freedom

エリトリア国
State of Eritrea

アフリカ

■地理
北岸は紅海に面し、エチオピア・スーダン・ジブチと国境を接する。紅海にはダフラク諸島があり、イエメンとの間のバブ・エル・マンデブ海峡は非常に狭くなっている。南東部にはアフリカ大地溝帯の一部で海抜マイナス75mの低地(ダナキル砂漠)がエチオピアから広がり、その東は火山地帯となっている。北西部では高原地帯が狭い海岸平野に迫っている。最高峰はアスマラ南方の国境に近いソイラ山(標高3018m)。


紅海
アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。長さ2250km、幅最大355km、面積438,000km2、平均水深491m、最深部2211m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6%〜3.8%と高い。アフリカ大陸側 (南から順に)ジブチ、エリトリア、スーダン、エジプト/ユーラシア大陸側 (北から順に)イスラエル、ヨルダン、サウジアラビア、イエメン。

バブ・エル・マンデブ海峡
Strait of Bab el Mandebは、アラビア半島南西部のイエメンと東アフリカのエリトリア、ジブチ国境付近の海峡である。この海峡で、紅海とアデン湾を分けて、その先のアラビア海へと続いている。

ブリ半島
Buri Peninsula は紅海に面したエリトリア中北部・セメナウィ・ケイバハリ地方南部にある半島 。全域がゲレーロ地区に属する。北側にダフラク諸島が存在し、西側にズラ湾を持つ。マングローブと塩原に地理的特徴がある。

ダフラク諸島
紅海南西部にあるエリトリア領の諸島。124個の小島からなり、有人の島は4つほどである。ダラック諸島とも呼ばれる。歴史的にはエリュトゥラー海案内記に諸島の記載が見られ、7世紀頃からイスラム教の影響を受けた。その後、エチオピアの支配を経て、16世紀からはオスマン帝国領となっている。

アファール盆地
Afar Depressionまたの名をアファール三角地帯(Afar Triangle)とも言うこの地域は、アフリカの角の付け根に当り、エリトリアからジブチのダナキル窪地(ダナキル砂漠)、エチオピアのアファール州、そしてソマリアの一部にまたがって存在する地溝が形成した盆地である。多数の化石人類が見つかる場所であるアワッシュ川下流域を含むアファール地域は、ヒト科人類の揺籃のうちの一つとして有名である。 世界最古の石器が発見されたゴナ、アウストラロピテクス・アファレンシスの化石標本であるルーシーが発見されたハダール村などがある。

ダナキル砂漠
Danakil Desertはエチオピア北東部、エリトリア南部に跨る砂漠。アファル人の居住地であり、その高温と海抜マイナス100メートルを切るアファール盆地で知られる。ダナキル砂漠の主産業は岩塩の採掘である。また、アフリカノロバ等の野生動物生息地でもある。

アリド山
Alidはエリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方ゲレーロ地区に存在する成層火山。ブリ半島の付け根に当たるダナキル窪地に位置する。頂上は標高904m(2,966ft)。1928年に火口からの噴煙が観測されている。

ウォリコ川
Wokiro Riverはエリトリアのワジ(涸れ谷)。季節により増水する。川はマッサワの北方で紅海に流れ込む。 流れは途中で別の涸れ谷、ワジ・ラバと合流する。


アフリカの角
Horn of Africa)は、アフリカ大陸東端のソマリア全域とエチオピアの一部などを占める半島。ソマリ人の居住地域であり、ソマリランド (Somaliland) とも呼ばれた(ソマリランド共和国とは異なる)。ソマリ半島 (Somali Peninsula) とも。ソマリ地域、ソマリ地方 (Somali Area など) などとも呼ばれるが、これはエチオピア東部ソマリ州 (Somali Region) を指すことがある。


大地溝帯
Great Rift Valley)は、主にアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つである。大地溝帯の谷は、幅35 - 100 km、総延長は7,000 kmにのぼる。正断層で地面が割れ、落差100 mを超える急な崖が随所にある。


