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ウルグアイ東方共和国
Oriental Republic of Uruguay

■地理
ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。


南アメリカ
南アメリカ大陸とその周辺の島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。ラテンアメリカに含まれる。西半球、南半球に位置し、西は太平洋に、東と北は大西洋に面している。北アメリカとカリブ海が北西に横たわっている。南アメリカは1507年、アメリカ州が東インドではなくヨーロッパ人にとっての新大陸であると指摘した最初のヨーロッパ人ヴァルトゼーミュラー、リングマンによって、ヴェスプッチの名から付けられた。

パタゴニア
Patagonia)は南アメリカ大陸の南緯40度付近を流れるコロラド川以南の地域の総称。アルゼンチンとチリの両国に跨る。


大西洋
Atlantic Oceanとは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。 なお、大西洋は、南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。

ネグロ川
Rio Negro,黒い川は、南米ウルグアイを流れる河川で、ラプラタ川水系ウルグアイ川の支流である。ブラジルのバッジェに源を発し、ウルグアイを東から西に流れる。事実上国土を北と南に隔てている。

ウルグアイ川
ウルグアイ川は、南アメリカを流れるラプラタ川第二の支流で、全長約1,500kmの河川である。ブラジルの海岸山脈の西斜面を水源とする。ウルグアイ川は、初めペロタス川を合わせ、西へと流れペペリグアス川を合わせる。その後、次第に水量を増して南西へと向きを変え、ブラジルとアルゼンチンの国境となって流れる。

ラプラタ川
Rio da Prataは、アルゼンチンとウルグアイの間を流れる川である。河口部が全幅約270kmの三角江(エスチュアリー)となっている。ラプラタ川はウルグアイ川、パラグアイ川、パラナ川の各河川をはじめとする無数の支流を含む巨大な水系としての意味も持ち、その流域面積はおよそ310万km2でパラグアイ全土、ボリビア南東部、ウルグアイの大部分、ブラジルおよびアルゼンチンのかなりの部分を含んでいる。

ジャグアラン川
Rio Yaguaronは、ウルグアイとブラジルのリオ・グランデ・ド・スウ州の国境線を形成している川である。リオ・グランデ・シールドに源を発し、東に流れてメリン湖に注ぎ、大西洋には直接接しない大きな沿岸潟を形成する。川はジャグアランの街まで航行可能である。

クアライ川
Rio Cuareimは、ラプラタ川水系ウルグアイ川支流の河川である。コシーニャ・ヂ・サンタナに源を発し、低い丘陵部を抜け、ウルグアイの西方に流れる。川はウルグアイ・ブラジル両国の国境線となり、南にウルグアイと、北にブラジルのリオ・グランデ・ド・スル州と接する。

メリン湖
Lagoa Mirim) とはブラジルのリオ・グランデ・ド・スル州南部からウルグアイにまで延びている、入り江の大湖である。北にあるより大きな隣のドス・パトス湖のように、メリン湖は砂地や、ところによっては不毛な半島によって隔てられている。

カテドラル山
コルジレラ山としても知られウルグアイの最も高い標高をもつ山頂がある。 標高は 513.66 m (1,685.2 ft) ある。 山はマルドナド県の北にあるアイグア(en:Aigua)という町に位置し、グランデ山地(Cuchilla Grande)と呼ばれる大きな山脈の一部を構成するカラペ山脈(en:Sierra Carape)の中にある。


グアラニー族
アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としてはほとんど絶滅し、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。

チャルーア族
チャルーア族 (Charrú矜甃チャルーア)とは現在のアルゼンチン北東部のリトラル地方、ブラジル南部、そしてとりわけウルグアイに住んでいたインディオの部族である。当初は狩猟民であり、漁労と採集により生計を立てていた。大きな建築物を建てることはなく、最後までテントで暮らしていた。

クリオーリョ
criollo) とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。"criollo" ”crioulo" という単語は "criar"(育てる)という動詞から派生しており、もともとは「現地で育った」あるいは「元来の土地とは異なる場所で生まれ育った」ことを意味する。したがって、動植物や、言語・料理に関しても、「その土地で生まれた」「その土地固有の」という意味合いで"criollo"という形容詞が付加されることもある(例えば馬のクリオーリョ種)。人間に対してcrioulo, criolloという語が用いられたのは、黒人奴隷が最初であると考えられる。


ラス・ピエドラスの戦い
(La Batalla de Las Piedras)とは、ホセ・ヘルバシオ・アルティーガスのバンダ・オリエンタル革命軍と、スペイン帝国軍との戦いである。1811年2月にモンテビデオ総督でラ・プラタ副王だったフランシスコ・ハビエル・デ・エリオはモンテビデオにてブエノスアイレスの革命委員会に対する戦いを宣言した。ブエノスアイレス主導の独立運動と呼応したホセ・アルティガスは軍を率いてモンテビデオを攻略しに向かった。

バンダ・オリエンタル
バンダ・オリエンタルとは1815年に、ホセ・アルティガスがこの地域の権力を握り、東方州を建設するまで呼ばれた、ラ・プラタ地方の地域のことである。西はウルグアイ川を、北はラ・プラタ川を境にし、現在のウルグアイの全てと、リオ・グランデ・ド・スル州の一部を含んだ。リオ・デ・ラ・プラタ副王領の東方地域より大きかった。

三国同盟戦争
Guerra de la Triple Alianza、1864年-1870年)は、パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争。ラテンアメリカの歴史の中で最も凄惨な武力衝突となった。パラグアイ戦争 (Guerra do Paraguai)と呼ばれる事があるが、この名称は主にブラジルでの使われ方である。開戦の直接のきっかけは、当時ブラジル・アルゼンチンの緩衝国であったウルグアイの内戦に、パラグアイの独裁者であり領土拡張主義者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペス が介入したことによる。


■都市ゲリラ
都市ゲリラは、1960年代にブラジルのカルロス・マリゲーラが提唱したもので、都市において軍隊と警察に間断なく小襲撃を加えることである。ゲリラはふだんは住民にまぎれ、住民に匿われて潜伏している。都市ゲリラは、活動の開始時こそ世間の耳目を集めたが、小規模で散発的なテロリズムを超えることはなかった。例外的に成長したのがウルグアイのトゥパマロスであったが、ウルグアイ政府が内戦状態を宣言するとこれも激しい弾圧を受けて頓挫し、いずれも名ほどの実を伴わない結果に終わった。先進国にも都市ゲリラを標榜し実行した組織は多いが、それだけで戦争の一類型というほどの規模になったものはない。


