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ルーマニア
Romania

ヨーロッパ

■地理
西のセルビア、南のブルガリアとの間におけるルーマニアの国境は、基本的にドナウ川を境界としている。モルドバとの国境線であるプルト川もドナウ川と合流し、東に位置する黒海に注ぐ。ドナウ川の河口は三角州(ドナウ・デルタ)となっており、生物保護区となっている。


バルカン半島
Balcaniaは、ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや旧ユーゴスラビアのスロベニアをバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない。

黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、グルジアである。

トランシルヴァニアアルプス山脈
Transylvanian Alpsは、ルーマニアの中央を東西に走る山脈である。「トランシルヴァニア」という名称は、ルーマニアのトランシルヴァニア地方に由来する。この山脈はトランシルヴァニア地方とワラキア地方を隔てており、かつてはハンガリー王国とオスマン帝国、後にはルーマニア王国との国境でもあった。

カルパティア山脈
主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。 スロバキアのブラチスラヴァ付近から北東に延び、東、南東へ向きを変えてルーマニア中部のトランシルヴァニアに達し、さらに西、北へと向きを変える。最高峰はスロバキアの最高峰でもあるゲルラホフスカ山(2663m)。

プルト川
ヨーロッパの河川である。ウクライナ領内から流れ出し、ルーマニアとモルドバの境界をなす。ザカルパッチャ、ブコビナ、ベッサラビアを流れる。フツーリシュチナの分水嶺・カルパティア山脈のコヴェールラ峰(2,061 m)のすぐ東斜面から流れ落ち、チェルニウツィー州を貫流した後、ルーマニアとモルドバの境界線に沿って流れ、ガラツィ東部でドナウ川に合流する。総延長953km。

ドナウ川
ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。ワラキア平原をブルガリアとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れた後、大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。チェルナヴォダでドナウ-黒海運河と接続する。その後再び東に向かい、ウクライナとルーマニアの国境をなす。

ドニエストル川
Nistruニストルは、ポーランド国境に近いウクライナ西端・リヴィウ州のドロホブィチ付近から発し、ウクライナとモルドバ共和国の国境を形成しながら南ブジャク地方を貫流し、トランスニストリアでドニエストル潟を経てオデッサ州の黒海に注ぐ河川。


<歴史>
■古代
ガタエ人(ラテン語ではダキイ人)と呼ばれる民族が居住していた。ローマ帝国の領土となったことがあり(ダキア属州)、現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。
紀元前513年、ドナウ川南でガタエ人の部族連合が、対スキュタイ人戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。約600年後、ガタエ人(ダキイ人)は、ロ−マ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年-106年)に敗れた。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。

■238年から258年
ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。

■271年
かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いた後、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。

■中世
ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。
トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、後にハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。

■1877年
独立宣言を行った。1878年ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立。第一次世界大戦でトランシルヴァニアを併合した。

■1940年
第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなど、ルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。

■1944年
8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、王国内のドイツ軍を壊滅させた後にチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。

■1947年
ルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。

■1989年
ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権がルーマニア革命によって打倒され、民主化された。

■2007年1月1日
欧州連合 (EU) に加盟した。加盟に際しては、改革が不十分であるとして欧州理事会によって再審査されたが、加盟後も改革を続行するとして承認された。

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サルマタイ
Sarmatae、Sarmatiaは紀元前4世紀〜紀元後4世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧民族。サルマート人、サルマタエ、サルマティア人ともいう。紀元前4世紀後半までドン川下流とアゾフ海の沿岸に居住していたサウロマティア人と区別する。紀元前5世紀頃、ユーラシアのステップにおいて、西にスキタイ人、その東にサルマタイ人、その東方にサカ人が暮らしていた。サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、西方の南ウクライナ(黒海北岸)に移動し、スキタイ人をクリミアとドブルツァへと追い払った[1]。紀元前2世紀には、サルマタイ人はヨーロッパに侵入し、そのまま残ったものはアラン人と呼ばれるようになった。

ゴート族
Goteとは、ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。

ゲピド族
Gepids、は、東ゲルマン系のゴート族の一支族で、アッティラの死後にフン族を打ち破ったことで歴史に名を残している。現在のルーマニア、スロバキア、ハンガリー、セルビアのあたりにあった。ゲピド族についての最古の記録は紀元260年のもので、ゴート族によるダキア侵略に参加し、歴史家ヨルダネスの生きていた6世紀中ごろにはそこに定住していた。

モルドバ人
Moldoveniは、モルダヴィア地方に住むラテン系の民族集団であり、ルーマニア人の一部をなす。現在のルーマニアやモルドバ共和国、ウクライナ領にまたがるモルダヴィア地方に伝統的に居住してきた。

ルーマニア人
romaniは、ルーマニアおよびモルドバ共和国で多数派を形成する民族である。アルーマニア人などの他の南東ヨーロッパのラテン系諸民族と共に「ヴラフ人」と他称される。起源はローマ帝国の皇帝トラヤヌスがバルカン半島のドナウ川以北の地ダキアを征服し属州ダキアを置いたことに遡る。その結果、多くのラテン系のローマ人が移住し、現地のダキア人と混血。


■民族
ルーマニア人が89%、マジャル人(ハンガリー人)が6%、ロマ人が2%などである。その他にはセルビア人、ウクライナ人、ドイツ人、トルコ人、タタール人、スロヴァキア人、ブルガリア人、ロシア人、ユダヤ人、等が居住している。


ダキア人
ダキア人は紀元前1000年頃から、ダキア地方(現在のルーマニア)に住んでいたトラキア系の民族のこと。現在のルーマニアでは、このダキア人とローマ人の混血した人々がルーマニア人の祖先であるとされている。

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ブルガール人
(Bulgar)は、中世の東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民である。人種はかつてモンゴロイドに属していた。広い地域に分散した彼らのうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人ともいう。

ペチェネグ
Pechenegsは、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。9世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)、ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人,ティーヴェルツィ人を追い出した。

トランシルヴァニア・ザクセン人
Siebenburger Sachsen;は、12世紀以降、トランシルヴァニアへ移住したドイツ人を指す名称。トランシルヴァニア・ザクセン人人口は、第二次世界大戦後に減少した。彼らの大半がドイツへ移住していったが、現在も残った人々がハンガリー、ルーマニアで知られる少数民族として残っている。

セーケイ人
(Szekely)はトランシルバニア東部のセーケイ地方に居住するハンガリー系住民で、現在はルーマニアの少数民族となっている。ハンガリー王国はセーケイ人をトランシルバニアの防人、屯田兵のように利用しており、近世以前のトランシルバニアでは、1437年に(セーケイ人以外の)マジャル人貴族と郷士のセーケイ人と自由市民であったザクセン人と「三国民同盟」(Unio trium nationum)を締結し、特権階級を形成していた。

スキタイ
Skythai,は紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称で「スキュティア地方の人々」の意味であるが、国家的な意味では後に述べる王族スキタイを指した。


ルーマニア語
ルーマニアの公用語であり、またその周辺地域でも使用されている言語である。インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に分類される。ラテン語の東部地域における方言。バルカン・ロマンス語派。モルドバ語はルーマニア語とほぼ同じ。ダキア・ルーマニア語は、ラテン口語やダキア・トラキア語などを起源にもつバルカン・ロマンス語の一方言がスラヴ語などの強い影響を受けることにより、中世に成立した。現在のルーマニア語諸方言は、7世紀から10世紀のある時点までは、ひとつの言語だったと考えられている。


ガリア
Gallia とは、ガリア人(ケルト人の一派)が居住した地域の古代ローマ人による呼称。地理上の概念としての「ガリア」の起源は、紀元前4世紀にさかのぼる。イタリア半島北部に押し寄せて定住した部族集団を、ローマ人は「ガリア人」(Galli ガッリー)と呼び、ガリア人の居住するイタリア半島北部が「ガリア」(Gallia ガッリア)と呼ばれるようになったのが始まりである。

ワラキア
Wallachia、は、ルーマニア南部の地方名である。ワラキアはドナウ川の北、南カルパチア山脈の南に位置する。オルト川で東西を分け、東部をムンテニア、西部をオルテニアと呼ぶ。モルダヴィアとの境は、伝統的にミルコヴ川となってきた。ドナウ川河口の南北を領するのはドブルジャである。首都とされた都市は時代と共に移り変わり、クムプルングからクルテア・デ・アルジェシュ、トゥルゴヴィシュテ、そして16世紀後半からブカレストが首都となった。

トランシルヴァニア
(Transylvania)はルーマニア中部・北西部の歴史的地名。東にはカルパティア山脈、南にはトランシルヴァニアアルプス山脈(南カルパティア山脈)が横たわる。北はウクライナ、西はハンガリー、南西はセルビアに接している。

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モルダヴィア
Moldova、は、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称である。ルーマニアの東北部、すなわちカルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指す。

ブジャク
Bugeacブジャク;)はウクライナの歴史的地名である。ベッサラビア地方の南部、黒海沿岸のドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域を指す地域である。しばしば、南ベッサラビアとも呼ばれた地域で、今日ではウクライナのオデッサ州に属している。

ベッサラビア
Besarabyaは、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。第一次世界大戦終結時にはルーマニア王国と合併した。


オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。


アヴァール
Avarsは、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。


ハプスブルク家
Haus Habsburgは、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。

ルーマニア正教会
Romanian Orthodox Churchは正教会に属する独立教会のひとつ。かつてはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、19世紀末に独立教会となった。ルーマニアに住むルーマニア人の大多数を信者とする(2002年の統計によれば約2千万人)。現在、正教会において、信徒数第2位を誇る(1位はロシア正教会)。


