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ナイジェリア連邦共和国
Federal Republic of Nigeria
アフリカ

アフリカ

■地理
ナイジェリアはアフリカのほぼ中央に位置し、南部は大西洋のギニア湾に面する。西をベナン、北をニジェール、北東をチャド、東をカメルーンに囲まれる。同国の二大河川であるニジェール川とベヌエ川は中部のコギ州ロコジャ付近で合流し、南流して世界最大のデルタであるニジェールデルタを形成し、大西洋に臨む。最高地点は南東部のマンビラ高原のチャパル・ワディの2419mである。


サヘル
(Sahel)とはサハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域である。サヘル地域は北のサハラ砂漠より比較的湿潤で、半乾燥草原から灌木の茂るサバナへの移行地帯にあたり基盤は脆弱なものの緑に覆われた土地であった。そのため語源が示す通りサブサハラ世界の北岸として、サハラ砂漠を縦断するサハラ交易を通じガーナ王国やマリ帝国、カネム・ボルヌ帝国などが繁栄するなどいわゆる歴史的スーダンの中核的な役割を果たしてきたのである。現在サヘル地域に存在する国家は、セネガル、モーリタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、ナイジェリア、チャドなど。


キャラバン
caravan)はペルシャ語の「カールヴァーン」(Karvan)に由来する言葉で、日本語では「隊商」という訳語が充てられている。キャラバンは商品の輸送中に盗賊団などの略奪、暴行などの危険から集団的に身を守り、商品の安全やいざというときの保険のために、複数の商人や輸送を営む者が共同出資して契約を結ぶことによって組織されていた。


ニジェール・デルタ
(Niger Delta) はナイジェリア南西部に位置しギニア湾に面したニジェール川の三角州地帯である。マングローブを中心とする熱帯雨林で、古代から中世までベニン王国などの多くの民族が栄えたが、イギリスの植民地とされるとアブラヤシの栽培が盛んになりオイル・リバーズとも呼ばれるようになった。


チャド湖
Lake Chadは、チャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンの4ヶ国にまたがるアフリカ大陸中央部の湖である。現在、灌漑・気候変動により面積が10%以下まで激減しており、問題になっている。ヨーロッパ人による最初の調査は1823年になされた。以来世界的に見ても非常に大きい湖の1つだったが、ここ40年で著しく面積が縮小している。1960年代には2万6000km2以上の面積があったが、1990年代までに45%の面積を失った。1908年と1984年の2度にわたり完全に干上がったことがあり、現在の平均水深は1.5mである。このままでは21世紀中には消滅するとも予想されている。

ギニア湾
Gulf of Guineaは西アフリカ中央部にある大湾。ニジェール川、ヴォルタ川、コンゴ川などが注ぎ、湾内に緯度0度、経度0度の交差点がある。沿岸部ではかつて、ヨーロッパとの貿易商により奴隷・金・象牙・穀物などが取り引きされた。1980年代に石油資源が発見され、以後盛んに開発が行なわれている。

ベニン湾
Bight of Beninは、アフリカのギニア湾の一部である湾のことである。かつて奴隷海岸(Slave Coast)と呼ばれた悲劇の海岸とほぼ重なる。沿岸にはナイジェリア、ベナン、トーゴ及びガーナの国々がある。この地域で最大の都市は、ナイジェリアの商都ラゴス(Lagos)である。

チャパル・ワッディ山
Chappal Waddi)は、ナイジェリアの最高峰である。標高2,419 m。カメルーンとの国境近くのタラバ州に位置しており、ガシャカ森林保護区(Gashaka Forest Reserve)(ガシャカ・グムティ国立公園)の中にある。

ニジェール川
西アフリカを流れギニア湾に注ぐ河川である。全長4,180km。流域面積は209万2,000平方キロある。ギニアの山地から北東に流れてマリ共和国に入り、南東に転じてニジェール、ナイジェリアを流れる。河口に大デルタ地帯を形成しギニア湾に注ぐ。マリのセグからトンブクトゥ間に内陸デルタを形成している。

ベヌエ川
ギニア湾に注ぐニジェール川の最大の支流。全長約1370kmにわたり、雨季である夏季中の航行が可能。そのため、流域の重要な交通路となっている。1986年にはベヌエ川源流とガルワの間に利水、治水、発電用に高さ40mのロックフィルダムであるラグドダムが建設された。ダムの南には人造湖であるラグド湖が広がる。


<歴史>
■紀元前5世紀から2世紀
国土の中央部のジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。

■9世紀頃
国土の南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥにおいて青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた。
この地方では、イボ族その他イビビオ族のように指導者のない集団による人口の多い村々のネットワークが、アフリカ固有の平等主義と民主主義の概念によって管理されていた。

■19世紀
フラニ族のイスラム神学者ウスマン・ダン・フォディオが都市国家ゴビールで改革運動を開始したが、国から追い出されると遊牧生活のフラニ族たちと協力してジハードを起こし、ソコトの街を首都に、北部一帯にフラニ帝国(ソコト・カリフ国)を建国した。

■植民地時代
ナイジェリアの植民地化は、1472年にポルトガル人がラゴスを建設し、奴隷貿易の拠点とした時から始まった。17世紀から19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を主体とするヨーロッパの貿易商人たちが、南北アメリカ大陸へ送る奴隷の増加に伴い海岸に多くの港を建設し、彼らはナイジェリアの海岸部を「奴隷海岸」と呼んだ。

■19世紀末
ベニン王国は周囲のハウサ人のソコト帝国、ヨルバ人のオヨ王国もろともイギリスに滅ぼされて、ナイジェリアは植民地化された。1903年にはフラニ帝国も滅亡し、イギリスとフランスに分割された。1901年ニジェール会社は北部ナイジェリア保護領と南部ナイジェリア保護領の二つの保護領に再編成され、1914年一つの保護領に統合された。

■独立以降
留学生たちを中心に第二次世界大戦前から独立への動きはあったが、第二次大戦後ナショナリズムが高まり、1960年、それぞれが広範な自治権を有する北部州・西部州・東部州の3地域の連邦制国家として、完全独立を果たす。独立時は、イギリス女王を国家元首として頂く英連邦王国であったが、1963年に連邦共和国憲法を制定し、大統領制に移行した。それと同時に、西部州から中西部州を分割し、全4地域になる。

■1975年
軍の民政移行派(オルシェグン・オバサンジョ、ムハメド将軍らを含む)によるクーデターが成功し、1976年ムハメド将軍は暗殺され、1977年、オバサンジョは最高軍事評議会議長に就任、新憲法を制定、1979年、大統領選挙でシェフ・シャガリが当選し、文民大統領が誕生した。

■1983年
次回選挙でオバフェミ・アウォロウォが勝ったにもかかわらず、ムハンマド・ブハリ将軍ら軍政派によるクーデターで再び軍政に戻る。彼は経済再生を約束したが、強圧的な体制を敷きかえって経済は悪化した。

■1999年
新憲法が制定され、民政へ移行。かつてのクーデター軍人オルシェグン・オバサンジョが、初の民主的選挙で、大統領に当選した。2003年の選挙でも再選した。しかし彼は民主派の希望でもあった司法長官ボラ・イゲが2001年に暗殺された件にかかわったといわれるほか、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったといわれ、国民の感情は好悪半ばしている。

