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クウェート国
State of Kuwait

アジア

アラビア半島
アジアとアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島であり、半島としては世界最大である。紅海、アカバ湾、アラビア海、アデン湾、ペルシア湾、オマーン湾等に囲まれており、北の付け根はイラクとヨルダンにあたる。半島の南東方面にはルブアルハリ砂漠が広がっている。政治的には、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、オマーン王国、イエメン共和国に分かれており、カタールとサウジアラビアの沖にバーレーンがある。

ペルシア湾
イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンに囲まれた細長い形状の湾。面積はおよそ240,000平方キロメートルで、長さ約1千キロメートル。平均水深50メートル、最大90メートル。ホルムズ海峡を通じ、オマーン湾そしてアラビア海へと繋がっている。20世紀初頭までは、真珠採集などが盛んであった。20世紀前半にこの地域で石油が発見され、さらに大量産出地でもあることも判明した。20世紀後半には、油田開発が活発に行われ、湾内には多くの油井が存在する。

ファイラカ島
ペルシャ湾に位置するクウェートの島である。地方区分はアシマ県ファイラカに属し、クウェートシティから約20kmに位置する。クウェート有数の避暑地として国内外に人気がある。1950年代の遺跡調査で古代ギリシャ文化が確認され、文化観光地としての開発も行われている。ファイラカ(Failaka)は、古代ギリシャ語で「辺境地」を意味するファイラキオ("fylakio")に由来する。

ブビヤン島
クウェートジャハラ県に位置する島である。クウェートの北東部に位置し、クウェート最大の島である。本土とは鉄橋で結ばれている。1991年の湾岸戦争時、アメリカの空爆により破壊されたがその後再建されている。

アラビア海
インド洋北西部の海域で、アラビア半島とインドとの間にある海。最大深度はおよそ5,000メートルである。主な注ぎ込む川はインダス川がある。その北側にはオマーン湾があり、ホルムズ海峡を通じてペルシャ湾に繋がっている。西側にはアデン湾がある。

紅海
アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。長さ2250km、幅最大355km、面積438,000km2、平均水深491m、最深部2211m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6%〜3.8%と高い。北部にはシナイ半島があり、チラン海峡を通じてアカバ湾と繋がっている。また、北西部にはスエズ湾があり、スエズ湾はスエズ運河を経て地中海と繋がっている。


ブルガン油田
Burgan Fieldとは、1938年に確認されたクウェート南部にある確認原油埋蔵量約600億バレルを持つ、世界第2位の規模の油田である。商業生産の開始は1946年。発見当時その途方も無い巨大さから世界の原油市況に影響を与えるのを恐れて大きさに関する情報が一時伏せられたといわれる。この油田の発見によってクウェートは第二次世界大戦後しばらくは世界最大の原油埋蔵量を誇っていた。


■地勢
ケッペンの気候区分では、国土のほぼ全てが砂漠気候 (BW) であり、山地・丘陵などはなく、平地である。島嶼は9つあり、最大のブビヤン島は、本土と橋で結ばれている。夏季の4 - 10月は厳しい暑さとなり、さらにほとんど降水もないため、焼け付くような天気と猛烈な砂嵐が続く。だが冬季の12月から3月は気温も下がり快適な気候となるため、避寒地として有名である。ただ、時折雷を伴った激しい雨が降り、道路の冠水が見られることもある。


ケッペンの気候区分
ドイツの気候学者ウラジミール・ペーター・ケッペン(Wladimir Peter Koppen)が、植生分布に注目して1923年に考案した気候区分である。1884年に発表した論文では、季節ごとの温度分布を測定点ごとに示した単純なものだった。1900年に気候区分を拡張、1918年に今日知られている区分とほぼ同じ区分を公表した。この時点ではAからEまでの気候区分が定められていた。1936年に最後の論文を公表した。現在は、トレワーサーなどによりH(高山気候)を追加するなどの補正が加わっている。


<歴史>
■16世紀頃より
現クウェート領域はオスマン帝国の支配下にあり、統治拠点はバスラにあった。18世紀に入ると、当地にサバーハ家 (Al-Sabah) が勃興し、1756年その首長がオスマン帝国の下で当地域の統治を担うようになる。
■1783年
リッカの戦いと呼ばれるものが起きている。バニー・カアブと呼ばれるアラブ系の一族と戦って勝利した戦いである。バニー・カアブが攻撃を行った理由は諸説ある。今日のクウェートの君主と国民の祖形として国史の重要な位置を占める。ちなみにリッカとは地名で現在のファイラカ島とブビヤン島の中間の浅瀬にある。
■19世紀
オスマン帝国は支配の綻びを繕うために当地へ軍事介入を繰り返し、その結果1871年にバスラ州の一部となった。1899年サバーハ家のムバラク大首長は中東の植民地化を図っていたイギリスへ寝返り、イギリスの影響下に入り当地域を統治した。
■1990年
イラクにより一時併合されたが、国連において非難決議が出され、この占領状態は1991年の湾岸戦争により終結した。
■1930年代初頭
天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にあった。 それは当時、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功、これによって日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐したことがその主たる理由である。
■アフマド首長とクウェート政府は、新しい収入源を探すため
石油利権をアメリカメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシャ石油の設立した50/50合弁会社『クウェート石油』に付与した。クウェート石油は1938年2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。


オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。


レンティア国家
Rentier state とは、直訳すると「不労所得国家」を意味している。レンティア国家仮説にて紹介される国家である。もちろん、労働が存在しない国などないからこれは比喩表現である。レンティア国家とは、レント収入(石油輸出収入)に依存する国家のことを指している。ただし、レント収入は、厳密には石油収入に限定するものではない。レント収入とは外生的な収入でなければならない。そのため、石油生産量が多くてもアメリカ合衆国などは、レンティア国家ではない。


アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビヤ人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。

アラビア語
おもに西アジア(中東)・北アフリカのアラブ諸国で用いられ、世界の言語の中でも大変広い地域で話されている言語の一つ。また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語である。イスラム教のクルアーンはアッラーが人類に与えたオリジナルであるアラビア語原典から他言語への翻訳が禁じられている。クルアーンの勉強や暗誦は敬虔なイスラム教徒の義務とされ、クルアーンを学ぶためには必然的にアラビア語を読めなくてはならず、アフリカから東南ヨーロッパ、インド、東南アジアにかけてのイスラム世界では、アラビア語が知識人層の共通語として通用している。

イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。ユダヤ教やキリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なる唯一神教で、偶像崇拝[1]を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。

スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。

シーア派
イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

クウェート Kuwait
立憲君主制で中東・西アジアの国家。首都はクウェート。1990年にイラクに一時占領された(湾岸危機)。石油が主要産業であり、世界第4位の埋蔵量がある。そのため、レンティア国家の一つに数えられる。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、1994年に戦前の水準まで回復し、現在一人当たりのGDPは世界有数。

クウェート
Kuwait Cityは、クウェートの首都で、アシマ県の県都である。1990年の湾岸戦争のときにはイラク軍が市内に侵攻し、イラクの占領時には当時のイラクの指導者だったサッダーム・フセイン大統領にちなんでサッダームシティーと改称された。イラク軍撤退後には、もとの名前に戻された。


クウェート国際空
クウェートアシマ県クウェートシティーにある国際空港である。クウェートシティーの中心部から南へ16kmに位置する。クウェート航空の本拠地ハブ空港である。年間約600万人の乗降客を扱い、現在、2007年末に完成予定の新ターミナル建設を含む拡張工事を行っている。


外務省:クウェート国
在クウェート日本国大使館


解放タワー
Liberation Towerは、クウェートで最も高い建造物である。1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻(湾岸戦争)よりも前から建築が始まっていて、「クウェート・テレコミュニケーションズ・タワー」と名付けられることになっていた。タワーには、回転レストランと展望台(下にある円盤状の構造物。現在は保安上の理由で公開されていない)があり、無線などの通信施設も収められている。最頂部までの高さは372メートル(1,220フィート)で、下から2番目の構造物の屋根は高さが308メートル(1,010フィート)である。

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サバーハ家
サバーハ家(Al-Sabah)は、クウェートの首長家。18世紀より現在まで、クウェートのアミール(首長)を輩出している。もともとはバーレーンのハリーファ家同様にオナイザ族バニー=ウバイド氏族に属し、中央アラビアのダルイーヤにいたが、同じオナイザ族のサウード家に追われてクウェートに移住。18世紀に、オスマン帝国との交渉役としてクウェート商人の互選でサバーハ家が選ばれ、首長となった。


湾岸戦争
Gulf Warは、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したのを機に、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事に始まった戦争。1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始める。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、対イラク経済制裁措置を発表した。その6ヶ月後、ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成された。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍には、サウジアラビア、イギリス、エジプトが順に参加した。


■国民
住民は、アラブ人(クウェート人)が45%、アラブ人(クウェート以外の地域)が35%、南アジア系(印僑)が9%、イラン人が4%、その他が7%である。ビドゥーン(en:Bedoun)と呼ばれる多くの無国籍の人々がいる。

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■言語
アラビア語が公用語だが、英語も広く使われている。

■宗教
イスラム教が85%(内訳:スンナ派70%、シーア派30%)と最も多い。その他15%は、キリスト教、ヒンドゥー教などである。


1.面積:17,818平方キロメートル(四国とほぼ同じ)
2.人口:344万人(内クウェート人109万人(全体の約32%))(2008年末)
3.首都:クウェート
4.民族:アラブ人
5.言語:アラビア語
6.宗教:イスラム教
7.国祭日:2月25日(第11代アブダッラー首長即位(1950年)記念日)

