文月/7/July
映画「ちいさな哲学者たち」 そしてセーヌ・エ・マルヌの幼稚園のアトリエで実験的に行われている子供たちの哲学の授業を知り2台のカメラを持ち込んで2年間に渡りその授業を撮影したのがこの映画です。多種多様な人種と民族の可愛い幼稚園児が小さな教室で「愛とは?」「自由とは?」「豊かさとは?」「死とは?」と人間としての根源的な疑問に対してゆっくりと、深く考え、1人1人が自分の言葉で語る様子は驚きと同時にやっぱり子供の可能性は無限なんだと思わせるものでした。哲学とは考える事。考えるとは対象を理解する事。理解するとは反目と共感を繰り返しながら調和すると言う事。映画を観ていてそう思いました。 幼稚園児に哲学を教えると言う画期的なフランスの試みですが、教育に対するフランスの熱意が伝わって来ます。最初と惑い気味だった子供たちが授業が進むにつれ驚くような考察と意見を述べる姿を見てるとこの2年間の授業を受けた子供たちはきっと人生の色々な場面でこの体験が役立つに違いないと確信します。「愛ってなに?」と言う質問に対する1人の子供の答えは「おなかの中がくすぐったくなるんだよ」「自由ってなに?」と言う質問に対してはある子供が「自由って1人でいられる事、呼吸して、優しくなれる事だと思う」 もう1人の子供は「自由って、そうね、監獄から出る事」何と哲学的な言葉でしょう。人間はいつも生きる上で大切な事を考える癖をつけなくてはいけない。それは人間としてのベーシックだと思わずにはいられません。人が人であって人であるための条件。それは幼い時からの問いかけ、好奇心を忘れずに成長することだとあらためて思いました。フランスのみならず日本でもこのような教育が幼児期からなされれば随分と違った国になるだろう事は疑問の余地もありません。「生きるってどういうこと?」それはね「人がみんな賢くなってやさしくなって助け合うことだよ」と可愛らしい笑顔で答えるそんな子供たちが増える事を願わずにはいられません。
核は平和利用であっても問題がある その山口さんが今から3年前の91才の誕生日に今いちばん伝えたいことの問いに対して「核は人間の世界にあってはいけないもの。平和利用も問題がある。今の技術や材料、材質では防止出来ないものがある。人類は滅亡に近づいていくのです」と答えたそうです。山口さんがまだ生きておられたなら今回の原発事故の衝撃はあまりにも心傷むものだったに違いありません。 国連本部で「3度目の被爆はあってはいけません」と訴えた山口さんの思いが自らの国日本でないがしろにされ、多くの人が被爆しつづけている現状はあまりに理不尽と言うしかありません。科学的知識を持って原発が安全だと言う人は科学者としてあまりにも不誠実ですし、犯罪者です。根拠の乏しい電力不足うんぬんのプロパガンダを行う人たちも現代の人間としてあまりにも無知で無責任だと言うしかありません。 福島原発で起こった事実と今もこれからも続くであろう放射能汚染の問題にまず真摯に取り組み、そしてもう2度と原発はつくらない動かさない、そして誤った判断ですでに作り出してしまった核廃棄物をいかに安全に保管できるかを人智をつくして考えることしかありません。90才でパスポートを取った山口さんの思い、それが日本人全員の思いとなって世界をリードして行く国にならなければ、未来はあまりにも暗すぎます。
日本の使命 原発、工業排水、排気ガス、産業廃棄物など日本が経験して来た近代化にまつわる諸問題が桁違いの大きさで進行する中国。13億4000万人の国民を抱える中国は地球環境においても世界平和においてもまさに世界の未来を左右するほどの影響力を持った国です。 日本が戦後歩んで来た道は敗戦からの経済の復興と言う意味では成功しましたが、ならば精神の復興と言う意味ではどうでしょうか。日本古来から培われて来た日本独自の精神性、自然観は経済の波とともにアメリカナイズされ消え失せてしまった部分が多々あると思うのです。アメリカにはない日本の良さ、伝統が消えてしまえば日本はただ経済に振り回される小さな島国に住む住人です。 わび、さびの感性も、独自の情緒、自然観、死生観も持たない単なる経済国家に成り下がってしまいます。果たして今の日本が隣国中国や韓国に対して何かものを言えるだけの精神性があるでしょうか。日本がもうそろそろ経済至上主義から脱し、優れた精神性を持った国として中国の変化に対して対峙、影響を与えるような立場になることが、アジアで先進を自負して来た日本の責任だと思うのです。
