ペルー共和国
Republic of Peru

インカ帝国
Imperio Inca、正式名称:タワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。


クスコ
1200年代にインカ人が移住して来る前、900年から1200年にかけてキルケ人がこの地域を支配していた。クスコ郊外のサクサイワマン要塞の遺跡を炭素14法(放射性炭素年代測定)で分析したところ、1100年頃のキルケ文化による要塞であることが判明した。その後、1200年代以降にインカ人勢力がここを占拠した。現在は、マチュ・ピチュ遺跡との間、およびチチカカ湖のほとりのプーノとの間にペルー南部鉄道が走っているほか、首都リマからは空路で接続されている。バスも各地との間に運行されているが、道が悪く、特に雨期は空路・鉄道と比べて確実ではない。


■地理
ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(国土の約60%)である。

アンデス山脈
主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500km、幅750kmにわたる世界最大の褶曲山脈。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。 最高峰はアコンカグア(6960m・一説には7021m)で、6000mを越える高峰が20座以上聳え立っている。

チチカカ湖
Lago Titicacaは、アンデス山中のペルー南部とボリビア西部にまたがる淡水湖。アルティプラーノの北部に位置する。湖中には、チチカカ島やルーナ島、タキーレ島、アマンタニ島、太陽の島、月の島、スリキ島など41の大小の島々がある。 チチカカ湖の島々やその周辺には、ケチュア族やアイマラ族、ウル族といった、先住民系の民族が居住しており、沿岸の都市部での就労の他、島では農耕や漁業、観光などに携わって生計をたてて暮らしている。

アマゾン川
南米のブラジルとその周辺国の熱帯雨林(アマゾン熱帯雨林)を流れ、大西洋に注ぐ世界最大の河川である。数多くの巨大な支流を持ち、アマゾン川という名称はそれらの総称として用いられている。河口は大きく広がっており、どこからどこまでを河口と考えるかにより大きく異なるが、その幅は東京から名古屋・大阪までの距離に匹敵する 300 km とも 500 km ともされる。一般的には、九州より僅かに広い面積を持つマラジョ島は中洲島と考えられている。

ウカヤリ川
Rio Ucayaliはアマゾン川の支流の一つである。マデイラ川に近く、チチカカ湖の北約110kmの所を流れている。ペルーはこの川の探検に多くの費用をかけて丹念な探索を試みている。1867年にはリマから380kmのところから出発した小さな蒸気船ナポ号(Napo)が、パチテア川(Pachitea)との合流点の124km上流にある激流を乗り切り、ウカヤリ川がアマゾン本流となる地点から1240km上流にあるタンボ川まで到達している。

ウルバンバ川
ペルーを流れる河川でアマゾン川の源流の一つである。クスコ南東部のアンデス山脈に源流があり、このあたりはビノカルタ川(Rio Vilcanota)とも呼ばれる。1932年6月2日にイギリスの地理学者ジョン・グレゴリー(John Walter Gregory)がこの川を上ってアンデス山脈までを探検している。

ジャバリ川
Rio Javari、は、アマゾン川の支流の一つで、延長1,180kmの河川である。川の名称については、ポルトガル語では「ジャヴァリ」(太字はアクセント)、スペイン語では「ヤバリ」または「ジャバリ」と発音が異なる。ペルーとブラジル・アマゾナス州の国境付近を流れ、アマゾン川に合流する。

セロ・バウル
Cerro Baulとは、ペルー共和国モケグア県にある山である。デサグワデーロからモケグワ市を経由してペルーの太平洋海岸の都市(ナスカやリマ)へ向かうバスからも概観を見ることができる。向かって右側に現れる頂上が平らな山である。この山の頂上にはワリ文化の遺跡がある。

ネバド・パリアカカ
(Nevado Pariacaca。「雪で覆われたパリアカカ」の意)は、ペルーのリマ県とフニン県の境に位置する、中央アンデス山脈の山の1つである。 山には2つの山頂(北 標高5,730m、南 5,750m)がある。

ワスカラン
ペルーの最高峰でありかつまた地球上の熱帯地域での最高峰でもある。西半球で六番目に高い山でもある。標高:6,768m(南峰)。初登頂は1932年のドイツ−オーストリア隊である。

パリニャス岬
ペルー北部太平洋岸にある岬である。ピウラ県に属し、南米大陸最西端の岬でもある。最寄の都市は、少し北にあるタララ(Talara)で、沖には冷たいペルー(フンボルト)海流が南から流れて、この辺りで西へと方向を変えている。

