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フィンランド共和国
Republic of Finland

ヨーロッパ

■地理
北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接する。西はボスニア湾、南西はバルト海、南はフィンランド湾に面する。ボスニア湾の対岸はスウェーデン、フィンランド湾の対岸はエストニアである。東から南東にかけてはロシアと陸上で国境を接する。なお、スカンジナビア半島には含まれない。国土の大半は平坦な地形で、氷河に削られて形成された湖が無数に点在する。

北ヨーロッパ
ヨーロッパの北部地域である。北欧(ほくおう)とも呼ばれるが、あえて両者の用語を区別して使用することもある。具体的にどの地方や国を含めるかは、論者によって異なり、最も広い場合は、イギリスとアイルランド、そしてドイツやロシアのバルト海沿岸部も含まれる。

バルト海
Baltic Seaとは、北ヨーロッパに位置する地中海。ヨーロッパ大陸本土とスカンジナビア半島に囲まれた海洋であり、日本での古称は東海。面積40万平方km。平均深度は55mと浅い海洋であるが、最大深度は459mとなっている。平均水温は3.9度。特筆すべきこととして、平均塩分濃度が全海洋平均の31.9パーミルと比べて26パーミルとかなり低いことがあげられる。古代ローマではバルト海南東部をスエビの海(Mare Suebicum)と呼んでいた。南岸にゲルマン人ともケルト人ともいわれるスエビ族が住んでいたようである。

ボスニア湾
スウェーデンとフィンランドに挟まれたバルト海北部の湾である。北緯60度以北にあり、10月ごろから6月ごろまでは凍結する。ボスニアの語源は湾を意味するスウェーデン語である。南北方向に伸びる湾であり、長さは約700km、水深は概ね200m以下と浅い。南部には、オーランド諸島があり、バルト海との境界線を成している。

フィンランド湾
バルト海の最奥部、フィンランドとエストニアにはさまれた細長い湾。東西に約400kmの長さがある。平均水深は40mほどで、冬には結氷する。

ネシ湖
フィンランド南部、西スオミ州にある湖。湖面標高は95m。面積は256.12平方キロメートル。南北に細長い湖であり、南岸にはタンペレの町がある。南部からタンメルコスキ川Tammerkoskiが流出しており、この川の水力を利用して、タンペレに工業が発達した。

サイマー湖
Saimaaは、フィンランド南東部にある湖である。面積は4,400km2であり、フィンランドで最大、ヨーロッパでも4番目の大きさの湖である。湖岸にはラッペーンランタ・イマトラ・サヴォンリンナ・ミッケリなどの町がある。湖からヴオクシ川が流れ出し、ラドガ湖に注いでいる。

オウル湖
(Oulujarvi)はフィンランド中部にある湖。オウル州南部に位置する。湖面の標高は122m、平均水深は7mである。面積は887km2であり、フィンランドでは5番目の大きさの湖となっている。

パイエンネ湖
1,080km2を誇るフィンランドで二番目に大きい湖である。最大水深は95.3m。キュミ川を通ってフィンランド湾に流れる。パイエンネ湖から伸びる、パイエンネ地下水道はヘルシンキに繋がっており、首都地区に水を供給している。

ピュハ湖
(Pyhajarvi)はフィンランド南部、西スオミ州に位置する湖。西側に湾曲した弧の形状をしており、湖の北東岸にはタンペレが位置している。タンペレにおいてタンメルコスキ川が流入している。

サイマー湖
Saimaaは、フィンランド南東部にある湖である。面積は4,400km2であり、フィンランドで最大、ヨーロッパでも4番目の大きさの湖である。湖岸にはラッペーンランタ・イマトラ・サヴォンリンナ・ミッケリなどの町がある。湖からヴオクシ川が流れ出し、ラドガ湖に注いでいる。

ケミ川
Kemijoki, は、フィンランド北部のラップランド地方を流れる河川で、長さは550キロメートルとフィンランドで最も長い。Naltiohaara、Keskihaara、Kemihaara の三つの川がラッピ州(ラップランド州)北東部のサヴコスキで合流してケミ川となり、多くの支流をあわせながらラッピ州を南西へと流れる。

サイマー運河
Saimaan kanava、フィンランドのサイマー湖とフィンランド湾沿いのヴィボルグ(ロシア)を結ぶ運河である。1845年から建設が始まり、1856年9月7日(旧暦の8月26日)に開通した。1963年から1968年には、拡幅工事が行われた。


■民族
民族比率は、フィン人が91.7%、スウェーデン人(スウェーデン系フィンランド人)が5.5%、サーミ人が0.1%、ロマ人が0.1%。2010年の統計によると外国人は167 954人(2.7%)[2]と少なく、大部分がロシア人とエストニア人である。そのため、他の北欧諸国に見られるような移民問題は比較的少ない。

■言語
使用されている言語は、フィンランド語が93.4%、スウェーデン語が5.9%で、この2言語が公用語である。1919年に制定された。サーミ人は、サーミ語を使用し、1970年代にその地位は向上した。1999年の憲法改正により、準公用語と明記された。同時にロマ人その他の少数民族に対する配慮も加えられている。

■宗教
宗教は、フィンランド福音ルター派教会が78%、フィンランド正教会が1,1%、他の宗教(ローマ・カトリック教会、ユダヤ教、イスラム教)と無宗教20%である。


サーミ人
スカンジナビア半島北部ラップランド及びロシア北部コラ半島に居住する少数民族。フィン・ウゴル系。サーミ語を話すが、ほとんどがスウェーデン語、フィンランド語、ロシア語、ノルウェー語なども話すバイリンガルである。ちなみにラップランドとは辺境の地を呼んだ蔑称。彼等自身は、サーミ、あるいはサーメと自称している。北方少数民族として、アイヌ民族などとの交流もある。錫を使った手工芸細工が有名である。

フィンランド語
suomi, suomen kieliは、ウラル語族 - フィン・ウゴル語派のうちバルト・フィン諸語に属する言語。主にフィン人が使用する。約600万人の人々が同言語を話し、その内の93%がフィンランド国内の人々である。フィンランド語はウラル語族であるため、話者グループの居住地が地理的に近いスウェーデン語やデンマーク語など他の北ヨーロッパの言語や、英語・ドイツ語などのインド・ヨーロッパ語族とは大きく異なる。

大北方戦争
Great Northern War、1700年 - 1721年)は、スウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)を結成した諸国とが北欧、中欧、そして東欧におけるスウェーデンの覇権と争った戦争である。

ニスタット条約
Freden i Nystad、は、大北方戦争の後、1721年9月10日(旧暦で8月30日)にロシアとスウェーデンのあいだで結ばれた講和条約。現在のフィンランドのウーシカウプンキ(Uusikaupunki、スウェーデン語でニュスタード)において結ばれた。

フィンランド社会主義労働者共和国
Finlands socialistiska arbetarrepublik)は短命なフィンランドの社会主義政府。この政府はフィンランド独立後のフィンランド内戦の直前に、10月革命の余波で設立された。この国は1918年1月28日まで、名称が決められていなかったが、以降ヘルシンキの人民会議であるヘルシンキソビエトの法令で国名を仮定した。

フィンランド内戦
Suomen sisällissota)はフィンランドで1918年に発生した、右派白衛軍と左派赤衛軍による内戦。1917年ロシア革命が起こると、フィンランド議会はこれを好機として1917年12月6日に独立を宣言した。ロシア革命により誕生したばかりのソビエト政府は民族自決の方針からフィンランドの独立を認めた。


