bars60

コソボ共和国
Republic of Kosovo

ヨーロッパ

■コソボの由来
「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語:Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosove、セルビア語のキリル文字表記ではКосово、ラテン文字表記ではKosovoである。


コソボの歴史
コソボは1912年にセルビアの一部となり、セルビアは1918年にユーゴスラビア王国を結成した。1963年、ヨシップ・ブロズ・ティトーの命令により、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・セルビア社会主義共和国の枠内でコソボは自治権を獲得したが、1990年代のユーゴスラビア崩壊に伴い、2006年に独立したセルビア共和国の一部となった。2008年2月17日、コソボは独立を宣言してコソボ共和国を自称し、国際社会の一部から独立国としての承認を受けている。

 


バルカン半島
Balkaは、ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。

ドリン川
白ドリン川はコソボのペヤが源である。本質的に、狭い谷を通って川は南進する。アルバニアのクーカスで、黒ドリン川と白ドリン川が合流してドリン川となる。

アルバニア人
主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。アルバニアの住民の95%、コソボの住民の92%を占め、その他にもマケドニア共和国では人口の25%を占めマケドニア国内最大の少数民族である。モンテネグロやセルビア、ギリシャなど、それ以外のバルカン半島諸国に少数が住む。インド・ヨーロッパ語族系の古代民族イリュリア人の子孫とされ、かつてモンテネグロ人もイリュリア人であったとされる。南スラブ人の南下によってモンテネグロはスラヴ化されたが、アルバニア人は古代からの命脈を保っている。

セルビア人
主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。7世紀ごろバルカン半島中西部に定住し東ローマ帝国の影響下で正教会を受容した。12世紀後半にセルビア王国を打ち建ててセルビア人は東ローマ帝国から自立し、新たにセルビア正教会を樹立して宗教上も独立を勝ち取った。14世紀半ばにセルビア王国は黄金期を迎えるが、その後急速に衰弱しオスマン帝国の圧制下に置かれることとなった。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。

クロアチア人
(クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。クロアチア人は7世紀ごろセルビア人やスロベニア人とともにバルカン半島北西部に下った。東ローマ帝国の支配を経験したのち、9世紀半ばに独立国を形成する。

ロマ
roma, は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり[1]、ロマでない集団との関係は不明である。

ボシュニャク人
15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。

ゴーラ人
Goranci)は「高地人」を意味し、コソボ、マケドニア共和国、アルバニアの3地域にまたがるゴーラ地方に居住する南スラヴ人の集団である。主にイスラム教を信仰しており、多種多様な民族文化に富んでいる。彼らはボシュニャク人、セルビア人、ブルガリア人、マケドニア人などの一部とされてきているが、そのいずれとも異なる少数民族とする見方もある。

アッシュカリー
Ashkali,は、ヨーロッパの民族集団。コソボとその周辺の国々、セルビア、モンテネグロ、アルバニア、マケドニア共和国などに住み、アルバニア語を話す。ロマとアルバニア人の混血、もしくは、アルバニア化されたロマとされることもあり、アッシュカリーが住む多くの国では「ジプシー」に相当する語でロマと共に一括される。しかし、アッシュカリー自身はロマと同一視されることを好まない。

セルビア王国
現在のセルビアを中心とした中世の王国。南スラヴ(ユーゴスラヴ)の一派であるセルビア人は7世紀初め頃にバルカン西部に南下し、9世紀後半には東ローマ帝国の影響下で正教会を受入れた。セルビア人は長くジューバと呼ばれる部族共同体に分立していたが、12世紀後半に東ローマ帝国の衰退に乗じてステファン・ネマニャが1168年に諸部族を統一してセルビア侯となる。

セルビア正教会
セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つ。正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(セルビア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。

