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日本国
Japan

アジア

日本の領土はすべて島から成っている。6852の島(本土5島+離島6847島)から成る島国である。アジア・東アジアの中でも特に東方にあり、ユーラシアの東端にあたるため、欧米から極東・東洋などとも呼ばれる。全体的に弓形状であり、全面積は約37.8万km2(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第61位である。

縄文時代
約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。

弥生時代
北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前3世紀中頃(ただしこの年代には異論もある)から紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称である。具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。

古墳時代
日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。現在のところ一般的には、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。

飛鳥時代
日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指し、草創期は古墳時代の終末期と重なる。狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。

奈良時代
広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。狭義では、同じく710年から、784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。

平安時代
794年-1185年/1192年頃は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。

鎌倉時代
1185年頃-1333年は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。

室町時代
広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が1336年(北朝:建武3年、南朝:延元元年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから、15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間を指す。しかし、建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分して、南北朝合一(1392年)から応仁の乱勃発または明応の政変までの約75〜100年間を狭義の室町時代と区分する場合も多い。

安土桃山時代
織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城であった伏見城(桃山)から、このように呼ばれる。安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が倒された元亀4年(1573年)、安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。

江戸時代
慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間を指す。

明治
1868年1月25日(明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指して、江戸を東京と改め、天皇が東京に行幸してここを日本の新しい政治の中心に据えた(東京奠都)。この明治天皇の治世が明治時代と呼ばれている。

大正
明治と昭和の間にある日本の元号。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。大正天皇の治世を指している。日本の歴史上の時代区分で、日本近代史で、年号によって時代区分された大正時代は学術上は絶対的に認められた時代ではないが、大正時代は(年数で15年間・期間は14年間)で日本史で一番短い時代である。

昭和
昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで。急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。


<世界遺産>
法隆寺地域の仏教建造物
法隆寺をはじめとするこの地域の仏教建築物は聖徳太子と縁が深く、中国の六朝時代の建築の影響を多大に受けている。

姫路城
姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山に築かれた平山城である。日本における近世城郭の代表的な遺構である。

■古都京都の文化財
●賀茂別雷神社(上賀茂神社)●賀茂別雷神社(上賀茂神社)●賀茂御祖神社(下鴨神社)●教王護国寺(東寺)●清水寺●延暦寺●醍醐寺●仁和寺●平等院●宇治上神社●高山寺●西芳寺(苔寺)●天龍寺●鹿苑寺(金閣寺)●慈照寺(銀閣寺)●龍安寺●西本願寺●二条城●賀茂御祖神社(下鴨神社)●教王護国寺(東寺)●清水寺●延暦寺●醍醐寺●仁和寺●平等院●宇治上神社●高山寺●西芳寺(苔寺)●天龍寺●鹿苑寺(金閣寺)●慈照寺(銀閣寺)●龍安寺●西本願寺●二条城

屋久島
鹿児島県の大隅半島南南西約60kmの海上に位置する島。熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。面積504.88km2。円形に近い五角形をしている。豊かで美しい自然が残されており、島の中央部の宮之浦岳を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47km2がユネスコの世界自然遺産に登録されている。本島においての発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、屋久島電工と九州電力を含めた4事業者が分担して供給しており、日本では唯一の発送電分離の形式をとっている。

白神山地
青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がる山地で、人の手が加えられていないブナの原生林からなる地域である。世界遺産地域は、中央部の核心地域と、周辺の緩衝地域に分かれ、これらの地域は世界遺産登録時より開発を行わず、現状のまま保護されることになっている。従って、これらの地域には遺産登録以前からあった登山道以外には道はなく、今後も恒久的に整備されない予定である。

古都京都の文化財/京都市、宇治市、大津市

白川郷・五箇山の合掌造り集落
この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ確認できるが、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。

原爆ドーム
原爆ドーム(げんばくドーム、英: Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英: Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)である。

厳島神社
厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。

古都奈良の文化財
●東大寺●東大寺●正倉院●興福寺●春日大社●元興寺●薬師寺●唐招提寺●平城宮跡●春日山原始林正倉院●興福寺●春日大社●元興寺●薬師寺●唐招提寺●平城宮跡●春日山原始林

日光の社寺
栃木県日光市にある寺院などから構成されるユネスコの世界遺産である。従来、建造物については国宝や重要文化財に指定され、保護が図られている山内地区であったが、面的な保護策は講じられていなかった。そこで、文化庁、栃木県教育委員会、専門家、学識経験者が協議し、二社一寺をはじめとする土地所有者、土地占有者ならびに関係者等の協力を得て日光山内50.8ヘクタールが文化財保護法にもとづく史跡指定を受けた。

琉球王国のグスク及び関連遺産群
沖縄本島南部を中心に点在するグスクなどの琉球王国の史跡群から構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)である。2000年に日本で11件目の世界遺産として登録された。

厳島神社
厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされてきたとされている。推古天皇元年(593年)、土地の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。

紀伊山地の霊場と参詣道
和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録された。遺産本体部分やその緩衝地帯、さらには(世界遺産には含まれないが)その周辺地域での損壊が絶えない。特に、参詣道跡である熊野古道周辺でそれが著しい。また、世界遺産登録後、観光客の殺到によって一部の遺産では荒廃が進んでいるとの指摘もある。

石見銀山遺跡とその文化的景観
島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。当時世界の銀の3割を産出したと推定される。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。

平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群
岩手県南西部にある古くからの地名であり、現在の平泉町の中心部にあたる。この地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の名で、2011年(平成23年)6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された。