33人の東方人
(Los Treinta y Tres Orientales)とはフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍に率いられたウルグアイ人の一団である。東方とはウルグアイ川の東方、つまりバンダ・オリエンタル、東方州を意味する。現在はウルグアイ東部のトレインタ・イ・トレス県に名を残している。また、彼らが掲げていた33人の東方人の旗は、今もなお、ウルグアイでは国旗に準じる扱いを受けている。

リオ・デ・ラ・プラタ副王領
Virreinato del Rio de la Plata)は、スペインが中南米の植民地化の間に作った4つのうちの最後の副王領である。1776年に創設されたこの新しい副王領は、以前ペルー副王領が治めていた地域(現在のアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアを含む)を支配した。4つめの副王領を作る決定は、イスパノアメリカの支配を分散させること、またブラジル南部と接したラプラタ川北岸でポルトガルの侵略に備える必要性の両方を、カルロス3世が望んだことから下された。


■国境
ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯冶客がやってくる。

■経済
メルコスール、南米共同体の加盟国であり、モンテビデオにはメルコスールの事務局がある。ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。

ウルグアイ・ラウンド
(Uruguay Round、1986年 - 1995年)は、世界貿易上の障壁をなくし、貿易の自由化や多角的貿易を促進するために行なわれた通商交渉。ウルグアイ東方共和国の保養地プンタ・デル・エステで1986年に開始宣言されたことからこの名がついた。


五月の太陽
Sol de Mayoとはアルゼンチン、及びウルグアイの国章の一つであり、両国の国旗にもあしらわれている。インカ帝国の太陽神インティを象徴している。太陽−五月の太陽−は1813年に承認された、アルゼンチンの最初の硬貨(8エスクードの価値があった)の模様を模している。太陽はそれぞれ16の直線と曲線からなる光線を発している。


<世界遺産>
コロニア・デル・サクラメントの歴史的街並み
コロニア・デル・サクラメントはウルグアイ南西部コロニア県の県庁所在地。ラプラタ川沿いにあり、対岸にはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスがある。ウルグアイで現存する街では2番目に古い。

■農牧業
農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、エスタンシア文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。

■国民
多くのウルグアイ人はたとえイタリアやイギリスの血統が入っていようが、背景としてスペインの文化を共有する。総人口の88%がヨーロッパ系の住民で、主要少数民族としてはメスティーソが8%、ムラートとアフリカ系ウルグアイ人が4%を占める。数百人の日系人も存在する。


ガウチョ
(Gaucho)は、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のパンパ(草原地帯)やアンデス山脈東部に17世紀から19世紀にかけて居住し、主として牧畜に従事していたスペイン人と先住民その他との混血住民である。ウルグアイではガウーチョ、ブラジルではガウーショという発音がより近くなる。ガウチョはグアラニー語の「孤児」や「放浪者」を指した言葉が語源とされるが、マプーチェ族の言葉で「友達」(ガチュ)を表していたという説や、南ブラジルの方言で「牛殺し」(ガウデリオ)を表していたとも言われている。


CAペニャロール
Club Atletico Penarolは、ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地とするサッカークラブチーム。国内タイトル、国際タイトル両面において、最も成功しているウルグアイのクラブである。南米サッカー連盟(CONMEBOL)に、中南米で最も成功しているサッカークラブとして認められている。コパ・リベルタドーレス決勝進出回数9回はボカ・ジュニアーズと並んで最多。


ドゥルセ・デ・レチェ
Dulce de Leche)は固体または液体キャラメルで、ラテンアメリカの伝統的な糖菓。砂糖を入れた牛乳をゆっくりと加熱して作る。●●●彼女は砂糖を入れた牛乳を長い間火にかけたまま放っていたことに気づいた。レチャーダを見に行くと、どろっとした茶色の物質になっていた。ロサスはそのキャラメル状のものの味を気に入り、協定について議論する際にラバージェにも食べさせた。こうしてドゥルセ・デ・レーチェは偶然作られたという。


チビート
chivito)とはウルグアイとアルゼンチンの料理である。バンズに肉をはさんだハンバーガー風の料理であり、チュラスコで焼いた薄いステーキのような肉と野菜の他、必ずオリーブの実を挟むのが特徴である。特にモンテビデオでは大変ポピュラーであり、ベーコンやチーズを挟んだものや、目玉焼きを挟んだものもある。


■宗教
ウルグアイでは1918年憲法によって国家とカトリック教会が法的に分離した。国民の62%はカトリックを信仰し、少数派として4%がプロテスタント、3%がユダヤ教であり、残りの31%が無宗教である。

■教育
2003年の推計では、15歳以上の国民の識字率は1996年の調査で98%であり、これはラテンアメリカではアルゼンチン、キューバ、チリと並んで最高水準である。主な高等教育機関としては、共和国大学(1849年)、教員養成所であるアルティガス教員学校(Instituto de Profesores "Artigas")などが挙げられる。

■移民
19世紀から20世紀にかけてウルグアイに流入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いスペイン人、イタリア人に次いでフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、イギリス人、スイス人、ロシア人、ポーランド人、ブルガリア人、ハンガリー人、ウクライナ人、リトアニア人、エストニア人、ラトヴィア人、オランダ人、ベルギー人、クロアチア人、ギリシア人、スカンディナヴィア人、アイルランド人、そしてアルメニア人となる。


■言語
スペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語となっている。ブラジル国境付近のリベラ市にはポルトゥニョール・リヴェレンセ(Portuñol Riverense)を話す人々がおり、同じくリベラ県にはアラブ人のコミュニティが存在する。

ポルトゥニョール・リヴェレンセ
Portunhol riverense)、はポルトガル語とスペイン語の混合言語である。この言語はウルグアイとブラジルの国境付近、特にウルグアイのリベラとブラジルのサンタナ・ド・リヴラメントにて話されている。この国境地域は、フロンテイラ・デ・ラ・パス(Frontera de la Paz、平和の国境)と呼ばれている。


