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ポルトガル共和国
Portuguese Republic

ヨーロッパ

ポルトガルの歴史
古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受けた。レコンキスタの進行した、12世紀にポルトガル王国が成立し、13世紀にはほぼ現在の領域が確定した。その後、海外へと植民地を獲得して隆盛を極めたのち、ナポレオン戦争で王制は動揺した。近代には共和制に移り、さらに独裁政権、無血クーデターによる民主化と激動の歴史を歩んだ。


ポルトガル人
ポルトガル人(ポルトガル語:os portugueses)は主にユーラシア大陸の西端、イベリア半島西部のポルトガルやその旧植民地に居住する民族。言語はポルトガル語を使用し、カトリック教徒が多い。ポルトガル人は、ヨーロッパの南西に居住している。ポルトガルに居住する最も初期の現生人類は、4万年前から3万5000年前頃にイベリア半島に到達したとされる。

アストゥリアス王国
Asturorum Regnumは、イベリア半島にかつて存在した王国。8世紀初頭、イベリア半島をイスラーム勢力(ウマイヤ朝)が征服し、西ゴート王国が滅亡した。この際、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨは、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで、アストゥリアス王国を建国した。

スエビ族
Suebi、は、古代ヨーロッパの民族。スエビ族は元々、バルト海南部を故地とするという。ローマではバルト海南東海域がスエビの海(Mare Suebicum)と呼ばれた。ゲルマン民族の大移動の時期、一部のスエビ族は、陸路、あるいは、海路からイベリア半島のガラエキア(現ガリシア)地方に411年に定住し王国を築いた。

フェニキア
Phoeniciaは、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。

イベリア人
Iberosは先史、古代からイベリア半島に住んでいた人々を指す、古代ギリシャ・古代ローマの文献に現れた名称。イベリア人という名称を、古代の記述家たちは二通りに用いた。一つは、最も一般的な、イベリア半島に住む人々の総称としてである。もう一つは、さらに民族学的に制限された、紀元前6世紀に既にフェニキアやギリシャからの文化的影響を受けていた半島の南岸および東岸に住む人々の名称としてである。

ゲルマン人
Germanic peoplesは、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派その他に属する言語を話していたと推定される諸部族(≠民族)の事を指す。ゲルマン人は古代時代にはローマ帝国を脅かす蛮族として活動し、中世にはローマ人(ラテン人)・キリスト教文化との混合によって中世ヨーロッパ世界を形成した。現代においては、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等に住む人々、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いているが、何れの勢力も長い歴史の中で複数の部族間の離合集散や異民族との混血を繰り返しており、古代のゲルマン人とは同質ではない(これはほかの民族も同様)。

ケルト人
Keltは、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。


パクス・ロマーナ
Pax Romana (パークス・ローマーナ))とは、「ローマの平和」を意味し、ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和を指す語である。パクス(パークス)とはローマ神話に登場する平和と秩序の女神である。 18世紀のイギリスの学者エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』のなかで五賢帝の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と評し「パークス・ロマーナ」というラテン語の造語で表現してから一般に広まった。


大航海時代
15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。「大航海時代」の名称は岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた1963年、これまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。

南蛮貿易
日本の商人と南蛮人(スペイン、ポルトガルの商人)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行われていた貿易である。1543年に種子島にポルトガル船が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。


ルシタニア
Lusitaniaはポルトガルの古称および雅称。ポルトガルとスペイン西部(現在のエストレマドゥーラ州)を含む古代ローマの属州ルシタニアに由来する。最初にこの地にやってきた人種はルシタニ族と呼ばれている。インド・ヨーロッパ語族という事からアルプスより移動してきた可能性はある。紀元前6世紀の事と言われるが、歴史学、考古学としてはいまだ時代の裏付けは定まっていない。

西ゴート王国
Regnum Visigothorum、415年 - 711年は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。

オーリッケの戦い
1139年7月25日に、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスとムラービト朝との間に起きた戦い。戦場はポルトガル南部のオーリッケ(Ourique)郊外(現在のアレンテージョ地方)であると言われているが正確な位置は不明。キリスト教軍側は数の上で大幅に劣っていたものの、ムラービト朝は内部の分裂によって弱体化しており、ポルトガル軍は5人のモーロ人の王を戦死させて大勝したという。

カスティーリャ王国
Reino de Castillaは、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。

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ポルトガル王国
Reino de Portugalは、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に、1139年から1910年まで存在した王国。1129年、ポルトゥカーレ伯アフォンソ1世がポルトゥカーレ公を名乗りカスティーリャ王国より独立、1139年より王を称した。国土回復運動(レコンキスタ)によって勢力を拡大した。

アンダルス
Al-Andalus、とは、イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称。レコンキスタでイスラーム勢力統治領域が狭まっても、史料でキリスト教諸国の領域はアンダルスとして扱われることはほとんどなく、レコンキスタ最末期に「アンダルス」との言及があれば、それはナスル朝の領域を指す。


クロマニョン人
Cro-Magnon manとは、南フランスで発見された人類化石に付けられた名称である。1868年、クロマニョン (Cro-Magnon) 洞窟で、鉄道工事に際して5体の人骨化石が出土し、古生物学者ルイ= ラルテ(Louis Lartet) によって研究された。ヨーロッパにおける化石現生人類をひろくクロマニヨン人と言うこともある。


■地理
アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。


イベリア半島
Iberiar penintsulaは、ヨーロッパの南西に位置する半島である。イベリアの名は、古代ギリシア人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。

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ピレネー山脈
Pirinioakフランスとスペインの国境が走る褶曲山脈である。ヨーロッパ大陸とイベリア半島を分ける山脈でもある。山脈はほぼ東西方向に延び、長さ430km、幅は定義にもよるが100km程度である。山脈の中央東寄りの位置にはミニ国家であるアンドラ公国がある。

アゾレス諸島
Azores、は、大西洋の中央部マカロネシアに位置するポルトガル領の群島。アゾレス諸島全体は自治権を持ち、一つの行政区でもある。ポルトガル沖約1000kmの大西洋上に浮かぶ。1427年に発見された。リスボンから約1500km、北アメリカの東端から3900kmの位置にある。火山が起源で、九つの島からなる。

ピコ島
Ilha do Picoはポルトガルの最高峰火山ピコで知られるアゾレス諸島の島。ポルトガル領。中部群島に属し、アゾレス諸島第2の面積をもつ。島の首府はマダレナ。面積は446km2。島内の人口は約1万5千人。

