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アルジェリア民主人民共和国
Democratic People' s Republic of Algeria

アフリカ

■地理
国土の大部分を砂漠が占め、乾燥した平原地帯となっている。しかし、北部には2000m級のアトラス山脈が走り、地中海沿岸は雨量も多く、草原なども広がり、国民の約95%がこの地域に居住している。地中海の対岸にはスペイン、フランスが存在する。一見して日本より相当南の緯度にあると思われがちだが、首都のアルジェは新潟県とほぼ同じ緯度である。


アトラス山脈
アフリカ北西部、モロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈である。名称はギリシア神話の巨神アトラスにちなんでいる。アルジェリアではアトラス高原をはさんで北のテルアトラス山脈と南のサハラアトラス山脈の2列になっている。

サハラ砂漠
アフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠。サハラ砂漠全体の人口は約2500万人であり、そのほとんどはモーリタニア、モロッコ、アルジェリアに住む。サハラ砂漠は標高300m程度の台地が広がり、中央部にはホガール山地(アルジェリア南部)、アイル山地(ニジェール北部)、ティベスティ山地(チャド北部)がある。サハラ砂漠の最高点は、ティベスティ山地のエミクーシ山(3415m)である。

ホガール山地
(Massif Ahaggar)とはアルジェリア南部のサハラ砂漠にある高地。アルジェリアの首都アルジェの南およそ1500kmに位置する。この一帯は標高平均800m以上の岩石砂漠で、最高峰はタハト山(2918m)。アルジェリア南部の中心都市タマンラセットの北側に広がり、火山性の岩峰、奇峰が連なっている。

タハト山
アルジェリアの最高峰で、かつホガール山地(アハガル山地とも呼ばれる)の最高峰である。北緯23度17分、東経5度31分[1]、標高2,918m(出典によっては3,003mなど)である。アルジェリア南部のサハラ沙漠にあり、斜面にも山麓にもほとんど植生はみられず、薄茶色の岩肌がむき出しである。


アルジェリアの歴史
先史時代のサハラは草原であり、タッシリ・ナジェールには紀元前8,000年頃からの住人の生活の様子が壁画に描かれている。タッシリ・ナジェールの壁画には川を泳ぐ人々のような、湿潤だったころのサハラの生活が描かれているが、紀元前2000年ごろからサハラが乾燥化するにつれ、この壁画文明は衰退した。その後、マグリブに馬がもたらされ、ベルベル人が居住するようになった。紀元前814年に現在のレバノンから到来したフェニキア人がカルタゴを建設したことをきっかけに、フェニキア人は地中海沿岸部に植民都市を建設した。


オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。


アルジェリア戦争
1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争。フランス本土と当時はフランス領(公式には植民地ではなく海外県と海外領土の中間的存在とされる。)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもある。


フェニキア
Phoeniciaは、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源となった。

ヌミディア
Numidia は、カルタゴや共和政ローマの時代にベルベル系の部族が住んでいたアフリカ北部の地域・王国。ヌミディアとは古代ローマによる呼称であり、現在のアルジェリア北東部周辺に当たる。ヌミディア王国は、東隣にカルタゴ、西隣にマウレタニア王国と接していた。王国の滅亡後にローマの属州となった。

マウレタニア
古代の北アフリカの地中海沿岸に独立したベルベル人のマウリ部族の王国。西アルジェリア、北モロッコ、ジブラルタルを含む広大な地域を支配。その後はローマ帝国の支配下に入って、王国の歴史は閉じることとなる。この国に因み、ムーア人の呼称が生まれ、ムーア人が支配するモーリタニアはマウレタニアの後継を称して国号が付けられたが、ムーア人支配層以外には民族的な繋がりがなく、地理的には何の関係もない。


■国民
人口の約90%は、北部の地中海沿岸地域に住んでいる。また、人口の約半分が都市部に住んでいる。人口の30%が15歳以下である。義務教育は6歳から16歳までで、すべて無料である。人口増加率はアフリカ諸国の中では比較的少ない。

■民族
国民の80%がアラブ人で、残りの20%がベルベル人であり、ベルベル人はカビリー地方のカビール人(Kabyle people)をはじめ、シャウィーア人、ムザブ人、トゥアレグ人など4つのグループに分かれる。わずかにフランス人(ピエ・ノワールの残留者)も存在する。南部の砂漠地帯には少数派の約150万人の遊牧民(ベドウィン)やスーダン系黒人が住む。


ヌミディア人
Numidaeは、カルタゴや共和政ローマの時代にアフリカ北部のヌミディア(現在のアルジェリア北東部周辺)に居住していたベルベル系の半遊牧民の部族連合。ヌミディア人(ヌミダエ)とは古代ローマ側による呼称であり、支配部族の王たちはマッシュリーと自称していた。

ベルベル人
北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。

ヴァンダル族
(Vandal)は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた系統不明の民族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)は、おそらくヴァンダル族に由来する地名である。また彼らの名前は、ヴァンダリズムの語源ともなっている。


