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南スーダン共和国
The Republic of South Sudan
アフリカ

アフリカ

■地理
内陸国で、北にスーダンがあり、東はエチオピア、南はケニア・ウガンダ・コンゴ民主共和国、西は中央アフリカと国境を接する。北西はダルフール。スーダンとの国境線は長さ1,937kmに達し、エチオピアとの国境線がそれに次いで883kmである。最高地点は南部のイマトング山地にあるキニエティ山 (標高3187m)である。


北アフリカ
アフリカのうちサハラ砂漠より北の地域を指す。また、マグリブ地域のみを指す場合もある。エジプトやリビアを中心に中東の一部として定義されることも多い。サハラ砂漠をはじめとした砂漠地帯やステップが大部分を占めるがEU諸国と対しており、モロッコやチュニジアのように経済が比較的発達している国が多い。アラブ系のコーカソイドが多いためホワイトアフリカともよばれる。


<歴史>
かつて南部の黒人達はアラブ系やダルフール(バール・エル・ガザル)などの奴隷商人によって奴隷売買されていた。1821年にスーダンの北部はエジプトが、南部は1877年イギリスが占領した。1898年にイギリスとエジプトによる共同統治(アングロ・エジプト・スーダン)が始まった。
■1955年
南部で反乱が起き、第一次スーダン内戦(英語版)が起きた。1956年にスーダン共和国として北部と南部が統一して独立したが、北部の政治的・経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。
■1974年
シェブロンが油田を発見し、その多くが南部に分布していた。民族イスラム戦線の圧力も受け、1983年にモハメド・アン=ヌメイリ政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、イスラム法シャリーアを導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り、南部の3つの州をそれぞれ分割した。
■1989年
オマル・アル=バシールが政権を握るとイスラム政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAを始めとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。
■2002年
ケニアで南北の和平交渉が成立し、2005年1月9日には南北包括和平合意(英語版) (CPA) が署名された。南部は行政上の自治を6年間与えられ、そして北部で適用されているイスラム法シャリーアも南部で適用しない事となった。さらに2011年1月にはスーダンの一部として北部と統一するのか分離独立するのかを決める住民投票も南部で行うこととなった。
■2011年1月
住民投票では予想されたとおり分離独立を選択した。しかし、南部の石油の利権や、同時にディンカ人のンゴック氏族の先住地アビエイの帰属も問われることとなった。 2011年7月9日に、スーダンから分離独立した。新政府を形成するSPLM(スーダン人民解放軍)は元来軍事組織。


「南スーダン」首都の素顔、荒廃しながらもコスモポリタンな街/AFPBB News
【7月6日 AFP】9日に独立する「南スーダン共和国」の首都、ジュバ(Juba)は、20年以上に及んだ内戦で疲弊しきった街だ。白ナイル川の高温多湿な河岸に広がる街には、ブリキ板でこしらえた掘っ立て小屋が立ち並ぶ。道路はたいてい、舗装されていないでこぼこ道だ。それでも、商業の中心地コニョコニョ市場の薄汚れた路地に建築資材の店を構えているウィリアムさんは、誇らしげだ。「ジュバはワシントンやロンドンのようではない。ハルツームやカンパラやナイロビにも劣るかもしれない。それでも新生国家の首都なんだ。誇りに思うよ。この国はまだ赤ん坊だが、われわれがゼロから作り上げていくんだ」


■民族・宗教
アニミズムの伝統宗教とキリスト教を信仰するアフリカ在来の諸民族が多数を占める。北部スーダンでイスラームを信仰するアラブ人が多数を占めているのとは対照的である。この信仰の違いは、南スーダンの独立運動が過激化した理由の一つでもある。

■民族構成
ディンカ人が最も多く、約100万人。他にもシルック人やヌエル人などのナイル系の民族がいる。西部はアザンデ人とジュチャル人、南部からウガンダにアチョリ人やロツフ人がいる。南スーダンは、ナイル系の民族が国家の主流派を占める初の独立国家である。例えば、ウガンダやケニア等も、ナイル系の民族が国民の一部分を占め、かつ国の指導者がナイル系の民族から誕生したことはあったが、国家の主流を占める民族はあくまでバンツー系の民族である。


■言語
イギリス統治時代の影響で英語が公用語であり、教育や北部との取引などで幅広く使われている。ナイル系が多数派であり、母語としてはディンカ語、ヌエル語が主な言語である。共通語として、ピジン言語であるジュバ・アラビア語がジュバ周辺で話されている。


