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ウガンダ共和国
Republic of Uganda

アフリカ

■地理
ウガンダは東アフリカ高原に位置し、平均標高1,100mで北のスーダン平原になだらかに下る。中部にキョガ湖があり、南部と共に湿地帯である。全体がナイル盆地の中にあり、ナイル川の水はキョガ湖に続き、コンゴ民主共和国との国境のアルバート湖に注ぎ、そこから北の南スーダンに流れる。


■歴史
16世紀初頭、ブニョロ、ブガンダ、アンコーレ、ルワンダ、ブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立。17世紀中頃、ナルバーレ(ヴィクトリア湖)北西岸のブニョロ王国最盛期。19世紀中頃、ブガンダ王国がザンジバルとの交易で繁栄。その後、カトリック、プロテスタント、ムスリムの間で勢力争いがあり、その背景には、イギリスとドイツ、フランスの権益争いがあった。


ヴィクトリア湖
Lake Victoriaは、ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大(68,800 km2)の湖である。半スワヒリ語ではヴィクトリア・ニャンザ (Victoria Nyanza)とも呼ばれ、タンザニアではウケレウェ (Ukerewe)、ウガンダではナルバーレ (Nalubaale)として知られていた。ナイル川の主流の一つ、白ナイル川の源流となっている。世界第3位の湖水面積を誇り、湖の中にはウガンダ領のセセ諸島 (Ssese Islands) やタンザニアのウケレウェ島をはじめとする約3000の島々がある。

アルバート湖
(Lake Albert) またはモブツ・セセ・セコ湖 (Lake Mobutu Sese Seko) はウガンダとコンゴ民主共和国の間にある湖。大きさは約160 km×30 km。深さは最大51 m。世界第27位、アフリカで7番目の広さである。1864年にサミュエル・ベーカー(w:Samuel Baker)がヨーロッパ人で初めてこの湖を「発見」した。2006年に英国企業がウガンダ側の湖岸で石油を発見、2011年に生産開始が期待される。

白ナイル川
White Nileは、アフリカ北東部を流れる河川であり、青ナイル川と共にナイル川の支川を形成している。厳密な白ナイルはスーダン南部でバハル・アル=ジャバル川とバハル・エル=ガザル川が合流して形成されるノ湖から青ナイルと合流するハルツームまでである。広い意味では源流部のヴィクトリア湖からウガンダ国内を北上し、キオガ湖とアルバート湖を経て、バハル・アル=ジャバル川に至るまでも含む。ヴィクトリア湖からハルツームまでの長さは、約3,700km。用例によるが、広い意味で使われるほうが多い。

キオガ湖
Lake Kyogaは、ウガンダ共和国の中部に位置する湖。大地溝帯に位置し、水面標高は914m。面積は1,720平方キロメートルで、大きくて浅い湖となっている。白ナイル川上流部にあり、ヴィクトリア湖とアルバート湖の間に位置する。北西のランゴ地方・北東のテソ地方と南東のブソガ・南西のブガンダの境界となっている。

エルゴン山
Mount Elgonはウガンダ・ケニア国境に跨がる楯状火山[1]。エルゴンという名は南麓の洞窟に住んでいたとされるエルゲヨ族(ケイヨ族)に因む。マサイ語で "Ol Doinyo Ilgoon"(乳房山)、ウガンダではマサバと呼ばれていた。東アフリカで最も古い火山の一つで裾野はおよそ3,500km2である。

ルウェンゾリ山地
アフリカ中部、ウガンダとコンゴ民主共和国の国境に位置する山地。小規模ながらも壮観な眺めを持つ。最高峰の標高は5109mである。ルウェンゾリの山頂付近は赤道直下にもかかわらず万年雪を冠しているが、アフリカ大陸で万年雪を戴くのはキリマンジャロ山とケニア山、そしてこのルウェンゾリだけである。


大地溝帯
グレート・リフト・バレー、Great Rift Valleyは、主にアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つである。大地溝帯の谷は、幅35 - 100 km、総延長は7,000 kmにのぼる。正断層で地面が割れ、落差100 mを超える急な崖が随所にある。東リフト・バレーと西リフト・バレーに挟まれるように、ヴィクトリア湖があるが、このヴィクトリア湖の形成は大地溝帯の隆起が原因と考えられている。


マールブルグ熱
フィロウイルス科のマールブルグウイルスを原因とする人獣共通感染症。同義語としてマールブルグ出血熱(Marburg hemorrhagic fever)、マールブルグ病(Marburg disease)、ミドリザル出血熱(Vervet monkey hemorrhagic fever)。患者と接触した医療関係者や家族は、接触の程度により一定期間の監視が行われる。[1]1967年、西ドイツのマールブルクとフランクフルト、ユーゴスラビアのベオグラードにポリオワクチン製造・実験用としてウガンダから輸入されたアフリカミドリザルにかかわった研究職員や清掃員など25名が突如発熱、うち7名が死亡するという衝撃的事件が発生。原因はマールブルグウイルスというこれまでに知られていないウイルスによる出血性感染症であった。


