長月/9/September
悪代官と御用商人 危険な原発施設を疲弊した地域を狙って地域ごとお金で買収するようなやり方は、暴力をお金に置き換えただけで本質は一緒です。住民に十分な知識を与えず、都合のいい情報で洗脳し、お金の力でとどめを刺すようなやり方はどう考えても民主国家のやり方ではありません。 福島原発事故から半年以上がたって相変わらずのプロパガンダや事実隠蔽が巨費を投じて現在もなされていますが、原発事故終息へのめどはほとんど立っていない事実を見ても、原発事故がもたらす被害はあまりにも広範囲で予測がつかないものだと言う事ははっきりしています。過去に分からなかった被曝から起こる病気との因果関係も徐々に分かりつつある時代にあって、時間を稼いでごまかそうなどと言う魂胆は浅はかと同時に被害を大きくする意味で犯罪的行為です。原発の御用学者が「放射能なんて大した事ありません」とか「基準値以下だから大丈夫です」とか無責任な事を真顔で言う神経はさっぱり分かりませんが、本当に確信があるのなら、自ら福島原発に家族を連れて行けばいいと思います。 しかし実際は自分たちは安全な場所で安全なものを食べてのうのうと暮らしているのだから、腹立ちは倍増します。本当に東電や政治家、学者の中には刑事告訴するだけの理由がある人間が幾人もいます。放射能被害についてはすぐに結果や因果関係が露呈しないからとタカをくくっているのでしょうが、罪もない子供たちの先々の健康被害を考えると、あなたたちそれでも人間かと怒りと情けなさの混じった気持ちになります。
直感とヒューマニズム おそらく潜在意識の中にある知識や体験がその直感をもたらすのでしょうが、その多くはヒューマニズムと言う引出しに入っているような気がします。児童文学作家の松谷みよこさん。60年に渡って人間味あふれる作品を書き続けておられる松谷さんが朝日新聞紙上で福島原発事故について話された言葉はまさにそれだと思いました。 松谷さんは原発について「原発ができ始めた頃から、私は怖い怖いと言い続けてきたんですよ。何がどうなるからと言うんじゃなくて、原発の存在自体が怖いと。今回のように一度何かあったら何十年も取りかえしのつかない事になるわけでしょ。特に日本は小さいですからね。海に流れればどんどん広がっていくし。今すぐ目の前で子供たちが倒れるわけじゃないところが怖いのよ。「大丈夫」「いや大丈夫じゃない」なんて言ってるうちに時間がたって汚染されちゃう」松谷さんの言葉はまさに日本の現状そのままではありませんか。実際にチェルノブイリに行き被曝した子供たちを訪ねて感じた思いをこう語っています。「何年たっても行き場がない。子供たちの悲しい目や病院の風景が今も浮かんできます。本当につらかった」ヒューマニズムがあれば理屈抜きで分かる事、理屈抜きで判断出来ることはあると思うのです。
人間としての土壌づくり 物理的な移動はたしかに自由かも知れませんが、例えば職業、経済、宗教的なものであったり、家庭的な価値観、地域的な土壌、人種や文化、歴史的な背景など見えない壁、境界線はそこここにあって、気もつかずに突破できる境界と意識してあえて踏み越えなければ入れない世界も多々あります。そんな事はあえてしなくてもいいではないかと思う人もいるでしょうが、人間性を少しでも高めようと思う人にとってはとても大切な事だと思います。 何かを創造したい、人に愛されたい、人を愛したい、幸せになりたい・・・だれであっても根源的な思いはそう変わらないと思います。もしそうであるならば受動的な生き方ではなく社会と言う広野を出来る限り動き回って体得する事は不可欠な要素です。文学を読んだり映画を観たりして想像力や知識を培う事はできますしそれも大切な行為ですが、自らが動いてそのポジションに立たなければ分からない事、見えない事は明らかにあってそれが人間としての考え方、行動力に大きな影響を与えます。 相手の生きて来た軌跡や今のポジションを理解出来なければ深いコミュニケーションは作れませんし、それがなければその上に人間的なものは何も積み重なりませんから、創造とか愛とか幸せとほど遠い生き方になります。積み重なるのは年齢と偏狭さなんて事になれば回りにいる人間にとってはあんまりと言うものです。 職業1つとっても仕事によって視点や考え方は随分と違います。