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トルコ共和国
Republic of Turkey

■地理
国土は黄土色に染まっているヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡によって隔てられる。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。


西アジア
アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。


アナトリア半島
アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語でアナトリア半島と言うと半島の名称のようだが、本来はアナトリアで、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。

バルカン半島
ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。

ボスポラス海峡
トルコのヨーロッパ部分(オチデント:Occident)とアジア部分(オリエント:Orient)を隔てる海峡である。ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

ダーダネルス海峡
Dardanellesは、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡。ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなす。日本では、英語名のダーダネルス海峡がよく知られている。第一次大戦後のセーヴル条約で海峡委員会に主権が移ったが、モントルー条約によって再びトルコに海峡での主権が戻ることになった。21世紀初頭でもこの条約は有効であるとされ、同海峡を航行する船舶・艦艇等には制約がかけられている。

アララト山
トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山(成層火山)。『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。聖書考古学上では『創世記』記者の意図した「アララトの山々(複数形)」はウラルトゥの山々の意味、現在のアルメニア高地のどこかの事と考えられているにもかかわらず、現在のアララト山頂から見つかった古い時代の木の化石や、航空写真から見出だした方形の船の跡らしいものをノアの箱舟の痕跡だとし、ノアの箱舟伝説が実証されたと主張する人もいる。

モンゴル高原
(Mongolia)とも言い、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、南部を南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南(ばくなん)と言って、歴史的・政治的に2地域に分かれている。

マルマラ海
Marmara Deniziは、トルコのアジア側とヨーロッパ側の間にある内海である。北の黒海とはボスポラス海峡、南のエーゲ海(地中海)とはダーダネルス海峡を通じて繋がっている。北岸のボスポラス海峡入り口部にはイスタンブルがあり、東部の陸地に深く入り込んだイズミット湾の最奥部にイズミットがある。

黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。バルカン半島、アナトリア半島、カフカースと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。面積は436,400km2ある。最大水深は2,206m。名称は黒味を帯びた海水に由来し、この黒味の原因は硫化鉄であるとする説と、地中海よりも豊富な微小藻類であるとする説がある。

チョルフ川
トルコとグルジアを流れる河川。アッリアノスは『黒海周遊記』のなかでアカンプシス川と記したが、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)はそれをバティス川と混同していた。英語では昔はボアス川、チュルク川などとして知られていた。

クズルウルマク川
Kuzulurmak Nehri、はトルコ最長の川。クズルは赤を、ウルマクは川を意味する。水力発電に使われている。底が浅いので船舶の航行には適さない。

ユーフラテス川
(Euphrates)は、トルコ北東部の山地を源流としてシリアを通過し、イラクでチグリス川と合流してシャットゥルアラブ川となり、最終的にペルシア湾に注ぐ国際河川である(河口付近はイランとイラクの国境になっているが、国境線の位置をめぐって紛争になっている)。全長2780キロメートル。

トゥズ湖
Lake Tuzは、トルコで2番目に大きい湖で、アナトリア地方中央部、コンヤの北東105 km アンカラの南南東150 km(38°50′N 33°20′E)に位置する。 とても浅くて(1-2 m)塩分を含むこの湖は、一年の大半の間、1,500 km2の面積を有している。トルコの中央高原の地殻構造的くぼ地を占めるトゥズ湖は、地下水と地表水の2つの主要な水流によって水が供給されているが、出口がない。水路や河川が湖に流れ込む場所には、塩気のある湿地ができている。

ヴァン湖
トルコ共和国最大の湖である。同国東アナトリア地方のヴァン県とビトリス県にまたがる。周囲の山々から流入する小川が多数あるが古代の火山噴火により流出河川が遮断されたため塩湖となっている。ヴァン湖沿岸には、ウラルトゥ王国(紀元前9世紀-紀元前6世紀)の首都トゥシパがあった。ヴァン湖内のアクダマル(Akdamar)島には、10世紀に建てられたアルメニア教会の教会の遺跡がある。また、東岸のヴァンには1970年代にイランからの鉄道が開通している。ヴァン湖には鉄道連絡船が就航しており、湖の東岸であるヴァンと対岸のタトワンの間を結んでいる。

トロス山脈
Taurus Mountainsはトルコ南部の山脈。トルコ中央部とトルコ南部の地中海地方を分けている。トロス山脈の一部であるアラ山脈とボルカール山脈は石灰岩質のためカルスト地形となっており、滝や伏流水、大きな洞窟などが多い。


イズミット地震 (1999年)
(別名「トルコ北西部地震」「トルコ・コジャエリ地震」等)は、1999年8月17日午前3時02分(EET、現地時間)に、トルコ北西部で発生したマグニチュード7.6の地震である。37秒もの間ゆれ続け[2]、1万7000人あまりが死亡し、およそ60万人が家を喪うなど、震源のコジャエリ県イズミット市を中心に、甚大な損害をもたらした。


2011/10/28  トルコ東部を襲った大地震で発生から5日目の27日、死者は534人、負傷者は2300人に達した。冬を前に被災者の住宅確保や建物の耐震強化などが新たな課題となっている。


トラキア
(ラテン語:Thracia、トルコ語:Trakya)は、バルカン半島東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。 近年、特にブルガリア領内でトラキア時代の遺跡発掘が進み、黄金文明と呼べるほど大量かつ精巧な金細工が発見されている。トラキア地方における中心都市アドリアノープルはオスマン帝国の都エディルネとなった。オスマン支配のもとではトルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が大挙して住み着くようになり、民族的・宗教的な混交・混住がさらに進んだ。

トラキア人
古代の東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族。インド・ヨーロッパ語族に属するトラキア語を話した。古代ギリシアやローマ帝国の文献に現れ、当時のヨーロッパでは有数の人口と勢力を誇ったといわれる。考古学的には多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡で知られる。トラキア人はトラキア(現在のブルガリア南部、ギリシア北部、トルコのヨーロッパ部)のほかに、セルビア、マケドニア共和国、モエシア(ブルガリア北部)やビテュニア(アナトリア北西部)にも住んでいた。

ヒッタイト
(英:Hittites)は、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話しアナトリア半島に王国を築いた民族。ハッティの英語名で、旧約聖書の Hitti(ヘテ人、ヘト人)をもとにして、イギリスのA.H.セイスが命名した。ヒッタイト人は黒海を渡って来た北方系民族といわれてきた。しかし近年、逆にこの地域アナトリアを故郷として広がって行ったという説も提唱されている。紀元前1680年頃にクズルウルマック("赤い河"の意)周辺に王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。エジプトの遺跡には、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。

フリギア
古代アナトリア(現在のトルコ)中西部の地域名・王国名である。フリュギア・プリュギアとも表記する。フリギア人はインド・ヨーロッパ語族のフリギア語を話す人々で、おそらくヨーロッパから紀元前12世紀頃移住してこの地域を支配し、紀元前8世紀に王国を建てた。しかし紀元前7世紀末頃キンメリア人の支配に屈し、その後隣接するリディア、さらにペルシャ、アレクサンドロス大王とその後継者たち、そしてペルガモン王国に支配されたのち、ローマ帝国領内の地域名として名を残した。フリギア語は6世紀頃まで残った。


リディア
紀元前7世紀 - 紀元前547年は、古代アナトリア半島 (現在のトルコ)のリディア地方を中心に栄えた王国。中心都市はサルディスであり、世界で初めて鋳造貨幣を導入したことで名高い(エレクトロン貨)。紀元前7世紀にアナトリア高原で最も優勢となり、イラン高原のメディア王国と争った。紀元前560年に即位したクロイソス王は、西にエーゲ海沿岸のギリシア植民都市を征服し、東の国境となっていたハリュス川を越えて東アナトリアに進出して、メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世と戦った。


ウラルトゥ
紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。「ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。紀元前1250年ごろのアッシリアの文書は、「ウルアトリ(Uruatri)」または「ナイリ(Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。その民族は、紀元前860年から紀元前830年のあいだに、王アラムあるいはその息子サルドゥル1世のもとで王国を形成した。

オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)の帝室オスマン家を皇帝とする多民族帝国で、現在のトルコの都市イスタンブルを首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、ハプスブルク帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させるその主要原因となった。

アッタロス朝
Attalid dynastyとは、アナトリア西部に紀元前282年から紀元前133年まで存在した王国である。ヘレニズム国家の一つで、ペルガモン王国やアッタロス朝ペルガモンとも称される。

アルメニア王国
紀元前190年から紀元前66年まで独立していた王国であり、428年までローマとペルシア帝国に従属していた国家だった。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした。


