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マラウイ共和国
Republic of the Malawi

アフリカ

マラウイの歴史
History of Malawi)は、現在のマラウイ共和国に該当する地域の歴史について扱う。この地域はかつて、バントゥー系民族により建てられたマラビ帝国の一部であった。19世紀末にイギリスの保護領となり、イギリス中央アフリカ保護領やニヤサランド、ローデシア・ニヤサランド連邦などを経た後に、1964年にマラウイとして独立した。


■有史以前
人類の祖先として現在知られている中で最古のものは、ケニアのトゥゲン丘陵で発見されたおよそ600万年前のオロリン・トゥーゲネンシスであるが、マラウイで発見されたヒト科動物遺骸と石器は、考古学的調査から100万年以上昔のものであることが明らかとなっている。また、およそ6万年から5万年前の原始人類がマラウイ湖周辺に住んでいたことが判明している。

■マラビ帝国
現在のマラウイの国家名であるMalawiは、かつてこの地域に存在したマラビ帝国(Maravi )の語に由来するものである。マラビ帝国として知られるこの国家は、15世紀終わりごろにバントゥー系民族のマラビ族によって建国された。

■交易と襲来
発足当初の頃のマラビ帝国の経済は大部分を農業に依存しており、雑穀やモロコシの生産を主として行っていた。ヨーロッパ人との接触が初めてあったのはマラビ帝国治政下の16世紀のことであり、その後幾度かの接触がポルトガル人によって行われた記録が残されている。

■アラブ人とスワヒリ人の連合
ヤオ族(或はチェワ人)との強いパートナーシップを背景として、アラブ人の貿易商はマラウイ湖の沿岸地域に何箇所かの交易所を設立した。これらのうち最大のものは1840年にアラブ人貿易商のジュンベ(スワヒリ語で首長、Jumbe, Salim Bin Abdalla )によりコタコタに建設されたものである。ヤオ族とンゴニ族は互いに幾度も争いを繰り返したものの、いずれの民族も決定的な勝利を収めることは出来なかった。マラビ帝国に住むその他の民族は、そのほとんどが両民族からの攻撃により壊滅した。

■ヨーロッパ人の探検家、宣教師、貿易商
ポルトガル人は16世紀中にマラビ帝国と接触していたものの、マラビ族の指導者層まで手を伸ばすことが出来なかった。その結果、ヨーロッパ人として初めてマラウイ湖へ至り、彼らと歴史上重要な接触を行ったのは、イギリスの探検家で宣教師のデイヴィッド・リヴィングストンとなった。

■イギリス中央アフリカ保護領
1883年、イギリスの領事は"Kings and Chiefs of Central Africa"を任命され、1891年にはポルトガルとの間に英葡危機(Anglo-Portuguese Crisis)を経た後、同年中にシーレ高地保護領を宣言、1893年にはイギリス中央アフリカ保護領を設立した。


ニヤサランド
Nyasaland Protectorateは、1907年から1964年まで現在のマラウイに該当する地域に存在したイギリスの保護領である。ニヤサランドは、1907年にイギリス中央アフリカ保護領が改称されて設立された。ニヤサランドの歴史には、イギリスから独立を勝ち取るための無数の努力が刻まれている。イギリス保護領となって以降、法的手続きに関する無知から先住民族は不利な立場に追いやられていたが、徐々にヨーロッパやアメリカで教育を受けたアフリカ人のエリート達が、主張し、政治的活動を行うようになっていった。

■自治領ニヤサランド
1963年2月1日に、ヘイスティングズ・カムズ・バンダは首相へと就任したが、イギリスは依然としてニヤサランドの経済、国防、司法などをコントロールしたままであった。完全な自治権を獲得するために、ニヤサランド自治領政府は1963年5月に、新たな憲法を発布した。


ローデシア・ニヤサランド連邦
Federation of Rhodesia and Nyasalandは、アフリカ南部の旧イギリス領地域。現在のザンビア、ジンバブエ、マラウイに当たる。第二次世界大戦後の南ローデシアでは白人の移民が増え、農業や製造業が盛んとなった。加えてカッパーベルトによる銅鉱山で潤っていた北ローデシア・黒人の労働者の供給元となっていたニアサランド(現在のマラウイ)との結びつきが強まり、南北ローデシアにニアサランドを含めて統一した国家を樹立しようとする動きが白人を中心に活発化した。


■マラウイとして独立
1964年7月6日、マラウイはイギリス連邦内の英連邦王国として独立を果たした。なお、独立の直前に行われた1964年マラウイ総選挙では、全選挙地区においてマラウイ会議党の候補以外の出馬が無かったため、マラウイは独立時点から一党制の政治が行われることとなった。

■一党制時代
バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"[39]と呼称させる独裁者であった。バンダへの忠誠はあらゆる場面で要求された。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。

■多党制導入後
バンダによる独裁政治が長らく維持されていたマラウイであったが、1991年に南アフリカ共和国大統領であったフレデリック・ウィレム・デクラークがアパルトヘイトの法的廃止を決定して以降、マラウイ国内の教会、および国際世論からの圧力増加と国内の民主化要求が高まってきた。この結果、翌1992年にバンダは、複数政党制を新たに導入するか、一党制をこのまま維持するかを国民投票により決めることを発表した。そして1993年6月14日、マラウイ建国以来初の国民投票が無事行われ、国民の3分の2近い得票を得て多党制導入が決定された。

■21世紀以降
2001年には、統一民主戦線の議席数は96議席である一方、民主同盟が30議席、マラウイ会議党が61議席で、残りの6議席は無所属となっていた。2009年マラウイ総選挙にてムタリカは3分の2近い支持を得て大統領に再任され、所属する民主進歩党も過半数を単独で獲得し、安定政権となった。


1993年マラウイ国民投票
多党制制度導入の是非を問うために1993年6月14日に行われた国民投票である。マラウイでは1960年代半ばからヘイスティングズ・カムズ・バンダ率いるマラウイ会議党による一党独裁の政治運営が行われており、他の党を結成することは法律で禁止されていた。バンダ大統領は1971年には"終身大統領"となり、対立した政治家や市民運動家の投獄や暗殺を行っていた事が明らかとなっている。

内陸国
Landlocked country)とは、周りが陸の国境に囲まれ、海がない国のことである。世界には48の内陸国がある(内陸国一覧参照)。内陸国と対照的な国は島国(周囲が水に囲まれる国)である。