若い頃20ほどの会社や職種を転々として分かった事ですが、職種や会社によって労働や人間に対しての評価がまるで違っていて悩みもしましたが、あまりの違いに笑ってしまった事もあります。こんな会社にずっと入れば人間性そのものが無くなってしまうと言う会社もありましたし、短期間で自然のすばらしさや労働の厳しさと同時に働く事の意味を学んだ仕事もあります。 立つ位置によってこんなに社会は違った風に見えるんだと言う事は幾度か実感しました。現実の社会だけではなく同じ音楽を聴いても絵を見ても本を読んでも映画を観ても感じ方や受け取り方が人によって違うのは同じような事が言えるのではないだろうかと思います。 その人がどれだけ多くの視点を持っているかが感受性そのものの中核をなすと思うからです。そしてその感受性を培うのが体験、もっと正確に言えば体験と本や音楽などから得られる知的エッセンスとの相互作用だと思うのです。少なくともセールスマンを体験すればセールスをやってる人の気持ちやその背景が分かります。居酒屋で働けば何がしんどくてどんな客が嫌なのかが分かります。全ての職業にはそれぞれ独自の視点があって、その立場になってかいま見るだけでも少しは人の気持ちが分かるようになります。想像力の素が1つ得られます。 ちょっと見れば社会は平面上にあらゆる職業や会社や人間が垣根なく点在しているように見えます。でも少し目を凝らせば感じの悪い柵があちこちに見えて来ます。前述した職業的な柵、お金や地位による柵、年齢による柵、男女の柵、各家庭の柵・・・ありとあらゆる柵が見えて来ます。 柵の向こうとこっちを行き来する人が増えれば必然的に柵など消え失せるのだろうけど、実際はこの感じの悪い柵は増え続けているように見えます。家庭の中身は空虚で崩壊しているような家族が増えているけど、家庭と言う体裁だけは取りつくって柵を作ります。学校ではグループと言う柵を作って人間を小さくする傾向が増えています。 社会では職業と言う柵を作って異業種の人間とはコミュニケーションも取れません。さらに同じ職業であってもより特化した狭い場所に柵を作ってしまいます。そして行き着くところは自分自身だけ入れる柵を作って身動きもできなくなります。柵の外に出られない入られたくないものだから柵ごと動こうとしますから、回りの人間は怪我をします。そんな笑い話のような事が現実に増えていて、その原因は体験の少なさ、視界の狭さ、視点の硬化にある事は明らかです。 社会に出ていろいろな職業を体験する事は簡単に出来る事ではありません。リスクが大きすぎますし、能力的にも出来る事は限られます。ですから、生活のリスクが少ない、若い頃、学生時代には出来る限りの場所を移動し、出来る限りの人と話をし、アルバイトでも手伝いでも出来る限りの職種に接する事が非常に重要な事だと僕は思うのです。その時、その時代にしか出来ない事は確かにあります。体力的、経済的、時間的・・・制約と抵抗はどんどん増えます。 逆に言えば年とともに増え続けるリスクや束縛への抵抗力をつけるためにも若い時代に生き方の軌跡を自由と言うキャンバスの中に思いっきり描かなくてはならないと思うのです。直線あり、曲線ありの変化に富んだ絵を描くためには思い切った行動しかありません。将来において縦社会、横社会を自由に行き来するためにも、無数の柵を自然に通り抜けるためにも、そして何よりも人を愛し、他者を理解し、創造的な生き方をするためにも1つ1つの小さな体験を積む事は大切な事だと思うのです。
ネット上に存在するウェブサイトやページ数は? 別にそれを知ったからと言ってどうこうはありませんが、人間の脳に存在する神経細胞の数が1000億個と言われているので、巨大な地球と言う脳の神経細胞のような気もします。情報網が画期的に発達した現代においてはネット網が出来なかった時代とは比較にならないほど「何かを知る」ことは出来ます。 しかしならばその知り得た情報が生かされているかと言えば、そうでもない面もあって考えてしまいます。結局「知ること」と「心が動く」事が連動する人は少なくて「心が動いても」行動に繋がる人はそのまた少数です。それでも圧倒的な情報量は過去の時代と違って、じわじわと人間の意識を変えて行くのは予測出来ます。それが吉と出るか凶と出るか分かりませんが、善くも悪くも知らないより知った方がいいのではないかと思いますが、「何をどう知るか」無数にある情報の真偽のエッセンスはやっぱり個人の精神的土壌や感性に依存するのもまたいたしかたないのかも知れません。