カレワラ
(Kalevala) はフィンランドの民族叙事詩。19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lö嚴nrot, 1802年4月9日 - 1884年3月19日)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つで、フィンランドを最終的に1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えたとされている。名称は「英雄の地」の意。


アファーマティブ・アクション
affirmative action)とは弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境を鑑みた上で是正するための改善措置のこと。この場合の是正措置とは、民族や人種や出自による差別と貧困に悩む被差別集団の進学や就職や職場における昇進においての特別な採用枠の設置や試験点数の割り増しなどの直接の優遇措置を指す。


フィンランド福音ルター派教会
Suomen evankelis-luterilainen kirkko ,は、フィンランド正教会と同様にフィンランドの国教と位置づけられている。フィンランド国民の 約80,6 % がフィンランド福音ルター派教会員である 。スウェーデン統治時代の1527年、宗教改革が導入され始めた。

フィンランド正教会
Suomen ortodoksinen kirkko,は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある自治正教会の一つである。信徒数は約6万人でこれはフィンランドの人口の1%強であるが、正教はルター派に次ぐフィンランドの国教と位置付けられ、フィンランド福音ルター派教会と同様に国家からの財政補助を受けている。


フィンランド大使館・東京



スナフキンの名言集2

「ぼくは、流れ流れて、あっちに泊まりこっちに泊まり、なのさ」
答えながらスナフキンは、コーヒー鍋をキャンプの火にかけました。
「今日は、たまたま、ここに居て、明日はまた、別な所に居る。
気の向くままに さすらって、楽しめそうな場所が見つかったら、
テントを張って、張りおえたら、ハーモニカを吹くんだ」
『ムーミントロールと彗星』より

トーベ・ヤンソン
Tove Marika Jansson、女性、1914年8月9日 - 2001年6月27日は、フィンランドのヘルシンキに生まれたスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家である。フィンランド人彫刻家の父ヴィクトル・ヤンソンとスウェーデン人画家の母シグネ・ハンマルステンの長女(兄弟は弟が2人)として生まれ、自然に絵を覚えた。15歳で政治風刺を中心とする雑誌『ガルム』の挿絵を描き始める。日本ではあまり知られていないが、一般向けの小説(トーベ・ヤンソン・コレクションとして刊行)も多く書いている。それはムーミンシリーズ誕生60周年の2005年からあいついで文庫本(『トーベ・ヤンソン短篇集』・『誠実な詐欺師』)として発刊され、日本でも再評価の熱が高まっている。作家として世界的に有名であるが、本国フィンランドでは画家としての評価も高く、特にフレスコ画の手法を用いた国内の公共建築の壁画など多く作品を残している。私生活でのパートナーはグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラ。

トゥーリッキ・ピエティラ
Tuulikki Pietila, 1917年2月18日 - 2009年2月23日はアメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれのフィンランド人グラフィックデザイナーにして教授である。1933年から1936年までトゥルク画学校で学んだ。1936年から1940年までフィンランド芸術協会の画学校、1945年から1949年までストックホルム王立芸術アカデミー、1949年から1953年まではパリのフェルナン・レジェ芸術アカデミーにいた。学友であったトーヴェ・ヤンソンとは後に生涯のパートナーとなり、多数の合作をした。彼女の作品の中で最も知られているのがムーミン作品である。それらはペンッティ・エイストラとの合作であり、現在はタンペレのムーミン美術館に展示されている。加えてヤンソンとピエティラのペッリンキのクロヴハル島での夏の休暇は彼女自身により数時間の映画に撮られた。ムーミンの本に登場する活動的な人物トゥーティッキーは彼女をモデルにしている。


<世界遺産>
ラウマ旧市街
フィンランドの町ラウマの中でも木造建築が並ぶ中心地を指す呼称。特に目を惹く建造物は水夫の家であったキルスティ (Kirsti) と、船主の家であったマレラ (Marela) である。前者は18世紀から19世紀に建造されたもので、後者はファサードのみ19世紀のものだが基本的には18世紀の建造物である。これらはともに現在博物館になっている。

スオメンリンナの城塞
スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された海防要塞。ユネスコの世界遺産に登録されており、観光客のみでなく、地元民にとっても、美しい行楽地として人気がある。

ペタヤヴェシの古い教会
ペタヤヴェシの古い教会は、ユネスコの世界遺産に登録されているフィンランドの木造教会。フィンランド中西部の町ペタヤヴェシにあり、ユヴァスキュラの31km西に当たる。この教会は地元の棟梁ヤーコ・レッパネンによって、1763年から1765年にかけて建てられたもので、白いギリシャ十字形の土台に八角形の丸天井が載っている。

ヴェルラ砕木・板紙工場
フィンランドのヴェルラ村にあるかつての製紙・製材工場。林業に関わる加工製品は、森林資源の豊富なフィンランドの重要な産業の一つである。現在は博物館となっているこの旧工場は、その伝統的な製法を伝える例証であることから、ユネスコの世界遺産に登録されている。
■青銅器時代のサンマルラハデンマキ埋葬所
フィンランドのラッピ (Lappi) 近郊にある青銅器時代の墓地遺跡。スカンジナビア半島にある青銅器時代の遺跡の中では最重要のもののひとつであり、遺跡の花崗岩製の石塚群のうち、33の石塚がユネスコの世界遺産に登録されている。それらは古いものでは3000年以上遡る、紀元前1500年頃から前500年頃のものである。

クヴァルケン群島とヘーガ・クフテン
スウェーデンのボスニア湾沿岸にあるヘーガ・クステン(ハイ・コースト、高地海岸)と、フィンランドのクヴァルケン群島とを対象とする。これらの地域は、氷河の融解に伴って土地が隆起する現象が、地球上で最も顕著に現れている地域であることから、世界遺産に登録された。

<歴史>
現在のフィンランドの土地には、旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするフィン人が居住し、後にトナカイの放牧狩猟をするサーミ人が、北方に生活を営むようになった。 400年代にノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始、居住域を拡大していった。

■1155年
スウェーデン王エーリク9世は北方十字軍の名のもと、フィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。

■1581年
フィンランドの独立が模索された結果、ヨハン3世が"Grand prince of Finland and Karelia(後にGrand Duke of Finlandとなった)"となり、スウェーデン王国が宗主国となる形でフィンランド公国建国が宣言された。

■1700年
大北方戦争の結果の1721年のニスタット条約で、フィンランドの一部(カレリア)をロシア帝国に割譲された。ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると、1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。

■1899
ニコライ2世がフィンランドの自治権を廃止すると宣言したため暴動が発生。ロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり、ついに1905年には「自治権廃止」は撤回された。

■1917年
ロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言した。1918年に共産化し、オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立した。

■1944年
ソ連と休戦。休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦ったにも関わらず(ラップランド戦争)、敗戦国として終戦を迎えた。戦後はソ連の勢力下に置かれ、ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず、北大西洋条約機構にもECにも加盟しなかった。


