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ガーナ共和国
Republic of Ghana

アフリカ

<歴史>
■紀元前後
この地域が注目されるのは、紀元前2000年紀のキンタンポ文化の出現からである。新石器時代後期に位置づけられるこの文化の人々は、森林とサヴァンナの境界地帯に住み、交易を行いつつも狩猟と採集によって暮らしていた。2世紀頃からハニ遺跡で製鉄がおこなわれたことがわかっている。

■13-16世紀
13世紀から16世紀はベゴーをはじめ幾つかの町がサハラ交易の一端を担ったともおもわれるが、ボノ・マンソに見られるように地域的なものにとどまった町もあったと思われる。

■17-20世紀
その後、ドイツ人やデンマーク人、イギリス人、オランダ人が来航し、金と奴隷の貿易を奴隷制が廃止される19世紀まで続けた。大西洋三角貿易により多くの人々がアメリカ大陸に連行され、1776年に独立したアメリカ合衆国においては、労働力として使われることとなった。

■イギリス植民地
しかし19世紀に入り、アフリカの植民地化が進んだことや、南北アメリカのプランターにとって奴隷がコスト面で採算の取れない存在になったことにより奴隷貿易が衰退すると、アシャンティ王国の財政基盤は揺らいだ。アフリカの植民地化を目論んだイギリスは、1824年からの四次に渡るアングロ=アシャンティ戦争の末に、1902年にアシャンティ王国を滅ぼした。

■独立
1956年にはンクルマの下に自治政府が成立し、翌1957年に隣の英領トーゴランドと合わせて独立を達成し、ブラック・アフリカ初の独立国となった。独立当初のガーナはイギリス国王を立憲君主に頂く英連邦王国であったが、1960年に共和制へ移行し、ンクルマが初代大統領となった。

■政情混乱
政権を掌握した国家解放評議会はンクルマの政策から脱し、1969年には選挙を実施した。同選挙でコフィ・ブシアが首相に選ばれ民政に移管した。

■民政移管
1979年に軍事クーデターを起こしたジェリー・ローリングス空軍大尉が政権を掌握し、民政移管期間を挟んで1981年に完全な軍政を敷いた。

■現在
これを受けて、政治をボイコットしてきた野党も国政に参加を表明し、国情は安定を迎えた。ローリングスは2001年まで大統領を務めた後に、2001年からは選挙に勝利した新愛国党のジョン・アジェクム・クフォーが大統領に就任した。


西アフリカ
アフリカの西部地域、具体的には、サハラ砂漠の南側で、かって西スーダンと呼ばれた地域と、中央スーダンの一部、大西洋、ギニア湾に面する「上ギニア」の国々が含まれる地域を指す。アルジェリアなどマグリブ諸国は、歴史的・文化的に地中海世界やアラブ世界としての一体性が強く、通常は北アフリカとする。

サブサハラアフリカ
(sub-Saharan Africa, sub-Sahara Africa) は、アフリカ(アフリカ大陸に限られず島嶼を含む)のうち、サハラ砂漠より南の地域。言い換えると、アフリカのうち北アフリカ以外。ただし国際連合の定義では、北アフリカと一部重複する。

サバナ
(Savanna;サバンナとも)とは乾季と雨季のある熱帯に分布する、疎林と潅木を交えた熱帯長草草原地帯である。 アフリカではバオバブ樹などが見られる。 熱帯草原を一般的にサバナと呼んでいるが、これはスーダン先住民が使用した呼称に由来し、地域によりリャノ(オリノコ川流域)、カンポ(ブラジル高原)、グランチャコ(パラグアイ)などの名称もある。

熱帯
熱帯(ねったい)とは地球上で緯度が低く年中温暖な地域のことである。緯度による定義、気候区分による定義が存在する。緯度による定義では、赤道を中心に北回帰線(北緯23度26分22秒)と南回帰線(南緯23度26分22秒)に挟まれた帯状の地域を意味する。英語で熱帯を意味するtropicsは、回帰線(tropic)から生まれた言葉である。

亜熱帯高圧帯
Horse Latitudes、Subtropical High)とは、緯度20−30度付近の地域に形成され、年間を通じて存在する高気圧。亜熱帯高気圧、中緯度高圧帯とも呼ばれる。亜熱帯高圧帯は、赤道上で生じた上昇気流により大気上層に昇った空気が下降気流となって形成される(ハドレー循環)。下降気流は高温で乾燥するため、亜熱帯高圧帯のもとには砂漠が形成される。代表例が、サハラ砂漠である。

ステップ気候
ステップ気候(ステップきこう)とはケッペンの気候区分における気候区のひとつで、乾燥帯に属する。黒や栗色の土壌(チェルノーゼム)に、ステップとよばれる丈の短い草原が広がる。年間を通して降水量は少なく雨季には少量の雨が降る。昼と夜の気温差が激しい。


ヴォルタ川
Voltaは、アフリカ大陸を流れる全長約1600キロメートル、流域面積約40万平方キロの河川である。ブルキナファソ国内に源を発し、黒ヴォルタ、白ヴォルタ、赤ヴォルタ川などが合流して大河となり、ガーナを通過してギニア湾に注ぐ。

ギニア湾
(Gulf of Guinea)は西アフリカ中央部にある大湾。ニジェール川、ヴォルタ川、コンゴ川などが注ぎ、湾内に緯度0度、経度0度の交差点がある。沿岸部ではかつて、ヨーロッパとの貿易商により奴隷・金・象牙・穀物などが取り引きされた。1980年代に石油資源が発見され、以後盛んに開発が行なわれている。