旅情 さて岡山駅前から知人を訪ねるために林野行きのバスに乗ると、今度はのんびりとした景色が広がります。宇野交通の路線バスに乗って一時間半、川沿いを走り山間を抜けてバスはゆっくり走るけどたくさんの景色が目に映って退屈はしません。それでも一昔前ならどんどん田舎の風景が濃くなるはずが、道路の発達で景色は大きく変わらず大自然を感じたのはほんの数カ所のポイントだけでした。田舎はどこも過疎になって、閑散としているけど道路だけは無尽に走ってどこか奇妙に映ります。便利さとは何だろう?中学時代に友人とてくてく延々歩いた田舎道の旅情は舗装された道路の下にすっかり埋まってしまったようです。
食の安全、命の安全、未来の安全 牛肉がそうならば豚肉や鶏、卵や牛乳は本当に大丈夫なのだろうかとは誰でも連想するはずです。原発事故後に大量の汚染水が排出された海は今どうなっているのか?魚や海藻などはこの先大丈夫なのだろうか?真実をきちんと調査し国民に知らせる事は国の責任で、その対応の遅れは不必要な被曝と風評被害を生むのは明らかです。 放射能汚染は一過性の問題ではありません。隠蔽やごまかしがきくような問題ではなく未来に向けて今起こっている現実を見据えなければあらゆる被害が拡大します。大切に育てて来た牛や作物。放射能汚染を知らずに牛を出荷してしまった農家の人々に何の落度も責任もありません。一刻も早くこの人災を起こした国と東電、そして関連企業が全ての農家の生計を保証すべきです。 そしてIAEAの家畜に対する報告書にある家畜の汚染を減らす対策、「餌除染」や「紺青を餌に混ぜて与える」などの有効性が確かめられた方法などの対策を早急に取るべきです。事はもう起こってしまっているのですから、真実をうやむやにすればするほどあらゆる被害が拡大します。命の安全、未来の安全のためにも放射能被害の全てに光を当てなければならないと思うのです。
人間の魅力
聡明な人 4才と2才の子供たちの手を引いて愛着ある家の扉を閉めた時に妻に「チェルノブイリの人たちもこうして戻れなくなったんだよ」と言ったそうです。幼児を育てる土地を探しながら全国の子供たちに太陽光の話を伝える旅を続けていると言う生き方。記事に掲載されていた坂上さんの写真からはヒューマニズムがにじみ出てくるようです。混迷する原子力情報の中ではありますが、放射能の怖さ、人間の未来、人間にとって本当に大切なものを1人1人が自覚を持って考えないと取りかえしのつかない事がまた起こる気がします。絶対に繰り返してはいけない過ちが再び起こりえる可能性を否定出来ないのが原子力発電だと思うのです。
ボランティアの精神 実際放射線量の高い現地へ若者が赴くなどあまりに思慮がなく無責任で、それを肯定するならまず文科省の役人と教師たちが現地に赴くべきです。放射線の影響を受けにくいと言われている50才以上の人間が行くべきであって若者を現地に送るなどと言う事はまともな人間なら口に出せないはずです。 今回の復興は自然災害だけではなく原発事故と言う人災がもたらした長期に渡って危険が続く経験のない災害です。低レベル放射線であっても子供や若者にはどんな影響が将来出るか、あのチェルノブイリの事故後の25年を見ても安易な判断など出来ようもないはずです。 文科省の方針を鵜呑みにして大学や高校の教師が被災地に生徒を派遣するような事は実際にはないと思いますが、もしあればそれはボランティア精神とはかけ離れたものです。正しい世の中にするために学生のエネルギーと意識を本当に被災地と被災者救済のためにぶつけて欲しいものです。それがボランティア精神だと思うのです。 人口密度 上野にある古いけれど落ち着けて気に入っていたホテルは閉館。同じく小さな店だけど心のこもった料理とお酒を出してくれるお店も閉店。どちらもせわしない時代の流れに逆らって営業していたのだけれど、力つきたと言う感じです。それにしてもこの暑さ、公園で伸びている人、涼を求めて飲食店に集う人、夜の東京にはあちこちに人を引きつけるホットスポットがありますが、放射能のホットスポットも点在していて奇妙な気持ちになります。