ニョロ族
ウガンダの部族。バニョロ族とも呼ばれる。言語はニョロ語。国家としてブニョロを形成しており、一時は完全に国家・王政が廃止されたが、後にウガンダ国内の文化的な指導者という形で形式的な王政復古がなされた。

ガンダ族
ガンダ族(単数 muganda, 複数 baganda)は、ウガンダ共和国ビクトリア湖北岸に居住するバントゥー系民族。ブガンダ王国の主体となった民族で、人口は約150万人。バナナ、サツマイモ、ラッカセイ、コーヒー、綿花などを栽培する農耕民で、鈍器や土器、カヌーなどの工業製品の製作技術を持つ。父系クランを母体とする集団生活を営む社会生活が発達している。一夫多妻制。1966年に王制が廃止されて以降、王室や連邦制の支持者は反政府勢力と看做されることも多く、度々弾圧された。

アンコーレ族
(Ankore) はアフリカ大陸ウガンダ西部のアンコーレ地方に分布するバントゥー語族系民族。約80万人。同じ身体的特徴を持つヒマ、イルを内包した総称であり、ニャンコーレ語を話す。世界一巨大な角を持つアンコーレ牛を飼育することで知られている農耕民族で、15世紀に成立したチュウェジ王朝の末裔が建設したアンコーレ王国に属した。

アチョリ
(Acholi, Acoli) は主に現在のウガンダ北部のアチョリ地方(キトグム県、グル県、パデル県)から南スーダン東エクアトリア州マグウィ郡などに住むナイル系民族。人口は1991年のウガンダの国勢調査で746,796人、スーダンに45,000人 (2000年) である。

アンバ族
Ambaは、ウガンダおよびコンゴ民主共和国に住む部族。ルウェンゾリ山脈沿いのウガンダ・コンゴ民主共和国国境にまたがるサバンナ地帯に住んでいる。ブリブリ・ブウェジの2つの集団がある。


トロ王国
(Toro) は現在のウガンダ南部のバントゥー系の伝統的な王国の一つ。1830年頃にブニョロ=キタラ帝国のオムカマ(王)ニャムトゥクラ・キェバンベ3世の息子カボヨ・オリミ1世が自立して西部に建国したのが始まりで、1876年にはブニョロ王国に併合され、イギリスの軍事力を借りて1891年にイギリスの保護国として「再独立」した。

アンコーレ王国
Ankole, あるいはンコレ王国、Nkoreはウガンダの南西部の伝統的王国の1つ。北にドゥウェル湖(ジョージ湖)を挟みトロ王国、東にブガンダ、南にタンザニア・カゲラ州及びルワンダ東部州、西にキゲジと接し、北西はルウィタンジゲ(エドワード湖)に臨む。

ルワンダ王国
Kingdom of Rwanda,は、1959年から1962年まで存続した[要出典]中部アフリカの国家。現在のルワンダに一致する領域を支配していた。王家は14世紀から継続しているとの伝承がある。ルワンダ王家は伝承上1350年頃から始まったとされ、3代目のニギィニャ朝時代に後のルワンダの領域が欧米諸国の侵略を受けた。ムワミは少数派の牛牧民トゥチのパトロン・クライアント関係の頂点にあり、ムハジ湖周辺から徐々に支配を広げたが、周辺部は農耕民フトゥの支配が維持されていた。

ブルンジ王国
Royaume du Burundiは、1962年から1966年まで存続した中部アフリカの国家。現在のブルンジに相当する領域に成立していた。王朝がいつ頃から始まっていたかは定かでないが、16世紀に成立したとの伝承も存在する。現在のブルンジに相当する地域には、古くから先住民族の部族長による支配体制が確立していた。


<国民>
■言語
英語(公用語)、スワヒリ語、ガンダ語 (Ganda) 、ニャンコレ語 (Runyankole language) 、ニョロ語 (Nyoro language) 、アテソ語、ルオ語 (Luo languages) 、フランス語など
■民族
ガンダ族(バンツー系)、ソガ族、ニャンコレ族、キガ族、ランゴ族、アチョリ族、カラモジョン族(ナイル系)、テソ族、インド系など
■宗教
キリスト教(60%、75%とも)、伝統宗教、精霊信仰(30%)、イスラーム(10%)、アバユダヤ(おもに東部に住むユダヤ教徒)