ニジェール川
西アフリカを流れギニア湾に注ぐ河川である。全長4,180km。流域面積は209万2,000平方キロある。ギニアの山地から北東に流れてマリ共和国に入り、南東に転じてニジェール、ナイジェリアを流れる。河口に大デルタ地帯を形成しギニア湾に注ぐ。マリのセグからトンブクトゥ間に内陸デルタを形成している。


キンタンポ文化
Kintampo文化とは、西アフリカで紀元前2000年紀 に現れた新石器時代後期段階に位置づけられる初期食料生産民の文化である。ガーナ共和国中部、ブロング=アハフォ州中央部のキンタンポを中心にボルタ川西方の森林とサバンナの境界地帯に集落を築いた。1970年代段階で確実にキンタンポ文化のものといえる遺跡は20に満たない状況であった。初めてキンタンポ文化のものと目される遺跡が発見されたのは、A.E.Kitsonによって1916年にJemaの近くで一ヶ所、Tolundipeの近くで一ヶ所の2ヶ所が確認されたのが最初である。


ゴールド・コースト
ゴールド・コースト (the Gold Coast) 、または黄金海岸はヨーロッパ人により命名されたアフリカ西岸ギニア湾の海岸部一帯の名称。象牙海岸、奴隷海岸と同様にこの地域における主要な貿易商品であった金に由来する。イギリスは三度の対アシャンティ戦争を経て内陸まで支配した。一般にはアフリカ西岸、現在のガーナ周辺を意味することが多い。

アシャンティ王国
Ashanti Empire, Asante Empireは、1670年から1902年まで、現在のガーナ内陸部にあった王国。アシャンティ連合、アシャンティ帝国とも。首都はクマシ。奴隷貿易により繁栄するが、イギリスとの四次に渡るアングロ=アシャンティ戦争の結果、イギリスに併合された。

アコソンボダム
Akosombo Damは、ヴォルタ川をせき止めて造ったガーナ南東部にある水力発電用のダム。1965年に完成した。このダムが作る人造湖(ヴォルタ湖)は世界最大級の大きさを持つ。発電された電気は、ガーナ及びその周辺の国々へ供給されている。


脱植民地化
Decolonization)とは、植民地が宗主国からの独立を獲得する過程であり、植民地化に対立する概念である。非植民地化ともいう。脱植民地化は独立の獲得、支配国や他の国家との統合、あるいは「自由連合」(free association)の状態を確立することによって達成される。国際連合は脱植民地化の過程においては人民の自決以外の原則はありえないことを明言している。

宗主国
実際の権力は対等もしくは逆転しているが格式や権威において上下関係を有するか、または格式や名目上の権威においては対等だが権限範囲において上下関係を有する諸国において、その最上位にあって他の関係諸国を下位とする国である。現代ではこの言葉は広く転用され、本来の意味以外にも、植民地に対してその植民地を所有する国や、事実上の従属国に対して一定の強制力を有すると目される覇権国家、衛星国家に対してそれらを指導する地位にある国家、などを漠然と包括して用いられている。

三角貿易
triangular trade)とは、主に3つの国や地域が関係している貿易構造のこと。2国間の国際貿易において、貿易収支が長期間不均衡のままであると、赤字の国から国際通貨(近世・近代では銀)が流出し続け、その国は貧困化してしまう。その打開策の1つとして、多国間貿易によって貿易の均衡を目指すことがある。

大西洋奴隷貿易
大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。


ガーナ大使館オフィシャルサイト
ガーナを訪れる人たちは、"アクワバ" 「おかえりなさい」という挨拶で迎えられます。ガーナを一度訪れただけで満足する人は、ほとんどいません。見所が多く、一度では見切れないからです。


ブラックアフリカ
アフリカ大陸のサハラ砂漠より南の地域をさす呼称。サブサハラともいう。黒人の多い所であることに由来し、アラブ系のコーカソイドの多いホワイトアフリカと対比される。かつてヨーロッパ人たちはこの地域が自分達が入った事の無い未開の地と認識し、アフリカを「暗黒大陸」と呼んだ。特に、サハラ砂漠以南のこの地域は、ヨーロッパ人にはほとんど知られていなかった。


英領ゴールド・コースト
(Gold Coast) はアフリカ西部ギニア湾周辺に設けられた英国の植民地。この地域への最初のヨーロッパ人の到来は1471年のポルトガルであった。彼らは金を産出する諸王国と接触した。1482年にポルトガルは黄金海岸で最初のヨーロッパ勢の拠点となったエルミナ城を建てた。イギリスは小王国や他のアフリカ人の国家を支配していた内陸部のアシャンティ王国、他のヨーロッパ植民地に侵攻して徐々に支配地を広げた。

ガーナ王国
(Ghana) 、もしくはガーナ帝国は、8世紀(4世紀頃とも)から11世紀(13世紀とも)にかけて、サハラ越えの金と岩塩の隊商貿易の中継地として繁栄した黒人王国である。金や岩塩のほかにも、銅製品・馬・刀剣・衣服・装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、その中継貿易の利で繁栄した。

ソンガイ帝国
Songhay、1464年−1590年は、15世紀後半から16世紀にニジェール川湾曲部を中心に西スーダンのほぼ全域を事実上支配した黒人王国である。首都の名を取ってガオ帝国とも呼ばれる。ソンガイ人の国家の起源はあきらかでないが、ニジェール川中流域北岸のクーキャ(クーガ)と呼ばれる町を中心に小王国を築いていた。アラブ人著述家アル・イドリーシーによると「人口が多く城壁に囲まれていた」という。


