臆病は最大のリスク 「命」とは予測も計算も出来ない事だとつくづく思い知らされました。まさに「天命」人智の及ぶ事ではありません。事故や災難、病気など人は生きている事がリスクそのものです。 なのにあまりにも勇気のない生き方、小さなリスクすらおかそうとしない生き方は僕には奇異に映ります。そして計り知れない苦悩や絶望があるとしても自殺もまた悲しすぎます。人は永遠には絶対生きれないし、明日の身すら分からないのですから。どう生きても一回きりの人生。どんな人間にも「命」は多少の時間差はあるもののそれは限定されているものです。 好きな事をする事も、人を愛する事も大小の差はあれリスクはともないます。たとえじっとして何もしなくてもリスクはあるのです。と考えればリスクを回避する事ばかりを考えて臆病に生きる事は、最大のリスクを背負ってしまう生き方ではないかなと思ったりするのです。命も道具も使われるためにあって使わなければ道具は「無」で命は「虚無」、しかも使い方は自分次第なのですから。
見えない世界にこそ いろいろな事が次々と起こり、刻々と時は流れて行くけれど心は決して流してはいけないし、それでいて自分を一杯にしてしまってもいけない。何があっても何もなくとも心の器はいつもきれいにして、少しだけ空けておきたいものです。
心に映る風景 旅行するのは大抵平日で、旅先でせわしなく働く人々の日常に混じると遊んでいる自分に不安を覚える事すらあります。人間はその時その時の心持ちや立場で視点がいろいろ変わります。人の流れに準ずれば見える景色。逆行しなければ見えない景色。ぽーんと孤立した時に見える景色。一つの風景には多面性があります。
糖尿の自覚 この3週間飛脚のようにあちこち飛び回ったけど、寒い冬場や暑い夏場ならとてもこんなに動けなかっただろうなと思ってあらためて春に感謝。体がだるく感じて一年以上、糖尿病は放置すると失明の可能性するあると言われ、真剣に始めた食事制限や禁酒が徐々に効果を発揮し、いろんな事にハードに没頭できるようにもなってきました。 見舞いに来てくれた友人やメールで励ましてくれた人達の言葉もすごく嬉しく力になりました。完治するには一年はかかると言われたけど、何とか3ヶ月で治したいものです。大切な時間、大切な人生。自分自身との戦いに挑み続けるためにも体は大切です。
没個性社会は危険の兆候 近隣の居酒屋の中では個性的だし美味しいし値段も高くないし雰囲気もいいのになぜでしょうね?と言うと「最近のお客さんは味や情緒など求める人は少ないから」と寂しそう。確かに僕の好きなお店はここ数年で何軒か閉店に追い込まれて消えました。 代わりにどこにでもある個性のないチェーン店が乱立。これは飲食に限った事ではありませんが店も人も「個」と言うものが希薄になる傾向は社会にとって危険な事です。それぞれ異なる価値観や個性が寄り合ってこそ調和と言うキーワードが生きるわけで、没個性はそのまま意志のない社会へと反映されるからです。過去の戦争への足取りを見ると没個性化された社会が戦争の引き金になっている事が多いですし、悪い施政者や権力者はそう言う状態を意図的に作っても来ました。 ローマ時代からナチスにいたる迄、娯楽やスポーツに国民の関心を向け、深く物事を考えさせない状況を作り出して戦争へと向かわせる。今の日本はそのシチュエーションにどこか似ています。ただ情報を知る事は過去の時代とは比較にならない進歩があって、よし悪しを判断する材料は個人の手の中にもあります。報道規制されたテレビの情報はかなり偏っていますが、インターネットで世界を見ればある程度の真実はかいま見る事ができます。 でも、そう言う意味でインターネットを利用する人もまた少数派なので不安と言うか残念さが募ります。喫茶店を出て別れ際に「お酒は飲めなくても料理を食べに行きますよ」と言うと居酒屋のマスター笑顔が戻りました。
美的センスがないと言うこと 下町の風情どころかあまりの様変わりにどこの町かさえ分かりません。どうせ様変わりするならそれなりの計画で町並みぐらいは考えて欲しいものですが、ぐちゃぐちゃです。 近隣の町を歩いていて細い路地や裏道を見つけるとほっとするのは単なる郷愁ではなく生物で言う絶滅保護種のような感に打たれるからです。地方都市の主要駅とその駅前の風景がどこへ行っても同じようになってしまった悲しさ。独自の風土から来る特色も匂いも何もありません。政治家や役人、開発をする資本家に美的センスの持ち主はいないのかと思うけれど、実際考えて見ればそのような人間は多種多様な職種の中でも、もっとも少ないのが政治家、役人、資本家であるのかも知れません。