ピコ山
(Montanha do Pico、Ponta do Pico)は成層火山であり、アソーレス諸島のピコ島最高峰である。海抜2,351mに達し、ポルトガル及び大西洋中央海嶺最高地点である。ピコ山はアソーレス諸島の他の頂より2倍以上も高い。

マデイラ諸島
Arquipelago da Madeiraは、北大西洋上のマカロネシアに位置するポルトガル領の諸島。最初に発見したのはフェニキア人とされ、古代ローマ時代からその存在を知られていたが1419年、ポルトガル船がポルト・サントに漂着し、翌年ポルトガルから植民が行われた。

エストレーラ山脈
(Serra da Estrela)とはポルトガルで最も標高の高い山脈であり、システマ・セントラルでも最も標高が高いもののひとつである。海抜で見てポルトガル本土最高地点(1993m)を含んでいる(しかしながらポルトガル最高地点はアソーレス諸島のピコ山である。

 


テージョ川
タホ川(スペイン語: El Tajo)、テージョ川(ポルトガル語: O Tejo)、タグス川(ラテン語: Tagus)は、イベリア半島で最も長い全長1,008kmの川である。そのうち上流側の910kmがスペインにあり、河口側の98kmがポルトガル領である。リスボンのテージョ川河口部には4月25日橋[2]とヴァスコ・ダ・ガマ橋が架かる。ヴァスコ・ダ・ガマ橋は全長が17.2kmあり、ヨーロッパで最も長い橋として知られている。



<世界遺産>
アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの町の中心地区
アングラ・ド・エロイズモ(Angra do Heroismo)は、ポルトガル・アゾレス諸島にある都市である。

■リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔
ジェロニモス修道院:マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。
ベレンの塔:16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。建築様式はマヌエル様式である。

バターリャの修道院
バターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院は、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁によって多くの人々を驚嘆させる。

トマールのキリスト教修道院
トマールのキリスト教修道院(ポルトガル語でConvento de Cristo em Tomar)は、ポルトガルの都市・トマールにある修道院であり、12世紀にテンプル騎士団によって建設された。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代 のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名である。

エヴォラ歴史地区アルコバッサの修道院
アルコバッサ修道院(Monastry of Alcobaca)はポルトガル北部アルコバッサの町にあるシトー会修道院。 ポルトガル語の正式名称はMOSTEIRO DE SANTA MARIA DE ALCOBAC 。 ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会をはじめ中世の建築群がそのまま残り、1989年、ユネスコの世界遺産に登録された。ポルトガル初代国王アフォンソ1世の所願により1178年に建築が始められた。フランスのシトー派の影響を強く受けている。エヴォラ はポルトガル南東部アレンテージョ地方にある町である。人口は、55,619人。面積は、1307.0平方キロメートルであり、スペイン国境に近い。

シントラの文化的景観
Sintraは、ポルトガルの都市で、首都・リスボンに隣接する地方自治体である。シントラの市街地には約27,000人が居住しているが、市全域では、36万人を超える人口を誇る。かつては王室の夏の離宮も置かれ、王宮とペナ宮殿はユネスコの「シントラの文化的景観」の名前で世界遺産に登録されている。

ポルト歴史地区
ポルト(Porto)はポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。同国屈指の世界都市であり、ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える。ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。

コア渓谷の先史時代の岩壁画
当初、ポルトガルで発見された旧石器時代の岩絵の残る野外のものとしては最大級の遺跡であるコア渓谷の先史時代の岩絵遺跡群が単独で登録され、2010年にスペインのシエガ・ベルデが拡大登録された。1980年代後半に、ポルトガル北東部のヴィラ・ノヴァ・デ・フォス・コア(Vila Nova de Foz Coa)で線刻芸術が発見された。この遺跡はコア川(Coa river)流域の渓谷に位置し、1万年から2万年前の馬、牛、他の動物、人物、抽象的な図像などの数千に及ぶ線刻画から成っている。
アルト・ドウロ・ワイン生産地域
アルト・ドウロ・ワイン生産地域は、自然環境を上手に生かしたブドウの段々畑で有名である。ドウロ川の上流に位置し、2000年、ユネスコの世界遺産に登録された。アルト・ドウロ地方のブドウ畑は、斜面を段々畑にしてきた。段々畑を支える石壁の総延長は、数万kmに及ぶ。ここで産出されるワインは、ポート・ワインとして世界的に有名でもある。

ギマランイス歴史地区
ギマランイス(Guimara?s)は、ポルトガル北西部・ブラガ県にある地方都市であり、「ポルトガル発祥の地」と称される町である。これはポルトガル初代国王アフォンソ1世がギマランイスで誕生したことに由来する。地方自治体としてのギマランイスは、2001年、16の行政区を合併し、5万人が新たにギマランイス市民となった。その結果、面積241.3平方キロメートル、人口161,876人の地方自治体に発展した。

ピコ島のブドウ畑の景観
ポルトガル語 Ilha do Pico)はポルトガルの最高峰火山ピコで知られるアゾレス諸島の島。ポルトガル領。中部群島に属し、アゾレス諸島第2の面積をもつ。島の首府はマダレナ。面積は446km2。島内の人口は約1万5千人。

マデイラ諸島のラウリシルヴァ
マデイラ島の照葉樹林とは、ポルトガルのマデイラ諸島の主島であるマデイラ島に分布する照葉樹林原生林のことをいう。世界遺産に登録されている。ヨーロッパを包み込んだ第四紀更新世における氷河の影響を辛うじて免れた、アトラト山脈北稜(モロッコ・アルジェリア領内);カナリア諸島のゴメラ島のガラホナイ国立公園(世界遺産)を中心とした区域、ラ・パルマ島(特に北東部)、テネリフェ島(北部の狭い区域);アソーレス諸島の一部の島々と並び、氷河期以前のヨーロッパにおける植生分布の典型として貴重である。


■食文化
ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、鰯、鯖、鮟鱇などの多様な魚の中でも、特に干鱈(バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。他には豚肉が使われる。主な料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。


1755年リスボン地震
1755年11月1日に発生した地震。午前9時40分に西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5 - 9.0。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている。地震が与えた衝撃はヨーロッパの精神にも及んだ。多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも破壊されたことは、18世紀の神学・哲学では説明の難しいものであった。
ヴォルテールは、災害によってリスボンが破壊され、10万もの人命が奪われたのだから、神(創造主)が慈悲深いわけがないと主張した。当時のヨーロッパの知識人にとり、リスボン地震の衝撃による文化的・哲学的転換は、20世紀後半におけるホロコーストの衝撃に比べられるほど大きかった。