エウェ人
(Ewe people)は、アフリカの民族。ガーナからナイジェリアにかけての海岸部に居住する。エウェ人は13世紀ごろにベナン南部からガーナやトーゴにまで居住域を広げたといわれている。19世紀後半になると、エウェ人はイギリスとドイツに分割統治されることとなり、さらにドイツが第一次世界大戦で敗北すると、ドイツに代わってフランスが統治者となった。第二次世界大戦後に民族自決の波が押し寄せると、信託統治領となったトーゴランドでエウェ人統一運動がはじまったものの、結局1957年に住民投票によって英領トーゴランドのエウェ人居住地域はガーナへと合併されることとなった。

ノク文化
(Nok)文化は、ギニア湾岸(上ギニア)のナイジェリア中央部、ジョス高原(Jos plateau)を中心に概ね紀元前35世紀から紀元後6世紀頃に栄えた鉄器文化。1928年に、イギリスの鉱山技師のJ. Dent Youngによって、錫露天掘り鉱山とその周辺に広がる河川礫層の採掘作業中にサルの頭の横顔の形をした土偶の破片が偶然発見されたことが契機となった。ノク文化の土偶の種類は人物の頭部、全身像、象、蛇、サルなどの動物や家畜などがあるが完全なものはなく、おそらく呪術的な儀礼の際に破壊されたと考えられている。


ソニンケ族
マリ共和国、セネガル共和国内陸部の民族。ソニンケ族はガーナ王国に起源を持つ。 セネガル川流域の内陸部に定住地をもち、かつてはサハラ交易で活躍した。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ人との交易を行った。 20世紀後半からは、多くのソニンケ男性がフランスなどで出稼ぎ労働者となった。近年、一部はアジアへ進出している。

モシ人
(Mossi)は、アフリカの民族。自称は単数形がmoaaga、複数形がmooseである。ブルキナファソを中心とした西アフリカのサバンナ地帯に居住する。モシ人の神話によれば、モシの王家は現在のガーナ北部にいるダゴンバ人の姫とマンデ人の狩人の間に生まれた、ウエドラオゴという名の王が始祖だという。


アカン語
アカン語は、主にガーナやコートジボワール東部に住む同族民族によって話される言語のグループである。

グベ語群
(Gbe languages)は、ガーナ東部からナイジェリア西部に広がる約20個の言語の集合体(言語クラスター)である。グベ語群の総話者数は400万人から800万人である。属する言語で最も話者数が多いのはエウェ語(ガーナおよびトーゴで話されており、第二言語話者含めて300万人)であり、続いてフォン語(170万人)である。


サハラ交易
Trans-Saharan tradeは、地中海沿岸諸国と西アフリカのあいだの交易で、先史時代から存在したが、最盛期は8世紀より16世紀後期に亘る。サハラ砂漠(Saharaは砂漠の意)は地中海経済とニジェール盆地経済を隔てる、人間に適さない空間である。フェルナン・ブローデルは、『世界の大局観 (The Perspective of the World)』において、このような区域は、大西洋と同様に、利得が損失を遥かに上回るというような例外的な状況に限って、縦断の価値があることを指摘している。しかし、大西洋と異なり、サハラ砂漠は、地域的な交易を行う人々にとって、自分たちの国であった。


<世界遺産>
アシャンティの伝統建築物
かつてアシャンティ王国を築いて繁栄を誇ったアシャンティ人たちの伝統文化を伝える貴重な建造物群だが、そのほとんどが20世紀以降に再現されたものである。オリジナルは20世紀初頭までのイギリスとの戦争のなかで大半が失われている。
中西部地域のヴォルタ・グレーター・アクラの保塁と城郭
ガーナ(旧ゴールドコースト)の沿岸部には、イギリスやオランダをはじめとする西洋諸国がかつて建造した、西洋式の要塞群が多く現存する。


■宗教
2000年のセンサスによれば、国民の68.8%がキリスト教であり、24.1%がペンテコステ派、18.6%がプロテスタント、15.1%がカトリック、その他のキリスト教が11.5%である。イスラーム教は国民の15.9%を擁し、伝統宗教が8.5%、その他の宗教が0.7%、無宗教が6.1%となる。


ペンテコステ派
キリスト教のプロテスタント教会のうち、メソジスト、ホーリネス教会のなかから1900年頃にアメリカで始まった聖霊運動、つまりペンテコステ運動(Pentecostalism)からうまれた教団、教派の総称ないし俗称。この教派、教団に属する教会をペンテコステ教会という。韓国の牧師・趙鏞基(チョー・ヨンギ)の純福音派もこの流れに属する。

プロテスタント
Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。

カトリック
Catholic)とは、公同、普遍、普公とも訳される、キリスト教の概念の一つ。教会論の中で、豊富な歴史と、幾つかの意味がある。公同を奉じる主義思想は カトリシズムと呼ばれる。「カトリック教会」を自認・自称する教派の中で最大規模を持つのはローマ・カトリック教会であるが、他にも復古カトリック教会、独立カトリック教会などが自身をカトリック教会としている。


アイク・クォーティ
Ike Quartey、男性、1969年11月27日 - は、ガーナ出身のプロボクサー。元WBA世界ウェルター級チャンピオン。身長171cm。目にも止まらぬ高速ジャブと破壊力のある右ストレートが武器で、異名はバズーカ。全盛期の彼には並の世界ランカーでは触れることすら困難を極めた。1997年10月17日、ホセ・ルイス・ロペス(メキシコ)を相手に7度目の防衛戦を行うも、2度のダウンを奪われた末の引き分けで辛くも防衛。WBAからは再戦命令が出ていたが、クォーティは破格のファイトマネーを保証されたオスカー・デ・ラ・ホーヤとのビッグマッチを強行したため、1998年8月に同王座を剥奪される。