脱原発への小さな波、明治公園での5万人集会 それでも原発の問題は闇に葬れるようなものではありませんから、1人1人の小さな意志が必ず正しい道に民意を収束させていくだろうと思います。脱原発の集会を呼びかけた1人、大江健三郎さんの訴え「原子力によるエネルギーは必ず、荒廃と犠牲を伴う。私たちはそれに抵抗する意志を持っていることを、政党の幹部や経団連に、デモで思い知らさねばならない」と言う言葉はその通りだと思いますし、全国で意を同じくする多くの人があらためて意を強くしたのではないでしょうか。 原発の問題は人道的な問題だけではなく、経済や社会構造そのものを歪めて来た超巨大な「悪」です。人間が命を大切に思うなら、幸せを望むなら、愛する人の事を思うなら、全ての人が自分の生き方の優先順位のまっ先に置かざる得ないような問題です。 これは政治の問題でも環境の問題でもエネルギーの問題でもなく、人間としてのヒューマニズムの問題です。生と死を見つめる宗教家も、心を説く哲学者も、子供たちを導く教育者も、病気と闘う医者も、子供を大切に思う親も、妻や恋人を愛する人も、芸術や動物を愛する人も、おもしろおかしく生きている人も、人間であるならば無関心でいれるような問題ではなく、傍観出来るような問題ではない事は分かるはずです。今意識ある人たちが懸命にやっている脱原発への思いが小さな波から静かな海のごとく共通の思いに満たされた時、日本は本当に豊かで人間らしい社会への道を歩みだした時だと思います。
核の抑止力と言うけれど 国境を持たないテロリストに対して報復が出来ない以上自国が核を持つ事が抑止力にはなり得ないからです。かって核兵器開発を進めて来たアメリカやロシアの高官さえ核の抑止力の時代は終わったと認め、いかにして核廃絶を進めるかに焦点は移っています。石破政調会長の発言は原発の欠点と過去の嘘が次々と発覚して、原発を擁護する理由がほとんど見つからない中、こんな浅はかな事を出して来たのだと思いますが、正直に言えばいいと思います。「俺たちの利権構造を維持するためには原発は必要なんだと」 もう原発を存続しなければならない正当な理由はありません。ましてやプルトニウムを持っているからと言って核抑止力どころか単に大きな危険を抱えているだけです。これだけの事があって、正しく認識出来るだけの事実が表面化して、いろいろな角度からの検証で、原発は無くすしかないと言う結論がでているのに、今さら推進も反対もありません。 日本の未来を思うなら、子供たちの明日を思うなら一刻も早く廃炉への道筋を立てるべきです。一基を廃炉にするだけでも数十年と言う時間がかかり、費用も膨大です。それでも続けるリスクを考えれば決断出来るはずです。他のエネルギー政策を本格的に始動させれば原発が生み出して来た雇用や産業への寄与がいかに小さくて逆に経済の足をどれだけ引っ張って来たかがまた明るみに出るでしょう。
見失ってはいけないもの、見つけなければならないもの 何があったんだ?と聞けば結婚して子供が出来て、家を買って車を買って云々。でもなまさかそんな事で、自分の信念や夢や価値観が変わるなら、それはあの時ペラペラと喋っていたお前は明らかに話を合わせていただけじゃないか。人生、どうしようもない事もあるから自分を曲げてぐっとこらえて生きている友達もいるけど、本当に苦労をしてる人間は本質は全く変わらず、隙あらば現状さえ乗り切ればまた学生時代と同じようにやるぞと言う気概は持ち続けています。 10年20年で変わってしまった学友は結局もともとそう言う質なんだと言うのが、結論なんですが、あまりにももったいない生き方です。そんな人間が女性を愛し子供を育てられるのかと言う疑問は大いにありますが、見失ってはいけないものを見失えば人間は軽く情けなくなるし、見つけなければならないものを見つける努力をしなければ人間は浅く小さくなります。それでも軽く情けなく浅く小さくなればなるほど、ふてぶてしく、高慢になって、「これは一体どうしたことなんだ」と思うような人間は少なくなくてのうのうと生きています。 