サン・ミゲル湾
(Golfo de San Miguel)は、パナマ東部ダリエン県で太平洋に面する湾である。トゥイラ川が流れ込んでいる。南端はガラチネー岬(Cape Garachine)で北端はプンタ・サン・ロレンソ(ガルド岬)である。


<歴史>
■先コロンブス期
1000B.C.頃 - 200B.C.頃、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ北部にモチェ文化がA.D.100頃 - A.D.700頃、現トルヒーヨ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1頃 - A.D.600頃に、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。

■15世紀
クスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア人の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人によるタワンティン・スーユ(インカ帝国)によってペルー、及び周辺のアンデス地域は統合される。

■1533年
第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。

■スペイン植民地時代
植民地下のペルーでは、ペルー副王領(最初期は南アメリカ全体を統括していた)の首都が高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われた。ミタ制によってポトシ鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくとも全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは108万人になったといえば、その凄まじさが理解できるであろう。

■ペルー共和国の独立
1821年7月28日にはるばるラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、ホセ・デ・サン=マルティンの指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、アントニオ・ホセ・デ・スクレがアヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ (エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。

■1836年
ボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領によってペルーは完全征服され、南ペルー共和国と北ペルー共和国に分けられた。

■1836年10月
ペルー・ボリビア連合の成立が宣言された。

■1854年
奴隷制が廃止され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでのプランテーションで働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。

■1879年4月3日
それまで問題になっていたアントファガスタの硝石鉱山を巡って、同盟国ボリビアと共に チリ に宣戦布告され、三国で太平洋戦争を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握ったチリ軍にリマを占領されて敗北し、アリカとタクナをチリに割譲することとなった。

■太平洋戦争敗戦後
太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国や英国の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。

■1920年代
アヤ・デ・ラ・トーレがアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。

■1939年
マヌエル・プラードが大統領になると、ペルーは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系人は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まるとアメリカ合衆国に連行されるものも出た。

■ペルー革命
1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、ペレス・ゴドイ将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。

■1984年
キューバ派のトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が都市を中心に武装闘争を始める。1985年、当時32歳だったアラン・ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。

■2000年
フジモリは三選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。

■2006年
選挙により、アメリカ人民革命同盟(アプラ)から再びアラン・ガルシアが大統領に就任した。


アンデス文明
1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡もみられるものの、確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である。

プレ・インカ
プレ・インカは、インカ帝国以前のアンデス文明の諸文化として一括りにされているものの、広大な南米大陸の海岸部・乾燥した平野部・多湿な山間部という異なる環境をもつため、地域的な差異も大きい。明確な文字文化を持たず、連続性のある文化が残らなかったために遺物から当時をしのぶしかないケースも多く、また、新たに発見された遺跡により歴史的空白を後から補填されたケースもあり、その全容は依然として調査中である。

ケチュア
ケチュア(Quechua、またはQuichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られるインディオ。また、この民族が用いている言語。現在では、ボリビア、ペルー、エクアドル、チリ北部、コロンビア南部など、主に南米大陸各国で1300万人が使用している。

シカン文化
ペルー北部沿岸で750年〜1350年頃のプレ・インカ時代に栄えた文化。南イリノイ大学人類学科教授の島田泉により名づけられた。「シカン」とは「月の神殿」を意味する。地名からランバイエケ文化とも呼ばれるが、これらが別々の文明なのかどうかは論争の的となっている。

モチェ文化
Mocheは、ペルー北海岸にそそぐモチェ川から名称をとられた紀元前後からA.D.700頃まで繁栄したインカに先行するプレ・インカと呼ばれる高度な文化のひとつである。「モチーカ」と呼ばれることも多いが研究者の間では、スペイン人到着時に北海岸の住民が話していた言葉(ムチック語)の名称ということで避ける傾向が強い。

ワリ
Wariは、西暦500年〜900年ごろアンデス中央高地で繁栄したプレ・インカの文化。ワリの都は、現在のペルー、アヤクーチョ県にあったといわれている。そのため、ワリ遺跡へは、アヤクーチョ市から観光ツアーも出ている。ワリは、現在のペルー沿岸部と高地部分全体に版図が広がっていたといわれているが、太平洋沿岸部におけるワリの支配が実際にどのようであったのかは、リマ近郊やナスカ地方の一部を除けば、確実なことはほとんどわかっていない。


ナスカ文化
紀元前後から800年頃まで現在のペルー共和国海岸地帯のナスカ市周辺に栄えた文化。ナスカの地上絵で知られる。アンデス文明のうち、灌漑設備が整備され開拓の進んだ前期中間期ないし地方発展期にあたり、同時代のモチェ、カハマルカ、ティアワナコと並ぶ。宗教的中心(巡礼地であるとされる)は、ナスカ川流域のカワチ遺跡とされている。