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カーネーション革命
ヨーロッパで最も長い独裁体制を終わらせた、1974年のポルトガル軍事クーデター。ほとんど無血に終わり、カーネーションが革命のシンボルとなったので、このように呼ばれる。別名「リスボンの春」。1974年4月25日早朝オテロ・デ・カルヴァーリョ大尉に指揮されたリスボンの国軍運動は決起し、市内の要所を占拠した。共和国警備隊本部で包囲されたカエターノ首相はあっさり投降し、スピノラ将軍に権力を委譲した。流血はほとんどなく、無血革命だった。カエターノ首相、トマス大統領は翌日の飛行機でマデイラ島に移された。MFAを中核とする救国軍事評議会が結成され、スピノラ将軍は近く臨時政府を組織すると発表した。革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ、市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓した。革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿した。


■音楽
ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれて来た。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。


ポルトガルの映画
ポルトガルにおけるサイレント映画の歴史は1896年6月18日にリスボンでロバート・ウィリアム・・ポールのアニマトグラフィーの上映によって始まった。これはリュミエール兄弟がパリで上映を行った6ヵ月後のことである。ノヴォ・シネマとは1963年から1974年の間にポルトガルで製作されたアヴァンギャルドな作品を指す。著名な監督には フェルナンド・ロペス、パウロ・ローシャ、アントニオ・ダ・クーニャ・テリスといった人物がいた。この動きは同時期に起こったイタリアのネオレアリズモやフランスのヌーヴェルヴァーグの影響を受けていた。


パウロ・ローシャ
Paulo Rocha, 1935年12月22日 - は、ポルトガル・ポルト出身の映画監督である。リスボンで法律を学んでいたが中断し、パリの高等映画学院で映画製作を学んだ。その後、ジャン・ルノワールとマノエル・デ・オリヴェイラの助監督を務めている。1963年(昭和38年)、長編劇映画『青い年』を発表し、映画監督としてデビューした。

カルロス・ロペス
Carlos Alberto de Sousa Lopes, 1947年2月18日 - はポルトガルの陸上競技長距離選手である。その後、マラソン競技に転向し、ロサンゼルスオリンピックにおける下馬評では前年の世界選手権優勝者ロバート・ド・キャステラ( オーストラリア)や瀬古利彦( 日本)などの評価が高く、彼自身の評価はそれほど高くなかったが37歳での出場にも係わらず2時間9分21秒の五輪新記録で見事金メダルを獲得した。

ロザ・モタ
Rosa Mota、1958年6月29日 - は、ポルトガル出身の元女子マラソン選手。女子マラソンが正式種目となった1984年のロサンゼルスオリンピック前には、それまで彼女の自己記録が2時間30分台でメダル候補に名前も挙がらなかった。しかしロサンゼルス五輪の女子マラソン本番では、イングリッド・クリスチャンセンとの3位争いを制し、金メダルのジョーン・ベノイト、銀メダルのグレテ・ワイツに続いて、銅メダルを獲得。

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アルベルト・ジョアン・ジャルディン
(Alberto Joao Jardim、1943年2月4日 - )は、ポルトガル領マデイラ自治地域の政治家。現在、自治政府主席(第2代)。コインブラ大学法学部を卒業後ポルトガル各地で教鞭を取り、また1974年4月25日に起こったカーネーション革命後は人民民主党(現在の社会民主党)の創設に携わるが、自治政府首席としてはたびたびポルトガル本土を挑発する発言を行い、ポルトガル政治の中で最も賛否が分かれる政治家の一人である。

アニーバル・カヴァコ・シルヴァ
(Anibal Antonio Cavaco Silva、1939年7月15日 - )は、ポルトガルの政治家。現大統領、元首相。社会民主党所属。

ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
1699年5月13日 - 1782年5月8日は、近世ポルトガル王国の政治家。国王ジョゼ1世の全面的信任を得て長年独裁権力を振るい、啓蒙的専制を行った。同年11月1日、リスボン大地震が発生し、津波と火災のためリスボンの町は壊滅的な打撃を受けた。カルヴァーリョは間一髪の差で生き残り、再建に乗り出した。

マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ
(Manuel de Oliveira Gomes da Costa 1863年1月14日 - 1929年12月17日)はポルトガルの軍人、政治家、大統領。10歳のときにコレジオ・ミリタールへ入学、軍人の道を歩み始める。 兵士としてのゴメスはアフリカやインド植民地の反乱鎮圧や、第一次世界大戦での活躍で大いに名声を高めた。

アルヴァロ・クニャル
(Alvaro Barreirinhas Cunhal、1913年11月10日 - 2005年6月13日)はポルトガルの政治家。1961年から1992年までポルトガル共産党(PCP)書記長を務めた。ユーロコミュニズムが浸透するヨーロッパの共産主義政党にあって、終始ソ連支持を貫いた。ベント・ゴンサルヴェスが政治犯としてカーボベルデの収容所にて死亡すると、1961年には党書記長に選出。当時弾圧を避けてモスクワ[1]に亡命しており、その後1974年4月25日のカーネーション革命まではパリに滞在していた。

ジョゼ・ソクラテス
1957年9月6日 - )は、ポルトガルの政治家。同国の前首相(2005年 - 2011年)、社会党前党首(書記長)。ジョゼ・ソクラテスは衛生工学を学び、土木技師であった。彼は1981年から社会党のメンバーであり、1987年には議員に選出された。2005年の総選挙で社会党は圧倒的勝利を収め、ソクラテスは組閣のため2月24日にジョルジェ・サンパイオ大統領に呼び出された。

ペドロ・パッソス・コエーリョ
Pedro Manuel Mamede Passos Coelho、1964年7月24日 - は、ポルトガルの政治家。社会民主党代表、首相。早くから政治に関わり、社民党青年組織のリーダーにもなった。2011年6月21日より第19次立憲内閣を率いる。

ジョルジェ・サンパイオ
(Jorge Sampaio, 1939年9月18日- ) は、ポルトガルの第三共和政第5代大統領(任期:1996年3月9日 - 2006年3月9日)。所属政党は社会党。リスボンで医師の家庭に生まれる。母方の祖母Sara Bensliman Bensaude(1976年没)はモロッコ出身のポルトガル系ユダヤ人だが、ジョルジェ・サンパイオ自身は無神論者であり、自らをユダヤ人と見なしていない。

ジョゼ・モウリーニョ
(Jose Mourinho1963年1月26日 - )は、ポルトガル・セトゥーバル出身のサッカー指導者。2010-11シーズンよりレアル・マドリード監督。ポルトガル語での発音に近い日本語表記はジュゼ・ムリーニュ。監督として唯一UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれている。また過去に3人しか達成していない、異なる2つのチームをチャンピオンズリーグ優勝に導いた監督のうちの1人であり、監督として欧州3大リーグ優勝を成し遂げた唯一の人物である。 

