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サンマリノ共和国
Republic of San Marino

ヨーロッパ

■地理
イタリアのエミリア=ロマーニャ州のリミニ県とマルケ州のペーザロ・エ・ウルビーノ県に挟まれている。海とは接していないが23kmしか離れておらず、国土自体が高台にあるためアドリア海を眺望することはできる。大きさはニューヨーク市のマンハッタン島とほぼ同じ。


ティターノ山
ティターノ山(イタリア語: Monte Titano)は、サンマリノの山。アペニン山脈の一角を成す同国の最高峰で、標高は739mである。
2008年に「中世以来の独立した共和制の継続を示す証拠」として首都サンマリノ市の史跡群とともにユネスコの世界文化遺産に登録され。口碑によると、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害からイタリア半島に逃れた者に、クロアチアのラブ島の石工マリヌス(聖マリヌス)がいた。彼はローマで未亡人フェリチータに雇われ、亡くなった夫の石棺をつくった。そこで彼はキリスト教の教義を説き、彼女を改宗させた。彼女からティターノ山を譲り受けたマリヌスはそこに郎党とともに落ち延び、宗教的コミュニティを建設、これが現在のサンマリノ市である。


アドリア海
アドリア海(イタリア語: Mar Adriatico, クロアチア語: Jadransko more)は、イタリア半島とバルカン半島に挟まれた海である。北部は閉じており、ヴェネツィア湾と呼ばれる。南部はオトラント海峡、イオニア海を経て地中海に繋がる。バルカン半島沿岸には、ダルマティア諸島がある。

イタリア半島
Penisola italiana)は、ヨーロッパ大陸のアルプス山脈の南側から地中海に南東に延びた形の半島。別名アペニン半島。東側をアドリア海、南側をイオニア海、西側をティレニア海に分断している。アペニン山脈が貫いていて、半島のつけ根には北のアルプス山脈と南のアペニン山脈に囲まれるようにパダーナ平原がある。

アペニン山脈
イタリアの山脈。イタリア半島を縦貫する山脈であり、長さは約1,200km。最高所はコルノ・グランデの標高2,912m。アフリカプレートがユーラシアプレートに衝突した[1]白亜紀末期より隆起が開始された。

ダルマチア
Dalmaziaとはクロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと。中央クロアチア、ダルマチア地方、スラヴォニア地方、イストリア地方の4地方で、現在のクロアチア共和国が構成されている。


イタリア
Repubblica Italiana)、通称イタリアは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。イタリア半島およびその付け根に当たる部分と、地中海に浮かぶ2つの大きな島(サルデーニャ島、シチリア島)からなる。国土北部のアルプス山脈において、フランス、スイス、オーストリア、スロベニアと国境を接し、南西のシチリア島の対岸にチュニジアが、南には旧植民地のリビアが存在する。またサンマリノ、バチカンの領土を取り囲んでいる。首都はローマ。


山頂の独立国
このサイトでは、非常に小さな国でありながら、大きな存在感を持つサンマリノ共和国について、歴史や国の詳細データ、観光スポットまでを詳しくご紹介します。


日本サンマリノ友好協会
4世紀初頭、ローマ皇帝によるキリスト教徒迫害を逃れるため、マリーノという石工がこの地にたてこもり、信徒を集め共同体を作ったのが建国の伝説とされています。中世にも天然の要塞を利用し外敵の侵入を防ぎ、自由と独立を守り続けました。1631年にローマ法王により独立的地位を認められ、1862年にイタリアとの友好善隣条約を結び近代国家としての主権と独立を確立しました。


<歴史>
■4世紀
イタリア半島の対岸ダルマツィア地方出身の石工マリヌス(聖マリノ)が、ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害を逃れるために、仲間と共にチタン山(現サンマリノ市のティターノ山)に潜伏。

■1257年
ギベリン(皇帝派)=グエルフ(教皇派)の闘争に巻き込まれ、ローマ教皇インノケンティウス4世より破門される(2年後、破門解除)。

■1739年
アルベロニ枢機卿によって一時的に占領されるが、教皇クレメンス12世の勧告により独立を維持。

■1815年
ナポレオン戦争後のウィーン会議で、サンマリノの独立が再確認される。

■1849年
イタリア統一を目指すジュゼッペ・ガリバルディをオーストリア軍の追撃から匿う。

■1854年
教皇ピウス9世が、ガリバルディを匿ったサンマリノを「自由主義者の巣窟」として糾弾。トスカーナ大公国に命じてサンマリノ共和国の教皇領併合を企てるが、失敗。