<世界遺産>

■ベニ・ハンマードの城塞 (1980年)
ベニ・ハンマードの城塞は、アルジェリアのムシラ (M'Sila) にある考古学遺跡。1980年にユネスコの世界遺産に登録された。
城塞は、ホドナ (Hodna) の山岳地帯の標高1000m以上のところにあり、アルジェの建市者ブルッギン・イブン・ジリ (Buluggin ibn Ziri) の息子ハンマード・イブン・ブルッギン (en:Hammad ibn Buluggin) が、建造計画を立てて1007年に建造したものである。

■ムザブの谷 (1982年)
ムザブは標高300mから800mの岩だらけの高原である。白亜紀に形成されたこの地形には、黒や褐色の岩石が広大に散らばっている。ムザブのワジは、この高原の北西から南東へ通っている。

■ジェミラ (1982年)
ジェミラ は、アルジェリアの北東の岸に近い山村である。村の名前はアラビア語で「美しいもの」を指す。それ以前のラテン語での名称はクイクルム (Cuiculum) だった。古代ローマ時代の遺跡が良好な保存状態で現存していることから、1982年にユネスコの世界遺産に登録されている。特に、山の地形に合わせてローマ建築が持ち込まれた点に特色があり、劇場、2つの集会場、寺院、バシリカ、アーチ、街路、住居群などが現存している。

■ティパサ (1982年)
ティパサ は、アルジェリア沿岸部にあるティパサ県の県庁所在地。1857年に建造されたその近代的な町並みは、砂浜でひときわ目立っている。町の名前はアラビア語で「荒廃した都市」の意味である。その名前の由来となった古代ローマの遺跡群が町には残り、ユネスコの世界遺産にも登録されている。

■ティムガッド (1982年)
ティムガッド は、西暦100年頃にトラヤヌス帝によって建設された古代ローマの植民都市。古代ローマ時代はタムガス (Thamugas) と呼ばれた。ティムガッドの遺跡は、古代ローマの都市計画に碁盤目状の区画が導入された例を伝える現存する最良の遺跡の一つである。長い間砂に埋もれていたことから保存状態がよく、「アフリカのポンペイ」の異名をとる。

■アルジェのカスバ (1992年)
「アルジェのカスバ」はアルジェリアの首都アルジェの旧市街を構成する一画の呼称。ユネスコの世界遺産にも登録されている。なお、アルジェリアにはカスバと呼ばれる市街は他にもあるが、単に「カスバ」といった場合には一般にこのアルジェのカスバを指す。カスバの魅力は、高低差118mにも及ぶ起伏に富んだ地形そのものと、そこを縫うようにして伸びる、在りし日の謎と神秘に満ちたアルジェへいざなう曲がりくねった細い路地、そしてそこに建てられた家の外観や内部の特色などによって構成されている。アルジェの家は家々に囲まれた泉のある四角い中庭に通じているのが特徴的である。

■タッシリ・ナジェール
タッシリ・ナジェールは、アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈。およそ500kmにわたり拡がっており、最高点は標高2158mの Adrar Afao(北緯25度10分、東経8度11分)である。最も近い町は山脈の南西約10kmにあるジャーネットである。山脈はまた、先史的な岩絵群や他の考古学的景観で知られている。それらは、一帯が砂漠でなくサバンナに恵まれ湿潤だった新石器時代に遡るものである。岩絵には、牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。

 


アルジェ砲撃
Bombardment of Algiersは1816年8月27日、アルジェの太守(デイ、英:Dey)にキリスト教徒奴隷制度を止めさせ、奴隷を救出するために行われた軍事行動。イギリス海軍のエクスマス卿(エドワード・ペリュー提督)の指揮する英蘭連合艦隊がアルジェ港の港湾と港内の艦船を砲撃した。北アフリカのバーバリ海賊によるヨーロッパ人に対する海賊行為を抑えるため、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の海軍による継続的な作戦が行われたが、この砲撃戦には、キリスト教徒の奴隷を解放し、かつヨーロッパ人を奴隷化する行為を止めさせるという特定の目的があった。この砲撃によりアルジェの太守に約3,000名のキリスト教徒奴隷を解放させ、かつヨーロッパ人奴隷制度を停止する条約に調印させることができたが、その停止は、長くは続かず、成功は決定的なものとはならなかった。


マグリブ
Maghreb、Maghrib、は、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。地域名としてのマグリブは、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわちモロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指し、時と場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。

ムーア人
Moorsは、北西アフリカのイスラム教教徒の呼称。主にベルベル人を指して用いられる。ローマ時代に北西アフリカの住民(ベルベル人)をマウハリムと呼んだことに由来する。マウハリムはフェニキア人の言葉で「西国の人」を意味する。

アンダルス
al-?andalusとは、イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称。


■言語
主要言語はアラビア語とベルベル語だが、公用語はアラビア語のみである。口語として話されるのはアラビア語アルジェリア方言(アーンミーヤ)であるが、公用語は文語である正則アラビア語(フスハー)としている。フランス語は義務教育で教えられる外国語であり、第2言語として現在も広く用いられ、多くの国民はフランス語を話す。