ハンザ同盟
ハンザ同盟は、中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟である。「ハンザ」は古高ドイツ語。現代ドイツ語では 「ハンゼ」(Hanse)と呼ばれる。古高ドイツ語「ハンザ」は「団体」を意味し、もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指した。ハンザ同盟の発祥は12世紀にまで遡ることができる。この頃、ドイツを中心に国際的な都市間交易に従事する交易商人による「ハンザ」があらわれ、団体構成員の交易特権を得るための運動を行った。

ノキア
(Nokia Corporation)は、フィンランドの電気通信機器メーカー。現CEOはスティーブン・エロップ(2010年9月〜)。1865年製紙会社として、スウェーデン系フィンランド人のフレドリク・イデスタムによりフィンランド(当時はロシアの自治大公国)のタンマーフォルスに設立された。その後すぐ西のノキアの地に移り、社名をこれにちなんで現在のノキアに改名した。


タルヤ・ハロネン
Tarja Kaarina Halonen, 1943年12月24日 - は、フィンランド共和国の政治家。現在、同国大統領。1期6年であるが、2006年に再選されたため任期満了は2012年2月28日。ムーミンママとも呼ばれる。

ユルキ・カタイネン
Jyrki Tapani Katainen, 1971年10月14日 - は、フィンランドの首相および、国民連合党の党首。フィンランドのシーリンヤルビで生まれ育ち、1993年にシーリンヤルビの市議会議員になるまでの間は非常勤講師として過ごした。1999年に北サヴォ県からエドゥスクンタ(フィンランド国会)に当選し、2001年から党首になる2004年までその副議長を務めた。

ジャン・シベリウス
Jean Sibelius, 1865年12月8日 - 1957年9月20日は、フィンランドの作曲家である。1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための「水滴」。1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏するピアノソナタなどに直接触れる。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事した。

ヴェイッコ・アンテロ・コスケンニエミ
Veikko Antero Koskenniemi、1885年7月8日 - 1962年8月4日は、フィンランドの詩人。ジャン・シベリウスの「フィンランディア」を作詞し、合唱版の「フィンランディア賛歌」をつくったことで知られる。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、ヨハン・ルドヴィグ・ルーネベリ、象徴主義の影響を受け、かつては国内で最も人気のある作家のひとりだった。詩、紀行、エッセイで知られた。

アーッレ・メリカント
Aarre Merikanto, 1893年6月29日 - 1958年9月29日はフィンランドの作曲家。1911年にヘルシンキで学んだ後、1912年から1914年までライプツィヒ音楽院に留学してマックス・レーガー、1915年から1915年までモスクワ音楽院でセルゲイ・ワシレンコに師事。1917年にはペトログラードにいて、この時期にスクリャービンの音楽を知って決定的な影響を受けた。1919年にフィンランドで結婚。

ヤリ・リトマネン
Jari LITMANEN, 1971年2月20日 - は、フィンランド出身の同国代表サッカー選手。ポジションはMF、FW。フィンランド代表の最多出場記録と最多得点記録を持つストライカー。1987年、父も所属していた地元のクラブであるレイパス・ラハティでキャリアをスタート。1989年にはフィンランド代表に招集され、10月22日のトリニダード・トバゴ戦でデビューを飾る。1990年には19歳の若さでフィンランド年間最優秀選手に選出された。

サミ・ヒーピア
Sami Hyypia、1973年10月7日 - は、フィンランド・ポルヴォー出身の元サッカー選手。フィンランド代表。最終所属クラブはバイエル・レバークーゼン。ポジションはDF。1992年にヴェイッカウスリーガのMyPaでデビューすると、いきなりレギュラーを獲得。2度のカップ戦優勝に貢献するなど中心選手として活躍した。1995年にはニューカッスル・ユナイテッドのトライアルを受けるも、結局はエールディヴィジのヴィレムIIへ移籍し、レギュラーとして活躍した。

パーヴォ・ヌルミ
Paavo Nurmi、1897年6月13日 - 1973年10月2日はフィンランドの中長距離走者。1952年のヘルシンキオリンピックでは最終聖火ランナーも務めている。ヌルミは1920年代を代表する中長距離走者で、1500 mから 20 kmの世界記録をつくった。1920年から1928年の間、オリンピックで合計9個の金メダルを獲得した。1932年のオリンピックではプロとみなされて参加することはできなかった。

アンネリ・ヤーテンマキ
1955年2月11日 - はフィンランドの政治家(中央党所属)。2003年4月17日から同年6月24日まで、女性としては初めて同国の首相を務めた。法学修士。ラプア出身。1981年に弁護士を開業するが、1987年フィンランド議会議員選挙で初当選を果たす。その後1994年から翌年にかけて法務大臣に就任した[2]ほか、エスコ・アホがハーバード大学講師となったことに伴い、2000年6月18日から2003年10月5日まで中央党党首を務めた。

アキ・カウリスマキ
Aki Kaurismaki, 男性、1957年4月4日 - はフィンランドの映画監督。1983年、初の長編作品『罪と罰』がフィンランド国内で注目される。『パラダイスの夕暮れ』が東京国際映画祭やカンヌ国際映画祭に出品され、以降国際的な注目を集める。日本では1990年公開の『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』以降、認知され、人気・評価ともに高まる。2002年『過去のない男』でカンヌ国際映画祭グランプリ受賞。作風としては、主に市井にある普通の人々の冴えない日常を描いている。セリフが少なく、作中であまり大きな出来事が起きないのも特徴。

セリム・パルムグレン
Selim Palmgren、1878年2月16日 - 1951年12月13日はフィンランドの作曲家・ピアニスト・指揮者・音楽教師。フェルッチョ・ブゾーニの薫陶を受け、1921年よりアメリカ合衆国のイーストマン音楽学校作曲科で教鞭を執る。後にフィンランドに戻った。作品のほとんどはピアノ曲と男声合唱曲であり、中でもピアノのための抒情的な小品は、スカンジナビアの民謡的要素が活用されている。

アルトゥーリ・ヴィルタネン
Artturi Ilmari Virtanen, 1895年1月15日 − 1973年11月11日は、フィンランドの化学者である。1945年、農業化学と栄養化学における研究と発見、特に糧秣の保存法の発見によりノーベル化学賞を受賞した。農化学を研究し、発酵の研究、輪作の手法の開発などを行った。飼料の保存のため異常発酵を防止し、乳酸発酵に適するpHまで塩酸や硫酸を使って強制的に低下させるAIV法と呼ばれる方法を発見した。この業績などでヴィルタネンはノーベル化学賞を受賞した。

サウリ・ニーニスト
1948年8月24日 − は、フィンランドの政治家、弁護士。現在、同国大統領。フィンランド南部サロ出身。郷里のサロで弁護士事務所を開業後、1997年サロ市議会議員となり、政界入り。1987年フィンランド議会議員に当選する。

レーヴィ・マデトヤ
Leevi Antti Madetoja, 1887年2月17日 - 1947年10月6日は、フィンランドの作曲家・音楽教師。オウル出身。ヘルシンキでシベリウスに作曲を師事した後、パリとウィーン、ベルリンに遊学(1910年〜1912年)。母国やアメリカ合衆国で教壇に立った。

エイノユハニ・ラウタヴァーラ
(Einojuhani Rautavaara 1928年10月9日 - )は、フィンランドの作曲家。同国における同世代の作曲家のなかでは代表的存在である。ヘルシンキに生まれる。1948年から1952年まで、ヘルシンキのシベリウス・アカデミーにてアーッレ・メリカントに師事。後に、シベリウスの勧めでニューヨークのジュリアード音楽院に移る。ジュリアード音楽院では、ヴィンセント・パーシケッティに師事するほか、タングルウッド音楽センターにてセッションズとコープランドのレッスンも受けている。