■1947年
世界初の自由選挙による共産党政権が誕生する。

■1992年
3月2日、国連に加盟。

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イタリア統一運動
世紀に起こったイタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。イタリア語でリソルジメント(Risorgimento)と呼ばれ、日本語でもそのまま用いられる。1861年にはイタリア王国が建国され、統一は一応の成立を見る。1866年にはヴェネツィア、1870年にローマなどの教皇領の残りを併合し、半島の統一は終了するが、イタリア人(イタリア系の文化を持つ者)が住む土地全てを統一の対象としたこの運動において、未回収地の併合はその後も政治課題として残った(イレデンタ回収主義[3])。最終的に未回収のイタリアがイタリア王国に統合されるのは、第一次世界大戦におけるイタリアの戦勝の後であった。


教皇派と皇帝派
12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。ゲルフとギベリンともいう。元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ(グエルフィ、Guelfi)とギベリン(ギベッリーニ、Ghibellini))となった。

ゲッケイジュ
Laurus nobilis)は、クスノキ科の常緑高木。地中海沿岸原産。雌雄異株。葉に芳香があって古代から用いられた。ギリシャ神話のアポロンとダフネの物語に由来し、ギリシャやローマ時代から神聖視された樹木の一つ。古代ギリシアでは葉のついた若枝を編んで「月桂冠」とし、勝利と栄光のシンボルとして勝者や優秀な者達、そして大詩人の頭に被せた。

教皇
キリスト教の高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。

カトリック教会
ラテン語:Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。カトリック教会の教説(教え)は「聖書と聖伝」という言葉であらわされるように、旧約聖書、新約聖書およびイエス・キリストと使徒の教えに由来し、教父たちによって研鑽され、多くの議論を経て公会議などによって確立されてきたものである。


トスカーナ大公国
Granducato di Toscanaは、16世紀から19世紀にかけて北イタリアに存在した国家。領域はほぼ現在のトスカーナ州にあたり、同州の前身となった。トスカーナが政治的な実体を持って地理的文化的に成り立ったのは、15世紀から始まった都市国家フィレンツェがその拡大政策によって1405年にピサを、1421年にはリヴォルノを取得したことに始まった。


■公用語
イタリア語。
■宗教
ローマ・カトリックが支配的である。
■在留日本国民
4人(2009年)。
■在日本国サンマリノ人
1人(2009年)。
■平均寿命
世界保健機関(WHO)が発表した、2007年版の世界保健報告によると、2005年のサンマリノの平均寿命は男性が80歳で世界一、女性は84歳で3位。


■観光業
ンマリノの観光業はコインや切手の発行とともに重要な基幹産業であり、そのユニークな歴史や景観、また買い物を目的として多くの観光客が集まる。毎年9月3日は、町の創立者である聖マリーノを記念する祭典("Festa di San Marino")が行われ、中世の時代衣装を身に着けたパレードや石弓競技がおこなわれ、人気を集めている。また、ティターノ山の山頂にはロープウェイで登るルートがあり、アドリア海の眺望を楽しむことができる。首都サンマリノ市には、大聖堂、ゴシック様式のサン・フランチェスコ教会、1894年に建てられた政庁、ロッカ・グアーイタ、ロッカ・デッラ・フラッタ、ロッカ・モンターレとよばれる3つの岩峰・城塞があり、中世のおもかげをのこしている。


サンマリノグランプリ
San Marino Grand Prix)は、1981年から2006年までイタリアで行われたF1のレース名。サンマリノ共和国の名が冠されているが、実際にはイタリアのイーモラ市にあるフェラーリ系のエンツォ・エ・ディノ・フェラーリ・サーキット(通称イモラ・サーキット)で行われていた。1994年サンマリノGP予選中に当時ジョーダン・ハートのルーベンス・バリチェロがクラッシュして骨折、翌日にはシムテック・フォードのローランド・ラッツェンバーガーがヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュし死亡という事故が起こる。そして決勝ではウィリアムズ・ルノーのアイルトン・セナがタンブレロコーナーでコンクリートウォールにクラッシュし死亡する事故が発生した。1995年にはタンブレロコーナーを改修するなどの措置をとることで死亡事故後も開催は続けられていたが、2006年からイモラ・サーキットが大規模な改修工事が行われること、また国際自動車連盟(FIA)が、「F1の世界選手権シリーズ開催を1カ国・1レースのみを厳守する(例外廃止)」という取り決めが制定されることになり、2007年のサンマリノGP中止が決まった。