■宗教
国民が信仰する宗教は、99%がイスラム教で、そのほとんどがスンニ派である。イバード派もわずかに存在し、ムザブ人等のベルベル人がこれに属す。また、キリスト教徒やユダヤ教徒もわずかに存在する。

スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。

イバード派
イスラム教の宗派のひとつ。初期に多数派(のちのスンナ派とシーア派)から分派して成立したハワーリジュ派の流れを汲み、現在は主にオマーンに多い。イバード派の名は、最初の指導者とされる人物の名に由来している。


■教育
6歳から15歳までの義務教育が敷かれている。義務教育は9年間の初等教育と前期中等教育を一貫した基礎教育学校(エコール・フォンダマンダル)で行われ、義務教育期間はアラビア語で教授されるが、大学教育ではフランス語で教授されることも多くなる。現在アルジェリアには43の大学、10の単科大学、7の高等専門学校が存在する。主な高等教育機関としては、アルジェ大学(1879年、1909年)、国立アルジェ工科大学(1923年)などが挙げられる。


サハラ・アラブ民主共和国
北アフリカの西サハラ(旧スペイン領サハラ)に領有権を主張する共和制国家。但し領土の大半はモロッコによって実効支配(不法占拠)されている。モロッコによる領有権の主張は大多数の国から認められていない。2011年2月現在、サハラ・アラブ民主共和国はアルジェリア、南アフリカ共和国、メキシコ、ベトナムなど85ヶ国から承認を受けている。国際連合が承認していないが、アフリカ連合(AU)に加盟している。

アフリカ連合
アフリカの国家統合体。アフリカ統一機構 (OAU) が、2002年に発展改組して発足した。エチオピアのアディスアベバに本部を置いている。アフリカ連合は、アフリカの一層高度な政治的経済的統合の実現及び紛争の予防解決への取組強化のため発足した地域統合体である。


アルベール・カミュ
Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日は、フランスの小説家、劇作家。フランス領アルジェリア出身。アルジェ大学卒業後ジャーナリストとして活動、第二次大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目される。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し劇作家としても活動。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、エッセイ『反抗的人間』はその思想をめぐって毀誉褒貶を受けた。1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。1960年、交通事故により急死。

1913年、フランス領アルジェリアのモンドヴィ近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュはフランスから渡ってきた農場労働者であり、この地でスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父はマルヌ会戦で戦死しており、このためカミュはフランスとのつながりを実感するための生きた手がかりを失うことになった。1918年に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた。

カテブ・ヤシーン
Kateb Yacine, 1929年8月2日 - 1989年10月28日はアルジェリアの作家。日本語では、カテブ・ヤシーヌ、カテブ・ヤシンの表記もある。アルジェリアを代表する作家の1人。フランス植民地時代のアルジェリアのコンスタンティーヌでケブルート族として生まれる。父はムスリムの弁護士であり、アラビア語の教育を受けたのち、父の転勤が原因でフランス語系の学校へ転校する。コレージュ・ド・セティフ入学後の1945年、アルジェリアの民族運動の高まりにより起きたコンスタンティーヌの暴動に参加して逮捕される。この事件でヤシーンの親族に犠牲が出たため母が発狂し、作風に影響を与える。逮捕後に創作活動をはじめ、処女詩集『ひとり言』を発表。日刊紙の記者や肉体労働者などを転々としつつ、フランス植民地時代を舞台とした小説『ネジュマ』を発表し、高く評価される。ネジュマとは、アラビア語で「星」を意味する。

アウグスティヌス
Aurelius Augustinus, 354年11月13日 - 430年8月28日は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語圏において最大の影響力をもつ理論家。アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのス−ク・アハラス)に生まれた。若い頃から弁論術の勉強をし、370年から西方第2の都市カルタゴで弁論術を学ぶ。アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は後のアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。

聖モニカ
Monica, 331年 - 387年は、ヒッポの司教アウグスティヌスの母で、キリスト教の聖人。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会で崇敬されている。母子とも聖人となった彼女の記念日は8月27日であり、これは息子のアウグスティヌスの記念日8月28日の前日にあたっている。モニカの生涯はアウグスティヌスの著作『告白』に簡潔に述べられている。それによるとモニカは北アフリカのタガステ(現在のアルジェリア)でキリスト教の家庭に生まれ育った。長じてパトリクスという異教徒の男性と結婚し、アウグスティヌスらを産んだが、夫の暴力や浮気性に悩まされた。さらに息子のアウグスティヌスが成長して放蕩生活を始めたことにも悩み、夫と息子の回心のために祈る日々が続いた。

ジャック・デリダ
Jacques Derrida, 1930年7月15日 - 2004年10月8日は、アルジェリア出身のフランスのユダヤ系哲学者。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。フッサール研究から出発し、ニーチェやハイデッガーを批判的に発展させた。哲学のみではなく、文学、建築、演劇など多方面に影響を与えた。代表的な著作に『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』などがある。