<世界遺産>
カスビのブガンダ歴代国王の墓
19世紀後半以降のブガンダ王国の歴代国王4人が葬られている墓所を中心としている。この墓所は、ガンダ族にとっての伝統的な拠り所となっている。19世紀半ばにブガンダ王国の王(カバカ、Kabaka)であったムテサ1世 (Mutesa I) は、1882年に現在のウガンダの首都カンパラの北西3kmに位置するカスビの丘に、木、レンガ、ヨシなどで造営された茅葺屋根の宮殿を建てた。2年後に彼が歿すると、宮殿はそのまま彼の墓所となった。
ブウィンディ原生国立公園wikipedia
ブウィンディ原生国立公園は、1991年にウガンダの国立公園に指定された、ブウィンディ原生林の一部である。この公園のなかで有名なのは340頭ほどのブウィンディゴリラである。この頭数は絶滅が危惧されている世界のマウンテンゴリラの頭数の約半分にあたる。この公園には、人に馴れている3つのマウンテンゴリラのグループがある。「ムバレ」「カテンデギェレ」「ルシェグラ」と名付けられた3集団の中で、「ムバレ」が完全に馴らされている。
ルウェンゾリ山地国立公園wikipedia*危機遺産
ルウェンゾリ山地国立公園は、コンゴ民主共和国との国境付近に広がる、ウガンダの国立公園。ルウェンゾリは、現地のバコンジョ人の言葉で「雪を戴いた山」を意味する。その名の通り、アフリカでは3つしかない万年雪を戴く山地である。あと二つはアフリカ最高峰のキリマンジャロ山と第二位のケニア山であり、ナイル川源流とも云われる、標高 5,109 メートルのルウェンゾリ山にはアフリカ第3位のマルガリータ山頂がある。標高 3,000 メートルの高地にはたくさんの奇妙な樹木が生えている。枝のそこかしこについている丸いものは苔のかたまりである。ここは湿度 100 パーセントの霧の森である。この付近は海から吹き付ける暖かい風が上昇するうちに冷やされ、毎日のように霧に覆われる。


■独立
第二次世界大戦後、独立の気運が高まり、1962年に英連邦王国の一員として独立した。翌1963年に共和制へ移行。1966年、首相のウガンダ人民会議のミルトン・オボテが大統領のムテサ2世を排除して終身大統領に就任し、社会主義路線を掲げた。
■1971年
軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握、独裁政治を敷いた。相次ぐ恐怖政治で30万人以上に及ぶ国民が虐殺される。1978年にタンザニアに侵攻したが、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争 (Ugandan-Tanzanian War) )。
■2006年
ウガンダ政府と反政府武装組織「神の抵抗軍」 (LRA) との和平交渉は、双方の戦闘行為停止に関する合意が出来ないまま14日まで休会されることになった。戦闘と敵対的宣伝の停止で合意している。26日、3週間以内にスーダン南部に設けられる2か所のキャンプに集結することで合意した。
■2010年
ウガンダの首都カンパラでソマリアの反政府軍勢力アル=シャバーブ(犯行声明を出した)による同時自爆テロが起き、W杯観戦中の73人が死亡した。政府は、16日、現在ソマリアにアフリカ連合 (AU) ソマリア派遣団 (AMISOM) ウガンダ部隊2500人に2000人増派する方針を明らかにした。


 

ジンジャ
ジンジャ (Jinja) はウガンダ南東部の都市。英領ウガンダ時代の1907年にブソガの南西部に建設された。ヴィクトリア湖から白ナイル川が流れ出す地点の東岸にあり、西に「ナイル川源流」点とナイル川源流庭園とスピーク記念碑がある。カンパラの東北東約87kmでブシアやトロロとのほぼ中間に位置する。対岸はブガンダのムコノ県ンジェル、東にカキラ、北にナブレサ、北西にブドンドと接し、南はナポレオン湾に面する。


イブラヒム・セカギャ
Ibrahim Sekagya、1980年12月19日 - はウガンダ出身の同国代表サッカー選手。ポジションはディフェンダー。母国ウガンダのカンパラシティーFCでプレー中にアルゼンチンのスカウトに発掘される。2001年にアルゼンチン1部リーグのプリメーラ・ディビシオンに属するアトレティコ・ラファエラへ移籍。

オケロ・ピーター
Okhello Peter、男性、1974年6月19日 - は、ウガンダ出身のプロボクサー。本名はピーター・オケロ(Peter Okhello)。緑ボクシングジム所属。2000年12月、緑ジムに移籍。以後は「オケロ・ピーター」を名乗った。2001年3月31日、名古屋センチュリーホールにて空位となった同王座に再挑戦。トーン・フィソ(ニュージーランド)を判定で下し、王座を獲得した。