■2006年
オバサンジョ大統領の3選を可能にする憲法改正が否決され、2007年2月、アブバカル副大統領が大統領選挙の候補者名から除外され、4月、アブバカルの立候補を最高裁が容認した。2007年4月23日、選挙管理委員会は大統領選挙で、国民民主党のウマル・ヤラドゥアが当選したと発表したが、国際選挙監視団は不正投票があったとして有効性を疑問視した。

■2010年5月5日
ヤラドゥアが病死し、副大統領のグッドラック・ジョナサンが大統領に就任した。


ノク文化
Nok文化は、ギニア湾岸(上ギニア)のナイジェリア中央部、ジョス高原(Jos plateau)を中心に概ね紀元前35世紀から紀元後6世紀頃に栄えた鉄器文化。1928年に、イギリスの鉱山技師のJ. Dent Youngによって、錫露天掘り鉱山とその周辺に広がる河川礫層の採掘作業中にサルの頭の横顔の形をした土偶の破片が偶然発見されたことが契機となった。ノク文化の集落遺跡は、山頂のような場所で確認されることが多く、土器片や土偶の破片が散布している。そのような遺跡では遺物とともに地表面のあちらこちらに長さ数百m以上に及ぶ石材を用いた構築物がみられる。


イボ人
igbo, Iboはアフリカの民族。黒人系の単一民族としては最大規模のグループの1つである。その人口の大半はナイジェリア東南部に住み、ナイジェリアの総人口の約20%を占める。カメルーンと赤道ギニアにも相当数が居住する。彼らの言語はイボ語(イグボ語)である。イボはアナンブラ州、アビア州、イモ州、エボニ州、エヌグ州で多数を占める。

ハウサ人
主にナイジェリア北部及びニジェール南部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。ナイジェリアではヨルバ人・イボ人と並ぶ三大民族のひとつであり、その中でも最も人口が多いため、建国以来ナイジェリアの実権を握ってきた。

ヨルバ人
主にナイジェリア南西部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。ナイジェリアにおいては、ハウサ人・イボ人とともにナイジェリアの三大民族のひとつとなっている。紀元前4世紀ごろには、ヨルバ人は現在の地域に住んでいたと考えられている。ヨルバの伝説では、オドゥドゥワ王という伝説の王が、イフェの地に降臨し、イフェの王となり、そこからすべてのヨルバ諸国が建国されていったという。

フラニ族
北西はモーリタニアから東はカメルーンまで西アフリカの多くの国に分布する民族。居住地域は主にサヘル地帯に広がっている。ナイジェリアやその他の国で、彼らはフラニ族 (Fulani) と称されるが、彼ら自身はフラベ族(Fulbhe, 単数ではプロpullo)と称する。

イガラ族
Igala)は、北ナイジェリアの広い範囲に居住する農耕民。言語は、ニジェール・コンゴ語族のクワ・グループのうちヨルバ・グループに属する。ニジェール川の東岸、ベヌエ川と合流地点の南方森林に住んでいる。

アンガス族
Angas)は、ナイジェリアに住む、スーダン系部族。ナイジェリアのグランディリ地区を流れるレレ川渓谷に住んでいる。首長たちは重要な祭儀的職務を帯び、また、昔の首長の生まれ変わりであるとみなされている。

ティブ族
Tiv)はナイジェリアのベヌエ川上流に居住する民族。長らく独自の経済観念で生活を行っていたが、植民地化によりイギリス政府の介入を受け、1948年、最高首長制が導入された。

マンビラ族
(Mambila) は、西アフリカの民族。ナイジェリア東部タラバ州のマンビラ高原付近からカメルーン中北部の平野部にかけて分布する。民族の総人口は約16万人と推定され、主として農耕に従事した生活を営む。


■言語
ナイジェリアでは方言を含め521の言語が確認されているが、現存するのは510であると考えられている。議会や官庁で主に使用される事実上の公用語は旧支配者の言語である英語であり、議会では多数派であるハウサ語、ヨルバ語、イボ語の使用のみが認められている。


■宗教
主に北部ではイスラーム教が、南部ではキリスト教が信仰され、その他土着のアニミズム宗教も勢力を保っており、内訳はイスラーム教が5割、キリスト教が4割、土地固有の伝統信仰が1割となっている。北部はムスリム地区である。スンナ派ムスリムが主流で、シーア派ムスリムはほとんど居なかったが、イランがナイジェリアで支持団体を通じてシーア派とイスラーム革命思想の布教を行い、現在は200万人のシーア派ムスリムが存在する。


イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。ユダヤ教やキリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。


アニミズム
animism)は、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」などと訳されている。この語はラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である。


ベニン王国
12世紀から1897年までナイジェリア南部の海岸地帯に存在した王国。首都は現在のベニンシティ。現在のベナン共和国はこの国の名にちなんで命名されたが、地理的にも歴史的にもつながりは全く無い。1914年、イギリスはベニン王室の復活を許可。実権はないものの、現在もベニン王家は住人の尊敬を受けている。

オヨ王国
1400年ごろから1905年まで、ナイジェリア南東部を支配したヨルバ人の王国。伝説によれば、イフェを建国したオドゥドゥワ王の末子であるオラニヤン王が建国したとされる。1400年ごろにはすでに建国されており、ハウサ諸王国やソンガイ帝国に近いという地の利を生かしてサハラ交易に参加し、勢力を蓄え、さらにヨーロッパ人がやってくると奴隷貿易によってさらに力をつけ、富を蓄えていった。

カネム・ボルヌ帝国
Royaume du Kanem-Bornouはアフリカ内陸部歴史的スーダンの中央で700年頃から1376年に後のチャド及びリビア南部一帯を支配したカネム帝国及び1396年から1893年に後のニジェール東部一帯を支配したボルヌ帝国を併せて呼ぶ場合の呼称。カネムはテダ語及びダザガ語を話すトゥーブー系のザガワ人の移民が起源であり、彼らは乾燥と圧迫を逃れサブサハラと中東の交易路に面したチャド湖北東部へたどり着いた。

ソコト帝国
Sokoto Caliphateは、1804年から1903年までのちのナイジェリア北部のハウサ人地域を支配した国家。フラニ帝国とも呼ばれる。首都はソコト。ハウサ諸王国のひとつゴビールのイスラム神学者、フラニ人のウスマン・ダン・フォディオがゴビールで宗教改革運動を起こしたものの、ゴビール王に街を追われた。彼はそこでジハードを宣し、弟子に推され王に即位。自らの出身民族・フラニ人の騎兵を従え、ゴビール軍をはじめハウサ諸王国を次々と攻略し、1809年にハウサ諸王国を統一した。