8.略史:16世紀にヨーロッパ列強が湾岸地域へ進出するようになりクウェートの存在が知られるようになった。18世紀アラビア半島中央部から移住した部族がクウェートの基礎をつくった。1899年英国の保護国となる。1938年に大油田が発見され、1961年6月19日英国から独立。

■主要産業:石油 原油確認埋蔵量 1,040億バレル(2009年1月)、世界第5位可採年数 105年
石油生産量 270万B/D(2008年)
(旧中立地帯埋蔵・生産量の2分の1を含む)(米エネルギー情報局)
■主要貿易品目(1)輸出 石油、石油製品(2)輸入 車両、電気機器、機械類

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■政治
憲法によって立憲君主制を取っているが、首相以下、内閣の要職はサバーハ家によって占められており、実態は一族独裁による事実上の絶対君主制である。憲法に基づき首長(立憲君主制)、国民議会、内閣の三者を中心とした統治形態が取られているが、首長が議会を解散できる・首相を任免できるなど権限が強化されているため、これも建国当初から有名無実化している。言論・表現の自由も存在しない。2011年6月には、クウェート大学教授を父親に持つエジプト人の児童が小学校で、教師に「どうして先生の国では革命が起きないの?」と質問しただけで民主化要求デモ煽動の廉により停学処分となっている。


■経済
石油が主要産業であり、世界第4位の埋蔵量がある。そのため、レンティア国家の一つに数えられる。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、1994年に戦前の水準まで回復し、現在一人当たりのGDPは世界有数。原油価格の高騰による豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員として働いている。石油収入を利用した金融立国や産業の多角化を目指して外国からの投融資環境を整備したため莫大な雇用が創出され、不足している労働力は周辺外国人が補っている。また、このような砂漠気候では農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している。失業率は1.2%と低水準。将来的には石油の枯渇が懸念されるが当面は高い生産量を維持可能であると予想されている。


クウェート・ディナール
クウェート・ディナールは1961年、湾岸ルピーにかわって導入された通貨である。1990年にはイラク軍のクウェート侵攻に伴い、国の通貨がクウェート・ディナールからイラク・ディナールへと変更され、また相当量のクウェート・ディナール紙幣がイラク軍に略奪されたが、湾岸戦争が終結すると通貨は再びクウェート・ディナールへ戻され、略奪された版を含む過去の紙幣を廃止、新たな紙幣が発行された。

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サバーハ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ
1929年6月6日 - は、第15代クウェート首長。日本の報道機関ではシェイク・タバハ・アル・アフマド・アル・ジャービル・アル・タバハと表記される。父は第10代クウェート首長のアフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ。なお、歴代首長にサバーハという名前の人物が過去に3名いるのでサバーハ4世とも呼ばれる。

アフマド=ビン=ジャービル・アッ=サバーハ
(Ahmad Al-Jaber Al-Sabah、1885年 - 1950年1月29日)はクウェート第10代目首長(在位:1921年-1950年)でサバーハ家当主。父は第8代目首長のジャービル2世。兄弟はアブドゥッラー=ビン=ジャービル。1921年にサウジアラビアのイブン・サウードがラシード家を滅ぼし、他方イギリスがアラブ反乱のシリア戦線で活躍し、フランスによりシリアを追われたファイサル1世をイラク王にして委任統治下の保護国としてイラク王国を建国し、両国が国境を接することになる。このために1922年にクウェート代表としてクウェート駐在政務官ムーア少佐がハサ地方オカイールにおいてサウジアラビアのイブン・サウードやメソポタミア駐在高等弁務官パーシー・コックス、イラク政府代表サディク・ベイらとの国境画定会談を行い、クウェートの国境及びサウジアラビアとの間に中立地帯を設定することが決定する。国境が画定したことで先代で悪化したサウジアラビアとは関係が修復し、国境を接する2国との関係は一応決着した。

ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ
Mubarak bin Sabah Al-Sabah、1837年 - 1915年11月28日はクウェートの首長(在位1896年 - 1915年)で、サバーハ家の第7代目当主。クウェートをオスマン帝国の1州の一部からイギリス保護下の国家に押し上げ、大首長の称号を得る。ムバラク1世、ムバラク大王とも。兄との不和が理由で、インドのボンベイに移住していたが、1896年初め頃に、インドのボンベイからクウェートに戻る。兄で犬猿の仲であったムハンマドは警戒して宮廷にムバーラクを入らせずに、ムバーラクはクウェート市内で生活をする。当時の市民はムバーラクに同情したという。同年5月、兄に公衆の面前で侮辱されたのを機会に、クーデターを起こしてムハンマドともう一人の兄ジャッラーハを殺害して首長に就任した。

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