ルーマニア王国
Regatul Romanieiは、1881年3月13日に、ルーマニア公国の大公カロル1世が国王に即位して成立したルーマニアの王国。1945年5月8日の第二次世界大戦の敗戦(ソビエト連邦による占領)によって崩壊し、1947年12月30日には君主制が廃止されて法的に崩壊した。長らくオスマン帝国の宗主下に置かれていたルーマニアであったが、ワラキアとモルダヴィアの連合公国から発展したルーマニア公国が1866年に憲法を制定した後、1877年5月9日に独立を宣言。翌年のサン・ステファノ条約およびベルリン条約にて列強の独立承認を受け、1881年に大公カロル1世は国王に即位。名実共に独立国としてのルーマニア王国が成立した。

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ルーマニア革命 (1989年)
1989年12月に、ルーマニアで発生した革命である。この革命により、ルーマニア社会主義共和国が打倒され、現在のルーマニア共和国が樹立された。ルーマニア民主革命やルーマニア政変とも言われる1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政府が相次いで打倒された東欧革命において唯一、武力により共産党政府が打倒された。きっかけは大統領のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャが突然死去(銃撃による死亡)したことから、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧しチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。


チェルブル・デ・アウル国際音楽祭
ルーマニアの ブラショフで年に一度開催される音楽祭である。 「チェルブル・デ・アウル」とはルーマニア語で「金の牡鹿」の意味。最初の開催は1968年で、主たる主催者はルーマニア最大のテレビ放送網、ルーマニアテレビ (ルーマニア語: Televiziunea Romana)、TVR)である。以前は夏期に開催されていたが、近年は少し遅くなり、秋に近い時期に開催されるようになった。2006年には、トップアーティストの参加を確実にするため、春に行う事も検討されていた。


<世界遺産>
■ドナウ・デルタ
要塞教会のあるトランシルヴァニアの村落
トランシルヴァニア地方に残る古い村落群は、しばしば要塞化された聖堂の周りに発達した。こうした要塞聖堂群は300ほど形成されたが、そのうち世界遺産登録されているのは、かつてザクセン系移民(トランシルヴァニア・ザクセン人)が築いた6つの村落とセーケイ人が築いた1つの村落の計7村である。

ビエルタン
ビエルタンはシビウ県北部に位置し、県都シビウの北東 80km、Mediasからは直線距離で東に15 km(道なりには34 km)、ルーマニアの国道14号(DN14)からは18km に位置している。2002年時点での人口は約3000人である。1775年に、ビエルタンから5km ほどの森の中で、4世紀に遡る奉納額が発見された。「ビエルタンの奉納額」(Donariumul de la Biertan)として知られるこの奉納額は、アウレリアヌス帝の決定によりダキアのローマ行政府が撤退した時(275年)以降に、トランシルヴァニア地方にラテン語を話す人々がいたことを示すと同時に、ルーマニア人との連続性を示すものである。

ホレズ修道院
領主の名前にちなむ「ブルンコヴェネスク様式」と呼ばれる独創的なデザインの、美しい白い石造りの修道院として知られている。また、周辺には4つの附属する教会が存在する。

モルドヴァ地方の教会
壁画に描かれているのは、キリストの受難と復活の物語、オスマン帝国との戦争が主である。過酷な戦争の中、壁画は特別な意味を持って描かれた。当時、モルダヴィアの人々にとって最大の苦難が、イスラム教の大国オスマン帝国からの攻撃であった。そこで村の人々が、どこにいても勇気と励ましを得られるよう、教会の外にまで壁画が描かれた。村民はキリストの受難と復活を自分たちの運命に合わせて、つらい時代を乗り越えることができたと伝わっている。

シギシォアラの歴史地区
かつてラテン語でカストゥルム・セクス (Castrum Sex) と呼ばれたシギショアラの歴史地区は、現在もなお人々が暮らす中世的城塞都市であり、「ルーマニアの宝石」とも称えられるその美しい街並みは、トランシルヴァニア・ザクセン人の850年に及ぶ歴史と文化の例証として、1999年にユネスコの世界遺産に登録された。世界遺産を構成するのは、城塞都市の防衛機能を担った防壁と見張り塔、いくつかの広場と教会、それと中世的な景観を保持している赤い屋根が並ぶ民家群などである。構成資産は城壁内だけでなく、ヘルマン・オーベルト広場など、城壁外の区域も若干含まれている。

■オラシュチエ山脈のダキア人要塞

マラムレシュ地方の木造教会
8つの代表的なルーマニア正教会の木造聖堂が登録されている。それらは、西端に背が高くほっそりとした鐘楼を備えた高度な木造建築物であり、北部ルーマニアの山岳地帯における文化的景観を、その地域固有の方法で体現したものである。マラムレシュは中世以来の自治的な伝統によって、ルーマニアの中でも比較的よく知られた地方である。その保存状態の良好な木造の聖堂や村落、伝統的な生活様式、今なお用いられている地方独特の色鮮やかな服装などは、マラムレシュをあたかも生きた博物館のようにしている。

ニコラエ・チャウシェスク
1918年1月26日 - 1989年12月25日は、共産党時代のルーマニアの政治家。ルーマニア社会主義共和国初代大統領(1974年〜1989年)、国家評議会議長(1967年〜1989年)、ルーマニア共産党書記長(1965年〜1989年)を歴任。共産党時代のルーマニアを象徴する独裁者として有名である。1918年、ルーマニア王国・オルト県スコルニチェシュティ村にて、農民の息子として生まれる(チャウシェスクの家族についてはen:Ceau?escu familyを参照)。11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移住する。1932年、当時は非合法組織であったルーマニア共産党に入党し、1933年に最初の逮捕を経験する。

ラドゥ・ルプー
(Radu Lupu、1945年11月30日 - )はルーマニア出身のピアニスト。少年期にピアノを学び始め、1959年にブカレスト音楽院でフロリカ・ムジチェスクに入門、リパッティと同門になる。1960年より1968年までモスクワ音楽院に留学してスタニスラフ・ネイガウスらに師事。1966年第2回ヴァン・クライバーン国際コンクール、1967年エネスコ国際コンクール、1969年リーズ国際ピアノ・コンクールにおいてそれぞれ優勝者となった。

ヴィシュキ・ヤーノシュ
1906年6月10日 - 1961年1月16日)は、ハンガリーの作曲家。コロジュヴァール(現ルーマニア領クルージュ=ナポカ)出身。1927年から1932年の間コダーイ・ゾルターンに師事。1941年からブダペスト音楽院で作曲を教えた。交響組曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、チェロ協奏曲、バリトンと管弦楽のためのバラード、合唱、歌曲などを作曲した。

シャーンドル・ヴェーグ
(Sandor Vegh、1912年5月17日 - 1997年1月7日)は、ハンガリー生まれのフランスのヴァイオリニストである。1912年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国第2の都市コロジュヴァール、現在のルーマニア、クルージュ=ナポカで生まれた。6歳からピアノを学び始めた。1924年、リスト音楽院(ブダペスト)に入学し、ヴァイオリンをイェネー・フバイに、作曲をゾルターン・コダーイに学んだ。

オイゲン・キケロ
オイゲン・キケロ(Eugen Cicero、Eugen Cziczeo、ルーマニア名 Eugen Ciceu、1940年6月27日 - 1997年12月5日)は、ジャズのピアノ奏者。クラシックをジャズ化して演奏し、成功を収めた第一人者である。中でもバッハの作品のジャズ化が有名。息子のRoger Ciceroは、ドイツ語圏を中心に活躍中のシンガーである。出生地はルーマニアのクラウゼンブルク。幼い頃よりクラシックのピアニストであった母親からピアノを習い、10歳の時にはリサイタルを開くようになるほどの天才振りを発揮した。しかし、兄の影響でジャズに興味を持ち始めるようになり、18歳の時には兄と一緒にジャズグループで活躍するようになる。

コンスタンツァ
ルーマニアの都市。コンスタンツァ県の県都。人口は約31万人(2002年)。紀元前7世紀にギリシア人によって建てられた植民市であるトミスが、コンスタンツァの起源となった。古代ローマ帝国の時代に、オクタヴィアヌスの怒りをかった詩人のオヴィディウスが、この地に追放された。

アレクサンドラ・スタン
Alexandra Stan, 1989年6月10日 - は、ルーマニア・コンスタンツァ生まれのシンガーソングライター。『小悪魔ビート・プリンセス』の異名を持つ。ルーマニア社会主義共和国(現在のルーマニア)の最東南部にある黒海沿岸の都市コンスタンツァ県コンスタンツァにて生まれた。スタンは、幼少より歌唱に情熱的な反応を見せ、音楽的な才能を表した。それもあって、家族から熱心なサポートを受けていた。スタンは、コンスタンツァにあるトライアン高校に通った。同校卒業後、アンドレイ・サグナ大学経営学部に入学して、ルーマニア法と国際関係論を学んだ。

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ジョージ・エミール・パラーデ
(George Emil Palade, 1912年11月19日 - 2008年10月8日)はルーマニアのヤシ生まれのアメリカ人細胞生物学者。1974年に細胞の構造と機能に関する発見により、クリスチャン・ド・デューブ、アルベルト・クラウデとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。パラーデはノーベル賞の他に、1970年にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞をアルベルト・クラウデ(1974年ノーベル医学賞共同受賞者)、キース・ポーターと共に受賞、1986年にはアメリカ国家科学賞を受賞している。

ヴラド・ツェペシュ
ワラキア公ヴラド3世(Vlad III , 1431年11月10日 - 1476年)、通称ドラキュラ公または串刺し公(Vlad Draculea / Vlad Tepes)は、15世紀ルーマニアのワラキアの領主。諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、オスマン帝国と対立した。日本では主に「ヴラド・ツェペシュ」と表記されることから、ツェペシュを姓と認識されることが多いが、これは「ドラキュラ」と同様にニックネームであり、本来は単に「ヴラド」である。「ドラキュラ」のニックネームから分かる通り、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルの一人として知られる。しかし現在は、ルーマニア独立のために戦った英雄として再評価されている。