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ヴァスコ・フェルナンデス
(Vasco Fernandes , 1475年頃 - 1542年頃)は、ポルトガルのルネサンス期の画家。グラォン・ヴァスコ(Grão Vasco、偉大なるヴァスコ、の意味)の通称で知られる。ヴァスコ・フェルナンデスはおそらくポルトガル北部ヴィゼウの生まれとみられており、ヴィゼウで画家として仕事を始め、ヴィゼウ大聖堂の祭壇装飾の創作(1501年から1506年)をしたといわれている。

ジル・ヴィセンテ
(Gil Vicente、1465年 - 1537年)は、ポルトガルの劇作家・詩人で、自作の劇を演じる俳優であり、ディレクターであった。ポルトガルの劇作の父と呼ばれている。彼が活躍した時代のポルトガルにはまだ劇場がなく、彼はポルトガル王マヌエル1世とジョアン3世の宮廷や、貴族の邸宅で劇を上演した。初期は宮廷の宗教行事で扱われる宗教劇が主であったが、のち世俗的なテーマに転換して当時のポルトガル社会を風刺する笑劇を多く書いた。

フェルナン・メンデス・ピント
Fernam Mendez Pinto, 1509年? - 1583年7月8日)はポルトガル人冒険家、著述家。かれの業績は死後の1614年に刊行された『遍歴記』 (Peregrinacao) で知られる。ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる。

テオフィロ・ブラガ
(Joaquim Teofilo Fernandes Braga 1843年2月24日 - 1924年1月28日)とはポルトガルの作家、政治家。処女作は「Folhas Verdes(緑の葉)」。コインブラ大学法学部を卒業後、リスボンで文学を教える。文学史、民俗学、詩、小説、哲学など様々な分野で活躍。

ヴェンセスラウ・デ・モラエス
(Wenceslau José de Sousa de Moraes, 1854年5月30日 - 1929年7月1日)はポルトガルの軍人、外交官、文筆家。リスボン生まれ、徳島市で死去。1889年に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤める。著書に『おヨネとコハル』、『日本精神』、『ポルトガルの友へ』、『徳島日記』がある。ポルトガル語で著述したこともあり、生前には日本ではほとんど注目されることがなかったが、死後、日本語への翻訳がなされ、昭和初期の時代の風潮もあり、日本賛美として取り上げられるようになった。

ドゥルス・ポンテス
(Dulce Pontes, 1969年4月8日-)は、ポルトガルの歌手。作詞、作曲も手がける。ファドをベースにポップス、クラシックなど幅広いジャンルの要素を取り入れた独自の音楽を作り上げている。

マドレデウス
(Madredeus) は、1985年にポルトガル・リスボンで結成され活動中のバンド。ファドの影響を色濃く受けており、ファドバンドと目されることもあるが、その音楽性はファドの範疇に留まらず、特に近年においてはポルトガルの伝統音楽、ボサノヴァ、クラシック、ポピュラーミュージックなどの要素をミックスさせた楽曲を多く発表している。

ジョルジェ・アフォンソ
(Jorge Afonso, 1470年頃 - 1540年)は、ポルトガルのルネサンス期の画家。ジョルジェ・アフォンソは、1508年にポルトガル王マヌエル1世によって宮廷画家に任ぜられ、1529年にはジョアン3世に再び任ぜられた。彼は主にリスボンを拠点とし、サン・ドミンゴス教会近くに画房をかまえた。

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フェルナンド・マトス・シルヴァ
(Fernando Matos Silva、1940年5月22日 ヴィラ・ヴィソーザ - )は、ポルトガルの映画監督である。「ノヴォ・シネマ」の映画作家として知られる。先取の指向をもち、1960年代の10年のあいだにロンドン・フィルム・スクール(London Film School)に通った。1973年に完成した長篇映画『O Mal Amado』は、プレス用プレミア試写のあとに検閲によって完全に禁止され、1974年4月25日の「カーネーション革命」が起きるまで上映できなかった。

ルイス・フロイス
1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日)は、ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会員として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。1532年にリスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。

アフォンソ1世 (ポルトガル王)
(Afonso I, 1109年7月25日 - 1185年12月6日)は、ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝の初代ポルトガル王(在位:1139年 - 1185年)。父はブルゴーニュ家出身のポルトゥカーレ伯エンリケ(フランス語名アンリ、公位を継いだユーグ1世、ウード1世の弟)。母はカスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の庶子テレサ。

マルセロ・カエターノ
(Marcelo Jose das Neves Alves Caetano, 1906年8月17日 − 1980年10月26日)はポルトガルの政治家、首相。元はリスボン大学の法学教授であり、超保守主義者であった。 1940年、アントニオ・サラザールの権威主義的独裁の下、カエターノの出世が始まる。 彼はすぐにエスタド・ノヴォ体制の要人となり、ヒトラーユーゲントを模倣した組織であるポルトガル青年団(Mocidade Portuguesa)の長官、後には植民地省大臣にも指名された。

マヌエル・ルイ・コスタ
(Rui Manuel Cesar Costa, 1972年3月29日 - )は、ポルトガル・アマドーラ出身の元サッカー選手。元ポルトガル代表。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)、セカンドトップ。ポルトガルが生んだファンタジスタ。現在はSLベンフィカでテクニカル・ディレクターを務める。

ルシア・ドス・サントス
(Lucia de Jesus dos Santos 1907年3月22日−2005年2月13日)はポルトガル・ファティマにおける聖母出現の目撃者の一人で、カトリックの修道女(カルメル会)。ルシアは3人の目撃者の中で唯一、長命であった。ルシアが最初に不思議な経験をし始めるのが1915年4月から10月にかけてのことである。友人と一緒に遊んでいるときに天使を幻視する。その後、1917年5月13日の日曜日。従兄妹であるフランシスコ・マルトとヤシンタの兄妹と一緒に羊の番をしているときに三人の前に『聖母』が現れた。

バルトロメウ・ディアス
Bartolomeu Dias, 1450年頃 − 1500年5月29日はポルトガルの航海者で、ヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達した。 ディアスの功績として「喜望峰発見」はあまりに一般的である。が、彼の本当の功績はヨーロッパ人として初めてアフリカ南端に到達し、その後のインド到達への道筋を確実に標した事にある。

ポルトガル Portuguese
西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。

アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中で最も西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500km離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900km離れている。