オリャンタイタンボ
Ollantaytamboとは、インカ帝国の砦の遺跡である。1536年、マンコ・インカ・ユパンキがスペインに対し反乱を起こした際、立てこもったが、スペイン軍の攻撃の前にオリャンタイタンボは放棄された。川岸の平地と急な斜面に築かれた建築物はインカの都市建設の主な特徴を備えており、標高2846mにあるこの砦は正面に6枚岩の壁を備え、その威容を誇っている。

ビルカバンバ
Willkapampaは、一時期は首都でもあったインカ帝国最後の都市であり、現在のビルカバンバ遺跡のこと。マチュ・ピチュを発見した探検家ハイラム・ビンガムはマチュ・ピチュこそがビルカバンバに違いないと信じていたが、地元ペルーの歴史学者エドモンド・ギエン(英語版)は、ポーランドの歴史学者エルジュビェタ・ジロースカ(英語版)およびトニー・ホラク(英語版)と共に、ビルカバンバの征服に従事した兵士の記録を発見した。その記録を参考にしてビルカバンバの位置を考えたところ、エスピリトゥ・パンパという遺跡が兵士の記録と一致した。そこで彼は現地へ赴き、エスピリトゥ・パンパこそが真のビルカバンバであると確認した。

タンボマチャイ
Tambomachayはペルー共和国のクスコ市近郊にあるインカ時代の遺跡。小規模な谷の一方の斜面に石組みによって建設された沐浴場、もう一方の斜面に見張り台が残る。沐浴場は4段に分かれた階段状の構造で、下部の低い2段がプレ・インカ時代の遺構である。それよりも明らかに洗練された石組みがはっきり見られる上部の2段がインカ時代のもの。

プカ・プカラ
Puka Pukaraはペルー共和国のクスコ市郊外にあるインカ時代の遺跡。ケチュア語の「西:Puka Pukara」は「赤い要塞」の意味。赤みを帯びた石灰岩を用いているためこの名前があるが、インカ時代オリジナルの呼称は伝わっていない。水道が整備され、インカ独特の石組みによって外壁と見張り台・中庭が築かれている。石組みは、他のインカ関係の遺跡に比べてやや粗い。


サクサイワマン
Saksaq Waman、ケチュア語で満腹のハヤブサの意味)はインカの遺跡である。目的は城砦、宗教施設、その双方を兼ねた建造物など諸説あるが、確定していない。1983年、クスコの市街としてユネスコの世界遺産に登録された。ペルーの南東部に位置するインカ帝国の古都クスコ市の北に立地する。同市はインカにおける聖なる動物ピューマをかたどって建設されたとする説があるが、この説に従えばサクサイワマンはピューマの頭に相当する。巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、幅数百mの平地を挟んだ南北の丘に築かれている。


チムー王国
ペルー北部の沿岸部でチムー文化を担った王国で、850年頃から1470年頃まで存在した。後期中間期(プレ・インカ)最大の王国で、1000kmの海岸線とアンデスの人口の2/3を含んだ。現存する最大の遺跡はチャン・チャン。

アイマラ
Aymaraは、南アメリカのボリビア、ペルーやチリのアンデス地域に住む先住民族、インディオの一部族。ボリビア、ペルーのチチカカ湖周辺、およびチリやアルゼンチンの一部に住む。人口はおよそ300万人といわれている。アイマラ語を話す。アイマラ族の歴史については、さまざまな説がある。一説では、アルティプラーノの代表的な遺跡であるティワナク遺跡(紀元前後頃から紀元後12世紀頃)の主な担い手だったという説があり、他方で、紀元12世紀頃にティワナク社会が崩壊したあと、チリやペルー南部の海岸部から北上してきたという説もあり、やがて彼らが現在のペルー領にルパカ王国 (Lupaqa) を、ボリビア領にパカヘ王国 (Paqaje) などのアイマラ諸王国を築いたという説がある。

ペルー副王領
スペインが中南米の植民地化の間に作った4つのうち2つ目の副王領である。1543年に創設された副王領は当初は現在のベネズエラの海岸部を除くスペイン領南アメリカのすべてを含んでいた。植民地時代を通して、ペルーはスペイン領アメリカで最も価値がある領地と考えられていた。ヨーロッパに大量に出荷される銀は、特にポトシ鉱山で産出された。先住民の強制労働の搾取によりリマの鉱山事業者や豪商の社会が繁栄した。