エドゥアルド・ガレアーノ
Eduardo Hughes Galeano,1940年9月3日 - はウルグアイ人のジャーナリストであり、彼の著書は多くの言語に翻訳されている。彼の作品は正統なジャンル区分を超越し、ドキュメンタリー、フィクション、ジャーナリズム、政治分析、そして歴史を結び付けている。多くの若きラテンアメリカの少年のように、ガレアーノもサッカー選手になることを夢見ていた。このことは『スタジアムの神と悪魔 サッカー外伝』のような彼の著書に反映されている。十代の時ガレアーノは工場労働者やビル・コレクター、サイン・ペインター、メッサンジャー、タイピスト、銀行の係などのアルバイトに励んだ。14歳の時にガレアーノは彼の初めての論説を、ウルグアイ社会党の機関誌『エル・ソル』に売り込んだ。

フランシスコ・カナロ
Francisco Canaro, 1888年11月26日 - 1964年12月14日はウルグアイ出身で主として隣国のアルゼンチンで活躍したタンゴのヴァイオリニスト・指揮者・作曲家。『タンゴの王』と言われ、作曲した作品(『ガウチョの嘆き』、『さらば草原よ』などが有名)は700曲、録音したレコードは7000タイトルにおよぶと自伝の中でカナロは語っている。この数字が信用できるかどうかはともかく、その充実した内容は『タンゴの王』という呼び名にふさわしいものといえる。

フリオ・ソーサ
Julio Sosa, 1926年2月2日 - 1964年11月26日は、有名なタンゴの男性歌手。1926年4月21日 に、ウルグアイのビジャ・エリサにて生まれる。本名は、フリオ・マリア=ソーサ・ベントゥリニ(Julio Maria Sosa Venturini )である。10歳で歌手デビューを果たす。貧しい青少年時代をすごす。1945年、ウルグアイのカルロス・ジラルドニ楽団に入団したのをきっかけに、タンゴ歌手の人生を歩む。

ホルヘ・ドレクスレル
Jorge Drexler,1964年9月21日-とは、ウルグアイのミュージシャンである。映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」の「川を渡って木立の中へ」の作曲により、2004年にウルグアイ人として初めてアカデミー賞を受賞し、広い賞賛を得た。彼の音楽はウルグアイの伝統音楽(カンドンベ、ムルガ、ミロンガ)とボサノヴァ、ポップス、ジャズ、エレクトロニカのコンビネーションであり、そのことが結果としてオリジナルなアレンジの加わった非常に個人的な作曲に繋がっている。

カルロス・ガルデル
Carlos Gardel, 1890年12月11日? - 1935年6月24日は不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優であり、その人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した事と相まって、現在なおタンゴ界の偶像というにとどまらずアルゼンチンの国民的英雄としての地位を不動のものにしている。

ホセ・セレブリエール
Jose Serebrier, 1938年12月3日 - は、ウルグアイの指揮者、作曲家学生時代、11歳の若さでウルグアイにおける最初のユース・オーケストラを組織し、指揮者デビュー。全国ツアーを行い、4年間の間に100回以上の公演を行う。15歳でモンテビデオの音楽市立学校を卒業。同時に国内の作曲コンクールに応募し優勝。1956年にカーティス音楽院に留学、その後タングルウッド音楽センターで作曲をアーロン・コープランドに師事する。

バルバラ・モリ
Barbara Mori, 1978年2月2日 - は、ウルグアイ出身でメキシコの女優、モデル。モリはウルグアイ東方共和国の首都であるモンテビデオで日系ウルグアイ人の父親とバスク系メキシコ人の母親の間に生まれる。彼女の祖父は日本からウルグアイの大地に来た日本人移民である。ある日、14歳でウェイトレスとして働いていた彼女を見た、ファッションデザイナーであるマルコス・トレドが、モデルにスカウトする。2008年、彼女に転機が訪れる。インド・ボリウッド映画界からの熱烈なラブコールである。彼女はそれまで英語がまったくできなかったが、これを機に英語を習得する。2010年に世界中で公開された映画『Kites』で、インド・ボリウッド映画界史上初の全米トップ10入りを果たす快挙を成し遂げた。

ディエゴ・フォルラン
Diego Forlan Corazo, 1979年5月19日 - は、ウルグアイ・モンテビデオ出身のサッカー選手。ウルグアイ代表である。ヨーロッパ・ゴールデンシューを2度受賞しているストライカー。ウルグアイ代表の最多得点タイ記録の保持者であり、2010 FIFAワールドカップではMVPを受賞している。少年時代はテニスの腕も一流だった。学生時代は学業も疎かにせず、成績も優秀であり、高校はモンテビデオ市内有数の名門校に通っていた。

ホセ・ムヒカ
Jose Alberto Mujica Cordano, 1935年5月20日 - はウルグアイの政治家。社会主義思想の持ち主。2009年11月ウルグアイ大統領選挙に当選し、2010年3月1日より同国大統領。第40代大統領。首都モンテビデオの貧困家庭に生まれる。家畜の世話や花売りなどで家計を助けながらも、1960年代に入って左翼ゲリラ組織ツパマロスに加入、ゲリラ活動に従事する。ツパマロスと治安組織の抗争の激化、労働組合や職人組合の政治経済への反発といった時代のもと数々の襲撃、誘拐にたずさわる中で、ムヒカは6発の銃弾を受け、4度の逮捕(そのうち2回は脱獄)を経験する。

フリオ・マリア・サンギネッティ
(Julio Maria Sanguinetti, 1936年1月6日 - )はウルグアイのジャーナリスト、政治家。1985年から1990年、および1995年から2000年までの2期にわたり、ウルグアイ大統領を務めた。

タバレ・バスケス
Tabare Ramon Vazquez Rosas 1940年1月17日 - はウルグアイの前大統領(第39代)。本業は医師であるが、左派連合拡大戦線の代表として2004年10月31日の選挙に臨み当選した。2005年3月1日に大統領に就任。ウルグアイ初の左派政権となった。モンテビデオ近郊で育ち、1972年に医科大学を卒業している。1976年にはフランス政府の奨学金で、パリで研究を行っていた。

ディエゴ・ルガーノ
(Diego Alfredo Lugano Moreno, 1980年11月2日 - )は、ウルグアイ出身のサッカー選手。パリ・サンジェルマンFC所属。ポジションはセンターバックであるが、サンパウロFC在籍時には左サイドバックとしてプレーしたこともある[1]。パオロ・モンテーロの後継者と言われることがある。家族はイタリア・アレッサンドリア出身であり、イタリアの国籍を保持している。

ワルテル・ガルガノ
(Walter Alejandro Gargano Guevara、1984年7月27日 - )は、ウルグアイ東方共和国パイサンドゥー出身のサッカー選手。SSCナポリ所属。ウルグアイ代表であるがイタリア国籍も保有している。ポジションはMF(センターハーフ)。