リスボン
Lisbonはポルトガルの首都であり、ポルトガル最大の都市である。南ヨーロッパ有数の世界都市でもある。面積84.6平方キロ、人口564,652人(2001年)。大西洋に流入するテージョ川の河口に位置する港湾都市である。テージョ川沿いのすぐ近くまで丘が迫っており、市街地の多くはその丘の上に発達している。そのため坂の多い街であり、別名「7つの丘の街」とも呼ばれる。


リスボン大学
リスボン大学(ポルトガル語: Universidade de Lisboa,ラテン語: Universitas Olisiponensis)とはポルトガルのリスボンに所在する大学である。8学部から構成される。ポルトガル王国崩壊後の1911年に創設されたが、リスボンにおける大学の歴史は13世紀に遡る。ポルトガル初の大学はディニス1世によってリスボンに創設され、ストゥディウム・ジェネラーレ(Estudo Geral)と呼ばれた。続く247年間は、この最初の大学は幾度かリスボンとコインブラの間を移転した。1537年に、ジョアン3世は大学のコインブラ移転を最終的に決定した。

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コインブラ大学
コインブラ大学(University of Coimbra)はポルトガルのコインブラにある国立大学である。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。

ポルト大学
Universidade do Portoとはポルトに所在する大学であり、1911年3月22日に創設された。学生数はポルトガルの大学の中では最大であり、特筆される研究の成果を出している大学の一つである。この大学は19世紀にポルトに創設された二つの高等教育機関、理工科アカデミーと外科医学学校から成っている。


外務省:ポルトガル共和国
在ポルトガル日本国大使館


ポルテラ空港
Aeroporto da Portelaは、ポルトガルの首都、リスボンにある空港であり、TAP ポルトガル航空及びポルトガリア航空の本拠地である。「リスボン空港」と呼ばれることもある。

ポンタ・デルガダ空港
Aeroporto Joao Paulo IIは、ポルトガルサンミゲル島にある国際空港。ポルトガル領アゾレス諸島の首府ポンタ・デルガダにある。ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世にちなみ「ヨハネ・パウロ2世空港」と呼ばれている。

マデイラ空港
Madeira Airportは、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島にある国際空港である。かつてはサンタ・カタリナ空港(Santa Catarina Airport)と呼ばれた。


コインブラ
Coimbraはポルトガルの都市および地方自治体。人口は約15万人、面積は約319.4km2。16の自治体、面積約3372km2が集まってコインブラ大都市圏を構成しており、その総人口は43万人以上。バイショ・モンデーゴ地域の中心都市で、コインブラ県の県都でもある。セントロ地方(Regia? Centro)で最も大きな街である。市外から大学に通う学生たちも多い。

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リスボンメトロ
(Metropolitano de Lisboa)は、ポルトガルの首都リスボン市の地下鉄である。1959年12月29日開業で、2009年8月30日現在、4路線約40km、46駅の規模である。


ポルト
Porto IPAはポルトガル北部の港湾都市。人口約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市。同国屈指の世界都市であり、ポルト都市圏では、人口は約160万人を数える。

ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア
(Vila Nova de Gaia)はポルトガル北部の産業都市。ポルト市とはドウロ川を挟んだ対岸に位置する。ポルトガル第3の人口を誇る。ドウロ川にかかるドン・ルイス1世橋から見えるポートワインのロッジ(倉庫街)群はガイア市に属する。

アヴェイロ
(Aveiro は、ポルトガル中部地方にある都市で、アヴェイロ県の県都である。大西洋岸に位置し、ポルトガルにおける重要な漁港がある。また、小さな魚や貝殻の形をした白い皮の中に、黄金色の卵黄クリームが詰まったオヴォシュ・モーレシュでも有名である。

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ポンタ・デルガダ
(Ponta Delgada) とは大西洋のポルトガル領アソーレス諸島の首府で、サン・ミゲル島に位置する重要な港町。人口は約21,091人。ポルトガル植民地時代の建造物が立ち並ぶ。1976年に建設されたアソーレス大学がある。

フンシャル
Funchalは大西洋のポルトガル領マデイラ諸島の都市。古い年代記によると、最初の植民者たちがフンシャルの地にやってきたとき、甘い香りを放つ野生のハーブ、フェンネル(ポルトガル語でFuncho)が生い茂っていたという。このフェンネルが語源となったとされる。

アルマダ
Almadaは、ポルトガル、セトゥーバル県の都市。都市としては、人口101,500人と国内第6位。東はセイシャル、南はセシンブラ、西は大西洋に面した長い海岸線、北から北東にかけては広大なテージョ川河口である。有名なクリスト=レイ像はアルマダを見下ろす場所に建っている。

セトゥーバル
Setubalは、セトゥーバル県の県都であり、リスボン都市圏の最南端に位置するポルトガル第4の都市である。ポルトガル第9位の人口を誇る。20世紀初頭、セトゥーバルは、ポルトガルの漁業、特にイワシ漁の中心地に発展した。また、ポルトガルを代表する工業都市でもあり、やや衰退気味ではあるが造船業や自動車工業も盛んである。

ギマランイス
(Guimaraes)は、ポルトガル北西部・ブラガ県にある地方都市であり、「ポルトガル発祥の地」と称される町である。これはポルトガル初代国王アフォンソ1世がギマランイスで誕生したことに由来する。ギマランイスは、ポルトガルの中でも随一の工業都市であり、主要産業は織物、靴、金属機械である。

ヴィゼウ
viizeuは、ポルトガル・ヴィゼウ県の県都・都市。市単体では98,753人(2006年)の人口だが[1]、ヴィゼウ都市圏としては354,162人の人口を抱える。ヴィゼウは、16世紀の偉大なポルトガル人画家で、通称偉大なるヴァスコと呼ばれるヴァスコ・フェルナンデスの生誕地である。

レイリア
(Leiria)は、ポルトガル中部の都市である。レイリア県の県都であり、中心部には、42,475人、市全域で、約12万人の人々が住む。レイリーアは、ポルトガルの首都リスボンと第2の都市ポルトの中間に位置し、リスボンから約146km、第3の都市コインブラから約72km離れている。歴史的な建築物は、リス川沿いとレイリーア城のある丘陵地帯に多い。

アマドーラ
Amadoraは、ポルトガル、リスボン県の都市。リスボン都市圏を構成する都市のひとつである。リスボンに隣接するアマドーラは、数世紀にわたってリスボンの富裕階級の避暑地となってきた。

ブラガ
Bragaはポルトガル北西部の都市であり、ブラガ県の県都。ブラガを中心とするミーニョ都市圏は、リスボン都市圏、ポルト都市圏に次ぐポルトガルで第3の都市圏を形成する。「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの町である」という言葉からも明らかなように、ブラガは、ポルトガルにおいて、信仰面で重要な役割を果たしてきている。