考える葦と想像する葦 過去において良識ある学者や関係者は反対を訴え続けて来ましたが放射能や核廃棄物の危険性や実際のエネルギーコストなどを国と電力会社、関連企業の巨大な力で隠蔽しつづけ、直感的に危ないとは感じていても国民の多くは原発政策にほとんど盲目的に従って来たのが今回の福島原発事故までの流れです。 今回の事故を受けての報道に関してもメルトダウンした原子炉の実態、放出された放射能の全容、汚染地域、汚染物質などに関しての情報は明らかに不足で、もう国や東電の情報をそのまま信じる人は少ないのではないでしょうか。と言っても各自が放射能測定器を持参し被曝レベルを個人が管理する事など出来ない話ですから、世論が国や関連機関、企業などのヒューマニズムを目覚めさす事しかありません。 そのためには今一度パスカルの言葉「人間は考える葦である」を肝に銘じ、知りうる限りの情報の中で1人1人が考えて明確な「考え方」を共通させねばなりません。原発の存続はどう考えても是非を問うような問題ではなく 「いかに段階的に廃炉にさせるか」 「核廃棄物をどうやって処理するか」 の問題ですし、世界有数の技術と恵まれた自然環境がある日本においては自然エネルギーの利用は「誰が考えても可能」であり、自然エネルギーの本格的稼働までをつなぐ方法は既存の火力、水力の調整、そして企業の埋蔵電力などを使えば今すぐにでも出来ると言う事も分かっています。放射能汚染の恐ろしさを知り、未来に対する責任と夢を持つなら「人間は想像する葦でなければならない」と思うのです。想像力を働かせば原発がもたらす未来はあまりにも深刻で誰1人逃げる事が出来ない問題なのですから。
マスコミとヒューマニズム 丹精込めて育て守って来た命の源である自然が汚染された悲しみと怒りは計り知れませんが、それは人間である以上全ての人にとっても同じ悲しみ、同じ怒りです。この4ヶ月多くの人が震災と原発報道に注意を傾けて来たと思いますが、大新聞やテレビなどの報道はあまりにも消極的な姿勢でメディア本来の絶対的義務である「真実を速やかに伝える」と言う立場、「ヒューマニズムに基づく」と言う立場からほど遠いものです。放射能汚染の独自調査はヒューマニズムがあれば各新聞社やテレビ局が率先して調査報告するべきで、大メディアにはそれを行える人員とスタッフ、それに資金もあるはずです。 まるで戦時中の大本営発表のような今回のマスコミの姿勢はあまりにも時代錯誤で恥ずかしいもので、実際早期の的確な報道があれば回避出来た被曝は数多くあるのではないでしょうか。被曝の被害は長期に渡るもので、5年、20年後に症状が出る確率が高いと言われています。 放射能の影響を受けやすい幼い子供たち、妊婦の方たちの「知っていれば」受けなくてもよかった被曝がどれだけあるのだろうと考えるとその責任は重大です。3月の段階ではグリーンピースの調査報告や海外メディアの報道の方が真実に近い報道がなされていたと言う事実を日本のマスコミに従事する人たちはどう思っていたのか、勇気ある一部週刊誌や個人の人道的報道をどう感じていたのかマスコミのヒューマニズムが問われます。
狭い日本そんなに急いでどこへ行く 「何のために急ぐのか?」旅行1つ例にとっても時間短縮によって失うもの気づかないものがいろいろあるのではないでしょうか。距離を感じ時間をかける事でしか得られない楽しみも旅行にはあるはずです。新幹線が全国を縦断し、高速道路が縦横にめぐらされ、移動する事は飛躍的に便利になりました。 歩いてしか登れなかった山の頂上へも苦もなく車でたどり着けます。でも地図を見て、時刻表を駆使してめぐる列車の旅でたどり着く目的地、自分の足でコツコツたどり着いた頂上は、明らかに感動が違います。そこにはたどり着く迄の過程が加味されているからです。僕には「何のために急ぐのか」と言う問いは「何のために生きるのか」と言う問いと繋がっているように思えるのです。
大から小へ 情報がすぐ手に入り、連絡が簡単につく今と、公衆電話で連絡を取り、図書館で資料を調べる時代とでは生活のリズムがあまりにも違います。当時のドラマを見ていても何事も簡単でないから、その過程があるから面白いと言う要素は確かにあります。情報も連絡もひと手間かけないと成り立たない状況においては行動は大きな要素で、その動きがストーリーの流れを面白くします。最近の映画やドラマが短絡的に感じるのは脚本や演出の問題もありますが、その辺りの社会事情が影響しているのかも知れません。 大きな紙を広げ、T定規や三角定規で作業をしていた時代、ポスターカラーや製図インクがあちこちに置かれ、鉛筆や筆などいろいろな筆記用具がところ狭しと並んでいた時代。そんな作業場は今では数少ないけれどまた復活させたい気持ちにもなります。