大地溝帯
Great Rift Valley)は、主にアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つである。大地溝帯の谷は、幅35 - 100 km、総延長は7,000 kmにのぼる。正断層で地面が割れ、落差100 mを超える急な崖が随所にある。狭義の大地溝帯は、エチオピアを南北に走る高原地帯から、ズワイ湖、シャーラ湖、チャモ湖、トゥルカナ湖から、タンザニアへと至る。これは東リフト・バレーとも、発見者の英人探検家ジョン・ウォルター・グレゴリーにちなんで、グレゴリー・リフト・バレーとも呼ばれる。


シーレ川
(Shire River)は、アフリカ大陸南東部を流れる全長402kmの河川で、ザンベジ川の支流である。マラウイ湖南端より流出し、マラウイおよびモザンビーク領内を流れ、ザンベジ川に合流する。合流点付近は大規模な湿地帯となっている。マラウイ湖のすぐ南でマロンベ湖にも接続している。

ザンベジ川
(Zambezi River)は、アフリカ南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は2,750km。ナイル川、コンゴ川、ニジェール川に次ぐアフリカで4番目の長さの川である。ザンビア北部に源を発し、アンゴラ、ザンビア、ナミビアと流れた後ザンビアとジンバブエ国境を流れ、モザンビークに入りインド洋のモザンビーク海峡に注ぐ。

リコマ島
(Likoma Island)は、マラウイ北部州のリコマ県に属する、マラウイ湖に浮かぶ島である。リコマ県は2つの島によって構成され、このうちの大きいほうがリコマ島、小さいほうがチズムル島である。特筆すべき点としては、かなりの大きさの岩石で造られた大聖堂の存在がある。この建物はリコマ市街地にあり、1903年から建造が始められ、1911年に聖ペトロへ捧げられた、アフリカで最も大きい教会の1つである。

チズムル島
(Chizumulu Island)は、マラウイ北部州のリコマ県に属する、マラウイ湖に浮かぶ島である。リコマ県は2つの島からなり、このうちの小さいほうがチズムル島、大きいほうがリコマ島である。チズムル島は2つの大きな丘と、北部の平坦な土地で構成されている。丘の斜面の下のほうは大部分がキャッサバの農園となっており、上のほうは森林に覆われている。また、島内には多くのバオバブの木が存在している。

ムランジェ山
(Mount Mulanje)またはムランジェ山塊(Mulanje Massif)は、マラウイ南部州に位置する巨大な残丘である。およそ640km2の面積を擁するとともに、最も海抜の高いサピータピーク(Sapitwa Peak)地点は標高3002mを誇る。なお、ムランジェ山はマラウイ国内および中央アフリカ地域における最高峰である。

マラウイ湖
(Malawi)、タンザニアとモザンビークではニアサ湖 (Nyasa、Nyassa、Niassa) 、はアフリカ東南部にある湖で、アフリカ東部を縦断する大地溝帯(グレート・リフト・バレー)の南端部に位置する。面積はアフリカで3番目、世界で9番目の広さである。深さはアフリカで2番目に深い。マラウイという名は、マラウイの公用語・チェワ語で「光、炎」などを意味する言葉で、マラウイの独立後に国名として採用された。

マロンベ湖
(Lake Malombe)は、マラウイ南部州の湖である。マラウイ湖を水源とするシーレ川流域上に位置しており、マラウイ湖との距離はおよそ13kmである。湖の面積は約450km2で、南北の長さは30km、東西の幅は15kmであり、2000年度の時点では、湖の近くで少なくとも45の村々に漁師とその家族のおよそ6万9000人が暮らしている。

カウリメ湖
(Lake Kaulime)は、マラウイ北部州の湖である。ニイカ国立公園内で唯一の自然湖である。この湖は、ニイカ高原に暮らす多くの住民にとって神聖な土地となっている。トゥンブカ族の間では、伝統的なカルトの信者が邪悪な精霊に生贄を捧げる地とされている。

カズニ湖
(Lake Kazuni)は、マラウイ北部州の湖であり、ニイカ高原の南西側にあるヴワザ湿地動物保護区内に位置する。湖付近に置かれているカズニサファリキャンプ(Kazuni Safari Camp)は、ヴワザ湿地動物保護区内にある宿泊可能な施設である。また、この湖はマラウイ国内におけるカバの生息拠点の1つとして知られている。

チウタ湖
(Lake Chiuta)は、マラウイとモザンビークの境界にある浅い湖である。チウタ湖はチルワ湖の北に位置しており、チルワ湖との間は砂地の尾根によって隔てられている。また、主要な東アフリカ地溝帯の東側を北東から南西に走る地溝上に位置している。

マフィンガ丘陵
(Mafinga Hills)は、南部アフリカの2カ国であるマラウイとザンビア間の国境上に位置する丘陵・高原地域である。この地域の岩石は、珪岩、千枚岩などの変成岩のほか、堆積岩である長石質砂岩からなる。

ニイカ高原
(Nyika Plateau)はアフリカ南部の高原であり、土地の大部分がマラウイ北部州に、一部がザンビア北部州に属している。平均海抜はおよそ2100-2200メートルで、最も標高が高いのはンガンダ山(Nganda Peak)山頂の標高2605メートルである。また、この高原は上空から見るとおおよそダイヤモンドのような形であり、南北長軸が約90 km、東西の幅が約50 kmとなっている。そのため、海抜475メートルのマラウイ湖やリビングストニア、チルンバといった町の近くにそびえ立つように存在している。

チズムル島
(Chizumulu Island)は、マラウイ北部州のリコマ県に属する、マラウイ湖に浮かぶ島である。リコマ県は2つの島からなり、このうちの小さいほうがチズムル島、大きいほうがリコマ島である。チズムル島はモザンビークからわずか数キロメートルの場所に位置し、周囲は完全にモザンビークの領海に囲まれていることから、マラウイの飛び領土となっている。この島には現在約4,000人の人口があり、リコマ島と同様に食糧の大部分をマラウイ本土からの輸送に依存している。


ダウ船
dhowは、イスラーム圏の伝統的な木造帆船。1本か2本のマストに一枚ずつの大きな三角帆(ラテンセイル)を持ち、釘を一切使わず紐やタールで組み立てることが特徴。主にアラビア半島、インド、東アフリカ等の沿岸で使用され、現在も動力化されながらも使用されている。ダウ船とは、欧米人が用いた言葉であり、ムスリムは船の型によってさらに何種類か区別している。


ニイカ国立公園
(Nyika National Park)は、マラウイ国内で最大の国立公園であり、3200km2(1250 mile2)の面積を擁する。ニイカ(Nyika)はスワヒリ語で"東アフリカ沿岸地帯の奥地"を意味する。この国立公園内は、海抜の高さに由来して周辺の地域よりも高湿度であり、また、しばしば雲に覆われている。雨季には200種を超えるランが咲き乱れるほか、雨季以外の季節にも様々な植物を見ることが可能である。

