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レソト王国
Kingdom of Lesotho

アフリカ

■地理
周囲を南アフリカ共和国に囲まれた内陸国である。
全土がドラケンスバーグ山脈の山中に位置するため、平地が一切なく、全土の標高が1400mを超える。いったん周囲の南アフリカ共和国を経由しないと行き来できない地域すらもあるため、「アフリカのスイス」「南部アフリカの屋根」とも言われている。最高峰は、タバナントレニャナ山であり、標高3482mはアフリカ大陸南部の最高峰でもある。主要河川は、南アフリカ共和国との国境付近に源流があり、国土を縦断した後、南アフリカ共和国とナミビアを経由して大西洋に注ぐオレンジ川。レソトの最低地点はオレンジ川が南アフリカ共和国に流れ出す南西部にある。


タバナントレニャナ山
(Thabana Ntlenyana,タバナ・ントレニャナ、タバナ・ヌトレニャナとも)は、レソトの山。標高3482m[1]で、レソトのみならず南部アフリカの最高峰である。レソト西部に位置し、モコトロング県に属する。ドラケンスバーグ山脈中にある山である。タバナントレニャナとは、ソト語で「美しく小さな山」を意味する。

ドラケンスバーグ山脈
Drakensbergは、南アフリカ共和国で最も高い山脈で、最高峰はタバナ・ヌトレニャナ(標高3482m)である。「ドラケンスバーグ」はアフリカーンス語で「竜の山々」を意味する「ドラケンスベルヘ」の英語読みで、ズールー語ではウクハランバ(「槍の障壁」)と呼ばれる。

オレンジ川
Orange Riverは、アフリカ南部を流れ大西洋に注ぐ河川である。南アフリカとレソトの国境付近のドラケンスバーグ山脈に源を発し西に向かい、カラハリ砂漠の南の乾燥地帯を流れ大西洋に注ぐ。


オレンジ自由国
かつて南部アフリカに存在した共和国。オレンジ川とヴァール川に挟まれた地域に建てられた。なお、ヴァール川の向こう側には、「ヴァール川の向こう」を意味するトランスヴァール共和国が建てられた。


バール川
Vaal River)は、南アフリカ共和国を流れる川で、南部アフリカを流れるオレンジ川の最大の支流である。「バール」という名前は、オランダ語の「薄い色(Tky-Gariep)」に由来する。洪水期に多量の沈泥が運ばれてくることにより、バール川の水が灰色に染まることからである。

カレドン川
(Caledon River)、ソト語ではモホカレは、南部アフリカの河川。オレンジ川の支流で、かつてのクワクワ・ホームランドのドラケンスバーグ山脈を源流とし、レソトと南アフリカの国境をなしながら南西に流れ、レソトの首都マセルの西を流れ、オレンジ自由州の南部にあBethulie付近でオレンジ川に合流する。


ソト語
Sesothoは、バントゥー語群に属する言語。南アフリカ共和国・レソト両国の公用語である。北ソト語との区別のため、「南ソト語」と称される場合もある。アフリカ中南部で話されているバントゥー語群の南東グループ(Nguni)に属しており、ツワナ語、北ソト語、ロズィ語に近い。レソトでは英語と並ぶ公用語であり、1993年のレソト政府による国勢調査によると、人口の約85%に相当する約149万3000人が話していることが分かっている。

バントゥー語群
アフリカの広い範囲で話され、互いに共通性のある一群の言語で、系統的にはニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群(英語版)に含められる。Bantuという言葉はW. H. I. Bleek(1827-1875)が最初に用いたもので、多くの言語で人を表す -ntu (または -tu )と、いくつかの言語で複数を表す ba-(つまりba-ntu は「人々」の意味)から造語されたものである。

ツワナ語
Setswana)はニジェール・コンゴ語族に属し、南アフリカのツワナ族の間で使われる言語。話者はボツワナ共和国の他、南アフリカ共和国、ジンバブエ、ナミビアにもいる。ほとんどのアフリカ諸語と同様もともと文字を持たず、現代において表記するときはラテン文字で書かれる。

