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インド
India

アジア

■概要
南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。12億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。州境を越えるとまったく違う言語が話され、それぞれの文化芸術があるため欧米ではよく「インドは国と言うより大陸である」と表現される。

■地勢
インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線をもつ。多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられ、雨期を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。

■情勢
南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。10億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。州境を越えるとまったく違う言語が話され、それぞれの文化芸術があるため欧米ではよく「インドは国と言うより大陸である」と表現される。

インドの地理
インドの地理は多様性に富み、その景色も冠雪した山岳地帯・砂漠・平野・雨林・丘陵・高原とさまざまである。インドはゴンドワナ大陸のインド=オーストラリアプレートの北側が分離移動したインドプレート上に位置するインド亜大陸のほぼ全域を占める。インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線をもつ。


インド亜大陸
インド半島ともいい、南アジアのインド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータンなどの国々を含む亜大陸・半島。かつては独立したインド大陸であった。アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説やプレートテクトニクスによると、パンゲア大陸から分離・移動して、ユーラシア大陸に衝突し、そのためにヒマラヤ山脈が隆起したとされる。現在もインド亜大陸は北上し続けている。

インド洋
Indian Ocean、は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。北はインド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。

ヒマラヤ山脈
Himalayan Rangeは、アジアの山脈で、地球上で最も標高の高い地域である。単にヒマラヤということもある。ヒマラヤは、インド亜大陸とチベット高原を隔てているカラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈、パミール高原から続く無数の山脈から構成される巨大な山脈である。ヒマラヤには、エベレストを含む、地球上で最も高い14の8,000 m級ピーク(独立峰)がある。付属峰も含めるとヒマラヤには7,000 m級の山が100以上も存在する。

K2
カラコルム山脈にある山。標高は8,611mで世界第2位。中国・新疆ウイグル自治区とパキスタン(ただしインドは「カシミールのパキスタン占領地」と主張している)の境にある。人里から遠く離れた奥地にあるため、19世紀末までは無名の山であった。不安定な天候、強い風、急峻な傾斜に加えて、アプローチのために季節によっては40度近い高温となるパキスタン国内を移動しなければならないなど、登頂の難しさでは標高は8,848mの世界最高峰エベレストより上と言われており、実際にエベレストよりも登頂成功者が少ない(250名)ため、世界一登ることが難しい山とも言われる。

カンチェンジュンガ
(Kangchenjunga)は、ネパール東部とインド国境にあるシッキム・ヒマラヤの中心をなす山群の主峰。標高8,586mはエベレスト、K2に次いで世界第3位。西峰(ヤルン・カン8,505m)、中央峰(8,478m)、南峰(8,476m)が並ぶ。カンチェンジュンガとはチベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」の意味。衛星峰に囲まれていて最高点を中心に半径20Kmの円を描くとその中に7000m以上の高峰10座、8000m級のカンチェンジュンガ主峰と第二峰の2座が入るので、壮大さは比類が無い。


カシミール
Kashmir、とは、インド、パキスタン、中国の国境付近に広がる、山岳地方の名称である。標高8000m級のカラコルム山脈があり、中国との国境には世界第2の高峰K2がそびえる。この地域についてはパキスタンとインドが領有を主張し、これまで大小の軍事衝突(カシミール紛争)を繰り返してきた。現在は、ほぼ中間付近に停戦ラインが引かれている。インド、パキスタンが分離独立したことで、それぞれ藩王国はいずれかの側に帰属することを迫られていた。しかし、カシミール藩王は自身がヒンドゥー教徒、対して住民の80%はムスリム(イスラム教徒)という微妙な立場にあり、独立を考えていた。パキスタンが武力介入してきたことで、カシミール藩王はインドへの帰属を表明し、インド政府に派兵を求めた。これが第一次印パ戦争(印パ戦争)の発端である。


アラビア海
インド洋北西部の海域で、アラビア半島とインドとの間にある海。最大深度はおよそ5,000メートルである。主な注ぎ込む川はインダス川がある。その北側にはオマーン湾があり、ホルムズ海峡を通じてペルシャ湾に繋がっている。西側にはアデン湾がある。

ベンガル湾
(Bay of Bengal) は、インド洋の北東部分の湾。ベンガル湾はほぼ三角形で、南方に開けた形となっている。東にマレー半島、西にインド亜大陸、北に名前の元となったインドの西ベンガル州およびバングラデシュに面している。南端はスリランカとアンダマン・ニコバル諸島連邦直轄地に面している。

ヒンドスタン平野
Indo-Gangetic Plain、はインド(北インド)、パキスタン、バングラデシュ、ネパールにまたがる広大な平野の名称である。ガンジス川、インダス川、ブラフマプトラ川の3水系が生んだ広大かつ肥沃な沖積平野である。ヒンドスタン平野は多数の河川が運ぶシルトが堆積した、世界でもっとも広大な沖積平野である。平野は平坦で樹木が少なく運河による灌漑が容易であるうえ、地下水も豊富である。そのため、世界でもっとも集約的に農業がおこなわれる地域でもある。

デカン高原
インド半島の大部分を構成し西ガーツ山脈から東ガーツ山脈にいたる台地。デカン高原は大きな三角形をしており、北辺はヴィンディヤ山脈、東西端はそれぞれ東ガーツ山脈・西ガーツ山脈である。総面積は1,900万平方キロメートル、ほぼ平坦で標高は300-600メートルである。デカン高原はヒンドスタン平野の南に位置する。高い西ガーツ山脈が、南西モンスーンからの湿気がデカン高原に達するのを妨げるので、領域はほとんど降雨がない。

ガンジス川
英語では the Ganges と呼び、これは和名の由来でもある。 the Nile などと同様、それだけで完結する固有名であり、本来は Ganges River のような言い方はしない。紀元前1000年ごろに先住のドラヴィダ人にかわってアーリア人がガンジス川流域に住み着いた。やがてガンジス流域を中心に十六大国と呼ばれる諸国が成立し、その中から現在のビハール州を本拠とし、ラージャグリハを首都としたマガダ国と、現在のウッタル・プラデーシュ州北東部を本拠としたコーサラ国が強大化していった。


ヤムナー川
Yamuna River、インド北部を流れる全長1,370kmの川で、ガンジス川最大の支流である。ヤムナー川の下流域は、象の移動にとって理想的な通路を提供している。主な樹木は、サラソウジュ、アカシアおよびローズウッドであり、このほかシワリク山脈にはチール松の森が分布している。ヤムナー川は世界で最も汚れている川の一つとされている。特に首都ニューデリー周辺では、排泄物の57%が流入していることもあり、深刻な状況になっている。このため、何度も浄化が試みられたが、それらの努力が徒労であることを証明するに留まっている。インド政府も5億ドル近くを投じてヤムナー川の浄化を図ったが、多くの生活排水処理施設が資金不足や故障に見舞われ、生活ゴミによる汚染は拡大を続けている。国際協力銀行はこのアクションプランに対し、21ヶ所のうち15ヶ所の取組みについて177億7,300万円の長期低金利貸付を行う形で参加している。このインド政府による下水処理施設の改修計画は、2010年までに川の水質を90%にまで改善することを予定している。


ゴーダーヴァリ川
Godavari)、 は、デカン高原を北西から南東方向に横切ってベンガル湾へ注ぐ川。河口はクリシュナ川の北側、東ガーツ山脈の南側にある。上流は、マハーラーシュトラ州北東部、下流は、オリッサ州とアーンドラ・プラデーシュ州の州境付近に位置する。

インダス文明
Indus Valley civilization) は、パキスタン・インド・アフガニスタン・イランのインダス川及び並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明で、現在南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人によりつくられたと推定されている。考古学上は、ハラッパー文化と呼ばれ、パキスタン、パンジャブ州のハラッパーを標式遺跡とする。インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間である。


