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フランス共和国
French Republic

ヨーロッパ

フランスの歴史
古代ローマにおいて、ほぼ現在のフランスにあたる地域はガリアと呼ばれており、ケルト人が居住していたと考えられる。このことは、紀元前58年から紀元前51年にかけてガリア遠征を行ったガイウス・ユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」などからもうかがえる。こうしてローマの遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった。


■ナポレオン戦争
1799年にナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握り、第1統領となり、やがて皇帝に即位して第一帝政(1804年-1814年)を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となっている。


■地理
フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島、南米のフランス領ギアナ、カリブ海のマルティニーク、グアドループ、インド洋のレユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアやフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone"が「フランス本土」を意味する。


地中海
the Mediterranean Seaは、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた海である。海洋学上の地中海の一つ。地中海を指すMediterraneanという語は、「大地の真ん中」を意味するラテン語のmediterraneus メディテッラーネウス(medius 「真ん中」 + terra 「土、大地」)に由来する。またギリシア語では、これとまったく同じ造語法でもって、mesogeiosと呼んでいた。歴史的には、ほかにも各国語でさまざまに呼ばれてきたことが古文書などを通じて明らかになっている。たとえばローマ時代のラテン語では mare nostrum と呼ばれたが、これは「我々の海」という意味であった。

北海
東はノルウェー、デンマーク、南はドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、西はイギリス、北はオークニー諸島・シェトランド諸島に囲まれている。東はスカゲラク海峡・カテガット海峡でバルト海に、北はノルウェー海に、南はドーバー海峡・イギリス海峡で大西洋に繋がっている。

ドーバー海峡
Strait of Doverはイギリスとフランスを隔てるイギリス海峡の最狭部である。フランスではカレー海峡(Pas de Calais)と呼ばれる。最狭部はケント州フォーランド―パ=ド=カレー県カレーで、34キロメートル。呼称はイギリス側の都市、ドーバー市に由来する。かつては唯一の海峡を渡る手段としてフェリーが利用されていたが、現在はフォークトン、カレー間に英仏海峡トンネルが開通している、国際高速列車ユーロスターもアッシュフォード乗り換えで利用できる。

ヴォージュ山脈
Massif des Vosgesはフランス北東部にある山脈。アルザス・ロレーヌ両地方にまたがる。フランス・ドイツ国境のライン川に並行して北北東から南南西に連なる。東はライン川沿いのアルザス平原(ライン地溝帯)、西はロレーヌ台地である。海抜千メートル前後で、北はドイツに至る丘陵へ続く。

ジュラ山脈
Massif du Juraは、アルプス山脈の西端をなすスイスアルプスより北に位置する山脈。スイスアルプスとの谷合いにスイス高原を形成する。古来、ジュラ山脈は、フランス地方とスイス、イタリア地方の地理的・文化的な境界の一つとして機能してきており、現在はフランスとスイスの国境をなしている。

ガロンヌ川
Garonne、は、スペインのカタルーニャ州北西部に発し、フランス南西部を流れる長さ約647kmの川である。スペインではガローナ川と呼ばれる。「ガロンヌ」という名前は、古いガスコーニュ語で「川」を意味するGarumnaという言葉に由来している。それは古いバスク語に関連する言語であるアキテーヌ語のkharr-onnaからきたと考えられている。

イル川
フランス、アルザスの平野部を流れる川。オー=ラン県、バ=ラン県を流れる、ライン川の主要な支流の1つである。イル川という名称はアルザスの語源となっている。

ナント島
ナント市中を流れるロワール川に浮かぶ中州である。島はロワール川の分流に取り囲まれ、島の北を流れるものはマドレーヌ川、南を流れるものはピルミル川と呼ばれる。島は東西4.9kmで、幅は最大1km程度である。元々ロワール川によって切り離されていた小島群


セーヌ川
Seine)は、フランスを流れる河川である。流域も全体がフランスに属している。全長780kmは、フランスではロワール川に続いて第二の長さである。フランスの首都パリは、セーヌ川の中州のシテ島から発達した町である。シテ島の上流につづくサン・ルイ島、チュイルリー公園、コンコルド広場、エッフェル塔、シャイヨ宮、自由の女神像など、セーヌ川およびその河岸は、現在でもパリ市の観光の中心であり、バトームーシュと呼ばれる観光船も定期的に運航されている。


ローヌ川
フランス4大河川の一つで、主としてフランス南部を流れて地中海に注ぐ唯一の川であり、4大河川のうち唯一の男性名詞でもある。全長812kmのうち、フランス国内を流れるのは581kmである。フランスを流れる川としては長さ・流域面積とも屈指のものとなっている。スイスのサン=ゴタール山塊ローヌ氷河に源を発し、レマン湖を経由して、フランス国内に入る。フランス国内では山脈に沿って大きく迂回しながら流れ、リヨンでソーヌ川を合わせる。

ロワール川
Loire、は、フランスの中央部を流れる川である。長さは1,012km、流域面積は117,000km2でフランスの面積の5分の1を占める。中央高地に源を発し、大西洋に注ぐ。西ヨーロッパの川としては珍しく、自然な流れの障害となるダム[1]や水門は少ない。それにより、ロワール川では船による旅行を可能とし、田園風景や石灰岩の崖、童話の世界のような城の景観を楽しむことができるため人気が高い。

シテ島
サン=ルイ島と並ぶ、パリの中心部を流れるセーヌ川の中州である。パリ市内で最も古い歴史をもつパリ1区及び4区に属し、“パリ発祥の地”とも称される。ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』では、すでに紀元前1世紀にパリシイ族 (Parisii) が住んでいたことが述べられている。

サン=ルイ島
シテ島と並んで「パリ発祥の地」と呼ばれ、パリの中心部に位置するセーヌ川の中州。パリの4区に属し、ノートルダム・ド・パリの後ろにある。 古くから大貴族や著名人が邸宅を構える最高級住宅地として知られ、世界的大富豪ロスチャイルド家も邸宅を所有していた。

レマン湖
(仏: Lac Leman、れまんこ) は、スイス及びフランスにまたがる、中央ヨーロッパのうち二つめに大きい三日月型の湖。面積の約2/5がフランス(オート=サヴォワ県)に属し、約3/5がスイス(ヴォー州、ジュネーヴ州、ヴァレー州)に属す。英語での名称はジュネーヴ湖(英: Lake Geneva)と言う。約15,000年前の氷河期の後、ローヌ地方の氷河によって削られてつくられたといわれている淡水湖。ラムサール条約の指定湖沼の一つになっている。


カマルグ
(Camargue)は、アルルで二又に分岐したローヌ川(グラン・ローヌ、プティ・ローヌ)と地中海に囲まれたフランス南部の三角州地帯。植生上は、東はクロー平野、西はエーグ=モルト、北はボーケールまで拡延して考えることが出来る。北部の農村地域と南部の湿地帯とに大別できる。とりわけ、南部の湿地帯は、塩生植物で形成された珍しい生態系が存在している。また、牛や馬の放牧も行われており、半野生化した「カマルグの白い馬」の美しさは名高い。


コンコルド広場
(Place de la Concorde)は、フランス・パリにある有名な広場。パリの中心部、チュイルリー公園とシャンゼリゼ通りに挟まれて位置する。1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。


ミラボー橋
Pont Mirabeauは、フランスのパリ、セーヌ川に架かる橋である。 アポリネールの「ミラボー橋の下をセーヌは流れる」で有名である。橋脚の上方にジャン-アントワーヌ・アンジャルベールによる像が4体取り付けられている。


リヨン国立オペラ
Opera National de Lyonは、フランスのリヨンを本拠とするフランス国立の歌劇団。リヨンに最初の歌劇場が創立されたのは1756年である。1831年からはより大きな旧歌劇場で上演するようになった。現在の歌劇場での公演は1993年からである。オーケストラ分離以降のリヨン国立オペラの音楽監督は、ジョン・エリオット・ガーディナー、ケント・ナガノらが務めた。


フランク王国
Royaumes francs、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。ドイツ、フランス、イタリア、ベネルクス3国を統一したのは、この王国の後、EUの成立までない。ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク及びスロベニアを領土とした。

フランク人
西ヨーロッパにおいてフランク王国を建国した事で知られる部族集団。ラテン語ではFranci(フランキ)。語義は「自由な人」「勇敢な人」を意味すると言われ、英語で率直な性格を表す「フランク」の語源ともなった。また彼らの持つ独特の武器(フランキスカ)が民族名の元となったという説もある。

ケルト人
Celt, Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。


ドルイド
(Druid)は、ケルト人社会における祭司のこと。日本ではドゥルイドとも表記する。ドルイドという名称の由来は、Daru-vid(「オークの賢者」の意味。カエサルの『ガリア戦記』によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きなものだったようである。争い事を調停あるいは裁決し、必要があれば人々に賠償や罰金を課した。


第二次ポエニ戦争
Second Punic War)とは、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。