ジョシュア・クロッティ
Joshua Clottey、男性、1977年3月16日 - は、ガーナのプロボクサー。アクラ出身。元IBF世界ウェルター級王者。「ヒッター」、「ガーナの至宝」と呼ばれる。

クワメ・エンクルマ
本名:Francis Nwia Kofia Nkrumah、1909年9月21日 - 1972年4月27日は、政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。エンクルマは1909年9月21日、イギリス領の植民地ゴールド・コーストの西部海岸にあるンクロフルにて[1]、アカン族の鍛冶屋の家に生まれる。1930年に首都アクラのアチモタ・スクールを卒業後[2]、ローマ・カトリックの神学校に進み、のちアクシムのカトリックの学校で教鞭をとった。幼少より成績優秀だったため、1935年、親族に借金してアメリカ合衆国に渡り、リンカーン大学に入学した。

ジョン・アジェクム・クフォー
John Agyekum Kufuor、1938年12月8日 - は、ガーナの政治家。大統領(第四共和政2代)、アフリカ連合総会議長(5代)を歴任。英領ゴールド・コーストのクマシ出身。クフォーは、オックスフォード大学の卒業生であり、カトリック教徒である。経済改革を主要な政策の1つに挙げており、また以前と比較して格段の報道の自由を尊重している。ある報道で、クフォー大統領の政治姿勢が退屈であると批判されたことがあるが、クフォーは退屈であることで国民の生活が平穏であり、抑圧などで苦しむことがないのなら、私は退屈であり続けることをよしとすると答えている。

ジョン・アッタ・ミルズ
John Evans Atta Mills 1944年7月21日-は、ガーナの政治家。現在、同国大統領(2009年1月8日-)。国民民主会議に所属。英領ゴールド・コーストのタクワ出身。1997年から2001年まで第二次ジェリー・ローリングス政権下で副大統領を務めた。ミルズは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学の修士号、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で法学の博士号を取得しており、またフルブライト奨学生としてスタンフォード大学・ロースクールにも留学経験がある。

ニャホ・ニャホ=タマクロー
Dr.Nyaho Nyaho-Tamakloe、1942年5月7日 - は、ガーナのサッカー協会元会長。また同国の医師で政治家でもある。ガーナでも「ニャホ」は珍しい名前であり、また同国の名門サッカークラブ、アクラ・ハーツ・オブ・オークの運営でもその手腕を発揮したことで知られる国民的な有名人であるが、サッカーそのものの経験はほとんどない。

マイケル・エッシェン
Michael Kojo Essien、1982年12月3日 - は、ガーナ出身の同国代表、プレミアリーグ・チェルシー所属のサッカー選手。ポジションはMF。愛称はバイソン(野牛)。03-04シーズンに、パリ・サンジェルマンとの争奪戦の末にリヨンへ移籍。 運動量を活かすためにボランチへコンバートされたこともあり一気にブレイク。リヨンの快進撃の中心を担い、04-05シーズンには、リーグ・アン最優秀選手に選出された。この活躍に目を付けたチェルシーに、3800万ユーロ(約51億円)という破格で移籍。

アンソニー・イエボア
(Anthony Yeboah, 1966年6月6日 - )はガーナ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW。1990年代のガーナとアフリカを代表とする選手である。身体能力の権化、柔らかいトラップから相手DFを一発のキックフェイントで置き去りにし強烈なシュートを浴びせるシーンは日本のサッカー番組でも繰り返し紹介された。

ヤウ・プレコ
(Yaw Preko, 1974年9月8日 - )は、ガーナ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。ガーナ代表で68回の国際試合に出場し、1992年夏季のバルセロナオリンピックでメンバーになったチームでは銅メダルを獲得した。

アサモア・ギャン
(Asamoah Gyan, 1985年11月21日 - )は、ガーナ・アクラ出身のサッカー選手。UAEリーグ・アル・アインFC所属。ガーナ代表である。ポジションはフォワード。ジャンと表記されることもある。2003年11月19日、2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選のソマリア戦で62分に途中出場してガーナ代表デビューし、90分には代表初得点を決めている。この試合はギャンが18歳になる3日前であり、ガーナ代表の最年少得点記録を更新した。

プリンス・タゴエ
(Prince Tagoe, 1986年11月9日 - )はガーナ出身の同国代表のサッカー選手。ポジションはフォワード。188cmの高身長とアフリカ人らしい身体能力を生かしたダイナミックなプレーが特徴。2009年のAFCチャンピオンズリーグで得点王争いをするほどの活躍を見せて、その活躍でヨーロッパのクラブの注目を浴びる。2009年5月19日、ブンデスリーガのホッフェンハイムと契約してヨーロッパ移籍を果たす。

コフィー・アナン
(Kofi Atta Annan、1938年4月8日 - )は、第7代国際連合事務総長(1997年1月から2006年12月)。ガーナ共和国アシャンティ州クマシ出身。称号は聖マイケル・聖ジョージ勲章(GCMG)。英語、フランス語、クル語 (Kru) 、アカン語 (Akan) 、他のアフリカ諸言語を話す。国連事務総長在任中の2001年にノーベル平和賞を受賞した。

リチャード・キングソン
(Richard Paul Frank KIngston)、1978年6月13日 - )は、ガーナ出身の同国代表サッカー選手。ポジションはゴールキーパー。ガーナ代表の正GK。これまでは主にトルコでキャリアを築いてきた。2006年のドイツW杯(ただし、これはサミー・アジェイの負傷によって出番が巡ってきた)、2010年の南アフリカW杯ではそれぞれ正守護神としてチームの躍進に貢献した。