オスモ・ヴァンスカ
1953年2月28日 - )は、フィンランドの指揮者。元はクラリネット奏者であり、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団で活動していたが、シベリウス・アカデミーでヨルマ・パヌラに師事して指揮を学んだ後、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、指揮者としての活動を本格的に開始した。

ミッコ・フランク
(Mikko Franck, 1979年4月1日 - )は、フィンランド出身の指揮者。2006年よりフィンランド国立歌劇場の音楽総監督を務める。5歳でヴァイオリンを弾き始め、7歳の頃には他の書物よりもオーケストラのスコアを読むのを好んだといわれる。彼の最初のお気に入りのスコアはチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で、イヤホンで録音を聴きながらよく指揮をしていたという。1992年から、ヘルシンキにあるシベリウス音楽院で幼い頃から続けていたヴァイオリンの勉強を始める。

ハンネス・コーレマイネン
(Juho Pietari "Hannes" Kolehmainen、1889年12月9日- 1966年1月11日)は、フィンランドのクオピオ出身の陸上競技選手である。1912年ストックホルムオリンピックでは長距離3種目を制し、1920年アントワープオリンピックのマラソンでも金メダルを獲得。偉大なフィンランド人の長距離ランナーにつけられるニックネーム、フライング・フィンの元祖ともいうべき選手である。

ヘンリ・トイヴォネン
(Henri Toivonen 、1956年8月25日 - 1986年5月2日)は、フィンランド・ユバスキラ出身のラリードライバー。WRCで通算3勝しか挙げていないにもかかわらず、長年史上最年少勝利の記録を保持したこと、全力を尽くしたドライビング、そして悲劇的な最期なども相まって「伝説のラリードライバー」「夭折の天才」として世界的にも語り継がれ、また日本でも特別な存在として扱われている。

カレルヴォ・トゥーッカネン
(Kalervo Tuukkanen, 1909年10月14日 - 1979年7月12日)はフィンランドの作曲家。ミッケリ出身。ヘルシンキ大学でレーヴィ・マデトヤに師事した。1935年から1938年までヴィープリの大学で音楽史と音楽理論の講師を務めた。1948年、ロンドンオリンピック芸術競技で合唱と管弦楽のための『熊狩り』が銀メダルを獲得した。

ヨハン3世
Johan III、1537年12月20日 - 1592年11月27日)は、スウェーデン・ヴァーサ王朝第3代国王(在位:1568年 - 1592年)及びフィンランド大公(在位:1581年 - 1592年)。1581年、フィンランドの貴族層からの要請を受け、フィンランド大公が創設された。

タキトゥス
(Cornelius Tacitus, 55年頃 - 120年頃)は、帝政期ローマの政治家、歴史家。個人名はプブリウス(Publius)ともガイウス(Gaius)ともいわれるがどちらかは不明で、通常は個人名を除いて表記される。サルスティウス、リウィウスらとともに古代ローマを代表する歴史家の一人であり、いわゆるラテン文学白銀期の作家として知られる。

アレクサンドル1世
Aleksandr Pavlovich Romanov、、初代フィンランド大公(在位:1809年9月17日 - 1825年12月1日)。アレクサンドル1世の治世中、ロシア帝国はフィンランドとポーランドを獲得した。歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主とされ、矛盾に満ちていた。

オットー・クーシネン
Otto Ville (Wilhelm) Kuusinen、1881年-1964年5月17日)は、フィンランドおよびソビエト連邦の政治家、革命家、文献史家、詩人。フィンランド内戦後、ソ連に移り、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国(カレロ・フィン共和国。後のカレリア自治共和国、現在のロシア連邦カレリア共和国)の指導者やコミンテルン書記を務めた。

ハッリ・オッリ
(Harri Olli、1985年1月15日 - )はフィンランド、ロバニエミ出身のスキージャンプ選手。地元のスキークラブOunasvaaran Hiihtoseuraに所属している。 2002年1月に、ショーナッハ(オーストリア)で開催されたノルディックスキージュニア世界選手権の団体で金メダルを獲得。

マルコ・ヒエタラ
(Marco Hietala、1966年1月14日 - )は、フィンランド出身の作曲家、ベーシスト、ボーカリスト。非凡なベース・プレイはもとより、デビュー時にはロニー・ジェイムス・ディオにも例えられたその強力な声で数多くの作品に参加している。特にターヤ・トゥルネンとのデュエットは世界中で賞賛された。

ターヤ・トゥルネン
Tarja Soile Susanna Turunen Cabuli、1977年8月17日 - )は、フィンランド キテー出身のソプラノ歌手。しばしばオペラ歌手と見なされるが、本人によるとむしろリート歌手である。シンフォニック・メタル・バンドのナイトウィッシュのボーカリストを務めていたが2005年に退団。その後はドラマやコマーシャル等のテレビ番組へ出演するなど活躍の幅を広げながらアルバム制作やツアーなどの活動を行っている。

フーゴ・ラーティネン
(Hugo Jalmari Lahtinen、1891年11月29日 − 1977年12月29日)は、フィンランドの元陸上競技選手である。彼は、1920年に開催されたアントワープオリンピックの五種競技で銅メダルを獲得した。

ビルホ・ツーロス
(Vilho Immanuel ("Ville") Tuulos、1895年3月26日- 1967年9月2日)は、フィンランドの陸上競技選手。三段跳、走幅跳の選手として1920年アントワープオリンピックから3大会連続出場。タンペレ出身。アントワープオリンピックの三段跳では予選で記録した14m50の記録が決勝でも採用され金メダルを獲得。

ラウノ・レティネン
(Rauno Vainamo Lehtinen 1932年4月7日 - 2006年5月1日)は、フィンランドの作曲家。タンペレ生まれ。フォークダンスに基づいた曲「レットキス」(Letkis)は1960年代に大ヒット。92以上の国で記録された。日本では坂本九が「レット・キス(ジェンカ)」としてカバーし大ヒットした。

ミンナ・カウッピ
(Minna Kauppi、1982年11月25日 - )はフィンランドを代表するオリエンテーリング選手で、世界選手権では過去8度勝利しており、うち5回はリレー種目によるものである。幼いころからスキーやジョギングと親しんだカウッピが初めてしっかりとオリエンテーリングをしたのは8歳の時のことだった。

ウルホ・ケッコネン
(Urho Kaleva Kekkonen、1900年9月3日 - 1986年8月31日)は、フィンランド共和国の第8代大統領。在職期間は1956年から1982年までの26年間。1983年、彼の名を冠したウルホ・ケッコネン国立公園が制定された。

マルッティ・アハティサーリ
(Martti Oiva Kalevi Ahtisaari、1937年6月23日 - )はフィンランドの政治家。第10代大統領(在任:1994年3月1日 - 2000年3月1日)。現ロシア領ヴィボルグ生まれ。教員養成大学卒業後、1965年外務省。外交官として駐タンザニア大使、国連ナミビア事務総長特別代表などを歴任。大統領退任後は、国連特使としてコソボ地位問題やインドネシアのアチェ和平合意など、世界各地の紛争解決に尽力した。