セメナウィ・バハリ国立公園
Semenawi Bahri National Park)はエリトリアの国立公園。公園は施設間輸送の為、単層アスファルト舗装された道路を備えている。公園はまたメグオ(Meguo)、メドハニト(Medhanit)、サブル(Sabur)にレクリエーションセンター設備が設けられている。 セメナウィ・バハリ国立公園は国外及び国内旅行者にあまり知られている存在ではないが、豊富な野生動物や植物に恵まれており、特にバードウォッチングに適している。


<歴史>
■1869年
エジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河が開通すると、イタリアがエチオピアに介入を始め、1882年にイタリアが植民宣言をし、1885年に占領した。
■1889年
エチオピアはイタリアとウッチャリ条約を結び、この地(エリトリア)をイタリアの支配に委ねた。翌年、イタリアはこの地を「エリトリア」と名づけた。
■1941年
イタリア軍を駆逐し、イギリス軍が当地を占領する。その後、イギリスの保護領だったが、1952年までにエチオピアと連邦国家を形成した。
■1960年代
エリトリア独立戦争として、解放勢力は独立運動を展開するようになった。
■1991年
独立勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、1991年5月29日、独立宣言を行った。
■1998年
エチオピア・エリトリア国境紛争が武力衝突に発展し、2000年に和平合意成立、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が展開した。国境案が提案されたものの、両国間の合意が進まず、2008年にUNMEEは撤退、緊張状態が続いている。


ハニーシュ群島紛争
エリトリアとイエメンの間で行われた領土紛争のことである。群島が紅海という海上交通の要衝にあること、付近に天然ガス資源が埋蔵されていることなどが紛争の背景にあったとされる。1993年 エリトリア独立、紅海上のハニーシュ群島の領有を主張。同じく領有を主張するイエメンと対立する。1995年 イエメンが群島のリゾート開発をドイツ、イタリアの業者に一方的に許可。同時に、イエメン軍を派遣したことからエリトリア側が態度を硬化。エリトリア軍が上陸し逆占拠。


マッサワの戦い
The Second Battle of Massawa)は1990年に起きた、当時のエチオピア北部にあたるエリトリア州紅海沿岸部(現在のエリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方)の港湾都市、マッサワ周辺で行われた戦闘であり、別名フェンキル作戦(フェンキルさくせん、英語: Operation Fenkil)・フェンキル攻勢(フェンキルこうせい、英語: Fenkil Offensive)とも呼ばれる。


エリュトゥラー海案内記
Periplus of the Erythraean Seaは、古代のインド洋近辺における南海貿易について記された航海案内書。ギリシア語で著述されている。紀元後40年から70年ごろに成立したと推定され、著者はエジプトに住んでいたギリシア人航海者であったと言われる。「エリュトゥラー」(ερυθρα) とはギリシア語で「赤」の意味。すなわち、「エリュトゥラー海」とは紅海のことを指す。ただし、古代においては、紅海、アラビア海、ベンガル湾、インド洋を含めた海のことを広く指していた。


アクスム王国
過去のエチオピアに栄えた交易国。一般に、アクスムは現在のイエメンに当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系のサバ(シェバ)人が中心になって建国されたと考えられている。王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していた。アクスム王国は最盛期、現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダン、に広がっていた。

エザナストーン
Ezaza Stone)とはアクスム王国最盛期の王エザナが4世紀に建立した石碑である。ロゼッタストーンのように、ゲーズ語、シバ語、ギリシア語の3つの言語で書かれている。エザナ王のキリスト教への改宗と、北東アフリカの軍事的経済的大国であるヌビア(クシュ)のメロエ王国に対し軍事遠征を行ったことが記されている。


ティグレ人
アフリカの民族。エリトリア及びエチオピア北部に住む。ティグリニャ語を話すティグレ人はティグリニャ人とも呼ばれる。エリトリア中北部及びエチオピア北部のティグレ州に住む。エリトリアでは220万人が暮らしており、ティグレ・ティグリニャを合わせると人口の半数を占める最大民族で、政治経済の主流派となっている。

ラシャイダ人
Rashaida People、は、アラビア半島、東部アフリカの民族。ラシャイダ人は、ベドウィン族のうち紅海を挟んだアラビア半島とアフリカの両岸に居住した民族である、アラブ民族のバヌ・アブスから枝分かれしたとされる。ラシャイダの一部はアラビア半島側に居住するが、一部はスーダン東部、エリトリアの北部海岸部及びダフラク諸島に居住している。