奴隷海岸
Slave Coastは今日のトーゴ、ベナン、およびナイジェリア西部の海岸地帯のヨーロッパ勢による呼称。ベニン湾に沿った西アフリカの大西洋岸である。16世紀初頭のポルトガルの到来から19世紀初頭の奴隷貿易の公式廃止まで、大西洋岸の全域から多くの黒人奴隷が、奴隷商人を介して西欧や新世界(南北アメリカ大陸)に運ばれる船に乗せられた。他の黄金海岸及び象牙海岸と並び「主要産品」に因んでそう呼ばれた。奴隷商人は現地の黒人の部族に旧式の武器などを渡し、他の部族を襲わせ、武器の対価として奴隷を獲得した(三角貿易)。その数は1000万人とも2000万人とも言われており、大多数が働き盛りの男性だったことから、アフリカの人的・経済的・文化的な損失となり、現在までの貧困の原因の一つとされている。


ビアフラ共和国
1967年にナイジェリアの南東部に置かれていた東部州が独立宣言したことに伴い樹立されたイボ族を主体とした政権・国家。1967年5月30日から1970年1月15日まで存続した。1967年5月30日、軍事政権に反発するイボ族を中心とした東部州の軍政官であったチュクエメカ・オジュク中佐が独立を宣言し、ビアフラ共和国を建国した。しかしこれを承認した国家は4カ国しかなかった。

ビアフラ戦争
1967年7月6日 - 1970年1月12日は、ナイジェリアのイボ族を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争。ナイジェリア内戦とも呼ぶ。厳しい飢餓と、栄養不足から来る病気、北部州における虐殺により、少なくとも150万人を超えるイボ族が死亡した。1968年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断したため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道したため、赤十字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側が、それらの救援も妨害するようになったため、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。


ペンテコステ派
キリスト教のプロテスタント教会のうち、メソジスト、ホーリネス教会のなかから1900年頃にアメリカで始まった聖霊運動、つまりペンテコステ運動(Pentecostalism)からうまれた教団、教派の総称ないし俗称。


<世界遺産>
スクルの文化的景観
ナイジェリア北東部アダマワ高原のベヌエ川沿いにあるスクルの小集落は、古来製鉄がさかんで、製鉄所の遺構などがある。登録対象となったのは、この集落の7.644km2 である。

オシュン=オショグボの聖なる木立
ヨルバ人にとって宗教的な意味を持つ原生林。1965年にナイジェリアの史跡になった。後に範囲が拡大され、現在では75haが保護区域に指定され、2005年にはユネスコの世界遺産に登録された。

チヌア・アチェベ
Chinua Achebe、1930年11月16日 - は、ナイジェリア出身のイボ人の小説家。アチェベは1976年以降のアナンブラ州にあたる地域の町オギディで生まれた。そして当時ロンドン大学のカレッジであった現在のイバダン大学で、英語と、歴史、神学を学んだ。BBCで放送について学んだ後、1961年にナイジェリア放送の最初の海外放送部ディレクターになる。ビアフラ戦争時にはビアフラ共和国の大使を務めた。この時の経験から「難民の母と子」と題した詩を書いた。アフリカに多い口承文学を題材にした小説を描く。

チママンダ・アディーチェ
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie、女性、1977年9月15日 - )は、ナイジェリア・イボ民族出身の作家。1977年ナイジェリア南部エヌグに生まれ、大学町スッカで育つ。ナイジェリア大学で短期間、医学と薬学を学び、19歳で奨学金を得て渡米。ドレクセル大学、東コネティカット大学でコミュニケーション学と政治学を学ぶかたわら、創作活動を開始する。イェール大学でアフリカ学を学び、二つ目の修士号を取得。活発な執筆活動の一方で、毎年、母国ナイジェリアで若い小説家を育てるワークショップを開いている。

オルシェグン・オバサンジョ
1937年3月5日 - は、ナイジェリアの軍人、政治家。第3代軍事評議会副議長及び第5代・第12代大統領。GCFR(連邦共和国大司令官勲章)。オグン州アベオクタ生まれ。ヨルバ族出身のキリスト教徒である。オバサンジョはオグン州で生まれオウで育った。オルシェグンはヨルバ語で「神は様々である」を意味する。1958年に陸軍入隊。その後、英国士官学校、英国王立工兵学校、インドなどに留学した。1960年工兵部隊長として、コンゴ国連軍に参加する。1969年、第3海兵司令としてビアフラ戦争でビアフラ軍の降伏受理にあたった。

ムルタラ・ムハンマド
Murtala Ramat Mohammed, 1938年11月8日 - 1976年2月13日はナイジェリアの軍人・政治家。1975年7月29日、准将の地位にあった時、ヤクブ・ゴウォン軍事政権をクーデターで打倒した。「最高軍事評議会」議長として全権を掌握し、前政権下で横行した腐敗を一掃するべく性急な改革を実施し、ソ連寄り外交を展開した。

オバフェミ・アウォロウォ
1909年3月9日 - 1987年5月9日は、ナイジェリアの政治指導者。現オグン州のイケンネ出身のヨルバ族でナイジェリア独立以前から政治活動を始め、エグベ・オモ・オドゥドゥワ、ナイジェリア労働組合会議、行動党 (AG) など沢山の組織を設立した。"The Nigerian Worker" 紙の記者であり、ナイジェリア産物貿易家協会を組織し、ナイジェリア動力輸送組合の書記を務めた。ナイジェリアで商学士号をえた後、ロンドンで法律を学んだ。

ヤクブ・ゴウォン
1934年10月19日-は、ナイジェリアの軍人、政治家。キリスト教徒。1966年にジョンソン・アグイイ・イロンシ政権をクーデターで倒し、東部州を激発させてビアフラ戦争を起こし、勝利したもののやがてクーデターで政権を追われた。ゴウォンは1934年10月19日、当時北部州に属していたプラトー州で、アンガス人として生まれた。ザリアで育ったのち、1954年に21歳で軍に入隊した。1955年10月19日には少尉に昇進した。彼は1955年から1956年にはサンドハースト王立陸軍士官学校に、ついでキャンベリーのStaff Collegeに1962年に、1965年にはラティマーの統合幕僚学校に留学した。

オーガスティン・オコチャ
Augustine Azuka Okocha, 1973年8月14日 - は、ナイジェリア・エヌグ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF。ニックネームはジェイジェイ(Jay-Jay)。元ナイジェリア代表の中心選手。高速ドリブルと変幻自在のトリックプレーでDFを圧倒する。またプレースキックと強烈なミドルシュートも武器としている。

ティジャニ・ババンギダ
Tijani Babangida, 1973年9月25日 - は、ナイジェリアの元サッカー選手。元ナイジェリア代表。アフリカンサッカーが注目を集めはじめた1990年代に活躍した快足ウイング。俊足の選手が多いナイジェリア代表の中でも、最も速かった選手と言われている

アブバカル・タファワ・バレワ
Abubakar Tafawa Balewa、1912年12月- 1966年1月15日 は、ナイジェリアの政治家。ナイジェリアの初代にして唯一の首相をつとめた。もともと教師になるための訓練を受け、北部で数少ない高等教育を受けた指導者として、ナイジェリア北部を代表する政治家となった。また、アフリカ統一機構(OAU)の設立にも力を尽くした国際派政治家だった。一方で国内では北部の利益を追求して国内の不和を招き、クーデターによって殺害された。