オスマン家
Osmanlı hanedanıは、オスマン帝国の皇帝の家系として続いたトルコ系のヨーロッパの皇帝家。13世紀末にアナトリア半島北東部を支配した初代オスマン1世に始まり、36代メフメト6世が廃位される1922年までオスマン帝国に君臨した。


■国民
トルコ共和国の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。


トルコ人
アナトリア半島とバルカン半島の一部に居住し、イスタンブル方言を公用語・共通語とするトルコ語を話すテュルク系の民族である。アゼルバイジャン人やトルクメン人とは民族的に親近関係にある。トルコ共和国の主要構成民族であり、そのほぼ全てがムスリム(イスラム教徒)である。人口は7000万人以上で、トルコの他、ブルガリアやギリシャ領のエーゲ海の島々など東ヨーロッパにも居住する。

トルコ語
アゼルバイジャン語やトルクメン語と同じテュルク諸語の南西語群(オグズ語群(英語版))に属し、テュルク諸語のうち最大の話者数をもつ言語。トルコ共和国の公用語として人口約7200万人の話者を擁し、ブルガリアに約75万人、ギリシャに約15万人、キプロスに約25万人の話者がいる。ドイツなど西ヨーロッパのトルコ系移民社会(200万人以上)でも話されているが、現地で生まれてトルコ語が満足に話せない若者も増えている。

アルメニア人
アルメニアの主要民族。インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用している。アルメニア人の7割はアルメニア共和国外在住である。古代から国家を建設し、世界で初めてキリスト教を国家宗教とした。また中世の東ローマ帝国ではアルメニア系の王朝が建てられたことがある。なお、アルメニア人は非カルケドン派であるアルメニア使徒教会の信者がほとんどである。

クルド人
Kurds)は、中東のクルディスタンに住む山岳民族。トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布し、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2500万〜3000万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。クルド人口が最も多いのはトルコで、ザザ人を含めると、約1,144万5千〜1,500万人が居住する。ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。

ヘムシン人
トルコ東部に居住する少数民族。トルコ東部の黒海沿岸付近に居住し、アルメニア語の一方言を話す人々で、トルコ国内に居住する数多く(一説には70近く)の少数民族のうちの一つである。


マラズギルトの戦い
1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国とセルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。


ウラルトゥ
紀元前9世紀ごろから紀元前585年までアナトリアに存在した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。


■経済
IMFによると、2010年のトルコのGDPは7290億ドル(約60兆円)であり、世界第17位である[7]。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業とからなり、農業人口が国民のおよそ 40 % を占める。漁業も目立たないが沿岸部では比較的盛んで、領海問題や公海上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。

■鉱業
トルコの国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年時点では亜炭・褐炭の採掘量が6348万トンに達した。これは世界シェアの 7.0 % であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの1/20に過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。

■工業
工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。


ラズ人
トルコ東部からグルジアとの国境近くに居住する民族である。トルコのリゼからグルジアのバトゥーミに至る黒海沿岸付近に居住し、ラズ語を話す人々で、トルコ国内に居住する数多く(一説には70近く)の少数民族のうちの一つである。

ヘムシン人
トルコ東部に居住する少数民族。トルコ東部の黒海沿岸付近に居住し、アルメニア語の一方言を話す人々で、トルコ国内に居住する数多く(一説には70近く)の少数民族のうちの一つである。キリスト教からイスラム教に改宗したアルメニア人の子孫といわれており、隣国アルメニア人の大多数が主にキリスト教(アルメニア教会)を信奉するのに対し、ヘムシン人の多くはイスラム教を信奉する。一方、宗教的戒律はそれほど厳格ではなく、他のトルコ国内に居住する宗教的・民族的マイノリティと同様に、政治的に世俗主義派・改革派を支持する傾向があるといわれている。

ザザ人
主にトルコ東部に住むイラン語群のザザキ語を話し、約半数はイスラム教の一派であるアレヴィー派を信奉し、残りはスンニ派を信奉する人々。トルコ国内に数十あるといわれる少数民族の一つである。100から200万人いるとされる。言語学研究ではザザ人は今日のカスピ海南岸にいたと推測される。ザザ人の一部は自らを Dimli (Daylami) という民族と認識している。Dimli (Daylami)という言葉はイランのギーラーン州地域も示す。

ガガウズ人
(Gagauz)は、主にモルドバ共和国に居住する民族。モルドバのガガウズ人口は17万人ほどでモルドバ総人口の約4%を占める。モルドバの他、ブルガリア、ウクライナ、ロシア、ルーマニア、トルコなどにも居住し、総人口は30万人ほどとされる。


オリエント急行
Orient Expressとはヨーロッパの長距離夜行列車、およびこれにちなんで名付けられた列車である。オリエント急行の起源は国際寝台車会社(日本での通称「ワゴン・リ」社)により1883年に運行がはじめられたパリ - コンスタンティノープル(イスタンブル)間の列車(当時は一部船舶連絡)である。その後、西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ国際寝台車会社の列車群が「オリエント急行」を名乗るようになった。オリエント急行の開通記念列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(現パリ東駅)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル(イスタンブール)に到着した。


カーリエ博物館
イスタンブル旧市街の北西、テオドシウスの城壁と幹線道路が交わるエディルネ門の近くにある博物館である。建物自体は、東ローマ帝国の時代であった11世紀に正教会修道院の付属教会堂として建設されたもので、14世紀まで間欠的に増改築が繰り返された。オスマン帝国の時代になるとモスクに改装され、名称もカーリエ・ジャーミーと改められたが、トルコ共和国によってその美術的価値が認められ、無宗教の博物館となった。


ピーリー・レイースの地図
オスマン帝国の海軍軍人ピーリー・レイースが作成した現存する2つの世界地図のうち、1513年に描かれた地図のことを指す。ピリ・レイスの地図とも。当時知られていた最新の地理知識を使ったと考えられる航海地図で、1929年にイスタンブルのトプカプ宮殿博物館に収蔵された写本類の中から発見された。地図はガゼルの羊皮紙で作られたもので、インド洋を描いていたと思われる右半分は失われてしまっており、現存する部分は大西洋を中心に描いた左半分の断片である。この地図には、南アメリカの南から伸びた陸地がさらに東に伸び、大西洋の南へアフリカ大陸の下に回り込むように地図中に書き込まれているという不可解な点がある。この陸地は、地図が描かれた時代よりもかなり後の19世紀に発見された南極大陸の北岸とも思われることから、歴史史料としてよりも、むしろオーパーツとして世界的に有名になっている。


メヴレヴィー教団
Mevlevilik)とはイスラム教のイスラム神秘主義(スーフィズム)の教団の一つ。13世紀にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207年 - 1273年)によって開基された。メヴレヴィー教団は日本語では旋舞教団といわれ、スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。


エルトゥールル号遭難事件
1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件である。この事件は、日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。


<世界遺産>
イスタンブール歴史地区
紀元前7世紀頃、このイスタンブル旧市街地区に最初の都市をつくったのはギリシャ人入植者たちで、彼らの建てたビュザンティオンは旧市街のある半島の先端にあった。最古の城壁は、遺跡公園地区の北部、現在のトプカプ宮殿の城壁にアヤソフィアのあたりを加えた程度の広さしかなかった。

ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群
"妖精の煙突"と呼ばれる岩の形成物の間に位置するギョレメ は、トルコの歴史地区カッパドキアの町である。カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡る。そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世とクセルクセスについて3言語で書かれた碑文に、ペルシア帝国を構成する一地方(古代ペルシア語でdahyu-「州」)として現れている。地方についてのこれらの一覧の中で、古代ペルシア語での名称はKatpatukaであるが、ペルシア固有の言葉でないことは明らかである。ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人(しかるに、彼らはギリシア人によって「シリア人」「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)によって用いられたと伝えている。

ディヴリーの大モスクと病院
1228年から1229年にかけて、現地のベイリクであるメンギュジェク朝のアフメッド・シャーの手によって、スィヴァス県のディヴリーイに建設された。

ハットゥシャ
海抜1000mほどの丘陵地帯にある遺跡。紀元前17世紀-紀元前13世紀に繁栄したヒッタイト帝国の都。

ネムルット・ダウ
ネムルト山は19世紀後半にオスマン帝国軍が偶然山頂付近を行軍した際に、山頂部が人工的な建造物であったことが発見され、1881年にドイツ出身の技師カール・ゼシュター(Karl Sester)によって本格的な発掘調査が行われた。