イリュリア
古代ギリシア・ローマ時代に現バルカン半島の西部に存在した王国。 イリュリア語を話すイリュリア人によって建国され、共和政ローマによって滅ぼされた。

キリル文字
Cyrillic alphabet、は、主にスラヴ諸語を表記するのに用いられる表音文字の体系の一種である。伝統的には、正教会の宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟がスラヴ人に布教するためにギリシャ文字を元に考案されたとされるが、彼らが実際に考案した文字はグラゴル文字であったらしい。しかし、グラゴル文字はすぐに廃れたため、キリル文字が広く用いられるようになり、キュリロスが作った文字であるという意味からキリル文字と呼ばれるようになった。

pagetop

グラゴル文字
主にスラヴ系言語を記述するために作られたアルファベットで、スラヴ圏最古の文字である。正教会のキュリロス(827年-869年)とメトディオス(826年-885年)が、855年か862年から863年のころ、聖書やその他の文書をスラブ諸語に翻訳するために作成した。ギリシア文字を元にして作られたものと思われるが、極めて独特の外見を持つ。

アルバニア語
(Shqip) はインド・ヨーロッパ語族に属する言語で、この言語だけで独立した語派を形成しているが、ルーマニア語やブルガリア語と共通の特徴をもつバルカン言語連合をなす。アルバニア、コソボ、マケドニア共和国およびモンテネグロで公用語として用いられている。

セルビア語
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体以前はクロアチア語・ボスニア語と同一のセルボクロアチア語とされていた。モンテネグロ方言をセルビア語とは別のモンテネグロ語だとする意見もある。これらの言語の違いは方言と細かな正書法程度でしかない。また、マケドニア語・ブルガリア語およびスロベニア語とも近い関係にある。

民族浄化
ethnic cleansing)は、複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集団を強制的にその地域から排除しようとする政策。直接的な大量虐殺や強制移住のほか、各種の嫌がらせや見せしめ的な暴力、殺人、組織的強姦、強制妊娠などによって地域内からの自発的な退去を促す行為も含まれる。また、直接的暴力を伴わない同化政策も広義には民族浄化に含まれるという見方もある。


トラキア
Trakyaは、バルカン半島東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。


プリズレン連盟
Lidhja e Prizrenitは 1878年6月10日アルバニア人の政治的機関としてオスマン帝国コソボ州のプリズレンで結成した。その目的は、バルカン半島のアルバニア人居住地をスラヴ国家による併合から守り、オスマン帝国の下での自治権を獲得することであった。

pagetop


コソボの戦い
1389年にコソボで勃発した、セルビア王国とオスマン帝国による会戦である。1389年6月15日、コソボ平原で、セルビア侯ラザル、ボスニア王スチェパン・トヴルトコ1世、ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン帝国軍と会戦した。戦いはオスマン帝国軍の大勝に終わった。戦地となったコソボはセルビア王国の聖地となった。のち、1980年代にセルビア民族主義を掲げるミロシェヴィッチが台頭すると、コソボの自治権を大幅に制限し、クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナなどで難民となったセルビア人を入植させる政策がとられた。このためコソボでの民族バランスが大きく崩れることとなり、1990年代後半のコソボ紛争へとつながっていった。


大アルバニア
アルバニアの民族主義者によってアルバニアの本来の領土として主張されている地域。歴史的、あるいは現在のアルバニア人の分布がその主張の根拠となっている。この用語は、アルバニア内外にまたがって分布しているアルバニア人の居住地域を統一し、アルバニアの領土とする大アルバニア主義の願望を表している。


コソボ紛争
Kosovo Warは、バルカン半島南部のコソボで同時に発生した2つの武力衝突を示す。

1996年-1999年: ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人のテロリスト組織コソボ解放軍との戦闘。
1999年: 1999年の3月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォース作戦、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。

pagetop


<世界遺産>
コソボの中世建造物群
「コソボの中世建造物群」は、コソボにあるユネスコの世界遺産のひとつ。セルビア正教会の4つの教会堂や修道院が登録されている。それらは、パレオロゴス朝ルネサンス様式の美しい建造物であるとともに、中世の優れたフレスコ画が保存されていることなどが評価された。

■経済
主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦・小麦・トウモロコシ・タバコが生産される。鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。その他にも、石炭・銀・アンチモン・鉄・ボーキサイト・クロムなどが産出される。