アニミズム
animismは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」などと訳されている。この語はラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である。

民族・宗教
アニミズムの伝統宗教とキリスト教を信仰するアフリカ在来の諸民族が多数を占める。北部スーダンでイスラームを信仰するアラブ人が多数を占めているのとは対照的である。民族構成はディンカ人が最も多く、約100万人。他にもシルック人やヌエル人などのナイル系の民族がいる。西部はアザンデ人とジュチャル人、南部からウガンダにアチョリ人やロツフ人がいる。南スーダンは、ナイル系の民族が国家の主流派を占める初の独立国家である。


ディンカ族
Dinkaは、南スーダンのナイル川流域に居住する民族。自らはジエン(複数形: Jieng, 単数形: Muonyjang)と称する。乾期には河川近郊にて放牧を行い、雨期にはサバンナにてキビやヒエなどを栽培する半農半牧生活を営む。言語的にはナイル・サハラ語族に属しているためヌエル族、ルオ族などのNilotic peoplesの諸語と近しい関係にある。政治的にはヌエル族と敵対関係にある。人口は約100万人。居住地域が広大な範囲にまたがるため方言格差が大きい。

ヌエル族
Nuerは、南スーダンのナイル川支流バハル・アルガザル川、およびソバト川近辺に居住する民族。自らについてはナース(Naath)と称する。西ナイル語族に属しており、東スーダン諸語のひとつヌエル語を解する。1960年代の調査では人口約30万であるが、この数値は言語的に近しいディンカ族の一部を含有している。ヌエル族は経済的価値の基準にウシが利用されており、交換や譲渡を通じた社会関係の構築を行っている。集落は特定の出自集団を核とした血縁関係によって構成され、家族は父系クランの一夫多妻制をとっている。民族全体での政治的統一は無く、文化的共有をなす地域的な部族間での統一が図られている。しばしば部族間での戦闘や抗争が行われるため、これらを調停する役割として司祭職に発達を見た。

アザンデ族
アザンデ族 (Azande) またはザンデ (Zande) 族はアフリカ大陸の現在の南スーダン、中央アフリカ、コンゴ民主共和国にかけて分布するスーダン系民族、ナイル系民族、バントゥー系諸族の混血民族の総称[要出典]。約75万人[要出典]が該当。それぞれが独立した小王国を形成していたが17世紀末にできたクラン(アボンガラ)によって統合された。

アチョリ
Acholi, Acoliは主に現在のウガンダ北部のアチョリ地方(キトグム県、グル県、パデル県)から南スーダン東エクアトリア州マグウィ郡などに住むナイル系民族。人口は1991年のウガンダの国勢調査で746,796人、スーダンに45,000人 (2000年) である。

シルック族
Shilluk, シルクとも。自称: チョロ, Cholloは、スーダン中部の主に白ナイル湾曲部近辺上ナイル州西部に居住する民族。1970年時点の人口は約12万人。南スーダンでは、ディンカ族とヌエル族に次いで3番目に大きいエスニック部族集団である。農耕民であり、一箇所に定住し、シコクビエ、オクラ、ゴマ、スイカ、マメなどの栽培とウシ、ヤギ、ヒツジなどの牧畜を営む。基礎経済単価はウシが重要視され、結婚の際には夫側が妻側へ花嫁代としてウシを贈ることが知られている。父系リネージの分節構造を持ち、支配者層から首長が選出される。

フール人
スーダン西部ダルフールに住む主要民族。ダルフール自体、アラビア語でフール人の故郷/国という意味である。1983年時点の人口は約50万人である。フール人はイスラーム的敬虔さで知られており、アフリカ系としての自覚に誇りを持つことでも知られ、1956年以来の「アラブ系」エリートによる支配的が続くスーダンにおいて政府に反発し続ける背景となっている。


南スーダン政府公式サイト
President Kiir: The New Year brings new hope of building a peaceful nation/The President of the Republic, Salva Kiir Mayardit has extended New Year wishes to all the citizens of the country. In his message to the people of South Sudan as a free nation on Sunday, President Kiir called on the South Sudanese to start the New Year by reflecting on their past to inform the future. The message indicated that a new year brings new hopes, challenges and new opportunities and that the people of the country need to build a peaceful, prosperous, secure, and stable South Sudan.