コンスタンティン・シルヴェストリ
(Constantin Silvestri, 1913年5月31日-1969年2月23日)は、ルーマニア出身の指揮者・作曲家。ブカレストに生まれ、ブカレスト国立音楽大学に学ぶ。1930年に指揮者としてデビューし、ルーマニア国立放送管弦楽団の首席指揮者、ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を歴任。1963年にはイギリスのボーンマス交響楽団の首席指揮者となる。1967年にイギリスに帰化し、ロンドンで没す。フランス国立放送管弦楽団を指揮しフランスのADFディスク大賞を獲得したドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」は日本でも有名である。

トラヤン・バセスク
1951年11月4日 ‐ )はルーマニアの政治家。大統領(第4代)。下院議員、下院副議長、運輸大臣、ブカレスト市長、民主党党首を歴任。ルーマニア東部コンスタンツァ県出身。新欧米派。ルーマニア革命以来2代の大統領が拒み続けてきたチャウシェスク時代の秘密警察ファイルの公開を行い、また汚職の摘発などにも精力的であった。2004年には北大西洋条約機構に、2007年には欧州連合への加盟を果たした。2007年4月19日に代議院によって職務停止となり、弾劾される。同年5月19日の国民投票で勝利し、職務にとどまる。

アニソアラ・スタンチウ
(Anisoara Cusmir-Stanciu、1962年6月28日-)は、ルーマニア出身の元陸上競技選手で、専門は走幅跳である。スタンチウは、1982年に7m15の世界新記録を樹立。しかし、すぐに同じルーマニアのバリ・イオネスクが世界新記録7m20を樹立する。ところが、スタンチウは、1983年5月に7m21を出し、再度世界記録保持者となる。さらに翌月に7m27、7m43と世界新記録を連発した。

ヤニス・クセナキス
Iannis Xenakis、 1922年5月29日 - 2001年2月4日は、ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。建築家。建築と数学を学んだ後、第2次世界大戦中にギリシャ国内で反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に加わる。枢軸軍のギリシャ退去後に進駐して来た英軍と戦った際に、銃弾を受け顔の左側に傷を負い左目を失う。大戦後は独裁的新政府に抵抗する運動に加わるが、1947年にレジスタンス活動家に捕縛の危機が迫ったためにギリシャを脱出。1948年より建築家ル・コルビュジエの弟子として学び、ブリュッセル万国博覧会(1958年)でフィリップス館の建設に携わる。このフィリップス館ではエドガー・ヴァレーズの大作電子音楽「ポエム・エレクトロニーク」が演奏され、後に自作の電子音楽を大規模施設で上演する際の参考となった。

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ドイナ・メリンテ
Doina Melinte、1956年12月27日 - は、ルーマニアの元陸上競技選手である。メリンテは、1984年ロサンゼルスオリンピック女子800mで金メダル、1500mで銀メダルを獲得。1986年のヨーロッパ選手権の1500mでも銅メダルを獲得。翌年の世界室内の1500mでも4分05秒68のタイムで優勝。夏の世界陸上でも銅メダルを獲得した。1989年の世界室内の1500mでも4分04秒79の大会新記録で連覇した。

ルクサンドラ・ドラゴミル
(Ruxandra Dragomir, 1972年10月24日 - )は、ルーマニア・ピテシュティ出身の女子プロテニス選手。1990年代にルーマニアのテニス界をリードした選手で、キャリアを通じて全仏オープンを最も得意にした。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス21位。WTAツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。

ヘルマン・オーベルト
(Hermann Oberth, 1894年6月25日 - 1989年12月28日)は、ドイツのロケット工学者である。オーベルトの効果に名前を残す。オーストリア=ハンガリー帝国のシビウ(現在はルーマニアに属する)に生まれた。少年時代、ジュール・ヴェルヌの作品を読んで宇宙に興味を持った。当初、ミュンヘン大学において医学を勉強していたが、第一次世界大戦勃発により軍医として従軍する。その後、物理学を学びロケットの研究に熱を入れていくようになる。

クルターグ・ジェルジュ
Kurtag Gyorgy1926年2月19日 ルーマニア・ルゴイ Lugoj(旧ハンガリー・ルゴシュ) - )はルーマニア出身のハンガリー人の作曲家、ピアニスト、室内楽の教授。 バルトーク、マリンシュテイン、ウェーベルンらの影響を受けており、表現主義においてウェーベルンの後継者と言われている。 1946年、ブダペシュトに移りフランツ・リスト音楽院に入学する。ヴェレシュ・シャーンドルとファルカシュ・フェレンツに作曲、カドシャ・パールにピアノ、ヴェイネル・レオに室内楽を学ぶ。

パウル・コンスタンティネスク
(Paul Constantinescu、1909年1月30日 - 1963年12月20日)は、ルーマニアの作曲家。プロイエシュティ出身。ブカレスト音楽院でディミトリエ・ククリン、ミハイル・ジョラらに学び、ウィーンではヨーゼフ・マルクスに師事した。1935年から1941年にかけて音楽アカデミーで音楽理論の教授を務め、その後ブカレスト音楽院で作曲の教授となった。オペラ作曲家として知られ「嵐の夜」などの作品がある。

クリスチャン・マリーナ
(Cristian Marina、1965年 - )は、ルーマニア(トランシルヴァニア)出身、スウェーデン在住の現代音楽の作曲家。母国の音楽学校で学んだ後、留学先にスウェーデンを選びスヴェン・ダーフィト・サンドストレムに師事。後にマスタークラスなどでフランコ・ドナトーニ、ブライアン・ファーニホウ、ルカ・フランチェスコーニに師事している。スウェーデンで大変に高く評価され、スウェーデン現代音楽協会の総裁を四年務めた。ルーマニア人であるが北欧の音楽文化にあこがれた故か、音色は北欧楽派そのものであり、響きは叙情的かつ透明である。

エドワード・マヤ
Eduard Marian Ilie, 1986年6月29日 - は、ルーマニアのミュージシャンであり、作曲家、歌手、DJである。ルーマニアの首都であるブカレストにて生誕した。彼は主にブカレストで育った。年少より音楽という地平を見すえており、音楽に対する好奇心と情熱を常に日々たぎらせていた。ブカレストにある名門のジョルジェ・エネスク音楽高校をしかるべき日にて卒業した。音楽活動を始めた彼は、ブカレストにおいて多くのアーティストとコラボレーションおよびセッションを繰り返す日々であった。「Stereo Love」は、アメリカ合衆国を始めとして、カナダ、ドイツ、スウェーデン、スイス、デンマークその他数多くの国でプラチナムを獲得。また、イタリア、スペインではダブルプラチナムを獲得している。彼は、そのひとときにおいて、現役の学生としてブカレスト国立音楽大学で熱心に学んでいる日々でもある。

ゲオルゲ・ハジ
Gheorghe Hagi、1965年2月5日 - )は、ルーマニア出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF(攻撃的MF)。「東欧(バルカン)のマラドーナ」と呼ばれた、ルーマニア史上最高の選手にして1990年代のヨーロッパを代表する選手の一人。ゲームメーカーとして中盤に君臨し、左足から放たれるパス、ドリブルによって多くのチャンスを演出した。

クリスティアン・キヴ
Cristian Eugen Chivu、1980年10月26日 - は、ルーマニア・レシツァ出身のサッカー選手。セリエAのインテル・ミラノ所属。ポジションはDF、MF。ルーマニアの南西部に位置するレシツァに生まれる。父親は地元のCSMレシツァでコーチを務めていた人でもあり、キヴ自身もCSMレシツァで競技生活をスタートさせる。自然が広がるレシツァで子供の頃はノルディックスキーも好んで親しんでいた。

ナディア・コマネチ
(Nadia Elena Comaneci:1961年11月12日 - )はルーマニアの体操選手。1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得した。またこの大会で体操競技選手としてオリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した。1980年のモスクワオリンピックでも2個の金メダルを獲得した。彼女はオルガ・コルブトと並び世界中で最も知られた体操競技選手となり競技の人気を高めた。

アンドレーア・ラドゥカン
(Andreea Madalina Raducan, 1983年9月30日-)はルーマニア、ブルラド(Barlad)出身の女子体操選手。4歳から体操競技を始め、1995年頃からジュニアの国際大会に出場。2002年に19歳で引退。引退時、身長152cm、42kg。得意種目はゆか、平均台だが、跳馬と段違い平行棒もそつなくこなす万能型。16歳のときに出場したシドニーオリンピックでルーマニア女子として、ナディア・コマネチ以来2人目となる個人総合での優勝を勝ち取るものの、ドーピング検査で禁止薬物「塩酸プソイドエフェドリン」の陽性反応が出たため、資格を剥奪された。

カリニコス・クレアンガ
Kalinikos Kreanga, 1972年3月8日- は、ギリシャの卓球選手。ルーマニア・ビストリツァ出身。当時の名前は「カリン・クレアンガ」。7歳から卓球を始め、ジュニア時代からルーマニア代表として活躍した。しかし、当時のニコラエ・チャウシェスク政権下では卓球を続けることが困難であると感じたことから、16歳の時に、ヨーロッパユース卓球選手権大会の期間中に会場を抜け出して、ギリシャへと亡命。身長168cmの小柄な体格ながら、フルスイングによる豪快な両ハンド攻撃を持ち味とするため、「小さなヘラクレス」と呼ばれる。