机の上にはシンプルなパソコンがあって、それだけでほとんどの仕事をこなせる現状ですが、本当にアナログの世界を凌駕しているのか疑問が湧くときもあります。携帯端末の進歩でパソコンさえ使わないと言う人たちが増えている今、情報さえ取り出せればいいと言う感覚には危機感を覚えます。 そこには情報にまつわる情緒とか感性とかが切り離されていて、ますます淡白で短絡的な現代の風潮に拍車がかかると思うからです。人と人の関係はデジタルではあり得ないし、命の問題もデジタルでは量れません。およそ人間として大切なものはデジタル感覚とは無縁のところにありますが、デジタルネットワークのあまりの強力さにともすればデジタル万能のような錯覚が起こっているのかも知れません。この先ますます進化するデジタル環境を活かすためにもアナログ感覚は必要なものである、そんな気がするのです。パソコンも携帯もどんどん小型化し便利にはなるけれど、人間まで小さくなってしまっては大問題です。
自然エネルギーがもたらすもの 自身少しずつ原発の事を調べて事実を知れば知るほど「心ある人間ならば、原発は是非の問題ではなくいかにして無くしていくか」だけの問題である事が解るはずです。巨額のコストがかかり「高価」、核廃棄物の処理方法さえ見つからず、放射能の危険性は常にそして永遠にあって「ダーティー」、地震などの不測の事態に対して極めて脆い「危険」と言う3つの要素はもともと「解っていた」はずのものです。にもかかわらず巨額の事業を次々と進めて来た国と関連企業の策略はエネルギー問題ではなく、原発がもたらす金脈と権力への癒着以外の何ものでもありません。 地震や津波、台風にも見舞われる日本ですが、自然エネルギーを考えるなら日本の変化に富む立地は有効に思えます。海に囲まれ山があり川があり風が吹く条件は自然エネルギーのあらゆる可能性を秘めています。もしせめて10年ぐらい前に巨額の原発資金を自然エネルギーの分野に向けていたら、すでに世界トップクラスの自然エネルギー国になっていたはずです。しかし現実は愚かな原発利権のグループが自然エネルギーの芽を摘み取るような事をしてきたわけですから、国政にも国民にも大きな責任はあります。 今回のような取りかえしのつかない事故があって、やっと正気に返った多くの人々、もともと原発の危険性と非効率性を訴え続けて来た人々、今は意識ある人たち全てが正しいエネルギー政策を軌道に乗せなくてはなりません。 雇用の問題、景気の問題、そして何よりも人命と未来の子供たちのためにも自然エネルギー開発は欠く事の出来ない条件です。太陽光、地熱、風力、小水力、海洋エネルギー、バイオテクノロジーなど、自然エネルギーがもたらす産業活性効果は大きいものです。そして、自然エネルギーを開発する中で生まれる意識は科学とかテクノロジーが一体何のためにあるかをもう一度人類に知らしめてくれるように思うのです。
猛暑と節電 まぶしいぐらいの照明をしていた商業施設も照度を下げ、扇風機が活躍する企業も増えて来ました。たしかに節電意識は徐々に高まってはいますが電力の集中する都市部ではまだまだ節電出来る要素はあるように思われます。改札を始めとする自動化は人件費などの効率化を飛躍的に進めましたが、便利なもの、効率のいいものは全て電力に置き換えられています。 先日シャッターのしまったお店の前に玉葱がビニール袋に4個、5個ぐらいに小分けされて積まれていました。近寄って見れば「一袋100円」と書かれていてそばにはお金を入れる空き缶が置かれていました。美味しそうな玉葱だったので一袋手にとって100円を入れながら、これこそ省エネだなと思いました。人と人の信頼関係があれば、1人1人にモラルがあれば不必要な設備はずいぶんと減らせるだろうなと漠然と思ったのです。全ての人を疑ってかからなければいけないような時代。 デジタルの技術があればこそ全てをチェックするような事も可能ですが、それは全て電力に変換されますし、人間のコミュニケーション能力を奪う事にも繋がっています。扇風機やうちわや蚊取線香が見直される今、節電の意識はもしかしたらモノへの価値観、生きる事への価値観も変えてくれるかも知れません。