知床
北海道の東端にあるオホーツク海に面した知床半島と、その沿岸海域が登録の対象となっている。半島中央部は、千島火山帯が貫き、海岸線は荒く海に削られた地域である。冬には世界で最も南端に接岸する流氷が訪れる。この流氷により大量のプランクトンが、サケなどの豊富な魚介類が生息する。サケは秋に知床の河川を遡上し、ヒグマやオジロワシなどに捕食される。これらの動物の排泄物および死骸は、植物の栄養素として陸地に還元される。

小笠原諸島
父島、母島、硫黄島、南鳥島以外の島は無人島である。その内、一般住民が居住しているのは父島と母島のみであり、硫黄島には自衛隊、南鳥島には自衛隊・気象庁・海上保安庁の施設があり、その職員等のみが業務目的で常駐している。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。


アイヌの歴史
アイヌは形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられている。アイヌとはアイヌ自らの固有の言語であるアイヌ語で「人間」を意味する。文字文化を採用しなかったアイヌには、自ら記した歴史記録がない。現代まで、正式に記録が残っている物は和人の視点からの物が殆どである。アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。

■現在のアイヌ
北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてコタンが存在する。2006年の調査によると、北海道内に23,782人となっており、支庁別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。しかしながら、調査に応じた人口のみのため、実際には調査結果よりもはるかに多くのアイヌ人口が見積られる。1971年当時で道内に77,000人という調査結果もある。北海道外に在住するアイヌも多いが、ほとんど実態調査は行われておらず、1988年の調査において東京在住のアイヌ推計人口が2,700人と見積もられているものが唯一かつ最も新しい公式の調査である。

アイヌ語
Aynu itak、アイヌ語仮名表記:アイヌ・イタ?)は、日本等に分布するアイヌ民族(アイヌ)の言語。話者はアイヌ民族の主たる居住地域である北海道、樺太、千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。「孤立した言語」とされている。現在アイヌ語を継承しているアイヌ民族の数が極めて少ないため、アイヌ語は近いうちに消滅してしまうことが懸念されている消滅危機言語の一つとなっている。1996年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる人は15人しかいなかった。アイヌ語の話者は非常に少なかったが、言語学者により活発に研究されてきた。金田一京助とその弟子である久保寺逸彦や、アイヌである知里幸恵・知里真志保姉弟らがまず挙げられる。


琉球王国
1429年から1879年にかけて沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、琉球語(琉球方言):ルーチュークク)と称した。最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

琉球民族
琉球民族(りゅうきゅうみんぞく)とは、旧琉球王国の領域であった沖縄県の沖縄諸島と先島諸島、そして鹿児島県奄美群島に住む人々の言語、生活習慣、歴史的経緯から、独自の一民族であると定義した場合、それを指していう。なお、日本国内では、「琉球人」「沖縄人」「奄美人」などの呼称が、たとえば大阪人のように、単純に出身地を表す場合もあるため、琉球民族とかならずしも同義とはいえない。

琉球語
琉球語(りゅうきゅうご)もしくは琉球方言(りゅうきゅうほうげん)とは、日本の沖縄県と鹿児島県奄美群島で用いられる言語である。日本本土の日本語と系統を同じくするものの、口頭では互いに全く通じ合わないほどの違いがあり、日本語とは別の言語と見なす立場と、日本語内部の一方言と見なす立場とがある。琉球語(琉球方言)は、琉球諸島の広がりと、強力な中央語を持たなかった歴史(琉球王国時代、支配層では首里方言が中央語に近い位置にあったが、大衆同士のリングワ・フランカとしてはほとんど使われなかった)から、地域ごとの方言差が本土以上に大きい。


東海林太郎
しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌う、戦前を代表する歌手。声楽を下八川圭祐に師事し音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。

押川清
おしかわ きよし、1881年(明治14年)1月1日 - 1944年(昭和19年)3月18日)は日本のアマチュア野球選手。早稲田大学野球部の三代目主将を務め、日本初のプロ野球チームである「日本運動協会」(芝浦協会)や、「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)、「後楽園イーグルス」などの創設者としても知られる。父は牧師で東北学院創設者でもある押川方義、兄は冒険小説家の押川春浪。

阿部彦吉
あべ ひこきち、1864年 - 1931年は、日本の発明家である。現在の山形市生まれ。18歳で上京し、ある時計店に勤務し、技術体得の後帰郷した。自ら時計店を開業し、そのかたわら電気時計の研究発明に志した。まず単独式電気時計から発電機付きの無電池式電気時計に進み、その後、有電池式連絡時計となって完成を見た。特許は内外12件に及ぶ。

土井武夫
どい たけお、1904年(明治37年)10月31日−1996年(平成8年)12月24日は、日本の航空機設計者。山形県山形市香澄町出身。1927年、東京帝国大学工学部航空学科卒。同期に堀越二郎、木村秀政らがいる。同年、川崎航空機(現川崎重工)に入社。同社がドイツより招聘したリヒャルト・フォークト(Richard Vogt)博士に師事し、九二式戦闘機などの設計に参加する。

藤沢周平
1927年12月26日 - 1997年1月26日は、日本の小説家。山形県鶴岡市出身、本名小菅留治(こすげ とめじ)。山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。父小菅繁蔵、母たきゑの第三子(きょうだいは順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。

丹野清志
1944年2月29日 - は、日本の写真家。福島県福島市生まれ。1964年、東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。農村雑誌『家の光』勤務を経て1970年よりフリーとなる。日本写真家協会会員。散歩写真の第一人者として知られている。

空海
宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。

ピストン堀口
1914年(大正3年)5月7日 - 1950年(昭和25年)10月24日)は、日本の男性プロボクサー。本名:堀口 恒男(ほりぐち つねお)。栃木県真岡市出身。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれた。対戦相手をロープに追い詰めての休まぬ左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれた。その無類のスタミナは、10分間連打でミット打ちを続けてなお息切れ一つしなかったという。堀口の連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる程の人気であった。