ミルトン・オボテ
Apollo Milton Opeto Obote, 1924年12月28日 - 2005年10月10日はウガンダの政治家。1962年ウガンダ独立時の首相。1966年クーデターで終身大統領に就任する。基幹産業の国有化を目指して社会主義独裁体制を樹立する。しかし、1971年1月イギリス連邦首脳会議に出席している際に、アミン参謀総長の指揮するクーデターで失脚する。オボテはイギリス領ウガンダ中北部のランゴ地方(現アパッチ県)アココロ村でランゴ族の地域の首長の家庭に生まれた。初等教育は1940年からリラのミッションスクールおよびグルの中学校で受け、ブソガ高校、マケレレ大学へと進んだ。マケレレ大学でオボテは語学の才能を顕したがストライキに参加して追放された。

モーゼス・キプシロ
モーゼス・キプシロ(Moses Ndiema Kipsiro、1986年9月2日 - はウガンダの陸上競技選手。専門は中・長距離走、主に5000mを専門としている。ウガンダ東部ブクウォ県のChemisat出身。世界陸上競技選手権大阪大会男子5000m3位。2009年第37回世界クロスカントリー選手権ではゲブレ・エグジャバー・ゲブレマリアム、ゼルセナイ・タデッセと接戦となったが35分04秒で2位に入賞した。2009年7月28日モナコでIAAFスーパーグランプリヘラクレス国際陸上競技大会の3000mに出場し優勝。

ジョエル・オルウェンイ
Joel Olwenyi、1980年8月28日 - はウガンダのカンパラ出身のクリケット選手。ウガンダよりIOCトロフィーを13回授与されている。2007年にはオーストラリアのダーウィンで開催されたIOCワールドクリケットリーグのディビジョン3ではウガンダチームを率いて決勝でアルゼンチンを破り優勝、ディビジョン2への昇格を果たした。

ドカス・インジクル
Dorcus Inzikuru、1982年2月2日 - は、ウガンダの女性長距離陸上競技選手であり、種目は3,000m障害の選手。2005年の世界陸上選手権の3,000障害で金メダルを獲得し、ウガンダの選手としては、1972年のミュンヘンオリンピックの男子400mハードルで金メダルのジョン・アキブア以来の世界大会での金メダルを獲得した。

イディ・アミン
(Idi Amin Dada Oumee、1925年 - 2003年8月16日)はウガンダの軍人、大統領。元帥、法学博士の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンや1975年にはアフリカ統一機構議長になったこともある。イディはボンボのイスラーム学校でコーランを暗唱、雑務をへて、1946年イギリス植民地軍の王立アフリカ小銃隊に炊事係として雇われた[3]。その体格を生かし部隊内の体育大会で活躍、衆目を浴びる。ボクシングではヘビー級チャンピオンになったほか、白人ばかりのウガンダラグビーチーム唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍中尉にまで昇進する。

ティト・オケロ
(Tito Lutwa Okello, 1914年 - 1996年6月3日) はウガンダの事実上の国家元首、軍人。1979年のイディ・アミンに対するウガンダ・タンザニア戦争時にタンザニア軍と同盟したウガンダ亡命軍の司令官の一人であり、1980年から1985年のウガンダ国軍の司令官であった。前大統領。1985年7月バジリオ・オララ=オケロと共に第二次ミルトン・オボテ政権を倒し、相次いで軍事評議会議長となった。半年でヨウェリ・ムセベニの指揮する国民抵抗軍に敗れて南部スーダンへ逃亡した。

オコト・ビテック
(Okot p'Bitek、1931年6月7日-1980年7月20日)は、ウガンダの作家、詩人、社会学者、サッカー選手。グル県グル出身。高校卒業後、教師として働きながらサッカー選手としてウガンダ代表に選ばれていた。イギリスへとサッカー遠征を行ったのをきっかけにイギリスへと留学し、ブリストル大学、アベリストウィス大学、オックスフォード大学などで学んだ。代表作に『ラウィノの歌』(Song of Lawino、1966年)と『オチョルの歌 』(Song of Ocol、1970年)がある。

イディ・アミン
(Idi Amin Dada Oumee、1925年 - 2003年8月16日)はウガンダの軍人、大統領。元帥、法学博士[2]の肩書も持つ。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンや1975年にはアフリカ統一機構議長になったこともある。アミンは自伝や公式の経歴を残さなかったため、出生地や出生日は不詳である。イギリス植民地時代のウガンダで1925年頃にコボコかカンパラ生まれとする説が多数である。

ゴッドフリー・ビナイサ
(Godfrey Binaisa、1920年5月30日 - 2010年8月5日)は、ウガンダの法律家、政治家。1979年6月20日から1980年5月12日まで、ウガンダの大統領を務めていた。ビナイサはキングス・カレッジ・ブドとマケレレ大学で教育を受け、1955年にキングス・カレッジ・ロンドンで法学士号を取ると、1956年にはリンカーン法曹院に所属し、カンパラの法廷で私法を扱っていた。

ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ
(Luigi Amedeo Giuseppe Maria Ferdinando Francesco di Savoia-Aosta, 1873年1月29日 - 1933年3月18日)は、1897年にセント・エライアス山(アラスカ - ユーコン)に初登頂したイタリアの登山家で探検家である。アブルッツィ公(Duca degli Abruzzi, ドゥーカ・デリ・アブルッツィ)として知られる。1897年 - アラスカのセント・エライアス山(5,489m)初登頂。1899-1900 - 北極付近への冒険旅行。1906 - ウガンダとコンゴの国境にある、高さ5,109mのルウエンゾリ山(月の山)に初登頂。

ウガンダ共和国 Uganda
アフリカ東部に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ。ナイル川(白ナイル)の始まるビクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。

16世紀初頭、ブニョロ、ブガンダ、アンコーレ、ルワンダ、ブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立。17世紀中頃、ナルバーレ(ヴィクトリア湖)北西岸のブニョロ王国最盛期。19世紀中頃、ブガンダ王国がザンジバルとの交易で繁栄。その後、カトリック、プロテスタント、ムスリムの間で勢力争いがあり、その背景には、イギリスとドイツ、フランスの権益争いがあった。

カンパラ
Kampala は、東アフリカに位置する国家ウガンダの首都。人口142万人(2008年)。ウガンダ最大の都市で、ビクトリア湖の北岸、標高1190mにある。なお、ビクトリア湖の湖面自体が標高1134mと高い。ほぼ赤道直下(北緯0度19分)に位置する。経度は東経32度35分。19世紀、カンパラは象牙交易を進めるアラブ=スワヒリ商人の隊商ルートの深部に位置していた。象牙運搬人の内の奴隷たちは現在のケニアのモンバサからタンザニア沖に浮かぶザンジバル島へ積み出されていった。カンパラは1896年にイギリスの保護領とされたブガンダ王国の中央部に位置し、首都であった。

エンテベ
Entebbeは、ウガンダ中南部の都市。2005年の推計人口は 62,971 人。ヴィクトリア湖の湖畔に位置し、首都カンパラより南西に35km離れている。エンテベはガンダ語で「座」を意味し、ガンダ族のマンバ氏族の首長(ムグラ)の裁判所が置かれていた。1976年にエンテベ空港奇襲作戦の行われたエンテベ国際空港があり、ウガンダの空の玄関口となっている。エンテベにはウガンダウイルス研究所 (UVRI) などがある。

カランガラ
(Kalangala) はウガンダ南部カランガラ県の県庁所在地。ヴィクトリア湖北西部セセ諸島で最大のブガラ島にある。セセ諸島の主な住民はバントゥー系のセセ族でかつては独立していたがブガンダの伸張に伴い従属するようになった。

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エンテベ国際空港
Entebbe International Airportは、ウガンダのエンテベにある国際空港。首都のカンパラから35km、ヴィクトリア湖畔にある。1976年のハイジャック旅客救出事件であるエンテベ空港奇襲作戦の舞台となった。その際の旧ターミナルは管制塔以外は近年取り壊され、建て替えられた。


ウガンダ鉄道
Uganda Railwayは、ウガンダ、ケニヤの内陸部とインド洋に面するモンバサを結ぶ鉄道システム。1898年、ツァボ川にかかる橋を建設中の夜、2頭のライオンが28名以上の労働者(インド人、アフリカ人)を殺害。現場監督ジョン・ヘンリー・パターソンはライオンを銃殺、後にシカゴのフィールド自然史博物館へ寄贈する事件もあった。1901年に当初目的地のビクトリア湖畔キスムまで連絡し、1903年に運行を開始した。



外務省:ウガンダ共和国
在日ウガンダ大使館

マケレレ大学
(Makerere University) はウガンダ最大の大学である。1922年に技術学校として創立された。1963年にロンドン大学の学位につながるコースを提供する東アフリカ大学となった。1970年に東アフリカ大学はナイロビ大学(ケニア)、ダルエスサラーム大学(タンザニア)、そしてマケレレ大学の3つのそれぞれ独立した大学に分割された。今日、マケレレ大学は22の学部・学科、研究所を有し、30,000人の学部生と3,000人の大学院生にプログラムを提供している。

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ブニョロ
ブニョロはウガンダ西部の歴史的地域で、バントゥー系のニョロ族の国を意味し、かつてのブニョロ=キタラ帝国の直轄地の北西部に当たる。ブニョロ=キタラ帝国は神聖な王(オムカマ)により治められ、ナルバーレ(後のヴィクトリア湖)北西岸一帯を勢力圏としたが、ブガンダがバナナ栽培や象牙交易で繁栄すると勢力を削がれ、1830年代には南部がトロ王国として分裂し、イギリス勢の到来と共に南部をブガンダに奪われて、1896年にイギリスのウガンダ保護領に組み込まれた。