白ナイル川
White Nileは、アフリカ北東部を流れる河川であり、青ナイル川と共にナイル川の支川を形成している。厳密な白ナイルはスーダン南部でバハル・アル=ジャバル川とバハル・エル=ガザル川が合流して形成されるノ湖から青ナイルと合流するハルツームまでである。

ノ湖
ノ湖は南スーダンの湿地スッドの北部に位置する西からのバハル・エル=ガザル川(英語版)と南からのバハル・アル=ジャバル川(英語版)の合流点に形成された湖。ノ湖を抜けた雨期のナイルが浮遊物で白く泡立って見えるため白ナイルの語源となった。

イレミ・トライアングル
Ilemi Triangle、三角地帯)は、東アフリカのケニアと南スーダンとエチオピアの3ヶ国に跨る地域。「イレミ」はアヌアク族(w:Anuak)の首長イレミ・アクウォン (Ilemi Akwon) の名にちなんでいる。面積は10,320km2から14,000km2と推測されている。

アフリカ連合
アフリカの国家統合体。アフリカ統一機構 (OAU) が、2002年に発展改組して発足した。エチオピアのアディスアベバに本部を置いている。アフリカ統一機構からアフリカ連合への移行のため、2000年7月のロメOAU首脳会議でアフリカ連合制定法(アフリカ連合を創設するための条約)が採択され、各国の批准を待って、2001年に発効した。2002年7月のダーバン首脳会議を経て、アフリカ連合は正式に発足した。


マフディー戦争
Mahdist War)は、19世紀末に行われた植民地戦争である。スーダンのマフディー教徒とエジプト、後に英国軍が戦った。これはマフディーの反乱とも呼ばれ、英国では自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。


■経済
経済は南北内戦により荒廃し、特にインフラの整備が進んでいない。 1人当たりのGDPは1200ドルであり、ガーナとほぼ同額で、ケニアよりずっと多いが、その98%は石油によるものであるので、実際の庶民の生活は決して裕福ではない。一部の富裕層が裕福な暮らしを営み、物価をつりあげ、庶民の生活を圧迫している。


■交通
内戦の影響でインフラは殆ど進んでいない。道路も未整備が多い。独立前の状況は、舗装道路は国内で約60km、ナイル川にかかる橋は1本しかない。スーダン国境からワーウまで248kmの鉄道が延びている。単線で軌間1,067mmの狭軌である。ワーウからジュバへの延伸計画がある。ウガンダとケニアからジュバまでの鉄道計画もある。


サルバ・キール・マヤルディ
Salva Kiir Mayardit、1951年 - は南スーダン共和国の政治家。現在、同国大統領(初代)。南スーダン独立前はスーダン共和国の第一副大統領であり、南部スーダン大統領(第2代)であった。ディンカ人であるが南部スーダン自治政府の初代大統領ジョン・ガランとは部族が異なる。敬虔なキリスト教徒である。1960年代後半からアニャニャ(Anyanya。南部スーダンの部族が結成した組織)に参加して第一次スーダン内戦に参戦した。1972年のアディスアベバ合意の時点ではまだ無名の兵士であったが、1983年にジョン・ガランがスーダン人民解放軍(SPLA)を立ち上げると第二次スーダン内戦では軍事経験の乏しいガランに代わって戦闘を指揮をとるようになりSPLAの参謀長として活躍した。

マヌート・ボル
Manute Bol, 1962年10月16日 - 2010年6月19日は南スーダン出身の元プロバスケットボール選手及び活動家。現在はアメリカ合衆国のカンザス州に住む。身長231cm、体重100kgのボルはゲオルゲ・ムレシャンのデビュー前まではNBA史上最高身長記録の保持者だった。[1] スーダン南部のディンカ族の酋長の息子で、名前の「マヌート」とは「恵み」の意味を持つ。ディンカ族は世界一の長身民族である。父親は203cm、母親は208cmあり、曾爺さんは240cmあったらしい。NBA史において唯一ブロック数がポイント数を上回る選手である。