ニイ・ランプティ
(Nii Odartey Lamptey, 1974年12月16日 - )はガーナ出身の元サッカー選手、元同国代表。ポジションはMF。1990年代初頭に彗星の様に登場し次代のスター候補と騒がれ、そして消え去った選手。幼少期は悲惨なもので、暴力とネグレクトを受けた。父親はアルコール中毒患者で、しばしば彼に罵声を浴びせたり、殴る、煙草の火を押し付けるといった虐待を加えた。彼はサッカーをすることに日々の希望を見出し、家にも帰らず、学校にも通わず、息子の試合を見に来た父親に心無い言葉をかけられても、プレーを続け、その能力を磨き続けた。

ガーナ共和国 Ghana
西アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にトーゴ、北にブルキナファソ、西にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はアクラ。かつてゴールドコーストと呼ばれた海岸を保有しており、ダイヤモンドや金を産出する。カカオ豆の産地としても有名。2010年12月から沖合油田で原油生産が始まり、国際的に大きな注目を集めている。

この地域が注目されるのは、紀元前2000年紀のキンタンポ文化の出現からである。新石器時代後期に位置づけられるこの文化の人々は、森林とサヴァンナの境界地帯に住み、交易を行いつつも狩猟と採集によって暮らしていた。2世紀頃からハニ遺跡で製鉄がおこなわれたことがわかっている。

アクラ
Accraは、アフリカ西部ギニア湾に面したガーナの首都。海岸から20 kmほど内陸まで都市が広がる。2001年の統計によると人口は1,661,400人で、ガーナ最大の都市で、政治、経済、通信、交通の中枢である。主な産業は食品加工、木材加工、紡績、被服、化学などである。15世紀にガー族がポルトガル人との貿易港として開拓し、後にポルトガル人はこの地に砦を築いて拠点とした。17世紀の末ごろにはスウェーデン、オランダ、フランス、イギリス、デンマークも利用する賑やかな街となっていた。現在のアクラはイギリスとオランダの築いた砦を中核として広がっており、それぞれジェームズタウン、ウッシャーズタウンと両国との絆を感じさせる地名として残っている。

ベゴー
Beghoは、現ガーナ共和国中央部、ブロン地方に位置する12世紀から17世紀にかけてサハラ交易で繁栄した町である。ベゴー周辺は、はやくから開けていたようで、紀元前2000年紀後半には、キンタンポ (Kintampo) 文化が繁栄し、紀元後2世紀には、ハニなどの遺跡で製鉄遺跡が発見されている。

クマシ
Kumasiは、ガーナの都市。首都のアクラに次ぐ大都市で、アシャンティ州の州都である。人口およそ150万人。17世紀から19世紀にかけてこの地方を支配したアシャンティ王国の古都でもある。クマシは、ガーナの熱帯雨林地方に位置しており、「庭園都市」としてもよく知られている。


外務省:ガーナ共和国
在ガーナ日本国大使館


ガーナ大学
University of Ghanaは、グレーター・アクラ州レゴンに本部を置くガーナの公立大学である。1948年に設置された。 ガーナ大学(University of Ghana)はガーナ国内の7つの公立大学の内最古・最大の大学。1948年に University College of the Gold Coastとして設立され、ロンドン大学に学術プログラムなどの監修を受け、提携校となる。1961年に正規の大学(full university status)認可された。 学生数は42,000人。


ケープ・コースト
Cape Coastは、ガーナにある都市。人口82,291人(2000年)。首都アクラから165km西に離れたガーナ南部にあり、ギニア湾に面する港湾都市。古くからヨーロッパとの交易で栄え、世界遺産であるケープ・コースト城がある。セントラル州の州都である。1962年に創立されたケープ・コースト大学があり、学園都市の面を持つ。

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コトカ国際空港
Kotoka International Airportは、ガーナ共和国の首都アクラにある国際空港である。


ボルガタンガ
(Bolgatanga)は、ガーナの都市。人口50000人。アッパー・イースト州の州都である。首都アクラから北に590km、タマレから161km北に離れており、ブルキナファソ国境からは32kmしか南に離れていない。赤ボルタ川の流域に位置する。

タマレ
(Tamale)は、ガーナの都市。人口305000人(2005年)。ノーザン州の州都である。ガーナ第4の都市で、北部の中心都市である。標高210m。ブルキナファソとクマシを結ぶ幹線道路が走っており、また空港もあるため、交通の要所となっている。住民はイスラム教徒のダゴンバ人が多い。

セコンディ・タコラディ
(Sekondi-Takoradi)は、ガーナの都市。ウェスタン州の州都である。人口は約33万5千人(2005年)。セコンディとタコラディはともに17世紀からオランダ、スウェーデン、イギリスの砦が築かれた(黄金海岸参照)。鉱物と木材の積出しのため1903年セコンディと内陸のクマシ(ココアの産地)を結ぶ鉄道が開通したことが発展の契機となった。


(Ho)は、ガーナの都市。人口83715人(2010年)ガーナ東部に位置し、ヴォルタ州の州都である。ホはAdaklu山と、トーゴのアタコラ山脈に属するGalenukuiの間に位置する。ホには博物館や大聖堂、大きな刑務所などがある。

エルミナ
(Elmina)とは、ガーナの都市。人口は約2万人。漁業が盛ん。1482年、ポルトガルが設けたエルミナ城塞(エルミナ城)が街の起源となる。1637年、オランダ東インド会社に受け継がれ、奴隷貿易の拠点となった。