ナラ人
Nara peopleは、エリトリアの民族のひとつ。19世紀の改宗以降、ナラ人の多くはイスラム教スンニ派を信仰している。 ナラ人は典型的な農耕民族で、現在はスーダンとの国境近くに居住している。バレンツ地区の北側、クナマ地区の南側に多く住む。


■民族構成
ティグリニャ人が最大民族であり、人口の48%を占める。次いでティグレ人(35%)、アファル人(エチオピア系)、テルチャン人、クナマ人、サホ人、ラシャイダ人等主たる民族は9民族で構成されている。

■言語
公的に公用語としての規定はされていないが、ティグリニャ語とアラビア語が最も広く使われ、商業や業務で使われている。イタリア語と英語は広く理解されている。その他ティグレ語、アファール語などが使われている。

■宗教
イスラム教・テフワド(コプト教〔エリトリア正教会〕)が多くを占め、他にローマ・カトリック、プロテスタント・アンナ教等などが信仰されている。


■エリトリアの大学
エリトリア科学技術大学(エリトリア工科大学、Institute of Science and Technology)・ハメルマド農業大学(ハメルマロ農業大学、College of Agriculture at Hamelmalo)・ハルハレ農業大学(College of Agriculture at Halhale)・人文社会科学大学(人文社会大学、College of Arts and Social Sciences at Adi Keyih)・経営経済大学(経済商業大学、College of Business and Economics at Massawa)・海洋科学技術大学(海洋科学大学、College of Marine Sciences and Technology at Massawa)・保健科学大学(College of Nursing and Health Technology at Asmara)・オロッタ医科大学(Orota School of Medicine)


アスマラ大学
アスマラ大学(University of Asmara、略称:UoA)は、エリトリアの首都アスマラに位置する国立大学である。歴史は1958年創設のサンタ・ファミリア・カトリック学院(The Catholic College of Santa Famiglia)にまで遡り[1]、2004年には大学院が設置されたが同年解体された。学部生は約5500人いた。解体後は既存のものも含め7つの単科大学に改編された。


エリトリア大使館FAQ
アフリカ大陸一つ分とも言える多様な環境。紅海に沿って細長く、海辺から3000mを超える高山地帯まで、高低差に富む国土を持つエリトリア。

ダフラク海洋国立公園
Dahlak Marine National Parkは、エリトリアの海岸部中央に存在する自然保護区域。公園はダフラク諸島の一部を含むセメナウィ・ケイバハリ地方に属している。ダフラク諸島の沿岸及びエリトリア本土の紅海沿岸の水域が含まれる。1998年から2000年のエチオピア・エリトリア国境紛争の間放置されたために、公園内は野生動物が捕らえられないまま繁殖した。
アスマラ:市街、イタリア建築、教会、モスク
アフリカで最も美しい都市と言われる首都アスマラの街並みは、ヨーロッパの古都を思わせる佇まいで、街中が1920〜30年代のイタリア建築の博物館のようです。
マッサワ:旧市街、旧皇帝宮殿
アスマラから115km、紅海沿岸に位置する港町です。海岸地方は季節により非常に暑くなり、最も暑い4月には気温は40℃を超えることもあります。
ケレン:市場、ラクダ市
ケレンは、12万人の人口を擁するアンセバ地方の中心都市です。アスマラからは北西約90kmに位置し、バスで2時間半の距離にあります。エリトリア第二の都市。アンセバ地方の行政府所在地で、ビレン人の居住地域である。観光地としては19世紀にエジプトによって建立されたチグ要塞や聖マリアム・デアリッツ教会等があり、その他にもバオバブの木や1930年代に建てられた鉄道駅、古いモスク、セイド・バクリ陵、イギリス陸軍とイタリア陸軍の共同墓地、市場、6世紀頃に建てられた洞窟内にあるデブレ・シナ僧院等がある。また、アスマラに多く建てられていることで知られるアール・デコ様式の建物もこの地には何棟か残っている。