他者の苦しみや世の理不尽なんか自分に直接関係なければ対岸の火事どころか、太陽系外の出来事のようで、本当に人間、いや地球人だろうかと言う疑問さえ起こります。年輪をへて多くの体験を踏んで、気づく事、反省する事、再考する事は限りなくありますが、年とともに見つけられる真実のかけらも幾つかあって、智慧は少しづつ積み重なります。 見失ってはいけない大切なものの上にそれらが積み重なって始めて意味のあるものですから、根底を見失えば、一体その後の人生は何なんなんでしょう。「親父とは話せない」と言う若者が多くなっているけど本当に自分の父親を批判的に見るのなら「失ってはいけないもの」をきちんと大事に持ち続けて、見つけなければならないものを1つでも多く見つけて親父とは違う生き方を目指して欲しいものです。
未知数の除染費用と中間貯蔵施設建設費80兆円 当然政府と東電、関係企業が負担すべきですが、国民の税金に跳ね返って来るなら道理の通らない話です。政府は福島県内に中間貯蔵施設をつくる方針ですが、現状の汚染土の仮置き場にさえ困っている福島の現状を考えればどうするのかと言う疑問は大きくなるばかりです。 巨額のお金と解消しない危険性を伴う原発。除染の問題1つ見ても、原発を続けるのはまともな神経ではあり得ないはずなのに現実に目を背け反省もなく原発を動かそうとする人たちの神経はどうなっているのでしょうか。原発の発電経費が破格に高くつくと言う事実はある程度露呈しましたが、現実日本経済の病理は原発の負の要素がかなりの部分占めていると思われます。 日本経済を失速させて来た元凶である可能性が高い原発。福島の復興、日本経済の活性化と地域や企業の健全化のためにも電力会社の原発にまつわる闇の部分をもっと明るみに出さないと行けないのではないでしょうか。経済被害や健康被害はもとより人間の心を疲弊させるような発電方法から一日も早く脱却したいものです。
今この時期にF2戦闘6機の修理に800億 パイロットの訓練用のF2戦闘機6機の修理費1090億。復興のために尽力している人々の気持ち、経済的問題などで避難したいけど仕方なく放射能の危険をしいられてる人々の気持ちを思うと余りにもかけ離れた感覚です。いま国難とも言えるほど大きな問題を抱えている時期にそんなお金があれば全て復興にまわせと、誰でもが思うはずです。戦闘機6機の修理費でどれだけの人が助かるでしょう。まず防衛省は国民を防衛しなくては行けません。一体誰を防衛するためにその省があるのか、ほんと情けなくなります。パイロットの訓練は他の基地や米軍基地で行っているそうですが、それでいいではないですか。
人はやっぱり心意気 三宮で一時代を築いたお父ちゃんは働き過ぎと遊び過ぎと飲み過ぎでどう見ても体のあちこちガタが来ているのですが、奇妙な精神力で仕込みから掃除、料理から洗い物まで1人でこなしています。「ぶっ倒れているんじゃないかと心配してたよ」と言うと「引退も考えるけど、元気のためにはこれやってる方がいいからね」とさくさく料理づくり。量があって何を食べても美味しいのだけれど時々「これ食べて〜」と勝手に出される心遣いの料理が胸にしみます。 多くの学生や若者がこのお父ちゃんの心意気に打たれて健全?に育っていい大人になっていて、遠く離れた場所からひょこっと顔を見せにやって来るような店。そんなお店がどの町にも1つや2つあったものですが、まさに絶滅危惧種のように減りつつあります。「おやじさん、おあいそ」と隣の中年の客。「ええと、2800円」客が一万円札を渡すと「おつりがないから細かいのだして」「あるだけでいいから」「なかったらいつでもいいから」と追い打ちをかけます。 相変わらずの応答です。隣の客は「ほんならもう一軒ちょこっと飲んでくずして来るから待っといて」「今日でなくてもいいから」客は出て行って30分足らずで戻って来て「ビール一本だけ飲んで来た」と言って3000円を置いて帰りました。料理も会計もアバウトで「お金だけじゃないんだ」と言うお父ちゃんの心意気。「おつりはいいよ」と言う客が多いこの店は客もまた同じ心意気なのです。