シャーデー・アデュ
Helen Folasade Adu、OBE、1959年1月16日 - は、ナイジェリア・イバダン生まれのシンガーソングライター。イギリスのバンド、シャーデーのヴォーカリストである。そのスモーキーなアルトの歌声と、無駄な音をそぎ落とした楽曲作りで名高い。ナイジェリアの有力部族ヨルバ族出身の父は、ロンドン留学中に、看護婦のイギリス人女性と出会い、結婚。その後夫妻はナイジェリアへ移住し、一男一女をもうけた。その長女がヘレンである。ミドルネームのフォラシャーデーとは、『王冠を授かる栄誉』を意味する。ヘレンが4歳の時、両親が離婚。ヘレンは兄バンジとともに母に連れられてイギリスへ帰国。母はほどなくイギリス人男性と再婚する。少女時代のヘレンはカーティス・メイフィールドやマーヴィン・ゲイを好んで聞いていた。

ホーガン・バッセイ
Hogan "Kid" Bassey、1932年6月3日 - 1998年1月26日は、ナイジェリア出身のプロボクサー。本名はオコン・バッセイ・エスキュー。キャラバー生まれ。元世界フェザー級チャンピオン。ナイジェリア初の世界チャンピオンである。ナイジェリア、アフリカ、英連邦の各タイトルを手中に収め、1957年6月24日、サンディ・サドラー引退により空位となった世界フェザー級王座をクリア・アミアと争い、10回TKO勝ちでナイジェリア初の世界王者となった。

サミュエル・ピーター
Samuel Peter、男性、1980年9月6日 - は、ナイジェリアのプロボクサー。前WBC世界ヘビー級王者。ヘビー級選手の中でも突出したパンチ力を持ち、一発当てれば相手が倒れる、といった試合を展開する。また、2000年にはシドニーオリンピックにナイジェリアのスーパーヘビー級代表として出場している。ワン・パンチで全てを変えてしまうことから「The Nigerian Nightmare(ナイジェリアの悪夢)」の異名を持つ。現在はアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスに在住。

フレデリック・ルガード
(Frederick John Dealtry Lugard, 1st Baron Lugard, GCMG, CB, DSO, 枢密院顧問(PC), 1858年1月22日 - 1945年4月11日) はイギリスの軍人、探検家、植民地行政官、香港総督 (1907年 - 1912年) ナイジェリア総督 (1914年 - 1919年)。RWAFFの指揮権を放棄するとルガードは1906年まで北部ナイジェリア保護領の高等弁務官になった。ルガードは1902年に『タイムズ』紙の植民地記事の記者であったフローラ・ショーと結婚した。ルガードはイギリスの支配を強めようと試みたがソコトのスルタンや他のフラニの首長たちに拒まれた。

ウマル・ヤラドゥア
(Umaru Musa Yar'Adua, 1951年7月9日 - 2010年5月5日) は、ナイジェリアの政治家。フラニ族出身。2007年5月29日にナイジェリアの大統領に就任。ヤルアドゥアとも表記される。2006年12月に大統領であったオルシェグン・オバサンジョに後継指名された。ウマルはラフッカ及びドゥツィマ小学校、国立ケフィ高校及びバレワ高校をへて1975年ザリアのアフマド・ベロ大学で教育と化学の学位及び1980年に分析化学の修士号を得た。

キザイア・ジョーンズ
(Keziah Jones) はナイジェリア出身のシンガーソングライター・ギタリストである。自ら“ブルーファンクblufunk"と称するブルースとファンクの要素をあわせ持つ演奏スタイルを特徴としている。山高帽がトレードマーク。1970年、ナイジェリアの首都ラゴスにて、ヨルバ族の族長にして資産家の父親のもとで育つ。8歳のときパブリック・スクール入学のためロンドンに渡るが、結果的には両親が望んだ医者ではなくミュージシャンとして故国を離れることになった。

サニ・アバチャ
(Sani Abacha, 1943年9月20日 - 1998年6月8日) はナイジェリアの軍事指導者/政治家。アバチャはカヌリ人のムスリムの出身で、若い頃はナイジェリアとイギリスの軍事学校を巡った。ナイジェリア軍に仕官すると1983年に准将に昇任した。彼はムハンマド・ブハリ将軍の1983年の権力獲得と1985年の解任の二度の「無血」クーデタに参加した。

アブドゥルサラミ・アブバカール
(Abdulsalami Alhaji Abubakar、1942年6月13日-)は、ナイジェリアの軍人・政治家。グワリ人。イスラム教徒である。1998年6月9日から1999年5月29日まで、ナイジェリアの大統領を務めた。前サニ・アバチャ大統領の急死によって政権を継いだアブバカールは指導力を発揮し、新憲法を採択してナイジェリアを民主化させ、新憲法下で大統領に選ばれたオルシェグン・オバサンジョに政権を渡した。

クリスティアン・オボド
Christian Udubuesi Obodo、1984年5月11日 - )は、ナイジェリア出身の同国代表サッカー選手。ポジションはMF。2012年6月8日夜、ナイジェリアのデルタ州ワリの教会の前で、6人の男に取り囲まれ、身代金目的で誘拐された。オボドの家族には15万ユーロ(約1490万円)が誘拐犯から要求されたが、10万ユーロ(約1000万円)以上は用意できないと家族は誘拐犯に伝えたという。

ネダム・オヌオハ
(Nedum Onuoha, 1986年11月12日 - )は、ナイジェリア・ワリ出身のサッカー選手。ポジションはDF、MF。ナイジェリア生まれであるが、U-21イングランド代表にも名を連ねたことのあるプレーヤー。元々はセンターハーフであったが、学生時代に100メートル走のチャンピオンになっているほどの俊足を買われてサイドへと転向した。

エマヌエル・オリサデベ
(Emmanuel Olisadebe, 1978年12月22日 - )は、ナイジェリア出身の元ポーランド代表サッカー選手。ポジションはFW。2000年に代表入りすると、日韓ワールドカップ・ヨーロッパ予選では8得点を記録し本大会出場に大きく貢献[2]。1986年のメキシコ・ワールドカップ以来となる、16年ぶりのFIFAワールドカップ出場に導いた。

サンデー・アデラジャ
(Sunday Adelaja、1967年5月28日-)は、ナイジェリアオグン州生まれの牧師。ウクライナにおいてエンバシー・オブ・ゴッド教会(神の国大使館)を開拓伝道から形成。数万人の教会員が集う教会を牧会。留学先のロシアでジャーナリズムを学び、ベラルーシで伝道していたが退去を命じられる。その後ジャーナリストとしての能力を買われウクライナに呼ばれたので、それを神の導きととらえ開拓から教会をはじめた。

オビンナ・エケジー
(Obinna Ralph Ekezie、1975年8月22日 - )は、ナイジェリアのプロバスケットボール選手。リバーズ州ポートハーコート出身。ポジションはセンター。207cm、120kg。メリーランド大学から1999年のNBAドラフト2巡目でバンクーバー・グリズリーズに指名されて入団した。