■経済
人口の多くが農業、牧畜業などの第一次産業に従事しているが、食糧の自給率は低く、7割を輸入や援助に依存している状態にある。産業別のGDPでは運輸業が3割以上を占め、工業・その他サービス部門を含めると8割以上に達している。エチオピアとの国境紛争は、難民・避難民の大量発生、紛争地域のインフラ破壊等、エリトリア経済に深刻な影響を及ぼしている。


国際連合エチオピア・エリトリア派遣団
United Nations Mission in Ethiopia and Eritrea,UNMEEは国際連合平和維持活動の一つ。エチオピア・エリトリア国境紛争の停戦合意を受けて、停戦監視などの実施を任務とする。1998年に勃発したエチオピア・エリトリア国境紛争は、国際的な調停努力の甲斐もあって、2000年5月に停戦合意された。これを受けて2000年7月31日に国際連合安全保障理事会決議1312号が出され、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が設立された。


ティグリニャ語
Tigrinya languageは、エリトリア中央部およびエチオピアのティグリニャ(Tigrinya)人(エチオピアではティグレ(Tigray)人という)が用いる言語である。アフロ・アジア語族のセム語派に属し、アムハラ語や古代のゲエズ語に近い。エチオピアの公用語の1つであり、またエリトリアの事実上の公用語(規定はない)である。


アスマラ・ブルワリー
アスマラ・ブルワリーは1939年、エリトリアで最初に設立された醸造所、ビラ・メロッティ(イタリア語: Birra Melotti)を前身とした会社で、ルイジ・メロッティ(Luigi Melotti)によって創立された[1]。瓶詰めに使用するガラス工場も併せて作られた。会社はメンギスツ政権下で国有化され、エリトリア独立戦争の結果、1991年にエリトリア人民解放戦線の主導するエリトリア臨時政府、その後身の民主正義人民戦線が主導するエリトリア政府がこれを継承した。 現在会社の一部はエリトリア政府の所有だが、一部は投資家の所有となっている。年間40万本のビールを生産している。


イサイアス・アフェウェルキ
(Isaias Afewerki, 1946年2月2日 - )はエリトリアの政治家で初代大統領。民主正義人民戦線(PFDJ)書記長。アスマラ出身。エチオピアのアディスアベバで技術者の訓練を受け、1966年からはエリトリア解放戦線(ELF)に参加。1967年中国に留学し毛沢東思想や軍事知識を学ぶ。1969年ELF総司令官となったが、1973年分派のエリトリア解放人民戦線(EPLF、現在のPFDJ)の創設に参加。イサイアスは大統領に就任すると、1998年、エチオピアのティグレ州に侵攻し、エチオピア・エリトリア国境紛争が始まった。

イータロ・ガリボルディ
(Italo Gariboldi 1879年4月20日-1970年2月3日)はイタリアの軍人。第二次世界大戦中の東部戦線へのイタリア軍派遣部隊の司令官を務めた。1935年に第30師団長となり、第二次エチオピア戦争で戦った。彼の師団はエリトリアを本拠地とした第1軍団に属した。1936年にイタリアがエチオピアを破るとエリトリア、エチオピア、イタリア領ソマリランドはイタリア領東アフリカとなった。

エミーリオ・デ・ボーノ
Emilio De Bono, 1866年3月19日‐1944年1月11日)は、イタリアの政治家、軍人。最終階級は陸軍元帥。第二次エチオピア戦争総司令官などを務めた。カッサーノ・ダッダに生まれる。モデナ陸軍大学で学び、ベリサリエリ連隊の将校となる。1912年の伊土戦争、第一次世界大戦に従軍。大戦では負傷している。

ジョン・ウォルター・グレゴリー
(John Walter Gregory, FRS、1864年1月27日 - 1932年6月2日)はイギリスの地質学者かつ探検家。氷河地質学についての研究とオーストラリアおよび東アフリカの地理学・地質学についての研究で知られている。グレゴリー・リフト・ヴァレー(東アフリカ・リフト・ヴァレー)は彼にちなんで名づけられた。

 