ブガンダ
Bugandaはウガンダ中南部の歴史的地域。ブガンダはガンダ族 (Baganda) の国を意味する。ブガンダ王国は元はブニョロ=キタラ帝国の従属国の一つであったが次第に自立し、17世紀ごろから象牙交易などで伸長して[1]ブニョロを凌ぎ、19世紀末頃のムワンガ2世の時代にはイギリスの助けやセメイ・カクングルの活躍などによりブニョロに代わってウガンダのバントゥー系の宗主的立場となり、カクングルらにより北部のナイル系諸族も征服された。

ブソガ
ブソガはウガンダ東南部の伝統的地域。主な民族はバントゥー系のソガ族で11の首長国からなり、イギリスなどの支配を受けて以降、ブガンダなどとの対抗上選ばれた「伝統的王」として20世紀初頭にキャバジンガが置かれブソガ王国とも呼ばれる。北にキオガ湖を挟みテソ地方、東にムポロゴマ川を挟みブケディ、南はヴィクトリア湖に臨み、ブヴマ島などいくつかの島嶼を含み領水がケニア・タンザニアと接し、西はブガンダと接する。


グル県
(Gulu District) はウガンダ北部の県。1974年にアチョリ県が東西に分割された際に西アチョリ県として設置され、1980年に県庁所在地のグルからグル県に改名された。2006年7月に西部の過半がアムル県に分割された。カンパラの北約330kmに位置し、北東にキトゥグム県、東にパデル県、南にランゴ地方のオヤム県と接する。

アムル県
(Amuru District) はウガンダ北西部アチョリ地方西部の県。2006年7月1日にグル県の西部のキラク郡とンウォヤ郡が分割され設置された。2002年の国勢調査人口は 177,783 人。知事に相当する第5地域議会 (LC5) 議長はアンソニー・アチュベ・アマチ。北にキラク郡、南にンウォヤ郡があり、キラク郡にはグルからスーダンの国境のニムレを通りジュバに向かう幹線道が、ンウォヤ郡にはグルからアルアを通りコンゴ民主共和国に向かう幹線道が通る。

アルア県
アルア県はウガンダ北西部西ナイル地方中南部の県。コンゴ民主共和国との国境貿易が盛んで、第二次コンゴ戦争 (Second Congo War) におけるウガンダ軍の侵攻拠点となった。

マシンディ県
(Masindi District) はウガンダ西部、ブニョロ北部の県。ムウィタンジゲ(ニョロ語: Mwitanzige[1], アルバート湖)の東、白ナイル川の南に位置し、北東部にキバンダ郡、南西部にブジェンジェ郡、北西にブリサ郡、中南部にブルリ郡の4郡が置かれていた。2006年7月にブリサ郡はブリサ県として分割された。

ホイマ県
(Hoima District) はウガンダ西部、ブニョロ中部の県。ムウィタンジゲ(アルバート湖)の南東、カフ川の北に位置する。2002年の国勢調査人口は 349,204人。湖岸では漁業が盛んで、水産物がウガンダのコーヒーに次ぐ外貨獲得資源となっているため漁獲量管理のために湖岸管理単位 (Beach Management Unit, BMU) が置かれている。

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ブリサ県
Buliisa Districtはウガンダ西部、ブニョロ北部の県。ムウィタンジゲ(ニョロ語: Mwitanzige, アルバート湖)の北東岸、カバレガ国立公園の南西に位置し、2006年7月にマシンディ県からブリサ郡が分割され設置された。

アジュマニ県
Adjumani Districtはウガンダ北西部西ナイル地方東部の県。モヨ県から白ナイル東岸の東モヨ郡が1997年5月17日に分割され設置された。2002年の国勢調査人口は 201,493 人。アジュマニには小型滑走路があり、アティアク、モヨ、オボンギ方面へ道路が走っている。

キトゥグム県
(Kitgum) はウガンダ北部アチョリ地方北東部の県。1974年にアチョリ県が東西に分割された際に東アチョリ県として設置された。1980年にキトゥグム県に改名され、2001年12月4日に南部がパデル県に分割された。

カバレ県
(Kabale District) はウガンダ南西部キゲジ南東部の県。1974年に南キゲジ県として設置され、1979年にカバレ県に改称され、1991年に西部がキソロ県に分割された。全域が標高2000m前後の山岳地帯で北西から南東への山脈が幾つも連なっている。西部にはブニョニ湖があり、湖と段々畑がカバレの代表的な景観となっている。

ネビ県
(Nebbi District) はウガンダ北西部、西ナイル地方南部の県。1974年に西ナイル県からアルール族の多く住む南部のパディエレ郡、ジョナム郡、オコロ郡が南西ナイル県として分割され、1979年に県庁所在地名に合わせてネビ県に改名された。