日本は先進国と言えるのか フランスやドイツで暮らした経験のある友人の話を聞くと、政治や教育、福祉、環境問題に対して日本とは雲泥の差があるようです。経済と工業技術力だけの先進国日本の実態は果たしてフランスやドイツと肩を並べる文明国でしょうか。大いなる疑問が湧きます。 日常的には海外と言えばアメリカの情報しか入らない今の環境で多くの日本人は比較する対象を失っているのではないでしょうか。何十年か前テレビで見たノルウェーの漁師家族のドキュメンタリーを思い出します。漁師を生業とするお父さんとそれを手伝う家族が、週末の夕げに家庭コンサートを開くのです。 お父さんはチェロ、娘さんはバイオリン、お母さんはピアノと言った具合です。普段の作業着からパリッした服に着替え、優しげな表情で演奏する光景に僕は不思議なものを見たような気がしました。昔北海道で漁師のアルバイトをした事がありますが、僕が知ってる限り日本の漁師さんの家でそのような光景を見た事もないですし、聞いた事もありません。個人の人生を大切にすること。人間はただ生きるために食べているのではないはずです。
なんで石原氏なんだろう? 構造改革は資本主義論理そのままに弱肉強食を促進し、ヒューマニズムとはほど遠い現実があります。JRの悲惨な事故、原発事故の隠蔽、若い人の自殺、老人の孤独死、いじめ問題、薬害問題、今進められている福祉の切り捨て、さまざまな非人間的な事件や状況の根っこは全て同じです。欧米のような人種や移民問題、宗教の対立のないこの小さな島国日本。 しかも経済力、技術力は先端を走るこの日本が全く土壌の違うアメリカを追随するのは本当に馬鹿げています。地方の衰退、都市の退廃、日本らしさが、日本の美しさがどんどん失われて行く現状を作り出しているのに、「美しい日本」をめざしてとは厚顔に過ぎるのではないでしょうか。 綱領と衰退 しかも歩きにはいろいろなメリットもあります。電車や車はもちろん、自転車でさえも見逃す場所、気づかないものに数多く出会えます。長く暮らす大阪の街にも知らない場所はたくさんあって、始めて通る道、始めて見かける家並みやお店が新鮮です。 衰退した商店街、消滅した下町の家並みをつぶさに見るのは心が痛みますがそれは現実。闇雲な経済至上主義がもたらした現実はいい部分より悪い部分が多いのだと実感するのは歩けば誰にでも分かります。 急変する街に呆然とする老人。行き場を失った野良猫。遊び場をなくした子供達。50年前の大阪を知っている僕にはある意味今の大阪こそ荒涼たる風景に映ります。人間にとって本当に大切なものは何か?街とは何か?場所とは何か?環境とは何か?疑問は湧き上がります。
三銃士は人生の指針 夕食後目には悪いけど部屋の電気を消して、50年前の子供の頃に戻り映画鑑賞です。三銃士の映画は大抵見ているのでどうかなと思いながら画面に見入ると、懐かしい記憶がよみがえってきました。たしかに子供の頃父に連れられ近所の映画館で見た映画です。 ジーンケリー扮するダルタニアンのアクションはすばらしく軽妙でストーリーも原作をぶち壊す事なく作られていてほっとしました。もしかしたらダグラスフェアバンクス主演の三銃士やこの映画を子供のとき見て、あの長い原作「ダルタニアン物語」を読破したのだろうなと振り返って思いました。その後今にいたる迄何十回となく読んだ三銃士。僕にとっては人生の指針、哲学書のような本なのです。
民主国家の恥 経済格差やモラルの崩壊、意識の低下が顕著になりつつあるこの日本ですが暴力だけは絶対に排除しなければなりません。無意識、無感覚な人が増えている中、日本の未来を憂いて様々な分野で心ある人達が懸命の努力をしているのも事実です。この事件の一報を受けた時の安倍総理の力ないコメントにはぎょっとさせられるものがありましたが、一国の首相なんだからせめて暴力に対してだけはもっと毅然とした怒りを表明して欲しいものです。
1億9000万丁の銃 部屋へ戻ってラジオをつけるとアメリカの大学で銃による無差別殺人があったというニュース。銃社会のアメリカでは繰り返し起こる惨劇ですが、報道から想像するだけで身の毛がよだつような恐怖と嫌悪感が湧いてきます。 1億9000万丁の銃が蔓延しているような国。幼稚園の子供にまで銃の扱いを教えるような国がまともであるはずがありません。自己防衛とか自己管理ができていれば安全だとか全米ライフル協会は言うけれど、誰がどう考えても凶器は凶器、そんなものがあれば相互不信は募るばかりです。そしてこの日本でも長崎の市長が暴漢に銃で撃たれたと言うショッキングなニュース。盲目的にアメリカに追随する日本だけど銃社会と戦争への加担だけは絶対にしないで欲しいと願わずにはいられません。