インダス文字
インダス文明で使われた象形文字である。インダス文字は現在約400文字が発見されているが、テキストが印章のような短文がほとんどで、ロゼッタ・ストーンのような2言語以上の併記がないので解読が難航している。1960年代にマヤ文字の解読を著しく前進させたことでも知られるユーリ・クノロゾフを中心とするソ連の研究者グループと、アスコ・パルボラを中心とするフィンランドの研究者グループが、解読にコンピューターを導入してから、足がかりが築かれ始めた。

グプタ朝
Gupta Empireは、古代インドにおいて、西暦320年から550年頃まで、パータリプトラを都として栄えた王朝である。第2代のサムドラグプタ(位335年頃 - 376年頃)のとき、ガンジス川上流域や中央インドの一部まで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに、デカンのヴァーカータカ朝と姻戚関係を結んで、南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。

ドラヴィダ人
Dravidianは、古代からインドに定住していたと考えられる民族群。インダス文明はドラヴィダ人によるものだとされているが、これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語が、マヤ文字で有名であるユーリ・クノロゾフらソ連の研究者によってドラヴィダ語族の言語である可能性が高いことがわかった為である。

インド・アーリア人
インド北西部で発生し、広く欧州東部まで拡散した汎アーリア人の直系子孫。インド・イラン語派の言語を用い、狩猟と牧畜によって生計を立て、飼育する動物の中では馬に最も重要な役割を置いていた。彼らが異なる文化の周辺民族との関わり合いの中から作り出した『リグ・ヴェーダ』を中心とした文献から、その動態が考察されてきた。

トリツ族
古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に現れる、インド・アーリア人の一部族の名称。『リグ・ヴェーダ』の考察から、インド・アーリア人は、現在のアフガニスタン東部からインドのパンジャーブ州およびウッタル・プラデーシュ州にあたると推測される、「七つの川の地」と呼ばれる地域に移住してきた。

バラタ族
古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に現れる、インド・アーリア人の部族のひとつで、以後現代に至るまで、『マハーバーラタ』などを通じてインドの歴史に大きな影響を与え続けた人々である。

プール族
古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に頻繁に言及される部族の名称。あるいは、トリツ族なども元来はプール族から出たものであり、プール族を複数の部族の連合体と捉える場合もある。

ブリグ族
古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に言及される部族のひとつ。ブリグ族は、火を扱う司祭である、聖賢ブリグの子孫であると考えられている人々である。神々にソーマという植物の絞り汁を奉納する儀礼を司っていた。また、司祭でもありつつ、ブリグ族からは勇猛な戦士も輩出していた。

ヒンドゥー教
Hinduism、ヒンズー教(慣用表記)は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて世界で第3番目の宗教である[1]。ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。 紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

カースト
caste、あるいはカースト制、カースト制度は、ヒンドゥー教にまつわる身分制度である。紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、バラモン教の一部としてヴァルナの枠組みがつくられた。現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含めている。ヴァルナは基本的にはバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に分けられるが、その中でさらに細かく分類される。

ムガル帝国
1526年からインド南部を除くインド亜大陸を支配し、1858年まで存続したイスラム王朝。ムガル帝国はアクバルの活躍した16世紀後半からジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブに至る17世紀にかけて最盛期を迎えた。だが、領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。

ニザーム王国
1724年から1948年までの間、インド亜大陸に存在した王国。「ニザーム」の称号を持つ、ムスリム(イスラム教徒)の王によって統治された。首都はハイデラーバード。ハイダラーバード王国とも呼ばれる。デカン高原に派遣されたムガル帝国の総督ミール・カマルッディーンが自立して成立した国である。1766年にはインドに進出してきたイギリスといち早く友好条約を結び、その隷下に入った。

クル国
Kuru)は、古代インドの十六大国のうちのひとつ。クル国の位置した地域は、クル・クシェートラと呼ばれる、十王戦争に勝利したバラタ族がプール族と連合し形成したクル族の活動領域が中心であり、現在のハリヤーナ州からデリー、そしてガンジス川上流域にあたる。

ヴィジャヤナガル朝
Vijayanagar Empire、とは、14世紀初頭から17世紀中頃にいたるまで、カルナータカ州南部およびアーンドラ・プラデーシュ州南部、言い換えれば、トゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南からコモリン岬に至る南インドを支配したヒンドゥー王朝(1336年 - 1649年)。

シュリーヴィジャヤ王国
Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)はインドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢文では「室利仏逝」と音訳表記される。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置をしめるようになった。

プラッシーの戦い
1757年、インドベンガル地方のプラッシーで起こった、イギリス東インド会社と、ベンガル太守(ムガル帝国の地方長官)の率いる軍と後援するフランス東インド会社の連合軍との間で行われた戦いである。七年戦争とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つ。

インド大反乱
1857年から1859年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する民族的反抗運動のこと。かつては「シパーヒーの乱」、「セポイの乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身が広くインド社会全体に広がっていた事から最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になった。


ボリウッド
Bollywoodはインド・ムンバイの映画産業全般につけられた非公式な名称。ムンバイの旧称「ボンベイ」の頭文字「ボ」と、アメリカ映画産業の中心地「ハリウッド」を合わせてつけられた。ボリウッド及びその他の地域の映画産業(タミル語、マラーティー語、ベンガル語、テルグ語、マラヤーラム語、カンナダ語)等と合わせるとインドの映画産業(作品数、入場者数で)は全体で世界最大の規模を誇る。


<世界遺産>
アジャンタ石窟群
1815年、ハイダラーバード藩王国の藩王に招かれて狩猟に参加していたイギリス人士官ジョン・スミスが虎狩りをしていたときに、巨大な虎に襲われてワゴーラー渓谷に逃げ込んだ際、断崖に細かな装飾が施された馬蹄形の窓のようなものを見つけたことが発見の契機となった。
エローラ石窟群
34の石窟が、シャラナドリ台地(Charanandri hills)の垂直な崖に掘られており、5世紀から10世紀の間に造られた仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院や修道院(あるいは僧院、僧坊)などから構成されている。

アーグラ城塞
インドのアーグラにあるムガル帝国時代の城塞。赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー)の名があるが、デリーの帝国時代の城塞も同じく赤い城と呼ばれる。

タージ・マハル
1632年着工、1653年竣工。建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラージャスターン地方産という。その他、碧玉はパンジャーブ地方から、翡翠は遠く中国から、トルコ石はチベットから、ラピスラズリはアフガニスタンから、サファイアはスリランカから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだという。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。

コナーラクの太陽神寺院
建設されたのは、13世紀の後期東ガンガ朝時代である。ナラシンハデーヴァ1世が王子の頃より建設が始められ、完成には20年近くかかった。祀られているのはヒンドゥーの太陽神であるスーリヤであり、境内の広さは約180m×260mある。

マハーバリプラムの建造物群
ベンガル湾に臨むマハーバリプラムは、6世紀以降、パッラヴァ朝における東西貿易の一大拠点として栄え、町には数多くのヒンドゥー教寺院が建立された。

■カジランガ国立公園
■マナス野生生物保護区*危機遺産
■ケオラデオ国立公園

ゴアの教会と修道院
1986年には聖フランシスコ・ザビエルの墓を収容するボム・ジェズ・バシリカや聖フランシス修道院などポルトガル時代のキリスト教建築が「ゴアの聖堂と修道院」としてユネスコ世界遺産に登録された。 ポルトガル植民地時代の建物と文化が残っており、リゾート地として国内外の観光客を集めている。この地の音楽から生まれたゴアトランスはサイケデリックトランスとして世界に広まった。

カジュラーホの建造物群
カジュラーホーは、芸術的価値の高い彫刻を伴うヒンドゥー教及びジャイナ教の寺院群で古くから「カジュラホ」の名で知られ、現在でも、ウェブ上の表記や各種書籍でもこの表記がもっとも通用している。10世紀初頭から12世紀末ごろのチャンデーラ朝時代に、カジュラーホーでは、85ヶ所に及ぶ寺院が建設されたと考えられている。