宮本武蔵
天正12年(1584年)? - 正保2年5月19日(1645年6月13日))は、新免武蔵藤原玄信のことであり、江戸時代初期の剣豪。兵法者であり、また書画でも優れた作品を残している。『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が記されるなど画家としても武蔵は有名であった。

幸田延
こうだ のぶ、明治3年3月19日(1870年4月19日) - 1946年6月14日)は、ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。東京の幸田家に幸田露伴の妹として生まれる。兄に海軍軍人の郡司成忠、弟に幸田成友、妹に安藤幸がいる。音楽取調掛伝習生を経て、1889年からアメリカ、ドイツ、オーストリアに留学。1895年、帰国し、東京音楽学校教授として山田耕筰、久野久らを育てた。1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、未完)と1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、日本人による初のクラシック音楽作品である。

武満徹
たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。エッセイストとしても知られ、小説を手がけたこともある。1930年10月8日に東京本郷区で生まれ、生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前小学校に入学、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる。

小出裕章
1949年8月29日 - は、日本の工学者(原子力工学)。京都大学原子炉実験所助教。京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻助教。研究分野は原子核物理学、原子力学、環境動態解析、原子力安全、放射性物質の環境動態。所属学会は日本保健物理学会、エントロピー学会。東京都台東区上野出身。工学修士。熊取六人衆の1人。現在所属する京都大学原子炉実験所には反原発の研究者も共存していることについて「ここは基礎的な学問を研究する場であり、東大とは違った、京大の学風や気質である」と述べている。

ファイティング原田
1943年4月5日 - は、日本の元プロボクサー。ラッシングパワーを武器に、世界フライ級・バンタム級の2階級制覇(日本人初)をした名王者。多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。ジョフレは妻と息子を連れて来日した。試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

手塚治虫
1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、医学博士。戦後日本においてストーリー漫画の手法を確立、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。(現在の豊中市)に出生、5歳から兵庫県宝塚に育つ。旧制中学で大戦期を過ごし、大阪帝国大学附属医学専門部[1]在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1963年、自作をもとに日本初となるテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1960年代後半より一時低迷するも、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などにより復活。

芥川龍之介
1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られる。初期より晩年の方を高く評価する見解も示されている。「一塊の土」など、これまでと比べ現代を描くようになるが、台頭するプロレタリア文壇にブルジョア作家と攻撃されることとなる。

原田正純
原田 正純(はらだ まさずみ、1934年9月14日 - 2012年6月11日) は、日本の医師。学位は医学博士。鹿児島県さつま町出身。ラ・サール高校、熊本大学医学部卒業。熊本大学医学部で水俣病を研究、胎児性水俣病も見いだす。水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。 熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴える。1989年、『水俣が映す世界』(日本評論社)で大佛次郎賞を受賞。2001年、吉川英治文化賞受賞。2010年、朝日賞受賞。

緒方貞子
緒方 貞子(おがた さだこ、1927年9月16日 - )は、日本の国際政治学者。学位は博士(政治学、カリフォルニア大学バークレー校)。上智大学名誉教授。独立行政法人国際協力機構理事長、国連人権委員会日本政府代表、国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。1927年9月16日、東京府東京市麻布区(現東京都港区)に外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一・恒子夫妻の長女として生まれる。父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港などで過ごす。

内田五観
内田 五観(うちだ いつみ、文化2年(1805年) - 明治15年(1882年)3月29日)は和算家である。通称は恭または弥太郎、号は宇宙堂。文化12年(1815年)関流宗統五伝の日下誠(号を五瀬(いつせ))の算学塾に入門し、文政5年(1822年)18歳で宗統を譲られる。天保2年(1831年)に蘭学者の高野長英に入門した。天保3年(1832年)『古今算鑑』を著す。天保5年(1864年)富士山の高さを測量し、3475.7mの値を得て、『日本高山直立一覧』を著す。

関孝和
関 孝和(せき たかかず/こうわ、寛永19年(1642年)3月? - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、日本の江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称新助。字は子豹、自由亭と号した。関は和算が中国の模倣を超えて独自の発展を始めるにあたって、重要な役割を果たした。特に宋金元時代に大きく発展した天元術を深く研究し、根本的な改良を加えた。延宝2年(1674年)に『発微算法』を著し、点竄術(てんざんじゅつ)すなわち筆算による代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。世界で最も早い時期に行列式・終結式の概念を提案したことはよく知られる。

高橋景保
高橋 景保(たかはし かげやす、天明5年(1785年) - 文政12年2月16日(1829年3月20日))は、江戸時代後期の天文学者。文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。

向井正
向井 正(むかい ただし、1945年5月 - )は、日本の天文学者、惑星科学者。大阪府大阪市住吉区出身。大阪府立住吉高等学校を経て京都大学理学部物理学科卒業、同大学院修了。光散乱の理論を用いた天文学的観測や探査機測定によって、惑星間塵の空間構造とその起源を研究している。また、探査機はやぶさに搭載するためのレーザー高度計を開発し、小惑星イトカワの内部に無数の空洞があることの発見に繋げたり、散乱円盤天体の分布から惑星Xの存在を仮定してその予想軌道を計算したりといった業績がある。

西田幾多郎
にしだ きたろう、1870年6月17日(明治3年5月19日) - 1945年(昭和20年)6月7日)は日本を代表する哲学者。郷里に近い国泰寺での参禅経験(居士号は寸心)と近代哲学を基礎に、仏教思想、西洋哲学をより根本的な地点から融合させようとした。「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)とも言われている。そこには、行動と思想とが言語道断で不可分だった西田哲学の真髄が現れている。