コンキスタドール
(Conquistador) とはスペイン語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。代表的なコンキスタドールとしては、1521年にアステカ王国を侵略したエルナン・コルテス、1533年にインカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロが挙げられる。彼らは金銀を求めてアメリカ大陸を探索し、アメリカ大陸の固有文明を破壊し、黄金を略奪した。またインディオの生命財産を脅かし、異教徒の女性に対し強姦・暴行を行った者も多数存在する(従軍した宣教師の中にはバルトロメ・デ・ラス・カサスのように中南米での虐殺・虐待を告発した者も存在したが、少数であり、またカサスのような者は激しい批判を受けた)。

 


<世界遺産>
クスコ市街
アンデス山脈中の標高3600mにある。現在の人口はおよそ30万人。クスコとは、ケチュア語 (Quechua) で、「へそ」を意味し、タワンティン・スウユ(Tawantinsuyu、インカ帝国の正式名称)の首都であり、文化の中心だった。現在でもペルーで有数の都市の1つである。2008年3月13日、考古学者により古代の寺院、道路、導水設備の遺跡がサクサイウアマンで発見された。現在は、マチュ・ピチュ遺跡との間、およびチチカカ湖のほとりのプーノとの間にペルー南部鉄道が走っているほか、首都リマからは空路で接続されている。

マチュ・ピチュの歴史保護区
ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の尾根(標高約6,750ft=2,057m)に位置する、よく保存されたインカの遺跡。「マチュ・ピチュ」はケチュア語で「老いた峰」を意味する。山裾からはその存在を確認できず、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれる。この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。

チャビン遺跡
ペルー中部、ワラス近郊にある遺跡である。リマから北に約250km、ブランカ山脈(Cordillera Blanca)東麓のアンデス山中にある。標高は3200mほど。インカ以前の紀元前1500年頃から200年頃にかけて栄えた、チャビン文化の代表的な遺跡である。内部に地下通路が縦横に張り巡らされている。

ワスカラン国立公園
ペルー中央部アンカシュ県のアンデス山脈ブランカ山系(Cordillera Blanca)に設定されている国立公園である。首都リマから北におよそ400キロメートル上の標高3,000〜6,000メートルに位置し、世界で最も高い国立公園でもある。広さは四国のほぼ半分に相当する大きさで、世界自然遺産に登録されていると同時に、生物圏保護区にもなっている。ワスカラン国立公園は標高2,000m級から6,000m級の山々が聳えている。公園の名の由来にもなったワスカラン山南峰(標高6,768 m)はペルー最高峰で、アルパマヨ(Alpamayo、標高5947m)やピスコ(Pisco)といった近隣の山頂を凌駕している。

チャン・チャン遺跡地帯
ペルー共和国北西部にある遺跡。チムー文明の首都で、チャンチャンとは「輝ける太陽」の意。王の宮殿。一人の王のために一つのシウダデラが作られ、敷地内には9つある。シウダデラの最奥は王の墓となっている。

マヌー国立公園
マードレ・デ・ディオス県やクスコ県にまたがるペルー最大の国立公園である。ペルー政府に保護される前から、その近づきにくさによって余り荒らされることはなかったが、陸路での近づきにくさは今でも変わりがない。

リマ歴史地区
旧市街(セントロ地区)マヨール広場(旧アルマス広場) 大統領府、カテドラル、市庁舎及び市の主要公共施設が立ち並ぶ。カテドラル - フランシスコ・ピサロが自らの手で礎石を置いたとされペルーでもっとも古い大聖堂。フランシスコ・ピサロの遺体が安置されている。

リオ・アビセオ国立公園
リオ・アビセオ国立公園内に残る遺跡のうち、最大でかつ最も良く知られているものはチャチャポヤス文化(Chachapoyas)の遺跡であるグラン・パハテン(Gran Paja#en)である。この遺跡はサン・マルティン地方の境界線に近い丘の頂上にある。そのそばには、一連の断崖の石墓群であるロス・ピンチュドス遺跡(Los Pinchudos)がある。

ナスカの地上絵
ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原の地表面に「描かれた」幾何学図形、動植物の絵。1939年6月22日、動植物の地上絵は考古学者のポール・コソック博士により発見される。ドイツの数学者、マリア・ライヒェがこの地に住み着き、彼女を中心として、地上絵の解明作業と、保護が行われるようになった。あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの地上絵の全体像が把握が難しい。このような巨大な地上絵を何故描いたのかというのが大きな謎の一つとなっている。

アレキーパ市の歴史中心部
ペルー共和国南部にある同国第2の都市。人口は約90万人。アレキパ県の県都である。アレキパはインカ帝国の第4代皇帝マイタ・カパックの命によって建設された。アレキパの名前の由来は皇帝がケチュア語で人々に"Ari qhipay"(ここに住みなさい)と言ったことからきている。アレキパのセントロにある建物は近郊で採れる白い火山岩から造られているため"Ciudad Blanca"(白い町)と呼ばれている。