アフリカーンス語
(Afrikaans)は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派で西ゲルマン語群に属する低地ドイツ語に属し、オランダ語から派生した言語である。純言語学的には低地ドイツ語のうち低地フランク語(低地ザクセン語と近縁関係にある)の中の一方言であるとされるが、下記に示すとおりその独特な語彙から低地ドイツ語の中でもオランダ語(オランダ大方言)とは別の方言だという説も有力である。

ズールー語
isiZuluとも)は、南アフリカ共和国のズールー族の95%、約900万人によって話される言語である。アパルトヘイトが終了した1994年には、南アフリカ共和国の11の公用語の一つと制定された。


アフリカーナー
Afrikaner)は、南アフリカ共和国に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカ南部に入植したプロテスタント教徒が合流して形成された民族集団である。


<歴史>
■16世紀
サン族と競合が始まる。(バントゥー系ソト族が北方より移動してきてサン族を駆逐する。)1818年 - 初代国王モショエショエ1世がサン族を排除し、ソト族の長となる。1840年代 - 南アフリカのオレンジ自由国からボーア人の進入に対抗するため、イギリスの保護を受ける。

■1868年
イギリスの保護領となる。イギリス領バストランドと呼ばれた。1871年 - イギリスの植民地となる

■1884年
イギリスの保護領に戻る。1902年 - 地方政治に限り、自治が認められる。

■1959年
自治が認められる。1966年10月4日 - イギリスから独立し、モシュシュ2世を国王とするレソト王国を建国。イギリス連邦に加盟する。

■1970年代
周囲の南アフリカ共和国との関係が悪化し、経済制裁を受ける。

■1986年
1月 - クーデター発生、バストランド国民党のジョナサン政権倒される。王政を残したまま、ジャスティン・レハンヤ軍司令官が軍事評議会議長に就任。政党の活動が禁止される。

■1990年
3月 - レハンヤ議長が国王モショエショエ2世を追放する。11月 - モショエショエ2世の皇太子であるレツィエ3世が即位

■1991年
4月 - 無血クーデターが発生、評議会議長レハンヤが追放される。政党が復活する。1994年。8月 - レツィエ3世が全閣僚と議会を解散、憲法を停止する。9月 - ゼネストや抗議デモによりレツィエ3世が退位する

■1995年
1月 - モショエショエ2世が復位する。1996年1月 - モショエショエ2世が交通事故により死去。レツィエ3世が復位する。1997年
首相のヌツ・モヘレが与党・バストランド会議党(BCP)を離党、新党・レソト民主会議を結成し全閣僚が参加する。

■1998年
5月 - 下院総選挙が実施され、与党LCDが79議席(定数80)を獲得し圧勝する。5月 - ヌツ・モヘレが引退し、副首相のパカリタ・モシシリが首相に就任する。8月 - 選挙結果に不満を持つ群集が暴徒化し、王宮が占拠される。9月 - クーデター未遂事件発生。9月22日 - 南部アフリカ開発共同体(SADC)に要請し、南アフリカ軍とボツワナ軍が国内で治安維持活動を行う。

■1999年
5月 - 治安回復を受け、南アフリカ軍とボツワナ軍が撤退する。

■2001年
定数120、小選挙区比例代表並立制を柱とする下院関連法が改正する。

■2002年
5月25日 - 下院再選挙が実施され、与党LCDが勝利する。第2次モシシリ内閣が発足する。

■2007年
2月17日 - 下院総選挙が実施され、与党LCDが勝利する。第3次モシシリ内閣が発足する。


アパルトヘイト
(Apartheid[1])は、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカ共和国において1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。


レツィエ3世
Letsie III、1963年7月17日 - は、レソトの国王(第2・4代)。本名はデイヴィッド・モハト・レツィエ・ベレン・セーイソ(David Mohato Letsie Bereng Seeiso)。1966年、レソト王国の成立。父のモショエショエ2世が国王に即位したことに伴い、王太子に即位。1990年、ジュスティヌス・レハンヤ率いる軍事政権がモショエショエ2世を追放、第8代国王に即位する。

