを目的とする特別目的事業体。2010年5月9日に欧州連合の27の加盟国によって合意された。ルクセンブルク市に本部を置き、欧州投資銀行が業務に関する契約によって資金管理業務と運営支援を担っている。


■鉱業
スロバキアはマグネシウムを中心とした無機鉱物資源に恵まれている。マグネシウムの産出量は2002年時点で世界第7位、シェア4.5%の50万トン。鉄鉱、金鉱も採掘されている。有機鉱物資源は342万トンの亜炭・褐炭が中心である。ただし、原油の産出量は4.6万トンに留まる。

マグネシウム
magnesium) は原子番号12の金属元素。元素記号は Mg。 周期表第2族元素の一種で、ヒトを含む動物や植物の代表的なミネラル(必須元素)であり、とりわけ植物の光合成に必要なクロロフィルで配位結合の中心として不可欠。


おお牧場はみどり
スロバキアおよびチェコ東部モラヴィア地方と、チェコ西部ボヘミア地方の民謡の邦題。スロバキアやチェコの農村地帯で古くから親しまれていた民謡で、両国では現在も民俗歌謡祭などでよく歌われている。19世紀末から20世紀初頭にかけての移民によってアメリカにもたらされ、牧場での集団労働を賛美する労働歌風の「ああ、美しい牧場」(英語原題 : Ah, Lovely Meadows)に改作された。


カムジークテレビ塔
Televizna veza na Kamzikuは、スロバキアの首都ブラチスラヴァ市新市街区のカムジーク山に位置する電波塔。1975年に完成した。ブラチスラヴァ市北部のブラチスラヴァ森林公園内にあるカムジーク山の標高438.4メートルの高台にあり、塔の高さは194メートル、最上部の標高は635メートル。ブラチスラヴァでもっとも高い建物でオーストリア、ハンガリー、チェコの近隣各国からも見ることができる。


マルチナ・ヒンギス
(Martina Hingis, 1980年9月30日 - )は、スイスの女子プロテニス選手。チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。安定したバックハンドのストレートを武器にする、融通のきく頭脳プレーの名手である。チェコスロバキアのコシツェで生まれる。誕生時に、当時チェコスロバキアの代表選手だった母親メラニーが、同じチェコスロバキア出身の名選手マルチナ・ナブラチロワにあやかって娘を「マルチナ」と命名した。4大大会年間3冠獲得はすべて歴代最年少記録である。彼女は1998年に女子ダブルスの年間グランドスラムを達成したこともあり、シングルス・ダブルスともに世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。

ミラン・シュテファーニク
(Milan Rastislav  Stefanik、1880年7月21日-1919年5月4日)は、スロバキアの軍人、政治家、天文学者。第一次世界大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物。1900年に入学したカレル大学では、哲学の講義でトマーシュ・マサリクと知遇を得て、チェコ人とスロバキア人が協力する重要性を強く認識するようになった。カレル大学では、哲学のほか、物理学や天文学について知識を深めた。1904年にパリに移り、ピエール・ジャンサンに才能を見出され、パリ天文台に職を得る。

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ミクラーシュ・ズリンダ
1955年2月4日-は、スロバキアの政治家、元首相(1998年10月30日-2006年7月4日)、外相(2010年7月8日-)。中道右派政党のスロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ皚DS)党首。経済自由化を推し進め、スロバキアの欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)加盟を実現させた。

マレク・ミンタール
1977年9月2日 - は、スロバキア・ジリナ出身の同国代表サッカー選手。ハンザ・ロストック所属。ポジションはMF。1998年、スロヴァキアのMŠ淤ジリナでプロキャリアをスタート。入団1年目に11ゴールを挙げて華々しいデビューを飾り、チーム内での地位を確立させると、翌シーズンでも12ゴール、2000-01シーズンには21得点とゴールを量産。

ユライ・ヤーノシーク
1688年1月25日 - 1713年3月18日は、17世紀終りから18世紀始めにかけて実在した、現在のスロバキアとポーランドにまたがるタトラ山脈一帯に住んでいるグラル人(「山の人」)と呼ばれる集団出身の盗賊。スロバキアとポーランドでは、権力者や金持ちから金品を強奪し、庶民にそれらを配った伝説的義賊として知られている。現在のスロバキアでは民族の英雄として位置づけられ、ポーランドでもタトラの英雄としてよく知られている。

タタナ・クハロヴァ
1987年12月23日 生まれは、2006年度ミス・ワールド。チェコ共和国発のミス・ワールド・タイトル保持者となった。チェコスロバキア(現在のスロバキア)のトルナヴァで生まれた。東北ボヘミア・リフノフ・ナド・クニェジュノウ郡の小さな町オポチュコで育つ。ミス・ワールド・チェコ代表となった当時、まだ高校生だった。

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アイヴァン・ライトマン
Ivan Reitman, 1946年10月27日 - は、スロバキア生まれの映画監督・映画プロデューサー。コマールノのユダヤ系の両親の間に生まれる。反ユダヤ主義を逃れてカナダに移住したため、カナダで教育を受けた。映画監督初期にはデヴィッド・クローネンバーグと共に働いたこともある。プロデューサー業にも忙しく、これまで『アニマル・ハウス』『ベートーベン』『キリング・ミー・ソフトリー』『プライベート・パーツ』などを手がけた。

ミロスラフ・カルハン
(Miroslav Karhan、1976年6月21日-)は、スロバキアのサッカー選手。FCスパルタク・トルナヴァ所属。ポジションはMF。スロバキア代表の出場試合数最多選手である(107試合)。スパルタク・トルナヴァでは若くしてチームの大黒柱となった。デビュー1年後には、19歳で代表にも選ばれた。その後も、ベティス、ベシクタシュでプレーした。いずれも1年で移籍している。