エリトリア国 Eritrea
アフリカ北東部に位置する国家。首都はアスマラ (Asmara)。
西にスーダン、南にエチオピア、東にジブチと国境を接し、北は紅海に面する。1991年5月29日にエチオピアからの独立を宣言し、1993年5月24日に独立が承認された。

もともとこの地域は「ミドゥリ・バリ」と呼ばれ、オスマン帝国領に端を発するエジプト領・エチオピア領の一部だった。主な先住民は、エチオピアのアムハラ人とは文化を異にするティグレ人である。

アスマラ
Asmaraは、エリトリアの首都である。標高約2300mの高地に位置する。主な生産品は織物、衣類、ビール、靴である。アスマラにはアスマラ国際空港があり、エリトリア第二の都市マッサワとはエリトリア鉄道で結ばれている。アスマラは1870年代までは小さな村であった。1880年代にエチオピアに併合されてからは、重要都市となり行政機関が置かれた。1900年にイタリア領エリトリアの首都となり、1930年代にはイタリア様式の建築が多く立てられ、ピッコーラローマ(リトルローマ)と呼ばれた。

アッサブ
Assab,は、エリトリアの港湾都市。紅海に面し、デブバウィ・ケイバハリ地方(南紅海州)の州都である。人口は1989年39,600人から20,222人(2005年推計)に減少している。かつてのエリトリア第2の都市であり、南部の中心都市である。

マッサワ
Massawa,イタリア語: Massauaは、紅海に面したエリトリアの都市。人口は36,700人(2004年)。マッサワが初めて文献に現れるのは、エチオピア皇帝イシャク1世 (Yeshaq I) の時である。エチオピア皇帝が総督を送り統治を始めたことが記されている。

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アスマラ国際空港
Asmara International Airportとは、エリトリアの首都、アスマラにある国際空港。エリトリア航空・ナスエアウェイズの拠点空港である。別名ヨハンネス4世空港(英語: Yohannes IV Airport)。

マッサワ国際空港
Massawa International Airportとは、エリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方の州都、マッサワ近郊に設置された国際空港[1]。国際航路としてはパキスタン国際航空・エリトリア航空とナスエアウェイズがスロットを確保しているが、定期航路は設定されていない。

アッサブ国際空港
Assab International Airportとは、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方の州都、アッサブにある国際空港。エリトリア航空・ナスエアウェイズがスロットを確保しているが、国際定期航路は設定されていない。アッサブ市内から約5マイル離れている。


エリトリア鉄道
エリトリアで唯一の鉄道機構。1887年から1932年にかけて当時の宗主国イタリア王国により構築され、マッサワからビシア(英語版)が接続された。戦争によって破壊されたが、2003年になってマッサワからアスマラまでの区間のみ再開した。かなり古い車両が現役で使われている。

メンデフェラ
Mendeferaは、エリトリア・デブブ地方の州都でありメンデフェラ地区の行政府所在地でもある。人口28,492人(2005年)。首都アスマラから50km南方に位置する。紀元前5世紀からのアクスム文明における重要都市である。1959年に多くの建造物が十字架やローマ帝国及びこの地方の貨幣とともに発掘された。墓所を含む多くの地域が未調査の状態で残されている。


外務省:エリトリア国
在ケニア日本国大使館(エリトリア国兼轄)


エリトリア大使館
国土は小さいものの、アフリカ大陸一つ分とも言える多様な地形と気候を国内に持ち、エリトリアでは「2時間で3つの季節を体験することができる」と言われます。非常に大きなコントラストを見せる国土で、首都も位置する中央高地は海抜2000mを超え、南西部の灼熱のダナキル低地は、地球上で最も低い乾燥した地点の一つです。国の最高峰は、アンバソイラ山で、海抜3018m、逆に最も低い地点は、ダナキル低地のコーバー窪地で、海面下116mにもなります。首都アスマラの北東には、緑鮮やかな森林地帯が広がり、西部には、肥沃なバルカ低地やガッシュ平野が広がります。


バレンツ
Barentuは、エリトリア・ガシュ・バルカ地方の州都でありバレンツ地区の行政府所在地でもある。別名・Mai Tsada。人口20,968人(2005年推計)旧州都のアゴルダトの南側に位置する。主にナイル系クナマ人が居住している。バレンツはこの地方の鉱業及び農業施設の中心である。