ハンピの建造物群*危機遺産
ハンピは14世紀から16世紀にかけて南インドのヒンドゥー教勢力が結束して成立したヴィジャヤナガル朝の王都であり、数多くの宮殿やヒンドゥー教寺院が造営されたが、16世紀半ばにイスラム勢力の略奪を受け廃墟と化した。現在は40ほどの遺跡が残っており、さまざまな神祠や望楼、柱廊や浴場、要塞なども散在している。

■ファテープル・シークリー
■パッタダカルの建造物群
■エレファンタ石窟群
■タンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院■スンダルバンス国立公園■ナンダ・デヴィ国立公園■サーンチーの仏教建造物■デリーのフーマユーン廟■デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物■ダージリン・ヒマラヤ鉄道


アタルヴァ・ヴェーダ
(Atharva-Veda)は、4ヴェーダ本集のひとつで、主にバラモン教の呪術的な儀式のしきたりが記されているものである。古い部分は紀元前1500年ころには成立し、時代とともに書き加えられていったと考えられる。当初は、ヴェーダとして認められていなかったが、紀元前500年ころから徐々に認められるようになり、現在では4ヴェーダのひとつと称されるようになった。

バラモン
バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。ブラーフマナとは古代インド哲学で宇宙の根本原理を指すブラフマンから派生した形容詞転じて名詞。つまり「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。ブラフミン( Brahmin )ともいう。


インドの言語
Languages of India)とは、インド連邦の広大な版図で使用されている、多彩で豊かな数多くの言語のことである。インドは、その地に芽生えた、多様なドラヴィダ語と印欧語の諸言語に加えて、中東及びヨーロッパの言葉を取り込んだ言語的豊かさを誇りとしている。

ベンガル語
話者数は2億人を数え、日常会話の言語人口としては、世界で7番目に多い言語。主にバングラデシュおよびインドの西ベンガル州とその周辺で話されている。

ヒンディー語
インドの主に中部や北部で話されている言語で、憲法によればインドが制定している公用語の内、1番目にくる(2番目は英語)。インドで最も多くの人に話されており、話者の数は約5億人に上る。日常会話の話者数では中国語の約14億人、英語の約5億1000万人に続き、世界で3番目に多くの人に話されている言語。

カンナダ語
Kannada)は、ドラヴィダ語族の中でもっとも古い言語の一つで、約5500万人の話者人口を持ち、多様な方言に分かれている。南インド4州の一つ、カルナータカ州の公用語である。

マラヤーラム語
Malayalam)は、南インドのケーララ州などで話される言語である。インド憲法で認められている22の公用語のうちの一つであり、話者は約3,570万人。


■インド社会
紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にアーリア人がパンジャーブ地方に移住。後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。


■宗教
多くの人はヒンドゥー教徒で、それにまつわる身分差別であるカースト制度の影響は今でも残っている。インド軍内においても出身地別の部隊であったり、士官学校にいけるカーストが限定されているなど軍隊組織にもカースト制度の名残がある。


カースト
英語: casteカースト制度は、ヒンドゥー教にまつわる身分制度である。紀元前13世紀頃に、アーリア人のインド支配に伴い、バラモン教の一部としてヴァルナの枠組みがつくられた。現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含めている。ヴァルナは基本的にはバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に分けられるが、その中でさらに細かく分類される。


ヴァルナの枠組み
■ブラフミン
(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)
神聖な職に就いたり、儀式を行うことができる。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。
■クシャトリヤ
王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「武士」とも翻訳される。
■ヴァイシャ
商業や製造業などに就くことができる。「平民」とも翻訳される。
シュードラ(スードラ)
一般的に人々の嫌がる職業にのみしか就くことしか出来ない。ブラフミンに対しては影にすら触れることを許されない。「奴隷」とも翻訳されることがある。先住民族であるが、支配されることになった人々である。

■ヴァルナをもたない人びと
ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおりアチュートという。「不可触賎民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。力がなくヒンドゥー教の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。にも拘らず1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを『ダリット』(Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年、ダリットの人権を求める動きが顕著となっている。


■国民
パンジャーブ地方に暮らす一部の民族は、起源をヨーロッパのロマ(ジプシー)と同じにする。そのほか、民族によって服装や生活様式の違いがはっきりと分かれていることが多い。またロマは先住民のドラヴィダ人ではないかという説も浮上している。

■人種・民族
現在のインド人は先住民のドラヴィダ人と中央アジア方面からやってきたアーリア人との混血であるといわれている。Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。


インドの仏教
仏教の開祖の釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)がインド北部に生まれたことに始まるとされる。釈迦在世時代の仏教については、釈迦などを参照。インドは仏教発祥の地であるが、現代では、ほとんど消滅してしまった。13世紀初頭にイスラム教徒の軍がベンガル地方に侵攻し、仏教の拠点精舎を破壊・虐殺したことによって滅んだとも言われるが、その後も零細な集団としてインド仏教はかなりの期間にわたり存続しており、イスラム勢力の侵攻により完全には滅んだ訳ではなかった。


アマルティア・セン
Amartya Sen, 1933年11月3日 - はインドの経済学者。哲学、政治学、倫理学、社会学にも影響を与えている。アジア初のノーベル経済学賞受賞者。コルカタ大学経済学部卒業。1959年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで博士号取得。本人曰くアダム・スミスとカール・マルクスに影響を受け、その後コルカタ、デリー、マサチューセッツ工科大学(M.I.T.)、オックスフォード、ハーバード、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)などの大学で教鞭を執った。センのミクロ経済学の視点から貧困のメカニズムを説明した研究は、経済学に限らず社会科学全体に衝撃を与えた。特に途上国の購買力と飢餓の関係を説明した論文は、尊敬と畏怖をもって経済学者達に迎えられた。なぜならば彼以前は貧困とは単純に生産性の問題だけだと考えられていたが、市場競争における市場の失敗によってもたらされた事を簡潔かつ明瞭に表したからである。

ジャワハルラール・ネルー
Jawaharlal Nehru, 1889年11月14日 - 1964年5月27日はインドの初代首相。インド国民会議議長。インド独立運動の指導者。著述家。1889年、インド北部イラーハーバード(現在はウッタル・プラデーシュ州に属する)の富裕なバラモン階級の家柄に生まれる。父のモティラル・ネルーは弁護士であり、インド国民会議派の独立運動家として活動し、議長に選出されたことがある。ネルーはイギリスに渡り名門ハーロー校に入学する。同校を卒業した後、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、自然科学を専攻した。

ジャハーンギール
1569年8月31日 - 1627年10月28日)は、ムガル帝国第4代皇帝(在位:1605年 - 1627年)。父アクバルの死後1605年に帝位についた。本名であるヌールッディーン・サリム・ジャハーンギールのうち、ジャハーンギールは、ペルシャ語で世界を征服するものを意味する。ヌールッディーンはアラビア語で真実の光を意味する。

コチェリル・ラーマン・ナラヤナン
Kocheril Raman Narayanan、 K. R. Narayananとしてよく知られていた、1921年2月4日 - 2005年11月9日)は、インドの政治家。第10代インド共和国大統領(在任期間:1997年6月25日 - 2002年6月25日)。1921年2月4日インド南部のケーララ州に最下層のカーストとして生まれる。苦学の末に大学をトップで卒業し、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学してハロルド・ラスキに師事した。教師や新聞記者・雑誌記者などのジャーナリストを経て、外務省に入り、日本、イギリス、タイ、トルコなどで外交官として働き、中国大使やアメリカ大使などを歴任する。

ビームラーオ・アンベードカル
Bhimrao Ramji Ambedkar、1891年4月14日 - 1956年12月6日は、インドの政治家(ネルー内閣の法務大臣)、思想家。インド憲法の草案作成者。反カースト(不可触賎民〈ダリット〉改革)運動の指導者。アンベードカルの父はマハーラーシュトラ州のラトナーギリー地区出身で、ある程度の正規の教育をマラーティー語と英語の両方によって身につけていた。父は息子に勉強を教え、知識の獲得へと向けて励ました。1908年にアンベードカルは大学入学資格試験に合格。これは、彼の所属していたコミュニティでは、不可触民としては初めてのことだった。