カロリング朝ルネサンス
Carolingian Renaissance,とは、フランク王国(カロリング朝)のカール大帝の頃(8世紀〜9世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。小ピピンの後、カロリング朝を継いだカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝 800年 - 814年)は、西ヨーロッパの大部分を支配し、一大帝国を築き上げた。800年にローマ教皇から戴冠を受け、ここに形式的に西ローマ帝国が復興したとされる。

フランス王国
Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年のカペー朝の成立後を「フランス王国」と呼んでおり、これを前提とすると、1848年にオルレアン朝が倒れるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約860年続いたことになる。

ブルボン家
bon)は、ヨーロッパの王家で、フランス王家カペー家の支流の一つ。かつてのフランス王家、また現在のスペイン王家であり、さらに現在のイタリアの一部を治めていた家系もある。現在のルクセンブルク大公家も男系ではブルボン家の後裔である。


アルビジョア十字軍
Croisade des Albigeois, 1209年 - 1229年)は、1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派と同義、南フランスの都市アルビからアルビ派と呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。

百年戦争
英語:The Hundred years War, フランス語:La Guerre De Cent-Ans)はフランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争である。


ワーテルローの戦い
The Battle of Waterloo、仏: Bataille de Waterloo)は、1815年6月18日にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。ワーテルローの戦いでフランス軍は3万を失い、連合軍も25,000の死傷者を出した。ナポレオンは退位してイギリスへ亡命し百日天下は終わった。ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、ベルトラン、モントロン、グールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日、彼の死を看取った。


フランス革命
French Revolutionは、フランスで起きた市民革命で、フランスの社会を根底から変革させ、全ヨーロッパに影響を及ぼした。一般に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まり、ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終焉したとする[1]。革命により、王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊、封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立した。フランス革命が生んだ理念(自由・平等・友愛)と諸制度は、現代社会にも多大な影響を残している。


<世界遺産>
モン-サン-ミシェルとその湾
この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。

シャルトル大聖堂
フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつと考えられている大聖堂。

ヴェルサイユの宮殿と庭園
バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。

ヴェズレーの教会と丘
大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

ヴェゼール渓谷の装飾洞窟群
鮮やかな洞窟壁画で有名なラスコー洞窟や、クロマニョン人の骨が発見されたアブリ・ドゥ・クロ=マニョン

フォンテンブローの宮殿と庭園
宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世による。

■シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷

アミアン大聖堂
完全なものとしてはフランスで最も高い大聖堂である。室内空間もフランスで最も大きく、約200,000立方メートルに及ぶ。身廊のヴォールトは高さが42.30メートルあり、フランスで最も高いものである。

オランジュのローマ劇場とその周辺、凱旋門
1世紀、アウグストゥスの治世下で建造されたものであり、1951年に3.55メートルのアウグストゥス像も発見された。この像は、現在はもともと置かれていた場所と推測される壁龕に納められている。この劇場の収容人数は8000人から10000人程度だったと推測されている。オランジュの凱旋門は、かつてのアグリッパ街道(リヨンとアルルを結んでいた)の途上に、紀元前20年頃に建てられたものである。古代劇場や現市庁舎のある区画からは少し北に外れた場所にある。

アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物

フォントネーのシトー会修道院
フォントネー修道院は1118年にクレルヴォーのベルナルドゥスによって設立され、1147年にローマ教皇エウゲニウス3世によって聖別された。

■アルケ-セナンの王立製塩所

サラン=レ=バンの大製塩所
サラン=レ=バンでは新石器時代から塩の採掘が行われており、市内には中世初期から製塩所が存在していた。中世には、「白い黄金」とされた塩を生み出す製塩所は、城壁に囲まれた市内の小都市というべきものを形成していた。

ナンシーのスタニスラス広場、カリエール広場、ダリアンス広場
106m×124mのこの広場を実際に設計したのはエマニュエル・エレである。広場は市庁舎、凱旋門、ナンシー美術館などに囲まれているが、6箇所にロココ様式の美しい金属細工で彩られた鉄柵がある。これは金具師ジャン・ラムールが手がけたものである。

■サン-サヴァン・シュール・ガルタンプの教会

■コルシカのジロラッタ岬、ポルト岬、スカンドラ自然保護区とピアナ・カランシュ

ポン・デュ・ガール/ローマ水道
フランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋である。
■ストラスブール-グラン・ディル

パリのセーヌ河岸
セーヌ川の川岸のうち、シュリー橋からイエナ橋までのおよそ8kmほどが登録対象となっている。これには、中州であるシテ島とサン・ルイ島、および区域内に架かる橋も含まれている。

月の港ボルドー
その名の通り、かつて港町として栄えたボルドーの歴史地区を登録対象としている。「月の港」は、ボルドー市内で三日月形に湾曲しているガロンヌ川沿いに発達したことに因むボルドーの通称である。

ヴォーバンの作品
築城の名手ヴォーバンが築いた稜堡式要塞など、要塞や都市の城壁を対象とするものであり、ブザンソンをはじめとするフランスの12箇所に残る物件がまとめて登録された。

アルビの司教都市
アルビジョワ十字軍を経て、13世紀以降のアルビは、ローマ・カトリック教会が権勢を振るう都市となった。その司教都市は、アルビを流れるタルヌ川左岸に位置し、アルビの歴史的中心地にあたる。旧市街には、中世の趣きを残す街路やルネサンス期の建造物群が多く残り、タルヌ川とその橋などとともに、独特の都市景観を呈している。

ランスのノートル-ダム大聖堂、サン-レミの旧大寺院
ランスのノートルダム大聖堂では、フランク王国のクロヴィスが洗礼を受けたとされることにちなみ、歴代のフランス王たちの戴冠式が挙行されてきた。現存するゴシック様式の大聖堂は、13世紀以降のものである。

ブールジュ大聖堂
ブールジュのサン=テチエンヌ大聖堂は、主に12世紀末から13世紀末にかけて建造された司教座聖堂である。これは、フランスにおけるゴシック美術の傑作のひとつであり、その設計、ティンパヌム、彫刻、ステンドグラスはいずれも特筆すべきものである。

アヴィニョン歴史地区
南フランスの都市アヴィニョンの景観のうち、教皇宮殿とその周辺、すなわちプチ・パレ(小宮殿)、ノートルダム・デ・ドン大聖堂、アヴィニョン橋、一部の城壁などを対象とする。教皇宮殿は、かつてアヴィニョンに教皇庁がおかれていた時に建造された宮殿である。フランス革命期の略奪によって内装は寂しいものとなってしまったが、現存するヨーロッパの中世ゴシック様式建築物のなかでは最大級を誇る重要なものである。

ミディ運河
Canal du Midiは、フランスのトゥールーズでガロンヌ川から分岐し、地中海に面したトー湖にいたる全長 240 km 、支流部分も含めた総延長では 360 km に及ぶ運河である。

歴史的城壁都市カルカッソンヌ
ガロ=ローマン期から続くこの都市は、オード川右岸に沿って、現在のカルカソンヌ市内南東部に位置しており、ひとつの城(コンタル城)とひとつのバシリカ(サン=ナゼール大聖堂)を抱えている。

リヨン歴史地区
フランス南東部、リヨン市内西部に位置する。ソーヌ川沿いにある、石畳の街並みの残る旧市街(Vieux Lyon)からクロワ・ルースにかけての地区で、広場の南西隅、道路を挟んで西側には星の王子さまと作者のサン=テグジュペリの像が立っており、そこから遠くないところに、サン=テグジュペリが生まれたアパルトマンがある。

フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路
ここで登録されているのは、巡礼路の一部区間と、巡礼路の途上にある主要な歴史的建造物群であり、建造物群の一部には他の世界遺産の物件と重複するものもある。

サン・テミリオン地域
サン=テミリオンのコミューン共同体になっている8つの市町村を含む。中世以来ブドウ栽培やワイン醸造のさかんな景勝地であり、「サン=テミリオン」の名はボルドーワインの主要なブランド名のひとつにもなっている。このため、世界遺産ではブドウ畑も登録の対象とされた。


ルーヴル美術館
メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともに、アシュモリアン美術館(1683年)や、ドレスデン美術館(1744年)、バチカン美術館(1784年)と並んで、ヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。


ジャック・マイヨール
Jacques Mayol, 1927年4月1日- 2001年12月22日は、フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリア・エルバ島没。4歳の時、母親に初めて水とのつき合い方を教わる。10歳の時に、佐賀県唐津市の七つ釜ではじめてイルカと出会い、その後の生活の原点となる。12歳で一家でフランス・マルセイユに移住。17歳で父の設計事務所で働きながらバカロレア資格を取得。高校を出ると北極圏でイヌイットと暮らすなど、以後コペンハーゲンを起点に旅を繰り返す。1973年、イタリアに居を移し、10余りの潜水実験に参加。それにより数十メートルの深度でフリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加していることが、スキューバで潜った医師によって測定されたこともある。1976年11月23日、エルバ島にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。この時49歳であった。