トイヴォ・クーラ
(Toivo Timoteus Kuula, 1883年7月7日 ヴァーサ - 1918年5月18日 ヴィープリ)はフィンランドの作曲家・指揮者。地方の貧しい家庭に生まれる。シベリウスに作曲を学ぶかたわらパリに留学して、フランク楽派の洗礼を受ける。1918年に、フィンランド内戦における白軍の勝利を祝うホテルの酒宴で、酔った狙撃兵に口論を仕向けられた末に、頭を撃ち抜かれて殺害された。

ヴァイノ・リンナ
1920年12月20日 - 1992年4月21日)は、フィンランド、ウルヤラ(Urjala)出身の小説家。1954年に著された『無名戦士』(Tuntematon sotilas)はリンナの知名度を確立するものだった。リンナは小学校卒業後に農林業や工場の労働者となった後に、小説家としてデビューした。

 

フィンランド Finland
北ヨーロッパに位置する共和制国家。北欧諸国のひとつであり、西にスウェーデン、北にノルウェー、東にロシアと隣接する。首都はヘルシンキ。国土の大半は平坦な地形で、氷河に削られて形成された湖が無数に点在する。植生はタイガと地衣類が多い。また森林には粘菌が多様に生息する。

ヘルシンキ
ヘルシンキ(フィンランド語:Helsinki、スウェーデン語:Helsingfors)は、フィンランド共和国の首都。北欧有数の世界都市。ヘルシンキ市の人口は約59万人。ヘルシンキ市の周辺にはエスポー、ヴァンターなどの衛星都市があり、約100万人が住んでいる。1550年、スウェーデン国王のグスタフ1世によって、バルト海貿易の中枢であったハンザ同盟都市でエストニアの首都タリンに対抗する目的で建設された港湾都市。

フィン人
フィン人(フィンランド語: Suomalaiset)は、北ヨーロッパに居住する民族の一つ。居住域は「フィンランド」と呼ばれ、現在のこの地域にはフィンランド共和国がある。フィンランド国民(フィンランド人)を構成する主要な民族である。フィン人は主にフィンランド語を話すが、この言語はヨーロッパの他の民族の言語がインド・ヨーロッパ語族に属するの対して、ウラル語族である。


ヘルシンキ大学
ヘルシンキ大学(英語: University of Helsinki、フィンランド語: Helsingin yliopisto、スウェーデン語: Helsingfors universitet)はフィンランドのヘルシンキにある大学。フィンランド最古にして最大の規模を誇り、広い範囲にわたる多くの提供プログラムを有する。現在、約38,000人の学生(5,500人の大学院生を含む)が学位取得を目指して在籍する。

アールト大学
Aalto Universityは、フィンランドの大学。2010年1月1日に、ヘルシンキ工科大学、ヘルシンキ経済大学、ヘルシンキ芸術デザイン大学が合併して創設された。大学名は、フィンランド出身の建築家、アルヴァ・アールトに由来している。

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ラッペンランタ大学
(Lappeenranta University of Technology)は、フィンランドの首都ヘルシンキから約200キロメートル東方のラッペンランタ市にあり、フィンランド最大のサイマー湖に囲まれた水と緑の美しい環境の中にある国立大学である。大学の歴史は比較的新しく、戦後のフィンランドの国策で設立された全国の3拠点大学のひとつとして1969年に創立された。

トゥルク大学
University of Turku, はフィンランド南西部の都市トゥルクにあるフィンランド最古の大学。1920年に設立されたフィンランドで2番目に大きい大学である。生徒数は約18,000。欧州大学連盟「コインブラ・グループ」の加盟校である。

オーボ・アカデミー大学
フィンランドのトゥルクにあり、スウェーデン語で教育が行われる大学。オーボとは、トゥルクのスウェーデン語名称である。1918年に設立され、トゥルク市にある3つの大学(オーボ・アカデミー大学、トゥルク大学、トゥルク経済学校)の中で最も古い。


ヘルシンキ・ヴァンター国際空港
lentoasema、スウェーデン語:Helsingfors-Vanda flygplats)は、フィンランドのヴァンターにある国際空港である。首都ヘルシンキの北15kmに位置する。フィンランド最大の空港であり、北欧のみならず、中欧や東欧へ向けた便のハブ空港として機能している。

ヘルシンキ・マルミ空港
Helsinki-Malmin lentoasemaは、フィンランド共和国の首都ヘルシンキ市のマルミ地区に所在する空港である。マルミ空港は町の中心部から約10 km北東に位置している。

マリエハムン空港
Mariehamns flygplatsは、オーランド諸島にある空港である。1937年開港。マリエハムン空港は、スウェーデンとフィンランドを隔てるボスニア湾の南部にあるオーランド諸島に位置する。

オウル空港
Oulun lentoasema、は、フィンランド共和国北ポフヤンマー県の県都オウルから南西15キロのところに位置する空港。国内では、ヘルシンキ・ヴァンター国際空港に次ぐ規模を誇る空港である。

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外務省:フィンランド共和国
在フィンランド日本国大使館


ラッペーンランタ
Lappeenranta、はフィンランド南東部の南スオミ州南カレリア県にある都市である。都市はフィンランド最大の湖であるサイマー湖の南岸にある。また、ロシア国境からは30kmほどの位置でもある。

ミッケリ
フィンランド南部の南サヴォ県に位置する都市。首都ヘルシンキの北西約210km、サイマー湖の湖岸に位置している。

ラハティ
(Lahti)は、フィンランド、パイヤト=ハメ県の都市で同県庁所在地。ヘルシンキの北約100kmに位置する。フィンランド屈指のオーケストラの一つであるラハティ交響楽団の本拠地であるシベリウス・ホールが2000年にオープンした。

ロヴァニエミ
(Rovaniemi) は、フィンランド北部のラッピ県にある都市。旧ラッピ州の州都であり、現在のラッピ県の県庁所在地である。ラッピ県の経済の中心でもある。ロヴァニエミ郡に属する。ケミ川が流れ、北極圏のすぐ近くに位置している。

オウル
(Oulu)は、フィンランド中部に位置する都市。北ポフヤンマー県の県庁所在地。オウル州存在時は、州都でもあった。オウル郡に属する。都市圏の人口はおよそ23万人。ハイテク産業が発達していることで知られているが、すぐれた社会福祉サービスと教育システムをもち、戸外活動なども盛ん。

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カヤーニ
Kajaani, は、フィンランド・カイヌー県の地方自治体である。カヤーニ郡に属する。カイヌー県の県庁所在地である。カヤーニの北西側にはオウル湖があり、オウル川を経由してボスニア湾へ注いでいる。

ヨエンスー
(Joensuu) は、フィンランド北カルヤラ県に所在する都市。ヨエンスー郡に属する。1848年に建設された。人口は約58,000人(2005年時)である。ヨエンスーは6,000名の学生が学ぶヨエンスー大学学生と3,000人の学生が学んでいる北カルヤラ技術専門学校があり、活気のある学生街を形成している。

クオピオ
(Kuopio)はフィンランドの北サヴォ県に位置する都市。クオピオには東フィンランド大学(英語版)などいくつかの教育機関があり、学生が多く住む街でもある。 スキージャンプのワールドカップが毎年開催されている。

セイナヨキ
Seinajoki、は南ポフヤンマー県に属する、フィンランドの基礎自治体である。セイナヨキの中心部にはアルヴァ・アールトの設計による市立図書館とラケウデン・リスティ教会が立地している。