神聖都市カラル=スーペ
カラル (Caral) ないしカラル=スーペ (Caral-Supe)は古代アンデス文明の遺跡で、2009年にユネスコの世界遺産リストに登録された。ペルーの首都リマの北方およそ200 km に位置するリマ県バランカ郡のスーペ谷に残る大規模な遺跡で、研究者たちの中にはアメリカ大陸最古の都市遺跡と評する者もいる。ポール・コソックは1948年にチュパシガロ・グランデ (Chupacigarro Grande) を発見した。この遺跡は現在のカラル遺跡に含まれ、天体観測に関する痕跡などが見られるものだったが、この遺跡は当時アンデス一帯で捜し求められていた典型的な遺物がほとんど出土しなかったことから、20世紀末まではほとんど注目されなかった。しかし、1994年にペルーの国立サン・マルコス大学教授の考古学者ルート・シャディが更なる発掘を行い、砂漠地帯から神殿建造物群、円形劇場、近隣の住居群をともなう紀元前2500年前後の遺跡を発見してから状況は一変した。都市建造物群は607,000 m2 の広がりを持ち、広場や住居群を備えていた。カラルが栄えた時期はエジプトの大ピラミッドが建造された頃とほぼ同じだが、食糧生産の発達が不十分だった地域での大規模建造物群という点で、非常に特異なものである。


トケパラ洞穴
ペルーの南高地タクナ県の海抜2700mに位置する石期(Lithic)の岩陰遺跡。トケパラ銅鉱山の南東13km、タクナ市からは直線距離で154kmに位置する。トケパラの洞穴に入るとその壁面に狩猟のさまざまな場面を描いた壁画(岩絵)を見ることができる。狩人たちが棒を持って南米の野生のラクダ科の動物であるグアナコの群れを追い込んで捕殺している場面を表現している。炉跡から採取された炭化物の放射性炭素年代測定の結果は9490±140B.P.、つまり紀元前7500年前後の年代を示している。


キープ (インカ)
(Quipu)は、インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法。縄の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれている。「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされ、また、日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていた。インカ帝国には、普通の文字は無くこのキープが文字代わりに使用されてきた。王や役人は人民の統治に必要な情報(総人口や兵士の数、納税品の量)などをキープに記録していた。


カランカス隕石
(Carancas meteorite)は2007年9月15日にペルーのボリビア国境付近にあるプーノ県カランカス村に落下した石質隕石である。落下後、クレーターをつくり、ヒ素化合物を含む地下水の蒸気を発生させ、落下地点に近づいた村人たちに健康被害(ヒ素中毒)を与えた。


シエンシアーノ
Club Sportivo Ciencianoはペルー・クスコに本拠地を置くサッカークラブ。クスコ大学理学部(Colegio Nacional de Ciencias)を起源とする。シエンシアスCienciasは「科学」を意味するスペイン語である。ペルーリーグ優勝経験はないが、準優勝が3度ある。

ウニベルシタリオ・デポルテス
Universitario de Deportesは、ペルーの首都リマを本拠地とするサッカークラブである。1924年、サンマルコス国立大学の学生達によってフェデラシオン・ウニベルシタリア(Federacion Universitaria)の名で設立された。1931年に現在の名称となる。


ピエルマリア・オッドーネ
(Piermaria J Oddone, 1944年 - )はペルー生まれのの粒子物理学者である。アシンメトリック(非対称)Bファクトリー(B中間子を大量に作り出してCP対称性の破れを検証する実験法)の発明によりパノフスキー賞を受賞した。ペルーに生まれた。1965年にマサチューセッツ工科大学を卒業し、1970年プリンストン大学で学位を得た。

イマ・スマック
Yma Sumac、1922年9月13日 - 2008年11月1日はペルー出身の女性歌手。1950年代中心に活躍した歌手であり、4オクターヴ以上の音域を誇るソプラノとエキゾチックな美貌で一世風靡。1950年にアメリカのキャピトルと歌手契約を交わし、インカ帝国王族の末裔という触れ込みでデビューをした。ユマ・スマックとも読む。

ジョン・ウォルター・グレゴリー
(John Walter Gregory, FRS、1864年1月27日 - 1932年6月2日)はイギリスの地質学者かつ探検家。氷河地質学についての研究とオーストラリアおよび東アフリカの地理学・地質学についての研究で知られている。1932年1月、グレゴリーはアンデスを中心とする火山と地震についての調査・研究を行うために南アメリカへの調査へ行った。1932年6月2日、ペルー南部のウルバンバ川において彼のボートは転覆し彼は溺れた。彼の死体は3日後に発見された。