プラナブ・ムカルジー
Pranab Kumar Mukherjee、 1935年12月11日 - )は、インドの政治家。インドの13代現大統領(2012年7月-)。インド国民会議派所属。中央政府の大臣を歴任した。英領インド帝国ベンガル(現在の西ベンガル州)に生まれる。カルカッタ大学で法学の学位を取得し、また、同大学の政治学と歴史学の修士号を持つ。

スダース
古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に現れる、インド・アーリア人の部族であるトリツ族の族長、あるいは王。プル族など10の部族の王たちが連合して戦を仕掛けてきた十王戦争において、バラタ族とともに勝利した。これにより、諸部族の中でのトリツ族・バラタ族の覇権を確立させた。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ
Krishna Deva Raya 1471年〜1529年)は、ヴィジャヤナガル王国の第3王朝トゥルヴァ朝の王(位1509年〜1529年)で、ヴィジャヤナガル王国の最も偉大な王である。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはポルトガル、アラビア、東南アジア、明朝中国などとの貿易を積極的に奨励し、首都ヴィジャヤナガルや沿海部の都市の発展に努めた。また、ヴィジャヤナガルの近くに新しい都市を建設したり巨大な貯水池を造成した。これは灌漑のためにも使われた。

イブン・バットゥータ
Ibn Battuta1304年2月24日 - 1368年)は、マリーン朝(現モロッコ)のタンジェ生まれのイスラム法学者・旅行家。1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てマッカ(メッカ)を巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、キプチャク・ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問したとされる。

ヴァスコ・ダ・ガマ
(Vasco da Gama, 1469年頃 - 1524年12月24日)は、ポルトガルの航海者で、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。

ヴァッラバーイ・パテール
1875年10月31日 − 1950年12月15日) はインドの政治家。インド国民会議所属。法廷弁護士でもあった。ジャワハルラール・ネルー初代首相の下で副首相・内務大臣を務め、インド・パキスタン分離独立に際しては多くの藩王国を巧みな手腕でインドに帰属させ、インドの鉄の男、インドのビスマルクと呼ばれた。

ラージェーンドラ・プラサード
Rajendra Prasad、1884年12月3日 - 1963年2月28日)はインドの初代大統領。通称プラサド博士。カルカッタのプレジデンシー大学で卒業後弁護士となるも、1916年に大学を退職してガンディーの不服従運動に参加。4度も投獄された経験を持っている。戦後は全印国民会議(憲法制定議会)のメンバーに選出される。

ジョティー・アムゲ
(Jyoti Amge 、1993年12月16日 - )は、インドのナーグプル出身の女性。ギネスブックのインド版であるLimca Book of Recordsによれば現在、世界で一番背の低い女性である 。彼女は身長の伸びなくなる病気の軟骨無形成症を患っており、そのせいで身長は58センチ、体重は5.25キロしかない。

アジタ・ケーサカンバリン
Ajita Kesakambalin、は、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)と同時代のインドの自由思想家。六師外道のひとり。アジタ・ケーサカンバリンは世界を地、水、火、風の4要素の離合集散によって説明する四元素還元説を唱えた。無神論に立つアジタ・ケーサカンバリンは、人生には目的が備わっているという従来の思考や人間には生得的に守らなくてはならない規範があるとする伝統的な共同体倫理を否定した。

パクダ・カッチャーヤナ
Pakudha Kaccayana、釈迦の在世中に活躍した自由思想家で出家修行者。六師外道のひとりで、唯物論的・原子論的な七要素説を唱えた。釈迦による批判がある。ローカーヤタ Lokayata(順世派)の祖となった自由思想家アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin、阿耆多翅舎欽婆羅)は唯物論者として知られ、万物は地・水・火・風の4元素から成るとする四元素還元説を唱えたが、パクダ・カッチャーヤナはこれら物質的元素に苦・楽・命を加えた七要素説を唱えた。

プーラナ・カッサパ
インドの道徳否定論者で、六師外道の一人。南伝Dhammapada Atthakatha .p.208には、釈迦が舎衛城で神変力を示して、外道をことごとく打ち破ったが、プーラナ・カッサパはその外護者の与えた壷(kuta)と綱(yottam)を取って川に身を投じて自殺したと伝えている。また『有部破僧事』10には、舎利弗と目連が地獄に彼を訪ねたとある。

マッカリ・ゴーサーラ
Makkhali Gosala釈迦の活躍した時代に仏教・ジャイナ教と並んで有力だった裸形托鉢教団アージーヴィカを主導した自由思想家。六師外道のひとりで、厳格な決定論を説き、釈迦は彼を最も危険で下等な教えであると断じた。

マハーヴィーラ
クシャトリヤ出身。仏教を開いたガウタマ・シッダールタと同時代の人[1]であり、生存年代には異説も多い(後述「生没年について」)が、一説によれば紀元前549年生まれ、紀元前477年死没とされている。苦行を持続するあいだ、かれは感覚に対する典型的な統制のあり方を示し、また、人間、動植物を含むすべての生物一切に極限と呼べるほどの注意を与えて、あらゆる意味でこれらを傷つけないよう努めた。

アルンダティ・ロイ
(Arundhati Roy、1961年11月24日 -)は、インドの作家、批評家、活動家。処女作『小さきものたちの神』でブッカー賞(1997年)を受賞し、一躍世界からの注目を集めた。2002年にはラナン文化自由賞を受賞。1961年、インド北東部メーガーラヤ州シロンにて茶農園を営む一家に生まれる。母親は、ケーララ州出身のシリア教会キリスト教徒で女性権利運動家のメアリー・ロイ。少女時代を母親の故郷ケーララ州で過ごした後、ニューデリーで建築を学び、建築家の夫と初婚。

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
(Srinivasa Aiyangar Ramanujan、1887年12月22日 - 1920年4月26日)はインドの数学者。極めて直感的、天才的な閃きにより「インドの魔術師」の異名を取った。15歳のときにジョージ・カー(George Shoobridge Carr)という数学教師が著した『純粋数学要覧』という受験用の数学公式集に出会ったことが彼の方向性を決めた。1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない、つまらない数字だったよ」これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」実は、1729は次のように表すことができる。1729 = 123 + 13 = 103 + 93すなわち、1729が「A = B3 + C3 = D3 + E3」という形で表すことのできる数 A のうち最小のものであることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。

P.R.サーカー
(Prabhat Ranjan Sarkar、1921年5月21日 - 1990年10月21日)はインド人の哲学者、思想家、社会改革者、詩人、作曲家、言語学者。同時にタントラ(アナンダ・マルガタントラ)とヨーガの指導者の1人として知られる。彼は生涯を通して様々な発表を行い、中でも今日のネオヒューマニズム哲学並びに社会周期説、進歩的活用理論PROUT=Progressive Utilization Theory)、Microvitum(マイクロヴァイタム)の理論などを提唱し、その土台を作ったことで知られる。

チャンドラセカール・ラマン
(Sir Chandrasekhara Venkata Raman、1888年11月7日 - 1970年11月21日)はインドの物理学者。1930年のノーベル物理学賞受賞者。ラマン効果 (ラマンスペクトル)の発見者である。タミル・ナードゥ州のティルッチラーッパッリ生まれ。アーンドラ・プラデーシュ州のヴィシャーカパトナムで育つ。マドラス管区大学で学び、1917年にコルカタ大学の教授となる。そこで、光学の研究を行った。インド本国で研究したインド人研究者としては初めてのノーベル賞受賞者である。

プーラン・デーヴィー
1963年8月10日 - 2001年7月25日)は、インドのダカイト(ヒンディー語:???? ?akait、英語:Dacoit)という盗賊から転身した政治家。女性。両親の取り決めに従い11歳で結婚したが、年上の夫から虐待された末に婚家から追い出される。後に盗賊団に入り、他の盗賊団との抗争をきっかけに頭目となる。「盗賊の女王」と称され、多くの強盗と殺人を犯した。しかし、プーラン・デーヴィーを義賊とみなす人々からは広く慕われた。