■住民
アルバニア人 92%、セルビア人 4%、ボシュニャク人およびゴーラ人 2%、トルコ人 1%、ロマ 1%。元々コソボのアルバニア人の比率は高かったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終了後セルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で難民となったセルビア人をコソボに入植させた。これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。結局コソボ紛争によりコソボ内のセルビア人は、約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。

pagetop



■宗教
アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。


日本コソボ友好協会
独立国家となった新生コソボ共和国と日本両国の民間による文化経済の発展と人的交流の架け橋になる事を目的として、2008年に設立されました。現在コソボ出身者とコソボ復興支援などに関わった日本人NGO職員や元国連職員、大学教授をはじめスポーツ、旅行、アートなど様々な角度からコソボに関心を寄せている方が集まっています。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。マケドニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国の6つの国家からなる連邦国家であった。


コソボ解放軍
コソボのアルバニア人による戦闘組織であり、ユーゴスラビア連邦共和国からのコソボの独立を求めて1990年代後半に主に活動した。コソボ解放軍によるユーゴスラビア軍に対する攻勢は、1998年から1999年にかけてのコソボ紛争を引き起こした。これに対するユーゴスラビア軍およびセルビア人の準軍事組織による武力攻撃によって、コソボから多くのアルバニア人が脱出し、難民となった。

コソボ・メトヒヤ自治州
セルビア共和国の自治州。1990年の「反官憲革命」のなかでコソボ社会主義自治州の権限を剥奪し、それに代わって設置されたものである。これによってコソボの自治権は1974年以前の旧コソボ・メトヒヤ自治州の状態へと差し戻された。1990年当時、コソボ・メトヒヤはユーゴスラビア社会主義連邦共和国のセルビア社会主義共和国の自治州であったが、ユーゴスラビア崩壊を経て1992年にはユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国の自治州となった。


ラムシュ・ハラディナイ
1968年7月3日 - は、コソボのゲリラ組織・コソボ解放軍の軍事的指導者であり、コソボの政治家。2004年10月から2005年3月までコソボの首相を務め、コソボ未来連合の党首である。ハラディナイは出身地であるグロジャン / グロジャネの村で両親や兄弟姉妹とともに過ごした。高校を卒業した後ユーゴスラビア人民軍に服務した。1989年のコソボのアルバニア人によるデモの後、地元のアルバニア人に対する抑圧が強まると、ハラディナイはスイスへ移り、8年間を建設作業員、警備員として過ごした。スイスでは、ハラディナイはまたコソボ民族運動という分離主義組織に加わった。この組織が、後のコソボ解放軍となる。

イブラヒム・ルゴヴァ
Ibrahim Rugova, 1944年12月2日 - 2006年1月21日は、コソボの政治家。コソボ共和国および国連統治下のコソボ大統領。1989年3月、コソボ社会主義自治州の権限がセルビア議会によってうばわれたアルバニア人は、同年12月文学史・美学研究者のルゴヴァをコソボ民主連盟 (LDK) の党首とした。1992年に大統領選挙で、ルゴヴァが大統領に選ばれた。コソボ紛争において、ルゴヴァは、アルバニア系住民の中にあって穏健派指導者として行動し、平和的手段による独立運動を進めてきた。コソボのアルバニア人からは、国父と呼ばれた。

レオノラ・ヤクピ
レオノラ・ヤクピ(アルバニア語:Leonora Jakupi)は、コソボ出身の歌手。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビア社会主義共和国、コソボ社会主義自治州、スケンデライ / スルビツァ(現コソボ共和国)出身、1978年3月3日生まれ。民族的アルバニア人。コソヴォの首都プリシュティナ在住。

ハシム・サチ
Hashim Thaci 1968年4月24日 - は、コソボの政治家。ユーゴスラビアのセルビア、コソボ・メトヒヤ自治州、スルビツァ(スケンデライ)出身。コソボ共和国首相(2008年 - )、コソボ民主党(PDK)党首、コソボ解放軍(KLA)の政治的指導者。サチはプリシュティナ大学(Priš漑ina)で哲学と歴史を学んだ。在学中、サチはアルバニア人の学生たちの指導者であり、1989年に同大学から分離して1990年に発足した、並存するアルバニア人のプリシュティナ大学(Prishtina)の初代学生会長となった。

pagetop

ロナ・ニシュリウ
1986年8月25日 - は、コソボ・ミトロヴィツァ出身のアルバニア人歌手・ソングライターである。ユーロビジョン・ソング・コンテスト2012のアルバニア代表に選出され、2012年5月にアゼルバイジャンのバクーで開催される同大会に参加する。1986年8月に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国・コソボ社会主義自治州のミトロヴィツァ北部にて生まれ育つ。13歳のころ、民族対立の激化に伴って故郷を離れ、コソボの首都プリシュティナに移る。