ルオル・デン
Luol Michael Deng, 1985年4月16日 - はイギリスのプロバスケットボール選手。南スーダンのワーウ出身。北米男子プロバスケットボールリーグNBAのシカゴ・ブルズに所属している。身長206cm、体重100kg。ポジションはスモールフォワード。ディンカ族に生まれたデンは、幼少の頃、スーダン内戦から逃れるためにエジプトに亡命した。エジプトでは元NBA選手であり、同じディンカ族出身のマヌート・ボルと出会う。ボルはバスケットボールをデンの兄に教えると、デンの良き指導者になったという。16歳でアメリカ合衆国ニュージャージー州に引越し、ブレアアカデミーでバスケットボールをプレイした。チームメイトには2005年のNBAドラフトでトロント・ラプターズから指名されたチャーリー・ビラヌエバがいた。アメリカでも徐々に頭角を現すようになると、レブロン・ジェームズの次に優秀な選手であるとの声も聞かれるようになった。

アレック・ウェック
Alek Wek、1977年4月16日 - は南スーダン出身のファッションモデル、女優である。1995年、18歳でランウェイモデルとしてその経歴を開始した。彼女はスーダンのディンカ族出身で、1991年にスーダン内戦から逃れる為、家族と一緒にイギリスに亡命した。彼女は後にアメリカ合衆国に引っ越した。1995年、南ロンドンにあるクリスタルパレスの屋外市場でモデルエージェンシー「モデル1」のスタッフにより、スカウトされた。同年、ティナ・ターナーのシングル『ゴールデンアイ』のミュージックビデオに出演。彼女はU.S. Committee for Refugees' Advisory Councilのメンバーであり、スーダンの状況と同様に難民の有様を世界中に伝えるのを手伝っている。出生国で戦争が起こった為にほかの国へ逃れた彼女自身の経験が、生かされている。その他、ワールド・ヴィジョン、エイズと戦う組織、スーダンの国境なき医師団、ユニセフ大使として活動している。

リエック・マチャル
(Riek Machar Teny、1952年 - )は、南スーダンの政治家。現在、副大統領。独立までは南部スーダン自治政府の副大統領を務めていた。ヌエル族(ヌアー族)。リエック・マチャルはジョン・ガラン大佐率いるスーダン人民解放軍(SPLA/M)の最も初期のメンバーの一人である。1991年、ラム・アコル、ゴードン・コング・チュオルとともに分派SPLAナシル派を結成する。その後1993年から1994年までSPLA統一派に参加し、武装闘争を調整した。

モハメド・アン=ヌメイリ
Gaafar Muhammad an-Numeiry、1930年1月1日 - 2009年5月30日はスーダンの軍人、政治家。同国の革命評議会議長、大統領(第3代)などを歴任した。スーダンの首都であるハルツーム近郊オムドゥルマンのワド・ヌバウィ出身。父は郵便職員で曾祖父はドンゴラのワド・ヌメイリーの族長である。

南スーダン South Sudan
北アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する内陸国である。
2011年7月9日に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した。

ジュバ
Jubaは、南スーダン共和国の首都。中央エクアトリア州の州都。白ナイル川に臨む。人口はおよそ25万人(2008年推計)。標高550m。19世紀にゴンドコロと名付けられた交易所兼使節が現在のジュバの郊外に置かれた。ゴンドコロはハルツームの南1,200kmで白ナイル川東岸にあった。ここはオスマン帝国の駐屯地としては最南端に位置していたが、マラリア(黒水熱)に苦しめられた。1922年にギリシャ人の貿易商がこの地に入り白ナイル川西岸に町を作った。それが現在のジュバである。彼らは現地の部族と良好な関係を構築し、今日のジュバの商業地区を建設した。彼らの建てた銀行やホテルは現在も使用されている。


ジュバ空港
Juba Airportは南スーダンの首都ジュバにある国際空港である。


ジュバ大学
University of JubaまたはJuba University、公用語表記: University of Jubaは、ジュバに本部を置く南スーダンの国立大学である。1975年に設置された。 大学の略称はJU。ジュバ大学は開学以来イスラムやアラブの勢力が強いスーダン政府の管理下にありながらも安定した運営が行われていたが、1989年に第二次スーダン内戦の混乱を避けるという安全上の理由からキャンパスをジュバから数千キロメートル離れたスーダンの首都・ハルツームへ移転した。2005年に南北スーダンの和平協定が締結された後、大学をジュバに戻すことが決まった。2011年7月9日、南スーダン共和国は独立を果たした。その国歌「南スーダン万歳!」の作曲はジュバ大学の学生と教員が担当した。その曲調は柔らかで、軽い感じに仕上がっている。