ヴィスワナータン・アーナンド
Viswanathan Anand、1969年12月11日 - マドラス、現在のチェンナイ生まれ)はインドのチェスプレーヤーでグランドマスター。15歳の時にインターナショナル・マスターになり、翌年インドチャンピオンになり、さらに翌年には世界ジュニアチャンピオンとなった後、18歳で同国初のグランドマスターになるという快挙を成し遂げた。若いころは特に驚異的な早指しで有名で、それはトップレベルの大会に参加するようになってもほとんど変わらなかった。

インド India
南アジアに位置し、インド亜大陸を占める連邦共和国で、イギリス連邦加盟国である。パキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。10億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。

1947年のイギリスの植民地からの独立の際、それまでのインドは、インドとパキスタンに分裂した。その後、パキスタンの飛び地となっていた「東パキスタン」が1971年にバングラデシュとして独立している。

ニューデリー
ニューデリNew Delhiは、インドの首都。デリー首都圏の行政区である。インドを代表する世界都市の一つ。アジア有数の大都市である。2010年、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、第45位の世界都市に選ばれている。 イギリス領時代の1911年、コルカタからデリーにインドの行政府所在地が移された。その際に、デリー市街(現オールドデリー)の南方約5km程の場所に行政都市として建設されることとなった。これがニューデリーの始まりである。

デリー
(Delhi)はインド北部の大都市圏で、同国の商業・工業・政治の中心地の1つ。面積1,483km2、人口は1,100万人で、南アジアを代表する世界都市の一つ。デリー首都圏を構成し、ニューデリーとオールドデリーに分けられる。古くは現在のオールドデリーだけの町であったが、イギリス統治下の新しい首府としてニューデリーが建設された。イギリスの設計と建設による新都市部分をニューデリーと呼び、古くからある町をオールドデリーと呼んでいる。

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外務省:インド
在インド日本国大使館


アーグラ
Agra はインドのウッタル・プラデーシュ州に属する都市。同州最大の都市で、人口は約131万6千人。アグラとも表記する。世界遺産に登録されているタージ・マハル廟、アーグラ城塞があることで知られる。

アフマダーバード
Ahmadabad, グジャラート州に属する。"Ahmedabad" とも表記される。2010年の都市的地域の人口は537万人であり、世界第54位、同国では第7位である。農業、綿織物業が盛ん。イスラム教徒が比較的多く(住民の2割程度)、多くのモスクが建てられている。ジャイナ教の寺院も多い。近代的な都市で郊外に工場が多く、経済的には恵まれている。

チェンナイ
Chennaiは、南インドの東側コロマンデル海岸沿いの、ベンガル湾に面するタミル・ナードゥ州の州都。インド有数の世界都市であり、人口は468万人。2011年の都市圏人口は769万人であり、同国第4位である。1996年にマドラス(Madras)から正式に改名された。

ハイデラバード
インド中南部アーンドラ・プラデーシュ州の州都。インド陸軍、空軍の一大駐屯地である、近接する双子都市セカンダラバードをあわせた州都領域は、259km2にわたって拡がっている。両都市は、フセイン・サーガル(湖)をはさんで隣り合わせるように位置する。4つの光塔をもつ大建造物は、クトゥブ・シャーヒー王国の伝説的最高傑作である。

プネー
Puneデカン高原に位置するインド・マハラシュトラ州で二番目に大きな都市。 植民地時代に付けられた英語名称「プーナ(Poona)」も以前は公的な名称として併用されていたが、1999年に現地マラーティー語での名称「プネー」が公式名称として採用された。


チェンナイ国際空港
Chennai International Airportは、インドタミル・ナードゥ州の州都チェンナイ(マドラス)にある国際空港。市内から17km南方にある。

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アフマダーバード空港
Ahmedabad Airportは、インドのグジャラート州アフマダーバードにある空港である。国際線と国内線の二つのターミナルがある。駐車場は7ヵ所あり、現在追加の30ヵ所が建設中である。

インディラ・ガンディー国際空港
Indira Gandhi International Airport)は、インド共和国の首都デリーにある国際空港。

ラジーヴ・ガンディー国際空港
(Rajiv Gandhi International Airport)とは、インドのアーンドラ・プラデーシュ州ハイデラバード郊外にある空港。ハイデラバード国際空港 (Hyderabad International Airport) とも呼ばれる。


インドの鉄道
インドの鉄道は国有(インド鉄道)であり、総延長は62000kmを超えて世界第5位(アメリカ・ロシア・カナダ・中国に次ぐ)である。最初の路線は1853年に開業したボンベイ〜ターネー間約40kmで、日本の1872年よりも早く、アジアでは初めてのものであった。


アリーガル・ムスリム大学
Aligarh Muslim Universityとは、インドの大学。ウッタル・プラデーシュ州のアリーガルにある。インド近現代史において、インド人ムスリムの民族運動に重要な役割を果たした。様々な専攻を有する総合大学であり、とりわけアフリカ・西アジア・東南アジアなどから留学生が訪れる。

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マドラス大学
(University of Madras)は、インドのタミル・ナードゥ州チェンナイにある大学である。チェンナイの市内に、チェーパウク、マリーナ、ギンディ、タラマニの4つのキャンパスがある。ムンバイ大学およびコルカタ大学と並んで、インドの最も古い三大学のうちのひとつである。

インド理科大学院
The Indian Institute of Science / IIScはインドの国立の高等教育機関のひとつであり、バンガロールに設置されている。修士課程および博士課程を開設しており、48の専攻研究科と2000人以上の研究者を擁する。公式サイト

インド工科大学
Indian Institutes of Technology / IITs)は、工学と科学技術を専門とする、インドの15の国立高等教育機関の総称である。国家的な重要性を有した研究機関と位置づけられ、研究水準の高さは国際的にも認められている。


コルカタ
Kolkataはインドの西ベンガル州の州都。世界屈指のメガシティ。2001年の人口は458万人。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,553万人であり、世界第13位、インドではムンバイとデリーに次ぐ第3位である。かつては英語圏では英語化された音でカルカッタ(Calcutta)と呼ばれた。元の名前はカリカタで古い文献にもそのように記されている。

ムンバイ
ムンバイMumbaiはインドの西海岸に面するマハーラーシュトラ州の州都である。インド最大の都市であり、南アジアを代表する世界都市の一つである。市域人口は1383万と世界でも有数。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は2,125万人であり、世界第3位である。2008年のムンバイの域内GDPは2090億ドルで、世界第29位である。天然の良港に恵まれていることもあり、国全体の海上貨物の半数以上を担う港湾都市でもある。

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バンガロール
Bangaloreは、インド南部・カルナータカ州の州都。南アジア有数の世界都市。デカン高原の南、カルナータカ州南西部のマイソール(Mysore)高原の上に位置し、標高は920m。都市の人口は616万人(2006年)に達し、インド第3の人口である。2010年の都市的地域の人口では715万人であり、世界第39位、インドでは第5位である。


パータリプトラ
Palibothra、は、古代インドの都市。現在のビハール州の州都パトナにあたる。マガダ国の都で、古代インド世界の中心都市の1つとして繁栄した。パータリプトラにいつ頃から人が住んでいたのかは定かではない。元々は川沿いの小さな村に過ぎなかった。紀元前6世紀か紀元前5世紀頃、マガダ国の王アジャータシャトルが、外征のための拠点として、(特にガンジス川を渡河するために)この地に城を築いた事から整備が進み、河川の合流点に位置し地の利のあるこの都市は急速に発展した。

カリカット
Calicut)はインド西南部、ケーララ州のアラビア海に面する港湾都市。ムスリム商人の寄港地となり、旅行家イブン・バットゥータも立ち寄っている。1407年には、明朝の鄭和がカリカット(古裏)に寄航している。1498年、アフリカ東岸のマリンディを出発したヴァスコ・ダ・ガマが来航し、その後、オランダやイギリスが支配した。インド綿織物の輸出港として知られ、キャラコの語源ともなった。