ムランジェ山保全トラスト
(Mulanje Mountain Conservation Trust:MMCT) は、マラウイにおける環境保全トラストである。ムランジェ山保全トラストは環境トラストであり、地球環境ファシリティ (GEF) を通じて世界銀行から資金供給を受けている。この組織は生物多様性の研究と保全、ムランジェ山森林保護区の維持と管理を、長期間に渡り確実に行うことを活動目的としている。

ムランジェ山森林保護区
(Mulanje Mountain Forest Reserve)は、1927年に設立されたマラウイの保護区である。ムランジェ山保全トラストにより管理されている。ムランジェ山の高い海抜やその地形学的構造から、この地域では11月から4月にかけて高い降雨量が観測されるような独特の気候が見られる。この特徴的な気候により生物の高多様性が育まれ、希少種や固有種が数多く存在するユニークな生態系が発展している。


ヴワザ湿地動物保護区
(Vwaza Marsh Game Reserve)は、マラウイにある保護区の1つであり、マラウイ北部州に置かれている。ニイカ高原に置かれているニイカ国立公園とは対照的に、ヴワザ湿地動物保護区は、園内東側の丘のようなエリアのほかは大部分が平坦な低地である。この保護区はニイカ高原の南西部で、南ルクル川氾濫原の北にあり、1000km2の面積を持つ。

コタコタ動物保護区
(Nkhotakota Game Reserve)は、マラウイの保護区の1つであり、コタコタ県に設置されている。マラウイ国内の保護区の中で最も歴史が古く、また国内の保護区としては最も大きく1750km2の面積を持つ。ロンリープラネットによれば、コタコタ動物保護区はゾウの重要な生息地である。

マジェテ動物保護区
(Majete Game Reserve)は、マラウイにある保護区の1つであり、マラウイ南部州に置かれている。保護区内にはブラキステギア属の木々による林があるほか、川沿いのエリアには森林も存在する。園内の河川では、カピチラ滝(Kapichira Falls)が有名である。また、野生動物としてはゾウ、アフリカスイギュウ、ゼブラ、カバなどのほか、クーズーやクロテン、インパラ、ニアラなど種々のレイヨウといった草食動物が生息しており、肉食動物ではヒョウやチーター、ライオンなどが見られる。


■民族
チェワ族、トゥンブーカ族(トゥンブカ族)、ンゴニ族(アンゴニ族)、ヤオ族、ニャンジャ族、チポカ族、トンガ族、アマゴロゴロ族、ンセンガ族、ズールー族、コーサ族、スワジ族、ンデベレ族(英語版)などが存在する。マラウィ内には40程度の民族集団が存在するといわれるが、それぞれの民族集団の輪郭は曖昧である。

■教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は62.7%(男性:76.1%、女性:49.8%)である。2003年にはGDPの5.8%が教育費に支出された。主な高等教育機関としてはマラウイ大学(1964)、ムズズ大学(1997)などの名が挙げられる。


カムズ・アカデミー
(Kamuzu Academy)は、マラウイの初代大統領であるヘイスティングズ・カムズ・バンダが設立したボーディングスクールである。アフリカの"アフリカのイートン・カレッジ"を目標として創立された。なお、カムズ・アカデミーの名はカムズ・バンダ大統領の名前から付けられたものである。


チェワ族
(Chewa)は、中央アフリカから南アフリカにかけて住む民族である。この民族は、自身の周囲をとりまく民族、とりわけトゥンブカ族(Tumbuka)やンセンガ族(Nsenga)などの民族と関連が深い。また、歴史学的にはコンゴ民主共和国で同じ歴史を歩んだ民族であるベンバ族と関連がある。チェワ族の口伝によれば、チェワ族の起源はザイール南部のルバ(Malambo)に住んでいた氏族が北部のザンビアに移住に由来し、その後さらに南と東にマラウイの高地の南方と東方に移住したものである可能性がある。チェワ族の最初の王国は、1480年前後に建てられた後、16世紀には2つの権威の系統となった。このうちの1つがバンダの氏族であったMankhamba (Nthakataka)の一族で、もう一方はフィリの氏族であったManthimbaの一族であった。

ヤオ族
タンザニア南部、モザンビーク北部、マラウイ南部に住むバントゥー系の部族。インド洋沿岸のアラブ商人との交易によって勢力を築いた部族で、その影響から現在でもイスラム教徒が多い。現在のモザンビーク北部ニアサ州からタンザニア南部ルヴマ州にかけての領域に住んでいたヤオ族は、19世紀頃には衰退したマラビ帝国に代わりマラウイ南部地域まで勢力を拡大した。

トゥンブカ族
Tumbukaは、バンツー族系の民族であり、マラウイ北部、ザンビア東部、タンザニア南部に在住している。トゥンブカ族の神話上の主神はチウタ(Chiuta)といい、アブラハムの宗教の神のように全知全能で、自らを作り上げたと言われる。1998年のThe World Almanacの見積もりでは、およそ200万人のトゥンブカ語話者が上記の3ヶ国に在住しているという。

ンゴニ族
現在のタンザニア、マラウイ、モザンビーク、ザンビアに住むバントゥー系の部族。南アフリカのナタール州周辺に出自を持つ。ウシの1系統Nguni cattle(ングニ種と呼ぶべきか?)の飼育を続けながら南下をしたングニ族と呼ばれる民族が、紀元前後に現在の南アフリカのナタール州からスワジランドの周辺に定住した。ングニ族はその後、ズールー族、コーサ族、スワジ族、ンデベレ族などに分かれた(これらは現在の南アフリカ南東地域の大半の人口を占める)。そして後に、南アフリカの土地を離れ、北上していくングニ族系の部族が、現在ンゴニ族と呼ばれる人々である。

バントゥー系民族
(Bantu peoples)は、アフリカ言語の大カテゴリであるバントゥー語群に属する多様な言語を使用しつつ1つの大きな言語集団を成す多くの民族の総称である。この語は、現在のカメルーンから中央アフリカと東アフリカを横切り南アフリカまでのブラックアフリカに分布する、400以上の民族(140 - 600以上の言語)に対する一般的分類として用いられている。


チェワ語
マラウイの国語(公用語は英語)で、マラウイ中南部を中心に、モザンビーク(テテ州など)やザンビア(東部州やルサカを中心に)で話されている。バントゥー系の言語であり、ニャンジャ語と言われることもある(別の言語として扱われることもあるようである)。

ロムウェ語
(Lomwe language)は、主にモザンビーク中部のザンベジア州と、マラウイの南東部で使用されている言語で、マクア語やチェワ語と言語分類的に近い関係にある。ただし、ロムウェ語は地域方言ごとに大きく異なっており、マラウイのロムウェ語とモザンビークのロムウェ語では会話できないほど異なるとされる。