シャルル・ド・ゴール
1890年11月22日 - 1970年11月9日は、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第五共和政初代大統領。父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号を持つ碩学、熱心なカトリック教徒であったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者であったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味を覚え、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。

ピエール・ブーレーズ
Pierre Boulez, 1925年3月26日 - は、フランスの作曲家および指揮者。パリ国立高等音楽院でアンドレ・ヴォラブール(アルテュール・オネゲルの妻)とオリヴィエ・メシアンに対位法や作曲を師事するが中退し、ルネ・レイボヴィッツ(レボヴィツ、レボヴィス)にセリアリスムを学ぶ。作曲の弟子にはバーゼルの音楽大学で教えたハインツ・ホリガーがいる。

ルイジ・ケルビーニ
Luigi Cherubini, 1760年9月14日フィレンツェ - 1842年3月15日パリはイタリア出身のフランスの作曲家・音楽教師。6歳の時に音楽家の父親から音楽教育を受け、13歳までに宗教曲をいくつか作曲した。1778年から1780年まで、ボローニャとミラノで音楽を学ぶ。1805年にケルビーニはウィーンに招聘され、オペラを作曲して、手ずから指揮するように依頼された。翌1806年に『ファニスカ』(Faniska )の上演が制作されると、とりわけハイドンやベートーヴェンの熱心な支持をかち取った。

ポール・ヴァレリー
Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Valery, 1871年10月30日 - 1945年7月20日は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。1871年、地中海沿岸の港町セットに生まれる。母ファニーはトリエステ生まれのイタリア人。ちなみに同年の7月には『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストが生まれている。

アレクサンドル・グロタンディーク
Alexander Grothendieck, 1928年3月28日 - は主にフランスで活躍している(または「していた」)、ドイツ出身のユダヤ系フランス人の数学者である。母親と共にフランスの収容所で終戦を迎え、モンペリエ大学を卒業後、ナンシー大学に移りデュドネのもとで研究を始めた。初期の業績に関数解析学に関する研究がある。反戦運動と環境問題に熱心だったことから、1970年頃にIHESに軍からの資金援助があることを知ると、彼は即座にIHESを辞職。その後は、数学から距離を置いた隠遁生活を送るようになった。

オノレ・ド・バルザック
1799年5月20日 - 1850年8月18日は、19世紀フランスを代表する小説家。バルザックは90篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』を執筆した。これは19世紀ロシア文学(ドストエフスキー、レフ・トルストイ)のさきがけとなった写実的小説群である。『レ・ミゼラブル』で著名なヴィクトル・ユーゴーや、アレキサンドル・デュマの親友でもある。生後すぐにトゥール近郊に住む乳母に預けられた。その後、寄宿学校に入れられて1807年から1813年まで孤独な少年時代を送る。その6年間に母親が面会に訪れたのは2度だけだった。母親からの愛の欠乏と、その後の彼の人生における女性遍歴の多さは、関連づけて言及されることが多い。

エミール・ゾラ
1840年4月2日 - 1902年9月29日は、フランスの小説家で、自然主義文学の定義者であり、代表的存在でもあった。イタリア人技術者である父とフランス人である母との1人息子として、パリに生まれた。ゾラは少年時代を南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで過ごした。18歳でパリに戻り、バカロレア(大学入学資格試験)に挑戦するが失敗し、出版社アシェット書店で働きながら(配送部に入社。後に広報部に移動)作家を目指してロマン主義的な作品を作った。

ニコラ・サルコジ
1955年1月28日 - は、フランスの政治家。フランス第五共和政第6代大統領(2007年5月16日 - )及びアンドラ公国の共同大公。前国民運動連合党首。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者とされる。ユダヤ人を母に持つハンガリー移民2世で、ともにアメリカですら例のない移民2世、ユダヤ系の大統領の誕生はフランスの多民族国家化を強く印象づけた。本人はカトリック教徒である。ニコラ・サルコジが5歳のとき、父ポールが妻とニコラら3人の息子を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラ・サルコジは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。

フランソワ・フィヨン
1954年3月4日 - は、フランスの政治家。第五共和制第19代首相(在任:2007年 - )。所属政党は国民運動連合。サルト県ル・マン出身。スブレのブリ家のドミニク・ドゥ・ヴィルパンのいとこに当たるバスク史家アニー・スレと、ヴァンデ出身の公証人のミシェル・フィヨンの息子として生まれる。3人の兄弟とともに、サルト県の小さな町で育つ。ル・マンのノートルダム・ドゥ・サント=クロワ高校を卒業、1972年に哲学のバカロレアを取った。

ポール・モーリア
Paul Mauriat、1925年3月4日 - 2006年11月3日は、フランスの作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト、チェンバロ奏者。特に日本では「ラブ・サウンドの王様」と呼ばれ、イージーリスニング界の第一人者として有名。フランス南部マルセイユに生まれ、6歳でアマチュア音楽家だった父親からピアノの手ほどきを受け、10歳でマルセイユ地方音楽院に入学。ソルフェージュ(1939年)とピアノ(1940年)をともに主席で修了して1941年に卒業。その後、アマチュアジャズバンドを経て、1943年にマルセイユのダンスホール「ブラッスリー・ラ・クーポール」専属オーケストラでピアニスト兼アレンジャーとしてプロ・デビューし、翌年には同楽団の指揮者を兼任する。

ギュスターヴ・エッフェル
(Alexandre Gustave Eiffel, 1832年12月15日 - 1923年12月27日)は、フランスの技師、構造家、建設業者。一般にはエッフェル塔を設計した人物として知られるが、エッフェル塔の設計はエッフェル社建築部長ステファン・ソーヴェストル、および構造担当技師でエッフェル社鉄骨構造建造部長でのちに同社の後継者となるモーリス・ケクランであり、エッフェルはコンテストへのプラン提出責任者、その建設を受託したエッフェル社の代表であった。

ロジェ・ギルマン
(Roger Charles Louis Guillemin, 1924年1月11日 - )はフランス・ディジョン生まれの生理学者。1977年にノーベル生理学・医学賞を受賞。結婚して6人の子供がいるが、妻と5人の子供が音楽家または画家という芸術家一家であり、ギルマン本人も引退後はコンピュータを活用した芸術活動を行っている。道具づくりの父を持つ。1943年にディジョンの医科大学に入学し、ここの教授の教えを通して内分泌学に興味を持ったとされる。医師の資格を得たものの、ギルマンは研究職を志望していた。

ジャン=フィリップ・ラモー
(Jean-Philippe Rameau, 1683年9月25日 - 1764年9月12日)は、フランス・バロック音楽の作曲家・音楽理論家。フランス語オペラの作曲家としてジャン=バティスト・リュリに取って代わったが、ジャン=ジャック・ルソーによって攻撃されることとなった。

アルテュール・オネゲル
Arthur Honegger,1892年3月10日 - 1955年11月27日は、フランス近代の作曲家である。フランス6人組のメンバーの一人。音楽好きでピアノも得意だった母ジュリー・ユルリックから音楽の手ほどきを受け、最初ヴァイオリンを習うが、作曲の試みがこの最初の頃から行われていたとオネゲル自身が語っている。また1904年頃には詩や小説の創作を試みたりしている。

ラウル・デュフィ
Raoul Dufy, 1877年6月3日 - 1953年3月23日は、野獣派に分類される、19世紀末から20世紀前半のフランスの画家。「色彩の魔術師」20世紀のフランスのパリを代表するフランス近代絵画家。1877年 北フランス、ノルマンディーのル・アーヴルの港街に 貧しいが音楽好きの一家の9人の兄弟の長男として生まれる。父親は金属会社の会計係で、才能ある音楽愛好家。教会の指揮者兼オルガン奏者。母はヴァイオリン奏者。兄弟のうち2人はのちに音楽家として活躍。家計を助けるため14歳でスイス人が経営するコーヒーを輸入する貿易会社で使い走りとして働くためにサン・ジョセフ中学校を離れる。

ウジェーヌ・ブーダン
(Eugene-Louis Boudin, 1824年7月12日 - 1898年8月8日)は、19世紀フランスの画家であり、外光派の一人として印象派に影響を与える。青空と白雲の表現に優れ、ボードレールやコローから、「空の王者」としての賛辞を受ける。ノルマンディー地方のオンフルールで水夫の子として生まれる。1835年に父親が水夫の家業をやめ、一家をあげてルアーブルに転居する。ルアーブルの地で、父親は文具商として成功し、ここで、バルビゾン派に属するトロワイヨンやミレーらの土地の画家との交流が生まれた。

ジャンヌ・ダルク
Jeanne d'Arc、ユリウス暦 1412年1月6日 - 1431年5月30日は、「オルレアンの乙女」とも呼ばれるフランスの国民的英雄で、カトリック教会における聖人。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。

モーリス・ルブラン
Maurice Leblanc, 1864年11月11日 - 1941年11月6日 は、フランスの小説家。紳士的な振る舞いの泥棒にして探偵「アルセーヌ・ルパン(Arsene Lupin)の生みの親として良く知られる。ルブランはフランス・ノルマンディー地方の都市ルーアンで生まれた。数ヵ国で学び、ロースクールを落第後、パリに居を構えて純文学系の心理小説を書きはじめた。