トリスタン・ツァラ
Tristan Tzara、1896年4月16日 - 1963年12月25日は、ダダイスムの創始者として知られるフランスの詩人。大学で文学を学んでいたが、第一次世界大戦中、ジャンコとともにスイスのチューリッヒを訪れ、そこで、1916年にダダイスム運動を創設。キャバレー・ヴォルテールを中心に行われた、徹底的に言語の意味性を剥ぎ取る手法と挑発的なパフォーマンスで、ヨーロッパ中の芸術家に衝撃を与える。

バージニア・ルジッチ
(Virginia Ruzici, 1955年1月31日 - )は、ルーマニア・クンピャ・トゥルジイ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。ルーマニア出身の先輩選手イリ・ナスターゼが1972年の全米オープンと1973年の全仏オープンで4大大会に2勝した後、ルジッチは女子の第一人者として活躍し、同国の女子選手として最初の4大大会優勝者になった。

アルマ・ロゼ
(Alma Rose, 1906年11月3日 - 1944年4月4日 アウシュヴィッツ)は、オーストリアのヴァイオリニスト。父親はルーマニア出身のユダヤ人、アルノルト・ロゼーで母親はグスタフ・マーラーの妹ユスティーネ。したがって両親ともにユダヤ系であったため、ナチス政権によってアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送致されたが、そこで囚人オーケストラを編成して指揮をし、囚われの音楽家が少しでも生き延びられるように図った。アウシュビッツへ到着したさい、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが回復後、彼女はアウシュビッツの女性オーケストラ(the Madchenorchester von Auschwitz Girls’ Orchestra of Auschwitz)のリーダーの仕事を担った。

アドリアン・イリエ
Adrian Ilie、1974年4月22日 - )は、ルーマニア・ブラショフ出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションはFW。1991年にエレクトロプテレ・クライオバで選手キャリアをスタートすると直ぐに頭角を現し、1992年には30試合出場12得点を記録した。翌1993年にはステアウア・ブカレストへ移籍、同年にはルーマニア代表入りを果たした。

インナ
Elena Alexandra Apostolean、1986年10月16日 - )は、ルーマニア・コンスタンツァ県生まれのルーマニアの歌手である。ルーマニア最南東部の黒海の畔にあるコンスタンツァ県マンガリアで、ルーマニア人の両親の間にて生まれた。地元マンガリアの中産階級が通う高校であるマンガリア・エコノミカル・リュケイオンを優秀な成績で卒業後、政治学を学ぶためコンスタンツァにある大学に入学した。

トライアン・ヴイア
Traian Vuia [トラヤーン・ヴーヤ]、1872年8月17日 - 1950年9月3日)ヴュイア、ビュイアなどとも表記。 はルーマニアの発明家であり航空のパイオニアである。自ら設計した飛行機で動力飛行を試みた。この飛行機は動力飛行が試みられた最初の牽引式プロペラの単葉機であった。1918年からヘリコプターを製作したほか、内燃機関を使った蒸気発生器の発明を行った。

マリアン・オプレア
(Marian Oprea、1982年6月6日 - )はルーマニアの陸上競技選手。専門は三段跳。ピテシュティ出身。身長190cm、体重77kg。2003年-07年のルーマニア選手権男子三段跳優勝者。2004年アテネオリンピック男子三段跳では17m55の記録でクリスチャン・オルソンに次ぐ2位となり銀メダルを獲得した。2005年7月ローザンヌで17m81の記録を残し、この年の男子三段跳世界ランキング1位となった。

イレアナ・コトルバシュ
(Ileana Cotrubas、1939年6月9日 - )は、ルーマニアの名ソプラノ歌手である。姓はコトルバスとも表記される。1960年代から1980年代に活躍し、舞台での演技力と多数の言語でオペラを歌いこなす才能が賞賛された。コトルバシュはガラツィに生まれた。彼女が育った家庭は音楽一家で、父ヴァシレはアマチュア合唱団のテノール歌手であった。コトルバシュの音楽歴は9歳で放送少年少女合唱団に入ったときに始まり、11歳で彼女は首席ソリストの1人となった。

エミール・シオラン
Emile Michel Cioran, 1911年4月8日 - 1995年6月20日)は、ルーマニアの作家・思想家。若年期のエクスタシー経験と、メランコリー、鬱、不眠など生涯にわたる精神的苦悩をもとに、特異なニヒリズム的思索を展開した。ブカレスト大学に学び、そこで1928年、ウジェーヌ・イヨネスコ、ミルチャ・エリアーデと出会い、終生の友人となる。また、彼はルーマニアの「著作を持たない」思想家ペトレ・ツツェア Petre Ţuţea とも長きにわたり親交を深めた。

グリゴラシュ・ディニク
(Grigoras Dinicu, 1889年4月3日 − 1949年3月28日)は、ルーマニアのロマの作曲家、ヴァイオリニスト。ヴィルトゥオーソ的なヴァイオリンの小品として頻繁に演奏される『ホラ・スタッカート』の作曲者である。他のポピュラーな曲には『ひばり』がある。ヤッシャ・ハイフェッツはかつて、グリゴラシュ・ディニクはこれまで聞いたことのある中で最も偉大なヴァイオリニストだと言ったことがあった。ディニクはブカレストで生まれた。ブカレスト音楽院に進み、Dumitru Georgescu-Kiriacの下で学んだ。1902年にはヴァイオリン教師のフレッシュ・カーロイについて勉強した。

ローレン・バコール
(Lauren Bacall, 本名: Betty Joan Perske, 1924年9月16日 - )は、アメリカ合衆国の女優。「The look(ザ・ルック)」と呼ばれる上目遣いの表情と、ハスキーボイスが特徴。ニューヨークにて、ユダヤ系ドイツ人及びルーマニアユダヤ人の移民家庭に生まれた。イスラエル大統領シモン・ペレスとはいとこ同士である。5歳の時に両親が離婚し、母親に育てられる。

クララ・ハスキル
(Clara Haskil, 1895年1月7日 - 1960年12月7日)は、ルーマニア王国 (現:ルーマニア)出身のピアニスト。古典派と初期ロマン派のレパートリーで名高く、とりわけモーツァルト作品の録音と演奏で著名。当時の最も秀でたモーツァルト弾きとの異名もとる。ほかにスカルラッティやベートーヴェン、シューマンの解釈にも卓越したものがある。室内楽奏者としても活躍し、ジョルジュ・エネスコやウジェーヌ・イザイ、パブロ・カザルスと共演した。

ウジェーヌ・イヨネスコ
(Eugene Ionesco, 1909年11月26日 - 1994年3月28日)は、フランスの劇作家である。アイルランド出身のサミュエル・ベケット、カフカース生まれのアルチュール・アダモフとともに、フランスの不条理演劇を代表する作家の一人として知られている。本名エウジェン・イオネスク(Eugen Ionescu)としてルーマニア人のエウジェン・イオネスクとフランス人のテレーズ・イプカールとの間に、1909年11月26日、ルーマニア・オルト県スラティナで生まれた。

ルーマニア Romania
東ヨーロッパに位置する共和制国家。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。

古代にはガタエ人(ラテン語ではダキイ人)と呼ばれる民族が居住していた。ローマ帝国の領土となったことがあり、現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。紀元前513年、ドナウ川南でガタエ人の部族連合が、対スキュタイ人戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。約600年後、ガタエ人(ダキイ人)は、ロ−マ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年〜106年)に敗れた。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。

ブカレスト/Bucharest
ルーマニア南部・ワラキアにある同国の首都。ブカレストは、ドゥンボビツァ川の支流コレンティナ川の沿岸にあり、市内にはフロレアスカ湖、テイ湖、コレンティナ湖など、いくつか湖がある。さらに、市中心部にはチシミジウ湖(Cismigiu)という小さい人口湖がある。周辺には庭園や公園があり、著名な詩人・作家が訪れた。1459年にこの地に作られた城塞がワラキア公・ヴラド・ツェペシュの居城となった、というのがブカレストが史書に登場する最初である。以降、ヴォイヴォダであったミルチャ・チョバヌル(Mircea Ciobanul)によって王宮の夏の離宮として整備されていく。オスマン帝国の政策でムンテニアの重要性が増す中で、公国の都があったトゥルゴヴィシュテに比肩する都市へと成長していく。1698年、公国の都となり、貿易でも最重要都市になる。


トライアン・ヴイア国際空港
(Traian Vuia International Airport)は、ルーマニア・ティミショアラにある国際空港。この空港は、初期の動力飛行を行い、牽引式プロペラを持った単葉機の先駆者として知られるルーマニアの発明家、トライアン・ヴイアにちなんで改称された。

アンリ・コアンダ国際空港
Henri Coanda International Airport)は、ルーマニアの首都ブカレストにある国際空港である。2004年5月にルーマニア出身の技術者でジェットエンジンの父と言われるアンリ・コアンダにちなんで、「オトペニ空港(Otopeni Airport 、Aeroportul International Bucuresti Otopeni)」から今の空港名に改名された。同国のフラッグ・キャリア、タロム航空のハブ空港である。

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外務省:ルーマニア
在ルーマニア日本国大使館


ブラショフ
ルーマニアのほぼ中央に位置する都市で、ブラショフ県の県都。首都ブカレストからは166キロメートル離れている。カルパティア山脈によって囲まれるトランシルヴァニア地方の中心的都市の一つであり、都市の建設にはドイツからこの地に植民したトランシルヴァニア・ザクセン人が深く関わった。このため、「クローンシュタット」というドイツ語名を持つ。これは英語で言うところの Crown City を意味し、中世ラテン語名の「コロナ」(Corona)と同じであり、市の紋章に反映されている。