イヴ・サン=ローラン
Yves Saint-Laurent1936年8月1日 - 2008年6月1日はフランス領アルジェリア出身のファッションデザイナー。または、彼の名を冠したファッションブランド。フランスが誇る世界的ブランドとなっている。イヴはフランスの植民地のオラン(アルジェリア)で、保険会社で働く中産階級の両親の家庭に、1936年8月1日11時15分に生まれた。

ジネディーヌ・ジダン
Zinedine Yazid Zidane1972年6月23日 - は、フランス国籍の元サッカー選手。「ジダヌ」と表記されることもある。現在は現役時に所属したレアル・マドリードのスポーツディレクターを務める。ジダンの両親は、アルジェリア戦争が勃発する少し前の1953年にアルジェリアからパリへ移住。1968年にパリからマルセイユへ引っ越した。そこで4男1女の5人兄弟の末っ子として生まれたジダンは、キャプテン翼の影響でサッカーを始め、友人とのストリートサッカーでサッカースキルを磨いた。子供時代は父親の影響で柔道もしており、11歳の時に茶帯を取得した。

アブデルアジズ・ブーテフリカ
(abdelaziz buteflika, 1937年3月2日 - )はアルジェリアの政治家、大統領。1937年に現モロッコのウジダで生まれた。1962年、アルジェリア独立と同時にベン・ベラ政権で青年・スポーツ・観光相に25歳で就任。翌1963年、今度は26歳で外相に就任、「世界最年少の外相」と話題になる。しかしその後外相を解任されてしまう。クーデター後、ブーメディエン革命評議会議長のもと外相に復帰する。外相としては通算して16年間務め「アルジェリア外交の顔」であった。

ユグルタ
Jugurtha、紀元前160年 - 紀元前104年は、紀元前2世紀に在位したヌミディア王(在位:紀元前118年 - 紀元前106年)であり、自らの名を冠した共和政ローマとの戦争(ユグルタ戦争)を首謀した人物として知られる。ヌミディア人は北部アフリカへ居住していたが元々は半遊牧であったとされ、同じ北アフリカを中心に勢力を持っていたカルタゴの傭兵部隊として知られた。ユグルタの祖父に当たるマシニッサはカルタゴと決別してローマの同盟国となり、第二次ポエニ戦争でカルタゴが敗北するとカルタゴに代わり、北アフリカで勢力を拡大した。

トマ・ロベール・ブジョー
(Thomas-Robert Bugeaud、1784年10月15日 - 1849年6月10日)はフランスの軍人である。リモージュで生まれる。1804年にナポレオン戦争においてナポレオン近衛連隊の擲弾兵として従軍し、ウルムの戦いやアウステルリッツの戦いに参加する。1839年にアルジェリア駐留軍総司令官の地位を求めて1840年にルイ・フィリップ王からアルジェリア総督を拝命する。そこでアルジェリアにおけるフランス軍部隊の編制・教義・戦術などを抜本的に変更して現地住民による抵抗を無力化に努め、1847年にはイスリィにおいて抵抗勢力の指導者であったアブド・アルカーディルを降伏させた。

ベン・ベラ
(Mohamed Ahmed Ben Bella、1918年12月25日 - 2012年4月11日)は、アルジェリア民主人民共和国の第二代大統領。アルジェリア西部の小都市で生まれた。スーフィー信仰の家系。1936年より宗主国フランスの軍隊に志願兵として加わった。第二次世界大戦でも自由フランス軍兵士として活躍し、幾度か勲章を受けた。大戦後は反フランス独立運動の中心人物となり、1950年に逮捕されるが、1952年に脱獄を果たした。

ナディル・ベルハジ
Nadir Belhadj, 1982年6月18日 - )は、フランス・サン=クロード出身のアルジェリア人サッカー選手。ポジションはDF (LSB)。U-18フランス代表としての出場経験を持つが2004年4月28日にアルジェリア代表として中国代表との親善試合に初出場すると2007年6月5日のアルゼンチン代表戦で初得点した。

ラフダル・ベルミ
Lakhdar Belloumi、1958年12月29日 - )は、アルジェリア出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。アルジェリアと1980年代のアフリカを代表するサッカー選手。1982年6月16日のスペインW杯1次リーグ初戦において当時のヨーロッパチャンピオンの西ドイツを2-1で下す大番狂わせを演じ、旋風を巻き起こした時の中心選手である。

ラバー・マジェール
Rabah Madjer、1958年2月15日 - )は、アルジェリア出身のサッカー選手、サッカー指導者。アルジェリアサッカー史上最も偉大な選手とされる。ヒールキックが得意であったため、タロンナード(Talonnade=踵の魔術師)と呼ばれた。アルジェリア代表として1978年から1992年までの14年間プレーして、1982年および1986年ワールドカップに出場した。87試合で40得点を挙げ、アルジェリア代表での最多得点者になっている。

カメル・ギラス
(Kamel Ghilas、1984年3月9日 - )は、フランス・ブーシュ=デュ=ローヌ県・マルセイユ出身のサッカー選手。ポジションはセカンドトップ。2007年6月2日、カーボベルデ代表戦でアルジェリア代表デビューした。同年11月20日マリ代表戦で初ゴールを記録した。