サン人
Sanは、南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族である。砂漠に住む狩猟採集民族は大変少なく現在ではこのサン人ぐらいしかいない。かつて3000〜2000年前くらいまでは、南部アフリカから東アフリカにかけて広く分布していた。しかし、バントゥー系の人々や白人の進出により激減し、現在はカラハリ砂漠に残っているだけである。

ンセンガ族
(Nsenga)は、ザンビアとモザンビーク、ジンバブエ、マラウイに住む民族である。歴史的には、ンセンガ族は紀元前に中央アフリカから移住してきた民族であると考えられており、近年の調査では、42万7000人がザンビアに、1万6100人がジンバブエに、14万1000人がモザンビークに在住している。独自の言葉としてバンツー語系のンセンガ語(英語版)を持つが、これはトゥンブカ語の方言のように聞こえるという。


マラビ帝国
(Maravi、マラウィ帝国、あるいはマラヴィ帝国とも)は、 16世紀頃から19世紀末まで存在したアフリカの帝国である。16世紀ごろに、現在のマラウイにあるマラウイ湖周辺のバントゥー系民族により建国された。 マラビ("Maravi" )とはチェワ語で"炎"(fire flames)を意味する言葉であり、現在の国家の名称であるマラウイ(Malawi)もこれに由来する。


アングロアフリカン
Anglo-African)は、アフリカのサブサハラに居住する、英語を第一言語とする民族。イギリスやアイルランドからの開拓民であり、ほとんどが南アフリカ共和国に住んでいる。これとは別に、フランスのユグノー、ユダヤ人やイタリア人などがヨーロッパから渡り、現在に至るまで独自の文化を築いている。

ブラックアフリカ
(Black Africa)は、文字どおりには、アフリカのうちネグロイド(黒人)が主に居住する地域である。コーカソイド(白人)が主に住むホワイトアフリカ(北アフリカ)と対比される。サブサハラアフリカ(サハラ以南のアフリカ)の同義語とみなされることもあるが、厳密にはサブサハラ全土で黒人が多数派であるわけではなく、マダガスカルのような非黒人地域を除外することもある。


マラウイ地震
Malawi earthquake)は、1989年3月10日にマラウイで発生した地震である。震源地はマラウイ中部州で、規模はマグニチュード6.6であった。この震災により少なくとも9人が死亡、100人が負傷し、被害はサリマ県、デッザ県、ムチンジ県の範囲に及んだ。この震災で、およそ5万人が家を失った。


■宗教
1998年のセンサスによれば、国民の79.9%がキリスト教、12.8%がイスラーム、その他が3%、無宗教が4.8%である。キリスト教はカトリックよりもプロテスタント各派のほうが多い。


<世界遺産>
マラウイ湖国立公園
「湖のガラパゴス諸島」の異名をとる固有種の多さと進化の多彩さで知られ、とくにシクリッド(カワスズメは、スズキ目・ベラ亜目・シクリッド科(カワスズメ科 Cichlidae)に分類される魚の総称)の数の多さは世界的にも類を見ない。
チョンゴニの岩絵地域
チョンゴニは、マラウイ中部デッザ県中部の地域である。洞窟壁画や居住の痕跡をうかがわせる遺跡などが現存し、「チョンゴニの岩絵地域」の名で、ユネスコの世界遺産に登録された。チョンゴニ森林保護区の区域内を中心に127の遺跡が確認されている。

ヘイスティングズ・カムズ・バンダ
(Hastings Kamuzu Banda, 1896年もしくは1898年-1997年11月25日)は、マラウイの政治家。同国の初代大統領。独裁者として知られる。彼が誕生した当時、マラウイはイギリス領北ローデシアの一地方であり、ニヤサランドと呼ばれていた。初等教育を3年間受け、南ローデシア(現在のジンバブエ)、南アフリカ連邦(南アフリカ共和国)などで働き、中等教育を受ける。教会の援助を受けて留学。学士号、博士号を取得。スコットランドで医学教育を受け、1938年エディンバラで開業。1945年にはロンドンで開業した。

ジョン・テンボ
(John Zenus Ungapake Tembo、1932年9月14日 - )は、マラウイの政界における最大野党、マラウイ会議党 (MCP) の党首である。中部州のデッザ県出身で、政界入りする前の職は学校教員であった。テンボは1964年から1994年までのヘイスティングズ・カムズ・バンダ大統領による統治時代に唯一の合法政党であったマラウイ会議党における主要人物の1人であり、"禁欲的、潔癖"や"狡猾"など様々な表現で評される人物である。

ビング・ワ・ムタリカ
Bingu wa Mutharika、1934年2月24日 - は、マラウイ共和国の経済学者、政治家。2004年5月24日から同国大統領(第3代)を務めている。2010年より1年間、アフリカ連合総会議長(第8代)を務めた。1934年、マラウイ南部に位置する同国最大の都市ブランタイヤから30kmほど離れたチョロで、小学校の校長の息子として生まれた。インドのデリー大学で学び、経済学の修士学位を取得した。その後、カリフォルニア州の非認定大学、パシフィック・ウエスタン大学から開発経済学の博士学位を取得している。

デイヴィッド・リヴィングストン
(David Livingstone、1813年3月19日 - 1873年5月1日)は、スコットランドの探検家、宣教師、医師。ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。生家は貧しく、10歳の頃から近所の紡績工場で働くことを余儀なくされるが、聖書、ラテン語等の学問への意欲は旺盛であった。彼は日中の工場での仕事中に本を読む工夫をしつつ、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をした。この時期に中国、朝鮮、日本で宣教を行ったドイツの宣教師、カール・ギュツラフに深く感銘を受け、宣教師になり、中国で医療を施しながら布教することを志すようになった。

ジョン・チレンブウェ
(英: John Nkologo Chilembwe、ジョン・チレンブェ、ジョン・チレンベとも、1871年 - 1915年2月3日)は、植民地時代の1915年のマラウイ(ニヤサランド)で白人支配に反対し、武装蜂起を率いたマラウイ人。教師であり、バプテスト教会牧師でもあった。マラウイでは最初の独立活動家として英雄視されており、通貨マラウイ・クワチャの紙幣のデザインにもその肖像が用いられている。

ラブネス・ゴンドウェ
(Loveness Gondwe Chihana、1967年 -)は、マラウイの女性政治家である。2009年の大統領選挙でマラウイ史上初の女性大統領候補として出馬したことで知られる。1967年、ゴンドウェはマラウイ北部州のムジンバ県チコンガ・ジェレ村(Chigonga Jere village)の伝統的権威者の家系に生まれた。セカンダリースクールを卒業後、ホテルなどで働いた南アフリカ高等弁務局(South African High Commission)の秘書官として従事した折に政治への興味を持ったとされる。