ナイジェリア Nigeria
北にニジェール、北東にチャド湖を挟みチャド、東にカメルーン、西にベナンと国境を接する。南は大西洋のギニア湾に面し、かつては「奴隷海岸」と呼ばれた。首都はアブジャ。最大の都市はラゴス。アフリカ最大の人口を擁する国であり、乾燥地帯でキャラバン貿易を通じてイスラム教を受容した北部と、熱帯雨林地帯でアニミズムを信仰し後にヨーロッパの影響を受けキリスト教が広がった南部との間に大きな違いがある。

アブジャ
Abujaは、ナイジェリアの首都。人口は推計1,078,700人。1976年に首都を最大都市ラゴスから移転することが決定されたとき、国土のほぼ中央に位置することから、アブジャが選定された。市街地は連邦首都地区の北東部に位置する。市街地中心部分(官庁・ビジネス街)のマスタープランは、日本の建築家丹下健三によるものである。アブジャは1991年に正式にナイジェリアの首都となった。

ンナムディ・アジキウェ国際空港
Nnamdi Azikiwe International Airportはナイジェリア連邦共和国の首都アブジャにある国際空港。別名アブジャ国際空港。 空港名は初代大統領ンナムディ・アジキウェから名付けられた。


ラゴス
Lagosはナイジェリアの南西端のベニン湾岸に位置する同国最大の大都市・港湾都市で、旧首都である。世界の有数のメガシティ。市内の中心部には多くの高層ビルが立ち並び、高速道路やバイパス道路等も整備されており、一見近代的な大都市といった様相を呈しているが、それらと同じようにして大規模なスラム街が雑然と広がっている。世界最悪の交通渋滞都市。


ムルタラ・モハンマド国際空港
Murtala Muhammed International Airportはナイジェリアの最大都市ラゴスにある国際空港である。また、エア・ナイジェリアやアリクエアなどのハブ空港でもある。名称は1976年に暗殺されたナイジェリアの大統領であるムルタラ・ムハンマドから採られている。


外務省:ナイジェリア連邦共和国
在ナイジェリア日本国大使館

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ヨラ
Yolaは、ナイジェリアアダマワ州の州都である。ベヌエ川沿いに位置し、人口は2010年時点で 111,840人である。ヨラは1841年に建立され、1901年にイギリスに攻め落とされるまでは、フラニ族の国の首都だった。乾季(4月から5月)の日中の温度は、40度を大幅に超える。

カノ
Kanoはナイジェリアの都市。カノ州の州都。ナイジェリア北部の経済・文化における中心都市。国際空港もあり各地と航路でも結ばれている。人口は約362万6千人(2005年)。ハウサ人が1000年頃に王国を建て、ハウサ諸王国のひとつとして繁栄した。ムスリム商人の活動にともなって12世紀ころよりイスラーム化が進んだと考えられる。

イバダン
Ibadanはナイジェリアの南西部に位置するオヨ州の州都である。人口約255万人 (2006年)。ラゴス、カノに次いでナイジェリアで3番目に人口が多い都市である。19世紀、オヨ王国より独立したイバダン王国の首都として発展した。主な住民はヨルバ人(Yoruba)である。イバダン大学、イバダン空港や、国際熱帯農業研究所(IITA)の本部が存在する。


イバダン大学
University of Ibadanは、イバダン(ナイジェリア西部)に位置する、ナイジェリア最古の大学。1948年11月17日にイギリス植民地相のアーサー・クリーチ・ジョーンズによりイバダンの首長から999年契約で貸与された土地にロンドン大学のカレッジとして設置され、校舎のうちの幾つかはマクスウェル・フライやジェーン・ドルーが設計した。1957年には500床の研修病院が併設された。1962年ナイジェリア独立時に独立した大学となった。

ナイジェリア大学
The University of Nigeria はナイジェリアの ンスカ(Nsukka)にある大学。ナイジェリア初代大統領ンナムディ・アジキウェ(Dr. Benjamin Nnamdi Azikiwe)により創設され、ナイジェリア最初の現地民による大学である。国内トップクラスの大学と評価されている。モットーは「人間の尊厳の回復」(To Restore the Dignity of Man)。


イフェ
(Ife)は、ナイジェリア南西部、オスン州の都市。人口501,952人。ヨルバ人の天孫降臨神話の舞台であり、ヨルバ最古の都市国家でもあった。今もヨルバ人の聖地となっている。ヨルバ人の神話によれば、オドゥドゥワという伝説上の王がイフェに降り立ち、初代のオニ(王)となり、彼の子孫がヨルバランド各地に散らばって、ヨルバ諸国が誕生したという。

ソコト
Sokotoは、ナイジェリア北西部の都市。人口583,039人(2006年)。ソコト州の州都である。ニジェール川支流ソコト川とリマ川の合流点の南に位置し、かつてのソコト帝国の首都である。

マイドゥグリ
(Maiduguri)は、ナイジェリア北東部の都市。ボルノ州の州都である。人口1,197,497人(2007年)。マイドゥグリ住民のほとんどはイスラム教徒のカヌリ人である。 マイドゥグリはポートハーコートやラゴスからの鉄道の終着駅であり、ナイジェリア北東端の交通の要衝である。

ポートハーコート
(Port Harcourt) はナイジェリア連邦共和国のニジェール・デルタに位置する都市。リヴァーズ州の首都。元はイボ人とイジャウの住む土地でイボはイグェ・オチャと呼んでいた。1912年に石炭の積出港として支配していたイギリスにより開発され、英植民地相 (1910年 - 1915年) の初代ハーコート子爵ルイス・ヴァーノン・ハーコートに因んでポート・ハーコートと名付けられた。

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ベニンシティ
(Benin City) は南部ナイジェリアエド州の州都でベニン川の河港である。 2006年の推計人口は 1,147,188 人。ラゴスの東約320Kmにある。ベニンは12世紀にベニン王国の首都イビヌ (Ibinu) として建設された。オバ・エウアレの元でエドと改名され、皇帝(オバ)達の元で14世紀から17世紀に最盛期を迎え、「大ベニン」と呼ばれた面影は現在に残されていない。

エヌグ
Enuguは、ナイジェリアの都市。エヌグ州の州都。人口は688,862人(2007年)。1909年、近くに炭鉱があったことから街が形成された。1912年にはポート・ハーコートまで鉄道が通じた。1967年から1970年まではビアフラ共和国(ナイジェリアからの独立を図った国家)の首都であった。

オニチャ
(Onitsha) はナイジェリア南部、アナンブラ州の都市でニジェール川の東岸の河港都市である。1993年の推計人口は 345,000 人。カトリックと聖公会が2大勢力である。女子の教育大やハンセン病の療養所がある。旧市街には西アフリカ最大規模の過剰に集積された市場があるが、インフラは植民地時代の道路から整備が進んでいない。

カドゥナ
カドゥナ川沿いに位置し、鉄道と道路の連絡地で、貿易センターであり周辺の農村部の主要な交通の中心地である。カドゥナの人口は、1,652,844人である。2012年4月8日、市内のキリスト教会を標的とした爆弾テロが発生。死傷者50人以上を数える惨事となった。

アベオクタ
(Abeokuta)は、ナイジェリア南西部の都市。オグン州の州都。人口593,140人(2005年)。ラゴスから北に鉄道で約103km北にあり、ラゴスとイバダンの間に位置する。アベオクタは1825年、ダホメ王国及びイバダン王国の奴隷狩りから逃れた人々が集まって建設された。