ポンディシェリ
Pondicherry)は、インド東海岸タミル・ナードゥ州隣接地域に位置するポンディシェリ連邦直轄地域の首府。元フランスの植民地。17世紀から18世紀にかけてフランス領インドの首府であり、その後も非軍事的な植民地として英領インドのなかでフランス領として存続した。

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ポートブレア
(Port Blair)は、インドのアンダマン諸島とニコバル諸島からなるインド連邦直轄地域、アンダマン・ニコバル諸島最大の都市。アンダマン・ニコバル諸島連邦直轄地の行政府所在地であり、アンダマン諸島の南アンダマン島、その南東岸にある。2001年における人口は、99,984人。

ジャイプル
Jaipur、はインドの都市。デリーの南西約260kmに位置し、ラージャスターン州の州都である。2010年の都市的地域の人口は305万人であり、世界第112位、同国では第11位である。約10kmの赤い城壁に囲まれ、別名「ピンク・シティー」と呼ばれる。

ラクナウ
(Lucknow、インドの都市で、ウッタル・プラデーシュ州(Uttar Pradesh)の州都。ニューデリーの南東約500kmにある。2001年の人口は2,207,340人。気温の変化は大きく、冬季には3℃、夏季には45℃になる。街の名前ラクナウの起源については諸説あり、そのうちの一つがこの地に長く逗留したラーマ王の兄弟ラクシュマナ(Lakshmana)に由来するという説である。

スーラト
Surat、は、インド北西部にあるグジャラート州南部の港湾都市である。 人口281万人。インドでは第9番目に人口が多い都市である。2010年の都市的地域の人口は403万人であり、世界第60位、同国では第9位である[1]。ムガル帝国時代の主要な商業・貿易都市。 1608年、イギリス東インド会社の商船隊が寄港し、 1612年には商館を設けている。しかし、17世紀後半にマラーター王国のシヴァージーによる攻撃を受けて衰退していった。

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カーンプル
Kanpur,は、インド、ウッタル・プラデーシュ州の工業都市である。面積1040平方キロメートル、人口414万人。ガンジス川の舟運と五幹線鉄道により農畜産物、工業製品の取引が盛ん。首都デリーとは鉄道で非常に良好に連絡されている。

インドール
Indore)は、インドマディヤ・プラデーシュ州南西部のインドール郡の郡都である。人口160万人。 近郊にDevi Ahilyabai Holkar International Airport(IATA: IDR, ICAO: VAID)があり、インド国内主要都市と結ばれている。

パトナ
Patna,インドのビハール州の州都である。面積3,202 平方キロメートル、人口137.7万人。紀元前5世紀ごろ、マガダ国の首都パータリプトラが置かれ、紀元前3世紀にインド亜大陸の大半を統一したマウリヤ朝、紀元後の西暦4世紀成立のグプタ朝の都もあった古代インド世界の中心都市の1つであった。

ナーグプル
Nagpur,は、インド中西部のマハーラーシュトラ州の都市である。面積218平方キロメートル、人口242万人。ナグプル、ナグプールとも表記する。インドでは高品質なオレンジの取引で知られ、マラーティー語で「サントラ・ナガリ」(オレンジシティの意)の異名を持つ。

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レー
Leh)はインド北部、ラダック地方最大の中心都市で、地方政府と解釈されるラダック自治山間開発会議の議会がある旧王都である。標高は約3650m。チベット文化圏に属する。交通は不便で通常デリーから空路1時間でレー空港に降り立つことになる。タクランラ峠(タグランラ峠、またはトンブラ峠とも。標高5360m)越えの陸路(約22時間)は夏季しか通じない。一説にラサにあるポタラ宮の建設の際に、モデルになったといわれているレーパレスがある。

ターネー
Thane)は、インドのマハーラーシュトラ州の都市である。面積147平方キロメートル、人口126万人。ムンバイーの衛星都市として発展してきた。かつて植民地時代につけられた英語名称「Thana」も最近までは多く使用されていたが、近年インド各地で起きている地名の正式名称を現地語でのそれへ変更しようという風潮のなか、現在では現地マラーティー語の名称が使用されている。

ルディヤーナー
Ludhiana)は、インド北部のパンジャーブ州の都市である。人口139.5万人。サトルジ川(サトラジ川とも)の岸に位置している。インドの主要オートバイメーカーであるヒーロー・ホンダの母体企業ヒーロー・サイクル(ヒーロー財閥)の本拠がある。

ヴァドーダラー
(Vadodara,は、インド西部のグジャラート州の都市である。面積148.22平方キロメートル、人口約160万人(2012年)。インドの都市圏で16番目、グジャラート州で3番目に人口の多い都市であり、州の人口のおよそ7%が集中している(2001年人口統計)。

アンダマン・ニコバル諸島
Andaman and Nicobar Islands)は、インド洋のベンガル湾南部に位置する、インドの連邦直轄領。北緯10度線の北側がアンダマン諸島、南側がニコバル諸島。主都はポートブレア。インド政府が国防上の理由により、外国人の立ち入りを制限している。

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ボーパール
(Bhopal,インド中部のマッディヤ・プラデーシュ州の州都である。面積285平方キロメートル、人口143万人。この都市にある米国企業ユニオンカーバイド社の化学工場で、1984年に起こった事故については、ボーパール化学工場事故を参照。

ボパール化学工場事故
1984年に発生した世界最悪の化学工場事故である。現在も工場から漏れ出した化学物質による周辺住民への健康被害が続いている。また工場を管理していたユニオンカーバイド社への訴訟や責任問題は未解決である。1969年、アメリカのユニオンカーバイド社の子会社であるユニオンカーバイド・インディア(Union Carbide India Limited: UCIL)が、自社の『セヴィン』と呼ばれる殺虫成分(カルバリル)を生産するために、インドのマッディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールに生産拠点を置いた。セヴィンを生産する際に使用されるイソシアン酸メチル(MIC)の生産プラントが増設されたのは、後の1979年のことである。1984年12月2日 - 12月3日にかけての深夜、イソシアン酸メチルの入ったタンクの中に水が流入し、発熱反応が起きた。それによりタンク内の温度は200℃にまで上昇し、一気に圧力が上昇、約40tのイソシアン酸メチル (MIC) が流出し、有毒ガスが工場周辺の町に流れ出した。工場の近隣市街がスラムという人口密集地域であったこと、また事件当夜の大気に逆転層が生じて有毒ガスは拡散せず滞留したため、夜明けまでに2000人以上が死亡、15万から30万人が被害を受けた。その後数箇月で新たに1500人以上が死亡するなど被害は拡大し続け、最終的にはさまざまな要因で1万5000人 - 2万5000人が死亡したとされる。


インド憲法
第二次世界大戦後のインドの憲法。基本的な政治原則の定める枠組みを規定し、組織、手続き、権利と義務、政府を制定し、基本的人権、インドの指導原理、市民の義務が記されている。世界の独立国の憲法の中で、最も長い成文憲法であり、22の編と395の条項、12の別表、110の修正条項があり、英語版では全部で117,369文字に及ぶ。英語版の他、ヒンディー語の公式訳が存在する。

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インド国民会議
Indian National Congress、[略号:INC]、世界では中国共産党に次いで規模が大きい政治団体である(民主主義国家の中では世界最大)。中道左派で民主社会主義を掲げる場合もあるが、同時に保守やポピュリズムの傾向も強い。設立当初のメンバーは、教育を受けた中間層エリート、産業界の代表らから成り、大衆にまで広く浸透していた団体とはいえなかったが、一貫して「民族的団結の強調」「英国による対印抑圧政治の批判」「民衆の貧困」を強調したことは、民族運動初期のインド大衆世論の形成に大きな役割を果たした。