ルーマニア鉄道
通称CFR(チェフレ)と呼ばれ、路線網は11,380km有しそのうち3,971kmは電化区間となっている。総距離は22,247kmとなりそのうち8,585kmは電化されている。ルーマニア国内の重要な路線網となっているだけでなく、欧州域内のネットワークの一端も担っており旅客、貨物輸送が行われている。CFRの営業開始は1880年からで、ルーマニアの領域に初めて鉄道が敷かれたのは1854年である。CFRは4つの企業体に分けられている。


クルージュ=ナポカ
ルーマニア北西部の都市。クルージュ県の県都で、ルーマニア国内の教育・文化・工業の中心のひとつ。トランシルヴァニア地方の中心部、ソメシュル・ミク川の渓谷に位置し、ブカレストから約480kmの位置にある。ブカレスト、ヤシに次ぎルーマニア第3の人口を誇る。コロジュヴァール、クラウゼンブルクという名前でも有名。

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ヤシ
ルーマニア北東部、モルダヴィア地方の中央に位置する都市である。ルーマニア東部の主要都市の1つで、かつてのモルダヴィア公国の首都。ルーマニア第2の都市でもある。ヤッシーとも。ヤースヴァーシャールというのはチャーンゴーに好まれる言い方でもある。1860年、ブカレストのそれに先立ってヤシ大学が創立された。また、文学協会「ジュニメア(Junimea, 青年)」の活動には、評論家のティトゥ・マイオレスク(Titu Maiorescu, 1840年 - 1917年)、国民詩人といわれるミハイ・エミネスク、作家ヨン・クリヤンガ(Ion Creangă)らが加わっていた。現在でも、市内のコポウ公園はそこにある菩提樹の下でエミネスクが詩作に耽った場所として、市民に人気がある。

オラデア
ルーマニア西部トランシルヴァニア地方(クリシャナ地方)の都市。ビホル県の県都である。2002年の国勢調査によれば総人口は 206,527人。これには近郊の自治体の人口は含まれていない。近郊を含むとオラデア一帯には220,000人が住んでいる。オラデアは、温泉で有名である。その産出量は、季節によって変わる。オラデアはハンガリーとの国境に位置し、ルーマニアの西ヨーロッパへの玄関口となっており、そのためにルーマニアでも有数の繁栄した都市である。

ティミショアラ
ルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。行政的にはバナト地方に属し、ティミシュ県の県都で、ルーマニア第4の人口を誇る。都市の名はティミシュ川に由来する。ティミシュ川は古代ローマではティビシスまたはティビスクス川として知られていた。ティミショアラには多数の少数民族がおり、多文化都市となっている。ティミショアラは工業都市であり、またヨーロッパで最初に電気による街路灯が導入されたことで知られる。

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ブカレスト地下鉄
Bucharest Metroは、ルーマニアの首都ブカレストを走る地下鉄である。通称はメトロウ(Metrou)。運営会社はメトロレックス(Metrorex)。ブカレストでは最もよく利用される公共交通機関のひとつであり、平均して週に述べ75万人の利用者を運ぶ。路線の総延長は63キロメートル、45の駅が設置されている。1970年、都市の急速な開発の進行に伴って、それまでの公共交通システムは限界をむかえていた。このことに関して委員会が設置され、委員会はブカレストへの地下鉄システムの導入を求めた。共産主義時代のルーマニアの大型建設プロジェクトには国民の館をはじめ不要であったと見られるものが多い中、この地下鉄計画は「共産主義時代の大型建設プロジェクトの唯一の成功例」とも評される。


ブカレスト交通公団
略称:RATBは、ルーマニアの首都ブカレストにおいて路面電車及びバス・トロリーバスを運行する公営企業である。ブカレストの公共交通は、1871年に運行が開始された馬車鉄道に端を発する。ブカレスト市が運営する公営交通としての発足は1909年で、1936年には市内の交通網のほとんどが公営交通により運行されるようになった。


クラヨーヴァ
Craiovaは、ルーマニア第5の都市で、ドルジュ県の県都。中央オルテニア地方ジウ川東岸近くに位置する。昔からの政治的中心地であり、北のトランシルヴァニアアルプス山脈と南のドナウ川の中間点にある。ブカレスト西方の主要商業都市である。

ガラツィ
Galatzは、ルーマニア東部ガラツィ県の都市。ガラツィ県の県都でもある。ドナウ川に面し、ブライラと非常に近い。市内には、壮麗な聖ゲオルゲ聖堂、ドナウ河岸に立つ17世紀の生神女マリア教会や、美術館、劇場、公園がある。

ティミショアラ
ルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。行政的にはバナト地方に属し、ティミシュ県の県都で、ルーマニア第4の人口を誇る。都市の名はティミシュ川に由来する。ティミシュ川は古代ローマではティビシスまたはティビスクス川として知られていた。ティミショアラには多数の少数民族がおり、多文化都市となっている。

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プロイェシュティ
ルーマニア、ムンテニア地方の都市。プラホヴァ県の県都である。首都ブカレストの北およそ56km地点にある。「黒い金の首都」の異名を持つ石油産業の旧中心地で、4つの製油所とその分野に関連したその他の工場がある。

サトゥ・マーレ
Satu Mare、現在ニューヨーク・エルサレム・ロンドンなどルーマニア国外に居住する、ハシディズム・ユダヤ教徒のサトマール派の発祥地である。石器時代より人が定住していた。10世紀初頭、ハンガリーの年代記にゾトマール (Zotmar) という名の要塞があったことが記載されている。年代記によると、3日間の戦いの後、要塞はハンガリーが落としたという。

ブライラ
ルーマニア東部ブライラ県の県都。ムンテニア地方に属し、ドナウ河岸港を持つ。ドナウ川を挟みガラツィと近接する。中小規模の船が航行可能で、ブライラは規模の大きな穀物運搬と備蓄施設をもつ。重要な産業都市であり、金属加工、繊維業、食品加工などが行われている。

バカウ
Barchau、は、ルーマニア、バカウ県の都市。モルダヴィア地方に含まれ、ビストリツァ川の畔にある。バカウ駅は、ルーマニアで昇降客の多い駅の一つである。ウクライナ、ロシア、ブルガリア行きの鉄道国際線が到着する駅でもある。

アラド
Aradは、ルーマニア西部アラド県の都市。県都でもある。ムレシュ川に面する。重要な産業中心地であり、交通の要所であり、ルーマニア正教会の主教座が置かれている。豊富な産業と商業の伝統を持つことから、アラドはルーマニアで最も繁栄する都市の一つである。多くの投資がされ、アラドは経済ブームに湧いている。

ピテシュティ
Piteskは、ルーマニア、アルジェシュ県の都市で県都。アルジェシュ川沿いにある。重要な貿易・工業中心地で、2つの大学が本拠を置く。市は、劇作家アレクサンドル・ダヴィラにちなんで名付けられた県立劇場の本拠地である。その部門には人形劇場(1949年創設)、野外演劇劇場部門(1958年)、民俗芸能部門(1970年)がある。

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バヤ・マレ
FrauenbachまたはNeustadtは、ルーマニア、マラムレシュ県の都市。市の好位置から経済活動が盛んであり、ルーマニア北西部ではクルージュ=ナポカ、オラデアに次いで重要な都市である。市はグトゥイ山地とイグニシュ山地の近くにある。山地の標高は1400mを越える。山地一帯は人目を引く風景で有名で、市からアクセスが容易である。

ボトシャニ
(Botosani)は、ルーマニア北部の都市。ボトシャニ県の県都。モルダヴィア地方に属する。ルーマニアを代表する詩人ミハイ・エミネスクと歴史家ニコラエ・ヨルガの出身地である。ヴァシラケ人形劇場 ("Vasilache" Puppet Theatre) - ルーマニア内外の人形一座が本拠とする。

シビウ
Sibiuはルーマニアのトランシルヴァニア地方南部の都市である。人口は170,000人(2002年)。シビウ県の県都である。ブルケンタール邸にある美術館と古書の図書館、旧市役所の建物にある歴史博物館、16世紀建築の薬剤師店の建物にある薬局博物館、自然史博物館、武器とハンティングトロフィーの博物館から成る。

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トゥルグ・ムレシュ
Novum Forum Siculorumは、ルーマニア、トランシルヴァニア地方の都市。トゥルグ・ムレシュには、多くのハンガリー住民が暮らし、その一部はセーケイ人を自認している。2003年以後、一部のセーケイ人組織が、自治県の中心地になろうと宣伝を行ってきた。


■教育
7歳から14歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が義務教育であり、無償となっている。主な高等教育機関としては、ブカレスト大学(1864年)などが挙げられる。

■保健
現在ルーマニアは深刻な野犬の問題に直面している。全国で推定200万匹が野放しになっている。2005年において同国内で2万人以上が犬に襲われる被害を受けている。当局は駆除に乗り出そうとしているが、動物保護団体の激しい反対に合い対策は進んでいない。2006年1月7日、動物愛護活動家でもあるフランスの女優ブリジット・バルドーは声明を出して駆除計画に抗議、ルーマニア当局を非難した。同年1月29日、日本人男性がブカレストで野犬に噛まれ、失血死する事件が起きた。


■文化
有名な吸血鬼ドラキュラは、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがモデルになったとされている。ウィッチクラフト(魔女文化)が数世紀の歴史を持ち、現在も「魔女」や「まじない師」「占い師」として生計を立てる人々が多く存在する。魔女たちからもほかの自営業者と同様に徴税するために2011年1月1日に労働法が改正され、魔女が「職業」として認められることとなった。


ルーマニア料理
農業国らしい素材を生かしたルーマニアの民族料理を指す。18世紀にオスマン帝国領からハプスブルク家のハンガリー王国領となったため、隣国の旧ユーゴスラビアやブルガリアと比べ、トルコ料理の影響が比較的少ないことが特徴で、セルビア料理、オーストリア料理、ハンガリー料理の影響が見られる。肉料理の代表は、挽肉と刻みタマネギを混ぜ合わせてザワークラウトに似たキャベツの漬物で巻き、じっくりと煮込んだサルマーレ (sarmale) で、ルーマニア風ロールキャベツまたはドルマと言える。