コッコラ
(Kokkola) はフィンランド、中部ポフヤンマー県にある市。コッコラ郡に属する。ボスニア湾に臨む港町である。この町はグスタフ・アドルフ王が租借し、築いた町である。木タール取引のための港として築かれ、やがてフィンランドにおける造船の重要な中心地のひとつとなった。

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ヴァーサ
Vaasa, はフィンランドの都市。ボスニア湾に面するフィンランド西部の都市で、ポフヤンマー県の県都である。1852年には大火があり、8月3日の朝から燃え始めた炎は夜までに町の大部分を焼き尽くした。その後、元の町から約7km北西の海岸寄りに新市街が建設された。

タンペレ
(Tampere)は、フィンランドピルカンマー県の都市。タンペレ郡に属する。ネシ湖とピュハ湖に挟まれた地峡地帯に位置する都市。二つの湖を結ぶタンメルコスキ川の急流を利用して水力発電が行われており、製紙、皮革、繊維産業などが発展していたが、近年は、ノキア(NOKIA)などのIT産業やITを活用した機械工業が主要産業。市立図書館の階下に、「ムーミン谷博物館(w:Moomin Museum)」がある。フィンランド人の作家、画家であるトーベ・ヤンソンの作品であるムーミンに関連するものが多く展示されている。

ユヴァスキュラ
フィンランド・中央スオミ県の都市。2010年フィンランド年間最優秀スポーツ選手に選ばれたオリエンテーリング選手、ミンナ・カウッピが住んでいることでも有名である。

ハメーンリンナ
Hameenlinna、 は、フィンランド、カンタ=ハメ県の都市。ハメーンリンナ郡に属する。首都ヘルシンキから北に約100kmである。13世紀にスウェーデン人によって築かれたハメ城 (Hämeen linna) が町の象徴となっている。

コトカ
Kotka、は、フィンランド東南部キュメンラークソ県に位置し、キュミ川 (Kymi River) がフィンランド湾に注ぐ河口に位置する自治体。エストニアのシッラマエとはフェリーで結ばれている。

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マリエハムン
Maarianhamina)は、フィンランドの下で自治権を与えられたオーランド自治県の県都であり、自治県最大の街である。1861年、当時のロシア皇后マリア・アレクサンドロヴナにちなんで町の名前がつけられた。


ラハティ交響楽団
(Sinfonia Lahti)は、フィンランドのラハティ市・シベリウスホールに本拠を置くオーケストラである。1910年に設立。1949年にラハティ市の管轄に入る。1988年に首席指揮者に就任したオスモ・ヴァンスカにより、オーケストラ活動が活発になる。レパートリーの中心であるシベリウス作品のレコーディングは高く評価され、フィンランドの一地方オーケストラから国際的なシベリウス・オーケストラへと変貌した。

オストロボスニア室内管弦楽団
Ostrobothnian Chamber Orchestra)は、フィンランド・コッコラに本拠地を置く弦楽アンサンブルである。1972年にユハ・カンガスにより国内の音楽学生を集めた学生オーケストラとして設立され、1989年プロ・オーケストラになった。現在までカンガスが芸術監督を、サカリ・オラモが首席客演指揮者を務めている。国内でのコンサートを中心に、世界ツアーも積極的に行われている。

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トゥルク
Turkuは、フィンランド南西部の町であり、バルト海に面す。西スオミ州の州都であり、ヴァルシナイス=スオミ県の県庁所在地である。 フィンランド最古の町として、また旧首都として知られ、かつては主要なハンザ同盟都市であった。フィンランドの南西部に位置する港湾都市。町の中心にアウラ川が流れ、港近くのトゥルク城や少し上流のトゥルク大聖堂がシンボル。中心にマーケット広場 (kauppatori) があり、夏はアウラ川沿いにカフェテラスがあり、またクラシックからポップスまで様々なジャンルの音楽が集結したトゥルク音楽祭も開かれる。


トゥルク空港
トゥルク中心街の北約7Kmの環状道路沿いに位置し、中心街との間には20分毎に路線バスが運行されている。1935年にアルツカイネン (Artukainen) 地区にフィンランド初の民間空港として開港、1955年に現在地に移転した。2008年には318,097人の乗客が利用し、4,695トンの貨物取扱があった。フィンランド国内の空港の規模としては乗降客数ベースで第5位、貨物取扱量では第2位となっている。

オーランド諸島
Ahvenanmaan maakuntaとは、バルト海、ボスニア湾の入り口に位置する6,500を超える島々からなるフィンランドの自治領。現在フィンランド政府によって、スウェーデンへの復帰を認められているが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を越える。スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからだとされる。

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サヴォンリンナ・オペラ・フェスティバル
Savonlinnan oopperajuhlatは、フィンランドのサヴォンリンナで毎年夏に行われている国際的なオペラ音楽祭。会場は1475年に建てられた湖上の要塞、オラヴィ城。オラヴィ城という軍事的拠点で初めてオペラが上演されたのは、フィンランド独立を遡ること5年前の1912年である[1]。既にヨーロッパ・ツアーを行うなど名声を得ていたフィンランドのソプラノ歌手アイノ・アクテは熱心な愛国者だったこともあり、1907年より風光明媚なこの城をオペラ会場として目をつけていた。現在では開催が1か月に及ぶ一大イベントに成長している。毎年の総動員数は6万人に達し、そのうち4分の1は外国からの観光客と見られている。


カウスティネン民俗音楽祭
Kaustinen Folk Music Festivalは、フィンランドの首都ヘルシンキより北に450kmほど離れた場所にある小さな村、カウスティネンで毎年行われている音楽祭。国内外のプロの演奏家だけではなく、アマチュアも演奏者として広く参加でき、入場者数が10万人を超える、スカンディナヴィア地域最大のフォーク・ミュージック・フェスティヴァルとしても知られている。


■国名
公式の英語表記は Republic of Finland(リパブリク・オヴ・フィンランド)、通称 Finland。形容詞はFinnish(フィンニッシュ)(フィンランド人を意味する場合は名詞のFinn(フィン)が使用されることもある)


1.面積:33.8万平方キロメートル(日本よりやや小)
2.人口:約533万人(2008年)
3.首都:ヘルシンキ(約58万人、2009年)
4.言語:フィンランド語、スウェーデン語(全人口の約5.5%)
5.宗教:福音ルーテル教(国教)、正教会

1世紀頃 フィンランド人の定住
11世紀 〜12世紀 キリスト教が伝来、東西キリスト教の角逐
1323年 スウェーデン・ロシア間の国境確定
フィンランドは、スウェーデンの一部となる
1809年 スウェーデン、フィンランドをロシアへ割譲
1917年 ロシアより独立、フィンランド共和国成立
1939年 対ソ戦争(冬戦争)

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1941年〜1944年 対ソ戦争(継続戦争)
1948年 フィンランド・ソ連友好協力相互援助条約締結
1955年 国連加盟
1975年 CSCE(欧州安全保障協力会議)開催(於ヘルシンキ)
1986年 EFTA(欧州自由貿易連合)正式加盟
1995年 EU(欧州連合)加盟
1999年 EMU(欧州通貨同盟)加盟
2002年 ユーロ導入

■主要産業:金属機械、電子電気機器製造(携帯電話等)、紙・パルプ等木材関連
■主要貿易品目(1)輸出 紙製品、石油類、電子機器(2)輸入 原油、石油類、自動車、通信機器、医薬品