ロジェ・アペリー
(Roger Apery, 1916年11月14日 - 1994年12月18日)は、(ゼータ関数)が無理数になるというアペリーの定理で有名なフランス人の数学者である。彼は1916年にルーアンで生まれ、1994年に病死した。生前はカーン大学に勤めていた。1977年、彼は立方数の逆数和が無理数になるという証明で、思いがけず数学界に衝撃を与えた。それまで彼は、自分の名を広める定理が何一つとして無かったので、その輝かしい経歴にもかかわらず、自身を「フランスで最低な数学者」とうたっていた。

ウェルキンゲトリクス
(Vercingetorix 、紀元前72年 - 紀元前46年)は、ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるアルウェルニ族の出身で、古代ローマのガリア侵略に対して抵抗した人物である。フランス最初の英雄と称される。20歳前後で族長となり、ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争において、それまで統率の執れていなかったガリア諸部族(ガリア人[ガリアのケルト人]諸部族)をまとめ上げて対ローマ統一部隊を組織すると、ガリア各地でゲリラ戦やローマ軍の兵站線の寸断、焦土作戦などを展開し、ローマ軍を苦しめた。

ジョゼフ・フーリエ
(Jean Baptiste Joseph Fourier, Baron de、1768年3月21日 - 1830年5月16日)は、フランスの数学者・物理学者。固体内での熱伝導に関する研究から熱伝導方程式(フーリエの方程式)を導き、これを解くためにフーリエ解析と呼ばれる理論を展開した。フーリエは1768年3月21日に、フランス中部、ヨンヌ県のオセールで仕立屋の9番目の息子として生まれた。8歳のときに父親の死去によって孤児となり、地元のベネディクト派司教のもとへあずけられた。当時数学を教える学校は士官学校しかなかった。フーリエは貧乏な身分で軍人になれなかったため、卒業後彼は僧侶たちの勧めに従ってサン・ブノワ修道院(聖ベネディクト修道院)で修道士として修行を始めた。修道院でも、並行して数学を学んだ。

ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
(Joseph-Louis Lagrange, 1736年1月25日 - 1813年4月10日)は、イタリアのトリノで生まれフランスで活動した数学者、天文学者である。オイラーと並んで18世紀最大の数学者といわれている。また数論に関する業績もある。全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理はラグランジュの四平方定理と呼ばれる(1770年)。

ピエール・ブール
(Pierre-Francois-Marie-Louis Boulle, 1912年2月21日 - 1994年1月30日)は、フランスの小説家。アヴィニョンで生まれる。彼はエンジニアで、1936年から1939年までマレー半島でイギリスのゴム園の監督者として働いた。戦後しばらくの間はマレーシアで農園の仕事を続けたが、その後パリに戻り、獄中日誌や小説を書き始めた。戦時中のインドシナで日本軍に捕らわれ、投獄された経験を基に書いた『戦場にかける橋』や『猿の惑星』で知られる。

オリヴィエ・メシアン
(Olivier-Eugene-Prosper-Charles Messiaen、1908年12月10日 - 1992年4月27日)は、フランス、アヴィニョン生まれの現代音楽の作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者。20世紀前半から後半にかけてヨーロッパの現代音楽界を牽引した作曲家のひとりであり、加えて、多くの著名な子弟を育てた音楽教師として知られる。また神学者としても稀にみる博学さを持ち合わせていたとされる。そして鳥類学者としては、世界中の鳥の声を採譜した貴重な偉業を成し遂げた。音と色彩についての言及は多く、音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主であるとされ、その詳細な記述は世界の人々を驚愕させたが、その連想を楽譜に書き込むことも多かった。

シャルル・ペギー
(Charles Peguy、1873年1月7日 - 1914年9月5日)はフランスの詩人・思想家。指物師の子としてオルレアンに生まれる。小学校教員養成学校長のノーディに成績の優秀さを認められ、市の奨学金を受け高等中学校へと進学する。ドレフュス事件に対するエミール・ゾラの「私は弾劾する」という一文に衝撃を受けたペギーは、さっそくゾラやジャン・ジョレスと接触をはじめる。1900年に雑誌「半月手帖 Les Cahiers de la Quinzaine」を創刊した。執筆・原稿集め・植字・校正・会計・発送まですべて自分でやるという重労働であった。予約購読ではあるがそれぞれの判断による金額を徴収するという方法であり、1200人程度の購読者中、3分の2が無料購読であったため、生活は苦しかった。雑誌の内容は資料・報告・通信・時事問題の他に、文学作品に1冊を使うこともあった。ロマン・ロラン、アンドレ・シュアレス、アナトール・フランスなど多くの作家が作品を寄せた。1914年8月2日に動員令が下り、ペギーは「世界中の人々に武器を棄てさせるため、最後の戦争のために、共和国の一兵士として」戦線に赴いた。9月5日、セーヌ=エ=マルヌ県ヴィルロワでドイツ軍との交戦中に戦死。

ジャン=マルク・エロー
Jean-Marc Ayrault, 1950年1月25日-は、フランスの政治家。社会党所属。2012年5月15日よりフランソワ・オランド政権下で同国首相を務めている。1997年からは国民議会の社会党会派(2007年からは合同会派)の長でもある。地元の聖ジョセフ・カトリック中等学校で基礎教育を受け、ショレのリセ・コルベールに進学したのち、ナント大学でドイツ語を学んだ。

クラフト夫妻
(Katia Krafft、1942年4月17日 - 1991年6月3日)と彼女の夫、モーリス・クラフト(Maurice Krafft、1946年3月25日 - 1991年6月3日)は、フランスの火山学者。1991年6月3日に、日本の雲仙岳での調査中に火砕流に巻き込まれて亡くなった。クラフト夫妻は火山の写真撮影と映画撮影のパイオニアとして知られている。しばしば危険な溶岩流の足もとまで進んで火山の映像を記録しており、その価値は世界的に評価されていた。2人はストラスブール大学で出会った。その後、わずかな貯金をはたいてストロンボリ山へ旅行し、火山の噴火の写真を撮ったことから2人の火山観察者としての経歴は始まった。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール
(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir, 1908年1月9日 - 1986年4月14日)はフランスの作家、哲学者。サルトルの事実上の妻。サルトルの実存主義に加担するとともに、フェミニズムの立場から女性の解放を求めて闘った。因みにその名は「見目麗しい」を意味する。パリ大学に学び、1929年に生涯を通じて公私ともに影響を与えることになるサルトルと知り合う。代表作『第二の性』(1949)第2部「体験篇」の冒頭において「On ne naIt pas femme:on le devient.人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とし、女性らしさが社会的に作られた約束事に過ぎないことを主張。

アンドレ・ヴェイユ
(Andre Weil, 1906年5月6日 - 1998年8月6日)はフランスの数学者である。20世紀を代表する数学者の一人。思想家のシモーヌ・ヴェイユは彼の妹。インドの大学で教授となり、その際に、インド哲学を学んだ。フランスに戻り、ストラスブール大学の教授となった。学生時代の友人とブルバキを結成する。戦争中の苦い体験から、アメリカに亡命し、サンパウロ大学、シカゴ大学、プリンストン高等研究所などで研究生活を送った。

アンリ・カルティエ=ブレッソン
Henri Cartier-Bresson、1908年8月22日 - 2004年8月3日は、フランスの写真家。20世紀を代表する写真家であると多くの写真家・芸術家から評されている。彼は小型レンジファインダーカメラを駆使し、主にスナップ写真を撮った。芸術家や友人たちを撮ったポートレイトもある。本格的に写真に取り組み始めたのは1931年からで、そのきっかけはシュルレアリストのマン・レイの写真に刺激されてのことであった。ただし、35mmカメラのライカIIIを使ったスナップ・ショットを基本とする姿勢は、イメージの交錯をフォトコラージュなどで表現したシュルレアリスムの写真とは異なったものだった。

ロジェ・カイヨワ
Caillois、1913年3月3日 - 1978年12月21日)は、フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者。神話、戦争、遊び、夢など、多岐にわたる研究・著作をした。第一次世界大戦前の一時期は、反ファシズム闘争などの左翼的政治活動に関わるようになっていったことが特筆される。またパリの前衛的な知識人とも深くかかわり、1936年にはジョルジュ・バタイユを発起人とする社会学研究会(College of Sociology)にミシェル・レリスやピエール・クロソウスキー、コジェーヴらとともに参加した。

ジャン・ボードリヤール
(Jean Baudrillard, 1929年7月29日- 2007年3月6日)はフランスの思想家である。『消費社会の神話と構造』(La Société de Consommation 1970)は現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの代表的な思想家とされる。1990年代には写真家、写真評論家としても活躍し、写真評論集として『消滅の技法』などがある。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、テロの背景にアメリカ自身が持つ問題を積極的に論じた。