ファロ
Faroは、ポルトガル南部の都市及び基礎自治体。アルガルヴェ地方ファーロ県の県都。フォルモーザ潟が新石器時代から先史時代後半まで人類の定住をひきつけてきた。ローマ帝国時代に占領され重要な都市に成長した定住地オソノーバ(Ossonoba)は、歴史家によれば現在のファロの前身だという。

ファティマ
(Fatima)は、ポルトガルの都市。1917年に起こったとされる、ファティマの聖母の出現と呼ばれる宗教的幻視によって著名である。ファティマは面積71 km2 人口およそ10,000人の町で、オポルトから187km南部、リスボンから123km北部のポルトガル中央部に位置する。元来は小さな農村の町であったが、現在はローマ・カトリックの巡礼者を中心に国際的な巡礼地として知られる。

カルダス・ダ・ライーニャ
Caldas da Rainhaは、ポルトガルの都市。『王妃の温泉』または『王妃の鉱泉』という意味である。広域自治体も同名のカルダス・ダ・ライーニャである。市のみで人口25,316人。温泉と陶器産地として有名である。

アマドーラ
(Amadora)は、ポルトガル、リスボン県の都市。リスボン都市圏を構成する都市のひとつである。11の教区を持つ同名の基礎自治体で、面積は全国最小の基礎自治体となっている。リスボンとの往復が容易な地下鉄、バス網、鉄道網が整備され現在はリスボンの衛星都市となっており、高層住宅街や工業地区が景観を占めている。


ポルトガル鉄道
(Caminhos de Ferro Portugueses, CP)はポルトガル国鉄の以前の名称である。1997年以降、大幅な赤字による経営建て直しやEUの鉄道政策により上下分離が行われ、運行部門のCPと線路等のインフラを管理する部門のREFERに分割された。


ポルトガルの国旗
ポルトガルの国旗(ポルトガルのこっき)は旗竿側5分の2に緑、旗尾側5分の3に赤の縦二色に盾など国章の主要部分を配した旗。一説に、緑は希望を、赤は共和国成立の革命を表すとされる。金色(黄色)の球状の物体は、大航海時代の航海用具・天測儀である。ポルトガルの先人による測量術の発展と、それによる新規航路の発見を表し、つまりはポルトガル海上帝国の輝かしい歴史を表している。


■国名
正式名称はポルトガル語で、Republica Portuguesa(レプーブリカ・ポルトゥゲザ)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。公式の英語表記は、Portuguese Republic (ポーチュギーズ リパブリク)。通称、Portugal (ポーチュゴル)。

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1.面積:91,985平方キロメートル(日本の約4分の1)
2.人口:約1,064万人(2009年、国立統計院)
3.首都:リスボン市(人口: 約48万人)(2009年、国立統計院)
4.言語:ポルトガル語
5.宗教:カトリック教徒が圧倒的多数

1143年 ポルトガルの建国
1580年 スペインとの同君連合
1640年 スペインより独立(王政復古)
1910年 王政終焉、ポルトガル共和国成立
1932年 サラザール政権(〜1968年)、カエターノ政権(1968年〜1974年)
1949年 NATO加盟
1955年 国連加盟
1974年4月25日 カーネーション革命(民主化)
1986年 EC(後にEUに発展)に加盟
1996年 ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)に加盟(同年に設立。本部リスボン)

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■主要産業:製造業(機械類、衣類、コルク製造)及び観光業等
■主要貿易品目(1)輸出 自動車、輸送機器部品、集積回路、靴、衣料品(2)輸入 石油、自動車、輸送機器部品、医薬品


ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。


■経済
主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛ん。オリーブ油の生産高は世界7位。ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)。森林 (36%) も多い。エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている。

オリーブ
(橄欖、英: Olive、学名:Olea europaea)は、モクセイ科の常緑高木。果実がオリーブ・オイルやピクルスを作るときに利用されている。種子の油は、オリーブ核油 olive kernel oil といい、オリーブ油よりも品質が劣る。

オリーブ・オイル
オリーブ栽培とオリーブ・オイル発祥の地は地中海沿岸である。広く信じられている説では、オリーブ・オイルの使用はクレタ島で始まったという。オリーブ・オイルを貯蔵するための最古のアンフォラはここから出土しており、紀元前3500年ごろのものとみられる。もう一つの説では、カナン人が紀元前4500年ごろに初めてオリーブ・オイルを絞ったという。

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波力発電
主に海水などの波のエネルギーを利用して発電する発電方法で、海流を利用したもの、波の上下振動を利用したもの、ジャイロ式発電タイプ、人工筋肉により発電するものまで様々なタイプのものがある。面積あたりのエネルギーとして、太陽光の20〜30倍、風力の5〜10倍である。


民主社会中道・人民党
Democratic and Social Centre-People's Party、は ポルトガルの中道右派政党。国際民主同盟及び欧州人民党に加盟。選挙の際は「人民党」と名乗ることが多い。現在の党首はパウロ・ポルタス。

社会民主党
Partido Social Democrataは、ポルトガルの政党。略称はPSD。はじめは社会民主主義政党として結成されたが、現在は中道右派政党となっており、ポルトガルではもう一方の大政党である社会党(PS)が社会民主主義政党として存在している。

社会党
ポルトガルの社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟政党。なお、ライバルである社会民主党(PSD)は、中道右派の政党であって、社会民主主義政党ではない。1973年4月19日、西ドイツのバート・ミュンスターライフェルで結成された。当時のポルトガルはエスタド・ノヴォと呼ばれるファシズム政権だったために国内では活動できなかった。1973年4月19日、西ドイツのバート・ミュンスターライフェルで結成された。当時のポルトガルはエスタド・ノヴォと呼ばれるファシズム政権だったために国内では活動できなかった。

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ポルトガル内戦
Guerra Civil Portuguesaは、1828年から1834年にかけてポルトガル王国において王位継承をめぐる争いから起きた内戦。ウィーン体制下における立憲君主主義と絶対君主主義の対立が主な原因。スペインをはじめイギリス、フランス、カトリック教会などの介入を招いた。


■国民
ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。


■言語
言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)が公用語である。1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。

サウダージ
Saudade、あるいはサウダーデとも)とは、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語の語彙。ポルトガル語、およびそれと極めて近い関係にあるガリシア語に独特の単語とされ、他の言語では一つの単語で言い表しづらい複雑なニュアンスを持つ。ガリシア語ではこの語はあまり使われず、通常類義語のモリーニャ(morrina)が同様の意味で使われる。