クサントス-レトーン
クサントスは、ギリシャ人がつけた古代リュキアの都市の名前である。レトーンは、ギリシア神話に登場する女神レートーの名前に由来する古代アナトリア・リュキアの聖域である。

ヒエラポリス-パムッカレ
トルコ西部・デニズリ県にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰華段丘からなる丘陵地の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。現在は遺跡が残る。

サフランボル市街
サフランボル旧市街には、多くの古い建築物が保存されている。私立の博物館が1つ、25のモスク、5つの霊園、8つの歴史的な噴水、5つのトルコ式浴場、3つの隊商宿(キャラバンサライ)、1つの歴史的な時計等、1つの日時計及び数百に上るイスラーム建築によって建設された住居である。

トロイ遺跡
現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる。遺跡の入り口には、あの有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。一般的に、ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家であるが、現在発掘によって確認される遺跡は城塞以上のものではない。


■文化
トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ。


トルコ文学
トルコ人がアナトリアに定着したばかりの11世紀から15世紀のころは、中央アジアの伝統を引き継ぐ叙事詩などの口承文芸と、イランから受け継いだペルシア語による定型詩の二つの潮流があった。20世紀に入るとナショナリズムの影響を受けてトルコ文学が興隆し、トルコ語の文語たるオスマン語に口語を取り入れ文学の簡略化・民衆化を目指す運動が盛り上がる。


ヤールギュレシ
Yağlı gures)またはオイルレスリングは650年を超える歴史を持つ伝統格闘技であり、トルコ共和国の国技とされている。 トルコ国内で行われるトーナメントは主要なものだけでも年間40あり、毎年6月から7月にかけてトルコとギリシャの国境の街エディルネで全国大会が開催される。


トルコ料理
トルコのトルコ民族の郷土料理であり、世界三大料理の一つである。トルコ料理は、中央アジアにひろがるトルコ民族の伝統料理の要素と、ギリシャ、グルジア、シリア地方の料理の要素とが混ざり合って独特の発展を遂げた。トルコ民族は、中央アジアからアナトリア半島へ移動した歴史があり、また、14世紀から20世紀の初めまではオスマン帝国として地中海周辺を支配していたため、これらの地域の料理と影響し合った。


ケバブ
中東地域とその周辺地域で供される、肉類をローストして調理する料理の総称。アラビア文字表記は???? (kabāb) で、日本語ではカバブという表記も一般的である。現代トルコ語では語末の子音が無声化して「kebap」と表記される。ケバブのもっとも典型的な調理法は、四角形に切った肉を串に刺して焼いたものである。トルコでは、串焼きのケバブのほか、ヨーグルトを添えて食べるイスケンデルケバブ (İskender Kebabı) や、屑肉を固まりにし、回転させながら焼いたものを削ぎ切りしたドネルケバブ (Doner Kebabı) などのバリエーションがあり、様々な焼肉料理がケバブと総称される。


トロイアの木馬
ギリシア神話に登場する装置である。トロイの木馬とも言われる。トロイア戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となった。木でできており、中に人が隠れることができるようになっていた。エペイオスはイーデー山から木を切り出させ(自軍の船の木材を転用したとも)それを材料に木馬を組み立てた。木馬作成の過程は、トリピオドーロスの『トロイア落城』に最も詳しく書かれている。


トルコ音楽
トルコ古典音楽と呼ばれるかつてのオスマン帝国の宮廷音楽は、アラブ音楽やイランの音楽などイスラム世界伝統の宮廷音楽を受け継いだ芸術性の強い音楽である。メヴレヴィー教団の儀式の音楽など宗教音楽とも関連が深い。トルコのポップスは、トルコ国内にとどまらない人気を持つ。中でも、タルカン (Tarkan) は国際的にヒットし、大スターになっている。


コペンハーゲン基準
ある国が欧州連合に加盟するのに適しているかを判断する基準。この基準では加盟を希望する国に対して民主的な統治や人権を尊重し、市場経済が機能する体制を有することと、欧州連合の義務と目的を受け入れることを求めている。この加盟基準は1993年6月のデンマーク・コペンハーゲンでの欧州理事会において決定され、このため加盟基準にコペンハーゲンの名前がつけられている。


欧州評議会
英語: Council of Europe、フランス語: Conseil de l'Europe)は、1949年に設立されたヨーロッパの統合に取り組む国際機関。欧州評議会は法定基準、人権、民主主義の発展、法の支配、文化的協力についてとくに重点を置いている。欧州評議会は47の国が加盟しており、それらの国の人口を合計するとおよそ8億人に上る。欧州評議会は、共通の政策、拘束力のある法令、加盟国数が27しかない欧州連合とは異なる組織である。

 


リュシュテュ・レチベル
1973年5月10日 - は、トルコ・アンタルヤ出身の元同国代表、シュペルリガ・ベシクタシュJK所属のサッカー選手。ポジションはGK。ユース時代は右ウイングとしてプレーしていたが、17歳の時の監督に「君は背が高いからゴール前に立ってみるといい」と言われ、ゴールキーパーに転向した。1990年、ブルドゥルギュジュに入団。1シーズン在籍した後に地元のサッカークラブ・アンタルヤスポルへ移籍した。

セゼン・アクス
Sezen Aksu, 1954年7月13日 - は、トルコのシンガーソングライター・音楽プロデューサー。4,000万枚以上のアルバムを売り上げているトルコ音楽の大御所的存在であり、「トルコポップの女帝」と呼ばれる。トルコ・デニズリ県サライコイに生まれる。3歳のとき、家族でイズミルに移り、以降この町で育った。高校卒業後、地元の大学で農業を学びはじめるが、音楽の道に集中するため中退。

マノリス・カロミリ
Manolis KALOMIRIS1883年12月14日 - 1962年4月3日はギリシア国民楽派の作曲家。オスマン帝国のスミルナに生まれ、イスタンブルで教育を受けた後、ウィーンに留学してピアノと作曲を学ぶ。1906年から1910年までハリコフでピアノ教師を務めた後、アテネに落ち着く。1911年から1919年までピアノ教師や対位法の教師として活動した。カロミリスはワーグナーとリムスキー=コルサコフの賛美者であり、ロシア国民楽派や西欧音楽の成果、近代ギリシャの民族音楽や文学を基礎として、ギリシャ国民楽派の確立を生涯の目標と肝に銘じた。

イオルゴス・セフェリス
Giorgos Seferis1900年3月13日(ユリウス暦2月29日)-1971年9月20日)は20世紀で最も偉大なギリシャの詩人の一人で、ノーベル文学賞受賞者である。また外交官として1957年から1962年までイギリス大使館にいた。1914年に一家はアテネに移住した。セフェリスは1918年から1925年まで、パリ大学で法学を学んだ。大学生時代の1922年9月、2年間のギリシャの統治の後、スミルナが再びトルコに併合され、セフェリスの家族を含むギリシャ人たちは難民となった。セフェリスはその後1950年までスミルナを訪れなかったが、故郷を失った感情はセフェリスの詩の中に多分に表れ、それは彼がオデュッセウスの物語に興味を示すようになったことからも窺うことができる。

アブドゥラー・ギュル
(Abdullah Gul, 1950年10月29日 - )は、公正発展党所属のトルコ共和国の政治家。カイセリ出身。首相(2002年11月18日-2003年3月14日)、外相(2003年3月14日-2007年8月28日)、大統領(2007年8月28日-)。イスタンブル大学経済学部を卒業。同大学にて博士号取得後、サカリア大学工業技術学部にて経済学の教員として勤務。1983年から、サウジアラビアのジッダに拠点を置くイスラーム開発銀行にて経済専門家として勤務。

レジェップ・タイイップ・エルドアン
(Recep Tayyip Erdogan, 1954年2月26日 -)は、トルコのカスムパシャ(Kasumpasa)生まれの政治家で、首相。2004年4月に来日している。エミネ夫人との間に二男二女。夫人は公の場での着用が禁止されているスカーフを常に着用しているため、外遊を除く国家行事の場には招待されていない。娘の一人はアメリカに留学中。サッカーを趣味としており、地元のフェネルバフチェSKの熱烈なファンでもある。

ピーリー・レイース
Ahmet ibn-i el-Hac Mehmet El Karamani 1465年? - 1554年は、オスマン帝国海軍の軍人。世界地図、航海案内書の作者として知られ、16世紀のオスマン帝国(トルコ)が到達した海洋知識の到達点を示す。ダーダネルス海峡に面した港町ゲリボル(ガリポリ)の出身で、本名はアフメト・ムヒッディンという。父ハジ・メフメトの死後、叔父でオスマン帝国艦隊の提督だったケマル・レイースに引き取られ、オスマン帝国海軍の軍人となった。若い頃叔父に従ってスペインに併合されつつあったアンダルスのムスリムを救援するためイベリアに派遣された艦隊に参加したという。