アルベール・ラモリス
(Albert Lamorisse,1922年1月13日 - 1970年6月2日)は、フランスの映画監督、映画プロデューサー、脚本家である。代表作品に『白い馬』『赤い風船』がある。また、ボードゲーム「リスク」の考案者でもある。1922年1月13日にフランスのパリで生まれる。エコール・デ・ロッシュ、高等映画学院(聴講生)を経て、当初は写真家となる。

ジャン=ルイ・バロー
(Jean-Louis Barrault、1910年9月8日 - 1994年1月22日)はフランスの俳優、演出家、劇団主宰者。日本には、映画『天井桟敷の人々』のバチスト役、および、1960年、1977年、1979年の来日公演などにより、知られた。貧窮の中で、1935年から2年間、アトリエ座俳優学校のエティエンヌ・ドクルー(Etienne Decroux)に、パントマイムも学んだ。マルセル・マルソーがいた。

マルセル・マルソー
(Marcel Marceau、出生名 - Marcel Mangel、1923年3月22日 - 2007年9月22日)はフランスのパントマイム・アーティストである。この芸術形式における第一人者で、近代パントマイムでもっとも有名な人物のひとりである。「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれた。16歳のときフランスが第二次世界大戦に突入、その影響により家族でリモージュに移住を強いられる。チャーリー・チャップリンを見たことがきっかけで俳優を志したマルセルは終戦後、1946年にサラ・ベルナール劇場の中のシャルル・デュランの演劇学校に入門。

ダニエル・ダリュー
(Danielle Darrieux, 1917年5月1日 - )は、ボルドー生まれのフランス女優。現在まで110以上の映画に出演しているフランス古典派美人女優の代表格。医者の娘としてフランス南西部で生まれる。その父親は第一次世界大戦の間、フランス軍に勤めていたが、彼女が7歳の時死んだ。ダリューはその後パリで育って、音楽学校でチェロを学んだ。

マリー・タッソー
Marie Tussaud, 1761年12月1日 - 1850年4月16日)は、フランスの蝋人形作家。マダム・タッソー(Madame Tussaud, タッソー夫人)の呼び名と、ロンドンにマダム・タッソー館を設立したことで知られる。コンティ公ルイ・フランソワ1世の知遇を得たクルティウスは、その勧めに応じて1765年にパリに移住し、蝋人形展示会のための仕事を開始した。

フランス French
北東にベルギー、ルクセンブルク、東にドイツ、スイス、南東にイタリア、モナコ、南西にアンドラ、スペインと国境を接し、西は大西洋に、南は地中海に面する。また、北海のドーバー海峡を隔てて北西にイギリスが存在する。海外領土でもサン・マルタン島でオランダと陸上国境を接し、南米植民地の仏領ギアナでは西にスリナム、南にブラジルと陸上国境を接する。首都はパリ。

フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島、南米のフランス領ギアナ、カリブ海のマルティニーク、グアドループ、インド洋のレユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアやフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone"が「フランス本土」を意味する。

パリ
ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。行政上では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ。セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。■パリ市公式サイト


パリ大学
Universite de Parisは、フランス共和国の、パリ、クレテイユおよびヴェルサイユの3大学区にある13の大学の総称である。多くのノーベル賞受賞者を送り出している他、政治学、科学、物理学、神学などの分野で優秀な学者を多数輩出。また芸術の教育機関としても名高い。

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パリ国立高等音楽・舞踊学校
Conservatoire de Parisは、フランスの音楽、舞踊、音楽音響のための高等教育機関で、フランス国立高等音楽院のひとつ。音楽の高等教育機関としては世界で最も歴史が深く、その伝統と実績から世界各国の音楽院、音楽大学のモデルにもなっている。

リヨン国立管弦楽団
(Orchestre national de Lyon)は、フランスのリヨン市に本拠を置くオーケストラである。1969年に、地方オーケストラ再編の一環としてローヌ=アルプ・フィルハーモニー管弦楽団(Orchestre philharmonique Rhô墺夥絖Alpes)として設立。1971年現在名となる。1983年にリヨン歌劇場管弦楽団を分離する。歴代の音楽監督として、ルイ・フレモー、セルジュ・ボド、エマニュエル・クリヴィヌ、デイヴィッド・ロバートソンが務めた。


スコラ・カントルム
(Schola Cantorum)は、1894年にヴァンサン・ダンディが、パリ音楽院に対抗して設立した音楽学校。設立当初はダンディはシャルル・ボルドとともに裏方に回り、パリ音楽院のオルガン科教授のアレクサンドル・ギルマンが、校長および設立者を務めた。


ポワティエ大学
University of Poitiersはフランスのポワティエにある大学。1431年にローマ教皇のエウゲニウス4世とフランス王シャルル7世によって設立された。

リヨン大学
University of Lyonはフランスの都市リヨンにある大学。現在は3つの大学に分かれている。

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パリ・カトリック大学
(L'Institut catholique de Paris) は、フランス共和国のパリにある私立大学。1875年に設立された。多数の学部から構成されており、この大学で修士号や博士号を取得できる。


外務省:フランス共和国
在フランス日本国大使館


サン=テグジュペリ国際空港
Saint-Exupery International Airportは、フランスのリヨンにある空港である。リヨン・サン=テグジュペリ国際空港ともいう。1994年にTGVとの接続駅であるサトラス駅(現リヨン・サン=テグジュペリTGV駅)が空港近くに開業し、連絡橋で結ばれている。

オルリー空港
L'Aeroport d'Orlyは、フランス・パリの国際空港。シャルル・ド・ゴール国際空港と並ぶパリの玄関口のひとつ。空港敷地は、オルリーを含むパリ南の郊外コミューン7つにまたがっている。主にヨーロッパ域内、中近東、アフリカ、カリブ海方面へのフライトが就航している。

ル・ブルジェ空港
AEroport Le Bourgetパリで最初、そしてフランスで最初の本格的空港として、パリ郊外北方のセーヌ=サン=ドニ県のル・ブルジェに1919年に開港した。

コート・ダジュール空港
AEroport COte d'Azurは、フランスのニースにある国際空港。利用客は約1000万人で、シャルル・ド・ゴール国際空港、オルリー空港に次ぐフランスで3番目に利用客の多い空港となっている。

シャルル・ド・ゴール国際空港
Charles de Gaulle International Airportは、フランスの首都パリの国際空港。フランスの軍人・大統領のシャルル・ド・ゴールにちなんで名付けられた。

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マルセイユ・プロヴァンス空港
Marseille Provence Airport (IATA: MRS, ICAO: LFML)とはフランスプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県マリニャーヌにある空港。マルセイユの市街地からは27km離れている。1922年10月22日に水上機の基地として建設され、パンアメリカン航空が定期便を開設した。1931年にはアエロポスタルとユニオン航空によって、アンティーブまでの定期航路が開設された。

ストラスブール国際空港
AEroport International Strasbourgは、フランスのアルザス地域圏のストラスブールにある国際空港。空港はストラスブール市街地より南西に約10kmはなれた、エンツハイムに位置している。

ユーロエアポート
(EuroAirport Basel-Mulhouse-Freiburg)とは、バーゼル・ミュールーズ空港(Basel Mulhouse Airport)の別称である。


アヴィニョン大学
(l'Université d'Avignon et des Pays de Vaucluse)は、エクス=マルセイユ大学区に属するフランスの大学。ソルボンヌの創設に反対していたローマ教皇ボニファティウス8世と、プロヴァンス伯でもあったナポリ王シャルル2世は、1303年に独自の大学を創設した。これがアヴィニョン大学である。

モンペリエ大学
l'Universite de Montpellier は、フランス南部の都市モンペリエにある大学。フランスの大学としては屈指の歴史を誇り、とりわけ医学部はヨーロッパ最古とされる。

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マルセイユ
(Marseille) は、フランス最大の港湾都市で、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏の首府、ブーシュ=デュ=ローヌ県の県庁所在地である。2005年の人口は約82万人でパリに次ぎフランス第二位、都市圏人口ではパリとリヨンに次ぎ第三位の規模を誇る。フランスにおける貿易・商業・工業の一大中心地である。近接するトゥーロン軍港に対して、貿易港を有する。これはフランスおよび地中海で最大、ヨーロッパでは第3位の玄関港として、110航路、120カ国の360以上の港と連絡している。

リヨン
(Lyon) は、フランスの南東部に位置する都市で、ローヌ=アルプ地域圏の首府、ローヌ県の県庁所在地である。リヨンの近郊にはリヨン市の人口を含め、164万8216人が住み(1999年)、都市圏としてはフランス第二の規模を持つ。ローマ帝国のガリア属州の植民市ルグドゥヌムとして古代から栄えた物資の集散地であり、中世には市の立つ町としてヨーロッパでも有数の交易地として栄えた。

ディジョン
(Dijon)は、フランス中部に位置する都市。ブルゴーニュ地域圏の首府、コート=ドール県の県庁所在地である。かつてはブルゴーニュ公国の首都であった。マスタードの生産地として知られる。数多くの戦禍に巻き込まれながら、かつての繁栄の時代を物語る建物が現存する。特に中心部には、12世紀から15世紀にかけ建てられた半木造の建物が残っている。