松浦検校
(まつうら けんぎょう、生年不詳 - 文政5年11月21日(1823年1月2日))は、19世紀前半に京都で活躍した盲人音楽家(地歌三味線および箏曲演奏家、作曲家)。文化年間を中心に地歌三味線、箏の演奏家、作曲家として活躍した。ことに、大阪の峰崎勾当や三つ橋勾当が完成させた地歌の楽曲形式、様式である「手事物」を京都風に洗練させ、「京流手事物」のスタイルを確立、多くの曲を残した。『深夜の月』『末の契』などでは情緒豊かな旋律の美しさで知られ、『若菜』『玉の台』では歌の節が追求され、また『四季の眺』『宇治巡り』『四つの民』などでは通常の転調だけでなくさまざまな転調が試みられているのも特徴である。

片岡球子
(かたおか たまこ、1905年(明治38年)1月5日 - 2008年(平成20年)1月16日)は昭和・平成時代に活躍した日本画家である。卒業後は神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校に勤めながら創作を続ける。画家志望に反対する両親から勘当を受けながら画業を進めるが帝展(現・日展)には3度落選。しかし1930年(昭和5年)、第17回日本美術院展(以下「院展」)に「枇杷」で初入選。さらに1933年(昭和8年)の同展に入選するがその後何回もの落選を経験、「落選の神様」と呼ばれた時期もあった。

具志堅用高
1979年4月8日、東京・蔵前国技館にて元WBA世界フライ級王者:アルフォンソ・ロペス(パナマ)を7回KOに降し、8度目の防衛に成功。1977年10月の3度目の防衛戦からこれで6連続KO防衛となった。「世界王座6連続KO防衛」は日本人世界王者では具志堅しか達成していない(2010年末現在)。1980年6月1日、高知県民体育館にてマルチン・バルガス(チリ)を8回KOに降し、12度目の防衛に成功。ジュニアフライ級の世界王座防衛回数世界新記録(当時)を達成。その後、10月12日には石川県金沢市実践倫理会館に於いてペドロ・フローレス(メキシコ)を苦戦しながらも15回判定に降し、13度目の防衛にも成功(世界王座防衛13度は日本人世界王者の最多記録で、現在も破られていない)。総試合数24、、勝ち23、KO勝ち15、敗け1

藤田祐幸
藤田 祐幸(ふじた ゆうこう、1942年 - )は、日本の物理学者、科学史家。もともと金属物理を専攻していたが、1979年のスリーマイル島原発事故をきっかけに、立身出世や自分の興味からの物理学の研究を放棄して、原子力の問題をライフワークにしよう、市民とともにある科学者の道を選ぼうと決意。以来物理学者の立場から、放射能が人体と環境に及ぼす影響を訴え続けている。原子力発電や被曝労働の実態調査、チェルノブイリ原発周辺の汚染地域の調査(1990〜93年)、セルビア、コソボ、ボスニアでの劣化ウラン弾の調査(1999年、2000年)、バグダッドとバスラでの劣化ウラン弾による被害状況と環境汚染の現地調査(2003年)などに取り組んだ。

野茂英雄
野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。「トルネード投法」を武器に日本プロ野球時代は近鉄バファローズで活躍。1995年にロサンゼルス・ドジャースに移籍し、メジャーリーグでも活躍。日本人メジャーリーガーの実質的なパイオニアである。奪三振の多さから「ドクターK」の異名を取った。生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位。また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げた。2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっていく現状に対し、野球を志す若者に少しでも受け皿を作りたいという理由で、野茂の所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球クラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任した。

内橋克人
内橋 克人(うちはし かつと、1932年7月2日 - )は、日本の経済評論家。兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立星陵高等学校、神戸商科大学(現兵庫県立大学)商経学部卒業。神戸新聞記者を経て、1967年よりフリーとなる。バブル崩壊後もよく唱えられている「改革」が剥き出しの市場原理主義に則っていて社会的費用を弱者に転嫁しかねないと指摘、アメリカ流の聖域なき構造改革に厳しく警鐘を鳴らし、その対抗思潮をいち早く展開した。

秋山豊寛
秋山 豊寛(あきやま とよひろ、1942年(昭和17年)6月22日 - )は、日本のジャーナリスト、ソビエト連邦第3級宇宙飛行士、京都造形芸術大学芸術学部教授。元TBS(東京放送[1])記者・ワシントン支局長。TBSに勤務していた1989年から1990年にかけて、民間人では初めて商業宇宙飛行を利用するとともに、ジャーナリストでは初めて宇宙空間から宇宙を報道。東京都出身で、攻玉社高校を経て国際基督教大学社会学科へ進学。秋山自身は、実家の経済状況が芳しくなかったことから、高校で学生生活を終えるつもりだったという。

田村正和
田村 正和(たむら まさかず、1943年8月1日 - )は、日本の俳優である。京都府京都市右京区出身。身長174cm、体重55kg。血液型A型、成城大学経済学部卒業。9歳で父・阪東妻三郎を亡くす。1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際にスカウトされ、同映画の端役として出演する。時代劇で見せる見得や様式美重視の殺陣には、小学生の頃から習っていた日本舞踊の下地と共に、父親特有の「阪妻型」と呼ばれる殺陣スタイルも受け継いでいる。

三國連太郎
三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年1月20日 - 2013年4月14日[1])は日本の俳優。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。群馬県太田市生まれ。身長181cm、体重75kg。中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、三國は身体を壊し、熱病にかかる。十日間意識不明になり、死んだものだと思われて、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれいざ焼く番になってむしろを剥がしたら目を覚ましたという。