感性と心 いくら言葉を尽くしても手本を見せてもそれらの事は自ら感じて自ずと出て来るものです。頭で理解出来ても心で感じないと身につかないもの。感性と心は同じものだと思います。心ある人は感性があるでしょうし、感性があれば心やさしくなるでしょう。美的感覚、音楽的感覚、文学的感覚、科学的感覚、道徳的感覚、感覚が必要なものはいくらでもありますが感性とはそれら全てに通ずる感覚です。まさに心そのものです。 ある程度技術や知識が身についてもこの「感性」がなければその向こうはありません。若い時の一人旅、友人、怪我、恋愛、失恋、挫折、絶望、希望、そして苦悩。文学の一節にはっとする時もありますし、広大な風景に想う時もあります。月や太陽を見上げ、さまざまな動物達と関わる事。友人の一言にガクッと来る事もありますが、全ては感性を養うための、心を練るための訓練のようなものだと思います。僕も若い人たちには友禅の職人さんと同じ事を言い続けて来ましたが、それは僕自身いつも自分に課している事です。 物理であろうと天文学であろうと絵や音楽であろうと豊かな感性がなければそれをダシに食べては行けるかも知れませんが、その向こうはありません。今回の重大な事故を引き起こした原子力関係者の中には東大の教授から政治家から資本家などたくさんの人間がいますが、共通しているのは「感性が乏しい」人間である事です。 少しの頭と少しの想像力さえあれば人間としてとても出来ない事を平気でやってしまう心の貧しさ。いろいろな分野で感性豊かな人が1人でも多く育って欲しいと祈るような気持ちになる時があります。そのために若者は夢と好奇心を持って色々な事象に関心を持ち、あらゆる事にチャレンジして欲しいなと思うのです。若い時にしか得られないものはきっとあるはずです。
同時多発テロから10年、人の命への尊厳は何時になったら回復されるのだろう 大国アメリカもまた経済や軍事力で問答無用の政策を行って来た歴史。正義と言う名の下に確たる根拠もなくイラク戦争を始めたアメリカの体質。アフガニスタンとイラクでのアメリカ兵士の死者は6000人を超えたと今朝の新聞に載っていましたが、2006年に発表されたイギリスの医学誌ランセットは2003年3月から2006年6月までの戦争に起因する状況の変化、戦闘やテロ、治安悪化などで死んだイラク人は65万5000人だとするアメリカのジョンホプキンズ大学の推計を発表しました。テロとは無関係な人たちの死。その数は余りにも多く残酷です。 当時ブッシュ大統領が戦争の口実として何回も繰り返して使った「ジャスティス」。正義と言う言葉の意味さえ失われかねない、現実との差です。あまりにも多過ぎる犠牲者。そんな事を考えていたら日本の自殺者数が1998年以来、13年連続で3万人を上回り30数万人と言うものすごい数の人たちが自殺していると言う日本の現実もあまりにも異様です。欧米先進国と比較すれば突出して高い自殺率で、平和国家を自認する国とすればこれは明らかにおかしい事態が続いていると考えるしかありません。 現在国民が脅かされている見えない放射能と同じように見えない社会の病巣が弱者を襲っているとしか思えませんが、その原因はもちろん国そのものにあります。そして結局国民1人1人のエゴイズム、他者、外部に対する無関心に起因する事も間違いありません。理不尽な暴力で殺されるのはあまりに非人間的で許しがたい行為ですが、見えない圧迫で人を追い込んで行くような状況を作り出す社会もまた非人間的な環境だと思うのです。
政治家の人相 他者への思いやり、高邁な思想を持っていたら友人が言うようにあんな人相にはならないだろうと僕も思います。他の職業と違って政治家とか教師とか医者や弁護士は人を思う気持ちが人一倍なくてはならないはずですが、聖職とも言える職業を目指す動機が不純で間違っているからこうなっているのだとも思います。 純粋な学問の土台にヒューマニズムがあってこそ知識や技術は生かされますがその辺の教育が戦後から長きに渡って疎かになっているのは否めない事実です。「人間はどうあるべきか」みたいな当たり前の哲学すら練られることもない教育現場が多い中、理念や道徳心に欠けた人間が増えて行くのは当然の事かも知れませんが、それは間違っていると思います。他界した母が時々に言っていました。 「人間はある年から自分の顔は自分で作って行くものだよ」人間の内面は見えない部分もあるけれど表面にはっきりと現れる部分もあります。一見変な顔だちなんだけど、味わいがあって何とも魅力的な人がいますが、まさにその人の人となりが顔や姿ににじみ出ているのだと思います。国を代表する人間として世間や海外にも露出する事が多い政治家は特に「人相」の意味を考え肝に銘じて欲しいものです。