モンマルトル
(Montmartre) はパリで一番高い丘。セーヌ川右岸18区にあり、パリ有数の観光名所である。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。

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ナント
(Nantes)は、フランスの西部、ロワール川河畔に位置する都市。ブルトン語(ブレイス語)ではナオネト(Naoned)、ガロ語ではノーント(Naunnt)と称する。ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の首府であり、ロワール=アトランティック県県庁所在地である。ブルターニュ半島南東部に位置し、大西洋への玄関口となっている。フランスのグラン・ウエスト地域最大の都市でかつ、国内第6位の都市である。

ル・アーヴル
Le Havreは、フランス北西部の大西洋に臨む港湾都市。セーヌ川右岸の河口にあたり、ルーアンを首都とするオート=ノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県に属する。2005年、戦後再建された中心部の街並みが「オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル」として世界文化遺産に登録された。

オンフルール
Honfleurは、フランス、ノルマンディー地方の港町である。バス=ノルマンディー地域圏、カルヴァドス県に属し、セーヌ川左岸の河口に位置する。観光の町としても知られ、旧港の風景は印象派の絵画の題材ともなった。画家のウジェーヌ・ブーダンや、作曲家のエリック・サティの生地でもある。


ジヴェルニー
(Giverny)はセーヌ川の右岸に位置し、パリから西方約80キロ地点にある。印象派画家であるクロード・モネがその晩年に居を構え、連作「睡蓮」を制作した場所として名高い。モネの家は、現在クロード・モネ財団によって運営されており、4月から11月までの間、一般客に開放される観光地となっている。


ルーアン
(Rouen)は、フランス西部に位置する都市で、オート=ノルマンディー地域圏の首府、セーヌ=マリティーム県の県庁所在地である。古くのルーアンはセーヌ川右岸のみであったが、現在は左岸とラクロワ島も市域に含まれている。市街の北側は丘陵が続いている。

アヴィニョン
(Avignon)は、フランスの南東部に位置する都市で、ヴォクリューズ県の県庁所在地である。童謡『アヴィニョンの橋の上で』で知られるサン・ベネゼ橋も有名。橋の上で輪になって踊ろうと歌われているが、実際は、踊れるほど安全な橋ではない。渡ることさえ危険なときもあり、橋から転落し命を落とした者さえいる。

アルル
Arles、はフランス南部にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。アルルはローヌ地方の主要な港として、経済的に長い間影響力を残した。19世紀の鉄道の開通が、最終的に水運による貿易を壊滅させてしまい、街をある種の僻地にしてしまった。しかしこのことで、画家フィンセント・ファン・ゴッホにとってこの街が魅力的な目的地となった。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。夜のカフェ、ファンゴッホの寝室、ローヌ川の星月夜(Starry Night Over the Rhone)、アルルの女を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。

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アンティーブ
Antibes,はフランス南部アルプ=マリティーム県にある保養地。紀元前43年、アンティーブは公式にローマ帝国に併合され、支配が500年続いた。ローマ人はアンティーブをこの地域で一番大きい街に変え、ガリアへの主要な入り口とした。水道橋や要塞壁、アンフォラは今日でも見ることができる。

オルレアン
フランスの中部に位置する都市で、サントル地域圏の首府、ロワレ県の県庁所在地である。パリの約130km南西に位置する。かつては大都市であったが、現在は250,000人の住民を持つ平均的な都市である。1時間かからずにフランスの首都へ行けるという戦略上の重要性は、輸送コストを減らすという形でビジネスを惹きつけている。

ミュルーズ
Mulhouseは、フランス東部、アルザス地域圏のオー=ラン県南部の都市。スイスとの国境及び、スイスの主要都市の一つであるバーゼルから近い。染色織物博物館、国立自動車博物館、シテ・デュ・トラン(フランス鉄道博物館)など、産業関連の博物館の集まる都市でもある。

ランス
(Reims)はフランス北部シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県の郡及び市。人口約20万。シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏最大の都市である。1619年にはジャン=バティスト・コルベールがこの町で生まれている。町は第一次世界大戦で戦場となり、破壊されたことがある。1962年シャルル・ド・ゴール大統領とコンラート・アデナウアー首相がこの地で会見し、歴史的な独仏和解が行われた。


ニース
(Nice)は、フランスの南東部に位置する都市で、アルプ=マリティーム県の県庁所在地である。市内中心部のマセナ広場とガリバルディ広場を通る二区間は、架線給電ではなく、蓄電池を使用した区間となっている。方式こそ違えど、ボルドーと同様、都市景観を重視した電気方式を採用していることが評価されており、建設にあわせた街路樹の植生や、沿線に15人のアーティストによる現代芸術作品を設置するなどの「街の衣替え」の実践を推進している。


リール
Lille, は、フランス北部の都市で、ベルギーと国境を接するノール=パ・ド・カレー地域圏の首府、ノール県の県庁所在地である。シャルル・ド・ゴールの生地である。大学が多く、9万人の学生がいる。

トゥールーズ
Toulouseは、フランスの南西部に位置するコミューンで、ミディ=ピレネー地域圏の首府、オート=ガロンヌ県の県庁所在地である。独特の建築的外観を持つ建物が多いことから、別名『バラ色の都市』(la ville rose)と呼ばれる。これは、他のフランス都市であれば石を山から切り出してきて建築資材に使用するところ、トゥールーズ周辺には資材に適した石がないため、焼いたテラコッタ・レンガを積み重ねて資材としたことに由来する。


ボルドー
Bordeaux)は、フランスの南西部に位置する都市で、アキテーヌ地域圏の首府、ジロンド県の県庁所在地である。ガロンヌ川河口に位置する港町で、湾曲部にそって三日月形に市街地が形成される港町である。ボルドーワインの産地として世界的に有名。中心部から北側にかけては、都市計画による大通りがある。

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ストラスブール
Strasbourg, は、フランス北東部の、ライン川左岸に位置する都市である。フランスでの発音は「ストラズブール」に近い。アルザス地域圏の首府であり、バ=ラン県の県庁所在地でもある。ライン川の河川港を抱える交通の要衝である。都心にあるカテドラル(ノートルダム大聖堂)、アルザスの伝統家屋が密集したプチット=フランス地区がユネスコの世界遺産に登録されている。イル川の中洲である周囲2kmほどの島が都心であり、観光スポットもショッピングスポットもこの中洲に集中している。

トゥーロン
Toulonは、フランスの南東部に位置する、地中海に面する都市。ヴァール県の県庁所在地である。地中海のトゥーロン湾にのぞみ、王政の時代から現代にいたるまでフランス海軍の基地がおかれている軍港であり、現在フランス第一の軍港、および海軍工廠、地中海艦隊の司令部がある。


国際連合安全保障理事会
United Nations Security Councilは、国際連合の主要機関の一つ。安全保障理事会は、実質的に国際連合の中で最も大きな権限を持っており、事実上の最高意思決定機関である。国連主要機関の中で法的に国際連合加盟国を拘束する権限がある数少ない機関でもある。その目的や権限は、国際連合憲章に定められていて世界の平和と安全の維持に対して重大な責任を持つことが規定されている。

ローランの歌
La Chanson de Rolandは、11世紀成立の古フランス語叙事詩(武勲詩)である。『ローランの歌』は、シャルルマーニュの甥であるローランを称える、約4000行の韻文十音綴から成る叙事詩である。ノルマンディ地方で用いられたアングロ=ノルマン方言の、古フランス語を用いて書かれている。レコンキスタの初期の戦いともいえる、シャルルマーニュ率いるフランク王国とスペインのイスラム帝国の戦いを描いた物語である。


■国名
正式名称は、Republique française(レピュブリク・フランセーズ)。通称、France。 略称、RF。国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[1] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。

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1.人口:約6,503万人(2011年1月1日、仏国立統計経済研究所)
2.面積:54万4,000平方キロメートル(仏本土、仏国立統計経済研究所)
3.宗教:カトリック、イスラム教、プロテスタント、ユダヤ教

1946年10月 第4共和制発足
1958年10月 第5共和制成立
2007年5月 サルコジ大統領就任

■主要産業、産業の特徴(1)化学、機械、食品、繊維等(2)農業は西欧最大の規模。工業においては宇宙・航空産業、原子力産業などの先端産業が発達。

■主要貿易品目(1)輸出: 航空・宇宙機材、自動車、薬品(2)輸入: 原油・石油、自動車、天然ガス


国民運動連合
仏:Union pour un Mouvement Populaire, UMP)は、フランスの保守政党・中道右派政党。2002年に、共和国連合、自由民主党及びフランス民主連合の大部分が合併して形成された。当初は大統領多数連合と称し、ジャック・シラク前大統領支持の与党として出発。現在は、フランス国民議会、元老院の過半数を占める。ニコラ・サルコジ大統領の出身・支持政党。