ヘンリー・イアン・キュージック
(Henry Ian Cusick)はスコットランドの俳優。テレビ・映画・舞台と幅広く活躍している。父親はスコットランド、母親はペルー人で、ペルーのトルヒーリョで生まれる。その後、スペイン、スコットランド、トリニダード・トバゴ等で過ごす。15歳でスコットランドに戻り、6か月の間ロイヤル・スコティッシュ・アカデミーで学んだ後、Citizens' Theatreに参加する。

パチャクテク
Pachakutiq=世界を震撼させる者、世界を造り変える者、?-1471年、在位1438年-1471年)は、クスコ王国の9代サパ・インカ(皇帝)(上王朝4代目)である。クスコ王国を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。彼の在世中、クスコ王国は小さな村から、チムー王国と競い最終的に取って代わる帝国へと発展した。

ワイナ・カパック
Wayna Qhapaq:すばらしい若者、?-1527年、在位1493年-1527年)は、インカ帝国の11代サパ・インカ(皇帝)(上王朝6代目)である。ワイナ・カパックはインカ帝国(タワンティンスウユ)を、南部では現チリ・アルゼンチンにまで広げ、北部では、現エクアドル・コロンビア南部となっているチンチャ・スウユを併合するため、何年間も戦った。

アタワルパ
Atawallpa:幸福な鶏、1502年頃-1533年8月29日、在位:1532年-1533年)は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。

ワスカル
Waskhar:喜びの太陽、1503年-1532年、在位1527年-1532年)は、インカ帝国の12代サパ・インカ(皇帝)である。父11代インカ皇帝ワイナ・カパックと兄で皇太子のニナン・クヨチがともに、天然痘と考えられている伝染病によりキトで亡くなると即位した。

トゥパク・アマル
Tupaq Amaru=高貴な龍又は輝ける龍、?-1572年9月24日、在位:1571年-1572年)は、インカ帝国最後の「皇帝」である。ただし、彼が「皇帝」となるより遙か以前に、インカ帝国はフランシスコ・ピサロによって征服されており、一部の残党がクスコ北方のウルバンバ川流域に立てこもってスペインに抵抗を続けていた。

ディエゴ・デ・アルマグロ
Diego de Almagro、1479年 - 1538年7月8日)は、スペイン人のコンキスタドール(征服者)。別名「エル・アデランタード(El Adelantado、アデランタードとは征服地の統治権を持つ司令官)」または「エル・ビエホ(El Viejo、老人)」とも呼ばれた。フランシスコ・ピサロの仲間だったが後にライバルとなった。スペインによるペルー征服に参加して、ヨーロッパ人として最初にチリを発見したことで知られる。

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ
(Jose Gabriel Condorcanqui Noguera、1742年3月19日 - 1781年5月18日)、またの名をトゥパク・アマル2世は、植民地時代ペルーにおける反乱事件の指導者である。コンドルカンキは、インカ帝国の都であったクスコ南方140kmほどに位置するティンタ郡のクラカ(村長のようなもの)の家に生まれた(出生を1740年3月24日とする資料もある)。彼はインカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔と自称し、その確認を求めてリマのアウディエンシア(最高司法院)に訴え出たこともあった。

アビマエル・グスマン
(Manuel Ruben Abimael Guzman Reynoso、1934年12月3日 - )は、ペルーの極左ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」の最高指導者。組織からは「ゴンサロ大統領」と呼ばれ、個人崇拝の対象だった。アレキパ出身。15歳で共産党に入党し、アレキパ大学ではカントを専攻した。卒業後の1962年にアヤクーチョのサン・クリストバル・デ・ワマンガ国立大学哲学科教授となり、学生からはどんなことでも納得させるとして「シャンプー」と呼ばれた。

ディアマンテス
(DIAMANTES)は、日系ペルー三世のアルベルト城間を中心に1991年に結成された、沖縄県を中心に活動している三人組のラテンバンドである。1989年からプロ活動を行っていたトリオ・ディアマンテスを基盤として、1991年に結成。コザのライヴハウスP'a Ti を中心にバンド活動を始める。1992年、『ガンバッテヤンド』がオリオンビールのCMソングとして沖縄でオンエアされると大きな話題となった。

ガブリエラ・ペレス
(Gabriela Perez del Solar, 1968年7月10日 - )は、ペルーの元バレーボール選手である。2006年からは同国の国会議員を務める政治家でもある。身長194cm。14歳でバレーボールを始める。1985年のワールドカップに17歳で出場しベストブロッカーを受賞した。1988年のソウル五輪で銀メダルを獲得。その後は主にイタリアのセリエAでプレーをした。