ボノ・マンソ
(Bono Manso) は、ガーナ共和国の中央部、ブロング=アハフォ州(Brong-Ahafo)、熱帯雨林帯の北端でサバンナと接する好立地に位置する13世紀から17世紀にかけてサハラ交易で繁栄したとされる町である。ボノ・マンソの地に本格的に人々が住み始めた時代、すなわちアカン族の国家が形成されはじめるのは、食料生産が始まってから鉄器時代の初期にあたるだいたい紀元前2500年から紀元後1000年の間くらいと思われる。このころのボノ・マンソ地方の考古資料は、キンタンポ文化に属するものである。キンタンポ文化伝統の遺跡群は、ボルタ川の湾曲部、ガーナの森林の北限地帯にごく普通にみられるものであるが、ベゴー地方とボノ・マンソの遺跡群は、その物理的、立地的様相が著しく異なっている。


アッパー・ウエスト州
(Upper West Region)は、ガーナの州。人口682575人(2010年)。ガーナで最も人口の少ない州である。国土の北西端に位置し、北をブルキナファソと接している。州都はワ。

アッパー・イースト州
面積は8842平方キロメートルでガーナの総面積の2.7パーセントを占め、ガーナの10州の中で最も小さい。人口は2000年には920089人で、ガーナの総人口の4.9パーセントを占め、ガーナ10州のうち9番目の人口を持つ。州都はボルガタンガで、ほかにボクやナヴロンゴといった町がある。

ノーザン州
(Northern Region)は、ガーナの州のひとつであり、ガーナ最大の州である。日本語では北部州とも表記される。州都はタマレで、2004年時点では州内は18の郡に分かれている。ガーナの中でも、気候的、地域的、文化的に、政治・経済的に影響力のある中南部とは大きく異なっている。

ブロング=アハフォ州
Brong-Ahafo Region)は、ガーナの州のひとつである。日本語ではブロン=アハフォ州とも表記される。州都はスンヤニ(Sunyani)。ガーナ中西部に位置し、アシャンティ州とコートジボワール国境に挟まれている。この州にはキンタンポ文化の遺跡やサルの保護区など、文化的にも自然的にも多くの観光資源があるが、アシャンティ州、ノーザン州、セントラル州、グレーター・アクラ州などに比べると、観光客の知名度が高いとはいえない。

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アシャンティ州
(Ashanti Region)は、ガーナの州のひとつである。州都はクマシ。州内で最大の民族集団はアシャンティ人で、彼らはガーナの主要民族の一つでもある。ガーナで栽培されているカカオのほとんどはアシャンティ産であり、同時にこの州は金の一大採掘地ともなっている。

ウェスタン州
(Western Region) は、ガーナの州のひとつである。日本語では西部州とも表記される。州都はギニア湾岸の巨大な双子都市セコンディ・タコラディで、港湾都市アクシム (Axim) のほか、エルボ (Elubo) などの内陸部の丘陵地域も含んでいる。ギニア湾岸には、1512年以降、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人、ドイツ (ブランデンブルク) 人たちが築いた城塞群が残っている。

セントラル州
(Central Region)は、ガーナの州のひとつである。日本語では、中央州とも表記される。北はアシャンティ州とイースタン州に、西はウェスタン州に、東はグレーター・アクラ州にそれぞれ接しており、南は大西洋に面している。

イースタン州
(Eastern Region)はガーナの州のひとつである。日本語では東部州とも表記される。州都はコフォリドゥアで、州内には以下の17の郡を含んでいる。

ヴォルタ州
(Volta Region)は、ガーナの州のひとつである。日本語ではボルタ州とも表記される。ヴォルタ湖の東に位置し、州都はホである。この州は、かつてのイギリス領トーゴランド(British Togoland)の南部で、かつてのドイツ領トーゴランドの南西部である。


■国名
正式名称は英語で、Republic of Ghana(リパブリク・オヴ・ガーナ)。通称、Ghana(ガーナ)。植民地時代はイギリス領ゴールド・コースト(黄金海岸)と呼ばれていたが、独立に際してかつて西アフリカに栄えたガーナ帝国から新国名を採用した。


ギニア湾に面しており、ヴォルタ川流域の低地が国土の大半を占めるため、最高標高は885mに過ぎない。ヴォルタ川水系の面積は国土面積の67%を占める。特に1965年にヴォルタ川をせき止めて作ったアコソンボダムが有名。

1.面積:238,537平方キロメートル(日本の約3分の2)
2.人口:約2,422万人(2010年:国勢調査)
3.首都:アクラ (ACCRA)
4.民族グループ:アカン族、ガ族、エベ族、ダゴンバ族、マンプルシ族他
5.言語:英語(公用語)
6.宗教:国民の約半数がキリスト教徒、イスラム教約15%、その他伝統的宗教



1957年3月 独立(初代首相エンクルマ)
1960年7月 共和制に移行。エンクルマが初代大統領に就任。
1966年2月 軍・警察によるクーデター(エンクルマ追放)
1969年10月 文民政権発足
1972年1月 軍部クーデター、アチャンポン将軍政権
1979年6月 ローリングス空軍大尉による軍事クーデター
1979年9月 民政移管リマン大統領就任
1981年12月 ローリングス元空軍大尉による軍事クーデター
1992年11月 大統領選挙(ローリングス大統領選出)
1993年1月 民政移管ローリングス大統領就任
1996年12月 大統領選挙、国民議会選挙
1997年1月 ローリングス大統領再任
2000年12月 大統領選挙、国民議会選挙
2001年1月 クフォー大統領就任
2004年12月 大統領選挙、国民議会選挙
2005年1月 クフォー大統領再任
2009年1月 ミルズ大統領就任