イロリン
(Ilorin)は、ナイジェリアのクワラ州の都市である。クワラ州の州都である。人口は847,582人(2007年)である。かつてはヨルバ人の都市国家のひとつであり、オヨ王国の影響下にあったが、北方にソコト帝国が興るとこれと同盟を組んでフラニ人の戦士を雇い、オヨから独立して南方へと進撃し、1830年にオヨを滅ぼした。

ジョス
(Jos)は、ナイジェリアのプラトー州の都市である。プラトー州の州都である。植民地時代は、錫の採掘の中心地であった。2010年12月24日、クリスマスのショッピング客や教会などを標的に、市内の2か所で7回の爆発が発生。32人が死亡、74人が負傷した。

ワリ
(Warri)は、ナイジェリアのデルタ州の都市である。イツェキリ(Itsekiris)、ウロボ(Urhobos)、イジョ(Ijaws)等が主要な民族である。


アビア州
(Abia State) は、ナイジェリアの南東部の内陸州。1991年8月27日に旧イモ州の東部が分割され設置された。住民はイボ人が大部分を占める。

アクワ・イボム州
(Akwa Ibom) はナイジェリア南部の州。原油産出州の1つであり、エケッは石油精製都市である。石灰岩、金、硝酸銀、珪砂、粘土、天然ガスなども生産される。

クワラ州
(Kwara State) はナイジェリア西部の州でミドル・ベルトと呼ばれる地域の南西部である。クワラ州はエシエ文化の栄えた地で、オヨ王国の影響下に置かれ、のちヌペ王国が栄えた。

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アナンブラ州
(Anambra) はナイジェリア南部(伝統的には東部の北西)の州。州都はアウカ。最大都市はオニチャ。アフリカで最も人口密度が高い地域の一つである。アウカはナイジェリアの金属加工と木彫工芸の中心地である。オニチャには西アフリカで最大規模の市場がある。

ベヌエ州
(Benue) は、ナイジェリア中東部の州である。農業が豊富に行われ、川も多いため、「ナイジェリアの穀倉地帯」と呼ばれることもある。ジャガイモ、キャッサバ、大豆、ギニアコーン、亜麻、ヤムイモなどが栽培される。

クロスリバー州
ナイジェリア南東部の州。東にカメルーンと接し、絶滅危惧種のクロスリバーゴリラの生息域でもある。1967年に東部州が分割された際にその東部に南東州として設置され州都はカラバルに置かれた。

ナイジャ州
ナイジェリア西部の州。ミドル・ベルトと呼ばれる少数民族が多く住む地域の北西部に位置する。州名はニジェール川に因み、カインジダムやシロロダムなどの大規模水力発電所がある。

オグン州
(Ogun State) はナイジェリア南西部の州。ラゴス州の北に位置し、北にオヨ州及びオスン州、東にオンド州、西にベナン共和国と接する。州都及び最大都市はアベオクタ。

オスン州
(Osun State) はナイジェリア南西部の州。州都はオショッボ(オショグボ)。1991年に旧オヨ州の東部が分割され設置された。オシュン州一帯はヨルバ族が古代から文化を築いた地域であり、オルバやオラングンと呼ばれる王の治める都市国家が繁栄した。

オヨ州
ナイジェリア南西部の州。州都はイバダン。オヨはヨルバ族の都市国家の一つオヨ王国の栄えた地でポルトガルが到来すると西のダホメ王国や東のベニン王国と同様奴隷狩りを行い、またハウサ族との南北交易でも栄え強大となった。

タラバ州
ナイジェリア東部の州。州都はジャリンゴ。1991年にイブラヒム・ババンギダ政権によりゴンゴラ州が東のアダマワ州と分割されて設置された。北から南西にベヌエ川が流れ、州の大半は南岸にある。南東部は標高1,800mのマンビラ高原でカメルーン国境のチャパル・ワッディ山がナイジェリア最高峰である。

ソコト州
ナイジェリア北西部の州。1967年に北部州が6分割され設置された北西部州が、更に南部をナイジャ州に分割されて設置された。州都はソコト帝国の首都であったソコトである。ソコトはサヘル帯に位置し、砂がちのサバンナと孤立した丘に囲まれている。ニジェール川支流のソコト川が東から西へ流れる。


ニジェール・デルタ解放運動
Movement for the Emancipation of the Niger Deltaは、ナイジェリア南部のニジェール・デルタ一帯の分離独立を主張する反政府武装組織。略称MEND ニジェール川の河口付近に広がるニジェール・デルタ地域は、マングローブが生い茂る土地であったが、世界屈指の石油埋蔵量が確認された1960年代以降、世界各国の企業が競うように油田開発に乗り出している。一方、デルタ地域に居住する住民の多くは、ナイジェリア政府の施策から取り残されるように貧困にあえいでおり、古くから反政府勢力が結成される土壌が形成されてきた。

デルタ人民志願軍
ナイジェリア南部、ニジェール川デルタ地帯で蜂起した反政府武装組織のこと。河口付近一帯の油田開発において、地域に十分な還元がなされていないという不満が武装蜂起の背景にある。2004年9月には、国際石油メジャーへの攻撃予告を行った。 公称兵力は20万人であるが、武装は小火器に限られていると報道されている。しかしながら、活動エリアがかつて内戦が行われた東部地域に隣接しており、反政府勢力が結集するきっかけにもなりうる存在として動向が注目されている。

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ボコ・ハラム
(Boko Haram)は、ナイジェリアのサラフィー・ジハード主義組織。Boko はハウサ語で「西洋式の非イスラム教育」を意味し、Haram とはアラビア語で「罪」の意味である。Boko Haram とは「西洋の教育は罪」という意味となる。ナイジェリア北部の各州にシャリーアの導入を目指して武装闘争を展開している。「ナイジェリアのターリバーン」と呼ばれる。


シャリーア
Shari'a)は、イスラーム教における宗教に基づく法体系。非ムスリムからはイスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。日本語では、渡り音挿入の規則に従い、シャリーヤ、シャリヤ[2]と呼ばれることもある。シャリーアは宗教によって定められる法ではあるが、その内容は宗教的規定にとどまらず民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。


国際連合平和維持活動
United Nations Peacekeeping Operations)は、紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に紛争解決を促す国際連合の活動である。日本ではPKOと略されることが多い。


■教育
学制は初等教育6年、初期中等教育3年、後期中等教育3年、高等教育4年の6-3-3-4制である。義務教育は初等教育の6年間のみ。教育言語は英語である。就学率は初等教育で60から70%と低い。2003年の15歳以上の人口の識字率は約68%(男性:75.7%、女性:60.6%)であると見積もられている。
主な高等教育機関としてはナイジェリア大学(1955年)、イバダン大学(1948年)、ラゴス大学(1962年)などが挙げられる。


■国名
正式名称は英語: Federal Republic of Nigeria 通称 Nigeria。国名の由来は、国内を流れるニジェール川より。ニジェール川の語源は、遊牧民トゥアレグ族により、この川がニエジーレン (n'egiren) 「川」、またはエジーレン (egiren) 「川」と呼ばれていたことによる。