ナーズム・ヒクメット
トルコ出身の詩人、劇作家、共産主義者、革命運動家。本名は、メフメト・ナーズム・ラン (Mehmet Nazum Ran)であり、多種の筆名を使用した。13歳から詩作を始める。ギョズテペの模範学校 (タシュ・メクテプとして知られる)で初等教育を修了し、メクテビ・スルターニ (現ガラタサライ高校)に登録した。しかし、家計の困窮のためにニシャンタシュ・スルターニスィ (現ニシャンタシュ・ヌーリ・アクン・アナドル高校)に移った。その詩作が当時の海軍大臣ジェマル・パシャの目に留まり、1915年9月25日、イスタンブルのヘイベリアダにある海軍学校 (現海軍高等学校)に入学することになった。

セルタブ・エレネル
Sertab Erener、1964年12月4日 - はトルコのポップ歌手である。トルコでは最も知名度の高い歌手の一人であり、またトルコ国外のヨーロッパ諸国においてはユーロビジョン・ソング・コンテスト2003の優勝曲「Every Way That I Can」で知られる。イスタンブル出身のセルタブ・エレネルは、トルコのポップ・ミュージック歌手のセゼン・アクスと共に働くようになる以前は、市の大学にて音楽を学んだ。

カイサリアのバシレイオス
ラテン語: Basilius Caesariensis, 330年頃 - 379年は、ギリシャ教父のひとり、4世紀の最も重要なキリスト教神学者そして出世間御坊のひとりである。カッパドキア(現在のトルコ)の裕福なキリスト教徒の家庭に生まれる。コンスタンティノポリス、またアテナイに遊学し、哲学を学ぶ。アテナイで同郷のナジアンゾスのグレゴリオスと出会い、親交を結ぶ。アテナイでキリスト教信仰に深く傾倒したバシレイオスは、カパドキアに戻ったのちは、隠棲して一種の修道生活を送っていた。

アレクサンドロス3世
Alexander the Great、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年はアルゲアデス朝のマケドニア王、コリントス同盟の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。

ストラボン
Strabo, 紀元前63年頃 - 23年頃は古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全17巻から成るギリシャ語で書かれた『地理書』(または地理誌、Geographika)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。

イディル・ビレット
(Idil Biret, 1941年11月21日 アンカラ - )はトルコのピアニスト(女性)。ロマン派音楽と現代音楽を得意としている。ナディア・ブーランジェとアルフレッド・コルトーに学んだミトハト・フェンメンに5歳で入門してピアノを始める。7歳のとき、トルコ議会が特別法を通過させたおかげで、幼くして留学が可能となり、パリ音楽院に入学してブーランジェらの指導を受ける一方、ブラームスなどの作曲家を、マドレーヌ・ド・ヴァルマレットから教わる。15歳のとき3つの部門で受賞して卒業すると、コルトーやヴィルヘルム・ケンプに師事してさらに研鑚を積んだ。

ベレン・サート
Beren Saat, 1984年2月26日 - は、トルコ共和国の女優。トルコ共和国のテレビシリーズ『禁じられた恋』のヒロインとして有名であり、このテレビシリーズは国際的に放送されている。アンカラにある私立バシュケント大学で経営管理を学んだ。サートは、大学在学中よりテレビ局の人気オーディション番組のコンテストに参加した。その後、幾つかのテレビコマーシャルに出演。

アドナン・メンデレス
(Ali Adnan Ertekin Menderes, 1899年‐1961年9月17日)は、トルコの政治家。1950年に初の自由選挙により選出された首相となったが、1960年に軍部のクーデターで逮捕され、翌年処刑された。アイドゥン県ギュゼルヒサルに地主の子として生まれる。イズミルのアメリカン・スクールを卒業。祖国独立戦争の際は独立勲章を受章している。

ゲオルギイ・グルジエフ
1866年1月13日? − 1949年10月29日はアルメニアに生まれ、「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。

シベル・ケキリ
Sibel Kekilli、1980年6月16日-はドイツの女優。ハイルブロン出身。トルコ系ドイツ人。ファティ・アーキンに見出され、『愛より強く』で映画デビューし、ドイツ映画賞主演女優賞をはじめとする賞を獲得。映画出演以前にはポルノに出演していたことが話題となったが、そういった経験が彼女の演技に厚みを与えている。

イスメト・イノニュ
Mustafa İsmet İnonu, 1884年9月24日 - 1973年12月25日は、オスマン帝国末期およびトルコ共和国初期の軍人、トルコの第二代大統領(1938年11月11日 - 1950年3月22日)。オスマン帝国が第一次世界大戦に参戦した後、1914年11月29日に中佐に昇進し、12月2日から1915年12月2日まで総司令部第1課長を務めた後、コーカサス戦線に派遣され、1915年12月2日に第2軍参謀長に任命され、12月14日に大佐に昇進した。

アンリ・ヴェルヌイユ
(Henri Verneuil、1920年10月15日 - 2002年1月11日)は、フランスの映画監督、脚本家。トルコのテキルダーで、アルメニア系の家庭に生まれる。彼が子供の時にトルコ政府の弾圧を避けて家族でマルセイユに移住。

フェトヒ・オクヤル
Ali Fethi Okyar, 1934年まではアリ・フェトヒ・ベイ Ali Fethi Bey, 1880年4月29日‐1943年5月7日)は、トルコの軍人、政治家、外交官。成立間もないトルコ共和国の首相を務めた。オスマン帝国のピルレペ(現マケドニア共和国のプリレプ)生まれ。1898年、陸軍士官学校に入学。1904年、サロニカの第3軍に参謀将校として配属される。そこで「統一と進歩委員会」に加盟。1909年、フランス大使館付武官。1911年の伊土戦争に従軍。1912年、立憲議会議員に当選。1913年にブルガリア公使となる。

メメット・オカー
(Mehmet Okur、1979年3月26日−)はトルコ共和国のプロバスケットボール選手。NBAのポートランド・トレイルブレイザーズに所属。マルマラ地方ヤロヴァ県ヤロヴァ出身。ポジションはパワーフォワード、センター。身長211cm、体重119.3kg。トルコ語の発音に近い「メメット・オクール」と表記される場合がある。

ピーリー・レイース
1465年? - 1554年)は、オスマン帝国海軍の軍人。世界地図、航海案内書の作者として知られ、16世紀のオスマン帝国(トルコ)が到達した海洋知識の到達点を示す。1499年から1502年まで続いたオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争に参加、シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、フランス南岸などの海域での作戦に従事し、「船長」を意味するレイースの称号を与えられた。

トルコ Turkey
西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。


アンカラ
アンカラ(Ankara)は、トルコ共和国の首都。人口約358万人(2003年)を抱える同国第2の都市で、アンカラ県の県都でもある。アナトリア半島中央部に位置する。都市の主要部分はウルス(Ulus)と呼ばれるオスマン帝国時代以前からの歴史的旧市街と、1920年代以降にトルコ共和国政府によってその南にイェニシェヒルという名で計画的に建設された新市街、およびその郊外地区からなり、政府の施設はイェニシェヒルに集中している。


ビルケント大学
トルコの首都アンカラにある私立大学である。AACSB認定校。公式サイト

アンカラ音楽院
(Ankara Devlet Konservatuvari)は1936年、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの指導のもと創設された、トルコ共和国で最初の音楽大学である。

アンカラ大学
Ankara Universitesiは、トルコのアンカラにある国立大学である。アンカラ大学は初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって設立された。1925年設立の司法官憲の養成のために設立された法学校、1933年設立の農業技術研究所、1935年設立の言語、歴史学および地理学の学校。

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イスタンブル大学
Istanbul Universitesiはトルコのイスタンブルにある国立大学である。メインキャンパスは旧市街中心部のバヤズィト広場に面する。イスタンブル大学の起源はかつて東ローマ帝国が設置していたコンスタンティノープル大学に求められる。この大学は東ローマ帝国の滅亡と共に消滅したが、1453年5月30日にオスマン帝国によりマドラサが設置された。

ミマール・スィナン芸術大学
Mimar Sinan Guzel Sanatlar Universitesiはトルコのイスタンブルにある国立の芸術大学である。シンボルマークはフクロウである。