カムリ県
(Kamuli District) はウガンダ中南部ブソガ北西部の県。キオガ湖の南岸東部、白ナイル川東岸に位置し、1974年にブソガ州の北ブソガ県として設置され、1979年にカムリ県に改名された。県の北部は牛回廊と呼ばれる、ウシの放牧される一帯に属する。住民の80%は農民で食用としてサツマイモ、ラッカセイ、マメ、バナナ、雑穀、イネなど、商品作物としてコーヒー、綿花、パイナップル等が栽培され、漁業、酪農も盛んである。


神の抵抗軍
Lord's Resistance Army: 略称 LRAは、ウガンダの反政府武装勢力。1987年にジョゼフ・コニーによって結成された。主にコンゴ民主共和国東部、ウガンダの北部地域と南スーダンの一部で活動しており、ウガンダ政府軍との紛争は、アフリカで進行中の長期紛争の1つである。コニーは自らを霊媒であると主張し、十戒とアチョリの伝統に基づく国家建設を掲げている。

ウガンダ人民会議
(Uganda People's Congress, UPC) はウガンダの政党。ウガンダ人民会議は後にウガンダの大統領となるミルトン・オボテにより1955年に結成された。オボテは辞任の意向を示したものの2005年10月に亡くなるまでUPCの総裁だった。UPCは1971年にオボテがイディ・アミンに打倒されるまでウガンダにおける政権党であった。1980年にオボテが再度政権を獲得した際にも1985年にティトー・オケロに打倒されるまで与党であった。

国民抵抗軍
National Resistance Army, NRAはウガンダの旧反政府勢力国民抵抗運動の軍事部門で、現ウガンダ国軍であるウガンダ人民国防軍 (UPDF) の前身。1980年に結成された2つの反政府勢力ヨウェリ・ムセベニの人民救済軍 (PRA) とユスフ・ルレのウガンダ自由戦士 (UFF) が1981年に統合して結成された。当初は27人でありムセベニの副官にはルワンダ難民のフレッド・ルウィゲマや後のルワンダ大統領となるポール・カガメなどがいた。

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■政治
ウガンダは1995年10月に発行した憲法に基づき統治されている。国家元首は大統領で、国民の直接選挙で選出され任期は5年。大統領は首相・閣僚任免権など強大な権力が保障されている。国民抵抗運動 (National Resistance Movement) (NRM) が無党制を導入していたため、他にウガンダ人民会議、ウガンダ愛国運動 (Uganda Patriotic Movement) (解散)、保守党 (Conservative Party) などの政党が存在するものの、NRM以外の政治活動は禁止されている。

 


1962年 独立(旧宗主国 英国)
1963年 共和制移行
1966年 オボテ首相によるクーデター(オボテ大統領)
1971年 アミン少将によるクーデター(アミン大統領)
1979年 アミン大統領失脚(ルレ大統領)
1979年 ルレ大統領失脚(ビナイサ大統領)
1980年 オボテ大統領復帰
1985年 オケロ将軍によるクーデター
1986年 ムセベニ中将によるクーデター
ムセべニ大統領就任
1996年 大統領・国会議員選挙。ムセべニ大統領当選。
2001年3月 ムセべニ大統領再選
2001年6月 国会議員選挙
2006年 大統領・国会議員選挙(2月)。ムセベニ大統領三選。
2011年 大統領・国会議員選挙(2月)。ムセベニ大統領四選。


1.面積:24.1万平方キロメートル(ほぼ本州大)(陸地面積19.7万平方キロメートル)
2.人口:3,270万人(2009年)(世銀)
3.首都:カンパラ(標高1,312メートル)
4.民族:バガンダ族、ランゴ族、アチョリ族等
5.言語:英語、スワヒリ語、ルガンダ語
6.宗教:キリスト教(6割)、伝統宗教(3割)、イスラム教(1割)


ヘルゴランド=ザンジバル条約
Heligoland-Zanzibar Treatyは、1890年にイギリス(イギリス帝国)と当時のドイツ帝国の間で結ばれた条約。正確には、ドイツは北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現在のナミビアのカプリビ州)、及びドイツ領東アフリカの核となるダルエスサラームの海岸を獲得した(後のタンガニーカ、現在のタンザニアの本土部分)。


■経済
広大で肥沃な土地、豊富な降雨、鉱物資源に恵まれ、大きな開発ポテンシャルを持つが、これまでの政治的不安定と誤った経済運営で、ウガンダは世界最貧国として開発から取り残された。アミン統治の混乱後、1981年に経済回復計画で外国支援を受け始めたが、1984年以降の金融拡大政策と市民闘争の勃発が回復を遅らせた。


■エネルギー
1980年代までは国内エネルギー需要の95%は木炭と木材で賄われていた。商業需要の23%が石油製品により、わずか3%が電力に頼っていた。政府は薪ストーブ使用を奨励したが普及に至らなかった。現在改善されたとは言え、数時間に及ぶ停電が、とくに農村部で頻発する。
白ナイル川を利用した電力開発は遅れていたが、2000年のナルバーレ発電所による380メガワット供給開始で、東アフリカでも主要発電国となった。