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ユーロ
1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。


国民連合党
Kansallinen Kokoomus、は、1918年に結成されたフィンランドのリベラル保守政党。中央党や社会民主党とともにフィンランドにおける3大政党の1つである。北大西洋条約機構への加盟を強く打ち出している。欧州人民党に加盟。フィンランド南部の都市部の企業経営者などに強い支持基盤を有する。

フィンランド社会民主党
Social Democratic Party of Finlandは、1899年に結成されたフィンランドの中道左派政党。社会主義インターナショナルに加盟。中央党や国民連合党と並んで国内で最も影響力のある政党の一つとされ、最近では1995年から2007年までの長きにわたり政権与党であった。

真のフィンランド人
True Finns、は、フィンランドの保守政党。フィンランド田園党の解党に伴い1995年に結成。2003年の議会選挙では3議席を、2007年の議会選挙では前回よりも得票率を倍増させ5議席をそれぞれ獲得した。

フィンランド中央党
Centern i Finland; C)は、フィンランドの中道・リベラル政党。フィンランド社会民主党、国民連合党と並ぶフィンランド三大政党の一つである。この場合の「中央」とは中道の意味である。

緑の同盟
Green League、はフィンランドの環境政党。現在の党首はアンニ・シンネマキ。1987年2月28日に結党し翌年に政党として登録される。政治活動自体は1980年代初頭から既に始まっており、環境運動家やフェミニスト、その他の活動家グループが国内の環境問題に関するキャンペーンを繰り広げていた。1995年にはヨーロッパの環境政党としては初めて国政与党となった。

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左翼同盟
Left Alliance、はフィンランドの社会主義政党。1990年にヘルシンキにて結成。北欧グリーンレフト同盟に加盟。現在、エドゥスクンタには17名の議員を擁する。2009年の欧州議会議員選挙で唯一の党所属議員が落選した。


■教育
大学はすべて国立で、受験戦争はフランスや日本ほど厳しくはない。しかし、フィンランドの教育水準は世界トップで、教育における「フィンランドメソッド」が注目を集めている。生徒は競争による相対評価ではなく、達成度によって評価されるといわれている。ただし、これは学力の違いを無視した平等教育ではない。実際には高校入学は中学の成績に基づいて振り分けが行われている。また、中学校の教育に特筆されるのは三分の一の(成績の低い)生徒が特別学級に振り分けられるか、補習授業をうけていることである。このように学力による差別化および、低学力の生徒に対する個別の教育により落ちこぼれを学校ぐるみで防ぐ制度がフィンランドの教育の特徴である。


シベリウス音楽院
フィンランド語: Sibelius-Akatemia、スウェーデン語: Sibelius-Akademin)はフィンランドの首都、ヘルシンキを本拠地とする音楽大学。名称はフィンランドの著名な作曲家であるジャン・シベリウスに由来する。フィンランドでは唯一の音楽大学である。ヨーロッパの音楽大学の中では有数のマンモス校であり、学生数はおよそ1700人である。

アルト・ノラス
Arto Noras,1942年5月12日 トゥルク - は、フィンランド出身のチェリストである。世界を代表するチェリストの一人である。8歳の時にヘルシンキのシベリウス・アカデミーでユリヨ・セリンにチェロを学ぶと同時に師事し、その後はパリ音楽院でポール・トルトゥリエのマスタークラスで研鑽を積む。1964年にプルミエ・プリを得て卒業する。

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オッリ・ムストネン
Olli Mustonen 1967年6月7日 - は、フィンランドの指揮者、ピアニスト、作曲家である。「オリ・ムストーネン」とも呼ばれる。フィンランドのヴァンターに生まれる。5歳からピアノ、チェンバロ、作曲を学ぶが、7歳から本格的にピアノを学び始める。ピアノはラルフ・ゴトーニ、エーロ・ハイネノンに、作曲はエイノユハニ・ラウタヴァーラに師事する。15歳で、ヘルシンキのシベリウス・アカデミーで開かれる国際ピアノコンクールで2位に入賞し、1984年にジュネーヴで行われた青少年のためのピアノ・コンクールで1位を獲得する。

アドルフ・エリク・ノルデンショルド
Nils Adolf Erik Nordenskiold, 1832年11月18日 - 1901年8月12日は、フィンランド大公国(現フィンランド共和国)出身のスウェーデン系フィンランド人で鉱山学者及び探検家。北ヨーロッパと東アジアを結ぶ最短の航路(北東航路)の開拓を成功させ、日本にまで達したことで世界的なセンセーションを巻き起した。

ラース・ヴァレリアン・アールフォルス
Lars Valerian Ahlfors、1907年4月18日-1996年10月11日はフィンランドの数学者。リーマン面の研究と複素解析の教科書を書いたことで知られる。彼はヘルシンキで工学者の息子として生まれた。1924年にヘルシンキ大学に入学し、1928年までロルフ・ネヴァンリンナの下で学んだ。

ミカ・ワルタリ
Mika Toimi Waltari, 1908年9月19日 - 1979年8月26日は、フィンランドの作家。歴史小説『エジプト人』でよく知られている。ワルタリは、ヘルシンキに生まれ、5歳でルター派の宣教師であった父親に死別。子ども時代、ヘルシンキでフィンランド内戦の目撃者となった。後に、母親の希望によりヘルシンキ大学の神学部に入学するが、間もなく、哲学、美学、そして文学を学ぶため、神学を捨て、1929年に卒業している。

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エサ=ペッカ・サロネン
Esa-Pekka Salonen, 1958年6月30日 - はフィンランドの作曲家・指揮者。2008年から現在まで、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者・芸術顧問を務め、またロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の名誉指揮者である。

レイフ・セーゲルスタム
Leif Segerstam, 1944年3月2日 - は、フィンランドの指揮者、作曲家。ヴァーサ出身(母語はスウェーデン語)。シベリウス音楽院やニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶ。ウィーン国立歌劇場などでヨーロッパ各地で指揮者を務める傍ら、ドイツのラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団などの常任指揮者を長く勤め、作曲家として数々の作品を発表している。

オッコ・カム
Okko Kamu, 1946年5月7日 - は、フィンランド、ヘルシンキ生まれの指揮者。1965年にヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリン首席奏者として入団。続いて1966年にフィンランド国立歌劇場のコンサートマスターとなる。指揮はまったくの独学であったが、1969年の第1回カラヤン国際指揮者コンクールで優勝して指揮者としての道を開いた。

ミカエル・アグリコラ
Mikael Agricola 、1510年頃 − 1557年4月9日はフィンランド(当時はスウェーデン=フィンランド)の牧師で、現存するもっとも古い印刷されたフィンランド語の文献の著者で、「フィンランド語の書き言葉の父」と呼ばれる。

リーナス・トーバルズ
Linus Benedict Torvalds、1969年12月28日 - 、はフィンランド、ヘルシンキ出身のプログラマ。Linuxカーネルを開発し、1991年に一般に公開したことで有名。フィンランドの首都ヘルシンキで生まれた。父親はニルズ・トーバルス(英語)で母はアンナ。祖父は詩人のオーレ・トーバルス(英語)。両親は1960年代にヘルシンキ大学の左翼活動家であり、父親は1970年代中頃にモスクワに一年留学している共産主義者である(後の考えにこの父親が間接的に影響していることを本人は認めている)。