1.面積:約23.8万平方キロメートル(本州とほぼ同じ。)
2.人口:約2,146万人(2010年)
3.首都:ブカレスト(人口約194万人)
4.民族:ルーマニア人(89.5%)、ハンガリー人(6.6%)など
5.言語:ルーマニア語(公用語)、ハンガリー語
6.宗教:ルーマニア正教(87%)、カトリック(5%)

106年 ローマ帝国によるダキア征服
271年 ローマ軍撤退
14世紀 ワラキア公国、モルドバ公国が建国される
15世紀末頃 オスマン帝国の宗主下に入る
1878年 独立
1881年 ルーマニア王国発足
1918年 トランシルバニアとの統一宣言
1947年 王制を廃止し、人民共和国樹立
1989年 政変により共産党一党独裁を廃止し、国名をルーマニアに改称
2004年 NATO加盟
2007年 EU加盟

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■主要産業:金属(鉄鋼、アルミ)、工業(機械機器、繊維)、鉱業(石油)、農業(小麦、トウモロコシ)
■主要貿易品目(1)輸出 一般機械・電気機器、輸送用機器、織物・衣類・靴類、金属製品、化学製品・プラスチック、農産食料品(2)輸入 一般機械・電気機器、化学製品・プラスチック、鉱産原料品、金属製品、織物・衣類・靴類、農産食料品


ルーマニア・レウ
Leu romanescはルーマニアの通貨単位。ルーマニアは2007年1月に欧州連合に加盟し、ユーロ導入義務を課せられている。ユーロ導入予定は2014年である。17世紀、ルーマニアをはじめ当時のオスマン帝国領内で流通していたオランダのギルダー (leeuwendaalder) は「ライオン」と呼ばれており、ルーマニアではルーマニア語でライオンを意味するレイ (lei) と呼ばれるようになった。この名称が通貨を表す一般的な名称として定着した。


■政治
政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、国民から直接選挙で選ばれる大統領と議会から選出される首相が行政を行う半大統領制を採用している。大統領は任期が5年である(2004年までは任期4年)。立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数332人、上院(元老院)は定数137人で両院とも任期は4年。司法権は最高裁判所に属している。


ルーマニア社会主義共和国
1945年から1989年まで、ルーマニアに存在した共産党一党独裁の社会主義国である。第二次世界大戦に枢軸国側で参戦したルーマニア王国は、1945年5月8日の敗戦によって解体され、ソビエト連邦に占領された。ソビエト連邦軍の占領下で、1947年12月30日に共産党政府が成立。君主制は廃止され、ルーマニア共産党の一党独裁を布く寡頭共和制によるルーマニア人民共和国(Republica Populara Romina)が成立した。


音楽
ルーマニアは、ルーマニア人、ハンガリー人、ロマ人(ジプシー)、など様々な民族・集団からなるヨーロッパ、バルカン半島の国家である。このようなルーマニアの土壌は、さまざまな民族に由来する要素を併せ持った、音楽的多様性を生み出してきた。現代ではポップ・ミュージック、ヒップホップ、ヘヴィメタル、ロックなどのジャンルも盛んである。しかし一方で、タラーフとよばれるバンドやロマによって演奏される土俗音楽もまた全国的に行われている。


ジョルジェ・エネスク
20世紀の傑出した音楽家にして、存命中は最高のヴァイオリン演奏家の一人であった。日本ではフランス語表記のGeorges Enescoに倣ってジョルジュ・エネスコと書くことがあるが、ルーマニア語ではGeorge Enescuと綴られ、ジョルジェ・エネスク、ジェオルジェ・エネスクとの日本語表記もある。ルーマニアのリヴェニ(Liveni)村(現在はボトシャニ県、「ジョルジェ・エネスク」という名の小自治体になっている)に生まれ、幼年期より楽才を発揮。父親に連れられて作曲家エドゥアルド・カウデラを訪ね、才能を認められてヤシの音楽学校に入学を許される。エネスクは、クライスラーやティボーと共に20世紀前半の三大ヴァイオリニストの一人とされる。ヴァイオリニストとしては、情熱の高鳴りを感じさせる演奏スタイルと、ヴィブラートを程よく効果的に用いた独自の美音で知られていたが、クライスラーやティボーほど甘い音色ではなかった。しかし、かえってそのために、精神的な奥行きや格調の高さを感じさせ、とりわけベートーヴェンやシューマンのソナタ、またバッハの無伴奏作品は、実演・録音ともに伝説的な名演として語り継がれている。

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ディヌ・リパッティ
Dinu Lipatti, 1917年3月19日 - 1950年12月2日は、ルーマニアのピアニスト、作曲家。ブカレスト生まれ。アルフレッド・コルトーに魅入られて教えを受けるが、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。 彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである。純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。 ショパンやモーツァルトなどを得意とした。ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。

ヴェレッシュ・シャーンドル
(Veress Sandor, 1907年2月1日 - 1992年3月4日)はハンガリー出身の作曲家、民族音楽学者。後年スイスに亡命したことで、当時のハンガリー社会主義政権によって演奏が禁じられ、半ば忘れられていたが、近年、教え子のハインツ・ホリガーやハンガリーのピアニスト、アンドラーシュ・シフらがヴェレシュ作品を取り上げ、バルトークと、リゲティやクルタークらをつなぐ重要な存在として再評価されるようになった。現代的手法とハンガリーの音楽的伝統を結合させ、洗練された旋律と清澄な表現が特徴的。教育者としても知られる。

エイブラハム・ウォールド
Abraham Wald, 1902年10月31日 - 1950年12月13日はトランシルバニア出身の数学者。1902年にクルージュ=ナポカで生まれる。1927年にウィーン大学の数学科に入学、1931年に博士号を取得。1938年の渡米後は、コロンビア大学に在籍した。
カール・メンガーの弟子であり、ウィーンの銀行家・経済学者カール・シュレージンガーに紹介され、ウィーン学団が当時検討していたワルラスとカッセル体系の問題を紹介された。1950年にインド上空の飛行機事故で若くして死亡した。

ボーヤイ・ヤーノシュ
(Bolyai Janos, 1802年12月15日 - 1860年1月27日)はハンガリー領トランシルヴァニア(現ルーマニア領)出身のセーケイ人(ハンガリー人)数学者。1818年から23年にかけて、ウィーンの工兵学校に学ぶ。父ボーヤイ・ファルカシュの影響を受けて平行線理論に興味を抱き、1835年、「ユークリッド第11公準を証明または反駁することの不可能の証明」において非ユークリッド幾何学の可能性を切り開き双曲幾何学を提唱した。幼いころから数学に異常な才能を示し、13・4歳のころには父親の代わりに講義を行い、好評を博したという。ボーヤイの父はあの数学の王ガウスの同窓生であり、父親自身も平行線問題を研究していたが、自分の自信作をガウスに見せて間違いを指摘され、それ以後この問題から遠ざかってしまった。

セルジュ・チェリビダッケ
Sergiu Celibidache, 1912年7月11日 - 1996年8月14日は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。ローマンに生まれ、第一次世界大戦中にヤシに転居、同地で21歳頃までを過ごす。6歳頃からピアノを学びはじめるが、これが直接音楽家を目指す契機にはならなかったようで、27歳になるまで天職を決めかねていたと告白している。父親は彼を政治家にしたがっていた、というのは本人の弁。ユダヤ文化の中心地であったヤシで育ちユダヤ人と深く交流したため、イディッシュ語も堪能であった。

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コンスタンティン・ブランクーシ
Constantin Brancusi, 1876年2月19日 - 1957年3月16日は、ルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な彫刻家である。20世紀の抽象彫刻に決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品も残した。ブランクーシの独創的な作品は、後の現代彫刻、絵画、デザインなどへ、多大なる影響を与えた。特に代表作でもある『無限柱』シリーズは、単純なユニットの反復により構成され、本人が友人のマン・レイに語ったところでは、どこで切断しても無限の柱としての特性を失わないものとされる。またイサム・ノグチはパリでブランクーシの助手となることで抽象彫刻家としてのキャリアに方向性を見出した。

ミハイ・エミネスク
(Mihai Eminescu、1850年1月15日 - 1889年6月15日)はルーマニアとモルドバで詩聖と称えられ、最もよく知られている近代のルーマニア詩人。1866年、ミハイが16歳の時にミハイの作家としての最初の足跡がある。同年1月、ギムナジウムのルーマニア人教師アロン・プムヌルが亡くなり、チェルナウツィでプムヌルから学んだ生徒達は小冊子『ギムナジウムの生徒達の涙』を出版。その中に「アロン・プムヌルの墓で」(La mormantul lui Aron Pumnul)と題した詩が掲載されており、ミハイル・エミノヴィチ(M. Eminovici)のサインが見える。彼はおそらく、ルーマニアの全ての地域で作品を発表し、あらゆる部分のルーマニア人の問題に絶えず興味を持っていた、初めてのルーマニアの作家であった。

ヴィクトル・ポンタ
Victor Ponta、1972年9月20日 - は、ルーマニアの政治家。世界金融危機に対応するための緊縮財政政策により、反政府運動が活発になり、エミール・ボック率いる内閣は総辞職する。ミハイ・ラズヴァン・ウングレアーヌが首相に就任したものの、4月の上下両院合同会議において内閣不信任決議案が可決され再び総辞職。