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アユブ・カルレ
ウガンダ出身のプロボクサー。カンパラ生まれ。元WBA世界ジュニアミドル級(現スーパーウェルター級)王者。ウガンダ初の世界王者となったサウスポーのテクニシャン。手堅いボクシングで4度の防衛を果たすが、1981年6月25日、ウェルター級のスーパースター、シュガー・レイ・レナード(アメリカ合衆国)に屈し、8回KO負けで王座を明け渡した。50戦46勝(23KO)4敗

イディ・アミン(大統領)
マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、アンドレアス・ニャビレ(1889年 − 1976年)の子で、ニャビレはウガンダ北西部の西ナイル地方に住むカクワ族(南スーダン系)出身で、1910年にカトリックからイスラム教へ改宗し、アミン・ダダに改姓した。イディは父に捨てられ、イディ・アウォ=オンゴ・アンゴ(Idi Awo-Ongo Angoo)の名で母方の家庭で育てられた。オボテが左派的政策を採ったためアミンは西側から期待されてクーデターを実行したが、やがてオボテ支持派を弾圧し、アジア人(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身のインド系移民)を追放、国民約30万人(40万人説もあり)を虐殺したとして「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称された。「人食い大統領」というニックネームもつけられたが、実際のアミンは菜食主義者で、鶏肉しか口にしたことがなかったともいわれている。1978年、自国の軍隊を軍事訓練を行うふりをして隣国タンザニアに侵攻させるが失敗し、逆にタンザニア軍に敗北し首都のカンパラまで攻め込まれた。1979年、反体制派のウガンダ民族解放戦線に攻撃されて失脚。リビア経由でサウジアラビアへ亡命した。

インビジブル・チルドレン
『インビジブル・チルドレン』(Invisible Children)は、ウガンダで3人のアメリカの大学生(ジェイソン・ラッセル、ボビー・バイレイ、ローレン・プール)が2003年に撮ったドキュメンタリー。最初に"何かを見つけに"スーダンに行き、最終的には今もなお神の抵抗軍 (LRA) による反乱が続いているウガンダにたどり着いた。内容はこの反乱によって影響を受けている子供たち(少年兵、Night Commutersとして本作では呼ばれている)に焦点をあてている。公式サイト

ジョン・アキ=ブア
John Akii-Bua、1949年12月3日 - 1997年6月20日は、ウガンダの元陸上競技選手である。1972年ミュンヘンオリンピック男子400mハードルの金メダリストであり、ウガンダ初のオリンピックの金メダリストである。

ジョン・ハニング・スピーク
John Hanning Speke, 1827年5月4日 - 1864年9月15日は、イギリスの探検家。ヴィクトリア湖とリポン滝の命名とハム仮説の提唱で知られている。1856年バートンとスピークはヨーロッパ人には確認されていなかったナイル川源流の「発見」を信じて東アフリカからアフリカ大湖沼地域へ探検した。スピークは耳に入った虫をナイフで掻き出してその耳が一時的に難聴になった。またある時は一時的に目が見えなくなった。2人はヨーロッパ人で初めてタンガニーカ湖に達し、ウケレウェ湖と呼ばれる別の湖についても聞いたが、バートンの病のためにスピークが一人で冒険し、ヴィクトリア湖と命名した。観測機器が故障したため詳細な地理的データは採取できなかった。

ジョゼフ・コニー
Joseph Kony, 1962年 - はウガンダの反政府勢力神の抵抗軍 (LRA) の指導者。霊媒であると主張し、聖書と十戒に基づく神政政権の樹立を掲げ、ウガンダ北部を中心として1987年以降残虐行為を伴い、また少年兵を使ってゲリラ闘争を続けている[1]。現在のウガンダ国軍であるウガンダ人民国防軍 (UPDF) は、コニーを反乱者として殺害しようと試み続けた。だが、UPDFは現大統領ヨウェリ・ムセベニが反政府組織として結成した国民抵抗軍 (NRA) を前身としており、かつては程度の差こそあれ、NRAもLRAと同様の行為を行っていたことが国際的に批判されている。

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ヨウェリ・ムセベニ
(Yoweri Kaguta Museveni, 1944年- )は、ウガンダの第7代大統領(1986年1月29日 - 現職)。ムセヴェニとも表記される。イディ・アミン政権の転覆や、第二次ミルトン・オボテ政権への反乱に関与し1986年1月26日にカンパラを制圧、政権を掌握し1月29日に大統領に就任、以来大統領を務める。北部を例外として内戦と腐敗の続いたウガンダで安定した政治と経済成長をもたらした。彼の在任はアフリカでのHIV/AIDSへの国家的対応の最も効果的な事例の一つに数えられる場合もある。

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