キュリロス
Cyril,827年 - 869年2月14日は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教の修道士、神学者である。教会スラヴ語・ブルガリア語・ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。

コソボ Kosovo
バルカン半島中部の内陸部に位置する地域である。北東をセルビア、南東をマケドニア共和国、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人 (Illyrians) が住んでいたであろうといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人 (Dardanian) と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニヤと呼ばれていた。

プリシュティナ
Pristinaは、コソボ共和国の首都。近隣の都市としては、約95キロ北東のニシュ、約80キロ南のスコピエ(マケドニア共和国の首都)などが挙げられる。1990年代のコソボ紛争で深刻な打撃を受け、現在も復興の途にある。コソボの北東部に位置し、セルビア中央部とを隔てるGoljak山地にある。市内を流れる川は無い。近年は市域は郊外に拡大している。 公園や商業施設に乏しい町であったが、近年は都市計画に従って整備が進められている。マザー・テレサ広場やいくつかの整備された公園が造られた。道路の舗装や植樹、公共施設の洗浄や修繕も進んでいる。

東ローマ帝国時代にユスティニアヌス1世によって、今日のプリシュティナの南のリプリャンにUlpianaという町が作られた。ローマの衰退で、代わってプリシュティナが誕生、その後、バルカン半島の交通の要衝に位置しているため交易都市として発展した。

プリズレン
コソボ南部に位置する歴史的な都市で、プリズレン郡の中核都市である。 都市の人口は約170,000人であり、ほとんどがアルバニア人である。プリズレン基礎自治体は、プリズレンの町と76の村々で構成され、その人口は約221,000を抱えるものと推計される。プリズレン峡谷の名前は 古くイリュリア人の時代に遡る。 都市として古代ローマ時代には存在しており、2世紀に「テランダ」(Theranda)という名前でクラウディオス・プトレマイオスのゲオグラフィアに記されている。

pagetop


外務省:コソボ共和国


ジャコヴァ
コソボ西部の都市および基礎自治体である。また、ジャコヴァ郡の行政的な中心都市で2011年現在の基礎自治体の人口は94,158人である。2011年現在、市街に48,000人が居住し基礎自治体全体では94,158人が居住する。セルビアの歴史的文献によればジャコヴィツァまたはジャコヴァは14世紀後半に設立された。セルビア人貴族ヴク・ブランコヴィッチの配下であるヤコヴという人物がここに修道院を作って自身の名前を冠し、その後その名前が町の名前にもなった。

ジラニ
コソボ東部の都市、自治体。ジラニ郡 / グニラネ郡の中心都市でもある。トルコ語ではギラン(Gilan)と呼ばれる。1999年には郊外の壊滅したセルビア軍の基地跡にKFOR(コソボ治安維持部隊)を管理統制するキャンプ・モンティースが設営された。このキャンプは米海兵隊が運営していたが、米軍の派遣人員縮小に伴い2007年にコソボ防護隊に移管された。

pagetop

ミトロヴィツァ
コソボ北部にある町、およびそれを中心とした基礎自治体。ミトロヴィツァ郡にあり、その郡都である。コソボ紛争が1999年に終結して以降、町は南のアルバニア人と北のセルビア人によって分断されている。町全体では、アルバニア人が多数派となっている。町の北部は、コソボのセルビア人共同体の事実上の首都となっている。

スケンデライ
コソボ北西部、ミトロヴィツァ郡に属する都市、およびそれを中心とした基礎自治体の呼称。スケンデライ/スルビツァは歴史的にコソボ最貧の町であり、ユーゴスラビア時代から開発はほとんど進められず、失業率は高い状態にあった。農業が地元の主力産業であるが、域内の既存の農地も十分に開発されていない。