下地真樹
下地 真樹(しもじ まさき、1972年 - )は、日本の経済学者。阪南大学経済学部経済学科准教授。沖縄県那覇市出身。1996年、琉球大学法文学部経済学科・経済学専攻。2002年、神戸大学大学院経済学研究科経済学・経済政策専攻博士後期課程。経済学修士 (神戸大学)。環境省の主導する東日本大震災で生じたがれきの広域処理について、復興支援および放射線防護の両面から不合理であると批判。「復興支援のためにこそ、広域処理を容認してはならない」と主張している。

小山仁示
小山 仁示(こやま ひとし、1931年(昭和6年)1月 - 2012年(平成24年)5月26日)は、日本の歴史学者。専門は日本近現代史。関西大学名誉教授。対戦末期の大阪大空襲を研究する第一人者として知られ、幅広い社会問題に庶民目線で切り込んだ。『日本社会運動思想史論』(ミネルヴァ書房、1965年)『大阪大空襲―大阪が壊滅した日』(東方出版、1985年)『西淀川公害―大気汚染の被害と歴史』(東方出版、1988年)『戦争 差別 公害』(部落解放研究所、1995年)

 

 

 

 

日本国 Japan
日本列島及び周辺の島々を領土とする国家である。「日本」という国号の表記は、太陽崇拝と相俟った自国中心的発想に基づくもの、また日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる。

通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。が、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように西暦700年前後であり、それまでは倭国と呼び記されていた。

ドイツと同じように間違った戦争を起こしてしまった日本ですが、戦後の復興に向けてドイツは戦争の反省から「教育」に重きを置き、日本は「経済」を取りました。それは日本の意志と言うよりはアメリカの意図が大きかった事は明らかです。その結果経済大国にはなりましたが、日本特有の情緒や芸術性はかなりの部分消え失せてしまって、ある種、日本そのものが危機遺産の様子を呈しています。それでも危機感を持った老若男女が少なからずいて今の日本が存在します。未来に向けて、近代国家日本はきっと再生すると思われます。

都道府県概要

戦後、憲法によって表現の自由・報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しないことになっている。しかし、実際は、テレビ放送について政府が発行する免許が必要であり、かつ、NHKの予算は、国会の承認が必要である。また、新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。一方、テレビ・新聞の側においても、記者クラブ制度によって一部の大手マスメディアのみが政府からの情報を受けるメリットを享受している。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、かような大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。

福島の恐ろしい原発事故が起こって上記の事が事実である事は証明されましたが、これは民主国家として明らかに間違っていますし、それを変えようとする民主的な人々が立ち上がりつつあるのも今の日本の現状です。

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首相官邸ホームページ
外務省ホームページ


■東日本大震災
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は、日本における観測史上最大の規模、マグニチュード (Mw) 9.0を記録し、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmの広範囲に及んだ。この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.5mにも上る大津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。

■福島第一原子力発電所事故
2011/03/11  日本及び世界における最大規模の原子力事故である。巨大地震及び大津波つまり天災が要因ではあるが設置計画、防災対策など人為的要因がなかったとは言い切れない。炉心溶融および水素爆発が発生するまでに至ったのも、米国メーカー設計の原子炉容器が大きく損傷して放射能が大量に外へ漏れだしたのも、本事故が原子力発電史上初めてである。

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■日本の借金
2011/11/10  国債や借入金などの合計が2011年度末に1024兆1047億円に達する見通しとなった。東日本大震災の復興費、11.5兆円、原発事故の賠償金を払う東京電力の資金繰りを支えるため交付国債の発行枠を2兆円から5兆円に増やした。


倭国
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねるという語義の漢字「倭」を用いた呼称。 漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。

神武天皇
庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)〜 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。

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古事記
その序によれば712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された、現代確認できる日本最古[1]の歴史書である。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。成立の経緯を記している序によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもの。


日本書紀
奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯が書かれていない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の720年(養老4年)五月癸酉条には、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」とある。その意味は「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
ということである。


琵琶湖
滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る水は瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。琵琶湖が形成された時期は、約400万年〜600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。 湖は次第に北へ移動し、現在から約100〜40万年前[4]、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。

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アイヌ
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語とアイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。


ポツダム宣言
The Potsdam Declarationは、ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国(米国)、中華民国およびイギリス(英国)の首脳が、1945年(昭和20年)7月26日に大日本帝国(日本)に対して発した、第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。


象徴天皇制
日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。

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自由権
基本的人権の一つであり、国家から制約ないし強制されずに、自由に物事を考え、自由に行動できる権利のことをいう。古くはイギリス権利章典・アメリカ独立宣言・フランス人権宣言で謳われ、今日まで続く歴史を持つ。日本国憲法においては、内容は経済的自由権、精神的自由権、人身の自由に大別することができる。精神的自由権には、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由、学問の自由などが含まれる。経済的自由権には、職業選択の自由や営業の自由、財産権の保障が含まれる。人身の自由は、奴隷的拘束の禁止や不当逮捕などの禁止による被疑者・被告人の人権保障(罪刑法定主義・適正手続)などからなる。


表現の自由
個々の言論活動を通じて、自己の人格を形成していくことと、政治的意思決定に関与していくという民主政に不可欠なこと、がある。この表現の自由は、精神的自由権の一種である。民主主義にあっては、政治上の意思決定は終局的には市民によってなされることとなるが、適切な意思決定をなすには、その前提として十分な情報とそれに基づく議論が必要となる。情報を得、また議論をなすためには表現の自由は必要不可欠な権利である。いわば、表現の自由は、民主主義の根幹をなしているのである。


思想・良心の自由
日本国憲法第19条にも規定のある権利。「思想・信条の自由」といわれることもあるが、法律上も学術上も「思想・良心の自由」と呼ばれる。意義として、国民がいかなる思想・信条を持とうとも、それが内心のものにとどまる限りは処罰などを受けない。いかなる身分、国籍であっても、公務員、裁判官であっても、あるいは罪を犯したものであっても内心の自由は人類普遍の権利として保護される。 逆に、江戸時代の踏絵のような、思想調査を行うことは許されない。