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スーダン人民解放軍
Sudan People's Liberation Army・Sudan People's Liberation Movementは、1983年にジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら南スーダンの「非アラブ系」の世俗主義者が中心となり結成された旧反政府武装組織・政党。1983年、第一次内戦の元反乱兵の説得ために政府からボルに派遣された軍の大佐だったジョン・ガランは地方分権と民主主義の実現を求め、南北の地域格差是正など「新スーダン」の建設を掲げ、SPLAを立ち上げ、2005年7月30日に死ぬまで議長と最高司令官を兼ねた。


南スーダン/Wikipedia

外務省:南スーダン共和国


ワーウ
Wauは、南スーダンの都市。西バハル・アル・ガザール州の州都である。人口136,932人(2009年)。標高は、438m。住民はディンカ人が多い。スーダンの首都 ハルツームや、海港 ポートスーダンと結ぶ鉄道の終着駅であり、付近の物資の集散地となっている。

ルンベク
Rumbekは、南スーダンの都市。レイク州の州都である。人口は100,000人(2005年推計)。第二次スーダン内戦においては、早くから南部のスーダン人民解放軍(SPLA)の支配下にあり、最大の都市ジュバが、2005年にSPLAの支配下に入り南北の平和合意が出来るまでは、南部スーダンの暫定首都となっていた。付近より難民が流入し、2005年の人口は10万人にまで達したが、南北の戦争によって街は大きなダメージを受けた。

マラカル
Malakalは、南スーダンの都市。国土の北部に位置し、上ナイル州の州都である。人口139,450人(2010年)。白ナイル川の河岸に位置し、市の北でソバト川が合流する。首都ジュバからは650km北に離れている[1]。町の住民の多くはこの地方に古くから住むディンカ人、ヌエル人、シルック人であるが、他地方からの移住者も多い。マラカルに駐屯する南スーダン軍の兵士はバハル・アル・ガザール地方の出身が多い。

バハル・アル・ガザール地方
(Bahr el Ghazal)は、南スーダンの地方。南スーダン北西部に位置し、北バハル・アル・ガザール州、西バハル・アル・ガザール州、レイク州、ワラブ州の4州を指す。この地域は歴史的に、北隣のダルフール地方のフール人に侵略を受け続けてきた。1864年にはエジプトのムハンマド・アリー朝の支配下に入り、エジプトがイギリスの保護国となるとこの地域は両国共同統治領アングロ・エジプト・スーダンの一部となった。

カジョ・ケジ
(Kajo Keji)は、南スーダンの中央エクアトリア州にある町。およそ10万人もの難民が第二次スーダン内戦から逃れて当地へやって来た。聖公会カジョ・ケジ管区の所在地でもあり、アンソニー・ポゴ(Anthony Pogo)が主教を務めている。


アビエイ
アビエイ (Abyei) はアフリカ大陸北東部の内陸部、コルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とするアビエイ地域の地名である。スーダンから南スーダンが独立する以前は、スーダンの南コルドファン州南部の地名であった。一方で、スーダンは、州の下位行政区画に「地区」を設け、南コルドファン州の下位にはアビエイ地区と呼ばれる行政区画名を設けている。

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赤道州
南スーダンの歴史的地域、歴史的スーダンの東スーダンの南部に位置する。奴隷貿易禁圧を口実にムハンマド・アリー朝の依頼を受けたサミュエル・ベイカー率いる遠征隊により1869年に征服、1870年に設置された。スーダン史では1820年代からのちのスーダンの領域がおよそ征服されるまでの時代をムハンマド・アリーがかつてオスマン帝国配下であったことからトゥルキヤと呼ぶ。

上ナイル地方
南スーダン北東部に位置し、北をスーダンと、東をエチオピアと接する。地方名はこの地方を貫流する白ナイル川より取られた。地域の東部にはスッド大湿原が広がる。この地域の住民はヌエル人、シルック人が多く、ディンカ人やアニュワ人も居住する。


西バハル・アル・ガザール州
Western Bahr el Ghazal)は、南スーダンの州。面積93,900 km2、人口333,431人(2008年)。南スーダン10州のうちで最も人口の少ない州である。州都はワーウ。この地方は特に18世紀から19世紀にかけて、近隣のイスラム教首長国の奴隷貿易の被害を最も大きく受けた地域であり、1860年代から1870年代にかけての最盛期には、この地域の人口の75%に当たる40万人もの人口が失われた。