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カンピオナート・サンマリネーゼ
Campionato Sammarinese di Calcioは、サンマリノのサッカーリーグである。1985年創設。最初の1985-86シーズンのみ通常のリーグシステムで実施されたが、1986-87シーズンから1995-96シーズンまでのあいだは昇格・降格制度を有するセリエA1 (Serie A1) とセリエA2 (Serie A2) の2レベルから構成されていた。


マヌエル・ポジャーリ
( Manuel Poggiali, 1983年2月14日 - ) は、サンマリノ出身の元モーターサイクル・ロードレーサー。ロードレース世界選手権で2001年125ccクラス、2003年250ccクラスの2度のチャンピオンを獲得した。通算12勝・11ポールポジション、35回の表彰台。モチベーションの低下などメンタル面で苦しむことが多く、若くしてレーサーを引退することになった。ポジャーリは1994年にミニバイクレースを始め、1998年のムジェロで125ccクラスにワイルドカード枠で出場、GPデビューを果たす。翌1999年からはフル参戦を開始し、2000年のアッセンでは初表彰台を獲得する。2001年にはジレラを駆って宇井陽一、トニ・エリアスらと争った結果、見事ワールドチャンピオンに輝く。

ウルバヌス8世
(Urbanus V,1568年4月5日 - 1644年7月29日)はローマ教皇(在位:1623年8月6日 - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。三十年戦争を通じて見せた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目に余るネポティズム(親族登用主義)等様々な意味で最後の中世的教皇であった。

クレメンス12世
(Clemens XII,1652年4月7日-1740年2月6日)は18世紀のローマ教皇(在位1730年-1740年)。本名はロレンツォ・コルシーニ(Lorenzo Corsini)。教皇庁における財務のエキスパートとして活躍し、教皇在位中にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の壮大なファサードやトレビの泉を建設したことで知られる。アルバーニ枢機卿の膨大なコレクションを購入してバチカン図書館の内容を豊かにもしている。

インノケンティウス4世
(Innocentius IV, 1195年頃 - 1254年12月7日)は、第180代ローマ教皇(在位:1243年 - 1254年)。本名はシニバルド・フィエスキ(Sinibaldo Fieschi)。ハドリアヌス5世は甥に当たる。1245年、第1リヨン公会議を開催、フランシスコ会の修道士プラノ・カルピニを、東方より来襲したタタール(モンゴル帝国)の偵察と再侵入防止工作の為にタタールの居住地方へと派遣した。

サンマリノ San Marino
イタリア半島の中部に位置する共和制国家。首都は国名と同じくサンマリノ市。周囲は全てイタリアで、世界で5番目に小さな国(ミニ国家)である。また、現存する世界最古の共和国である。

イタリアのエミリア=ロマーニャ州のリミニ県とマルケ州のペーザロ・エ・ウルビーノ県に挟まれている。海とは接していないが23kmしか離れておらず、国土自体が高台にあるためアドリア海を眺望することはできる。大きさはニューヨーク市のマンハッタン島とほぼ同じ。

サンマリノ市
首都ではあるが、経済の中心はサンマリノではなく、ボルゴ・マッジョーレである。人口でもドガーナ、ボルゴ・マッジョーレに次ぐ同国3位。サンマリノ共和国で最も高いティターノ山の西の斜面に位置する。市内は玉石を敷き詰めた細い舗装道路で名高い。市の中心部には車は乗り入れできない。 イタリアのリミニに至る鉄道がベニート・ムッソリーニの政権下で第二次世界大戦前に作られたが、現在は運行していない。 ボルゴ・マッジョーレへは、1.5kmのケーブルカーがある。

ボルゴ・マッジョーレ
サンマリノ共和国に9つある基礎自治体(カステッロ)の1つである。ティターノ山の麓に位置し、人口は5992人(2003年末)。ドガーナに次ぐ国内第二の町となっている。このあたりはかつてMercatale(市場の意)と呼ばれていた。それゆえ、いまでも国内最大の市場町として機能している。人口こそドガーナにおよばぬものの、経済規模とサンマリノ市とのアクセスのよさがボルゴ・マッジョーレを都会的なショッピング街にしている。