マラウイ Malawi
アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。旧称はイギリス保護領ニヤサランド(Nyasaland、ニアサは湖の意)。首都はリロングウェ、最大の都市はブランタイヤ。

リロングウェ
(Lilongwe)は人口646,235人のマラウイ共和国の首都であり、マラウイのほぼ真ん中に位置する。一方、経済の中心は、南部のブランタイヤである。 また、リロングウェ県(Lilongwe District)は、6,159 km2の面積を持ち、134万6360人の人口を擁する県であり、中心の町はリロングウェ市である。標高は、1,000mほどの高原である。マラウイでは暑い乾季といわれる10月・11月が最も暑い時期だが、それでも平均気温は23度前後程度であり、5月から8月頃が平均気温では15度から18度程度で涼しい時期であり、一年の平均気温は20度程度である。


リロングウェ国際空港
英語:Lilongwe International Airport)は、マラウィ共和国の首都、リロングウェにある国際空港。別名カムズ国際空港(英語:Kamuzu International Airport)。エア・マラウイの本拠地である。

チレカ国際空港
英語:Chileka International Airport)(IATA: BLZ, ICAO: FWCL)は、マラウイ共和国の都市、ブランタイヤにある国際空港である。この空港は、マラウイで最大の都市であるブランタイヤの町からおよそ16kmの距離にある。

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マラウイ大学
(University of Malawi, UNIMA)はマラウイにある高等教育機関。本部はマラウイ南部州の都市・ゾンバにある。1964年設立。2005年以降の大学総長は元駐日大使のジマニ・カザミラである。


外務省:マラウイ共和国
在マラウイ共和国日本国大使館


ムズズ大学
(Mzuzu University)は、マラウイで2番目に設立された大学である。マラウイ北部州の州都であるムズズに置かれている。1997年に設立され、1999年から学生の受け入れを開始した。なお、2008年度時点で、1282人が学士号を、30人が修士号を、9人が博士号をムズズ大学で取得している。


チティパ
(Chitipa District)は、マラウイ北部州に属するマラウイで最も北に位置する県である。また、中心となる都市はチティパ(Chitipa Town)である。マラウイ人の法律家で政治家、博愛主義者でもあるジェームス・ニョンドの出身地である。

カロンガ
Karongaは、マラウイ北部州にある県であり、中心となる都市もカロンガ(Karonga Town)である。数年前にウラニウムの鉱脈が発見されて以降、以前の砂利道はターマックで舗装され、この地域は大規模に発展しつつある。

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ルンピ
Rumphiは、マラウイ北部州の県(Rumphi district)で、中心となる都市はルンピ(Rumphi Town)である。ルンピ県は幾人かの著名な政治家を輩出しており、マラウイ人として初めてヘイスティングズ・カムズ・バンダの独裁に対する反政府活動を公式に行い、後に民主同盟 (マラウイ)の代表となったトム・チャクフワ・チハナや、先の内閣のメンバーであったデニス・ンクワジ、マラウイ民主党の代表であるカムレポ・カルアなどがルンピ県出身である。


クンゴニ文化芸術センター
(Kungoni Centre of Culture and Art)は、マラウイ中部州のデッザ (Dedza) のふもとにある複合施設である。クンゴニ文化芸術センターは、マラウイ文化のユニークな体験を提供する複合施設であり、1976年に宣教師であったバウチャー(Boucher)によって、マラウイの片田舎で安全かつ人を惹きつける魅力のあるこの地に設立された。施設内では、猿、蛇、レイヨウなどの動物の自然生息地を観察することが可能である。また、非営利団体であり、地元の雇用にも貢献しているほか、宿泊施設としてシャレー(Chalets)の提供も行っている。


マラウイ鉄道
Malawi Railways)は、1999年に民営化されたマラウイの旧国営鉄道である。マラウイ中部州以南に鉄道網を敷設していたことで知られる。1999年12月1日に、アメリカを本拠地とする鉄道開発会社(Railroad Development Corporation:RDC)を主体とした中央東アフリカ鉄道(Central East African Railways)グループが、20年間に渡るマラウイ鉄道の運営権を取得した。総延長は797km、軌間は1,067mmで、ザンビアとの国境に近いムチンジ県西部から、リロングウェを経由し、南部のブランタイヤやマカンガ(Makhanga)までの区間を運行していた。


北部州
(Northern Region)はマラウイにおける州の1つ。マラウイの北部、国土の三分の一ほどを占め、西にザンビア、北にタンザニアと接する。2003年における人口は1,389,475名、面積は26,931平方キロメートル。州都はムズズ。6つの自治体を含んでいる。

中部州
中部州(Central Region)はマラウイにおける州の1つ。マラウイの中部、国土の三分の一ほどを占める。2003年における人口は4,814,321名、面積は35,592平方キロメートル。州都は首都でもあるリロングウェ。9つの自治体を含んでいる。

南部州
南部州(Southern Region)はマラウイにおける州の1つ。マラウイの南部、国土の三分の一ほどを占める。2003年における人口は5,345,045名、面積は31,753平方キロメートル。州都はブランタイヤ。13の自治体を含んでいる。


ブランタイヤ
(Blantyre)は、マラウイ南部州の県(Blantyre District)であり、中心となる都市もブランタイヤ(Blantyre City)である。シレ川に臨み、人口646,235人(2003年)と同国最大の都市である。シレ高地の交通の要衝であり、マラウイにおける商業の中心地である。政府機関や数校の専門学校等がある。タバコ・トウモロコシ・コーヒー・キリ油・小麦などがおもな産品。

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サリマ
(Salima) は、マラウイ中部の県で、中心の町もサリマ(Salima township)である。北側がコタコタ、西側が、ンチシ、ドーワ、及びリロングウェ、東側がマラウイ湖を挟んでマンゴチ、南側がデッザの各District(県)に囲まれている。マラウイ湖の西岸に面しており、その一帯の標高は標高500mほどのため、暑い地域である。

リウォンデ
(Liwonde)は、マラウイ南部州マチンガ県の都市である。バラカ県、マンゴチ県、マチンガ県、ゾンバ県の四つの県へ行き来する上での交通の中心地である。また、2本の幹線道路とモザンビークへ向かうマラウイ鉄道を結ぶ物流の要所でもある。
なお、国際的にはリウォンデ国立公園から近いことで有名であり、同園を観光する上での準備を行える町として観光客に重宝されている。都市内にはバオバブの木や火焔樹が多く生えている。