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報道の自由
日本では報道機関がさまざまな表現媒体をもちいて、国民の知る権利に奉仕する存在である。報道機関の活動は国民の日本国憲法第21条の「知る権利」を充足させるのに重要な役割を果たすことから、報道機関には、報道の自由が認められている。報道の自由及び取材の自由は、報道機関にのみ与えられた特権である。ただし、新聞とテレビでは、法律における扱いはかなり異なっている。


日本国憲法第9条
憲法前文とともに三大原則の1つである平和主義を規定しており、この条文だけで憲法の第2章(章名「戦争の放棄」)を構成する。この条文は、憲法第9条第1項の内容である「戦争の放棄」、憲法第9条第2項前段の内容である「戦力の不保持」、憲法第9条第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている。日本国憲法を「平和憲法」と呼ぶのは憲法前文の記述およびこの第9条の存在に由来している。


築地小劇場
築地小劇場(つきじしょうげきじょう)は、土方与志と小山内薫が1924年(大正13年)6月13日に開設した日本初の新劇の常設劇場である。また、劇場付属の劇団の名称でもあった。所在地は、京橋区築地二丁目。現在の東京メトロ日比谷線築地駅からほど近い、東京都中央区築地2丁目11番地にあたり、同所に記念碑もある。
劇場の面積は100坪弱、平屋の建築物であった。客席は400 - 500席。電気を用いた世界初の照明室を備えていた。第1回公演は開設翌日の6月14日。土方が表現主義の演出をおこなったラインハルト・ゲーリングの「海戦」、およびチェーホフの「白鳥の歌」、マゾオの「休みの日」を公演した。

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沖縄県
沖縄県(おきなわけん)は、日本の南西部、かつ最西端に位置する都道府県である。県庁所在地は那覇市。歴史的には、明治時代の琉球処分まで、日清両属の琉球王国であった。そのため、他の都道府県とは異なる文化・習俗が根付いており、これらを生かした観光産業が盛んである。また、国内有数の長寿地域としても知られ、その食生活などが注目を浴びた反面、アメリカ統治時代に根付いた食文化も色濃い。太平洋戦争では地上戦(沖縄戦)の末に米軍が占拠した後、1972年(昭和47年)まで一貫して米軍の施政権下に置かれた。復帰後の現在でも多くの米軍基地が存在しており、政治問題となっている。


普天間基地代替施設移設問題
沖縄県宜野湾市に設置されているアメリカ海兵隊普天間飛行場を廃止するとともに、同基地の機能を果たす基地・施設を設けるか否か、設けるとすれば何処にどのような条件で設けるか、移設のあり方によって周囲にどのような影響が現れるか、などについての問題である。1995年(平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件を契機に、沖縄の米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求をする運動が起こり、1996年当時では、5年から7年以内の返還を目標としていた。様々な候補地を検討した後1997年(平成9年)には名護市辺野古付近に固まりその後も工法と建設の是非を巡って色々な出来事があった。


普天間飛行場
Marine Corps Air Station Futenma)は、日本の沖縄県宜野湾市にあるアメリカ合衆国軍海兵隊の飛行場。通称は普天間基地(ふてんまきち、MCAS FUTENMA)で、地元宜野湾市民は単に「基地」と呼ぶ。2,700mの滑走路を持ち、嘉手納基地と並んで沖縄におけるアメリカ軍の拠点となっている。
飛行場建設以前
第二次世界大戦中にアメリカ軍によって飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地であった。また本島南部の那覇や首里と北部の国頭(くにがみ)を結ぶ交通の要衝でもあり、琉球松の並木道が続いていたという。

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嘉手納飛行場
Kadena airfieldは、沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にまたがるアメリカ空軍の空軍基地。在日アメリカ空軍(第5空軍)の管轄下にある。総面積は約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになる。

 


小田稔
おだ みのる、1923年2月24日 - 2001年3月1日は、日本の天文学者、宇宙物理学者。大阪帝国大学理学部物理学科菊池正士研究室出身だが、菊池の弟子・渡瀬譲に師事したので、小田は菊池の孫弟子といえる。はじめ実験物理学を専攻したが、その後電波天文学に転向し、さらに宇宙線物理学及びX線天文学を専門とするに至った。旺盛な好奇心と夢のような発想の持ち主で、研究者仲間から「星の王子さま」の愛称で呼ばれた。北海道札幌市出身。

棟方志功
むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。

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小島一郎
こじま いちろう、1924年11月14日 - 1964年7月7日は日本の写真家。青森県青森市出身。戦後、青森を拠点に北国の風景を撮り続けた。写真家として本格的に活動したのは、1954年頃から死去までの10年ほどに限られている。この間、厳寒の津軽や下北の風土を大胆な構図と独特の世界観で表現する。

筑紫哲也
ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)大分県日田市生まれ。東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。大学在学中は合唱団「グリークラブ」に所属していた。卒業後は朝日新聞社に入社、政治部記者、琉球(現在の沖縄)特派員、ワシントン特派員、外報部次長、編集委員などを歴任した。は、日本のニュースキャスター、ジャーナリスト。

遠藤幸雄
えんどう・ゆきお、1937年(昭和12年)1月18日 - 2009年(平成21年)3月25日)は、日本の体操競技選手である。小学校3年生の時に母親を亡くし、中学1年の冬から養護施設で育つ。中学2年の時、先生の勧めで体操部に入部し、市内大会では数々の表彰台に上がる。