外務省:サンマリノ共和国
在サンマリノ日本国大使館


セラヴァッレ
セラヴァッレ(イタリア語: Serravalle)は、サンマリノのカステッロ(基礎自治体)のひとつ。同国最大の町ドガーナがある。首都サンマリノ市の北約5kmに位置する。人口は9714人(2006年)で、面積は10.53 km2。4493人のサンマリノ市と比べてもはるかに多く、国内最大の人口を抱える。丘の上に位置することもあって、気候は涼しい。セラヴァッレ市街は中部の分離集落にある。国内最大級のスポーツ施設「サンマリノ・カルチョ・スル」があることでも有名である。

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リミニ県
Provincia di Riminiは、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州に属する県のひとつ。エミリア=ロマーニャ州の最も南東に位置する県で、北東にアドリア海に面し、南にマルケ州と接する。県の南には独立国のサンマリノ共和国があり、同国を三方から囲む形となっている。

ペーザロ・エ・ウルビーノ県
(Provincia di Pesaro e Urbino) は、イタリア共和国マルケ州の県の一つである。県都はペーザロ。北をエミリア=ロマーニャ州リミニ県およびサンマリノ共和国と接する。東はアドリア海に面する。


アックアヴィーヴァ
Acquaviva)は、サンマリノのカステッロ(コムーネ)。面積4.86平方キロ、人口1812人(2006年)。地元では重要な水源があることからこの名がついた。

キエザヌオーヴァ
Chiesanuova)は、サンマリノのカステッロ(コムーネ)。面積5.46平方キロ、人口1029人(2006年)。中世、この地にはブジニャーノ城があり、1320年、住民はサンマリノへの編入を決めた。キエザヌオーヴァの名はクルテのサン・ジョヴァンニ・バティスタ教会(現存せず)が再建されたころの16世紀にさかのぼる。

ドマニャーノ
Domagnano)は、イタリアのカステッロ(コムーネ)。面積6.62平方キロ、人口2865人(2006年)。かつてはその紋章にちなみモンテルーポ(オオカミの山)として知られたドマニャーノは、ローマ期すでに植民地化されていた。記録上に初めて地名があげられるのは1300年ごろのことである。

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ファエターノ
Faetano)は、サンマリノのカステッロ(コムーネ)。面積7.75平方キロ、人口1132人(2006年)。1463年にファエターノ側からの要望で編入された。これがサンマリノにとって、最後の領土拡張となった。

フィオレンティーノ
Fiorentino)は、サンマリノのカステッロ(コムーネ)。面積6.57平方キロ、人口2245人(2006年)。ローマ期以前に村落が存在したことを示す証拠がある。

モンテジャルディーノ
Montegiardino)は、サンマリノのカステッロ(コムーネ)。面積3.31平方キロ、人口818人(2006年)。1463年のサンマリノ最後の領土拡張で併合された。

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ウィーン会議
Congress of Viennaは、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された会議。ヨーロッパ諸国の代表が集い、議長はオーストリアの外相メッテルニヒが務めた。ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月1日から開催された。1792年より以前の状態に戻す正統主義を原則としたが、各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された。


都市国家
City-stateは、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政体としてひとつのまとまった形態をなす国家のことである。初期の都市国家は、都市周辺の農地・牧地において食をまかなう自給体制であったが、隣接する都市国家どうしでの交易がはじまると、交易に専従し、都市生活者の食をまかなうに十分な農地・牧地を持たない都市国家も成立した。


■政治
立法機関としては、国民の比例代表選挙によって選出される定員60名の大評議会(Consiglio Grande e Generale)があり、議員の任期は5年である。
行政の長である執政(Capitani Reggenti)は、大評議会議員の中から互選によって選出される。執政の独裁化を防ぐため、執政の人数は常に2名と決められており、しかも執政の任期は6ヶ月のみで再選は認められない。つまり、サンマリノは人口約3万人という小国家でありながら、一般の共和国の大統領に相当する国家元首が毎年4名ずつ交代で就任していることになる。なお、執政の就任式は毎年4月1日と10月1日に行われる。町一つが主権国家になったも同然(都市国家)のサンマリノでは、国民全員が「顔見知り」の状態であり、自国民では中立公平な裁判ができないという理由から、サンマリノにおける裁判はすべて外国人の裁判官によって行われる。もっとも、外国人といっても、サンマリノの国土はイタリアの内部にあり、実際の裁判官も基本的にはイタリアから赴任しているのが現状である。