エドモン・ジュオー
Edmond Jouhaud、1905年4月2日 - 1995年9月4日は、フランス領アルジェリアのオラン近郊のブースフェールに生まれた。フランス空軍軍人であり、将軍達の反乱の首謀者の一人。1961年4月22日、モーリス・シャール、ラウル・サラン、アンドレ・ゼレールらと、アルジェにて反乱を起こすも失敗、逃亡する。

マルセル・セルダン
(Marcel Cerdan、男性、1916年7月22日 - 1949年10月27日)は、フランス(旧フランス領アルジェリア)出身の元プロボクサー。元世界ミドル級王者。名王者トニー・ゼールからタイトルを奪ったボクサーとして知られる。シャンソンの女王エディット・ピアフの恋人だったことでも知られ、笑うのが好きで人を惹き付ける性格であったと伝えられている。1949年10月27日、搭乗したエールフランスのロッキード コンステレーション L-749機が北大西洋アゾレス諸島付近に墜落、セルダンも不帰の客となった。この事故では、ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーも死去している。総試合数 123、勝ち119、KO勝ち74、敗け4

ジャン=ピエール・バクリ
(Jean-Pierre Bacri、1951年5月24日 )は、フランスの俳優、脚本家である。女優、脚本家、映画監督の妻アニエス・ジャウィとのコラボレーションで知られる。1951年5月24日、当時フランス領アルジェのカスティリオーヌ、現在のアルジェリアのブ・イスマイルで生まれる。幼少時は毎週末、映画館に通う子であった。

アラン・ミムン
Alain ("Ali") Mimoun、1921年1月1日 - は、フランスの元陸上競技選手。1956年メルボルンオリンピックマラソンの金メダリストである。ミムンはアルジェリア出身で、第二次世界大戦の間の数年間は競技に参加できなかったものの、戦後は長距離選手として活躍。5000mと10000mでフランスの国内タイトルを獲得している。

ブライム・アムダニ
(Brahim Hemdani、1978年3月15日 - )は、フランス・オー=ド=セーヌ県・コロンブ出身のサッカー選手。アルジェリア代表である。2006-07シーズンはオールドファームのセルティック戦で初ゴールをあげる等し、サポーター投票によるクラブのプレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

アルジェリア Algeria
北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジア、リビアと、南東にニジェールと、南西にマリ、モーリタニアと、西にモロッコ、サハラ・アラブ民主共和国と国境を接し、北は地中海に面する。地中海を隔てて北に旧宗主国のフランスが存在する。首都はアルジェ。アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。2011年7月9日にスーダンから南スーダンが分離・独立したことにより、アフリカ大陸で最も領土が大きい国となった。世界全体でも第10位の領土面積を誇る。

 

アルジェ
Algiersは、北アフリカ、アルジェリア民主人民共和国の首都であり、アルジェリア最大の都市である。西部地中海に面している。2010年の都市的地域の人口は335万人であり、世界の第90位、同国では第1位である[1]。地中海の要塞として古くから発達した都市である。都市は、海岸付近の低地に発達した近代的な部分と標高100m以上の高地にある古都部分に分けられる。

オラン
Oranは、アルジェリア北西部に位置する同国第二の都市である。人口は897,700人。オラン県の県都である。アルベール・カミュの小説『ペスト』の舞台にもなっている。

タマンラセット
アルジェリア南部にあるタマンラセット県の県都でオアシスの町である。この一帯に分布するトゥアレグ人のアルジェリア側の中心都市である。 人口は2006年推計で76,000人である。

コンスタンティーヌ
Constantineはアルジェリア北東部に位置する同国3番目の規模の都市である。アラビア語読みではクサンティーナ。地中海の沿岸からおよそ80km南に位置しており、人口は544,700人で、コンスタンティーヌ県の県都である。海抜640mの台地の深い峡谷にある。峡谷を横断している橋や高架橋は数多く、コンスタンティーヌの景観を特徴付けている。しかし、峡谷はごみや油によって汚染されている場所があり、少なからず景観を損なっている。

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アンナバ
Annaba は、アルジェリア北東部に位置するチュニジアとの国境付近の町である。348,554人の人口を有しており(1998年)、アルジェ、オラン、コンスタンティーヌに次ぐアルジェリア4番目の都市である。アンナバには先史時代以前から人類が生息しており、30000年前と言う早い時期の道具使用の痕跡が見られている。


ウアリ・ブーメディアン空港
Houari Boumediene Airportとは、アルジェリアの首都アルジェにある国際空港。アルジェリア航空の本拠地である。


アドラール県
Adrarはアルジェリア中西部から最南端に位置するアルジェリアの県の一つである。人口は326,429人で、県都はアドラール。マリ共和国とアルジェリアの国境の大部分を占めており、一部モーリタニアとも接する。