アディ・ケイ
エリトリア・デブブ地方の商業都市。アスマラの110km南東に位置する。標高約2,500メートルの高地にあり、26,310の人口を擁する(2005年推計)。クォハイト(Qohaito、先アクスムの都市遺跡)やトコンダ(Toconda)の遺跡が近隣にある。

ギンダ
エリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方・ギンダ地区の都市。アスマラからマッサワへ向かう国道P-1号線上のマアカル地方との境付近の標高約900mの高地に存在する。また国道のほかマッサワ-アスマラ鉄道のギンダ駅も利用できる。野菜や果物の生産地であり、ティグレ人のムスリムの中心地でもある。ギンダはサバルグマ(Sabarguma)の泉の近くにある。

アファベト
Afabetは、エリトリア北部・セメナウィ・ケイバハリ地方の町。アファベト地区の行政府所在地でもある。1997年現在の人口は35,673人。アファベトはエリトリア独立紛争の激戦地であり、町全体が塹壕で囲まれている。塹壕は紛争後も再構築され、拡張されている。

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ベイルル
Beilulは、エリトリア南東部・デブバウィ・ケイバハリ地方南部の町で、海岸線を持つ。先史時代の遺跡が発見されている。

ズラ
Zula、はエリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方南部・フォロ地区の紅海沿岸に存在する町。ズラ湾(アンスレイ湾)の西岸奥に存在している。古代アクスム王国の領土であり、ズラから4km離れた場所にアクスム王国の交易地及び港の遺跡であるアドゥリスが存在する。

アバチェリ
Abacheriは、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方中部の町で、中部デンカリア地区に属し、海岸線を持つ。1900年には既に集落として記録されている[1]。シェブルルから国道P-6号線で分岐して南に約8キロメートル進んだ場所に中心地が存在する。

フォロ
Foro、は、エリトリア セメナウィ・ケイバハリ地方南部の、海に面した町である。ハダス川、アリギデ川、コメイレ川の合流した河口付近にある。フォロ地区の行政府所在地でもある。

メルサ・ファトゥマ
Mersa Fatuma)は、エリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方南部の村で、海岸線を持つ。人口11,542人(2005年推計)。ゲレーロ地区に属する。国道P-6号線のマッサワとティヨの間に存在する。

ティヨ
Tiyoは、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方北部の町で、海岸線を持つ[1]。アレエタ地区の行政府所在地でもある。国道P-6号線はマッサワからティヨを経由してアッサブに至っている。

アディ・テケレザン
Adi Tekelezan、は、エリトリア・アンセバ地方南部の町。アディ・テケレザン地区の行政府所在地でもある。アディ・テケレザンは古代キリスト教における聖地巡礼の経由地だった。この地域に初めに定住したのはティグレ族で、その後にティグリニャ族の流入があった。1920年代になって、当時エリトリアを植民地としていたイタリア人は、アスマラ-ケレン間の国道をアディ・テケレザンを経由する形で建設した。

インゲル
(Inghel)は、エリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方南部の村で、ブリ半島北端部にあり紅海に面した海岸線を持つ。北にはダフラク諸島が存在する。

メルサ・グルブブ
Mersa Gulbub)は、エリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方北部の村で、海岸線を持つ。セメナウィ・ケイバハリ地方の州都・マッサワの北に位置する。人口約1500人。

セゲネイティ
Segeneitiは、エリトリア・デブブ地方北部の町。セゲネイティ地区に属し、行政府が設置されている。アスマラからセナフェへ向かう国道P-3号線沿いに集落が形成されている。

ハイコタ
Haykota)は、エリトリア北西部・ガシュ・バルカ地方の町。ハイコタ地区の行政府所在地でもある。町の最も重要な産業は酪農協同組合を中心とした酪農業である。エリトリア独立戦争を開始したハミッド・イドリース・アワテの記念碑が近隣にある。

シャンブコ
Shambuko、は、エリトリア・ガシュ・バルカ地方南部の町で、シャンブコ地区の行政府を持ち、高等学校が存在する。山間部のエチオピア国境付近に位置する。