級友がくれたシューベルトの胸像 転校した彼とはその後会った事もないのですがあの頃から1人大人びた印象だった彼はどんな人生を歩んでいるのかなと考えてしまいます。人の縁とは本当に不思議なものです。幼い頃に引っ越した幼なじみはその後十数年会う事もなく記憶すら消えかけていたのにある画廊でばったりと再会、意気投合し今にいたる迄親友と言うケースもあります。シューベルトとの再会もまた心の奥深く眠るあこがれの目覚めかも知れません。
テレビは魔物 くだらない番組をあえて作らなければならないのは視聴率を稼がなければならないからと、制作者側は言うけれど、視聴率も取れていい番組を作る努力をしているのかどうかは疑問です。今日散歩がてら日本橋の家電ショップを覗いてみましたがテレビ画像の鮮明さにはショックすら受けます。大画面にクリアーな映像。 初期のモノクロ放送を覚えている僕には衝撃的な進化です。ハイビジョンにデジタル放送、放送技術の進化は嬉しい限りですが、番組内容が逆に退化したのではどうにもなりません。日本のあらゆる事に言える事ですが、本質を考えねばなりません。美しい映像技術に見合う中身のある番組、見た人が、子供達が少しでも感受性豊かに、心優しく、そして賢くなるような番組を作るのは放送局の義務ですし、番組制作に携わる人の使命ではないでしょうか。 グラフィックの退化と精神性 ところがグラフィックの世界に目を転じるとそうではなく街に氾濫する広告媒体などは逆に退化してるのではないかとさえ思われます。パソコンがあれば何でも表現できるだろうと思うのだけれど、電車の中吊りポスターを見てもアナログ時代のデザインに比べて見劣りするのは明らかです。 コンピューターグラフィックスの驚異的な進化を除けば何も変わっていない、逆に後退しているのがグラフィックデザインの現状で、それはよく考えれば社会、世界そのものの今の体質かも知れません。人にせよ物にせよ本質を問わない風潮。上辺だけの文化がもたらすものは一体何でしょう?
それぞれの夜
耳をすませば 澄んだ空気を胸一杯に吸い込んで、透き通った青空に無限の夜空に思いを馳せれば意識は少し透明になります。潮騒の音、森の声。耳を澄ませば自分以外の存在と命の輝きが調和を求めている事に気づきます。変えなければならない事。守らなければならない事。調和を求めなければならない事。しなければならない事が自分の器を無視して泉のように湧いてきます。
自分の身となるもの 予期せぬ事や予測できる事、自分が望む事や拒否したい事などが折り重なって一年が過ぎ去ってしまったけれど結局体を張って勇気を持って当たった事だけが新しい自分につながっています。時間の経過は誰しも一応ではなく、心理的、肉体的状況に応じて早まったり遅くなったりします。過去を変える事は出来ないけど、今生きるこの時間を操作する事は誰しも可能で、時は「虚無」から「永遠」まで無限の変容を秘めたものだと思うのです。 古いものを大事にする心 「日本て言う国はなんで古いものを大事にしないんだろ」とか「この国からどんどん芸術の香りが抜けていくね」とか「先進国ってどう言う意味なんだろう」とかビール片手に話したあの頃。昼間の居酒屋には僕たち以外にそんな連中がけっこういて時に論争にもなりました。 あれから20年、かっぱ横町はすっかり斜陽になり昼間の居酒屋からは笑い声も聞こえてきません。都心からも地方からも大切なものがどんどん抜け落ちていく今の日本。アメリカと違って学ぶべき「いにしえ」がいっぱいある日本なのに残念です。 2007/04/09 今日は母の法要でお寺参り。境内は多くの参拝客であふれかえっています。線香の煙にのって読経が境内を流れ、いつもは砂利石の上をきょときょと歩く鳩たちも今日は喧噪を避けて本堂の屋根の上。翼あるものは便利です。愛する人、親しき人を偲ぶ人達。故人に対する千差万別の思いが時空を超えてあの世迄届いているような気もします。 宗教上の形式や儀式は好きではありませんが、寺にしても神社にしても教会にしてもその建物や境内が醸し出す空間の雰囲気は好きです。母が逝去して3年。肉親のみならず困った人、淋しい人に惜しみなく愛を注ぎ手を差し伸べて来た母。 そのやさしさは強さゆえの事だろうけど自分は疲れてぼろぼろ、そんな母をもっと大切にすればよかったと自責の念は膨らみます。それでも「あなたがいろいろな事にもっとやさしく生きればそれでいいよ」母が生きていたらこんな言葉が返ってくるでしょう。