ティンドゥフ県
(Tindouf)は、アルジェリア民主人民共和国の西部に位置する県。モロッコと西サハラ、モーリタニアに接し、マリにも近い。県都はティンドゥフ。人口は27060人(1998年、西サハラ難民含む)。地理的に不毛だが、豊富な資源を有し、マリとの国境付近に多量の鉄鉱石が存在する。

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ガルダイア
アルジェリアのガルダイア県の県都である。人口は100,000人超とみられる。ムザブ谷の中心にあり、アルジェリアのイバード派ムスリムの拠点で、中世の建築様式をよく保存している。その谷の一部は世界遺産に登録された。


■経済
膨大な対外債務があるが、天然ガスや石油を産出し、近年の原油価格上昇で貿易黒字が増大している。それ以外にも鉄鉱石やリン鉱石などを産する。国内産業は農業が主で、小麦、オレンジなどを産する。貿易相手は欧米が中心。アルジェリアの鉱業を支えているのは、天然ガス(3213千兆ジュール、世界シェア5位、2003年時点)である。特徴的な作物としては地中海性気候に適したナツメヤシ(45万トン)がある。生産量は世界シェア7位に達する。オリーブ(17万トン)や柑橘類の生産も盛んだ。


ピエ・ノワール
Pied-noirとは、1830年6月18日のフランス侵攻から、1962年のアルジェリア戦争終結に伴うアルジェリア独立までのフランス領アルジェリアに居たヨーロッパ系(フランス、スペイン、イタリア、マルタ、ユダヤ系)植民者。またアルジェリアだけでなくモロッコ・チュニジアを加えたマグレブ諸国のヨーロッパ系住民を含める場合もある。独立時点までのピエ・ノワールの人口は約100万人だと推される。


ライ
アルジェリア西部、オラン地方起源のポップ音楽。本来は両大戦間のころ都市部に定着したベドウィン歌謡を源泉として発達したオラン方言のアラビア語で歌われる音楽であるが、現在では非常に多様化し、ライというジャンル名も濫用、誤用されたものが定着しており、その全体を音楽として統一的に定義するのは困難である。元々はベドウィンが即興で歌っていたものが起源と言われ、1920年代にシェイハと尊称される女性の歌い手達により、オランの町の酒場に広まっていった。1940-50年代になると、ヨーロッパとの中継点としてスペインなどの影響を受けていたオランで、アコーディオンやサックスなどの伴奏がつくようになる。

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外務省/アルジェリア民主人民共和国
在アルジェリア日本国大使館


■政治
大統領を国家元首とする共和制を敷いており、現行憲法は1976年憲法である。大統領は民選で、任期は2期5年とされていたが、2008年の憲法改正で3期まで務められるようになった。1980年代後半からFLNの一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の議会選挙ではイスラーム主義政党のイスラーム救国戦線(FIS)が圧勝した。


■国名
日本語表記は、アルジェリア民主人民共和国。通称、アルジェリア。アラビア語名のジャザーイルは、首都アルジェのアラビア語名と同じで、「アルジェを都とする国」といったような意味合いである。

アルジェリアの国旗
アルジェリアの国旗は緑と白で二分されている。中央に赤い三日月と星の印が入っている。この国旗は1962年の7月3日に定められた。以前アルジェリア民族解放戦線 (NLF) で使用されていた物とよく似ており、アブドゥル・カディールが19世紀に使用していた物だ、という説もある。白は純血を表し、緑は繁栄を示している。三日月はトルコの国旗と同様イスラムのシンボルである。

1962.7 フランスより独立(当時、人口は1千万人)
1965.6 軍事クーデター、ブーメディエンヌ政権の成立。 1979.2 シャドリ大佐、大統領に就任。
1989.2 憲法改正。
1992.1 シャドリ大統領辞任。国家最高委員会設立。
1994.1 移行期間の大統領としてゼルーアル大統領就任。
1995.12 複数政党制下初の大統領選挙、ゼルーアル大統領が選出。
1996.11 憲法改正国民投票の実施、多数の支持により憲法改正案が承認される。
1997.6 国民議会(下院)選挙が実施され下院が設立。
同国史上初めて複数政党で構成される国民議会が開会。
1997.12 国民評議会(上院)選挙が実施され、上院が設立。 1999.4 大統領選挙、ブーテフリカ大統領が選出。
2002.5 国民議会(下院)選挙が実施。
2003年5月 ブメルデス県を震源地とする大規模地震が発生。
2004年4月 大統領選挙、ブーテフリカ大統領が再選。
2007年5月 国民議会(下院)選挙を実施。
2007年11月 統一地方選挙を実施。
2008年11月 憲法改正。
2009年4月 大統領選挙、ブーテフリカ大統領が三選。
2009年12月 国民評議会(上院)選挙を実施


アルジェリア・ディナール
Algerian dinar)はアルジェリアの通貨単位。ISO 4217コードはDZDである。補助通貨はサンチームで、1アルジェリア・ディナール=100サンチームである。アルジェリアではフランスの支配後、1848年からフランが通貨として使用され(アルジェリア・フラン)、フランス・フランと等価とされてきたが、1960年にデノミネーションが行われ、1アルジェリア新フラン=100旧フランとされた。