ペヤ
コソボ北西部、ペヤ郡に属する都市、およびそれを中心とした基礎自治体の呼称。UNESCOの世界遺産に登録されているペーチ総主教修道院がある。町はウロシュ4世統治時代に中世セルビア王国の宗教的中心地となり、セルビア正教会の総主教座が1346年に置かれた。これは1766年にペーチ教区が廃止されるまで続いた。

pagetop

フシェ・コソヴァ
コソボ・プリシュティナ郡の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、コソボのほぼ中央に位置している。コソボの首都プリシュティナからは南西に8キロメートルに位置している。1999年に紛争が終結すると、町を去ったアルバニア人の多くが戻り、他方でセルビア人は町を追われた。その後もこの地に留まったセルビア人は、アルバニア人が多数を占める地域の中のセルビア人の飛び地に身を潜めている。

スハレカ
コソボのプリズレン郡に属する町、およびそれを中心とした基礎自治体である。スヴァ・レカとはセルビア語で「乾いた川」を意味する。1999年のコソボ紛争以降、アルバニア人たちは、プリズレン近くの古い要塞跡にちなんで町をセランダと呼ぶようになった。


■呼称
「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語:Кос / Kos)に由来している。英語ではRepublic of Kosovo、コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。

pagetop


1.面積:10,908平方キロメートル(岐阜県に相当)
2.人口:220万人(2008年、世銀統計)
3.首都:プリシュティナ(人口60万人、推定)
4.民族:アルバニア人(92%)、セルビア人(5%)、トルコ人等諸民族(3%)
5.言語:アルバニア語(アルバニア人)、セルビア語(セルビア人)等
6.宗教:イスラム教(主にアルバニア人)、セルビア正教(セルビア人)等


ユーロ
ユーロはヨーロッパでは23の国で使用されている。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国である。ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位を有していた。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていた。しかし、近年のユーロ危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続を危ぶむ意見さえも出るようになってきている。


コソボ民主連盟
1989年コソボの知識人グループによって創設され、その中心人物のひとりが、後に初代のコソボ大統領に就任したイブラヒム・ルゴヴァであった。ルゴヴァは2006年1月21日に死去するまで同連盟の党首であった。コソボ民主連盟の主張は、コソボの独立、自由と民主主義であり、自党を近代的、現代的な民主主義政党と規定している。

デイトン合意
Dayton Agreement)とは、1995年11月にアメリカ合衆国オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地においてまとまり、同年12月14日にパリで署名された和平合意。デイトン・パリ合意などともいう。この合意によりユーゴスラヴィア紛争の1つである、3年半にわたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結した。

pagetop

コソボ憲法
Constitution of the Republic of Kosovo)はコソボ共和国の憲法である。2008年6月15日に施行された。その前までのコソボの統治は、国際連合安全保障理事会の決議1244号に基づいて2001年に批准された暫定憲法の下に行われていた。暫定憲法では、コソボの暫定統治機構を決め、国際連合事務総長の特別代表の最終決定権を保留していた。

コソボ地位問題
セルビアの領土から国際連合による暫定統治に委ねられたコソボの最終的な国際法上の地位を確定する問題である。2007年末にコソボの地位をめぐる交渉は合意に達することができず、また2007年11月のコソボ議会選挙の結果を受けて2008年2月にコソボが一方的に独立を宣言したため、事実上、コソボ地位プロセスは実を結ぶことなく終了した。


<歴史>
■6世紀以前
6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人 (Illyrians) が住んでいたであろうといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人 (Dardanian) と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニヤと呼ばれていた。

■12-13世紀
セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていたが、セルビア人の指導者だったステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これによってコソボはセルビア誕生の地域となった。

■コソボの戦い
オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。セルビア人はコソボの戦いでムラト1世を戦死させたが結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザルもすべて殺されてしまった。それ以来バルカン半島の国々は皆オスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。

pagetop



■コソボの戦いの伝説化
コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは民族にとって重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。



■アルバニア人の入植
17世紀後半から18世紀前半にかけて、ハプスブルク皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移動したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側はアルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。

■19世紀
アルバニア人の民族意識が高揚してくると、1878年にはコソボの都市・プリズレンで民族主義者の団体・プリズレン連盟(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。

■20世紀
20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。

pagetop



■1946年
セルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。

■1968年
自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。




<独立運動>
■1982年
スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。80年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。