シラールド・ネーメト
(Szilard Nemeth、1977年8月8日 -)は、スロバキアのサッカー選手。スロバキア代表。ポジションはFWまたはMF。ハンガリー系少数民族の出身である。1994年にスロバン・ブラチスラヴァで選手キャリアをスターすると1997年にMFKコシツェへ移籍した。両クラブで傑出した得点能力を発揮すると、チェコの強豪ACスパルタ・プラハへレンタル移籍を果たした。

ペテル・ドゥボフスキー
(Peter Dubovsky、1972年5月7日-2000年6月23日)は、チェコスロバキア(現スロバキア)、ブラチスラヴァ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW。現在、スロバキアの最優秀若手選手賞にも名前が使われている。1991-92シーズンは27ゴールを挙げてリーグ得点王を獲得し、その翌シーズンにも連続で得点王に輝いた。1993年にレアル・マドリードへと移籍し、2年間プレーする。その後、レアル・オビエドへと移籍。2000年6月23日、サムイ島で滝を撮影していた時に誤って落下してしまい、28歳でこの世を去った。

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ヤクブ・シルヴェストル
(Jakub Sylvestr, 1989年2月2日 - )は、スロバキア・バンスカー・ビストリツァ出身のサッカー選手。NKディナモ・ザグレブに所属する。ポジションはFW。リーグ戦通算83試合で13得点を記録。2010年8月30日、NKディナモ・ザグレブに5年契約で移籍した。

イヴァン・ベラ
(Ivan Bella、1964年5月25日-)は、スロバキア共和国軍大佐で、スロバキア人初の宇宙飛行士である。翌1999年2月20日、スロバキア初の宇宙飛行士としてソユーズTM-29に搭乗してミールを訪れ、スロバキアは国民を宇宙に送った29番目の国となった。

ゴラズ (プラハ主教)
Gorazd、1879年 - 1942年)は、正教会の主教であり聖人(新致命者)。プラハ主教として、 チェコ・スロバキア正教会の創設と拡大に中心的役割を果たした。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するとともに、新しく独立した国家であるチェコ・スロヴァキアにおいてカトリック教会に従うことを要求する法が緩和されるとともに、パヴリクはカトリック教会の改革運動に参加。

アドルフ・ブルガー
(Adolf Burger、1917年8月12日 - )は、スロバキア生まれのジャーナリスト。若くして印刷技術を学び、ナチスが台頭を始めたポーランドにおいてユダヤ人が身分を偽り迫害から逃れるためのカトリック洗礼証明書を偽造していた。第二次世界大戦のさなか親衛隊によって捕えられ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に収容される(妻は収容され処刑されている)が、印刷工としての手腕を買われてザクセンハウゼン強制収容所に移送され、親衛隊主導による紙幣贋造作戦「ベルンハルト作戦」に携わることとなる。終戦後、自らの体験を後世に伝えるためジャーナリストとなり、出版や講演を通じてファシズムを糾弾する活動を続けている。

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アドリアナ・カランブー
Adriana Karembeu 1971年9月17日 - )は、スロバキアのファッションモデル、俳優、実業家。ギネス・ワールド・レコーズに世界一脚の長いモデル(腰骨から長さ)として認定されている。1971年、スロバキア人の母と、チェコ人の父の間に生まれる。プラハ・カレル大学医学部に通っていたが中退。1992年21歳でモデルデビューし、1998年にはTVシリーズ「Eurotrash」に出演した。2004年「Jak basníci neztracejí nadeji」で映画デビュー。

ジョセフ・マキシミリアン・ペッツヴァール
(Josef Maximilian Petzval 、1807年1月6日 - 1891年9月19日)はスロバキア生まれのレンズ設計者、数学者。レンズ設計者としての主要な業績としてはポートレートレンズ、オルソスコープがあり、製造をフォクトレンダーに委託していたが1845年に仲違いし製造委託先をディーツラーに変更した。

ルチア・ポップ
(Lucia Popp, 1939年11月12日 - 1993年11月16日)は、スロバキア出身でオーストリアを中心に活躍したオペラ歌手。声域はソプラノで、リート歌手としても録音・演奏に活躍した。当初は演劇を学びにブラティスラヴァ・アカデミーに通っていたがここでのレッスンを受けるうちに声楽を志すようになる。1963年にブラティスラヴァ歌劇場でオットー・クレンペラーの指揮による『魔笛』の夜の女王役でデビューを果たし、同年にウィーン国立歌劇場と契約した。

ヴラディミール・ゴダール
(ヴラド・ゴダール、Vladimir Godar, 1956年3月16日 ブラチスラヴァ - )は、現代音楽と映画音楽の両分野で活躍するスロバキアの作曲家。また、チェコ人ヴァイオリニスト・歌手・作曲家のイヴァ・ビトヴァとのコラボレーションでも知られる。さらに学者として、歴史的音楽研究の本の執筆・編集・翻訳を行い、19世紀のスロヴァキアの作曲家ヤーン・レヴォスラフ・ベラの音楽と名声の復活に貢献した。

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エウゲン・スホニュ
(Eugen Suchon、1908年9月25日 - 1993年8月5日)はスロバキアの作曲家。ペジノク出身。父親はオルガニストで、母親はピアニストだった。最初、母からピアノを学び、12歳のときからブラチスラヴァに出てピアノのレッスンを受けた。

ユライ・ヴァルチュハ
Juraj Valcuha、1976年 - )は、スロバキア出身の指揮者。ブラチスラヴァで民俗音楽の演奏家を父親として生まれ、幼い頃から親しんでいたツィンバロムや、作曲、指揮を地元の音楽院で学んだ後、1995年から2年間サンクトペテルブルク音楽院に留学し、イリヤ・ムーシンに教えを受けた。

 

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