ヨーロッパの事情 アフリカや南米、中東諸国などの情報はテロや飢餓や民族紛争の断片的な情報しか流さず、その国がどう言う国なのかはマスコミに頼って生きている人にはほとんど現在の国情は分からないのではないでしょうか。そして比較的知っていると思っているヨーロッパ諸国の実情もまたマスコミはそんなに伝えていません。テレビの報道番組を見ても芸術やスポーツなど社会のある側面は分かりますが、福祉や教育、政治のあり方など国の全容が分かるような番組はほとんどありません。 映画にしてもハリウッドの映画は頻繁に放映されますが、イギリスやスペイン、ポルトガルやフィンランド、オランダの映画などはほとんど放映されず、日常においてはそれらの国の文化の香りにすら触れる事はまれです。実際ヨーロッパ各国と言うよりインドでもイランでも、奥深い文化芸術があってすばらしい映画もたくさん製作されています。 にもかかわらず日本ではテレビは言うに及ばず劇場で観ようと思っても、ハリウッドや流行の日本映画のようにロードショーもされず上映されている劇場を探すだけでも苦労すると言うのが現実です。こんな映画がテレビのゴールデンタイムに流れたら、少しは意識が変わるのではないだろうか?などと思う映画はたくさんあります。それにしてもヨーロッパの現実を何故に知らさないのだろうか?とは20年ぐらい前からずっと思っていました。自分なりに考えた1つの答えは、やはり同じ先進国を自負する日本政府としては、ヨーロッパの現実を知らしめると都合が悪いからと言うのがあるのではないでしょうか。社会福祉にしても、環境問題にしても、経済の捉え方にしても、明らかにアメリカとは違うヨーロッパの現実をつぶさに知れば国民の意識が変わってしまい、それはアメリカ的資本主義にとって都合が悪いからだと言うのが1つの答えです。 実際影響力の強いテレビは大企業がスポンサーである以上、ある種の規制や操作は容易に想像出来ます。それは政府にとっても同じ事で国民が賢くなれば政策や社会的矛盾に目が行きますし、同じ先進国であるドイツやフランスやイタリアなどと比べられたら困ると言うのもよく分かります。それでも国民1人1人が賢く正しく強くならなければこれからの時代、日本が後退してしまうのは必然です。 そろそろ理念ある政治家、道徳心のある企業家、そして勇気あるマスコミ関係者が正しい情報を伝える時期ではないでしょうか。今回の未曾有の震災と原発事故を受けてこの国の意識は少しずつ変わりつつあります。それでもマスコミを通じて流される情報は非常に断片的で偏っている現実はあります。心ある有識者や出版社の勇気ある報道のおかげで、マスコミも極端な情報操作は出来なくなっていますが、強大な力を持つ電力会社や関連企業の圧力はとても恐ろしいものです。 利権や利害だけで原発と言う破滅的な推進が出来るのだろうかと?どう考えても疑問は湧きますがそれが現実ですから、国民1人1人が正しい意識で連帯するしかありません。放射性核廃棄物の無害化はもちろん安全な保管すら出来ないと言う絶対的な事実があるのですから、原発の存続は是非を問うような次元ではありません。段階的に少しでも早く世界中の原子炉を止める事、これは今に生きる人間全ての義務だと思うのです。ヨーロッパに遅れをとるどころか日本が先陣を切って脱原発の姿勢を世界に示してこそ、日本人として誇りを持てるのではないでしょうか。
ブルーエネルギー 自然エネルギーの輸出大国を目指すスコットランドでは潮力や波力を使った発電を開発中でその可能性は大きいようです。潮の流れと波の力、日本でも早くから研究している人がいますが、自然エネルギーに対する国の支援や企業の姿勢は極めて後ろ向きでせっかくの技術やアイデアが見殺しになって来た過去は否めません。 今回の原発事故による意識変化でやっと自然エネルギーの価値と有効性に目が向いたと言うのが現状で、それでも強大な電力会社にまつわる利権やエゴイズムの根は深く、自然エネルギーへのシフトは国民1人1人の意識改革と世論なしには難しいだろうと思えます。光や風や水や地熱をイメージする「グリーンエネルギー」そして広大な海の潮力や波力をイメージする「ブルーエネルギー」これだけでも原子力発電がなくても近未来に電力需要はまかなえます。 他にバイオやまだ表に出ていない発電の方法はあるでしょうし、どう考えても自然エネルギーへのシフトにリスクや不安はないはずです。北アフリカのモロッコで巨大な太陽熱発電所は反射鏡で熱を集め蒸気でタービンを方法だそうです。太陽光も風車のシステムもまだまだ開発の余地があって、どれだけ想像力を乏しくしても自然エネルギーへの移行は可能だと思えます。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。