■1995年
セルビアの一部だったコソボの数か所で、警察官やセルビア人が殺される事件が起きた。これが、「コソボ解放軍」の実力行動の始まりだった。アルバニア人による、コソボに住んでいたセルビア人を殺害したり、強制移送したり、恐怖などを利用して国外脱出を余儀なくしたことは「民族浄化」であると考えられる。更に、コソボ解放軍などによる迫害はセルビア人以外の少数民族に対しても及び、クロアチア人やアッシュカリー、ロマなどが迫害の対象となった。

■紛争
コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア人側に偏ることになった。

pagetop



■1998年
セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなどコソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。
*戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接するマケドニア共和国やアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。国連やEUは、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。1999年3月からは、NATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った。


■主要産業:サービス業(68%)、工業(20%)、農業(12%)(2008年、世銀統計)
■主要貿易品目:輸出: 鉱物性生産品、卑金属、食料品:輸入: 機械類、鉱物性生産品、食料品


コソボ民主党
Partia Demokratike e Kosoves, PDK)は、コソボの政党であり、コソボ議会で最大の議席数を持っている。党是は社会民主主義であり、コソボの主要な左翼政党である。党首は、かつてコソボ解放軍の指導者であったハシム・サチである。

pagetop


■コソボの独立
2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党 (Democratic Party of Kosovo) が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。地位問題において欧州連合及びアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。

■セルビアの反発
この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、17日未明からベオグラードやノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国であるスロベニア系商店への投石騒動が起きてた。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている。

■コソボの承認
国家承認のプロセスについては、翌18日にアメリカ合衆国が承認を公表し、ヨーロッパの安保理常任理事国であるイギリス、フランスも翌日に承認している。この他中欧地域の主導権を握るドイツも2月20日に承認した。一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインやキプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャなど独立承認に慎重な姿勢を示している国もある。このためEUによる機関承認は見送られている。

pagetop


国際連合コソボ暫定行政ミッション
United Nations Interim Administration Mission in Kosovo; UNMIK)は、国際連合によるコソボの暫定統治を行う文民機構である。1999年6月10日に国際連合安全保障理事会の決議1244号に基づいて創設された。2008年2月17日にコソボ議会は独立宣言を満場一致で採択した。しかし、国連安全保障理事会決議1244号は依然有効であり、コソボ統治の最高責任者は依然国際連合事務総長コソボ特別代表である。

国際文民事務所
(International Civilian Office)は、アハティサーリ案に基づいて、コソボ政府による施政を監督する国際機関。コソボ地位問題を仲介していたアハティサーリ国連特使が、コソボ自治州のセルビアからの国際的監督下での独立を認める「アハティサーリ案」(包括的解決案)を提示したことを受け、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアのロシアを除く連絡調整グループ(CG)諸国は、同案に基づくコソボ独立を支持。独立後、1999年のコソボ紛争以来展開している国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)に代わって独立コソボを監督する機関として国際文民事務所を新設し、徐々にUNMIKから権限を移譲していくこととしていた。

欧州連合・法の支配ミッション
European Union Rule of Law Mission in Kosovo)、通称EULEXコソボは、欧州連合によってコソボに派遣された警察・文民による支援ミッションである。EULEXは、国際連合安全保障理事会決議1244に基づくコソボへの国際的な監視を引き継ぐことを意図して計画された。セルビアやロシアははじめ、EULEXは国際連合安全保障理事会の決議を歪める、違法なものであると主張していたが、2008年の末にはこれらの主張を取り下げた。

KFOR
Kosovo Force, コソボ治安維持部隊)は1999年6月10日に採択された国連安保理決議1244に基づき、北大西洋条約機構(NATO)指揮の下、当時ユーゴスラビア連邦共和国のセルビア共和国(2008年にセルビア共和国として独立)統治下にあったコソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日にコソボ共和国として独立を宣言)において治安維持を行う国際安全保障部隊である。

pagetop

 

bars

バースデザインビアンスアンディムジークプロニティヘキサグラムアロット
ユニバーソーリドメモランダム物置小屋らなこる展示室
|ラブソング
グランブルーな人々へデザイン寺子屋
リンク・県別リンク・世界の国|リンク・世界のインテリジェンス
リンク・ニュースリンク・サイトリンク・ヒューマニスト|  

サイトポリシーサイトマップリンク著作権お問い合わせ

カウンタ