ダリオ・シルバ
(DARIO Debray SILVA Pereira、1972年11月2日 - ) はウルグアイ東方共和国トレインタ・イ・トレス出身のサッカー選手である。ポジションはフォワード (センターフォワード) 。サッカーウルグアイ代表として通算49試合に出場したが、2006年に交通事故で右脚を切断する重傷を負い、プロサッカーの第一線からは離れている (2010年6月現在)。

ルベン・ラダ
Ruben Rada、1943年7月16日 - は、アフリカ系ウルグアイ人の歌手にして打楽器奏者である。彼はアフリカ系ウルグアイ人の伝統的なドラム形式、カンドンベのマスターである。ラダの音楽はポップとカンドンベやムルガといった一般的なウルグアイの音楽の混合である。ラダは母国ウルグアイで著名というだけではなく、さらに諸外国にまでその名は轟き(特にアルゼンチン)、近年はEMI Latinやユニバーサル・レコードといった国際的なレーベルから作品を出している。

エドゥアルド・マテオ
(Eduardo Mateo 、1940年9月19日 − 1990年5月17日)は、ウルグアイの音楽家、作曲家であり、同国のポピュラー音楽を代表する偉大な中の一人である。1940年にモンテビデオにて生誕した。カンドンベ、バラード、ボサノヴァといった曲を数え切れないほど作曲し、ソロでやったり、他の重要なアーティストと共にやったり、競作したりした(ルベン・ラダ、オラシオ・ブスカグリア、エステラ・マグノーネ、Los Malditos、エル・キント、等々)。1990年にイデンにて49歳で死去した。

ナタリア・オレイロ
(Natalia Marisa Oreiro Iglesias Poggio Bourie)は1977年5月19日、ウルグアイのモンテビデオ出身の歌手、女優。ガリシア系にルーツをもち、アルゼンチンを中心に活動。ナタリア・オレイロは16歳のとき、スターを目指してアルゼンチンに移る。1994年からテレビドラマの女優として活動するようになる。彼女の曲はアルゼンチンのみならず欧州や中近東でも放送され、欧州諸国はじめロシアやイスラエルでもその名は知られるところとなった。

ホルヘ・バジェ・イバニェス
(Jorge Luis Batlle Ibanez, 1927年10月25日 - )はウルグアイの政治家。2000年から2005年まで5年間、第38代ウルグアイ大統領を務めた。19世紀からウルグアイの大統領や政治家を数多く輩出した一族の出身で、父親のルイス・バジェ・ベレスも大統領を務め、おじのホセ・バッジェ・イ・オルドーニェスも2期に渡って大統領を務めた。

ガブリエル・テーラ
(Gabriel Terra、1873年8月1日 モンテビデオ - 1942年9月15日 同地)は、ウルグアイの弁護士、政治家。1895年に共和国大学を卒業後弁護士となり、のちに政界に進出。クラウディオ・ウィリマン大統領およびバルタサール・ブルム大統領時代には閣僚を務めた。1917年には憲法制定委員会のメンバーとなり、1925年から1930年にかけては、大統領と並んで国家運営に携わる国家運営理事会(Consejo Nacional de Administracion)のメンバーとなった。

ナンド・パラード
(Fernando Seler "Nando" Parrado Dolgay, 1949年12月9日 - )は、ウルグアイ空軍機571便遭難事故の16人の生還者のひとりであり、事故の生還者の救出に大きな貢献を果たした人物である。事件後の1973年1月、アルゼンチンF1グランプリを観戦するために訪れていたブエノスアイレスのサーキットで、事故以前よりファンであったレーサーのジャッキー・スチュワートおよびイギリスのF1の大興行主バーニー・エクレストンと面会した。スチュワートに対し、かねてよりレーサーが夢であった事を打ち明けると、スチュワートは本格的にレーサーの道を歩むことを薦めて、イギリスのドライビング・スクールへの入校の推薦を与えた。その後1977年にエクレストンの紹介で、イタリアのアルファ・ロメオのレーシングチーム「アウトデルタ」に所属し、ヨーロッパツーリングカー選手権に出場した。イギリス・イタリア・オランダなどでレースに参加し、南イタリアのレースで優勝を果たした。

エクトル・スカローネ
Hector Scarone, 1898年11月26日 - 1967年4月4日)は、ウルグアイ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW(インサイド・フォワード)。代表では1917年からウルグアイ代表に招集され、1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪では主力として活躍し、金メダルを獲得。そして、コパ・アメリカでも3度の優勝に貢献している。1930年の初代大会のFIFAワールドカップでも主力として活躍し優勝をもたらしている。

フアン・アルベルト・スキアフィーノ
(Juan Alberto Schiaffino、1925年7月28日 - 2002年11月13日)は、ウルグアイ・モンテビデオ出身の元サッカー選手。ポジションはFW、MF。1954年にはACミランへ移籍し、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルム、チェーザレ・マルディーニらと共にスクデットなどを獲得。1957-58シーズンはUEFAチャンピオンズカップの決勝まで進むも延長戦の末レアル・マドリードに敗れる。

エルネスト・ハビエル・チェバントン
(Ernesto Javier Chevanton Espinoza, 1980年8月12日 - )は、ウルグアイ・フアン・ラカーセ出身の元同国代表サッカー選手。セリエA、USレッチェ所属。ポジションはFW。12歳の時、アルバロ・レコバやファビアン・カリーニ等を輩出したダヌービオFCの下部組織に入団した。2000年の国内リーグで30試合32得点というゴール数を記録し、様々なクラブの注目を集める。2001年になっても変わらずゴールを量産し続ける彼に数々のオファーが舞い込んだが、彼は最終的にイタリア・セリエAのUSレッチェを選択し、2001年夏に移籍した。

 

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ウルグアイ Uruguay
南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。首都はモンテビデオ。

モンテビデオ
Montevideoは、ウルグアイの首都でありモンテビデオ県の県都である。メルコスールの事務局が置かれている。ウルグアイの南部、ラ・プラタ川の左岸河口に位置し、ウルグアイ最大の都市であり、2004年における人口は約132万人である。ウルグアイ最大の貿易港を兼ね温暖な気候で知られる。

コロニア・デル・サクラメント
ウルグアイ南西部コロニア県の県庁所在地。ラプラタ川沿いにあり、対岸にはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスがある。ウルグアイで現存する街では2番目に古い。2004年の統計では人口21,714人。