ペルー Peru
南アメリカ西部に位置する共和制国家である。北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。首都はリマ。紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。

 

リマ/Lima
ペルー共和国の首都並びに政治、文化、金融、商業、工業の中心地である。人口約800万人で同共和国最大。南米有数の世界都市であり、2010年の国際連合の統計によると、近郊を含む都市圏人口は894万人であり、世界第27位である。インカ帝国の支配が及ぶ前の先コロンブス期には既に現在のリマの場所にはいくつかのアメリカンインディアンのグループが居住していたと考えられており、大地神パチャカマックを信仰するイチマ文化を形成していた。3世紀から8世紀ごろにかけてルリン河谷のパチャカマを中心に発展したもので、この地にはいくつかの独特な遺構が残されている。インカ時代に入ると巨大な太陽神殿や月の館が建設され、宗教的な中心地の役割を果たすようになった。

インカ・マンコ・カパック国際空港
Inca Manco Capac International Airportとは、ペルー共和国プーノ県フリアカにある空港。国際空港とされているが国際線の発着はない。保有する滑走路は中南米で2番目に長い。名称はインカ皇帝マンコ・カパックにちなむ。


外務省:ペルー共和国
在ペルー日本国大使館


ペルー・レイル
ペルー・レイルは、クスコ〜マチュピチュ間などを走る、地球上で2番目に標高の高い場所を走る列車。列車は、ペルー南部において観光、貨物、チャーターなど広範囲にわたるサービスを提供しており、特にマタラニ港とペルー第二の都市であるアレキパ間を結ぶ貨物列車として有名である。

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国立サンマルコス大学
国立サン・マルコス大学(スペイン語: Universidad Nacional Mayor de San Marcos、UNMSM)は、ペルーの首都リマにある公立大学。

リマ大学
Universidad de Limaリマ大学 はペルー首都リマに位置する大学で、1962年設立の私立大学の1つである。1960年代、商学、産業学の大学教授たちのグループにより設立が計画され、リマ郡ヘススマリア地区のキャンパスでわずか120人の学生と共に始まった。 今日、リマ大学は10,470人の学生、8学部、大学院、科学研究機関など豊富に構成されている。

太平洋大学
The University of the Pacific、はペルーの首都リマに位置する大学で、1962年設立、少人数教育を行う大学としてカトリカ大学とともにペルー国内の2大私立大学と称される。特に経済学部はラテンアメリカ各国の中でも最高峰であるとされている。


カヤオ
El Callaoは、ペルー首都リマ西部に位置する、国内最大で主要な港町である。カヤオ特別区の中心地である。リマと共にリマ都市圏を形成する。国内人口の3分の1がここに居住している。カヤオは、1537年に設立した。1535年にリマが設立したちょうど2年後であった。カヤオはすぐさまスペインの太平洋における主要な貿易港となった。

カハマルカ
(Cajamarca)はペルー北部の都市。標高2750m。山に囲まれた盆地にある。カハマルカ県の県都である。町並みは植民地時代の面影を濃く残し、インカ帝国最後の皇帝アタワルパがフランシスコ・ピサロによって幽閉され最期をむかえた地としても知られる。

イキトス
(Iquitos)は、ペルー北東部にあるロレート県の県都。アマゾン川上流のマラニョン川を面している。河口から3700kmあり3500トンの大型船がさかのぼる。人口は33万4013人。「陸路ではいけない世界最大の町」といわれており、船か飛行機でしか町に入ることはできない。

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チクラーヨ
(Chiclayo)は、ペルー北西部の太平洋岸の商業都市。急激に近代化が進む。 人口は57万4408人。1987年 南東30km離れた郊外のシパンにモチェ文化の王墓が発見される。

トルヒーリョ
(Trujillo)は、ペルーのラ・リベルタ県の都市である。ラ・リベルタ県の県都である。ペルーの北西部に位置する。国内第3位の規模である。ペルー北部の経済中心地である。モチェ川の河岸、太平洋への河口近くに位置する。

ユンガイ
Yungayは、ペルーの北部のアンカシュ県の村である。アンデス山脈に属し、ペルー最高峰であるワスカランの麓にある。村はリマの北約450kmに位置し、標高は約2,500m。2004年現在の人口は約9,000人である。1970年5月30日に発生したアンカシュ地震(マグニチュード7.7)により、ワスカランの北峰が氷河と共に大崩落を起こす。約15,000,000m3の土砂と氷塊が3000mの標高差から流れ落ち、時速300kmでユンガイの集落を襲った。当時のユンガイの人口は約18,000人であったが、そのほとんどが死亡した。