中東工科大学
Orta Dogu Teknik Universitesiはトルコのアンカラにある国立の技術系大学である。中東工科大学は1956年、周辺諸国の寄付により、自然科学と社会科学の教養を備えた労働力の育成を目的として開学した。

アナドル大学
Anadolu Universitesiは、トルコのエスキシェヒールにある公立大学である。約24,000人の通学学生に加え、150万人(2010年現在、同大学の公式サイトによる)を超える遠隔教育学生がおり、世界のマンモス遠隔大学のひとつに数えられる。


エセンボーア国際空港
Esenboga International Airportとは、トルコ共和国の首都アンカラにある国際空港。空港名を直訳すると「健康な雄牛」を意味するが、名前の由来である。 2007年では、利用者数は4,958,128人で、そのうち3,609,122人が国内線利用者である。

アタテュルク国際空港
Ataturk International Airport、は、トルコ・イスタンブルにある国際空港であり、同国最大の空港である。

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アンタルヤ国際空港
Antalya International Airportとは、トルコ共和国南西部アンタルヤ県の県都アンタルヤにある空港。市中心部より5km東にある。

アドナン・メンデレス空港
Adnan Menderes Havalimani、英語: Adnan Menderes Airportはトルコのイズミル中心部から約18 km南にある国際空港。名称はトルコの政治家であるアドナン・メンデレスにちなむ。


トルコ高速鉄道
トルコ国鉄 (TCDD) の高速鉄道路線である。トルコ最大の都市であるイスタンブルと首都アンカラを結ぶ高速新線として計画され、2003年に着工し2009年にアンカラ郊外からエスキシェヒールまでの一部区間が開業した「アンカラ・イスタンブル高速線」に始まるトルコの高速鉄道路線網である。


イスタンブル
トルコ共和国西部に位置する都市。日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多い。ボスポラス海峡をはさんでアジア(アナトリア半島)側とヨーロッパ(トラキア地方)側の両方に拡がっており、2大陸にまたがる大都市である。首都アンカラを上回る同国最大の都市であり、文化・経済の中心となっている。イスタンブル県の県都でもある。2000年の人口は約880万人で、イスタンブル県全体では1000万人を越える。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,313万人であり、世界有数のメガシティといえる[1]。現在「旧市街」と呼ばれるマルマラ海と金角湾に囲まれた、ヨーロッパ大陸から突き出した半島の先端に設けられた古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンが、イスタンブルの起源である。

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外務省:トルコ共和国
在トルコ日本国大使館


イズミット
トルコの都市。コジャエリ県の県都。人口は約21万人(1996年)。古代においてはニコメディアと称された。1999年、イズミットを中心にM7.4の大地震(イズミット地震)が発生して多くの犠牲者がでた。イズミット湾に面する港湾都市。工業が盛んで、トルコ最大の都市であるイスタンブルとは高速道路網で結ばれている。隣の都市としては、約100キロ南西にブルサ、85キロ北西にイスタンブルが位置している。

ボル
(Bolu)はトルコ共和国の行政区、ボル県の県都で、国土の北西より、首都アンカラと最大都市イスタンブルの中点程に位置する。緑に覆われた山地に囲まれた都市で、長い間、首都―最大都市間の交通の最大の壁となっていた。が、2007年、念願のトンネルが開通、往来の拠地や、宿泊地として多くの観光客で賑わい、中世のウルモスクと近代的な温泉施設が楽しまれる。

ブルサ
(Bursa) はトルコ北西部の都市。ブルサ県の県都。人口は約62万人。スキー場で知られるウルダー山 (Uludag, 2,443m) の山麓に位置し、市内に公園などの緑が多く残されていることから、「緑のブルサ(Yesil Bursa)」との異名を持つ。


公正発展党
Adalet ve Kalkınma Partisi, AK Parti, AKPは、トルコの政党。中道右派を標榜し、経済政策では欧州連合 (EU) 加盟や自由市場を目標とする保守政党であるが、イスラーム主義系政党福祉党、およびその後継政党である美徳党を前身としており、所属議員のイスラーム主義色が強く、トルコ内外からイスラーム主義政党であるとみられている。

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共和人民党
Republican People's Partyは、トルコの政党。略称はCHP。党首は2010年に就任したケマル・クルチダルオール。1923年9月9日にムスタファ・ケマル(のちのトルコ共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク)により人民党 (Halk Fırkası) として設立され、1980年のクーデターで全政党が解散させられたため1980年代にはいったん解党状態となったが、1992年に活動を再開した。1999年の総選挙では議席獲得要件の得票10%に満たなかったため国政から議席を失ったが、2002年、2007年の総選挙では党勢を回復、第一党公正発展党が絶対過半数を占める議会においてほぼ唯一の野党勢力となった。

民族主義者行動党
Milliyetci Hareket Partisi (MHP)は、トルコ共和国の政党。トルコ政界では、トルコ民族主義を主張する極右勢力として位置付けられている。民族主義者行動党の前身は、1958年に設立された共和主義農民国民党である。


ジャンダルマ
ジャンダルマ(トルコ語: Jandarma)はトルコの準軍事組織(国家憲兵)である。オスマン帝国時代の1839年、タンジマートの一環として設立された。名称はフランス語で国家憲兵を意味するジャンダルムリに由来する。平時には内務省に所属し、国境警備・国内の治安維持・主要施設の警備・交通取締り等の任務にあたっている。警察任務を主体とする組織であり、一般の民間人も電話による通報(電話番号156、なお一般警察は155)を行えば緊急出動を要請することも可能である。

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ポントス
アナトリア地方の黒海南岸、特に南岸のうち東部の地方名である。ヘレニズム時代よりの歴史を有し、現在はトルコ共和国領内に属している。ポントス王国(紀元前281年 - 紀元前64年)は現在のクズルウルマク川が発祥の地となり、当初はアケメネス朝(ペルシア)の属国的な位置づけにあった。


■国名
公式の英語表記は、Republic of Turkey。通称 Turkey(ターキー。七面鳥を意味する単語と全く同じ綴りおよび発音だが、文章の場合、国名の頭文字は大文字、七面鳥のは文頭に来ない限り小文字のため区別される)。


1.面積:780,576平方キロメートル(日本の約2倍)
2.人口:7,370万人(2010年12月、国家統計庁推定)
3.首都:アンカラ
4.民族:トルコ人
(南東部を中心にクルド人、その他アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人等)
5.言語:トルコ語(公用語)
6.宗教:イスラム教(スンニ派、アレヴィー派)が大部分を占める。
その他ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒等。

1299年 オスマン帝国成立
(最盛期にはバルカン、アナトリア、メソポタミア、北アフリカ、アラビア半島にまで及ぶ大帝国に発展)
1919年〜1922年 祖国解放戦争
1922年 オスマン帝国滅亡
1923年10月29日 ローザンヌ条約に基づきトルコ共和国成立 (初代大統領 ケマル・アタテュルク)
1952年 NATO加盟
1960年 軍による「5.27クーデター」
1961年 民政移管
1971年 軍による「書簡によるクーデター」、政権交代
1974年 キプロス進攻
1980年 軍による「9.12クーデター」
1983年 民政移管
2005年 EU加盟交渉開始

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■産業割合サービス業(74.7%)、工業(16.9%)、農業(8.4%)

■主要貿易品目(1)輸出 自動車(12.1%)、機械類(8.3%)、鉄鋼(7.7%)
(2)輸入 石油・天然ガス(20.7%)、機械類(11.5%)、鉄鋼(8.7%)


トルコリラ
トルコリラはトルコ共和国の通貨。トルコ語では Turk Lirasi(テュルク・リラス)という。略称はTL。トルコ共和国中央銀行 (Turkiye Cumhuriyet Merkez Bankasi) が発行。補助単位はクルシュで、1トルコリラ=100クルシュ (kurus) である。

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ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)
(Helsinki Declaration)は、1975年7〜8月、フィンランドのヘルシンキにおいて開催された「全欧安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe:CSCE)」で採択された最終の合意文書のこと。この全欧安全保障協力会議にはアルバニアを除きソ連を含めたヨーロッパ33ヵ国、アメリカ、カナダの計35ヵ国の首脳が参加した(そして全参加国が同文書に調印)。


アダナ
トルコ中南部の都市。アダナ県の県都。人口は1,130,710人(2000年)で、トルコで4番目に大きな都市である。タウロス山脈の南側、キリキア平原の中央、地中海から約50km内陸に位置する。市街から東へ12kmのところにNATOの空軍基地がある。綿やコムギ、ブドウ、柑橘類、オリーブなどの集散地であり、繊維工業、食品加工が盛ん。