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セディ
Ghana cediは、ガーナ共和国の通貨単位である。紙幣などに書かれている記号は?である。セディは現地語であるアカン語でタカラガイ(ガーナでは昔タカラガイを通貨として用いていたことがある)の意。


■政治
ガーナは国家体制として共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1992年4月28日に制定されたもの。国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は4年。3選は禁止。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領により任命されるが、国民議会の承認が必要。首相職はかつて存在したが、現行憲法下では存在しない。


新愛国党
(New Patriotic Party, NPP)は、ガーナの自由主義政党。ガーナの二大政党のひとつ。新愛国党は中道主義を標榜しているが、ライバルである国民民主会議(NDC)と比較してより自由主義的である。2001年大統領選挙ではジョン・アジェクム・クフォーを擁立し、ガーナ史上初の民主的な政権交代を実現した。2004年の総選挙では230議席中129議席を獲得し勝利した。

国民民主会議
National Democratic Congress、NDCは、ガーナの社会民主主義政党。1981年から20年間、国のトップにいたジェリー・ローリングスが1992年の総選挙前に結成した。1996年の大統領選ではローリングスがNDCの候補になり、2001年に彼の2期目が満了した。

間接民主制
民主主義における政治制度の一つ。代表民主制、代議制ともいう。議会制民主主義(議会民主制)と同義である。選挙などのある一定の方法によって民意の代表者を選出し、自らの権力の行使をその代表者に信託することで、間接的に政治に参加しその意思を反映させる政治制度をさす。対になる概念として、直接民主制がある。現在、ほとんどの国が間接民主制だが、ハンガリーのインターネット民主党のように、昨今の技術革新を積極的に活用することで直接民主主義への復古を目指す政党も存在する。


共和制
republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体。一般には、政府の大半の意思決定が元首の裁量によってではなく、成立した法を参照して行われる体制のこと。このため現在では君主制は共和制では無いとされる場合が多く、現代の一般的な定義では「共和制とは君主ではない元首を持っている政体」である。



■経済
経済は農業・鉱業等などの一次産業に依存し、特にカカオは世界有数の産出量を誇る。独立直後から債務超過に悩んでいたが、1983年以降、構造調整を実施して経済の再建に取り組んだ結果、1980年代後半から平均5%のGDP成長率を達成しアフリカにおける構造調整の優等生として評価されてきた。2007年6月に沖合で油田が発見され、大きな注目を集めている。近年ではサブサハラ最大級といわれる大規模なもので、政府によると埋蔵量は最大18億バレルで、日量55,000バレルの生産を予定している。

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gold,は原子番号79の元素。元素記号は Au。第11族元素に属する金属元素。貴金属の一種であり、単体の金属として古くから知られてきた。元素記号は Au であり、これはラテン語で金を意味する aurum に由来する。展性・延性に優れ、最も薄くのばすことができる金属であり、1 gあれば数平方メートルまでのばすことができ、長さでは3000 mまで伸ばすことができる。


カカオ
Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。樹高は4.5 - 10メートル程度。本種の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要である。標高約300メートル程度の丘陵地に自生する。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。



■民族
2000年のセンサスによれば、アカン人が45.3%、モシ・ダゴンバ人が15.2%、エウェ人が11.7%、ガー人が4%、グルマ人が3.6%、グルシ人が2.6%、マンデ=ブサンガ人が1%、その他の民族が1.4%、ヨーロッパ人やアラブ人などその他が7.8%となっている。

民族主義
ethnicism、は、自らの民族を政治・経済・文化などの主体と考え、価値観の至上とする思想や運動。エスニック・ナショナリズム(英: Ethnic nationalism)とも言う[1]。一般に誤認されがちだが、本来の民族主義は国家ではなく民族を中心に考える思想である。国家主義と結び付くのは民族主義の理念から民族を政治的に一つにしようとする運動が起こりやすいからで、逆にアメリカやユーゴスラビアのように国家を多民族によって形成する国では、むしろ各民族主義と国家主義は対立する。

パン・アフリカ主義
Pan-Africanism)は、アフリカ大陸の住民及び、全世界に散らばったアフリカ系住民の解放及び連帯を訴えた思想。アフリカ諸国独立のきっかけとなり、アフリカ統一機構およびその後継機関のアフリカ連合を生み出す精神的母体となった。


■教育
2年間の就学前教育と6年間の初等教育が義務教育であり、初等教育の後に3年間の前期中等教育と4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等教育から学校教育における教授言語は英語であり、ガーナの公立学校では小学校一年生から英語で授業が行われる。


■音楽
1920年代にリベリアやシエラ・レオネで生まれたパームワイン・ミュージックを発展する形でハイライフが生まれた。ハイライフは最初期に成立したアフリカのポピュラー音楽であり、近隣のナイジェリアやシエラ・レオネなど英語圏に拡大した他、ベルギー領コンゴにも波及してフランコやパパ・ウェンバらに影響を与え、キューバ音楽と共にリンガラ・ポップス(ルンバ・ロック)成立に大きな影響を与えた。

ハイライフ
(Highlife)は1920年代にガーナで発祥し、シエラレオネ、ナイジェリア等英語圏西アフリカ及びリベリアに広まったワールドミュージック/音楽ジャンル。ジャズを基調としたブラス/ホーンセッションに複数のギターが特徴付けられる。