ワラブ州
(Warab、は、南スーダンの州。面積31027km2、人口637 538人(2010年)。州都はクアジョク。西バハル・アル・ガザール州、北バハル・アル・ガザール州、レイク州とともにバハル・アル・ガザール地方に属している。州は7つの郡に分かれている。州北部に接するアビエイ地区をめぐってスーダンと南スーダンとの対立が起きている。


西エクアトリア州
(Western Equatoria)は、南スーダンの州。面積79,319 km2、人口619,029人(2008年)。州都はヤンビオ。南をコンゴ民主共和国と、西を中央アフリカ共和国と接する。中央エクアトリア州、東エクアトリア州とともにエクアトリア地方を構成する。西エクアトリアの経済は良質の木材と農業が基盤である。この地域に住むアザンデ人は2008年には人口1,731,341人を数え、南スーダンで3番目に大きな民族となっていた。

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東エクアトリア州
(Eastern Equatoria)は、南スーダンの州。面積82,542 km2、人口906,126人(2008年)。州都はトリット。西エクアトリア州、中央エクアトリア州とともにエクアトリア地方を構成する。南スーダンの南東端に位置し、南をウガンダと、南東をケニアと、東をエチオピアと接する。

ジョングレイ州
南スーダン共和国にある10州のうちの1州である。面積においては、10州の中で最大の約122,479平方Kmを誇る。 州都はボーであり、ジュバから車で3時間〜4時間の位置にある。2011年末から2012年1月にかけて、ピボル郡に居住するロウ・ヌエル族とムルレ族が対立。ジョングレイ州では、かつてより家畜であるウシをめぐってディンカ族、ヌエル族、ムルレ族などの牧畜民が対立してきた。

ユニティ州
(Unity)は、南スーダンの州。面積35,956 km2、人口585,801人(2008年)。ユニティ州の主要産業は農業及び牧畜である。農業は主に雨季に行われる。都市部より農村部の人口が圧倒的に多いため、野菜などの園芸作物はあまり栽培されていない。また、この州には豊富な石油の埋蔵があり、1970年代にスーダン初の油田が発見されたのもこの州であった。ユニティ油田をはじめとするムグラド盆地の石油埋蔵量は1.5億バレルと推定されている[1]。大ナイル石油パイプラインはユニティ油田が起点となっている。


第二次スーダン内戦
1983年、当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに、南部の非アラブ系住民(大半がアニミズム、一部キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの内戦。ほぼ1955年から1972年の第一次スーダン内戦の続きである。約190万人が死亡し、400万人以上が家を逐われた。第二次世界大戦以降で最も死者の多い戦争の一つである。


1.面積:64万平方キロメートル(日本の約1.7倍)
2.人口:826万人(2008年)(第5回人口調査)
3.首都:ジュバ
4.人種・民族:ディンカ族,シルク族,ヌエル族を筆頭に数十の部族がいるとされる。
5.言語:英語(公用語),その他部族語多数
6.宗教:キリスト教,伝統宗教
7.識字率:27%

1956年1月 スーダン共和国独立
1958年11月 アブード軍事政権成立(1964年10月崩壊)
1965年4月 ウンマ党・国民統一党連立内閣成立
1969年5月 ニメイリ軍事政権成立,スーダン民主共和国に改称
1972年3月 アディスアベバ合意署名。第一次内戦(1955年開始)終結
1983年1月 ジョン・ギャラン率いるスーダン人民解放軍(SPLA)がスーダン国軍を攻撃。二次内戦勃発。
1985年12月 スーダン共和国に改称
1986年5月 民政移管によりマハディ政権発足
1989年6月 軍事クーデタによりバシール軍事政権成立
1996年3月 総選挙実施,バシール大統領当選(2000年12月再選)
2002年7月 マチャコス議定書の締結
2005年1月 南北包括和平合意(CPA)署名
2005年4月 国連スーダンミッション(UNMIS)を設立する国連安保理決議1590号採択
2005年7月 国民統一政府樹立
2007年10月 SPLMが国民統一政府への一時参加停止を表明(同年12月復帰)
2009年3月 ICCがバシール大統領に対する逮捕状発付
2009年7月 常設仲裁裁判所によるアビエ裁定発表
2009年12月 南部住民投票法・アビエ住民投票法成立
2011年1月 南部スーダン住民投票
2011年7月 南スーダン共和国独立