■人口 3,040万人(2000年)(国土の7%内に集中)(平均寿命71才)■首都 アルジェ■人種 アラブ人(80%)、ベルベル人(19%)、その他(1%)■言語 アラビア語(公用語)、フランス語■宗教 イスラム教(スンニー派)

 


2010年-2011年アルジェリア騒乱
アルジェリアにおいて2010年12月より翌年にかけて発生した大規模な反政府デモとそれに付随する事件の総称である。強権的な支配を強めるアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領に対する反発が、チュニジアにおいてベン=アリーの長期独裁政権を倒したジャスミン革命に触発されたとされ、また2011年エジプト革命におけるホスニー・ムバーラク政権崩壊を受けてその勢いが増した。

アルジェリア民族解放戦線
Front de Liberation Nationale:FLN)は、アルジェリアの社会主義政党である。1954年10月10日、フランスからの独立を勝ち取るためにいくつかの小さな集団が合併することで創立された。

民主国民連合
National Rally for Democracy は、アルジェリアの政党。党首は、アフメド・ウーヤヒア首相。RNDは大統領同盟と呼ばれる三党政治同盟を結成している。大統領同盟は2005年に結成され、かつての独裁政党民族解放戦線(FLN)や社会平和運動とともにアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領の連立与党を構成している。

労働者党
Workers' Party、略称: PTは、アルジェリアのトロツキスト政党。フランス労働党(労働者党)と密接な関係にある。党首はルイザ・ハヌーンでアルジェリアの主要政党党首としては唯一の女性である。

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アルジェリア国民戦線
Algerian National Frontは、アルジェリアの政党。2002年5月30日に行われた総選挙では、得票率1.6パーセントで全議席38議席中、8議席を獲得した。2007年総選挙では13議席を得た。


ポリサリオ戦線
Polisarioは、西サハラにおける独立国家建設を目指す武装組織。同地域を実効支配するモロッコと対立し、アルジェリアの支援を受ける。モロッコとの武装闘争が続いているが、1991年、国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコは停戦した。

アルジェリア人質拘束事件
モフタール・ベルモフタールに率いられたイスラーム系武装集団が、アルジェリアのイナメナス付近の天然ガス精製プラントにおいて2013年1月16日に引き起こした人質拘束事件。この事件は2002年から続くイスラーム過激派によるマグリブ反乱の一部である。


■文学
古代には、ラテン語で『黄金のろば』を著したアプレイウスや、『告白』を著したキリスト教の教父アウグスティヌスなどが活躍した。19世紀末頃からアルジェリア育ちのヨーロッパ人は自らを「アルジェリア人」と規定し、フランス語でアルジェリアニスム運動を主導した。代表的な現代アルジェリアの作家としてはムハンマド・ディブ、カテブ・ヤシーン、ラシッド・ブージェドラ、ヤスミナ・カドラ、アフガール・モスタガーネミー、アマーラ・ラフースなどが挙げられる。


ポストコロニアル理論
Postcolonialismは、狭義には文芸批評の理論である。植民地主義や帝国主義に関わる文化、歴史などを広範囲に取り扱い、批評、評論していくが、多岐にわたる方法論や問題意識の集合体であり、一つの運動ではない。20世紀後半、第二次世界大戦後、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。

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■哲学
古代において、最大の教父と呼ばれ、キリスト教思想や西欧哲学に大きな影響を与えたアウグスティヌスは現アルジェリアの生まれだった。中世においてはアルジェリア生まれではないが、チュニス生まれでイスラーム世界最大の学者と呼ばれるイブン=ハルドゥーンは『歴史序説』を現アルジェリアのイブン・サラーマ城で著した。また、20世紀後半において脱構築というシニフィアンを初めて唱えたジャック・デリダもアルジェリア生まれのユダヤ人だった。ポストコロニアリズムの先駆者となったマルチニーク生まれのフランツ・ファノンもまたアルジェリアで書いた。


■音楽
アルジェリアの音楽は、レコンキスタによってスペインから追放されたムーア人のアル・アンダルスの音楽に起源を持つ。フランスに渡ったアルジェリア人や、その子孫のアルジェリア系フランス人の中には活動の拠点をフランスに移しているアルジェリア人の音楽家もおり、代表的な存在としてはグルノーブルでグナワ・ディフュジオンを結成した国民的作家カテブ・ヤシーンの息子、アマジーグ・カテブやラシッド・タハなどが挙げられる。


■映画
アルジェリア出身の代表的な映像作家としては、モハメド・ラフダル・ハミナ、メフディ・シャレフ、メルザック・アルアーシュなどが挙げられる。


ハレド
ハレド(Khaled Hadj Brahim, 1960年2月29日オラン - )はアルジェリアのライ歌手。「ライの王様」と呼ばれる。シェーブ・ハーレド(Cheb Khaled)とも呼ばれる。10代前半から既に円熟した歌唱力を持ち名声を博す。1980年代にはアルジェリアの国民的歌手となる。 1988年10月のアルジェリア暴動は、彼のヒット曲『El Harba ouine』が若者を刺激したのが一因といわれる。