2007/04/07 四天王寺の掲示板に貼られた教示に「自分のことはあとまわし」と書かれていました。空海と聖徳太子にゆかりのある寺だからどちらかの言葉でしょうか。人は身内のことや自分自身に囚われすぎると、生きるって意味さえ見失うこともあります。 自分や家族の事に意識が行くのは当たり前の事ですが、人の事、社会の事、環境や他国の事に心をくだくのは当たり前の事ではありません。情報化が進みいろいろな事に無知ではあり得ない現代ですが、無関心な人間はいっこうに減らず、それはそのまま無神経な社会を作り出します。 先日の花見で自分達の食べた後のゴミさえ片付けて帰らない連中を見かけましたが彼らに桜の情緒が分かるはずもありません。「自分さえよかったらいい」この情けない風潮がどんどんエスカレートしているように感じます。
2007/04/06 「時間とはなんであるか。誰も私に問わなければ、私は知っている。しかし誰か問うものに説明しようとすると、私は知らない」とはアウグスチヌスの言葉ですが自分の五感を通して知っていると自覚できることも説明しようとすると出来ない事象や概念は多々あります。 万人が見上げる月にしても人それぞれ月について知ってると思う事は様々であるはずです。物理的な月しか脳裏に浮かばない人と観念的な月を思い浮かべる人との間には大きな違いがあります。人によって物事を受け止めるアンテナの感度もありますし、周波数の違いもあります。 価値観の違いによるものの考え方、捉え方の差もあります。ある人にとって分かりきった事が別のある人にはさっぱり分からない事もあります。人類と一口に言うけれど動物の中でこれほど同じ種の中で違い、差があるのは「人」だけではないでしょうか。そしてそれがいい意味の千差万別なら素敵な事ですが、とてもそうは思えません。
2007/04/05 快晴の空の下、満開の桜並木を脇に見て川沿いに歩くと海に出ました。うみねこが浅瀬に集い泳げない鳩達がうらやましそうに眺めています。埋め立てなどの乱開発で孤立した浜辺、松林が茂り、多くの海水浴客で賑わった面影はもうありません。 日本各地の海岸で見られる同じような光景。果たして海の命を守る干潟の自然サイクルを壊して迄埋め立てをする理由がほんとうにあるのだろうか?漁港の近くで「漁船売ります」などと言う張り紙を見ると何とも寂しい気持ちになります。島国日本の漁師さんたちが生き生きとしていないなんて変です。埋め立てで水路のようになってしまった海。埋め立て地に建つ高層マンション群が僕にはまるで蜃気楼のように見えるのです。
2007/04/04 不安に眠れない夜もあれば期待に眠れない夜もあります。振り返れば安穏と眠れる夜は少ないなぁ〜とため息が出るけど、眠れなくしているのは自分の生き方考え方。外的要因も多々あるけれどやっぱり自分の選択だろうなと自答して納得。 考えて見れば期待はいつも不安だからそれは常に同居しているようなものでときめきは時としてため息に変わります。愛すればこその不安、夢見ればこその焦燥。未来や命は不確定なものでも、もしかしたら愛こそが絶対的なものではないかと最近思います。なぜならお互いの個体を慈しむ気持ちが調和した時に永遠を望む感覚が生まれるからです。 2007/04/03 三つ子の魂百迄も・・・と言うけれど魂を磨く人もいれば曇らす人もいます。よくも悪くも環境、遺伝、経験など様々な要因はあるでしょうが人間の心の成長には大差がつきます。年輪を経てまさに相応する奥深さと優しさを備えた人もいれば、一体この人はどんな生き方をして来たのだろうと思うほどそぐわない偏狭な人もいます。 友人いわく「人間はある程度の年になればもう変わらないよ」「変わるぐらいならとっくに変わってるよ」確かにそうかも知れません。それこそ魂を揺さぶられるぐらいの衝撃的な事件や困難に遭遇でもしない限り人は変わらないのかもしれないけど、それはあまりに限定的。三つ子の魂百迄も・・・ほんとうだろうか・・・
2007/04/02 ファーッと化粧したような街。くすんだ大阪もほんのり桜です。明るいけれどどこか物悲しい印象の桜。咲き誇った間もなく散ってしまうからでしょうか。サクラサクの朗報にほっとする人もいれば悲報に肩を落とす人もいて春と言えども思いはさまざまで、桜の印象も人それぞれ大きく違うはずです。咲いて散ってまた咲いて。桜の木のように四季に準じる事はできないけど、人もまたそれぞれの周期で循環しているのかも知れません。 2007/04/01 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。