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ドラゴシュ
(Dragos)は初代のモルダヴィア公であり(在位1351年-1353年)、この地方を治めた最初のルーマニア人である。ジョチ・ウルス(黄金オルド、金帳汗国)に対する備えのため、ハンガリー王の命でマラムレシュを離れ、タタール人をドニエプル川以東に追い返した。ワラキアの年代記作者ラドゥ・ポペスクの著書と、モルダヴィア公で歴史家のディミトリエ・カンテミールの『モルダヴィア年代記』には、ドラゴシュが野牛を狩っているときにモルダヴィアを建国した伝説が記録されている。

ディミトリエ・カンテミール
Dimitrie Cantemir, 1673年10月26日、 - 1723年は、モルダヴィア(ルーマニア)生まれの文人、学者で、モルダヴィア公(在任1693年3月 - 4月、1710年11月 - 1711年7月)。ディミトリエはモルダヴィアのヤシで言語、文学、歴史の教育を受けた後、1688年から22年間をイスタンブルで過ごした。イスタンブルではスルタン・アフメト2世に才能を愛され、東洋の諸言語と文化、音楽を学んだ。

カロル1世
Carol I、1839年4月20日 - 1914年10月10日は、ルーマニア公(在位:1866年5月22日 - 1881年3月26日)、後に初代ルーマニア国王(在位:1881年3月26日 - 1914年10月10日)。若いカール侯子は偽名を使って(オーストリア帝国が母国と対立関係にあったため)、デュッセルドルフ、ボン、フライブルク、チューリッヒ、ウィーン、ブダペストを鉄道で移動した。ルーマニア国境に着くとブランチャヌが待っており、そこから彼の馬車で移動した(当時のルーマニアには鉄道が敷かれていなかった)。1866年5月10日、カールはブカレストへ到着した。彼の到着の知らせは電信で国中に知らされ、新しい指導者を熱望していた群衆に歓迎された。

イオン・アントネスク
(Ion Victor Antonescu, 1882年6月14日 - 1946年6月1日)は20世紀前半のルーマニアの軍人・政治家。(王族以外で3名しかいない)元帥。彼の政権下で副首相を務めたミハイ・アントネスクは兄弟ではなく、遠縁の親戚関係。ピテシュティ出身。父は大地主で、大尉だった。フランスで軍事教育を受ける。1907年の農民蜂起の鎮圧に参加。1913年のバルカン戦争時、街道の要所を少数の兵力により守り向いた功績により、ミハイ勇敢公勲章騎士十字章を受勲。

ミハイ1世
Mihai I, 1921年10月25日 - は、ルーマニア王国の国王(在位:1927年7月20日 - 1930年6月8日、1940年9月6日 - 1947年12月30日)。父はカロル2世、母はギリシャ国王コンスタンティノス1世の長女エレニ。第二次世界大戦の結果を受けて、ルーマニア王国にはソ連軍が駐留していた。結果、共産化の波はルーマニアにも押し寄せ、君主制廃止の世論に抗しきれず、ミハイ1世は1947年に亡命に追い込まれる。その後スペインに渡り、イベリア航空のパイロットなどをしながら亡命生活を強いられたが、ルーマニア革命によるルーマニア社会主義共和国の崩壊後、1992年にようやく帰国が許され、1997年以降ルーマニアに在住している。

アリナ・ドゥミトル
(Alina Alexandra Dumitru 1982年8月30日- )はルーマニアのブカレスト出身の柔道家。身長158cm[1]。5段。現在はルーマニア軍でキャプテンを務めている[2]。柔道は14歳の時に始めた[2]。2002年、スロベニアのマリボルで開かれたヨーロッパ柔道選手権大会の女子48kg以下級で銅メダルを獲得した。その後2004年から2008年までの同大会の48kg以下級で5連覇を果たした。その間2005年,2008年には決勝でアテネオリンピック銀メダリストのフレデリク・ジョシネを破っている。

セルジュ・モスコヴィッシ
(Serge Moscovici, 1925年6月14日 - )は、ルーマニア出身でフランスを拠点に活動する社会心理学者。モスコヴィッシは1925年、ルーマニアのブライラでユダヤ系の家庭に生まれた。1938年、反ユダヤ主義の高まりによって在学していたブカレストの高校から退学を余儀なくされた。1941年1月、ブカレストでポグロムの被害を受けて強制労働キャンプに連行され、1944年8月23日のソ連軍の侵攻まで収監された。第二次世界大戦中のこの4年間に、彼はフランス語を学び、スピノザやデカルトなど哲学書を読みふけった。

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クン・ベーラ
(Kun Bela, 1886年2月20日 - 1939年11月29日もしくは11月30日)は、ハンガリーの共産主義者、政治家。現ルーマニア・サラージュ県チェフ・シルヴァニェイ Cehu Silvaniei)で生まれた。第一次世界大戦においてロシア軍の捕虜となり、そこで共産主義者となった。1918年秋、オーストリア・ハンガリー帝国が敗北しハンガリー民主共和国が独立すると、クンは帰国してハンガリー共産党の指導者となった。翌1919年3月、ハンガリー共産党はハンガリー革命を起こしてカーロイ・ミハーイの政権を倒した。

モニカ・ロシュ
Monica Rosu, 1987年5月11日-はルーマニア、バカウ(Bacau)出身の女子体操選手。身長152cm、体重43kg。女子選手としては上半身が非常に強く、特に跳馬において圧倒的な強さを見せた。2004年のアテネオリンピックの種目別跳馬で金メダルを獲得。2005年に怪我をして、世界選手権のルーマニア代表チームに選ばれず、そのまま引退。

ニコラエ・ディカ
(Nicolae Constantin Dica 1980年5月9日 - )は、ルーマニア・ピテシュティ出身のサッカー選手。ルーマニア代表である。2003年10月11日の日本戦でルーマニア代表デビューした。2006年のキプロスとの親善試合で初得点した。2007年11月21日のアルバニア戦、2008年5月31日のモンテネグロ戦ではそれぞれ2得点した。

ヨシフ・イヴァノヴィチ
(Iosif Ivanovici, 1845年 ティミショアラ - 1902年9月28日 ブクレシュティ)はルーマニアの作曲家・指揮者でガラツィとブクレシュティの軍楽隊の隊長である。ティミショアラに生まれる。彼はワルツ、ファンファーレ、行進曲や民謡に基づく作品などおよそ350の作品を残し、パリ万博では作曲賞を受賞したほどである。

マリユス・コンスタン
(Marius Constant, 1925年2月7日 ブカレスト - 2004年5月15日 パリ)はルーマニア出身のフランスの作曲家・指揮者。パリ音楽院にてオリヴィエ・メシアン、ナディア・ブーランジェ、アルテュール・オネゲルに学ぶ。1963年に現代音楽アンサンブル・アルスノヴァを設立。1978年より1988年までパリ音楽院で教鞭をとる。1993年よりメシアンの後任としてフランス美術院アカデミー会員に就任した。

イアンク・ドゥミトレスク
(Iancu Dumitrescu, 1944年 - )はルーマニアの現代音楽の作曲家。アルフレート・メンデルスゾーンとセルジウ・チェリビダッケに師事するなどオーソドックスな音楽教育も受けたドゥミトレスクであるが、個性を決定づけたのは1970年代に接したジャチント・シェルシの音楽であり、ガラスが降り注ぐ夢(本人談)で聞こえた音響であった。

アルノルト・ロゼ
Arnold Josef Rose, 1863年10月24日:ヤシ- 1946年8月25日:ロンドン)はルーマニア出身でオーストリアで活躍したユダヤ系ヴァイオリニストで、アルマ・ロゼ Alma Rose の父。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを57年に渡って務め(65歳で定年となる現在ではこの記録が破られることはない)、ロゼ四重奏団を主宰した。1881年から1938年までの長きにわたりウィーン宮廷歌劇場とウィーン・フィルの第1コンサートマスターとして君臨した。また弦楽四重奏団(ロゼ四重奏団)を組織し、1890年11月11日には、ブラームスの弦楽五重奏曲第2番を初演した。ウジェーヌ・イザイ曰く、「ロゼがソリストとして躍進を遂げなかった事は、他の全てのヴァイオリニストにとっては幸運であった」

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ファンファーレ・チョカルリア
ルーマニアのロマ(ジプシー)によるブラスバンド(ジプシー・ブラス)。ルーマニア北西部の村ゼチェ・プラジニ (Zece Prajini) 出身。ファンファーレ・チョカルリアは地元の結婚式や洗礼式などで演奏するアンサンブルとして活動していた。1996年10月、ドイツ人のサウンド・エンジニアでプロデューサのヘンリー・エルネスト (Henry Ernst) が、ルーマニアのゼチェ・プラジニを訪れたとき、そこにいた多くのミュージシャンたちの才能を確信し、バンドに「ファンファーレ・チョカルリア」と名づけた。

ゲオルゲ・ポペスク
(Gheorghe Popescu、1967年10月9日 - )は、ルーマニア・カラファト出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはDF、MF。1985年にウニベルシタテア・クライオヴァでデビューを飾るとすぐさま頭角を現し、1988年には代表デビューを果たす。1990年のイタリアW杯でも義兄にあたるゲオルゲ・ハジとともにチームの中心選手として活躍を見せた。

アドリアン・ムトゥ
Adrian Mutu, 1979年1月8日 - は、ルーマニア・ピテシュティ出身の元同国代表、セリエA・ACチェゼーナのサッカー選手。ポジションはフォワード及びミッドフィールダー。ゲオルゲ・ハジ引退後のルーマニアサッカー界の牽引者であり、パルマFCやフィオレンティーナでの活躍から2000年代のセリエA外国人選手を代表する選手である[1]。多くの観客を魅了すると同時に多くのスキャンダルにも見舞われ、2004年に自らが引き起こしたドーピング問題(コカイン摂取)では解雇、長期に渡る出場停止処分と、自身のキャリアに多大な影響を与えることとなった。