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アリ・サイディ=シエフ
1978年3月15日 - は、アルジェリアの陸上競技選手。アルジェリア北東部のコンスタンティーヌ出身。2000年シドニーオリンピックの5000mに出場。13分36秒20の記録でエチオピアのミリオン・ウォルデに次いで銀メダルを獲得した。

アプレイウス
Lucius Apuleius, 123年頃 - ?は、北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家。奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した。代表作である「変容(または黄金のロバ)」は、ローマ時代の小説中、完全に現存する唯一のもの。

ヤスミナ・カドラ
Yasmina Khadra1955年1月10日 - はアルジェリア出身の作家。現在はフランス在住。「ヤスミナ・カドラ」はペンネームであり、本名はムハマド・ムルセフール(Mohammed Moulessehoul)。作品は25ヵ国以上で出版されている。初期は推理小説を書いていたが、やがてイスラーム世界の問題を題材とするようになる。小説 Morituri は、テロ事件での体験をもとにしているが、事件当時の記憶が1ヵ月近く欠落しており、どのように執筆したかを覚えていないという。

アブド・アルカーディル
1807年 - 1883年、フランスによるアルジェリアの植民地化に抵抗した人物。アルジェリア民族運動の父とも評価される。1807年、アルジェリアのゲトナ村で生まれた。祖父・父親マフィ=エディンの代からのスーフィー教団の指導者であった。1830年よりフランスによるアルジェリア侵略が始まると、フランスに対するジハードを宣言し、16年間の長期にわたる抵抗を続けた。当初、外人部隊は彼を憎悪の対象とみていたが、飽くなきその闘争心からやがて敬意と畏怖を持たれるようになっていた。なお、パリにある廃兵院には彼の肖像絵が飾られ、その扱いが歴代フランス陸軍将軍と同列であることは、彼の評価の高さを物語っている。

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バルバロス・ハイレッディン
Khair ad Din、ヨーロッパなどではハイレッディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa) 1475年 − 1546年7月4日)は、オスマン帝国の提督。「バルバロス (赤髯、またはバルバリアの王の意)」と呼ばれ、ヨーロッパ人からおそれられた大海賊。1538年のスペインとのプレヴェザ海戦の勝利を導いた。1516年、兄弟は、当時アルジェを支配していたスペイン人からアルジェを奪ったものの、避難したスペイン人達はペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラに篭り、カール5世の支援を求めた。しかしアルジェを取り戻すことは出来なかった。

フランツ・ファノン
(Frantz Omar Fanon, 1925年7月20日 - 1961年12月6日) は、植民地主義を批判し、アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家・精神科医・革命家。ポストコロニアル理論の先駆者としても認識されている。フランスの植民地であった西インド諸島マルティニークのフォール・ド・フランスの出身。父は黒人奴隷の子孫、母は混血の私生児で白人の祖先はストラスブール出身であった。

ルイ・アルチュセール
Louis Pierre Althusser, 1918年10月16日 -1990年10月22日は、フランスの構造主義的マルクス主義哲学者。フランス共産党を内部から批判すべく、『マルクスのために』、『資本論を読む』を著し、マルクス研究に科学認識論的な視点(認識論的切断や徴候的読解)を導入した。アルジェリアに移住したアルザス出身、カトリックを信仰する家庭に生まれる(ピエ・ノワールの家系)。

 

 

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ジャメル・ジダン
Djamel Zidane、1955年4月28日 - は、アルジェリア出身の元同国代表サッカー選手、ジネディーヌ・ジダンの叔父。1980年代のアルジェリアを代表するサッカー選手。1982年6月16日のスペインW杯1次リーグ初戦において当時のヨーロッパチャンピオンの西ドイツを2-1で下す大番狂わせを演じ、旋風を巻き起こした時の選手の一人である。

 

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ジャック・アタリ
Jacques Attali, 1943年11月1日 - は、フランスの経済学者、思想家、作家。アルジェリアの首都アルジェ出身のユダヤ系フランス人。パリ政治学院卒業。経済学国家博士。初代欧州復興開発銀行総裁。フランソワ・ミッテランの側近中の側近で81年から91年まで大統領補佐官。91年から93年まで初代欧州復興開発銀行総裁。指揮者としてオーケストラを指揮したこともある。

 

サリム・アラシェ
(Salim Arrache、1982年7月14日 - )は、フランス・ブーシュ=デュ=ローヌ県・マルセイユ出身のサッカー選手。アルジェリア代表である。ポジションはMF。アルジェリア代表 2004年4月28日中国代表戦でデビューし、ブルキナファソ代表戦で初ゴールを記録した。

 

ジャミラ・ブーパシャ
1935年 - )は、アルジェリアの独立運動家。愛称はジャミラ。アルジェリアに駐留するフランス当局から非人道的な拷問を受け、これに対する抗議運動によってアルジェリアでフランスが行っていた人権蹂躙が明らかとなり、アルジェリア独立に大きな影響を与えた。

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