ドーワ
(Dowa)は、マラウイ中部州にある県であり、中心となる都市もドーワ(Dowa Town)である。3041km2の面積と、41万1387人の人口を擁する県である。県内にはチェワ族や、ニャウ族、ヤオ族が住むが、このうち最も主流であるのはチェワ族である。また、チェワ族とニャウ族の伝統的な踊りは、チェワ族の先祖やンゴニ族の先祖が残した文化の1つである。

リコマ
(Likoma District)は、マラウイ北部州の県。マラウイ湖内のリコマ島とチズムル島の2島で構成される県であり、周囲を完全にモザンビークの領海に囲まれていることから、マラウイの飛び領土となっている。おそらくこの都市で最も有名なものは、イギリスの聖公会が建設した大聖堂である。この大聖堂は聖ペトロに献堂されており、ペトロの像はマラウイ湖に向けられている。1903年1月27日にジェラード・トロワー主教により設立され、1911年11月14日にトーマス・フィッシャー主教により聖ペトロへ献堂された。

ルンピ
マラウイ北部州の県(Rumphi district)で、中心となる都市はルンピ(Rumphi Town)である。この県は4769 km2の面積を持ち、人口は12万8360人である。ルンピ県は幾人かの著名な政治家を輩出しており、マラウイ人として初めてヘイスティングズ・カムズ・バンダの独裁に対する反政府活動を公式に行い、後に民主同盟 (マラウイ)の代表となったトム・チャクフワ・チハナや、先の内閣のメンバーであったデニス・ンクワジ、マラウイ民主党の代表であるカムレポ・カルアなどがルンピ県出身である。

デッザ
(Dedza) は、マラウイ中部州の県(Dedza district)で、中心となる町はデッザ(Dedza township)である。この県の面積は、3624 km.2で、人口は2008年の国勢調査時点で62万3789人である。大地溝帯の西側の段差にまたがるように位置しているため、東部の標高の低い地域と中部の高地では地理条件が大きく異なる。中部にあるデッザの町は標高1,500mほどの高原で、マラウイでは暑い乾季といわれる10月前後でもそれほど暑くはない。デッザの町から北に十数キロの範囲に広がる地域に分散するチョンゴニの岩絵地域が、マラウイ湖国立公園に続いてマラウイでは2つ目のユネスコの世界遺産に登録された(2006年)。世界文化遺産としてはマラウイ初である。

リビングストニア
(Livingstonia)は、マラウイ北部州のカロンガ県にある都市である。首都のリロングウェから北に435kmの場所に位置し、北部州の州都であるムズズからは南におよそ100km、車でおよそ4-5時間の距離である。このリビングストニアの町は、1894年にスコットランド自由教会の宣教師によって設立された。名前の由来は、東アフリカ地域の調査を行い、イギリス人によるアフリカ布教活動を再燃させた功績者で、1873年にマラリアで没したデイヴィッド・リヴィングストンである。52年間に渡り、この地の布教活動をリードしていたのはロバート・ローズ(Dr Robert Laws)であった。ローズは、その当時において当該地域で最も優れた学校をリビングストニアに設立し、後にこの学校の卒業生たちは南部アフリカ地域の近隣諸国に影響を及ぼすようになった。

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ムジンバ
(Mzimba District)は、マラウイ北部州に属する県である。また、中心となる都市はムジンバ(Mzimba Town)である。本稿では、県と都市の両方を扱っている。この県は1万430 km.2の面積を持ち、人口は61万944人である。県内で最も一般的な仕事は、とうもろこしや豆の自給農業、放牛のほか、換金作物としてのタバコの栽培である。 教育に関しては、ムジンバ県には現在、98個の活動的な教育委員会が存在する。

カタベイ
(Nkhata Bay)は、マラウイ北部州にある県であり、中心となる都市もカタベイ(Nkhata Bay Town)である。4071km2の面積と、21万3779人の人口(2007年時)を擁する県である。県北側をルンピ県に、西側をムジンバ県に、南側をコタコタ県に接しており、東側はマラウイ湖に面している。

カスング
(Kasungu)は、マラウイ中部州にある県であり、中心となる都市もカスングである。この県は7878km2の面積を有し、48万0659人の人口を有する。カスング県は、県の西側でザンビアとの国境を形成している。県内にはザンビアのルラングア国立公園へと通じる道として伝説的に有名な"でこぼこ道の100マイル"(100 miles of rough road)が存在し、このルートを利用する観光客は、どうにかしてこの悪路に生きて耐え切ることができれば、南部アフリカで最も大きな国立公園の1つであるルラングア国立公園へたどり着く。

コタコタ
マラウイ中部州の県(Nkhotakota District)であり、中心となる都市はコタコタ(Nkhotakota Town)である。かつては奴隷貿易が盛んに行われ、19世紀半ばにはアラブ系の奴隷商人ジュンベがこの地に拠点を設けた。リヴィングストンが奴隷貿易の停止を求めて交渉したが失敗に終わっている。

ムチンジ
(Mchinji)は、マラウイ中部州にある県であり、中心となる都市もムチンジ(Mchinji Town)である。天水農業(雨水頼りの農業)に支えられており、非常に貧しいことで知られる。マラウイ鉄道の国内末端でもあり、国境を挟んでザンビアの鉄道線路と接続されている。

ゾンバ
マラウイ南部州に属する県(Zomba District)であり、中心となる都市もゾンバ(Zomba Town)である。2005年における人口は10万人。マラウイ第4の都市でもある。マラウイ大学(1964年創立)の本部が置かれている。

パロンベ
(Phalombe district)は、マラウイ南部州にある県であり、中心となる都市もパロンベ(Phalombe Town)である。この町の場所は、ムランジェ山を分断するフォート・リスター・ガップ(Fort Lister Gap)と呼ばれる峡谷の下に位置している。そのためこの土地は鉄砲水がしばしば発生し、雨季には特に被害を受けやすい。近年に最も壊滅的な被害を受けたのは1991年であり、その時には町が2〜3 メートルの高さの泥層で埋め尽くされ、数百人の死亡者が発生した。

マンゴチ
(Mangochi)は、マラウイ南部州にある県であり、中心となる都市もマンゴチ(Mangochi Town)である。他のアフリカの地域と同様にAIDSによって悩まされている地域であり、貧困な家庭、気候変動、社会的基盤の深刻な不足など、問題は山積みである。その一方で、非常に美しい観光地としても知られ、豊富な天然資源、チャンボなどの多種多様な魚、美しい太陽や砂浜などがある。