見える見えない、中身と外身 先日三宮の輸入食品店でドイツのシリアルとフランスのチョコとオーストリアのブルーチーズ、イギリスのクラッカーを買いましたが、値段は日本の商品と同じようなものですが、デザインも味も明らかに美味しくて量もあります。シリアルは透明の薄いプラスチックの袋にざっくり入っているだけですし、クラッカーは紙箱を開けたらこれまたばさっと入っているだけで小包装など過剰包装に慣れているので「おやっ」と言う気がしました。 日本のメーカーのシリアルなどは派手な箱に入って中にまた袋があって、箱は大きいけど中身はちょっとしかなくてみたいな感じで、ゴミばかり増えるのですが、ヨーロッパの意識をを見習わなくては行けません。美味しくて質もよく、包装もきれいでしかもシンプル。イメージも大事だけれどやっぱり食べ物も人間も中身がもっと大事なのは同じ事で、それは色々な事に通じるような気がします。
何を信じればいいのか、でもとにかく真実を知る努力はつづけよう 停止すべきは「原発」であって人間の思考が停止してはどうにもなりません。長期にわたって既得権益にまみれる中で人間があらねばならない姿を完全に見失った心理構造は極めて偏狭で強固なものだとあらためて思いますが、何としてもそのような人間を排除しないと結果苦しむのは一般国民です。 今回露呈した原発をめぐるさまざまな問題は明らかに悪で、道義的責任は当然の事、推進に関わって来た主たる関係者は刑事告訴されるべきです。福島の人々のやるせない怒りと全国のこころある人たちはとにかくこのような事態を招いてまだ反省のない国と東電を糾弾しなければ民主主義でも法治国家でもありません。 不安一杯の中何とか漁を再開しようと必死の努力をしている漁師の人の言葉「国はちゃんと汚染の説明をしない。何を信じていいか分からないけどやんなきゃいけないんだ」1.5京ベクレルの放射能に汚染された海が何ともないわけがありません。国は海水とあらゆる魚介類の調査を克明にし、現状と今後の見通しをちゃんと漁師さんに説明しなければならないのは責務であって、曖昧にして責任を先延ばしにするような姿勢は更なる被害をもたらす事は明らかです。
楽観出来る要素はどこにもなくて 東電が賠償支援機構に24億円を出資するとの話がありますが、額が少な過ぎる事と行動が遅すぎます。明らかな「人災」である原発事故当事者の責任感の希薄さには呆れ果てますが、そんな体質が直らない限り被害は増え続け、新たなる事故がまた起こります。除染作業が各地で行われていますが、行き場のない汚染土砂を東電本社ビルの中にでも押し込みたい衝動に駆られます。いまだ安全を繰り返している御用学者や政治家、経団連の連中の家の庭に除染で行き場のない土砂を積み上げれば彼らも少しは目が覚めるかも知れませんが、加害者であるに関わらず被害者の苦しみを感じもせずのうのうと生きている無神経な人間。原発問題は原発の危険性とともに、そのような無神経な人間の危険性も同時に問われなければなりません。
久々の晴天 国防や戦争をあおるような事を言う人間もいまだにいますが、永久平和を貫く使命を日本は持っているのですから、戦争とは逆の救命に国力を注ぐべきだと思います。青い空に救助マークの入ったカラフルなヘリや輸送機が飛び交う光景が世界中のメディアに流れれば、どの国も日本を見習おうとなるやも知れません。
自衛隊をレスキュー隊に 敵から見つかりにくい迷彩服ではなく被災者が遠くからでも見つけれる黄色やオレンジのレスキュー服であれば被災者はもっと安心するだろうにと思います。救助に特化したヘリコプターや上陸艇の開発、サンダーバードではないですが今の日本の技術力ならあらゆる救助機械や装置を作る事は可能です。 屈強な隊員が救助の専門的知識と訓練を受け、最新の装備で救助に当たればどれだけの命が助かるだろうと想像せずにはいられません。せめて5000人ぐらいでも特別チームを作れないものだろうか。国際救助隊のような組織ならばいろいろな分野の若者がもっと集まる事は確かです。 科学者や機械メーカーも人命を助ける目的なら気持ちの入り方も違うはずです。原子力の平和利用は問題があり過ぎますが、ヘリコプターでも戦車でも上陸艇でも平和利用のために改造して使う事は大いにやるべきです。24万人の隊員を抱える自衛隊。せめて5000人だけでも特化して救助隊に出来ないものでしょうか。これだけ次から次へと災害が起これば同じように考える人もが少なくないような気がします。