フランス民主連合
Union pour la Democratie Francaise)とは、かつて存在したフランス共和国の政党である。略称はUDF。1978年に、当時フランスの大統領であったヴァレリー・ジスカール・デスタンを支持する選挙連合として発足した。従って、結成時は緩やかな政党連合であったが、次第に単一政党としての性格を強めていくことになる。

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■政治
現在のフランスは、直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)に首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられ、立法府である議会より行政権の方が強い体制が敷かれている。議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。


フランス共産党
フランス語: Parti communiste francais、通称PCF)は、前身のフランス社会党(SFIO)から左派が分裂して1921年に結成されたフランスの左翼政党。マルクス・レーニン主義を掲げ、パブロ・ピカソやエリック・サティ、イヴ・モンタンらも党員だった時期がある。


ド・ゴール主義
ド・ゴール主義の最も大きな主張は外国の影響力(特に英米)から脱し、フランスの独自性を追求することである。また、ド・ゴール主義は哲学的な形で社会や経済にも言及しており、政府が積極的に市場や経済に介入することを志向する。


●映画
マルセル・カルネの監督した「天井桟敷の人々」は第二次世界大戦下の戦時中に撮影され、1946年に公開。ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロルなどは、映画の助監督の経験もないまま自分達で個人的に映画製作を始め話題に。

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ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品としてジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグら主演のゴダールの「勝手にしやがれ」(1960)、トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)、シャブロルの「いとこ同士」(1959)がある。


アヴィニョン演劇祭
Festival d'Avignonは、毎年のヴァカンスの時季に、南フランスのアヴィニョンで開かれている、演劇ほかのフェスティヴァルである。期間中は、約9万の町の人口に匹敵する数の演者・観客が、フランス始め各国から、集まる。演目は、演劇、バレエ、ミュージカル、映画・コンサート、舞踊、コンテンポラリー・ダンス、マリオネット、マイム、騎馬オペラ・サーカス・大道芸など、幅広い。


●音楽
ウィーン古典派からロマン派にかけてドイツ圏の作曲家たちに押されて奮わなくなり、パリで活躍する作曲家もドイツ人が多くなった。その一人オッフェンバックの傘下からビゼーが出現するが短命で世を去り、その後パリ楽壇のボス的存在であったサン=サーンスはドイツ人ペンネームを使うなど、一種の文化植民地状態に陥ってしまう。しかし、そのサン=サーンスを批判したフランク(彼もドイツ系ベルギー人ではあったが)が現れた頃から独自のフランス音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらによって一つの頂点を築く。

ポピュラー音楽においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼットや、いわゆるシャンソンとして知られる音楽が流行し、エディット・ピアフやイヴ・モンタン、シャルル・アズナヴールなどが活躍した。また、戦前はアルゼンチンのタンゴが流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ」などの楽曲が作られた。

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1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国やイギリスのロックの影響を受け、セルジュ・ゲンスブールやシルヴィ・バルタン、フランス・ギャル、ジョニー・アリディ、ミッシェル・ポルナレフ、ジュリアン・クレール、アラン・シャンフォー、ロック・バンドではアンジュ、マルタン・サーカス、ズー、テレフォンヌなどが活躍した。

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ジュール・ヴェルヌ
Jules Verne, 1828年2月8日 - 1905年3月24日は、フランスの小説家。H・G・ウェルズとともにSFの開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる。フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方のナントで生まれる。家はロワール川の中州の一つであるフェイド島にあり、子供時代はほとんどこの家庭で過ごした。そして、この人里離れた孤立が彼の想像力と兄弟との絆を強くした。また、この当時のナントは交易が盛んで、異国情緒豊かな港町であった。そのようなナントに訪れてくる船乗りたちの冒険話もヴェルヌの冒険心と想像力をかきたて、彼は海の英雄になることを夢見たという。

ルネ・デカルト
Rene Descartes, 1596年3月31日 - 1650年2月11日は、フランス生まれの哲学者・自然哲学者(自然学者)・数学者。デカルトは1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。

クロード・ドビュッシー
Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日は、フランスの作曲家である。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれない自由な和声法などとを用いて独自の作曲を実行した。

エディット・ピアフ
Edith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日)は、フランスのシャンソン歌手。彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Edith Giovanna Gassion)としてパリの貧しい地区ベルヴィル(Belleville)に生まれた。 ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのテノン病院で誕生したというのが事実である。47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌により死去する。死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。


天井桟敷の人々
原題:Les enfants du Paradis「楽園の子供たち」)は、第二次世界大戦中、ヴィシー政権下のフランスで製作された映画。製作期間3年3ヵ月、製作費16億円は、当時としては破格の規模。また各国の映画評論家から高い評価を受ける作品でもある。バチスト・ドビュロー/ジャン=ルイ・バロー:主人公。パントマイム芸人でガランスに思いを寄せる。ガランス(クレール・レーネ)/アルレッティ:落ち目の女芸人。バチストに誘われ、無言劇団「フュナンビュール座」へ。後にモントレー伯爵と結婚。

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ジャン=リュック・ゴダール
Jean-Luc Godard, 1930年12月3日 - )は、フランス・スイスの映画監督、編集技師、映画プロデューサー、映画批評家、撮影監督、俳優である。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。

ジャン=ポール・ベルモンド
Jean-Paul Belmondo、1933年4月9日 - )は、フランスの俳優。シリアスなドラマからアクション・コメディまで、出演映画は幅広い。20世紀後半のフランスを代表する俳優の一人。1933年4月9日パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)で生まれる。父のポール・ベルモンドは、フランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家(シチリアとピエモンテにルーツをもつイタリア系フランス人)、母も画家だった。

アラン・ドロン
Alain Delon、1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優。1960年代から1980年代初めにかけ美男の代名詞的存在だった。身長184cm。4歳で両親が離婚し母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(豚肉専門の肉屋)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がった為にアランは除け者とされる。自分の居場所を求めていたアランは苦渋の策としてフランス外人部隊へ志願。1955年休戦条約によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サンジェルマン・デ・プレに落ち着いた。

モリエール
1622年1月15日 - 1673年2月17日は17世紀フランスの劇作家で、コルネイユ、ラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人とされる。本名はジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)で、パリの裕福な家庭に生まれる。オルレアンの大学で法律を学んだ後、俳優となるが芽が出ず、売れない劇団の座長として地方の旅回りを続けた。その中で喜劇作品を書き始めた。

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ジャン=ピエール・ブランシャール
1753年7月4日 - 1809年3月7日はフランスの気球乗り。1785年、気球による世界初のドーヴァー海峡横断に成功。パラシュートの先駆者の1人でもある。科学者というよりはショーマンであった。自称、「気球による空の征服者」。フランス北部のウール県レザンドリで、旋盤工の息子として生まれる。若い頃から発明と機械いじりの才能を示し、独学で、ドライジーネに似た乗り物(16歳)やオートマタ(時期不詳)を作った。しかし彼が真に情熱を抱いていたのは、大空の征服であった。「6枚の翼と舵を持った、鳥形をした空飛ぶ船」に精力を注ぎ、1782年3月5日には公開飛行を試みたが離陸できなかった。

アレクサンドル・デュマ・ペール
Alexandre Dumas, 1802年7月24日 - 1870年12月5日は、フランスの小説家。ナポレオンがデュマ将軍の死後、遺族に終身年金を下付しなかったため、幼少期は貧しい生活を余儀なくされ、まともな学校教育を受けることが出来なかった。ただし、本人自身も勉強に身をいれるようなことはなかったという。15歳で、公証人役場で見習いとして働きはじめるが、17歳のときに『ハムレット』の劇を見て感激し、劇作家を目指す。パリに上京し、父の友人の紹介で、オルレアン公爵(後のフランス国王、ルイ・フィリップ)家の秘書室に勤めることになったデュマは文学や歴史の勉強に励んだ。

ジネディーヌ・ジダン
(Zinedine Yazid Zidane 発音例、1972年6月23日 - )は、フランス国籍の元サッカー選手。「ジダヌ」と表記されることもある。現在は現役時に所属したレアル・マドリードのスポーツディレクターを務める。アルジェリア移民2世のカビル人で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困層が多く住む地域で育ったという自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた人気を誇っている。ジダンの両親は、アルジェリア戦争が勃発する少し前の1953年にアルジェリアからパリへ移住。1968年にパリからマルセイユへ引っ越した。そこで4男1女の5人兄弟の末っ子として生まれたジダンは、キャプテン翼の影響でサッカーを始め、友人とのストリートサッカーでサッカースキルを磨いた。子供時代は父親の影響で柔道もしており、11歳の時に茶帯を取得した。

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マリー・アントワネット
(仏: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。マリア・アントーニアは1755年11月2日、ウィーンで誕生した。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。フランス革命中の1793年に刑死した。

ジャン=ジャック・ルソー
(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、スイス生まれの哲学者・政治哲学者・教育思想家・作家・作曲家。単なる純理論にとどまらない、多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした。1712年、スイスのジュネーヴに時計職人の息子として生まれるが、母は8日後に死去。7歳頃から父と共に小説や歴史の書物を読み、理性よりも感情の優位を説く思想の基礎を築いた。1725年に父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師に預けられたのちに彫金工に弟子入りをするが3年後に出奔し、放浪生活を送る。