カラスコ国際空港
Aeropuerto Internacional de Carrasco、Carrasco International Airportは、ウルグアイ東方共和国の首都、モンテビデオにある国際空港。ウルグアイ最大の空港である。

グアルーリョス国際空港
Aeroporto Internacional de Guarulhosは、ブラジル連邦共和国サンパウロにある国際空港。


外務省:ウルグアイ東方共和国
在ウルグアイ日本国大使館


カネローネス
(Canelones)はウルグアイの南部に位置する都市でありカネローネス県の県都。ワインの生産が主な産業であり、大小様々なブドウ園やワイナリーがある。

ドゥラスノ
Duraznoはウルグアイ中部に位置する都市。ドゥラスノ県の県都。ネグロ川の支流であるジ川が流れている。

フロリダ
Floridaは、ウルグアイ南部の都市。フロリダ県の県都でもある。2004年時点の人口は3万2128人。1809年4月24日に組織され、地元のウルグアイ人ハメス・フロリダにちなんで名付けられた。1825年にはここのサン・コノ礼拝堂で独立宣言が読み上げられ、現在でも毎年6月3日になると群衆が押し寄せる。

マルドナド
Maldonadoは、ウルグアイの都市。人口54,603人(2004年)。ウルグアイ南部に位置し、マルドナド県の県都である。国道39号線で南のプンタ・デル・エステと結ばれている。南のプンタ・デル・エステやPinares − Las Delicias、北のLa Sonrisaなどと都市圏を形成している。北の隣町であるサン・カルロスとは13km離れている。

パイサンドゥー
Paysanduとはウルグアイ第二の都市であり、人口は97,000人である。パイサンドゥー県の県都である。ウルグアイ川に面しており、アルゼンチンと国境を接する。ヘネラル・アルティーガス橋でアルゼンチンのコロンと結ばれている。パイサンドゥーはウルグアイの他の都市よりもコスモポリタンであり、イタリア、スイス、ポーランド、ドイツ、ロシア、ウクライナ、ベルギー、アフリカ諸国からの多くの移民がいる。

ミナス
Minas)は、ウルグアイ南部の都市。ラバジェハ県の県都でもある。2004年時点の人口は3万7925人。ホセ・ヘルバシオ・アルティガス将軍を記念した「セロ・アルティガス」という大きな馬の記念碑は19世紀に建てられた。

リベラ
Riveraは、ウルグアイの都市。リベラ県の県都でもある。2004年国勢調査時の人口は6万4426人。ブラジルとの国境付近に位置し、同国のサンタナ・ド・リヴラメントと接する。この両市で人口20万人規模の国際都市を形成している。1943年には両国の友好関係を祝して国際広場が建設された。

タクアレンボー
Tacuaremboとはウルグアイ北中部の都市であり、タクアレンボー県の県都である。2004年の調査で人口は51,224人だった。タクアレンボーは豊かな文学の歴史を持ち、シルセ・マイア、マリオ・ベネデッティ、トマス・デ・マトス、ホルヘ・マジフードのような作家は全てこの街の出身者である。脚本家のハワード・ボーンも晩年にはタクアレンボーに住んでいた。

メルセデス
(Mercedes)は、ウルグアイの都市。ソリアノ県の県都である。国道2号線と14号線の交点に位置し、リオネグロ川の南岸に位置する。また、コロニア県のコロニア・デル・サクラメントから伸びる21号線の終点でもある。メルセデスは商業の重要な中心地であり、商業港を持つ。主な産業は農業、酪農製品、製紙などの工業である。

サルト
ウルグアイ西部にある都市。ウルグアイ第二の都市で人口は99072(2004年)。サルト県の県庁所在地であり、アルゼンチンとの国境に位置する。ウルグアイ川流域のモンテビデオから北西に496km離れたところにあり、ウルグアイ川を挟んで西にアルゼンチンのエントレ・リオス州が存在する。

リベラ
(Rivera)は、ウルグアイの都市。リベラ県の県都でもある。2004年国勢調査時の人口は6万4426人。ブラジルの影響を色濃く受けているため小都市ながらブラジルの領事館が置かれている。

プンタ・デル・エステ
ウルグアイ南東部の都市、都市名はスペイン語で「(ラ・プラタ川の)東の岬」という意味である。大西洋に面し、南米有数のビーチ・リゾートで、世界各国、近隣諸国、主にブラジル、アルゼンチン、パラグアイ から富裕層がヴァカンスにやってくる。1986年のウルグアイ・ラウンドもこの町で締結された。

アルティガス県
Departamento de Artigas)は、ウルグアイの北端に位置する県。1万1928平方キロメートルに7万8019人が暮らしている。県都はアルティガス。中部と東部は玄武岩のケスタ地形で、クアライ川河岸に堆積平野が広がっている。ベレン山地などの山地もいくつか見られる。西部は沖積平野となっている。

ロチャ県
Departamento de Rocha)はウルグアイ南東部に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はロチャ。ラ・パロマ海水浴場やポロニオ岬などを中心として自然が広がっており、この県を中心としたウルグアイ東部は「東部湿地帯生物保護地区」としてユネスコの生物圏保護地に指定されている。

カネロネス県
Departamento de Canelones)はウルグアイ南部に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はカネローネス。県東部の沿岸地域では観光業が重要な収入源になっておりアトランティダの様な観光都市の開発も行っている。

セロ・ラルゴ県
Departamento de Cerro Largo)はウルグアイ南部に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はメロ。19世紀から20世紀初頭にかけてウルグアイ国内で断続的に内戦が起こっていたとき、国民党の前身であるブランコ党の拠点となっていた。

コロニア県
Departamento de Colonia)はウルグアイ南西部の国境に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はコロニア・デル・サクラメント。ラプラタ川沿岸に位置しており、対岸にはアルゼンチンの首都であるブエノスアイレスがある。船で渡河することが出来るため、ウルグアイの玄関口としての役割を持っている。

ドゥラスノ県
Departamento de Durazno)はウルグアイ中部に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はドゥラスノ。サンタ・ベルナルディナ国際空港がある。農業が主産業でありアグリツーリズムも盛んである。羊や牛の飼育も広く行われており、乳製品、食肉を生産している。