のろのろ台風 ならばどうしてもっと危険な放射能汚染地域に暮らす子供たちや家族を何故全員避難させないのか。福島の人たちの苦悶。危険は分かっていても経済的問題やその先の仕事など暮らしの不安で避難出来ない人がいる現実に対して何故手を差し伸べないのか。補償問題は国と東電の責務です。 現状の動きを見ていると、広い地域の避難を実施すれば莫大なお金がかかる事、そして国民の意識がより放射能被害の深刻さに向かう事、結局それは東電や国の施策の責任を問う声が高まる事ですし、必然的に原発の危険性を深く認識する事に繋がります。国や東電はそれを恐れているのでしょうが、それは余りにも非人道的と言うものです。国民が納得出来るだけの調査をし、データを公表し、世界が納得出来るだけの科学的根拠を持って被曝問題には対処しなければ、取りかえしがつかない事になる事だけは分かっているのですから。
ブラックジャックの怒り 金儲け主義への怒り、権威主義への怒り、暴力への怒り、全体主義への怒り、勇気無きものへの怒り、事なかれ主義への怒り、えせ科学者への怒り・・・ブラックジャックの愛と苦悩・・・人間としてのプライド、人間としての悲しみ、弱者への慈しみ、科学力と自然力との葛藤・・・ブラックジャックが何故に高額な報酬を取るのかあるいは報酬を全く受け取らないのか、子供でも分かるこの真意を医学界のみならず全ての科学者、特に原発推進に組する御用学者と呼ばれる人たちはもう一度考えてちゃんとした科学者に立ち戻ってほしいものです。何よりも前にまずこころある人間である事、ヒューマニズムの習得はすべての人間の必須科目なのですから。
もう戻れない、過去と現実と未来をも奪った責任 2時間の一時帰宅の中で何人もの人が「もう戻れないでしょう」と口にしたそうですが、家が残っているから帰れると思っている人もいる中「なんで国も県も町も、もっと早く(住めない)と言わねえんだ」「こんな放射能じゃ無理だ」と言った住民の言葉が重いです。明らかに予測出来る事があるのに曖昧にして時間稼ぎをすれば実際の放射能被害も精神的ダメージも深くなるばかりです。原発事故の責任は国と東電と原発を推進して来た関係者全員にあります。 被害は想像を絶するものですが、被害者を補償すべき責任がある組織、人間も五万といます。故郷を奪った罪、高濃度の放射能をまき散らしてしまった罪、せめて早急に(住めない)事実を公表し、関係者は全ての私財をなげうって、全面的救済に向かわなければ、人間ではありません。2時間あまりで同行した記者が浴びた線量は84マイクロシーベルトとありました。ドイツのTV局ZDFの取材で明らかになりましたが、市民放射能測定所の検査では原発から60キロ離れた伊達市のシイタケから7000ベクレルのセシウムが検出され検査技師が「これはもはや食べ物ではなく放射性廃棄物です」と答えました。行政はなぜきちんとした調査をしないのか、何故子供たちを避難させないのか、海外メディアに「これはもう文明国のする事ではない」と非難されている事実を国民全員が自覚しなければなりません。
しのいだ「節電の夏」ではなくもともと過分にある電力 今回の事故は多くの心ある人々の意識を目覚めさせました。欧米に暮らす日本人が海外の意識や情報を流したり、小さなメディアや出版社が表に出ない情報を開示してくれたおかげで、テレビ新聞しか見ない人々にもある程度の真実と危機感は伝わっている気がします。欲得だけの原発関係者が起こした福島原発の現場では何の罪もない作業員の方達が毎日被曝しながら作業を続けている現状。30日の新聞にも「福島第一原発の作業員3人が計画外のベータ被曝をした」との記事があり、隠蔽体質の強い東電の発表ですから実際はもっと悲惨な事が起こっているのではないかと疑ってしまうのは致し方ありません。とにかくあらゆる断面をどう切り取っても科学的にも人道的にも経済的にも認められる要素が1つもない原発はとにかく全廃するしかありません。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。