■宗教
宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。

カトリック教会
Ecclesia Catholica)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座におくことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー」やラテン語では「カトリクス(Catholicus)」等で、「普遍的」「公同」などの意味である。


文学
ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。


■美術
絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスが最も傑出した画家として知られている。

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アズレージョ
azulejo、スペイン語ではアスレホ)は、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイル。途絶えることなしに5世紀もの間生産され続け、ポルトガル文化の典型的な要素となった。ポルトガルへ行けばどこでも、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の内や外、鉄道駅や地下鉄駅でさえも見られる。


マリア・ジョアン・ピレシュ
Maria Joao Pires、1944年 - は、ポルトガル出身の女性ピアニスト。現在はブラジル・バイーア州・サルバドールに在住。リスボンで生まれた。幼少期からピアノを始め、7歳でモーツァルトの協奏曲を公開演奏した。9歳で、ポルトガル政府から青少年音楽家に与えられる最高の栄誉を受け取った。1953年から1960年までリスボン大学で作曲・音楽理論・音楽史を師事。それから西ドイツに留学し、ミュンヘン音楽アカデミーとハノーファーに学ぶ。1970年に、ブリュッセルで開かれたベートーヴェン生誕200周年記念コンクールで首位となる。

マノエル・ド・オリヴェイラ
Manoel de Oliveira1908年12月11日 - は、ポルトガル・ポルト県ポルト出身の映画監督。2011年9月現在102歳で、現役最高齢の劇映画監督である。監督デビューは23歳と早かったが、本格的かつ定期的に作品を創り上げるようになったのは60歳を過ぎてからである。63歳の時に撮った『過去と現在 昔の恋、今の恋』(1971年)以降、再び映画の演出を開始、1980年代に入り70歳を過ぎてからは1年に1作に近いペースで新作を撮り続けている。

ルイス・デ・カモンイス
Luis Vaz de Camoes、1524年頃 - 1580年6月10日は、ポルトガル史上最大の詩人とされる人物である。その作品はホメロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの古典詩人と比較される。彼は多くの叙情詩や戯曲を残したが、1550年から執筆して1571年に公刊、1572年に改訂した叙事詩『ウズ・ルジアダス』が最も有名である。カモンイスはこの中でヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓を称賛し、大航海時代で繁栄を極めたポルトガル黄金時代の航海者達を格調高くうたった。

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ジョゼ・サラマーゴ
Jose Saramago, 1922年11月16日 - 2010年6月18日はポルトガルの作家・劇作家・ジャーナリスト。1998年にポルトガル語世界(ルゾフォニア)初のノーベル文学賞受賞作家となった。リスボンから100キロ北東の寒村アジニャーガに、農家の息子として生まれる。高校を中退し、整備工として職業訓練を受ける。いくつもの職を転々とした後、ジャーナリストとして活動していたが、『Diáio de Notí帥ias』副編集長時代に政治的な事件から1975年に職を追われる。

アマリア・ロドリゲス
Amalia Rodrigues、1920年7月23日-1999年10月6日は、ポルトガルの歌手、女優である。"ファドの女王(Rainha do Fado)"として知られる。アマリア・ロドリゲスは、ポルトガル首都リスボンに生まれた。両親はポルトガル中東部出身で、少女期は貧しい生活を余儀なくされた。しかし将来の大歌手は幼少期からその片鱗を見せており、良く歌を覚え歌うのも上手かったという。やがて一家の家計を支えるため様々な仕事に就いたが、18歳の時に一流のナイトクラブ「ファドの家(Casa do Fado)」に出演し反響を呼んだ。

ファド
ファドは、ポルトガルに生まれた民族歌謡。ファドとは運命、または宿命を意味し、このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表すのは珍しい。1820年代に生まれ、19世紀中ごろにリスボンのマリア・セヴェーラの歌によって現在の地位を得た。イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。

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ジョアン・セーザル・モンテイロ
Joao Cesar Monteiro、1939年2月2日 フィゲイラダフォス - 2003年2月3日 リスボンは、ポルトガルの映画監督、俳優、映画批評家である。パウロ・ローシャとならぶ「ノヴォ・シネマ」の中心人物である。1939年2月2日、ポルトガル・コインブラ県のフィゲイラダフォスで生まれる。地方の中産階級家庭に生まれ、反牧師、反ファシスト的に育てられた。15歳のとき、彼の学業をつづけるために一家でリスボンに移住した。1963年にカルースト・グルベンキアン財団から助成を受けて渡英、ロンドン・フィルム・スクールに留学する。

ルイス・フィーゴ
Luis Filipe Madeira Caeiro OIH1972年11月4日 - はポルトガル・リスボン出身の元サッカー選手。元同国代表。ポジションはウイング(主に右サイド)。ポルトガルでは年間最優秀選手賞を5年連続で受賞するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えてきた選手。キャップ数は歴代最多出場記録となる127試合。そのドリブル技術の高さからマンチェスター・ユナイテッドのライアン・ギグスとともに1990年代最高のウイングと評される。語学にも堪能で、母国語、英語、スペイン語、スウェーデン語、イタリア語などが扱える。少年時代から学業の成績が良く、将来の夢は医者だと言っても誰も反発しなかったという。学力のあまりの良さに、スポルティング・リスポンに入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」というような内容が書かれていたようである。

フェルナンド・ペソア
Fernando Antonio Nogueira de Seabra Pessoa、1888年6月13日 - 1935年11月30日はポルトガル出身の詩人・作家。リスボン生まれ。5歳のときに父親が結核で亡くなり、母親が南アフリカの領事と再婚したため、ダーバンに移る。ダーバンとケープタウンで教育を受け、17歳でポルトガルに戻り大学で学ぶ。

マリア・デ・メデイロス
Maria de Medeiros,1965年8月19日 - はポルトガル・リスボン出身の女優、映画監督。小柄で大きな目が印象的。英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語を話す。15歳で映画デビュー。フランスで演劇を学び、1990年の『ヘンリー&ジューン/私が愛した男と女』のアナイス・ニン役で注目された。1994年の『パルプ・フィクション』ではブルース・ウィリスのガールフレンドを演じた。

エッサ・デ・ケイロス
1845年11月25日 - 1900年8月16日は、ポルトガルの小説家、弁護士、ジャーナリスト、外交官。1845年にポルトガル北部のポーヴォア・デ・ヴァルジンに判事の子として生まれる。庶子だったため9歳まで祖父母に育てられ、祖父母が死別した後ポルトのラバ学園に入学した。16歳でコインブラ大学の法学部に入学し、在学中は演劇に熱中した。大学を卒業後、リスボンで弁護士として活動した。

ジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタ
Jose Vianna da Motta, *1868年4月22日 サントメ − 1948年6月1日はポルトガルのピアニスト・作曲家。音楽愛好家の薬剤師を父親に、当時はポルトガルの海外領土であったサントメ島に生まれる。ポルトガル本土に帰国後まもなく、非凡な楽才を顕し、ピアノを演奏して作曲を始めた。1875年から1881年までリスボン国立音楽院にてピアノと作曲を学んだ後、1882年にベルリンに留学してシャルヴェンカ兄弟に師事。

ルイス・デ・フレイタス・ブランコ
Luis de Freitas Branco、1890年10月12日 - 1955年11月27日はポルトガルの作曲家、音楽学者。リスボン出身。幼い頃よりピアノとヴァイオリンを学んだ。1910年にベルリンに留学しエンゲルベルト・フンパーディンクに作曲を学び、さらにパリでクロード・ドビュッシーに師事した。1916年よりリスボン音楽院の作曲科の教授を務め、生徒にはジョリー・ブラガ=サントスなどがいる。

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エンリケ航海王子
Infante Dom Henrique, 1394年3月4日 - 1460年11月13日は、ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィシュ王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公となる。その生涯において、探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いた。

クリスティアーノ・ロナウド
(Cristiano Ronaldo dos Santos Aveiro OIH、1985年2月5日 - )は、ポルトガル出身のサッカー選手。レアル・マドリード所属。ポジションはWG、CF。1985年2月5日、クリスティアーノ・ロナウド(フンシャルやリスボンの標準的発音では「ロナルド」)は大西洋に浮かぶポルトガルのマデイラ島最大の街フンシャル(マデイラ自治領の首都)に自治体の庭師ジョゼ・ディニス・アヴェイロと調理師マリア・ドロレス・ドス・サントス・アヴェイロの間に生まれる。

ファティマ・ロペス
Fatima Lopes、1965年3月8日 - はポルトガル・マデイラ諸島フンシャル出身の女性ファッションデザイナー。ポルトガル人でもっとも国際的な活躍をしているデザイナーの一人。デザイナーになる前は地元の旅行代理店でツーリストガイドの仕事をしていた為、英語、フランス語、ドイツ語が流暢に話せる。

ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコ
Joao Goncalves Zarco, 1390年頃 - 1470年頃はポルトガルの航海者、探検家である。ポルトガルの船団としては初めて、マデイラ諸島に到達した。エンリケ航海王子に仕える貴族であり、船団を率いて探検行を行い、1419年にトリスタン・ヴァス・テイシェイラとともにポルト・サント島、次いで1420年にはバルトロメウ・ペレストレロとともにマデイラ島を発見した。

エンリケ (ポルトゥカーレ伯)
Henrique de Borgonha, 1066年 - 1112年はフランス出身のポルトゥカーレ伯爵(在位:1093年 - 1112年)。ポルトガルの最初の王家であるボルゴーニャ(ブルゴーニュ)家の祖。アンリは末子であったため、相続によって得られる権利は僅かだった。そこでアルフォンソ6世の援軍要請に応じてレコンキスタに参加することとなり、イスラム勢力と戦って現在のガリシアとポルトガル北部にあたる地域の獲得に貢献した。テレサとの間には3男3女をもうけたが、成人した息子は1人であった。その息子が後の初代ポルトガル王アフォンソである。

アントニオ・オスカル・カルモナ
(Antonio Oscar Fragoso Carmona 1869年11月24日-1951年4月18日)はポルトガルの軍人、政治家、第11代大統領。カルモナは1935年から1936年にかけてのサラザールへの民衆の反抗に対して、重要な役割を果たした。カルモナは平和と安全に関する演説で反抗を鎮めたのである。第二次世界大戦中も同じように、人を惹きつける演説を行って国民を励ました。サラザールはカルモナの次の大統領であるクラヴェイロ・ロペスは解任できたが、カルモナの人気ぶりに、彼を解任することはついにできなかった。

マリオ・ソアレス
(Mario Soares、1924年12月7日 リスボン - )はポルトガルの政治家、第三共和政下の第4代大統領(在任1986年〜1996年)。元大統領。リスボン大学で歴史・哲学及び法律を学び、1957年大学教員・弁護士となったが、アントニオ・サラザール首相の独裁体制に反対する運動に加わり、度々逮捕された。1974年4月25日カーネーション革命が勃発するとポルトガルに帰国、社会党の代表として臨時政府で外相を務めた。新政権内では共産党の勢力拡大を抑え、国軍運動(MFA)の陰謀とも戦った。

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アルヴァロ・シザ
(Alvaro Joaquim de Melo Siza Vieira、1933年6月25日 - )はポルトガルの建築家。ポルトガル随一の国際的建築家で、ポルトガル建築界を代表する存在である。ポルトガル北部、マトジーニョス(w:Matosinhos)生まれ。北部の大都市、ポルトを拠点としている。彼の建築はミース・ファン・デル・ローエやル・コルビュジエに影響を受けたモダニズム建築の継承者であり、直方体や有機的な曲面、彫りの深い小さな連続窓などの幾何学的な形態と、できるだけ少ない種類の材料を使ったきわめて簡潔なスタイルを有している。

ブラカ・ソム・システマ
(Buraka Som Sistema)は、ポルトガルの首都リスボンを拠点に活動するエレクトロニック・ミュージック・ユニット。2006年結成。欧米で未開発の音楽であるクドゥーロと、その発信者ブラカ・ソム・システマとのコラボを求めてリスボンを訪れたM.I.A.との共演シングル「サウンド・オブ・クドゥル」が各地でヘビープレイを獲得し、2008年発表のセカンド・アルバム『ブラック・ダイアモンド』もクラブ/ヒップホップ系リスナーを中心にセールス20万枚もの大ヒットを記録。

レオノール・デ・ヴィゼウ
(Leonor de Viseu, 1458年5月2日 - 1525年11月17日)は、ポルトガル王ジョアン2世の王妃。ヴィゼウ公フェルナンド(アフォンソ5世の弟)と妃ベアトリス(ドゥアルテ1世の弟ジョアンの娘)の長女として、ベージャで生まれた。王妃となってから、カルダシュ・ダ・ライーニャ(現在のレイリア県の都市で「王妃の温泉」の意味)の町を建設した。1491年、王太子アフォンソが落馬によって急死した。王太子妃イザベル(カトリック両王の長女)との間には子がなく、未亡人となったイザベルはカスティーリャへ帰国した。

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