本川達雄
もとかわ たつお、1948年 - は生物学者、シンガーソングライター。専攻は動物生理学。1948年、宮城県仙台市で生理学者の本川弘一(後に東北大学総長)の息子として生まれる。また、彼は「歌う生物学者」としても知られている。琉球大学時代には瀬底音頭(瀬底島は琉球大学の臨海実験所、現在は熱帯海洋センターがある)や千原音頭(千原は琉球大学の現在の所在地)を学内で歌い、池原貞雄退官の際は「いけいけ池原」、原田一太郎の時は「原一スピリット」を献歌。また講義内容をまとめた歌として「サンゴのタンゴ」や「微小管はすべる」などを作った。いずれも本人の作詞作曲である。

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井上ひさし
1934年11月17日 - 2010年4月9日は、日本の小説家、劇作家、放送作家である。井上靖と競った文学青年を父として山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。この父は地方劇団「小松座」を主宰していた。5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし,「神童」と言われていた。卒業後、放送作家として活動し山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。

小島美子
こじま とみこ、1929年3月7日 - は、日本の音楽学者、国立歴史民俗博物館名誉教授。専攻は日本音楽史、民俗音楽学で、歴史的な観点から日本音楽について論じている[1]。小島が芸大楽理科に学んだ時期は、インド留学から戻って、1959年に東京藝術大学の教員となった小泉文夫が民族音楽学の研究を展開した時期に重なっており、両者はその後も永く研究上の師弟関係にあった。しかし、小島が卒業論文で山田耕筰の研究に取り組んだときには、小泉を含め教員たちは小島を変わり者扱いしていたという。

聖徳太子
敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記や日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。

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源義経
平安時代末期の武将である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。

杉原千畝
すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。1900年(明治33年)の1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる[1]。第二次世界大戦の際、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓命に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くは、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。

久野久
くの ひさ、1886年 - 1925年4月20日は、滋賀県大津市膳所町馬場(ばんば)出身の日本初のピアニストである。少女時代に近所の神社の石段で転倒し、片足に障害を負う(後に、ピアノのペダルがうまく踏めないほどだったという)。母の死後に京都の叔父に引き取られ、叔父の勧めで自活のために邦楽を学ぶ。しかし、邦楽の世界に限界を感じていた兄の勧めで15歳の時に東京音楽学校に入学、そこで初めてピアノを学ぶ。当初は成績も良くなかったが、猛練習を行って上達し、研究科に進む。1910年、東京音楽学校の助教授となる。

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土方久功
土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1977年1月11日は、日本の彫刻家である。パラオ等広く南洋に取材し、民族学的資料を多く残すとともに、芸術作品のテーマとして作品を残した。旧制・学習院初等科、同中等科を経て、1919年(大正8年)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫塑科に入学する。1924年(大正13年)、同学を卒業、同年、土方与志が築地小劇場を設立、同劇場の「葡萄の房」章は久功がデザインしたものである。1929年(昭和4年)、パラオに渡り、公学校(現地住民の初等教育学校)の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査する。1931年(昭和6年)、ヤップ諸島の最東端・サテワヌ島(現在のサタワル島)に渡り、7年間を同島で過ごす。

太宰治
1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)とは、日本の小説家。青森県北津軽郡金木村(→北津軽郡金木町→現・青森県五所川原市)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の六男・津島修治として生まれた。聖書やキリスト教にも強い関心を抱き続けた。そして聖書に関する作品をいくつか残している。そのひとつが「駈込み訴へ」である。「駈込み訴へ」では一般的に裏切り者・背反者として認知されるイスカリオテのユダの心の葛藤が描かれている。太宰は、この作品を口述筆記で一気に仕上げた。

川本輝夫
川本 輝夫(かわもと てるお、1931年8月1日 - 1999年2月18日)は、水俣病の患者の運動体・チッソ水俣病患者連盟の委員長。川本輝夫は、家庭の事情により熊本県立水俣高等学校を2年で中退する。漁業作業員・建設作業員・チッソ臨時工員などの職業を経験し病院勤務する。寝たきりの父を介護しつつ准看護士資格を取得する。1973年7月9日に、患者側とチッソの補償協定を勝ち得る。チッソ水俣病患者連盟の委員長を22年間つとめ、水俣病の被害の非常に深刻な実態、チッソへの責任追及、そして未認定患者が多くいることを、日本や世界の市民に知らせることとなる。チッソの企業城下町としての水俣市で市議会議員選挙に無所属で当選、三期勤めた。出席最後の市議会では、「水俣湾を世界遺産に」と提案する。

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上村松園
上村 松園(うえむら しょうえん、本名:上村 津禰(つね)(常子(つねこ)とも)、1875年(明治8年)4月23日 - 1949年(昭和24年)8月27日)は、日本画家。明治の京都下京(しもぎょう)に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた。京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれ、京の伝統文化に育まれた松園は、明治・大正・昭和を通して生涯、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続けた。

知里幸恵
知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は北海道登別市出身のアイヌ人で、19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ転機をもたらしたことで知られる。明治36年6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市から南へ約100キロ)のアイヌ人のごく普通の家庭に生まれた。幸恵は重度の心臓病を患い、医者からも絶対安静を告げられていたが、病気をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。享年19。

舩山信一
舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1994年3月16日)は日本の哲学者・マルクス主義者。立命館大学名誉教授。マルクス、ヘーゲル、フォイエルバッハの研究を通じて人間学的唯物論を確立した。船山信一とも書かれる。山形県東置賜郡吉島村(現川西町)生まれ。1930年、京都大学卒。西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。マルクス主義者であることから、学派的には三木清、戸坂潤らとともにいわゆる西田左派に属する。1932年、戦前の著名なマルクス主義団体である唯物論研究会を戸坂潤らと結成。1933年、日本プロレタリア科学同盟に参加。1934年、治安維持法違反で逮捕・起訴される。