アグリツーリズム
広義には「都市と農村の交流」のこと、実際には農場で休暇を過ごすこと。日本では一般にグリーンツーリズムと呼ばれる(農林水産省による表記は「グリーン・ツーリズム」と中点つきで表記しているが、それ以外では中点を略して表記することもある。)漁村に滞在する場合は、"ブルーツーリズム"と呼ばれる。「グリーン」は緑の意味の他、エコロジーの意味もあるのでエコツーリズムと混同されやすい。


フロレス県
Departamento de Flores)は、ウルグアイ南部の県。マヒモ・サントス政権時に設置された。県名はコロラド党を結成したトリニダ出身のベナンシオ・フロレスにちなみ名付けられた。

マルドナド県
Departamento de Maldonado)はウルグアイ南部に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はマルドナド。県北部にはカラペ山脈があり、国内最高峰であるカテドラル山がある。その他にもセロ・パン・デ・アスカル、セロ・デ・ラス・アニマスがあり、国内三大高峰が全て県内に存在している。

パイサンドゥ県
Departamento de Paysandu)は、ウルグアイの県。県都はパイサンドゥ。地名の由来についてははっきり分かっていないが、先住民族のチャルーアを起源する説が有力である。大規模な醸造所があることから、年に一度一週間にわたり「ビールの週」という音楽、芸術、カーリバル用の乗り物、そしてビールの祭典が催される。

リオ・ネグロ県
Departamento de Rio Negro)はウルグアイ西部に位置し、ウルグアイを構成する県の一つ。県都はフライ・ベントス。フィンランドのボトニア社(Botnia)がフライ・ベントスのウルグアイ川沿岸にパルプ工場を建設する計画が発表され、その投資額は10億ドル、8,000人以上の雇用を生み出すという巨大プロジェクトであった。しかし、パルプを漂白する際に使用する漂白剤等の工業排水がウルグアイ川の水質汚染に繋がるとして、ウルグアイ川の対岸にあるアルゼンチンのエントレ・リオス州の住民とウルグアイ、アルゼンチン両国の環境保護団体が、2005年4月30日にウルグアイ川に架かる橋を封鎖して抗議活動を行った。


メルコスール
Mercosul; Mercado Comum do Sulは南アメリカ諸国の関税同盟である。日本語では、南米南部共同市場または南米共同市場と訳される。日本の外務省やJETRO、JICAなどは前者を用いることが多い。欧州連合(EU)のような自由貿易市場の南米での創設、具体的には域内での関税撤廃と域外共通関税を実施することを目的として、1991年にパラグアイのアスンシオンでアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルの4カ国が調印し、1994年12月には4ヵ国首脳がブラジルのオウロ・プレットに集まり最終議定書に調印し、1995年1月に発足した。


■国名
公式の英語表記は、Oriental Republic of Uruguay (オリエンタル・リパブリック・オブ・ウルグアイ)。通称、Uruguay。国名は同国西部を流れるウルグアイ川に由来し、グアラニー語でuru(ウルという鳥の)gua(飛ぶ)y(川)が語源であると言われている。


1.面積:17.6万平方キロメートル(日本の約半分)
2.人口:334万人(2009年、世銀)
3.首都:モンテビデオ(約140万人)
4.民族:欧州系90%、欧州系と先住民の混血8%、黒人系2%
5.言語:スペイン語
6.宗教:キリスト教(カトリック)が多数であるが、伝統的信仰を守る先住民も存在(憲法で信仰の自由を保障)

1825年 独立宣言(8月25日、独立記念日)
1903年 バジェ大統領、民主主義政策、社会保障整備を推進
1973年 極左テロ鎮圧により軍部台頭、議会閉鎖(軍政化)
1984年 軍部及び政党関係者の合意により民政移管を発表
1985年3月 サンギネッティ大統領就任(コロラド党)(民政移管)
1990年3月 ラカジェ大統領就任(国民党)
1995年3月 サンギネッティ大統領就任(コロラド党)
2000年3月 バジェ大統領就任(コロラド党)
2005年3月 バスケス大統領就任(FA(拡大戦線)党(左派))
2010年3月 ムヒカ大統領就任(FA(拡大戦線)党(左派))

■主要産業:農牧業(牛肉、羊毛、米等)、食品加工業、製造業(羊毛製品、皮革加工品等)、観光、金融
■主要貿易品目(1)輸出 肉類、米、皮革品、羊毛(2)輸入 機械類、輸送機械、化学製品


ウルグアイ・ペソ
ウルグアイ・ペソは、ウルグアイの通貨。1993年に導入された。補助単位はセンティモ。ウルグアイは1896年に金本位制を導入して経済を安定させたが、第一次世界大戦後に金本位制を撤廃し、1964年以後、経済の悪化とともにインフレーションが深刻化した。1973年11月には、従来のペソに代わってヌエボペソが1000旧ペソ=1ヌエボペソのレートで導入された。ヌエボペソも100分の一の補助単位としてセンティモを導入した。

トランスペアレンシー・インターナショナル
(Transparency International, 略称:TI)は、腐敗、特に汚職に対して取り組む国際的な非政府組織である。世界中の腐敗をリスト化した「腐敗認識指数」(Corruption Perceptions Index) を毎年発表していることで知られる。本部所在地はドイツ・ベルリン。トランスペアレンシーとは「透明性」の意。


国民党
(Partido Nacional)とはウルグアイの政党であり、2004年の選挙で拡大戦線が勝利するまでは伝統的なウルグアイの二大政党制の一角を保ってきた。ブランコ党と呼ばれることが多く、ブランコは白を意味する。保守主義者の党であり、農村の地主などを支持層にして成立した。

コロラド党
(Partido Colorado)とはウルグアイの政党であり、2004年の選挙で拡大戦線が勝利するまでは伝統的なウルグアイの二大政党制の一角を保ってきた。コロラドは赤を意味する。自由主義者と社会民主主義者の党であり、モンテビデオの都市民を支持層にして成立した。


モンテビデオ条約
モンテビデオ条約(1828年、Treaty of Montevideo)は、ウルグアイにあたる地域を巡ってブラジルとアルゼンチンとの間で行われていたアルゼンチン・ブラジル戦争に終止符を打った条約であり、イギリスの仲裁の下、1828年8月27日に結ばれ、これによりウルグアイ東方共和国の独立が承認された。


ツパマロス
(Tupamaros 、トゥパマロス)は、ウルグアイの極左武装組織。ペルーの反乱指導者トゥパク・アマルー鵺世(トゥパマロ)にちなんで命名されたが、ここでのトゥパマロスという名前は、直接的にはウルグアイの独立指導者で共和派のカウディージョ、ホセ・アルティーガスの率いた解放軍の名前に由来する。1960年代から1970年代のはじめにかけて南米最強の都市ゲリラとして知られていた。