パカリタ・モシシリ
Pakalitha Mosisili、1945年3月14日 - は、レソトの政治家。下院議員(4期)、首相、国防大臣。レソト民主会議議長(第2代)。副首相、自治大臣、文部大臣を歴任。クァクハスネック県出身。1967年にバソト会議党に入党し、1993年の下院選で当選して以降、首相のヌツ・モヘレ側近として行動し1995年には副首相に就任する。1997年にモヘレが新党・レソト民主会議(LCD)を結成した際も行動をともにし、1998年にモヘレが病状の悪化によりLCD議長を退いた時は後継議長に選出される。

レアブア・ジョナサン
Joseph Leabua Jonathan、1914年10月30日-1987年4月5日は、レソトの政治家。レソト第2代の首相であり、初代首相セクホンヤナ・ネヘミア・マセリバネの後に選ばれて1965年から1986年まで首相を務めた。ジョナサンはレリベで地方首長の子として生まれた。彼は一夫多妻だったレソト初代国王モショエショエ1世のひ孫の一人だった。ジョナサンはブラクパンの鉱山で監督官として働いていたが、彼は首長の一人だったので、やがて1937年に英国保護領バソトランドに戻ってラコロの地方政府に参加し、バソトランドからロンドンへと送られた自治政府代表団の一人にも選ばれた。ジョナサンはカトリックへと改宗し、1957年にバソトランド国民党(独立後にバソト国民党に改称)を設立した。

モショエショエ2世
(Moshoeshoe II、1938年5月2日 - 1996年1月15日)は、レソトの国王(初代、第3代)。英国領バストランド首長(第7代)を歴任。モショエショエはオックスフォード大学に留学後、1960年にコンスタンティン・ベレン・セーイソとして英国保護領バストランドの首長に就任し、1966年にレソトが独立を果たすとそのまま国王へと就任した。

 

レソト Lesotho
アフリカ南部に位置する立憲君主制国家で、イギリス連邦加盟国である。周囲を南アフリカ共和国に囲まれた、世界最南の内陸国である。首都はマセル。1966年にイギリスから独立した。非同盟中立を宣言している。1966年の独立直後から教育、特に初等教育に力を入れており、女性の識字率は2001年時点で90.3%に達する。しかし、男性の識字率は71.3%にとどまっている。これは男子児童が放牧の労働力として組み込まれていることによる。女性の識字率が男性を上回るのは他に例が少ない。

マセル
Maseru)は、レソトの首都、マセル県の県都でセレドン川の河岸にある同国の最大都市。1869年、ソト族の王モショエショエ1世が都として創建。かつてイギリスの保護領バストランドの主都。独立とともに首都。同国西部、南アフリカ共和国との国境からわずか2kmで、標高1,600mの高原にある。同国の商業の中心地であり マセル市域での人口は約18万人で、マセル首都圏に於いては人口37万人(1999年)。


テヤテヤネング
(Teyateyaneng)は、レソトの都市。人口75,115人(2005年)。首都マセルに次ぐレソト第2の都市である。レソト北西部に位置し、ベレア県の県都である。テヤテヤネングとはソト語で「早い砂の土地」を意味する。(Teyateyaneng)は、レソトの都市。人口75,115人(2005年)。首都マセルに次ぐレソト第2の都市である。レソト北西部に位置し、ベレア県の県都である。テヤテヤネングとはソト語で「早い砂の土地」を意味する。


外務省:レソト王国
在南アフリカ共和国日本国大使館兼轄


レソト王国大使館
レソトでの経験。それはまさにこの地でしか味わうことができない特別なものです。そびえ立つ山々、どこまでも高く青い空、そして深く荒々しく流れる川。深い雪に埋もれる冬であれ、厳しい日差しに焼かれる夏であれ、レソトでは素晴らしい自然の美と力を感じることができます。「冒険と感動はここから生まれた」と言っても過言ではないレソトをどうぞ心ゆくまでご堪能ください。高度・深さ・規模・距離・温度の全てが極端なレソトでは、このユニークな国で生き抜くために先史時代より人と野生動物が共存し、共に厳しい自然の試練を耐え抜いてきました。