ムワンザ
(Mwanza)は、モザンビークとの国境沿いの都市であり、経済は主に輸送業務から成り立っている。また、マラウイにおいて数少ない気候が柑橘系植物の栽培に適している地域であることから、長年に渡って農業経済を柑橘類 (ミカンやレモン、グレープフルーツなど) に依存してきた。しかしながら現在、柑橘類の栽培者協会であるZIPATSOの努力にも関わらず、10年以上に渡る生産高の低下と柑橘類産業の衰退が生じている。

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■国名
英語ではRepublic of Malawi(リパブリック・オブ・マラウィ)。通称はMalawi。日本語の表記は、マラウイ共和国。マラウイはチェワ語で、光、炎などを意味する。


1.面積:11.8万平方キロメートル(北海道と九州をあわせた面積)
2.人口:1,526万人(2009年:世銀)、人口増加率2.8%(2009年:世銀)
3.首都:リロングウェ
4.民族:バンツー系(主要部族はチェワ族、トゥンブーカ族、ンゴニ族、ヤオ族)
5.言語:チェワ語、英語(以上公用語)、各部族語
6.宗教:人口の約75%がキリスト教(その他イスラム教、伝統宗教)

1891年 英保護領
1953年 ローデシア・ニヤサランド(現マラウイ)連邦
1964年 英国より独立
1966年 マラウイ議会党による一党制移行(バンダ大統領)
1993年 国民投票により一党制から複数政党制へ移行
1994年 独立後初めての大統領・議会選挙(ムルジ政権)
1999年 ムルジ大統領再任
2004年 ムタリカ大統領就任
2009年 ムタリカ大統領再任

■主要産業(農)たばこ、メイズ、茶、綿花、ナッツ、コーヒー(工)繊維、石鹸、製靴、砂糖、ビール、マッチ、セメント

■主要貿易品目(1)輸出 タバコ、紅茶、砂糖、綿花、コーヒー、ナッツ等(2)輸入 食料品、石油製品、資本財、消費財等


マラウイ・クワチャ
(Malawian kwacha) は、マラウイで使用されている通貨単位。1971年にマラウイ・ポンドに代わって導入された(1ポンド=2クワチャ)。補助単位はタンバラ (tambala) で、1クワチャ=100タンバラ。現行紙幣に描かれている肖像は、1915年に白人支配に反発して武装蜂起をしたジョン・チレンブウェである。


■経済
主要産業は農業であり、自給作物としてトウモロコシなどが、農産輸出品として、タバコや砂糖などが生産されている。旱魃などのため収穫量が激減しており、国際連合世界食糧計画などが援助を行っている。2005年10月、ムタリカ大統領は食糧危機に対し緊急宣言を行った。2006年には世界銀行の統計によれば8%台の経済成長を遂げたが、依然として世界最貧国の一つである。


アフリカの年
1960年の別名。フランス大統領シャルル・ド・ゴールの措置によって、アフリカ大陸で多くの植民地が独立を承認されたことに由来する。

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マラウイ会議党
(Malawi Congress Party)はマラウイの政党である。1966年には初代大統領としてヘイスティングズ・カムズ・バンダを出した。なお、マラウイは1966年から1993年まで合法政党がマラウイ会議党しか存在しない一党制であった。マラウイ会議党は、ニヤサランドアフリカ人会議(Nyasaland African Congress、NAC)の流れをくむ党である。1959年にバンダを含むニヤサランドアフリカ人会議の主要なメンバーが逮捕された後、1959年8月にマラウイ会議党として再建されて成立した。その後、1961年のニヤサランドの選挙において大勝し、1964年にはマラウイを独立へと導いた。

民主進歩党
Democratic Progressive Party、DPP)は、2010年現在のマラウイの政権与党である。この党は2005年2月に統一民主戦線を脱退したビング・ワ・ムタリカ大統領によって設立された。ムタリカは元々、1994年の自由選挙で大勝し、議長であったバキリ・ムルジを大統領へと就任させた経歴を持つ統一民主戦線の立役者の1人であった。

統一民主戦線
United Democratic Front、UDFは、自由主義を掲げるマラウイの政党である。この党は主に南部州に住むヤオ族から強い支持を受けている。また、自由主義インターナショナルの一員であるほか、1994年のlatter's Reykjaví遂 Congressにも加わっている。

民主同盟
Alliance for Democracyは、マラウイの政党の1つである。1991年当時の南アフリカ共和国大統領であったフレデリック・ウィレム・デクラークにより、アパルトヘイトが法的に廃止された前後から、独裁政治に対する批判が高まってきたことを受けて、1993年に国民投票で複数政党制の是非を問うことが決まった。これを受けて、1992年10月からは政党運動を行うことが法的に可能となったため、公式に設立されたのが統一民主戦線と民主同盟である。


イギリス中央アフリカ保護領
(British Central Africa Protectorate:BCA)は、1891年から1907年まで現在のマラウイに存在したイギリスの保護領である。マラウイ湖の南にあるシーレ高原と湖の西側のエリアは、1850年代にデイヴィッド・リヴィングストンにより初めて探検され、1880年代には商業的目的からイギリス人の入植が始まっており、イギリス本国の関心を集めていた。




■言語
国語はチェワ語であり、英語も公用語となっている。その他にも、ニャンジャ語(チェワ語とニャンジャ語はほぼ同じ、あるいはごく僅かの違いしかない)、トゥンブカ語(トゥンブーカ語)、トンガ語 (マラウイ)、ヤオ語 (バントゥー)、ロームウェ語、マクア語、セナ語、ランブヤ語、ンコンデ語、ニイカ語、その他諸部族語が話され、少数だがフランス語、スワヒリ語を話す人々も存在する。



マラウイの文化
マラウイの主要な文化の一つに伝統舞踊があり、1987年11月にはマラウイ政府によって国立舞踊団(旧クワチャ民族舞踊団)が創設されている。伝統音楽や伝統舞踊は、通過儀礼や儀式のほか、結婚式や祝賀会で盛んに行われている。サッカーはイギリスの植民地時代にマラウイへ導入され、現在最も盛んに行われているスポーツである。なお、近年はバスケットボールも広まりつつある。


バキリ・ムルジ
(Elson Bakili Muluzi, 1943年3月17日 - )は、マラウイ共和国の政治家。1994年から2004年まで同国大統領。1994年5月、マラウイ初の複数政党による大統領選挙でムルジは47.2%の票を獲得し、独立以来の指導者であったヘイスティングズ・カムズ・バンダ破って大統領に当選する。また同時に行われた総選挙でも、ムルジが率いる統一民主戦線(UDF)が勝利を収めた。その後、1999年6月の大統領選挙でも52.4%の票を得てグアンダ・チャクアンバらを退け、再選を果たした。