1.面積:923,773平方キロメートル(日本の約2.5倍)
2.人口:1億5,830万人(2010年、UNFPA)(サブ・サハラ・アフリカ全体の約20%と推定)
3.首都:アブジャ(1991年12月ラゴスより遷都)
4.主要民族:ハウサ人、ヨルバ人、イボ人等(民族数は250以上と推定)
5.言語:英語(公用語)、各民族語
6.宗教:イスラム教−北部中心、キリスト教−南東部中心、伝統宗教−全域

1960年10月 独立
1963年10月 共和制移行
1966〜1993年 軍事クーデター(7回)、ビアフラ内戦(1967〜1970年)、第二共和政(1979〜1983年)
1993年11月 アバチャ軍事政権成立
1998年6月 アバチャ元首急死、アブバカール軍事政権成立
1999年5月 オバサンジョ大統領就任
2003年5月 オバサンジョ大統領再任
2007年5月 ヤラドゥア大統領就任
2010年5月 ヤラドゥア大統領の逝去に伴い、ジョナサン副大統領が大統領に就任
2011年4月 大統領選挙において、ジョナサン大統領が当選

■主要産業:原油、天然ガス、農業等

■主要貿易品目(1)輸出 原油及び天然ガス、産業用品(2)輸入 産業用品(加工品)、輸送機器

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ナイラ
(Naira)は、ナイジェリアの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)は、NGN。記号?で書き表す。補助通貨単位はコボ(Kobo)であり、1ナイラ=0.91円。(2006年8月4日現在)


NEXT11
Next Eleven、略称: N-11は、米大手投資銀行ゴールドマン・サックスが、2007年の経済予測レポートの中で、BRICsに次ぐ急成長が期待されるとした11の新興経済発展国家群。具体的にはイラン、インドネシア、エジプト、韓国、トルコ、ナイジェリア、パキスタン、バングラデシュ、フィリピン、ベトナム、メキシコが挙げられた。


■経済
IMFの統計によると、2010年のナイジェリアのGDPは2066億ドルであり、福岡県とほぼ同じ経済規模である[7]。 ブラックアフリカで最初にOPECに加盟を果たし、アフリカ大陸ではエジプトと共にNEXT11にも数えられており経済規模は南アフリカ、エジプトに次ぎアフリカ第3位と経済規模も大きい。石油生産量世界12位、輸出量世界8位の世界有数の産油国であり、肥沃な土壌ではトロピカルフルーツや野菜の生産が盛んだった。

■国民
ナイジェリアはアフリカ最大の人口を擁する国家であり、アフリカの総人口の1/5〜1/4がナイジェリアに居住する。250以上の民族/部族が居住する。北部のハウサ人およびフラニ人が全人口の29%、南西部のヨルバ人が21%、南東部のイボ人が18%。以下、イジョ 10%、カヌリ人 4%、イビビオ人 3.5%、チヴ人 2.5%など。


■文学
ナイジェリアは南アフリカ共和国と同様、自国内に出版産業の生産、流通システムが確立し、文学市場が成立しているブラックアフリカでは数少ない国家である。文字による文学は、最初期のものとして、奴隷となったヨルバ人オラウダ・エクィアーノが英語で書いた『アフリカ人オラウダ・エクィアーノ、別名グスターヴァス・ヴァッサ自著の生涯の興味ある物語』(1789)が挙げられ、エクィアーノは現在もアフリカ文学に大きな影響を与えている。


■音楽
クラシック音楽においては、植民地時代から独立後にかけて活躍したフェラ・ソワンデの名が特筆される。19世紀にレゴスより伝わった、「パームワイン音楽」は1920年代に入るとヨルバ色を強めて土着化。1930年代には西洋楽器や讃美歌のハーモニーを取り入れた「ジュジュ・ミュージック」が成立、音楽は発展をつづけ、1980年代にキング・サニー・アデにより隆盛期を迎えた。


■映画
年間に製作される映画の本数は約800本と、インドに続き世界二位である。人口10億人以上のインドとほぼ同数の作品が製作されているわけなので、人口比あたりの映画制作数では間違いなく世界一位である。製作される映画は英語の物と現地語の物がほぼ半分ずつだと言われている。

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フェラ・クティ
Fela Anikulapo Kuti, 1938年10月15日-1997年8月2日はナイジェリア出身のミュージシャン、黒人解放運動家。ミュージシャンとしてはサックス、ピアノ、ヴォーカルと多彩な技術を誇るマルチミュージシャンで、アフロビートの創始者として世界的に著名である。「Black President(黒い大統領)」の呼び名で知られる。1938年、フェラ・ランサム・クティはナイジェリアのアベオクタに生まれる。父は牧師兼教師でミュージシャンのキャノン・I・O・ランサム・クティ、母はナショナリズム運動家のフンミラヨ・アニクラポ・クティ。他に兄と弟、妹が1人ずついる。経済的には中程度以上の家庭であり、両親の影響で幼時は医学を学んでいたが、比較的早期に音楽への道を志すようになる。

キング・サニー・アデ
King Sunny Ade、本名:サニー・アデニイ(Sunday Adeniyi)、1946年9月22日 - はナイジェリア出身のジュジュ・ミュージック歌手。キング・サニー・アデ&ヒズ・アフリカン・ビーツは1980年代半ばのアフリカで国際的なスターとなった。欧米ツアーでも多くの聴衆を得て「享楽大臣」と渾名された。祖父がオンド州のヨルバ族の王(オバ)である王家に生まれる。中学を出るとモーゼス・オライヤのハイライフバンド、フィデラル・リズム・ダンディーズに入った。1967年グリーン・スポッツを結成、1974年には自主レーベルを立ち上げた。

グッドラック・ジョナサン
Goodluck Ebele Jonathan, 1957年11月20日 - はナイジェリアの政治家。現在、同国大統領(第14代)。第11代副大統領などを歴任。ナイジェリア議会国民民主党(人民民主党とも) (People's Democratic Party (Nigeria)) 所属議員。ナイジェリア南部のリバーズ州(のちバイエルサ州)のオグビアLGAのオトゥエケで生まれた。ポートハーコート大学で水生生物学/水産学の修士を経て動物学博士号を取得。妻はペイシェンス・ジョナサン。

ンナムディ・アジキウェ
Benjamin Nnamdi Azikiwe、1904年11月16日-1996年5月11日は、ナイジェリアの政治家。イボ人。ナイジェリアの第三代総督をつとめ、共和制移行後は初代大統領に就任した。アジキウェは1904年11月16日、当時イギリスの植民地だったナイジェリアの西部、ナイジャー州のズンゲルで生まれた。ラゴスの高校を卒業後アメリカにわたり、ワシントンD.C.のハワード大学で学んだあと、1930年にペンシルベニア州のリンカーン大学に移った。

ヌワンコ・カヌ
Nwankwo Kanu, 1976年8月1日 - は、ナイジェリア・オウェリ出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションはフォワード。身長197cmの長身FW。高いレベルのテクニックと長い足を活かした独特のリズムで攻撃に変化をつけられる選手。15歳のとき、所属していたフェド・ワークスで9得点を挙げる活躍をし頭角を表す。程なくしてオランダの名門クラブ・アヤックスに引き抜かれる。