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コフィー・アナン
Kofi Atta Annan、1938年4月8日 - は、第7代国際連合事務総長(1997年1月から2006年12月)。ガーナ共和国アシャンティ州クマシ出身。イギリス領ゴールド・コースト、クマシにて、双子として生まれる。ガーナにおいて双子は大切にされている。双子の姉であるエフアは、1991年に亡くなっている。共通のミドルネームである「アッタ」は、ファンテ語およびアカン語で「双子」を意味する。コフィーの祖父と叔父は部族の長であり、国のエリートの一員である[2]。1958年、クマシ科学技術大学(経済学専攻)を卒業後に渡米。1961年、米マカレスター大学(ミネソタ州セントポール)経済学部を卒業する。1961年から1962年までスイス国際高等大学IUHEI) 留学(経済学専攻)。

コフィ・ブシア
Kofi Abrefa Busia、1913年7月11日-1978年8月28日は、ガーナの政治家。ガーナの第2代首相を務めた(在任1969年10月1日-1972年1月13日)。ブシアは英国領ゴールドコーストのウェンチで生まれ、オックスフォード大学へ留学した。卒業後帰国し、1952年にガーナ会議党(GCP)の党首に選ばれ、エンクルマの会議人民党に対抗して伝統的首長との連携を図る保守的な立場をとった。ガーナ独立後、他党とともに連合党(UP)を結成したが、会議人民党のクワメ・エンクルマの弾圧を受け、国外脱出を余儀なくされた。

ドミニク・アディアー
Dominic Adiyiah, 1989年11月29日 - は、ガーナ・アクラ出身のサッカー選手。TFF1.リガのカルシュヤカSKに所属。ポジションはFWである。2000年、ガーナにあるフェイエノールト・ガーナでキャリアをスタートさせた。2007年1月、ガーナ・プレミアリーグのハート・オブ・ライオンズFCに移籍し、11ゴールを記録しこの年の最優秀選手に選ばれた。

ジェリー・ローリングス
Jerry Rawlings、1947年6月22日 - は、ガーナ共和国第8代および第10代国家元首、第4共和政の初代大統領。アクラ出身。ガーナ空軍大尉だった1979年、軍事クーデターでアクフォ軍事政権を打倒し、軍事革命評議会(AFRC)議長に就任。第8代国家元首となったもののすぐに民政移管をおこない、ヒラ・リマン大統領に政権を移譲する。

イドリースィー
1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?は、中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。ムラービト朝治世下にあったアフリカ北部のセウタ(現在はモロッコ内スペイン領の飛び地)で生まれ、コルドバで勉学に勤しみ、アンダルスや北アフリカの各地を旅した[1]後にルッジェーロ2世統治時のシチリアに招かれた。彼の死地は生誕地でもあったセウタだと言われている。今日まで伝わる学問的な業績とは裏腹に、イドリースィー個人の事績はキリスト教徒の側にもムスリムの側にもあまり伝わっておらず、正確な生没年すらわかっていない。

イグナティウス・アチャンポン
(Ignatius Kutu Acheampong、1931年9月23日 - 1979年6月16日)は、ガーナの軍人、政治家。クーデターで政権を握り、ガーナの第6代の国家元首となった。1972年1月13日、アチャンポンは無血クーデターを起こし、文民政権のコフィ・ブシア首相を追放して軍事政権を樹立した。大義名分はブシアの経済失政とアカン人中心主義に対する反発だった。

野口英世
1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の細菌学者。福島県生まれ。ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学者として数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞候補に3度なる。趣味は、浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、画家でもある堀市郎に師事し油絵の多くはここで描かれた。1927年11月 - イギリス領ガーナのアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない野口に、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部から病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。

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サミュエル・オセイ・クフォー
(Samuel Osei Kuffour, 1976年9月3日 - )は、ガーナ・クマシ出身の元同国代表の元サッカー選手。現役時代はDFとして活躍した。強力なフィジカルを持っていることで知られており、名門バイエルン・ミュンヘンに所属すると10年以上を過ごし、その期間中に250回に近い公式試合の出場を記録し、17個の主要タイトルを獲得した。

アベディ・ペレ
(Abedi Pele, 1966年12月3日 - )は、ガーナの元サッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元ガーナ代表。フランス国内での活躍が認められ、1987年に大富豪ベルナール・タピがオーナーを務める強豪オリンピック・マルセイユに加入する。暫らくは選手層の厚さの為レンタル移籍に出される日々が続いたが、1990-91シーズン途中にベルギー人のレイモン・ゲタルスが監督に就任すると一気にレギュラーへと定着、ジャン=ピエール・パパン、クリス・ワドルとで魅惑のトライアングルを形成しUEFAチャンピオンズカップ 1990-91において準々決勝で当時最強と言われたACミランに競り勝ち最終的に準優勝に導いた。

サミュエル・オセイ・クフォー
(Samuel Osei Kuffour, 1976年9月3日 - )は、ガーナ・クマシ出身の元同国代表の元サッカー選手。現役時代はDFとして活躍した。強力なフィジカルを持っていることで知られており、名門バイエルン・ミュンヘンに所属すると10年以上を過ごし、その期間中に250回に近い公式試合の出場を記録し、17個の主要タイトルを獲得した。

ジョルダン・アイェウ
(Jordan Ayew, 1991年9月11日 - )は、フランス・マルセイユ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。リーグ・アン・オリンピック・マルセイユ所属。2010年9月5日、アフリカネイションズカップ2012予選のスワジランド代表戦で兄アンドレと交代で出場し初キャップを記録した。2012年6月2日のW杯予選・レソト戦で代表初得点を含む2得点を挙げた。

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