シャンルウルファ
通称ウルファ(Urfa)はトルコ南東部の都市でシャンルウルファ県の県都。現代のシャンルウルファ(ウルファ)は新市街と旧市街が鮮やかな対照をなしている。旧市街はトルコ国内でも最もロマンチックな街並みの一つであり、バザールには果物や野菜を買い求める地元住民や、近郊の村から作物を売りに来る伝統衣装を着たアラブ人やクルド人の農民が朝早くから集まる。旧市街の建物の多くは、中庭を囲むような形の中東の伝統的なムスリムの住宅であり、庭は車やバイクの行き交う埃っぽい通りからは見えない。

ギョベクリ・テペ
アナトリア半島南東部、シャンルウルファ(前 ウルファ、エデッサ)の郊外(北東15km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡。紀元前9000年頃に狩猟採集民によって建立された、世界最古とされる石造の宗教建築(神殿)が発見されている。

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アンタキヤ
トルコの都市。古代シリア地方北部の主要都市アンティオキアの後身であり、歴史的シリアのうちトルコ領に編入された地域にあたるハタイ県の県都となっている。1997年の統計で人口約140,000人。ラテン語名はアンティオキア。市内には古代以来の建造物はほとんど残っておらず、博物館に集められたローマ時代のモザイクや、郊外にわずかに残る古い教会からわずかに古代を偲ぶことができるのみである。

ガズィアンテプ
Gaziantep,はトルコ共和国南東部の都市。ガズィアンテプ県の県都。2000年の人口は853,513人。古くはヒッタイトの都市であった。シリア地方との交易の中継地として栄えたが、ペルシア、ローマ帝国、ビザンティン帝国、アルメニア王国、十字軍、オスマン帝国などさまざまな勢力の支配を経験した。

コンヤ
(Konya) は、トルコの都市。トルコ内陸アナトリア地方の主要都市のひとつ。コンヤ県の県都で、2009年の人口は約100万人。コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクやセリム2世のセリミエ・モスクなど多くのモスクがあり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。

イズニク
トルコ、ブルサ県イズニク郡に属する都市。アナトリア半島北西部のイズニク湖西岸に位置する。1997年の統計で人口約18,600人の地方都市だが、古代の大都市ニカイアの後身であり、旧市街地区を取り囲む城壁をはじめ、古代ローマ時代以来の遺跡が数多く残る。1333年にイズニク最初のモスクとして建設されたハジュ・オズベク・モスクは、オスマン帝国のもとで建設されたモスクの中でも現存最古と言われる。

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メルスィン
Mersinは、トルコのメルスィン県の都市である。トルコ南部に位置し、地中海に面した活気のある港湾都市である。ローマ帝国の時代、この地域はタルススを都とするキリキアの一部であった。メルスィンはキリキアの主要港であった。

バルトゥン
Bartınは、トルコ北部の都市でバルトゥン県の県都である。1991年に同県が設立されるまでは、ゾングルダク県に属した。市街の歴史はカスカ人が到来した紀元前1200年ごろにまでさかのぼる。以降ヒッタイト、フリギア、キンメリア、リディア、ペルシア、マケドニアの支配を受けた。

サフランボル
Safranboluはトルコにある街である。サフランボルの名前の由来は、香料サフランの集積地として発展した歴史にある。

イズミル
(Izmir)はエーゲ海に面するトルコの都市。北大西洋条約機構(NATO)の司令部が置かれている。その美しさは「エーゲ海の真珠」と称えられる。付近にはエフェソス、ベルガマ(ペルガモン)、などの古代遺跡もあり、多くの観光客を集める。

エディルネ
トルコの最西端、ヨーロッパ側の東トラキア地方の国境地帯に横たわるエディルネ県の県都で、市街中心部からギリシャ国境まで5km、ブルガリア国境まで10kmの国境の町である。2000年の人口は約12万人。エディルネにはローマ帝国時代の遺跡はほとんど残っていない。わずかに市街に埋もれて東ローマ時代の城壁のごく一部と、「マケドニア人の塔」と呼ばれる物見塔が残っているだけである。オスマン帝国時代の建造物の中でもっとも有名なものは、町の中央部の丘の頂上にあるセリミエ・モスクである。1569年から1575年まで足かけ7年をかけて建設されたこのモスクは、イスタンブルのアヤソフィアを越える直径31.5mの大ドームを持ち、大建築家ミマール・スィナンの最高傑作として名高い。

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エスキシェヒール
トルコ北西部に位置する町でエスキシェヒル県の県庁所在地である。2000年の調査では人口は482,793人。ポルスック川が流れ、海面からの高度は790mで肥沃なフリギアの谷が見下ろせる。近くの丘にはいくつか温泉がある。エスキシェヒールはフリギア人によって紀元前1000年に作られ、町の名はトルコ語で古い町という意味である。考古学博物館にはフリギアの古器物や彫刻が多く残されている。

マルディン
(Mardin)はトルコ共和国南東部のシリア国境部の都市である。マルディン県の県都であり、アラブ式の建築からなる古い町並みと、北シリアの平原を見下ろす岩山の上にあるという戦略上の要地であることで知られる。3世紀にマルディンを開いた住民はシリア正教会のキリスト教徒たちであった。

トラブゾン
(Trabzon)は黒海沿岸のトルコの都市。トラブゾン県の県都。人口は約15万人。トルコ東北部における経済活動の中心として重要な港湾都市である。飛行場や1963年創設の工科大学がある。紀元前7世紀にギリシア人によって交易都市として建設された。ポントス王国、ローマ帝国の支配下において繁栄する。

スィノプ
トルコ北部のスィノプ県の県都であり、黒海に突き出たスィノプ岬の北端にある町である。もともとスィノプの町は、ヒッタイト人が港として利用していたシヌワ(Sinuwa)という港であった。紀元前7世紀にミレトスからの入植者が、町に作り変え移住してシノーペーとなった。黒海貿易の港としてユーフラテス川上流の谷からの交易ルートが結ばれたため、シノーペーの町は繁栄した。

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ネヴシェヒル
カッパドキア地方最大の都市。街で一番高い丘の上にはセルジュク期の城、ヴィズィエル・ダーマット・アブラハム・パシャのために建てられたクルシュンル・モスクなど、複数の歴史建造物が林立している。カッパドキアとして人々が住み始めるのは、実に紀元前4000年前と言われる。

エルズルム
エルズルム県の県都。人口は約36万人(2000年)。多くの歴史的建造物が残されているほか、ウィンタースポーツも盛んである。2011年における冬季ユニバーシアードの開催地。古来より、黒海とイランを結ぶ交易路の中継地であった。現在もアナトリア半島を横切って、首都アンカラからコーカサス地方に向かう高速道路・鉄道がエルズルムを通過しており、交通・物流の要所として重要な役割を果たしている.1957年にはアタチュルク大学が創設され、学生も多く生活する。11世紀に建てられたウル・ジャミイ(最古のモスク)、12世紀に建てられたチフテ・ミナーレ・メドゥレセスィ(二つの尖塔を有するマドラサ)など、セルジューク朝時代の建造物も残されているほか、16世紀に建てられたララ・ムスタファパシャ・ジャミイもある。

カイセリ
カイセリ県の県都。人口は約54万人。トルコで4番目に高い山であるエルジェス山(3,916m)を近くに臨む。古くは、カッパドキア王国の首都としてマザカ(Mazaka)と呼ばれた。カイセリの名は、ローマ帝国時代にティベリウス帝(紀元後14年-37年)が「皇帝の街」を意味するカエサレア(Caesarea)と名づけたことに由来する。

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エフェソス
トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市である。現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。

クシャダス
トルコ共和国の西部、アイドゥン県にある都市。 かつて高度な文明を築いた古代都市エフェソスの港として繁栄した、小アジア最大の貿易港。今ではエーゲ海に隣接するリゾート地。坂と海の多い景観が美しいとされ、トルコ人にもその他外国人にも観光地として名高い。

ダルヤン
(トルコ語:Dalyan)はトルコ共和国の行政区、ムーラ県(Mugla)に属し、国土の南西部に位置する。泥風呂を楽しめるスルタニエ温泉(Sultaniye Camur Banyosu)や、ダルヤン川クルージングなども楽しめる。また、イズトゥズ・ビーチ(Iztuzu Plaji)と言われるウミガメの産卵地もあり、観光名所となっている。 宿泊施設が多く、ヨーロッパなどから多くの外国人観光客も訪れる。歴史は古く、紀元前4世紀頃に栄えたカリア王国の中心都市として繁栄を遂げた。