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アルヴァ・アールト
Hugo Henrik Aalto, 1898年2月3日-1976年5月11日は、フィンランドが生んだ20世紀を代表する世界的な建築家、都市計画家、デザイナー。その活動は建築から家具、ガラス食器などの日用品のデザイン、絵画までと多岐に渡る。1916年から1921年までヘルシンキ工科大学においてアルマス・リンドグレンのもとで建築を学ぶ。学生時代に両親の家を設計している。その後スウェーデンに渡りアルヴィート・ビヤルケの事務所で働く。1922年、にユヴァスキュラの近くに建つ教会を設計している。1923年、ユヴァスキュラに仕事を得たため戻り、建築設計事務所を開設。フィンランド建築家リストのトップに名前がくるようにAlvar Aalto(Aから始まる名前)としたとされる。

アクセリ・ガッレン=カッレラ
Akseli Gallen-Kallela, 1865年4月26日 - 1931年5月7日は、フィンランドで最も有名な画家の1人。同国の国民的叙事詩「カレワラ」に関連した絵画を数多く描いたことで知られている。また、同国出身の著名な作曲家ジャン・シベリウスと同年の生まれであり、彼同様、スウェーデン系フィンランド人の出自である。

カレワラ『カレワラ』(『カレヴァラ』) (Kalevala) はフィンランドの民族叙事詩。19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lonnrot, 1802年4月9日 - 1884年3月19日)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つで、フィンランドを最終的に1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えたとされている。名称は「英雄の地」の意。

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カイヤ・サーリアホ
Kaija Saariaho, 1952年10月14日 - はフィンランドの現代音楽の作曲家。ヘルシンキ出身。地元のシベリウス音楽院を卒業後、フライブルクにてブライアン・ファーニホウとクラウス・フーバーに師事し、パリのIRCAMでも経験を積んだ。1989年にイタリア賞を獲得、クロノス・カルテットのための作品によってリンカーン・センターからアルス・エレクトロニカ賞を、またアンサンブル・アンテルコンタンポランのための作品によってイルカムより授賞されている。

マグヌス・リンドベルイ
(Magnus Lindberg,1958年6月27日 - ,発音はマニュス・リンドベリと聞き取られることが多い)はフィンランドの現代音楽の作曲家、ピアニスト。現代音楽の振興と宣伝を目的としたグループ「耳を開け! Korvat auki!」のメンバーとして活躍。単純な基音上の倍音に固執せず様々な音場を自由自在に駆け回る作風を展開した。この才能をいち早く日本で評価したのが武満徹であり、まだ若いリンドベルイに東洋初の委嘱を授けた。リンドベルイも「武満さんは世界でもいち早く評価してもらった作曲家の一人なので、この恩を死ぬまで忘れない」と語っている。

ユッカ=ペッカ・サラステ
(Jukka-Pekka Saraste, 1956年4月22日 - )は、フィンランドの指揮者。ヴァイオリン奏者として教育を受けた後、シベリウス音楽院でヨルマ・パヌラの元で指揮法を学んだ。同級生にエサ=ペッカ・サロネンとオスモ・ヴァンスカがいる。
フィンランド放送交響楽団において、サラステは第2ヴァイオリンの一員として活躍し、後にはレイフ・セーゲルスタムに師事した。

ハノイ・ロックス
(HANOI ROCKS)は、フィンランド出身のロックバンド。略称「ハノイ」。1980年、ヘルシンキでマイケル・モンローとアンディ・マッコイを中心に結成された。1981年、のデビュー以来、メロディアスで小気味の良いロックナンバーを発表していくが1984年、ドラマーのラズルがヴィンス・ニール(モトリー・クルー)の運転する車に乗車中、事故に遭い死亡。ラズルの代役を入れるなどしたがうまくいかず、これが引き金となりバンドが崩壊、1985年に解散した。

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カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
Carl Gustaf Emil Mannerheim, 1867年6月4日 - 1951年1月27日は、フィンランドの人物。男爵。一時は隠遁生活を送るが、第二次大戦突入前の情勢不安の中で先の実績を買われて国防委員長となり、軍の装備の更新などに力を入れた。その後のソ連との戦争である冬戦争、継続戦争においては最高司令官となり、的確な指示でフィンランドの防衛を行った。また、政治家としての活動も行い、継続戦争で戦況悪化とナチスとの同盟の責任から大統領を辞したリスト・リュティを継いで、1944年から1946年にかけて第6代大統領となり、難しいソ連との講和を成し遂げ、独立を保った。現在でもフィンランドで最も敬愛されている人物の1人である。

ヤンネ・アホネン
(Janne Petteri Ahonen、1977年5月11日 - ) はフィンランドのスキージャンプ選手。フライングイーグルのニックネームを持つ。早くからその才能を見込まれ、1994年のリレハンメルオリンピック代表に16歳の若さで選ばれる。 また、1993年と1994年のジュニア世界選手権で個人・団体2年連続2冠を成し遂げた。

アンティ・アウティ
Antti Autti, 1985年3月15日 - )は、フィンランドのロバニエミ出身のスノーボード選手。2005年のWinter X Gamesのスーパーパイプ競技において、ダニー・キャス、 アンディ・フィンチ、そしてショーン・ホワイトといった大物たちに勝利したことによって一気に名声を獲得した。

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佐々木巌
佐々木 巌(ささき いわお、1939年 - 1999年)は、日本人正教徒でありイコン画家。聖名はペトル。秋田県大館市出身。フィンランドにおけるローマ字表記は"Petros Sasaki"(ペトロス ササキ)。ニコライ堂境内にある日本正教会が運営する神学校を卒業後、フィンランドに渡りクオピオに居住。多くのイコンをフィンランド正教会のために描いた。クオピオとオウルを中心に活動し、イコン制作に勤しみつつ多くの後進の指導に当たり、フィンランドの教会生活・芸術に貢献した。

キーラ・コルピ
Kiira Linda Katriina Korpi, 1988年9月26日 - )は、フィンランド・タンペレ市出身[1]の女性フィギュアスケート選手(女子シングル)。2010年エリック・ボンパール杯優勝、2012年ヨーロッパフィギュアスケート選手権2位。2010年バンクーバーオリンピック、2006年トリノオリンピックフィンランド代表。

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ユーホ・サーリスト
(Julius Juho Saaristo、1891年7月21日 - 1969年10月12日)は、フィンランドの陸上競技選手である。彼は1912年に開催されたストックホルムオリンピックで、合計2個のメダルを獲得した。

リスト・リュティ
Risto Heikki Ryti, 1889年2月3日 - 1956年10月25日)は、20世紀のフィンランドの政治家。フィンランド銀行総裁や首相、大統領を歴任した。第二次世界大戦後、戦争犯罪人として告発され、禁錮10年の判決を受けたが、まもなく釈放された。フィンランド人に尊敬の念をもたれ、その死は国葬を持って送られた。

エルッキ・メラルティン
(Erkki Gustaf Melartin, 1875年2月7日 - 1937年2月14日)は、フィンランドの作曲家である。ジャン・シベリウスの影に隠れて知名度は低いが、オスカル・メリカントやレーヴィ・マデトヤ、セリム・パルムグレンらと並んで20世紀初頭のフィンランド音楽の黄金時代を築いた。

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