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ラヘイタ
Raheitaは、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方東南部の村。ジブチ国境付近の海岸部に存在する。国境のジブチ側にモルホル(MOLHOULE、モリホリとも呼ばれる)と呼ばれる村が存在する。北緯12度43分37秒、東経43度05分03秒。標高4m。

イディ
(Idi)は、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方中部の村。中部デンカリア地区の行政府所在地であり、海岸線を持つ。人口22,855人(2005年推計)。ティヨから国道P-6号線で海岸線に沿って東南に進んだ道路沿いに存在する。

メカイカ
Meka'ika)は、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方南部の村で、海岸線を持つ。南デンカリア地区の行政府所在地であるデブバウィ・ケイバハリ地方の州都・アッサブから7.4キロメートル離れている。また、村の西側にはアッサブ国際空港がある。

シェブルル
Sheburur)は、エリトリア・デブバウィ・ケイバハリ地方中部の村で、中部デンカリア地区に属し、海岸線を持つ[1]。国道P-6号線沿いのティヨ-イディ間にあり、ここから南のアバチェリに向けて分岐する道路がある。


セメナウィ・ケイバハリ地方
Region of Northern Red Sea、はエリトリアの行政区画。州都は紅海沿岸部の港町マッサワ。大半がダフラク諸島、マッサワを含む紅海沿岸の土地で、アンセバ地方、マアカル地方、デブブ地方と西側に州境を接し、デブバウィ・ケイバハリ地方(南紅海州)と東側で州境を接している。

アンセバ地方
Ansebaはエリトリアの行政区画。アンセバ地方はエリトリアの行政区画のひとつで、 国内の西北部にあり、内陸部に位置する。州都は州の南部に位置するケレン。

マアカル地方
Maekel,MaakelまたはCentral regionは、エリトリアの行政区画。マアカル地方は、エリトリア最小の地方であり、首都アスマラを含む地方である。この地方は海岸線を持たず、北西にアンセバ地方、北東にセメナウィ・ケイバハリ地方(北紅海州)、南にデブブ地方、西にガシュ・バルカ地方との州境を持つ。

デブブ地方
Southern region、はエリトリアの行政区画。デブブ地方は、エリトリアの行政区画。英訳名は Southern region(南部州)。州都はメンデフェラ。南部でエチオピアと国境を接している。

ガシュ・バルカ地方
Gash-Barka, はエリトリアの行政区画。この地方が比較的肥沃であることから「パン籠」と呼ばれることがある。2005年現在、350万頭以上の家畜やラクダがいると考えられている。またこの地方には大理石及び金を含む貴金属の鉱床があり、アウガロにはイタリア植民地時代の採鉱設備がある。

デブバウィ・ケイバハリ地方
Region of Southern Red Sea、はエリトリアの行政区画。州都は紅海沿岸の都市アッサブ。エリトリアの紅海の海岸線のうち南半分を占める。500キロメートル以上にも及ぶ海岸線を有しているものの、海岸から内陸部の国境線までの幅は最大でも50kmしかない。


1.面積:11.76万平方キロメートル(北海道と九州とを併せた広さとほぼ同じ)
2.人口:470万人(2006年:世銀)
人口増加率3.6%(1990〜2004年:世銀)
3.首都:アスマラ
4.民族:ティグライ、アファール族など9民族
5.言語:ティグリニャ語、アラビア語、諸民族語
6.宗教:キリスト教、イスラム教他

1890年 イタリアの植民地支配下におかれる
1942年 英の保護領となる
1952年 国連の決定により、エチオピアと連邦を形成
1962年 エチオピア議会がエリトリアのエチオピアへの併合を決議
1972年 エリトリア人民解放戦線(EPLF)を結成
1991年5月 EPLFがエリトリア臨時政府樹立を宣言
1993年4月 国連の監視の下、エリトリア地域の分離・独立を問う住民投票実施
1993年5月24日 エチオピアより独立
1998年5月 エチオピア・エリトリア国境紛争勃発
2000年12月 エチオピアとの包括的和平合意成立
2002年4月 国境委員会によりエチオピアとの(地図上の)国境線確定
2004年 第3回地方議会選挙