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■主要産業:原油,農業,林業,畜産業,漁業
■貿易品目(1)輸出 原(2)輸入 機械・設備,工業製品,輸送機材,小麦・小麦粉


南スーダン・ポンド
South Sudanese pound)は、南スーダン共和国の通貨。発行は、南スーダン銀行(Bank of South Sudan)。


国際連合安全保障理事会決議1999
United Nations Security Council Resolution 1999は、2011年7月13日に国際連合の安全保障理事会において無投票で採択された、南スーダンの国際連合加盟に関する決議。略称はUNSCR1999。安保理において同国の加盟を検討し、その結果国際連合総会に対して加盟を認めるべきであると勧告するという内容になっている。


東アフリカ共同体
East African Community、略称EACは、ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの東アフリカ諸国により結成された共同体。将来的な地域統合を目指している。共同体機構の本拠地は、タンザニアのアルーシャ市。スーダンと南スーダンの2カ国も加盟申請しているが、このうちスーダンは2011年11月30日に申請が否決された。一方の南スーダンの申請については2012年に協議する予定となっている。南スーダンの加盟に対してはウガンダ、ケニア、ルワンダ[3]が支持を表明している。

2011年南部スーダン独立住民投票
2011年1月9日から15日に実施された、南スーダンの分離独立を求める住民投票。同年2月7日に最終結果が公表され、独立を求める票が圧倒的多数を占めた。これをうけて7月9日には、南スーダンがアフリカでは54番目の独立国家として誕生した。


国際連合南スーダン派遣団
United Nations Mission in the Republic of South Sudan:UNMISS)は、南スーダン共和国に展開する国際連合平和維持活動(PKO)のひとつ。2011年7月9日に北部スーダンから分離独立した南スーダン共和国の平和維持活動を主任務とし、司令部を首都ジュバに置く。活動期間は南スーダン共和国の成立日である2011年7月9日から1年間を予定。約7000名からなる治安維持及び施設整備部隊と警官約900人を加えた8000人規模で構成され、市民保護目的の武力行使が認められている。


ジョン・ガラン
(John Garang de Mabior, 1945年6月23日 - 2005年7月30日)は、スーダンの軍人、政治家。スーダン副大統領、スーダン人民解放軍最高司令官を歴任した。1983年に反政府武装組織のスーダン人民解放軍を結成。死去まで議長と最高司令官を兼務した。2005年7月、乗っていたヘリコプターが墜落し死亡した。なお、この事故直後、首都のハルツームやスーダン南部では暴動や大規模な衝突が発生、80人以上が死亡した。

アリス・アウマ
(Alice Auma, 1956年 - 2007年1月17日) はアチョリの霊媒師、千年王国主義的な聖霊運動 (Holy Spirit Movement, HSM) の指導者。イタリア人将校ラクウェナの霊がアチョリへのキリスト教の聖霊の現れであるとして1986年8月から1987年11月までヨウェリ・ムセベニへの反乱を率いた。ラクウェナの憑依したアリスはアリス・ラクウェナとも呼ばれた。

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ティト・オケロ
(Tito Lutwa Okello, 1914年 - 1996年6月3日) はウガンダの事実上の国家元首、軍人。1979年のイディ・アミンに対するウガンダ・タンザニア戦争時にタンザニア軍と同盟したウガンダ亡命軍の司令官の一人であり、1980年から1985年のウガンダ国軍の司令官であった。前大統領。1985年7月バジリオ・オララ=オケロと共に第二次ミルトン・オボテ政権を倒し、相次いで軍事評議会議長となった。半年でヨウェリ・ムセベニの指揮する国民抵抗軍に敗れて南部スーダンへ逃亡した。

グオル・マリアル
(Guor Marial、1984年4月15日 - )は、陸上選手である。民族はディンカ族で、出身地はスーダン(現在は南スーダン領)ユニティ州パンリエン郡である。第二次スーダン内戦中の難民キャンプから脱走した。紛争中に彼の親族は28人が命を落としており、20年ほど彼は親族と会っていない。2001年頃にアメリカに渡り、難民として永住権を獲得した。2011年10月のマラソンで2時間14分32秒の五輪参加標準記録を突破した。

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