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モショエショエ1世国際空港
Moshoeshoe I International Airportは、レソト王国の首都マセルにある国際空港。 空港名は初代国王であるモショエショエ1世から命名された。


ベレア県
べレア県は10ある レソトの県のうちの 1つ。面積は2,222 km2で、人口は約300,000人である(2001)。 県都はテヤテヤネングである。

ブータ・ブーテ県
ブータ・ブーテ県は、10あるレソトの県のうちの一つ。面積は1,767 km2で、人口は約130,000人である(2001年)。県都はブータ・ブーテである。

レリベ県
レリベ県は、10あるレソトの県のうちの一つ。面積は2,828 km2で、人口は約450,000人である(2004年)。県都はHlotseである。

マフェテング県
マフェテング県は、10あるレソトの県のうちの一つ。面積は2,119 km2で、人口は約330,000人である(2004年)。県都はマフェテングである。

マセル県
マセル県は、10あるレソトの県のうちの一つ。面積は4,279 km2で、人口は約500,000人である(2004年)。レソトの首都マセルがある。

モハレス・フーク県
モハレス・フーク県は10ある レソトの県のうちの 1つ。面積は3,530 km2で、人口は約310,000人である(2004)。 県都はモハレス・フークである。

モコトロング県
モコトロング県(Mokhotlong)は、10ある レソトの県のうちの 1つ。面積は4,075 km2で、人口は約130,000人である(2004)。 県都はモコトロングである。県内にはマロティ山脈といった高地や、センク川の源流がある。

クァクハスネック県
クァクハスネック県は10ある レソトの県のうちの 1つ。面積は2,349 km2で、人口は約110,000人である(2004)。 県都はクァクハスネックである。

クティング県
クティング県は、10ある レソトの県のうちの1つ。面積は2,916 km2で、人口は約200,000人である(2002年)。県都はクティングである。

ターバ・ツェーカ県
ターバ・ツェーカ県(ターバ・ツェーカけん、英語: Thaba-Tseka District)は、レソトの県。県都はターバ・ツェーカである。


南部アフリカ開発共同体
Southern African Development Community、略:SADCとは、南部アフリカ開発調整会議を改組し1992年に設立された地域機関。ボツワナの首都のハボローネに事務局を置き、加盟国間の経済統合や域内安全保障を目指している。

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バソト国民党
Basotho National Partyは、レソトの政党。1956年バストランド国民党として後にレソト初代首相となるレアブア・ジョナサンによって結成された。ジョナサンが首相となった1965年総選挙で第一党となるが、1986年ジャスティン・レハンヤ軍司令官の率いる軍事クーデターによって国民党を含む政党の活動が禁止された。

レソト民主会議
Lesotho Congress for Democracy, "LCD"は、レソトの政党。議長はパカリタ・モシシリ(第2代)。レソト民主主義会議とも。1997年、バソトランド会議党を離党した首相のヌツ・モヘレによって結成。1998年の総選挙で圧勝する。

マレマトロウ自由党
(Marematlou Freedom Party)は、レソトの政党。 1963年バソト会議党(BCP)の推進する首長制度改革に反対するマレマトロウ党と、BCPからの離党者が結成した自由党が合同して結成された。 2002年レソト国民議会総選挙では得票率1.2パーセント、120議席中1議席を獲得した。2007年2月17日に行われた総選挙でも1議席を維持した。


1.面積:3.0万平方キロメートル(日本の九州の約0.7倍)
2.人口:207万人(2009年:世銀) 人口増加率0.8%(2009年:世銀)
3.首都:マセル(Maseru)
4.民族:バソト族
5.言語:英語(公用語)、ソト語
6.宗教:大部分がキリスト教