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グアンダ・チャクアンバ
(Gwandaguluwe "Gwanda" Chakuamba Phiri、1935年 - )は、2009年に政界引退したマラウイの著名な元政治家である。マラウイ南部のシーレ川下流域の出身。チャクアンバは、度々所属や主張を変化させたその政治的姿勢から「カメレオン民主主義(a democracy of chameleons)」と呼ばれる、所属政党や信条、過去の対立よりも、如何に権力に近づき、権力を得るかを目的として、各々の議員が自在に政党や主張を替え、迎合と離反を繰り返すマラウイの民主化過程に特有な政治家の代表的な人物として知られる。

ジマニ・カザミラ
Zimani David Kadzamira、1941年7月1日はマラウイの大学教授、公務員、外交官である。2009年現在、マラウイ大学副学長を勤めている。カザミラは、1941年にローデシア共和国のソールズベリー(現在はジンバブエ共和国の首都であるハラレ)に生まれた。小学校と中学校の途中までをローデシア共和国で通い、中学校の後半と高校はニアサランド (現在のマラウイ) の学校に通った。その後、アメリカ合衆国へ留学し、1964年にプリンストン大学で政治学の学位を取得。

エセル・ムタリカ
(Ethel Mutharika、1944年頃 - 2007年5月28日)は、マラウイの大統領であるビング・ワ・ムタリカの妻でファーストレディ。篤志家としても知られた。ムタリカは元々南ローデシア(現在のジンバブエ)の出身であった。ビング・ワ・ムタリカと結婚したのち、2007年年に死ぬまで37年の間ムタリカと連れ添い、四人の子供を生み育てた。また、慈善活動家としても知られており、マラウイの貧しい人々を救済するためのエセル・ムタリカ財団を設立した。

ジョイス・バンダ
(Joyce Hilda Banda、1951年 - )は、マラウイの政治家。2009年5月より同国初の女性副大統領を務め、2012年4月にビング・ワ・ムタリカ大統領の死去に伴い大統領に昇格。同国初の女性元首となった。ジョイス・バンダは、1951年にゾンバ県のマレミア村(Malemia village)に生まれた。ゾンバおよびマロサ選挙区選出の国民議会議員であり、女性青年地域社会サービス省大臣や、ビング・ワ・ムタリカ大統領の下で2006年6月1日から外務大臣を勤めた後、2009年5月に副大統領となった。

アッタチ・ムパカチ
(Attati Mpakati、生年不詳 - 1983年3月24日)は、ヘイスティングズ・カムズ・バンダ大統領の独裁時代におけるマラウイの反体制主義者であり、1975年から1983年に暗殺されるまでマラウイ社会主義者同盟(Socialist League of Malawi:LESOMA)の指導者であった人物である。1983年3月24日、ムパカチは亡命先であるジンバブエの都市、ハラレにおいて、手紙爆弾によって爆殺された。

ルーシャス・バンダ
(Lucius Banda、1970年 - )は、マラウイの歌手、政治家である。2006年8月までバンダはバラカ県北部選出の国民議会議員であったが、学歴詐称により有罪判決を受け、議員を失職した。さらに判決では、ゾンバの刑務所で21箇月の重労働刑を宣告されたが[3]、これは2006年11月に免除された。なお、バンダはこの経験に触発され、アルバムCell 51 Maximum を製作した。

マリア
(Malia)は、マラウイ出身のポップ、ジャズ歌手。父はイギリス人、母はマラウイ人。マラウイが政情不安になったため、10代の頃に家族で父の祖国イギリスへ移住。ニューヨーク滞在時、カフェで偶然耳にしたリアーヌ・フォリーの歌に耳を奪われた。ジャズのメロディーをポップなリズムで歌うという自身の嗜好にたどり着いたマリアは、リアーヌのプロデュースをしていたフランス人プロデューサー、アンドレ・マヌキャンにコンタクトをとった。

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ウィリアム・カムクワンバ
(William Kamkwamba、1987年8月5日 - )は、発明家として知られるマラウイ人の大学生である。カムクワンバはわずか14歳のときにユーカリの木(Eucalyptus globulus )と自転車の部品、および身近で入手できた廃品を利用して風車を製作し、風力発電によってマシタラ村(Masitala)にある自宅で多少の電気製品を使えるようにしたことで、世界的に有名となった。カムクワンバは1987年にマラウイ中部州のドーワ県マシタラ村に生まれた。プライマリースクールを卒業後にセカンダリースクールに進学するも、2002年にマラウイ全土で数千人規模の餓死者を出した大旱魃が発生し、農業を営む両親は年間80ドルの学費が支払えなくなったため、カムクワンバは学校を退学せざるをえなくなった。学校を中退後、カムクワンバは村の図書館に通い独学に励むようになったが、ある時図書館でエネルギー利用(Using Energy )という本を見つけ、風力発電に関する説明文と写真を発見し、そこで風車による発電と水のくみ上げに強い興味を持った。

フランク・チパスラ
(Frank M. Chipasula、1949年10月16日 - )は、マラウイ人の作家、編集者、大学教員である。チパスラは1949年にマラウイに生まれた。当初、マラウイ大学のチャンセラー・カレッジに学んでいたが、1973年にヘイスティングズ・カムズ・バンダ政権によって亡命を余儀なくされ、タンザニアを経てザンビアに移住。チパスラの詩集である『Visions and Reflections』(1972)は、マラウイの詩人が英語で執筆した初の作品として知られる。

グドール・ゴンドウェ
Goodall Edward Gondwe、1936年 - )は、マラウイの政治家で前財務大臣である。ゴンドウェは、1936年に現在のマラウイ北部州ムジンバ県にあるKayiwonanga村に生まれた。ロンドン大学で経済学の学士号(B.Sc.)を取得した後に、1970年代前半からマラウイ投資開発銀行(Investment and Development Bank of Malawi:現Indebankの前身)の運営へ参加するなどの経歴を経て、2004年6月に大統領のビング・ワ・ムタリカにより財務大臣へ任命された。

チャクフワ・チハナ
(Chakufwa Chihana、1939年4月23日 − 2006年6月12日)は、マラウイの労働組合主義者で政治家である。チハナは1939年にマラウイのカスング県カウィルウィル(Kawiluwilu)に生まれた。ヘイスティングズ・カムズ・バンダの独裁時代には反体制的立場であったため、1970年代から1980年代の大半を逮捕拘留されているか国外追放された状態で過ごした。1992年には、マラウイの人権問題に対する貢献が称えられ、ロバート・F・ケネディ人権賞(en:Robert F. Kennedy Human Rights Award)が授与されている。

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