エメカ・オカフォー
Emeka Okafor,本名Chukwuemeka Noubuisi Okafor,1982年9月28日 - はアメリカ合衆国のバスケットボール選手。テキサス州ヒューストン出身。現在NBAのニューオーリンズ・ホーネッツ所属。ポジションはパワーフォワード。コネチカット大学に進み3年間ベン・ゴードンらとプレイした。2004年のNCAAトーナメントではチームを優勝へと導き、ファイナル4のオールトーナメントチームに選ばれた。両親はイボ人のナイジェリア移民である。

シェフ・シャガリ
Shehu Usman Aliyu Shagari、1925年2月25日-は、ナイジェリアの政治家。フラニ人のイスラム教徒。1979年から1983年まで、ナイジェリアの大統領を務めた。シャガリはソコト帝国の貴族の位を持ち、議員に選出されるまで短い間教師をしていた。シャガリは1925年、イギリス領北部ナイジェリア内ソコト帝国のソコト州シャガリ村にて生まれ、カドゥナ大学へと進学した。カドゥナ大学は教員養成校であったが、当時の北部ナイジェリアには高等教育を受ける機関はほとんどなく、カドゥナ大学の初期卒業生は地域のエリートとなっていった。

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ムハンマド・ブハリ
1942年12月17日-は、ナイジェリアの軍人、政治家。カツィナ州出身のフラニ人で、イスラム教徒である。クーデターでシェフ・シャガリ文民政権を打倒し、1983年12月31日から1985年8月27日までナイジェリアの指導者となったが、イブラヒム・ババンギダのクーデターによって打倒された。

イブラヒム・ババンギダ
1941年8月17日 - はナイジェリアの軍人、クーデターにより第8代大統領 (1985年8月27日 - 1993年8月27日) に就任し、ナイジェリア独立後最も自由で公正な選挙を実施したが、それらを無効にし政権にしがみついたため、民政移行の遅延に対する暴動から辞任した。

イブラヒム・アッボーラ・ガンバリ
Ibrahim Agboola Gambari, 1944年11月24日 - は、ナイジェリアの国際政治学者、外交官。国際連合事務次長(政治問題担当)、国際連合事務総長特別顧問(ミャンマー及びイラク・コンパクト担当)を務めている。イブラヒム・アッボーラ・ガンバリは、1944年、ナイジェリアのクワラ州イロリンに生まれた。旧都ラゴスのキングス・カレッジ(en:King's College, Lagos)を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに学び、政治学士号(国際関係論専攻)を取得した。

ウォーレ・ショインカ
1934年7月13日 - は、ナイジェリアの詩人、劇作家。1959年発表の『ライオンと宝石』が処女作。アフリカ人としては初のノーベル文学賞受賞者(1986年)。『死と王の先導者』が代表作。 他に、小説、評論、演出、映画などのジャンルでも才能を発揮している。ショインカはナイジェリアの政治史においても大きな役割を果たした。ビアフラ戦争初期の1967年には、ビアフラ側の制圧に乗り出した連邦政府をヒューマニズムの立場から非難し、そのため投獄される。国際的な注目が集まり、22ヵ月後には解放された。

ケン・サロ=ウィワ
Kenule Beeson Saro-Wiwa, 1941年10月10日 - 1995年11月10日 はナイジェリアの作家、テレビプロデューサー、環境活動家。サロ=ウィワは1950年代から原油の採掘が始まったニジェール・デルタの先住民の1つである少数民族オゴニの出身で、現在のリバーズ州南部オゴニランドのボリで生まれた。オゴニ民族生存運動 (Movement for the Survival of the Ogoni People, MOSOP) の創立者の一人で当初は広報係のちに代表として非暴力で国際石油資本とりわけシェルの操業による環境汚染に反対した。

エイモス・チュツオーラ
Amos Tutuola, 1920年6月20日 - 1997年6月8日は、ナイジェリアの小説家。『やし酒飲み』などヨルバ人の伝承に基づいた、アフリカ的マジックリアリズムと言われる著作で知られる。1939年父親の死に伴い学校を辞める。このためチュツオーラの教育は僅か6年間の短いものだった。 学費の捻出が果たせなかったため鍛冶屋の技術を身に付け、1942年から1945年までナイジェリアのイギリス空軍で働く。ビルマでの後方勤務なども経て、第二次世界大戦終戦とともに職を失い、パン売り、ナイジェリア労働省のメッセンジャーなど、多くの職に就いた。

アキーム・オラジュワン
Hakeem Abdul Olajuwon, 1963年1月21日 - は、ナイジェリア・ラゴス出身の元バスケットボール選手。北米のプロバスケットボールリーグNBAのヒューストン・ロケッツを中心に活躍した。身長213cm(実際は208cm程度と自認しており、公言している)の体格に似つかわしくない、俊敏な動きと繊細な技術をもち、歴代屈指のセンタープレイヤーと評されている。そのプレースタイルから、『ドリーム(Dream)』というニックネームを持っていた。

ウスマン・ダン・フォディオ
(Shaihu Usman dan Fodio、1754年-1817年)は、アフリカのソコト帝国の初代スルタン(在位1809年-1815年)。フラニ人。ジハードを起こして近隣諸国を瞬く間に併合し、一大帝国を築き上げた。1804年、フォディオはゴビールの町でイスラム信仰の乱れを嘆き、改革運動を起こしたものの、ゴビール王に追放された。しかし、追放された先で自らと同じフラニ人遊牧民の支持を得て、ジハードを宣言。ハウサ人の農民の支持も受け、ゴビールの町を手始めに、フラニ人騎兵を従えハウサ諸王国を5年間で統一し、1809年ソコトにて帝位に就いた。

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ジョージ・トーブマン・ゴールディ
(George Dashwood Taubman Goldie, 1846年5月20日 - 1925年8月20日) はマン島出身のイギリスの軍人、商人、行政官。イギリスのナイジェリア植民地建設を主導した。ゴールディの手法はアフリカの他の地域でのセシル・ローズに近いがゴールディに関する資料は乏しい。ジョージは中低地ニジェールをイギリス帝国に組込む考えを巡らした。そして20年後に実現させた。彼が選んだのはイギリス東インド会社をそっくり真似、帝国内で特許状を受けた会社による統治を復活させる手法だった。

フェラ・ソワンデ
(Fela Sowande , 1905年5月29日 - 1987年3月13日)は、ナイジェリアの作曲家。近代ナイジェリア音楽の父と称され、アフリカのクラシック音楽の作曲家で最も知られている人物の一人である。ラゴス近郊のアベオクタ出身。父のエマヌエル・ソワンデは聖職者でナイジェリア教会音楽の創始者だった。フェラ・ソワンデは合唱隊に参加しながら、ヨルバ語の作品を教会音楽に取り入れ、さらにオルガンを学んだ。同時にジャズやポピュラー音楽のバンドでも活動し、これらのことがのちに彼の音楽に大きな影響を与えた。1934年、ロンドンに留学。1936年、ジョージ・ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』のソロピアニストを務めた。

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