ヴァン
Wan) はトルコ共和国東部の都市。人口は280,000人(2001年)。ヴァン県の県都。トルコ共和国で最大の湖であるヴァン湖の東岸に位置する。紀元前9世紀ごろから紀元前6世紀ごろまでウラルトゥ王国の首都としてトゥシパ(Tushpa)と呼ばれていた。その後、アルメニア王国の都市として栄えた。

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サムスン
(Samsun)は、トルコ黒海地方のサムスン県にある都市で、同県の県都。大きな港を持ち、黒海沿岸で最大の工業都市である。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北し、その解体が決定された後、1919年5月19日、ムスタファ・ケマル・アタテュルクがサムスン港に上陸。外部勢力に対する抵抗運動をここから始めていった。

スィヴァス
(Sivas)はトルコ東部の都市。スィヴァス県の県都。人口は約251,776人(2000年)。標高1,275mで、中部アナトリアでもっとも高地にある。ローマ帝国時代から、交易の中継地として重要な都市であった。古くはセバステイア(Sebasteia)と呼ばれた。

デニズリ
Denizli)はトルコ共和国の行政区、デニズリ県の県都で、国土の西側にある。周囲は緑豊かな渓谷に囲まれた肥沃な土地が広がっている。多数の温泉があり、大勢の観光客が訪れるスポットではあるが、近年、温泉資源の枯渇が顕著化してきて、一部の温泉では入浴が制限されている。

ユルギュップ
トルコ共和国の行政区、ネヴシェヒル県(Nevsehir)の南部にあり、国土の中央部に位置する。カッパドキアの観光拠点であり、またトルコの経済的要所でもある。そしてトルコ中部における軍事的拠点でもあり、比較的大きな町である。その為、諸外国の観光客でバーは賑わっている。


チャナッカレ
トルコ共和国の行政区、チャナッカレ県の県都であり、国土の北西に位置する。この県はアジア・ヨーロッパにまたがる県域を持ち、ダーダネルス海峡に隔てられており、海峡交通の要所である。チャナッカレの港からは対岸のヨーロッパへと渡るフェリーが頻繁に運航している。軍事要衝だった名残りで、沿岸には軍事施設跡も見られる。トロイの木馬で有名なトロイ遺跡観光へのアクセス拠点として、観光客で賑わう。

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ディヤルバクル
はトルコ南東部の都市。ティグリス川に臨む。ディヤルバクル県の県都。人口は589,000人(2003年)。ただし、町をとりまくスラムの住民を含めると、人口は100万人を越えると推定される。住民の大半はクルド人。イスタンブルやアンカラと空路で結ばれ、トルコ空軍の基地がある。トルコ内のクルド人の中心的な都市である。古くから交易地として栄えた。古代のアルメニア王国の首都であったころは、ティグラナケルト(Tigranakert)と呼ばれた。

アクサライ
(トルコ語:Aksaray)はトルコ共和国の行政区、アクサライ県の県都で、国土の中央部に属する。アナトリア地方を横断するシルクロードの重要な中継地として数世紀に渡り栄えた。

ベルガマ
(トルコ語:Bergama)はトルコ共和国の行政区、イズミル県(Izmir)の北部にあり、国土の西側に位置する。かつてはペルガモンと呼ばれた。アレクサンダー大王の死後、引き継いだフィレタイロスが築いたペルガモン王国の都、アクロポリス遺跡は有名な観光名所で、ベルガマの街並みを一望出来る。他にも、大劇場やトラヤヌス神殿など、ローマ時代の歴史的建造物が立ち並ぶ遺跡群は、観光地として大人気である。1860年代、ドイツの建築家カール・フーマンにより遺跡群は発見され、出土品の多くはベルリンのペルガモン博物館に収められている。

アドゥヤマン
Aduyamanはトルコ共和国の東部、南東アナトリア地方のアドゥヤマン県にある都市で、同県の県都。トルコで最も人口増加の著しい都市。1990年の人口は100,045人であったが、2009年には198,433人に増加した。

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カルス
(Kars)はトルコ北東部の都市。カルス県の県都。人口は約78,000人。アルメニアとの国境から45km。9世紀末から10世紀にかけてアルメニア王国の首都として栄えた。セルジューク朝の占領の後、13世紀にはモンゴル人に、1387年にはティムールに破壊される。

マラティヤ
Malatyaはトルコ中部東アナトリア地方の都市で、マラティヤ県の県都。ユーフラテス川上流部の西岸に広がる標高950mの平原上に位置するアナトリア高原の古都で、ヒッタイト帝国以来の歴史を持つ。

カスタモヌ
Kastamonuは、トルコの都市で、カスタモヌ県の県都。この都市は紀元前18世紀に建設されたと信じられている。ローマ時代はティモニオン(Timonion)として知られていた。県内のタシュケプリにローマ人はパフラゴニアを築き、現代でもニンニクの生産で知られている。

コンマゲネ
現在のトルコ共和国の南東部、シリアとの国境沿いの古代アルメニアの地名である。一時期は「コンマゲネ王国」として独立し、首都をユーフラテス川沿いのサモサタに置き、現在でも繁栄の跡をネムルト山にある「ネムルト・ダウ遺跡」として見ることが出来る。

アフィヨンカラヒサール
Afyonkarahisarは、トルコ共和国の西部、エーゲ海地方のアフィヨンカラヒサール県にある都市で、同県の県都。首都アンカラの南西250kmの内陸部に位置している。ヒッタイトの時代に、街はHapanuwaの名前で知られていた。フリギア人、リディア人、ペルシア人による支配を受けた後、アレキサンダー大王に征服された。

アマスィヤ
Amasya、は、トルコ北部のアマスィヤ県の県都であり、古代はアマセイア(ラテン語:Amaseia、と呼ばれた。面積は1,730 km2、人口は133,000人で、このうちアマスィヤ市街には74,000人が住み、残りは郊外の集落に居住している。町の海抜は411m。

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アンタルヤ
(Antalya)はトルコ南西部アンタルヤ県の県都。地中海に面し、山に囲まれて切り立った海岸線を持つ。この地にいつから人々が定住したのかは定かではないが、ペルガモン王国のアッタロス2世がその強大な海軍の基地として紀元前150年にこの地を選びアッタリアと名づけた、と信じられている。


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ベレン・サートゥ
Beren Saat, 1984年2月26日 - は、トルコ共和国の女優。トルコ共和国のテレビシリーズ『禁じられた恋』のヒロインとして有名であり、このテレビシリーズは国際的に放送されている。トルコ共和国の首都であるアンカラにて生まれた。サートゥは、私立法人であるTEDアンカラ・カレッジ付属高校を卒業後、 アンカラにある私立バシェケネト大学に入学して経営管理を学んだ。サートゥは、大学在学中よりテレビ局の人気オーディション番組のコンテストに参加した。その後、幾つかのテレビコマーシャルに出演。

イディル・ビレット
Idil Biret, 1941年11月21日 アンカラ - はトルコのピアニスト(女性)。ロマン派音楽と現代音楽を得意としている。ナディア・ブーランジェとアルフレッド・コルトーに学んだミトハト・フェンメンに5歳で入門してピアノを始める。7歳のとき、トルコ議会が特別法を通過させたおかげで、幼くして留学が可能となり、パリ音楽院に入学してブーランジェらの指導を受ける一方、ブラームスなどの作曲家を、マドレーヌ・ド・ヴァルマレットから教わる。15歳のとき3つの部門で受賞して卒業すると、コルトーやヴィルヘルム・ケンプに師事してさらに研鑚を積んだ。

ファジル・サイ
Fazil Say, 1970年1月14日 - は、トルコ出身のピアニスト兼作曲家。日本では「鬼才! 天才! ファジル・サイ!」のキャッチコピーで知られ、アニメーション映画の劇伴作曲も手掛けた。トルコ語の発音は、「ファズル・サイ」の方が近い。アンカラ生まれ。父は小説家。音楽とは無関係の家庭に育ったが、アンカラ国立音楽学院でピアノと作曲を学ぶ。17歳で奨学金を得て、デュッセルドルフのシューマン音楽院に留学。デイヴィッド・レヴァインに師事した。1992年から1995年までベルリン音楽院で学び、1994年にニューヨーク・ヤング・コンサート・アーティスト国際オーディションで優勝し、国際的な演奏活動をスタートした。