■音楽
タンゴ(ウルグアイ・タンゴ)やミロンガ、ブラジルのバツカーダに似た黒人音楽カンドンベや、ムルガといった音楽の本場であり、チャマメやパジャドールなど幾つかのフォルクローレはアルゼンチンと共通している。フォルクローレにおいて、特に有名な人物としてはアルフレド・シタロッサの名が挙げられる。タンゴにおいては、古典となっている「ラ・クンパルシータ」(1917)を作曲したのはウルグアイ出身のヘラルド・マトス・ロドリゲスである。


カンドンベ
カンドンベとは太鼓を基にしたウルグアイの音楽様式である。カンドンベはモンテビデオのアフリカ系住民によって開始され、バントゥー・アフリカ系のドラムを基に、ヨーロッパ人と、タンゴの息遣いの影響からなっている。カンドンベの起源は南アメリカでの黒人奴隷の時代からの、コンゴ王の行進の儀式だった。 カンドンベはアフリカに起源を持つキューバのソン、トゥンバ、ブラジルのマラカトゥ、コンガーダスといった米州生まれの他の音楽と関連がある。

ウルグアヤン・インベイジョン
(Uruguayan Invasion)とは、1960年代に起きたブリティッシュ・インベイジョンと良く似た音楽の現象で、ウルグアイのロックバンドがアルゼンチンで人気を得た。モンテビデオに住む多くの若いミュージシャンは、ビートルズやローリング・ストーンズのようなイギリスの音楽に触発されて、ウルグアイは彼等の音楽の模倣をはじめた。特にロス・シェイカーズとロス・モッカーズという二つのバンドがそれぞれビートルズとストーンズを模写した。ウルグアヤン・インベイジョンで人気があったバンドは往々にして英語で歌った。


モデルニスモ文学
Modernismoとは、一般にスペイン語圏ラテンアメリカ文学(イスパノアメリカ文学)における近代主義(モダニズム)運動のこと。ルベン・ダリオをはじめとする作家たちにより、19世紀後半から20世紀初頭にわたって展開された。

■文学
1819年にアルティーガスに仕えた連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴがガウチョ文学を開始した。それまで浮浪者同様に見られていたガウチョを解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。また、ウルグアイは19世紀末から20世紀初頭のモデルニスモ文学の中心地の一つであり、ラテン・アメリカ最大の詩人と呼ばれるニカラグアのルベン・ダリオに次ぐ唯一の詩人ホセ・エンリケ・ロドーの出身地である。代表作はアメリカ合衆国のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告した『アリエル』(1900)など。ホセ・マルティと同様にアメリカ合衆国との対比でラテンアメリカの精神文明を称揚した頃のウルグアイは、ラテンアメリカ・ナショナリズムの中心地の一つであった。

収奪された大地 ラテンアメリカ五百年
Las venas abiertas de America Latina、原語を直訳すれば 『ラテンアメリカの切り開かれた血脈』となる)は、ウルグアイのジャーナリスト、エドゥアルド・ガレアーノによって1971年に出版されたルポルタージュである。


■美術
ウルグアイ出身の画家としては、歴史画のフアン・マヌエル・ブラネスや、ホセ・クネオ、ネルソン・ロメロなどの名が挙げられる。1930年代の抽象絵画のホアキン・トーレス・ガルシアは特に有名である。

■映画
ウルグアイにおいて映画製作は盛んではないが、「ウイスキー」(2004)のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは著名な映像作家として挙げられる。


デルミラ・アグスティーニ
Delmira Agustini, 1886年 - 1914年は、ウルグアイの詩人。フリオ・エレーラ・イ・レイシグ、レオポルド・ルゴネス、ルベン・ダリーオ、オラシオ・キローガとともに、「1900年の世代」を形成する存在である。モンテビデオの保守的な家庭に生まれる。10歳にして詩作を始めるなど早熟な才能を発揮し、その後も様々な文芸誌に寄稿した。1913年にエンリケ・ホブ・レイェスと結婚するが、数々の不和から1ヶ月余りで破局、翌年に離婚する。同年7月、前夫によって殺害される(前夫ものちに自殺)。男性優位の社会にあって女性の性を謳い上げた。様式的にはモデルニスモに属し、幻想や異国趣味を扱った作品が多い。

フアン・カルロス・オネッティ
Juan Carlos Onetti、1909年7月1日 - 1994年5月30日はウルグアイの小説家。1950年に発表した長編『はかない人生』(La vida breve)もやはり売れ行きは芳しくなかったが、一人の男が人生の悲惨から逃れるために空想した架空の街サンタ・マリアの登場するこのメタフィクション的小説は、のちにラテンアメリカ文学「ブーム」の先駆的作品として高く評価されることになる。

フェリスベルト・エルナンデス
Felisberto Hernandez, 1902年10月20日モンテビデオ - 1964年1月13日同地は、ウルグアイのピアノ奏者、作家。フェリスベルトは9歳の時からピアノの練習を始め、のちにクレメンテ・コリングに師事して作曲と和声を学ぶ。経済的困窮により、サイレント映画のBGM演奏で生計を立てる。1942年以降、フェリスベルトはピアニストとしての道を放棄し、文学に専心するようになる。『クレメンテ・コリングのころ』(1942年)および『はぐれ馬』(1943年)などの自伝的中編小説が、同じくモンテビデオ出身のフランス語作家ジュール・シュペルヴィエルの眼に止まり、彼の後押しにより1946年に渡仏。ロジェ・カイヨワの働きかけにより、短編集『誰もランプをつけていなかった』(1947年)が、アルゼンチンのスダメリカーナ社より出版された。

ヘラルド・マトス・ロドリゲス
Gerardo Matos Rodriguez, 1897年3月28日 - 1948年4月25日はウルグアイの作曲家、ピアニスト。大学生時代に作曲した1917年のタンゴ、ラ・クンパルシータ(La cumparsita)はタンゴ楽団の解釈を経て演奏されて、タンゴの中でも知名度第一位とされている。他にもタンゴの曲を作曲している。

マリオ・ベネデッティ
Mario Orlando Hamlet Hardy Brenno Benedetti Farrugia、1920年9月14日-2009年5月17日は、ウルグアイのジャーナリスト、小説家、詩人である。英語圏ではあまり知られていないが、スペイン語圏では20世紀のラテンアメリカで最も重要な作家の1人と考えられている。