1868年 バソトランドとして英国保護領に
1966年10月 英領独立
1970年1月 ジョナサン首相による憲法停止
1970年4〜12月 国王モシェシェ二世オランダ亡命(帰国後、政治不関与を宣言)
1986年1月 クーデターによりレカーニャ国軍司令官が政権掌握
1990年3月 国王モシェシェ二世英国亡命
1990年11月 モシェシェ二世廃位、レツィエ三世即位
1991年4月 クーデターによりラマエマ大佐が政権掌握
1993年3月 下院総選挙実施(23年ぶり)
1994年8月 レソト危機(レツィエ三世、憲法停止及び議会・内閣の解散を一方的に宣言)
1995年1月 レツィエ三世退位、モシェシェ二世即位
1996年1月 モシェシェ二世交通事故死
1996年2月 レツィエ三世復位
1998年5月 下院総選挙実施
2002年5月 やり直し下院総選挙実施
2005年4月 第1回地方自治体選挙実施
2007年2月 下院総選挙実施

■主要産業:農業(メイズ、ソルガム、小麦)、牧畜業
■主要貿易品目(1)輸出 衣料品、食料品、靴、畜産品(2)輸入 工業製品、食料・家畜、機械製品

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ロチ
単数形:Loti 複数形:maloti 記号L,M)は、レソトで使用されている通貨。ロティとも。補助単位にセンテ(単数形:1ロチ=100センテ)がある。記号L(センテは)共通通貨地域(en:Common Monetary Area)を通して、ランドと1対1で連動している。また両方ともレソト国内で法定通貨として認められている。ロチは非流通貨幣であるにもかかわらず、1966年に初めて発行された。


■経済
レソトの経済は、農業と南アフリカ共和国向けの繊維製品を中心とした輸出、南アフリカ共和国への出稼ぎで支えられている。放牧は盛んで1994年時点には国土の65.9%が放牧に振り向けられていた。家畜の頭数は人口よりも多い。気候には恵まれているものの、地形の制約のため、耕地面積は国土の10.5%にとどまる。そのため、農業従事者人口は国民の18%と少ない。これは南アフリカ共和国への出稼ぎ人口の2倍弱にすぎない。主な輸入品は、穀物、自動車、木製品、肉類。主な輸入先は96.5%を占める南アフリカ共和国、ついで中華人民共和国、アメリカ合衆国である。


■国民
国民の99.7%が、バントゥー系のソト族である。レソトの国民は、単数形では、モソト(Mosotho)、複数形では、バソト(Basotho)と呼ばれる。ソト語(セソト、南部ソト語)と英語が公用語。国民の約8割はキリスト教徒。伝統宗教も存在する。

■文化
1966年の独立直後から教育、特に初等教育に力を入れており、女性の識字率は2001年時点で90.3%に達する。しかし、男性の識字率は71.3%にとどまっている。これは男子児童が放牧の労働力として組み込まれていることによる。女性の識字率が男性を上回るのは他に例が少ない。


エリアス・ラマエマ
(Elias Phisoana Ramaema、1933年-)は、レソトの政治家、軍人。1991年5月2日から1993年4月2日まで、レソトの国家元首である軍事評議会議長を務めた。ラマエマは1987年にジャスティン・レハンヤ少将がクーデターを起こすと、軍事評議会の一員となり大佐となった。しかしレハンヤ政権は独裁の傾向を強めたため、1991年4月30日、ラマエマは無血クーデターを起こしてレハンヤを失脚させ、自らが政権を握った。

ヌツ・モヘレ
Ntsu Mokhehle、1918年12月26日 - 1999年1月6日は、レソトの政治家。首相(第5・7代)、レソト民主会議議長(初代)を歴任した。ベレア県テヤテヤネング出身。フォートヘア大学卒業後、教員を務めた後1952年バソト国民会議派を結成し、独立運動に参画する。1966年の独立以降、バソト会議党に名称を変え政権の主要メンバーとして活動する。1970年にクーデターで失脚し、1970年から1972年までは投獄され、1972年から1988年までは国外追放されていた。

セクホンヤナ・ネヘミア・マセリバネ
Sekhonyana Nehemia Maseribane、1918年5月4日 − 1986年11月3日)は、バストランド(現: レソト)の政治家。首相(初代)を務めた。

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