アンドレ・カプレ
Andre Caplet, 1878年11月23日 ル・アーヴル - 1925年4月22日 ヌイイ=シュル=セーヌ)は、フランスの作曲家・指揮者。ドビュッシーの友人で、ドビュッシーの『聖セバスティアンの殉教』と『おもちゃ箱』において作曲者のオーケストレーションを大幅に補筆したことで知られている。また、『月の光』『子供の領分』など、ドビュッシーのピアノ曲をオーケストラ用に編曲した。

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レーモン・クノー
(Raymond Queneau, 1903年2月21日 - 1976年10月25日)は、フランスの詩人・小説家。『地下鉄のザジ』、『文体練習』などの実験的な作風で知られる。ノルマンディー地方のル・アーヴルに生まれる。1919年にラテン語とギリシア語のバカロレアを取得、翌年には哲学のバカロレアを取得した。1921年から2年間ソルボンヌ大学で文学と数学を学び、哲学と心理学の学士号を取得した。

エリック・サティ
(Erik Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされている(ドビュッシー、ラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって決定づけられたものだ」と公言)。印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。

ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
(Rene-Robert Cavelier, Sieur de La Salle、1643年11月24日−1687年3月19日)は、フランス人探検家。アメリカ合衆国とカナダの五大湖地域、ミシシッピ川、メキシコ湾を探険し、ミシシッピベイスン全体をフランス領として主張し、「ルイジアナ」と名付けた人物である。

マルセル・デュプレ
(Marcel Dupre, 1886年5月3日 - 1971年5月30日)はフランスのオルガニスト・作曲家。ルーアンの音楽一家に生まれる。神童であったが、パリ音楽院には1904年に入学し、シャルル=マリー・ヴィドールと、アレクサンドル・ギルマン、ルイ・ヴィエルヌほかに師事した。欧米各地で2000回以上のオルガン演奏会を行い、有名になる。1920年の演奏会では、全10回にわたってバッハのオルガン作品全曲を暗譜で演奏した。

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ジャック・リヴェット
Jacques Rivette、1928年3月1日 - は、フランスの映画監督、脚本家、映画批評家、雑誌編集者である。『カイエ・デュ・シネマ』誌元編集長であり、ヌーヴェルヴァーグの中心的人物である。

フランソワ・オランド
(Francois Hollande、1954年8月12日 - ) は、フランスの政治家。前フランス社会党第一書記であり、国民議会議員である。セーヌ=マリティーム県ルーアン出身。耳鼻咽喉科の医者ジョルジュ・オランドを父に、ソーシャルワーカーのニコール・トリベールを母に生まれる。

ナポレオン・ボナパルト
(Napoleon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、革命期フランスの軍人・政治家。1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。反面ナポレオンが用い、広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。

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アドリアン=マリ・ルジャンドル
(Adrien-Marie Legendre, 1752年9月18日 - 1833年1月10日)はフランスの数学者。統計学、数論、代数学、解析学で様々な功績を残した。ルジャンドルの研究は多くの数学者に受け継がれ、さまざまな理論が生み出された。例えば、アーベルの楕円関数論の研究や、ガウスによる統計学や数論の研究などは、ルジャンドルの仕事が元となっている。1825年にフェルマーの最終定理の n = 5 の場合の証明を与えた。ちなみに、この証明は1828年のディリクレの証明とほとんど同じだったが、独立に証明された。

ミレイユ・マチュー
(Mireille Mathieu, 1946年7月22日 - )はフランスの女性シャンソン歌手。フランスのアヴィニョンの貧しい14人兄弟の家に生まれた。現在、世界一沢山のシャンソンのディスクを出した歌手とされている。彼女のテレビ・デビューは1965年11月21日で、それ以来フランスを代表する歌姫として、特に60年代と70年代には絶大な人気を博した。来日公演も幾度か行っている。16歳の時パリに上り、テレビの歌番組でエディット・ピアフの「愛の賛歌」を歌ってチャンピオンとなった。そのとき、「ピアフの再来」と呼ばれ、フランス歌謡界に衝撃を与えた。

ジャンヌ・カルマン
(Jeanne-Louise Calment、1875年2月21日 - 1997年8月4日)は、人類史上(確実な証拠がある中で)最も長生きをした人物である。フランス人女性であるカルマンは122年と164日間生き、確実な証拠がある中で大還暦を迎えた人類史上唯一の人物である。フェンシングは85歳から始め、自転車は100歳まで乗った。国際的に有名になったきっかけは、1988年にゴッホの百年記念の際、直接会った人としてインタビューを受けた時に、カルマンがゴッホの事を「汚くて、格好も性格も悪い人」だったと語った事であった。114歳の時に本人役で映画「Vincent and Me」に出演して史上最年長の女優にもなった。彼女は自分が喫煙者であることを隠さず、117歳になるまで喫煙した。

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ナディア・ブーランジェ
Nadia Boulanger, 1887年9月16日 − 1979年10月22日はフランスの作曲家・指揮者・ピアニスト・教育者(大学教授)。最高水準にある音楽教師の一人として知られ、20世紀の最も重要な作曲家や演奏家の数々を世に送り出した。10歳でパリ音楽院に入学し、オルガンをアレクサンドル・ギルマンとルイ・ヴィエルヌに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールとガブリエル・フォーレに、伴奏法をポール・ヴィダルに師事した。

アルベール・ルーセル
Albert Charles Paul Marie Roussel, 1869年4月5日トゥールコワン - 1937年8月23日ルーアン)は、印象主義から新古典主義に進み、ラヴェルとともにドビュッシー亡き後のフランス楽壇をリードした作曲家。少年時代は算数に次いで音楽が好きで、しかも海軍の道を志望していた。1889年と1890年に、フリゲート艦イフィジェニー号でインドシナ近海に勤務。明らかにこの航海は、作曲家としての発展において最も有意義な出来事であった。

フランソワ・トリュフォー
(Francois Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)は、フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。

ブライム・アスロウム
Brahim Asloum、男性、1979年1月31日 - は、フランスのアルジェリア人プロボクサー。元WBA世界ライトフライ級王者。アマチュア時代にフランス代表として活躍し、フランスに64年ぶりとなるオリンピック金メダルをもたらした。オーソドックスの構えからサウスポーへのスイッチなどを器用にこなし、テクニック重視のボクシングをする。フランスボクシング界の期待の星として注目されていたが、3度目の挑戦にして初めて世界王者となった。

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ジャン=フィリップ・ガシアン
(Jean-Philippe Gatien、1968年10月16日 - )はフランスの元卓球選手。フランスのアレス出身。5歳で卓球を始めた。13歳でパリの国立体育・スポーツ研究センター(INSEP)に入り、17歳からフランス代表として国際大会に出場する。「音速のフットワーク」と呼ばれるほどの優れたフットワークを生かして常にボールの頂点前を捉えるという、独自の前陣ドライブ速攻スタイルを構築し頭角を現す。

ジャン・ペラン
(Jean Baptiste Perrin, 1870年9月30日 - 1942年4月17日)はフランスの物理学者。息子のフランシス・ペランも物理学者。物質が分子からできていることを実験的に証明した。1926年、ノーベル物理学賞を受賞した。

ジュリアン・デュヴィヴィエ
(Julien Duvivier, 1896年10月3日 - 1967年10月30日)は、フランスの映画監督、脚本家、俳優である。彼は古典フランス映画のビッグ5の1人である。他の4人は、ジャック・フェデー、ジャン・ルノワール、ルネ・クレール、マルセル・カルネである。

フィリップ・ノワレ
(Philippe Noiret, 1930年10月1日 - 2006年11月23日)は、フランス・ノール県リール出身の俳優。洋服商の家庭に生まれる。学業に無関心で、リセ・ジャンソン・ド・サイイなどの名門校を転々とする。バカロレア受験に3度失敗した後、諦めて演劇の勉強を始めた。舞台俳優として活動を始めた後、映画デビュー。

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ジャン・アヌイ
(Jean Marie Lucien Pierre Anouilh)はフランス出身の作家・脚本家・劇作家。パリ大学中退後に、ジロドゥーに傾倒し劇作を志す。アヌイはバスク人の血をひきボルドー近郊の小さな村セリゾールに生まれた。彼は仕立屋であった父親から丁寧な物づくりとそれに対する誇りを学んだと考えていた。彼の芸術への傾倒は、バイオリニストであった母の影響であったかもしれない。

ピエール・ロード
Jacques Pierre Joseph Rode, 1774年2月16日 − 1830年11月25日)は19世紀フランスのヴァイオリニストで作曲家。無伴奏ヴァイオリンのための《24のカプリース(または練習曲)》によりヴァイオリン学習者に親しまれている。日本のヴァイオリン関係者の間では「ローデ」と呼ばれることが多い。

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