ジャナタ・ダル
Janata Dal、は、インドの政党。1980年のローク・サバー(インド下院)総選挙で旧ジャナタ党(人民党)が分裂・崩壊したのち、インド国民会議を離党したビシュワナート・プラタップ・シン(V.P.シン)が中心となってジャナタ党勢力の中道および中道左派を糾合し政治改革を掲げて1988年に結成された。民主社会主義およびリベラルの傾向が強い、穏健中道政党だった。

インド人民党
1998年から2004年までアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(バジパイ)を首相に同党中軸の国民民主同盟(National Democratic Alliance:NDA)連立政権を率いた。ヒンドゥットゥヴァとインテグラル・ヒューマニズムを掲げているヒンドゥー至上主義(英語版)政党でイスラム教やキリスト教をインドの価値観に合致しないとして批判するが、シヴ・セーナーに比べ穏健である。

統一進歩同盟
United Progressive Alliance [略称:UPA]は、インドの政党連合。インド国民会議を中軸とし、2010年現在、マンモハン・シン政権を支える与党の地位にある。
2004年のローク・サバー(インド下院)総選挙でインド国民会議を軸とする各州レベルの選挙協力が成功し、勝利したことを受けて、インド国民会議と連携した各党のあいだで連立政権を樹立するため急きょ結成された。議長には、インド国民会議総裁のソニア・ガンディーが就いた。首相にはマンモハン・シンが就き、共産党などによる左翼戦線の閣外協力を得て政権を樹立した。

全インド・ムスリム連盟
All-India Muslim League)は、インドの政党。回教徒連盟とも称される。後にインド国民会議と対立しパキスタンを建国、一党独裁体制を敷いた。1958年のクーデターで活動を停止し、その後党は改変され、パキスタン・ムスリム連盟に引き継がれている。


インド哲学
darsana、ダルシャナ)は、哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。しかし、伝統的に宗教的な人々は哲学的な議論をしてその宗教性を磨いている伝統がある。

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インドの教育
インドの教育は古くからの伝統を持つが、現在行われている教育は伝統的なものからかなり離れている。インドには、世界でも一定の評価を得ている大学がある一方で、識字率100%を目指した初等教育の試みは長い間の試練を経験している。貧しい子供たちを学校に継続して通わせる努力、そして非都市部における教育の水準を保つ努力が継続されてきた。

インドの映画
インドは年間映画制作本数も映画館観客総数も世界一多い映画大国である(2003年には877本の長編と1177本の短編が公開された)。インド映画は、娯楽としての質や出演女優の人気などのため、インド国外でもインド系住民を中心に人気があり、特に東南アジア、南アジア、西アジア、アフリカ諸国で高い人気を博している。


インド料理
フランス料理・イタリア料理・中国料理・日本料理などと並ぶ世界的な料理スタイルのひとつ。インド料理の特徴は、スパイスを多種かつ大量に使うことと、唐辛子の辛味である。インド亜大陸は広大であるので、地域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。北インド系と南インド系に大別でき、それぞれに菜食料理と非菜食料理が発達している。

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1.面積:328万7,263平方キロメートル(インド政府資料:パキスタン、中国との係争地を含む)
2.人口:12億1,000万人(2011年国勢調査(暫定値))人口増加率17.64%(2001-2002年:2011年国勢調査(暫定値))
3.首都:ニューデリー(New Delhi)
4.民族:インド・アーリヤ族、ドラビダ族、モンゴロイド族等
5.言語:連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21
6.宗教:ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)

1947年 英国領より独立
1950年 インド憲法の制定
1952年 日印国交樹立、第1回総選挙
1950年代〜 コングレス党が長期間政権を担当
(但し、1977〜1980年、1989〜1991年を除く)
1990年代 経済自由化政策の推進
1998年 インド人民党(BJP)を中心とする連立政権が成立
2004年 コングレス党を第一党とする連立政権が成立
2009年 コングレス党を第一党とする連立政権(第2次マンモハン・シン政権)が成立

9.主要貿易品目(1)輸出 機械機器、石油製品、化学関連製品、既製服、宝石類、農産物(2)輸入 原油・石油製品、資本財、金・銀、宝石類 、有機・無機化学品
(2009年度:インド政府資料)


ルピー
Rupeeは、インド・パキスタン・スリランカ・ネパール・セーシェル・モーリシャスで使用されている通貨の名称。インドネシアなどのルピア (Rupiah)、イタリア領ソマリランドやポルトガル領インドのルピア (Rupia)、モルディブのルフィヤー (Rufiyah) も、ルピーから派生した言葉であり、ルピーと呼ばれることもある。

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インドの経済
世界で11番目の規模であり、2011年推定でGDPは約1兆6761億ドルに達する[2] 。約12億人という世界第2位の人口規模(インドの人口動態(en))であることから、2011年の一人当たりのGDPは1,388ドル(購買力平価換算では3,693ドル)[2]であり、世界平均と比較しても大幅に低い水準である。


マハトマ・ガンディー
モハンダス・カラムチャンド・ガンディーMohandas Karamchand Gandhi, / 1869年10月2日 - 1948年1月30日)は、インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。

イギリス領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンディーと、その夫人プタリーバーイーの子として生まれた。ポールバンダルの小学校に入学後、ラージーコートの小学校に入りなおす。成績が悪く融通もきかない面があった。小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。13歳の若さ(インド幼児婚の慣習による)で生涯の妻となるカストゥルバと結婚。18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強する。

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卒業後、1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。しかし、白人優位の人種差別政策下で、鉄道の一等車への乗車を拒否されるなどの差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。

「狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか」


ボンベイ・サファイア
ボンベイ・サファイア (Bombay Sapphire) とはバカルディ社の子会社ボンベイ・スピリッツ社がイングランドのチェシャー州で製造しているジンのブランド名である。1987年より発売されている。製品の流通はバカルディ社が行っている。原材料と蒸留方法において際立っている。伝統的な原材料であるジュニパーベリーに加え、9つの香料と植物(アーモンド、レモンピール、スペインカンゾウ、オリスルート、セイヨウトウキ、コリアンダー、シナニッケイ、ヒッチョウカ、マニゲット)が加えられている。通常、アルコール分と香料は混ぜ合わされて蒸留されるが、このスピリッツは蒸留され、その蒸気がハーブやスパイスを通されるため、薫り高いジンに仕上がっている。この特殊な香り付けの方法をヴェーパー・インフュージョン製法(vapor infusion)と呼ぶ。


スバス・チャンドラ・ボース
Sir Rabindranath Tagoreはインドの詩人 、思想家である。詩聖として非常な尊敬を集めている。インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者で、タゴール国際大学の設立者でもある。幼い頃より詩作を能くしたがイギリス流の厳格な教育に馴染めず、3つの学校をドロップアウトする。1878年、17歳でイギリス、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に留学。一年半を過ごすが卒業には失敗。しかし、西欧文化に直接触れたことで詩人として大きく成長したといわれる。

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ラビンドラナート・タゴール
Sir Rabindranath Tagoreはインドの詩人 、思想家である。詩聖として非常な尊敬を集めている。インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者で、タゴール国際大学の設立者でもある。幼い頃より詩作を能くしたがイギリス流の厳格な教育に馴染めず、3つの学校をドロップアウトする。1878年、17歳でイギリス、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に留学。一年半を過ごすが卒業には失敗。しかし、西欧文化に直接触れたことで詩人として大きく成長したといわれる。

オーロビンド・ゴーシュ
Sri Aurobindo Ghose1872年8月15日 - 1950年12月5日は、インドの反英独立運動家、宗教家、霊性指導者、ヨーガ指導者、インド哲学者、詩人、神秘思想家、インテグラル・ヨーガの創始者。彼の支持者は、彼を神の化身とみなした。オーロビンド・ゴーシュは、1872年8月15日にコルカタで生まれた。彼の父は、K. D.ゴース博士であり、母はスワナラータ・デービーといった。イギリスに在住し、アバディーン大学で学んだゴース博士は、彼の子供たちにヨーロッパ式の躾を完璧に施し、ダージリンのロレト・コンヴェント・スクールに通わせることを固く決心していた。