フアン・パブロ・レベージャ
Juan Pablo Rebella、1974年1月1日 - 2006年7月6日は、ウルグアイの映画監督・脚本家。ウルグアイの大学在学中にパブロ・ストールと共に短編映画を撮り始める。大学卒業後に制作した「25 Watts」でロッテルダム国際映画祭などで高い評価を得る。2作目のコメディ映画「ウィスキー」は、東京国際映画祭グランプリ、カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞などを受賞した。しかし、2006年7月、モンテビデオにある自分のアパートで自殺した。

エステバン・バティスタ
Esteban Damian Batista Hernandez, 1983年9月2日 - はウルグアイのプロバスケットボール選手である。スペイン男子プロバスケットボールリーグ1部ACBのバロンセスト・フエンラブラダ所属。首都モンテビデオ出身。2006年シーズンまでは北米男子プロバスケットボールリーグNBAのアトランタ・ホークスに所属していた。身長208cm、体重123kg。

ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス
Jose Batlle y Ordonez、1856年5月21日 - 1929年10月20日は、ウルグアイの政治家。ブランコ党の反乱に勝利してコロラド党より立候補し、1903年〜1907年と1911年〜1915年の二期、ウルグアイの大統領を務めた。当時ウルグアイは、畜産業の盛況により空前の繁栄を誇っていたが、同時に貧富の差の拡大や社会構造の変化により社会不安が起きていた。オルドーニェスはこれに応え、スイスを模範にして労働組合の結成、8時間労働の実施、スト権の確立、最低賃金の設定、失業保険や老齢年金制度の創設などさまざまな社会保障政策を実施し、ウルグアイを南米で唯一の福祉国家とした。

フェルディナンド・マゼラン
(Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、マゼランが率いた艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。マゼランはヨーロッパから東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への西回りでの渡航ルート発見を目指して旅立ったポルトガル人航海者である。1519年スペイン王の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いてスペイン・セビリアを出発したマゼランは南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に到達し、マゼランは途中1521年フィリピンで戦死したが、残された艦隊が1522年に史上初めての世界一周を達成した。

ミルトン・フリードマン
Milton Friedman、1912年7月31日 - 2006年11月16日)はアメリカ合衆国ニューヨーク出身のマクロ経済学者である。マネタリズムを主唱して裁量的なケインズ的総需要管理政策を批判した。1976年、ノーベル経済学賞受賞。弟子にゲーリー・ベッカーがいる。フリードマンにとっての理想は、規制のない自由主義経済の設計であり、詐欺や欺瞞に対する取り締まりを別にすれば、あらゆる市場への制度上の規制は排除されるべきと考えた。そのため、新左翼勢力は、フリードマンを新自由主義(Neo Liberalism)の代表的存在と位置づけた。しかしフリードマンは公共善を否定していたわけではなくこの点ではケインズと変わるところはなかった。

パブロ・ガルシア
(Pablo Gabriel Garcia Perez, 1977年5月11日 - )はウルグアイ、カネローネス出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。19歳でモンテビデオ・ワンダラーズの下部組織でデビュー。ボランチのためゴール数は3年間で1ゴールに留まるも、翌年にはヨーロッパへと旅立つ。アトレティコ・マドリードの下部組織でプレーの後、母国へ4ヶ月レンタル移籍に出される。

リカルド・モラレス
(Richard Morales, 1975年2月21日 - )はウルグアイ出身の元サッカー選手(フォワード)。2001年、W杯南米予選でウルグアイ代表に招集される。当時のウルグアイ代表は長らく本大会から遠ざかっていたが、南米5位と言う結果でオセアニア地区代表とのプレーオフに進出する。オーストラリア代表とのプレーオフの初戦は落としたものの、2試合目に彼が決めた2得点でオーストラリアを上回り、3大会ぶりの出場を決めた。

ロケ・マスポリ
(1917年10月12日 - 2004年2月22日)は、ウルグアイ出身のサッカー選手(ゴールキーパー)およびサッカー指導者である。ウルグアイ代表のGKとして、1950 FIFAワールドカップに優勝した。

ホセ・ナサシ
(Jose Nasazzi、1901年5月24日 - 1968年6月17日)は、ウルグアイ出身のサッカー選手。ポジションはフルバック(現在のセンターバックに相当)。クラブレベルでは主にナシオナル・モンテビデオに在籍し、1933年と1934年の2度、ウルグアイリーグで優勝に貢献した。1999年、 ワールドサッカー誌の20世紀の偉大なサッカー選手100人で75位に選出された。

ホセ・アンドラーデ
Jose Andrade、1901年11月22日 - 1957年10月5日)は、ウルグアイ・サルト出身のウルグアイ代表のサッカー選手。彼がいる間のウルグアイ代表は3つの大きなタイトルを獲得した。黒人選手でヨーロッパ大陸で活躍した選手としては、彼が初めてと言われている。

ペドロ・セア
(Jose Pedro Cea、1900年9月1日 - 1970年9月18日)は、ウルグアイ出身のサッカー選手である。ポジションはFW。1923年から1932年までウルグアイ代表のFWとしてプレイ。その間、南米選手権(現コパ・アメリカ)、オリンピック、地元ウルグアイで開かれた第1回FIFAワールドカップなど、数々のタイトル獲得に貢献した。

エディンソン・カバーニ
(Edinson Roberto Cavani Gomez、1987年2月14日 - )はウルグアイのサッカー選手。セリエAのナポリ所属。ポジションはFW。ダヌービオでデビューし、同年には19歳ながらレギュラーとして13得点を記録した。2006年2月にはイタリアで行われたビアレッジョ・トーナメントに出場して活躍し、インテルが獲得に乗り気だったが、設定された移籍金50万ユーロが高すぎるとして獲得には至らなかった。

フアン・マリーア・ボルダベリー
(Juan Maria Bordaberry Arocena、1928年6月17日-2011年7月17日)は、ウルグアイの政治家。1972年から1973年まで、さらに1973年の軍事クーデター以降は事実上の大統領を務めた。2006年12月20日、ボルダベリーは人権侵害の廉で逮捕された。2007年には健康問題を理由に自宅軟禁となったが、翌年には年金の支給を停止された。2010年3月5日、ボルダベリーは憲法違反、9件の失踪事件および2件の殺人の咎で禁錮30年の判決を下された。

 

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