サンマリノ共産党
Partito Comunista Sammarineseは、サンマリノ共和国に存在したマルクス・レーニン主義政党。1947年に自由選挙で初めて政権を獲得した(これによりサンマリノ共産党は世界で初めて合法的な選挙制度に基づいて政権を獲得した共産党となった)。周囲を囲むイタリアにあるイタリア共産党の影響が強く、資本主義体制の国家においては、同党を抜いて議席比率のもっとも高かった共産党である。後年はキリスト教民主党とともに連立政権を組むことが多かった。

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■経済
サンマリノは欧州連合の正式な一員ではないものの、欧州議会における取り決めによりユーロの流通が認められている。国連加盟国である。面積では世界で5番目に小さい共和国である。アメリカ大陸がヨーロッパに知られる前にすでにサンマリノ共和国初代大統領が就任していた歴史のある世界最古の共和国である。世界遺産にも認定されている。


■農業
サンマリノにおける第一次産業の比率は0.4%と低い。農業従事者は1000人(2003年)であり国土の約20%が農地、さらに20%が牧畜に利用されている。主な栽培作物はブドウ、コムギ、野菜類である。林業はほとんど見られない。貿易統計が公開されていないため、輸出入に占める農業生産物の割合、品目は不明。


■工業
サンマリノの工業は軽工業が主で、食品工業では、デザートワインとして用いられる甘口のモスカートワイン、オリーブ油、チーズなどが対象となる。繊維工業では、綿織物、染色業が見られる。窯業としては、陶器、タイル、レンガなど。

共和制
republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体[1][2] 。一般には、政府の大半の意思決定が元首の裁量によってではなく、成立した法を参照して行われる体制のこと。このため現在では君主制は共和制では無いとされる場合が多く、現代の一般的な定義では「共和制とは君主ではない元首を持っている政体」である。

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国名
サンマリノの正式名称はイタリア語でSerenissima Repubblica di San Marino(セレニッスィマ・レプッブリカ・ディ・サン・マリーノ)。通称San Marino(サン・マリーノ)。「Serenissima」とは「最も清らかな」の意。公式の英語表記は Most Serene Republic of San Marino(モースト・セリーン・リパブリク・オヴ・サンマリノ)。通称San Marino(サンマリノ)。4世紀初め、マリーノという名の石工がローマ皇帝によるキリスト教迫害を逃れ、この地に潜伏してキリスト教徒の共同体をつくったという伝説にちなんで、「聖(サン)マリーノ」が国名となっている。


1.面積:61.2平方キロメートル
2.人口:31,538人(2009年9月:サンマリノ経済企画局・統計センター)
3.首都:サンマリノ
4.言語:イタリア語
5.宗教:カトリック教
6.国祭日:9月3日
7.略史:4世紀初頭、ローマ皇帝によるキリスト教徒迫害を逃れるため、マリーノという石工がこの地にたてこもり、信徒を集め共同体を作ったのが建国の伝説とされている。中世にも天然の要塞を利用し外敵の侵入を防ぎ、自由と独立を守り続けた。1631年にローマ法王により独立的地位を認められた。1862年にイタリアとの友好善隣条約を結び近代国家としての主権と独立を確立した。

■主要産業:観光、金融、繊維、電気、製陶等
■主要貿易品目(1)輸出 建築用石材、石炭、木材、栗、小麦、ワイン等(2)輸入 消費財全般、食料品

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ユーロ
1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。ユーロ紙幣のデザインは統一されているが、紙幣に印刷されている番号の先頭の文字によって、その紙幣の印刷された国が判別されるようになっている。


ジュゼッペ・ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)はイタリア王国統一に貢献した軍事家である。イタリア統一運動を推進。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率いた。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人。1860年、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく余生をカプレーラ島で送った。

ピウス9世
(Papa Pio IX、1792年5月13日 - 1878年2月7日)は、カトリック教会の司祭、第255代ローマ教皇(在位:1846年6月16日 - 1878年2月7日)。本名はジョバンニ・マリア・マスタイ=フェレッティ(Giovanni Maria Mastai-Ferretti)。31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を持ち、イタリア独立運動の中で、古代以来の教皇領を失い、第1バチカン公会議を召集し、『誤謬表』を発表して近代社会との決別を宣言。

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ディオクレティアヌス
ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(ラテン語: Gaius Aurelius Valerius Diocletianus、 244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。軍人皇帝時代を収拾し、ドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。

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