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村山実
村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、日本のプロ野球選手(投手)・監督、野球解説者。兵庫県神戸市北区生まれ、尼崎市出身。住友工業高校(後の尼崎市立尼崎産業高等学校)から大学野球を目指し、立教大学のセレクションを受けるが、身長が低いことを理由に落とされる。公式戦初登板は同年4月14日の国鉄スワローズ戦。初先発でもあった。ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客は34人しかいなかったというが、公式記録では3千人。ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封のデビューであった。この年18勝10敗、防御率1.19の活躍で、最優秀防御率のタイトルを獲得、新人ながら沢村賞も受賞した。

寺田寅彦
1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人であり吉村冬彦の筆名もある。”金平糖の角の研究”や”ひび割れの研究”など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ている。寅彦は自然科学者でありながら文学など自然科学以外の事柄にも造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。その中には大陸移動説を先取りするような作品もある。また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルともいわれる。

中谷宇吉郎
なかや うきちろう、1900年(明治33年)7月4日 - 1962年(昭和37年)4月11日)は日本の物理学者、随筆家である。1936年(昭和11年)3月12日には大学の低温実験室にて人工雪の製作に世界で初めて成功。気象条件と結晶が形成される過程の関係を解明した。他にも凍上や着氷防止の研究など、低温科学に大きな業績を残した。自身の研究を含め、科学を一般の人々に分りやすく伝える方法としても随筆をよくした。著書には『冬の華』『立春の卵』など。「雪は天から送られた手紙である」という言葉を残した事も知られる。

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瀧廉太郎
たき れんたろう、1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家、作曲家。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」(童謡「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年に編纂された幼稚園唱歌に収められた。また「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったことも判明した。1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツのライプツィヒにあるライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に留学する。文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか2ヶ月後に肺結核を発病し、1年で帰国を余儀なくされる。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。満23歳没。結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。

長谷川信彦
(はせがわ のぶひこ、1947年3月3日 - 2005年11月7日)は日本の卓球選手。愛知県瀬戸市に生まれ、最初はペンホルダーグリップの選手としてスタートした。全日本選手権男子単では総計6度の優勝に輝き、これは斎藤清(8回)につぐ歴代2位の記録である。1966年にはヨーロッパツアーに参戦し、エーベルハルト・シェラー(西ドイツ)らを破る活躍をみせる。長谷川はドライブ主戦型に分類される選手で、特にフットワークを生かした中・後陣からのパワードライブと、ロビングによる鉄壁の守備を得意とした。

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大場政夫
おおば まさお、男性、1949年10月21日 - 1973年1月25日)は、日本のプロボクサー。東京都墨田区出身。スタイルはオーソドックス。帝拳ボクシングジム所属。第25代WBA世界フライ級王者。WBA世界フライ級王座を5度防衛した。現役世界王者のまま事故死したため「永遠のチャンプ」と称される。総試合数38、勝ち35、KO勝ち16、敗け2、引き分け1

半藤一利
半藤 一利(はんどう かずとし 1930年5月21日 - )は、日本の作家、随筆家。近現代史、特に昭和史に関し人物論・史論を、対談・座談も含め多く刊行している。保守派と見なされていたが、太平洋戦争当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的である。昭和天皇については、当時の軍部による暴走を押し留めようとしたことを肯定的に評価しているが、昭和天皇の戦争責任についても否定していない。そのため西尾幹二ら右派の論客からは「半藤一利は保守派ではなく左翼」という指摘もある。また近年は護憲派としての活動を積極的に行っており、「憲法9条を守るのではなく育てる」のが持論である。

松田優作
松田 優作 (まつだ ゆうさく、1949年 (昭和24年) 9月21日 - 1989年 (平成元年) 11月6日) は、山口県下関市生まれの俳優、歌手。1949年 (昭和24年) 9月21日 - 山口県下関市で、日本人の父と在日韓国人3世の母との間に非嫡出子として生まれた。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった。2人の異父兄がおり、 (異母兄弟もいる) 兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。

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原田芳雄
原田 芳雄(はらだ よしお、1940年2月29日 - 2011年7月19日)は、日本の俳優。東京府東京市足立区(現:東京都足立区)出身。本所工業高校を経て俳優座養成所(15期)を卒業。作品に恵まれたことは当然ながら、その圧倒的な存在感と的確な演技力を武器に、日本を代表する映画監督はもとより、若手の監督からも絶大な信頼を受け、100本を超える映画に出演。特に黒木和雄監督の「戦争レクイエム三部作」には全て出演して、何れも高い評価を得ている。

佐村河内守
佐村河内 守(さむらごうち まもる、1963年9月21日 - )は、広島県出身の作曲家。被爆者を両親として広島県佐伯郡五日市町(現在の広島市佐伯区)に生まれる。佐村河内家は能美島の出で、村上水軍の末裔と伝えられる。4歳から母親からピアノの厳格なスパルタ教育を受ける。17歳で『交響曲第1番』の作曲に着手。同年から原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。崇徳高等学校卒業後に上京したが現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、肉体労働者として働きつつ独学で作曲を学ぶ。19歳の時には失職して家賃を払えなくなり、アパートを追い出されてホームレスとなり、半年間の路上生活を送ったこともある。

樋口陽一
樋口 陽一(ひぐち よういち、1934年9月10日 - )は、日本の法学者。専門は比較憲法学。東北大学名誉教授、パリ大学名誉博士、東京大学名誉教授。英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語等の語学に堪能で、それを生かして比較憲法学に取り組んだ。「近代立憲主義と現代国家」によって、41歳で日本学士院賞を受賞。いくつかの共著がある作家の井上ひさしは、仙台一高の同級、菅原文太は一年先輩である。

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