ナクファ
1997年にエチオピア・ブルと等価として導入された。 エリトリアの分離独立後の1993年から1997年までは、エチオピア・ブルが使用されていた。ナクファの名前はエリトリア独立戦争の激戦地だったセメナウィ・ケイバハリ地方のナクファに由来する。紙幣・貨幣のデザインは元アメリカ合衆国製版印刷局のクラレンス・ホルバートによって行われた。


エチオピア・エリトリア国境紛争
アフリカのエチオピア、エリトリア間で行われていた戦争のことである。紛争とあるが、互いの首都を空爆しあうなど戦争と表現しても良いほど事態はエスカレートしていた。両国とも経済規模が小さい貧国であり、身の丈に合わない戦争の継続が地域の破綻を招くとして、開戦以降、国際連合や当時のアフリカ統一機構(OAU)などが積極的に仲介に乗り出している。

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エリトリア独立戦争
The Eritrian War of Independence、1961年9月1日 - 1991年5月29日)はエチオピア政府とエリトリアの分離主義者との間で起きた武力紛争。この紛争が勃発した後独立戦争と並行してエリトリア内戦(1972年-1974年、1980年-1981年)、エチオピア内戦(1974年-1991年)が起きている。紛争はエリトリア人民解放戦線(EPLF)と協力関係にあったエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)によってエチオピアの首都アディスアベバが陥落し、エリトリア州内のエチオピア軍が掃討されることでEPLFが州内を勢力下に置いた1991年までの30年にわたって続けられた。

民主正義人民戦線
People's Front for Democracy and Justice、略称:PFDJは、エリトリアの政党。旧称エリトリア人民解放戦線。エチオピアからのエリトリア独立を目指し1958年に結成されたエリトリア解放戦線(ELF)から1970年代初頭に分離・結成したエリトリア人民解放戦線(EPLF)がエリトリアの独立後、武装組織から政党へと改組する過程で、1994年2月に現在の名称へと改称した。

エリトリア解放戦線
Eritrean Liberation Front、略称ELFは東アフリカで活動するエチオピア・エリトリアの反政府組織。エリトリア解放戦線はエリトリアのエチオピアからの独立運動において特にその前半期、1960年代から70年代において中心的な役割を果たした反政府組織である。1993年のエリトリア独立後は民主正義人民戦線(PFDJ)の一党独裁制採用により非合法化されている。

ティグレ人民解放戦線
エチオピアのティグレ族を主体とした政党である。オロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線(SEPDF)の3党とともに、与党連合エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成する。現在の議長(党首)はメレス・ゼナウィ。

エリトリア解放戦線革命評議会
Eritrean Liberation Front-Revolutionary Council,ELF-RC)はエチオピア、独立後のエリトリアの反政府組織。議長は2009年に選出されたWede Yesus Amar。評議員の数は33。

エリトリア解放戦線人民解放軍
Eritrean Liberation Front-Popular Liberation Forces〔ELF-PLF〕)は、エリトリアを根拠地としたエチオピア・エリトリアの反政府組織。


メブ・ケフレジギ
(Mebrahtom ("Meb") Keflezighi、1975年5月5日- )は、アメリカ合衆国の陸上競技選手。2004年アテネオリンピックの銀メダリストである。エチオピア(現在のエリトリア)アスマラ出身。ケフレジギは、12歳のときに家族とともに、内戦の続くエチオピア(エリトリア)を離れ難民となりイタリアを経由してアメリカへ亡命。サンディエゴに移り住んだ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校在学中に陸上競技で数多くのタイトルを獲得。


テドラ・バイル
(Herui Tedla Bairu、Dejazmatch Tedla Bairu、1914年 - 1984年)はエチオピア・エリトリアの政治家。デジャズマッチはエチオピア帝国の役職に基づく敬称で、地方行政副長官・副知事を指す語。テドラ・バイルは1952年に独立したエリトリア国の最後の国家元首であり、また1952年から1955年までのエチオピアとエリトリアとの連邦政府におけるエリトリアの初代行政長官(Chief Exclusive)だった。 テドラは強固な連邦主義者であったために政敵から「日和見主義者」と糾弾されていた。

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