シモナ・アマナール
Simona Amanar, 1979年10月7日 - はルーマニア、コンスタンツァ(Constanta)出身の女子体操選手。特に跳馬で無類の強さを見せたが、その他の競技においても安定した強さを持っていた。ルーマニアの女子体操選手としてはナディア・コマネチの9個に次ぐ、7個のオリンピックメダルを獲得している。1990年代後半から2000年までルーマニアナショナルチームのキャプテンを務めた。2001年に世界のトップの実力を維持したまま引退。

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アンリ・コアンダ
(Henri Marie Coanda1886年6月7日 - 1972年11月25日)はルーマニアの発明家、航空力学の先駆者にして世界初のジェット機コアンダ=1910を製作した人物。自分はごく小さい頃から風というものの神秘には魅了されていた、と後に述懐している。1910年 - コアンダ=1910。世界初のモータージェット飛行機である(実演の際に壊れてしまった)。1926年 - ルーマニアで働き、コアンダは地下の液体を探知する装置(石油の試掘に有用)を開発した。その直後コアンダはペルシア湾にて、沖合いで油井を掘るシステムを設計している。

リュシアン・ゴルドマン
Lucien Goldmann、1913年 - 1970年は、ユダヤ系ルーマニア出自のフランスの哲学者・社会学者。独特のマルクス主義に基づく文学分析によって戦後フランスにおいて大きな影響力をもった。1913年、ブカレスト生まれ。その後、ルーマニアのボトシャニに育つ。1959年以来11年にわたってパリの社会科学高等研究院(EHESS)で教え、1970年パリで急逝。

アンドレイ・フィリモン
(Andrei Filimon, 1977年7月27日)はルーマニアの卓球選手。1991年にグラナダで行われたヨーロッパユース選手権カデットの部でシングルス準優勝、混合ダブルスで優勝した。また1994年にパリで開催された同大会のジュニアの部で混合ダブルス優勝、1995年ハーグ大会ではシングルスで準優勝した。ロートスでの巻き込みサーブからの展開が得意であり、中陣から両ハンドドライブをガンガン打ち込んでくる。その中でもバックハンドドライブはクレアンガを彷彿とさせる程の凄まじい破壊力を誇る。

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ジョニー・ワイズミュラー
(Johnny Weissmuller、1904年6月2日 - 1984年1月20日)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身のアメリカ合衆国で活躍した水泳選手・俳優。ヨーハン・ペーター・ヴァイスミュラーとして、現在のルーマニアのティミショアラの近くでドイツ系の家庭に生まれる。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと7年契約を結んでから俳優としてのキャリアが本格的に始まった。1932年の『類猿人ターザン』でターザン役を演じ、世界にセンセーションを巻き起こした。

コルネリウ・コドレアヌ
(Corneliu Zelea Codreanu;1899年9月13日 - 1938年11月30日)は、ルーマニアの政治家。20世紀前半のファシスト組織、鉄衛団の指導者。フシ(Huai)出身。ポーランド人の父とドイツ人の母の間に生まれる。士官学校を卒業し、砲兵将校として第一次世界大戦に従軍。1938年4月17日、コドレアヌは反政府活動の容疑で逮捕され、懲役10年を言い渡された。その後、逃亡を図ったという口実で、カロル2世の命令により30人の同志と共に殺害された。

ローゼ・アウスレンダー
(Rose Auslander、1901年5月11日 - 1988年1月3日)は、ユダヤ系ドイツ人作家。詩人であり、翻訳の仕事も手がけている。オーストリア=ハンガリー帝国領ブコヴィナのチェルノヴィッツ(現ウクライナ領)で、ロザリーエ・シェルツァー(Rosalie Scherzer)の名で生まれる。 20歳の時、大学の友人イグナーツ・アウスレンダーと共に、生まれ故郷を後にする。ニューヨークで2年後にイグナーツと結婚したが、1926年「結婚生活の退屈のため」離婚に至る。

アハロン・アッペルフェルド
(Aharon Appelfeld, 1932年1月16日 - )はルーマニアのブコヴィナ出身のイスラエルの現代作家。ヘブライ語で執筆する。ノーベル賞候補にも挙げられたことがある。1940年、ナチス・ドイツのホロコーストにより母が殺された後、アハロン・アッペルフェルドは父とともにゲットーに移住させられ、後には強制収容所に送られた。父の死後、アハロンは逃亡し、ウクライナで3年間潜伏生活を送り、ソビエト連邦の軍隊に加わった。

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イリナ・イオネスコ
Irina Ionesco、1935年9月3日 - )は、フランスの女流写真家。ルーマニア系フランス人。1935年9月3日パリにルーマニア移民の家庭に生まれる。幼年期をルーマニア・コンスタンツァで過ごした後、再びフランスに戻る。1965年から写真を撮影し始める。1977年娘であるエヴァ・イオネスコをモデルに写真集「鏡の神殿」(Temple aux miroirs)を発表しセンセーションを呼ぶ。

エヴァ・イオネスコ
(Eva Ionesco, 1965年7月18日 - 別表記:エバ・イヨネスコ)は、パリ生まれ、フランスのモデル・女優。ルーマニア系フランス人で女流写真家のイリナ・イオネスコの娘。5歳の頃から母親の撮影する写真のモデルをつとめた。1977年にイリナ・イオネスコの写真集「鏡の神殿」(Temple aux miroirs)が出版された事により、エヴァはヨーロッパを代表するロリータ・スターになった。

イシドール・イズー
Jean-Isidore Isou Goldstein, 1925年1月29日 - 2007年7月28日)は、ルーマニアで生まれパリで亡くなった詩人。映画評論家。レトリスム(文字主義)の発案者である。モーリス・ルメートル (Maurice Lemaître)に多大な影響を与えた。イシドール=イズーはルーマニアのボトシャニに1925年1月29日にユダヤ系として生まれた。イズーは厳格な家庭に生まれたために物心がついたときには多くの哲学書や文学作品に熱心な天才児であった。

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エリ・ヴィーゼル
(Elie Wiesel, 1928年9月30日 - )は、ルーマニア出身のアメリカのユダヤ人作家。自らのホロコースト体験を自伝的に記し、1986年にノーベル平和賞を受賞した。現在、ボストン大学教授。シゲトは1940年にナチス・ドイツの占領を受け、この町のユダヤ人は1944年に強制収容所へ送られた。ヴィーゼルはアウシュヴィッツで囚人番号A-7713の刺青を左腕に彫られた上、家族と死に別れた。

デイヴィッド・ウェクスラー
(David Wechsler, 1896年1月12日 - 1981年5月2日)は、ルーマニア生まれのユダヤ系アメリカの心理学者。医療、福祉、教育など幅広い分野で活用されている診断的知能検査、WISC、WAIS、WPPSIの開発者として名高い。ルーマニア、ヤシ県のレスペズィ村にてユダヤ系の家庭に生まれ、幼時に一家でアメリカに渡る。

ミルチャ・エリアーデ
Mircea Eliade,1907年3月9日 ブカレスト - 1986年4月22日 イリノイ州シカゴ)は、ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家、作家(主に幻想文学および自伝的小説で有名)である。1928年、ブカレスト大学でエミール・シオランやウジェーヌ・イヨネスコに出会い、3人は途中短い中断はあるものの、生涯の友人となった。

リディア・シモン
(Lidia Simon, 1973年7月3日 - )は、 ルーマニア出身の女子陸上競技選手(主にマラソン)である。オリンピックでは1996年・6位、2000年・2位、2008年・8位と計3回入賞、また世界陸上選手権では1997年・3位、1999年・3位、2001年・1位、2007年・5位と計4回入賞している。五輪・世界陸上と合わせて合計入賞7回は、女子マラソン選手としては史上最多記録である。

ヨーゼフ・シュミット
(Joseph Schmidt, 1904年3月4日 - 1942年11月16日)はユダヤ人のテノール歌手・映画俳優。タウバー、ヤーライ、キープラと共に戦前のドイツ語圏に於けるオペレッタと音楽映画の黄金時代を飾ったスターテノールの一人で、ナチス・ドイツの犠牲となり悲劇の夭折を遂げた。家族は敬虔なハシディズムで、ヨーゼフはシナゴーグで少年合唱団に参加し、その当時から頭角を表し、ソプラノ歌手フェリシティ・レルヒェンフェルトの下に声楽を学び、1925年からはワイセンボーンの発明者であり、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの師であるヘルマン・ヴァイセンボルンに師事した。

ソール・スタインバーグ
Saul Steinberg, 1914年6月15日 - 1999年5月12日)はルーマニア生まれのアメリカの漫画家でイラストレーター。日本ではスタインベルグとも表記。その知的で洗練されたスタイルで一コマ漫画の世界に革命を起こす。主に『ニューヨーカー』誌で活躍した。ブカレスト大学で1年だけ哲学を学んだ後、イタリアのミラノ工科大学に転じて建築を専攻、1940年に卒業した。ミラノでは諷刺雑誌『ベルトルド』に積極的に関与したが、1942年、ファシスト政権下の反ユダヤ的なイタリアを逃れて渡米。

ローラ・ボベスコ
(Lola Bobesco、1921年8月9日 - 2003年9月4日)ルーマニア出身のベルギーのヴァイオリニスト、ブリュッセル音楽院教授。天才少女として父親の伴奏によりデビューした後、1934年にパリ音楽院に入学。1937年にウジェーヌ・イザイ・コンクールで第7位に入賞し、世界的に有名になる。バロック音楽とフランス音楽を得意とし、とりわけヴィオッティの協奏曲や、フランク、フォーレ、ギヨーム・ルクー、ドビュッシー、プーランクのソナタの録音は人気がある。

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