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ユルマズ・ギュネイ
Yulmaz Guney, 1937年 - 1984年はトルコ出身の映画監督・脚本家・俳優である。アダナ近郊の生まれ。クルド人。大学卒業後に俳優となったが、作家でもあった彼の小説が反社会的だとしてトルコ当局によって投獄された。出獄後に俳優業を再開し、二枚目俳優として非常に多くのトルコ映画に出演した。1970年より自分のプロダクション会社から監督作品を発表しはじめたが、トルコ政府によって上映禁止となった。その後も何度も投獄され、獄中から代理監督をたてて何本もの映画を製作した。1982年の「路」でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。この映画は獄中から監督した映画の一本で、撮影後、仮出所の際に脱走してフランスで映画を仕上げたという。

アレック・イシゴニス
Sir Alexander Arnold Constantine Issigonis、1906年11月18日-1988年10月2日はギリシア系イギリス人の自動車技術者である。特にBMCが1959年に発売した革命的な小型大衆車・Miniの設計者として今日でも記憶されている。旧オスマン帝国領内のギリシア人コミュニティで生まれた。祖父のDemosthenis Issigonisは1830年代にこの地に移民としてやってきて、イギリス政府によるトルコ国営鉄道の建設工事に従事、その功績で英国国籍を取得、アレックの父に当たる1872年生まれのコンスタンティンは英国で教育を受け、ドイツ系のHulda Prokoppと結婚した。1922年、コンスタンティン一家は希土戦争勃発を前に故郷から避難、コンスタンティンは同年死去したが、母のHuldaと息子のアレクサンダー(アレック)は翌1923年からイギリスに定住した。彼はサリー大学Battersea Polytechnicで技術を学んだが数学のテストに三度も落第、以後彼は数学を「すべての創造的な天才達の敵」と呼んで毛嫌いした。956年末、第二次中東戦争(スエズ動乱)が勃発、イギリス国内ではガソリンが欠乏して配給制度が布かれた。レオナード・ロード卿はイシゴニスにXC/9003の開発を最優先にするよう命じた。9003のプロトタイプは1957年初頭に完成、1959年8月に「モーリス・ミニ・マイナー」「オースチン・セヴン」として市販化された。これがイシゴニスの代表作となったMini(BMC・ADO15)である。

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ミマール・スィナン
Koca Mimar Sinan 1489年4月15日? − 1588年7月17日(4月9日説あり)は、オスマン帝国の建築家。トルコ最高の建築家とされ、生涯で建築作品は477以上といわれる。彼の名に冠される「ミマール(ミーマール)」とは、「建築家」を意味する。彼の作品は多岐にわたるが、特にモスクの建設において、大ドームを発展させるとともに、鉛筆型の細長いミナレットを特色とする、オスマン建築特有の様式を完成させたとされる。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
(Mustafa Kemal Ataturk, 1881年3月12日 - 1938年11月10日)は、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。ムスタファ・ケマルは、父の希望で、シャブタイ派カパンジュ分派に属するシェムスィ・エフェンディが開校し西洋式教育を実施していた学校 (Semsi Efendi Mektebi)に進んだが、父が死亡したため、家族で叔父の許に身を寄せた。サロニカ幼年兵学校では、フランス語教官メフメド・ナーキ (Naki Yucekok)、モナスティル少年兵学校 (Monastir Military High School)では、歴史教官メフメド・テヴフィク (Mehmet Tevfik Bilge)らの影響を受けた。

ハリデ・エディプ・アドゥヴァル
Halide Edip Aduvar、1884年1月7日 - 1964年1月9日は、トルコの作家。トルコ・ナショナリズムに傾倒し、トルコ革命には兵士として参加した。ハリデ・エディブは、イスタンブルの廷臣の子として生まれた。アメリカ系のミッションスクールであるロバート大学で、アラビア語と数学を学び、1901年に卒業した。1908年の青年トルコ人革命の翌年に最初の作品を発表し、統一と進歩委員会機関誌[2]をはじめとした雑誌や新聞に小説を投稿するかたわら、各地の学校で教鞭をとった。最初の結婚で、2児をもうけたのち離婚、1912年にアドナン・アドゥヴァル(アドナン博士)と結婚、この頃から、さらに民族運動に対し活動的になっていった。

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オルハン・パムク
Orhan Pamuk, 1952年6月7日 - はトルコの作家。コロンビア大学教授(比較文学)(2006年〜現在)。イスタンブル生まれ。イスタンブル大学ジャーナリズム学科卒業。アルメニア人虐殺に関し、2005年の外国メディアとのインタビューにおいて、100万人のアルメニア人が殺害されたことをトルコ政府は認めるべきと発言したためにトルコ国内に猛烈な反発を招き、一時は国家侮辱罪で起訴される騒動も起きた。

ジェマル・ギュルセル
(Cemal Gursel, 1895年10月13日‐1966年9月14日)は、トルコの軍人、政治家。1960年に軍部のクーデターで政権を掌握し、第4代大統領に就任した(‐1966年)。オスマン帝国軍人の家庭にエルズルムで生まれる。オルドゥの小学校を卒業後、エルズィンジャン幼年兵学校 (中学校)、帝都イスタンブルのクレリ少年兵学校 (高等学校)、陸軍士官学校に進んだ。早くから「ジェマル・アー(ジェマル兄貴/親分)」とあだ名された親分肌の人物だった。

ジャラール・ウッディーン・ルーミー
1207年9月30日 - 1273年12月17日)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。同時代のスーフィー・イブン・アル=アラビーと並ぶ、イスラーム神学、スーフィズムの重要な人物の一人と見なされている。「沈黙」を意味するハムーシュを雅号とした。

エヴリヤ・チェレビ
Evliya Celebi )(1611年3月25日(?) − 1682年)はオスマン帝国時代の大旅行家。エヴリヤ・チェレビは1611年にコンスタンティノープルで生まれた。彼の一家はキュタヒヤ出身で、父親はオスマン帝国の宮廷に仕える宝石商だった。エヴリヤ・チェレビは恵まれた教育を受けて育ち、チェレビはスーフィズムの教団に加入したとも言われる。

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ナーズム・ヒクメット
Nazim Hikmet, 1901年/1902年 - 1963年6月3日)は、トルコ出身の詩人、劇作家、共産主義者、革命運動家。13歳から詩作を始める。ギョズテペの模範学校 (タシュ・メクテプとして知られる)で初等教育を修了し、メクテビ・スルターニ (現ガラタサライ高校)に登録した。アンカラとチャンクルの刑務所で過ごした後、1940年12月から1950年7月15日に釈放されるまでブルサ刑務所に収監された。トルコ政府はナーズムの作品を発禁処分とする。以後、獄中での詩作に専念し、叙事詩『人類のパノラマ』 、戯曲『愛の伝説』などを手がける(いずれも刊行は後年)。

ヤシャル・ケマル
(Yasar Kemal, 1923年 - )はトルコの作家。オスマニエ県のギョクチェダム村に生まれる。父親が犠牲祭のため羊を屠殺していた時、刃物による事故のため右目を失明した。加えて5歳の時、モスクでの礼拝中、養子のユスフに父が刺殺された事件が起こり、その証言をしなければならなかった。これらの経験から吃音を発症し12歳になる頃まで治らなかった。1955年に出版した『メメド、我が鷹』で国際的な名声を獲得した。この作品では、社会の構造を、アガーに追われて山に逃げ込んだ主人公である伝説的な英雄を通じて批評した。

ハカン・シュキュル
1971年9月1日 - )は、トルコ出身の元サッカー選手。フォワード。一般的な愛称は「ボスポラスの雄牛」だが、ガラタサライのサポーターからは王を意味する「クラル」(Kral)と呼ばれる。トルコ代表最多得点記録保持者(51得点)。トルコ代表として、1992年3月、親善試合のルクセンブルク代表戦でA代表デビューを果たした。デンマーク代表戦で初ゴールを記録した。

イルハン・マンスズ
(İlhan Mansız、1975年8月10日-) は、トルコのフィギュアスケートペア選手、元サッカー選手。ポジションはフォワード。ドイツのバイエルン州ケンプテンで、クリミア・タタール系トルコ人の出稼ぎ労働者の両親の間に生まれ、トルコ国籍のドイツ移民2世としてドイツで育った。トルコ代表選手としては2001年10月のワールドカップ予選で初出場した。翌2002年のワールドカップ日本-韓国大会では、控え選手ながら準々決勝の対セネガル戦の延長戦で出場、決勝点となるゴールデンゴールを決めるなど、このチームの最多となる合計3得点を挙げ、トルコの3位躍進に貢献した。

 

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