サタジット・レイ
Satyajit Ray, 1921年5月2日 - 1992年4月23日は、インド東部の大都市コルカタ出身のインドを代表する映画監督、また、小説家である。世界的に知られており、代表作に『大地のうた』など。父親はベンガル文学の著名な作家という裕福な家庭に生まれ、画家を目指していた。コルカタ大学を卒業後に広告会社に勤務し、レイアウトや挿絵などを描いていたが、映画製作に興味を持つようになった。

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ラドヤード・キップリング
Joseph Rudyard Kipling, 1865年12月30日 - 1936年1月18日は、イギリスの小説家、詩人で、イギリス統治下のインドを舞台にした作品、児童文学で知られる。ボンベイ(ムンバイ)生まれ。19世紀末から20世紀初頭のイギリスで最も人気のある作家の一人で、代表作に小説『ジャングル・ブック』『少年キム』、詩『マンダレー』など。

プラティバ・パティル
Pratibha Devisingh Patil、1934年12月19日 - は、インドの政治家。同国初の女性大統領。ニックネームは「プラティバ・ターイー(伯母さん)」現在マハラシュトラ州となっているジャルガーオン地区のナドガーオンという小さな村で生まれる。文学修士号を取得するまで地元のジャルガーオンで学び、その後ムンバイの国立法科大学ムンバイ校で法学修士の学位を取得する。

バール・ガンガーダル・ティラク
Bal Gangadhar Tilak。1856年7月23日-1920年8月1日は、インドの民族主義者、教師、社会改革者、そして、最初期のインド独立運動で活躍した政治指導者である。イギリス政府は、軽蔑的に、ティラクのことを「インドにおける社会的動揺の父」としてのリーダーと呼んだ。イギリス政府の見方とは別に、ティラクはインド人からは、Lokmanya、すなわちインド人のリーダーという尊称をも併せ持った。

インディラ・ガンディー
Indira Priyadarshini Gandhi1917年11月19日 - 1984年10月31日はインドの女性政治家で第5代、8代首相。インドの初代首相であるジャワハルラール・ネルーは父。息子にラジーヴ・ガンディー、サンジャイ・ガンディーがいる。インディラは父ネルーが独立運動に従事し、何度も投獄されるのを目の当たりにしながら幼少期を過ごす。なお、ネルーの著書『父が子に語る世界歴史』は、独立闘争で獄中にあった彼が、娘であるインディラに書き送った手紙が基になっている。

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ラジーヴ・ガンディー
Rajiv Ratna Gandhi, 1944年8月20日 - 1991年5月21日は、インド第9代首相。母は、インドの首相を務めたインディラ・ガンディーで、父はフィローズ・ガンディー、ラジーヴは彼らの長男である。母の死に伴い、1984年10月31日に40歳という若さでインドの首相となり、1989年に辞職するまで大国インドの舵をとった。1984年、宗教的狂信者によって母が暗殺されたことをうけて、インド国民会議の幹部達は彼にインド首相となるよう説得した。ラジーヴは、1984年の選挙でインド国民会議を勝利に導き、議会で最多与党とした。

アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー
Atal Behari Vajpayee、1926年12月25日 - は、インドの政治家。日本では主にバジパイと表記されることが多い。第13、16代首相。インド大衆連盟(ジャン・サング)、ジャナタ党、インド人民党の創設者。マディヤ・プラデーシュ州のグワーリヤル市出身。Master of Arts(政治学)の学位を有する。ジャーナリストとして活動していた。詩を趣味とし、詩人として詩集を出版している。

ソニア・ガンディー
Sonia Gandhi、1946年12月9日 - は、インドの政治家。インド国民会議総裁。統一進歩同盟(UPA)議長。イタリア北東部のヴェネト州ヴィチェンツァ県ルジアーナに生まれ、カトリック教徒の家庭で育つ。そこでケンブリッジ大学に留学していたラジーヴ・ガンディーと知り合い1968年に結婚した。ラジーヴの母のインディラ・ガンディーは当時インドの首相であったが、結婚してしばらくの間はラジーヴもソニアも政治に関わることはなかった。しかしラジーヴは弟のサンジャイ・ガンディーが1980年に飛行機事故で死亡すると政界に入り、さらに1984年に母のインディラが暗殺されると、その後を引き継いで首相に就任することになる。そしてソニアはインドのファーストレディとなった。

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ラーフル・ガンディー
Rahul Gandhi、1970年7月19日 - は、インドの政治家。インド国民会議所属。2009年現在、ウッタル・プラデーシュ州アメーティー選挙区選出の下院(ローク・サバー)議員[2]。ラーフル・ガンディーは、初代インド首相ジャワーハルラール・ネルーに連なるインド政治界きっての名門一族の出身である。母は国民会議派の現総裁ソニア・ガンディー、父は元インド首相で1991年に暗殺されたラジーヴ・ガンディーである。また、祖母は同じく元インド首相で1984年に暗殺されたインディラ・ガンディーである。

マンモハン・シン
Manmohan Singh、1932年9月26日 - はインドの政治家、経済学者。第17代首相。シンは貧しい環境で育ったため、貧困克服の手段を学ぶことで故郷への貢献を果たそうと経済学者を志す。そしてチャンディーガルのパンジャーブ大学で経済学を学び、1952年に学士、1954年に修士の学位をそれぞれ取得する。1955年にはイギリスのケンブリッジ大学セント・ジョーンズ・カレッジに留学。ここで彼は優秀な成績を収めた学生に送られる「アダム・スミス賞」と「ライト賞」を授与されている。

釈迦
紀元前463年? - 紀元前383年?)は、仏教の開祖である。本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として現在のネパールのルンビニで誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となったことを成道という。

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ラーマクリシュナ
1836年2月18日 - 1886年8月16日)はインドの宗教家。ラーマクリシュナは近代の代表的聖人と呼ばれ、イギリスの植民地支配が経済の貧困を強め、西洋から流入する文化によって伝統文化が蔑まれた19世紀のインドにあって、インド伝統の豊かな精神文化を体現し、インド人に誇りを取り戻させ希望を与えたという。

シュリ・シュリ・ラビ・シャンカール
1956年5月13日 - )は、インドの宗教家、ヨーガ指導者、アート・オブ・リビング財団の創立者。現在56歳。シュリ・シュリ・ラビ・シャンカールは、1956年5月、インドの南、タミル・ナードゥ州クンバコーナムの村にあるバラモンの家に生まれる。17歳までに現代物理学とヴェーダの知識を習得する。両親の勧めでマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーに師事し、22歳で独立する。

シェーカル・カプール
Shekhar Kapur, 1945年12月6日 - )はイギリス領インド帝国ラホール出身の映画監督である。インドのニューデリーとデヘラードゥーンで教育を受け、会計士になるために22歳でイギリスに渡るが、映像関係の仕事を始めるようになる。1983年に映画監督としてデビュー。1998年に監督した『エリザベス』がアカデミー賞7部門にノミネートされ、注目されるようになった。

ズービン・メータ
(Zubin Mehta, 1936年4月29日 - )は、インド出身の指揮者。ボンベイのゾロアスター教徒の家庭に生まれる。ペルシア系の祖先を持つ。父メーリ・メータも指揮者であり、地元のボンベイ交響楽団の指揮者として活躍。コンサートのみならず、オペラにおいても膨大なレパートリーを誇る。響きは豊潤、スケールは雄大であり、かつての巨匠指揮者を偲ばせる芸風である。1965年にメトロポリタン歌劇場でヴェルディの「アイーダ」、ザルツブルク音楽祭でモーツァルトの「後宮からの誘拐」を指揮し大成功を収めた。

アガスティア
紀元前3000年頃にインドに存在していたと言われている伝説上の人物。インドではリシ(聖仙)とされており、鹿の皮に古代タミル語で書かれた予言を書き残したとされている。この予言は弟子によってパルミラ椰子(Palmyra)の葉に書き写されて残されており、この世に存在するすべての個人に関する予言が残されている(または、葉を見に来る人物を予見しその人物の葉を残した)とされている。

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