アレキパ
(Arequipa)は、ペルー共和国南部にある同国第2の都市。人口は約90万人。アレキパ県の県都である。アレキパはインカ帝国の第4代皇帝マイタ・カパックの命によって建設された。アレキパの名前の由来は皇帝がケチュア語で人々に"Ari qhipay"(ここに住みなさい)と言ったことからきている。

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フリアカ
(Juliaca) はペルー共和国南部プーノ県サンロマン郡の中心都市にして郡都である。アンデス山脈東側、チチカカ湖近くの標高3825メートルに位置する、毛織物や羊毛取引の中心地である。市内はインカ・マンコ・カパック国際空港や世界有数の高所を走るペルー南部鉄道が発着する駅がある交通拠点となっており、首都リマや県都プーノ、および隣県の県都であるクスコや隣国ボリビアと結ばれている。


アンカシュ地震
1970年5月31日にペルー北部アンカシュ県の高原地帯で発生した地震。現在に至るまで記録上ペルーで最も被害の大きかった地震でもある。地震による死者・行方不明者は約70,000人で、500,000人以上が家屋を失った。震源地に近かったアンカシュ州の州都ワラス(Huaraz)では当時の人口の約半分にあたる30,000人以上が死亡し、建物の約90%が倒壊した。


プカルバ
(Pucallpa ケチュア語で「赤い土」の意)はペルー中部の内陸都市。アマゾン川流域のジャングル地帯に位置し、開発の拠点となっている。アマゾン川の支流、ウカヤリ川の両岸を占める。ウカヤリ県の県都。人口は20万人を超える。

ワンカヨ
(Huancayo)は、ペルー中部にある都市である。フニン県に属する。人口は30万5039人(1998年)。アンデス山脈東部、標高3350mに位置する。有名である日曜市では周辺に在住する先住民が食料品、手芸品を販売する。大聖堂、国立中央ペルー大学がある。

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ワカチナ
(Huacachina)は、ペルー南西部イカ県にある小村。イカ近郊のリゾート地として知られている。人口は115人(1999年)。ワカチナは砂漠内の小さな湖の周囲にあり、「アメリカのオアシス」と呼ばれている。近年は数百メートルの砂丘を利用したサンドボーディングやサンドバギーの人気も高まっている。 伝説では、土地の美しい姫がハンターに入浴を覗かれているのに気付き、入浴していた水たまりを湖に変えて消えたのが、湖の始まりとされている。

アヤクーチョ
(Ayacucho)は、ペルー南部に位置する都市で、アヤクーチョ県の県都。人口11万8960人。 アンデス山脈のマンタロ川の上流域、標高2731mに位置する。1825年まではワマンガと呼ばれていた。サン・クリストバル・デ・ワマンガ国立大学(1677年創立)がある。

プーノ
(Puno) はペルー共和国南部にある県名および、都市名。人口は約22万人。他の多くのペルーの都市と同じく、市街の中心部にアルマス広場とカテドラルを持つ。世界有数の高所を走るペルー南部鉄道が発着する駅があり、インカ・マンコ・カパック国際空港のあるフリアカや隣県の県都であるクスコと結ばれている。


1.面積:約129万平方キロメートル(日本の約3.4倍)
2.人口:29.8百万人(2011年(推定)ペルー統計情報庁)
3.首都:リマ
4.民族:先住民45%、混血37%、欧州系15%、その他3%
5.言語:スペイン語(他にケチュア語、アイマラ語等)
6.宗教:国民の大多数はカトリック教

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1821年 スペインから独立
1968年〜1980年 軍事政権
1980年〜1985年 ベラウンデ政権
1985年〜1990年 ガルシア政権
1990年〜1995年 フジモリ第一期政権
1995年〜2000年 フジモリ第二期政権
2000年〜2001年 フジモリ第三期政権、同政権退陣、パニアグア暫定政権
2001年〜2006年 トレド政権
2006年〜2011年 ガルシア政権
2011年〜 ウマラ政権

■主要産業:製造業、農牧業、鉱業

■主要貿易品目(1)輸出 銅、金、繊維製品、魚粉(2)輸入 工業用中間財、燃料・潤滑油、工業用資本財


ヌエボ・ソル
(nuevo sol) は、ペルーの通貨単位。一般には「ソル」と呼ばれる。日本語では「新ソル」と呼ぶことも多い。スペイン語のnuevoは「新しい」、solは「太陽」の意味である。1991年にこの通貨単位になったとき、以前使っていたソル(ペルー・ソル)という単位と区別するためにヌエボがつけられた。


アンカシュ地震
1970年5月31日にペルー北部アンカシュ県の高原地帯で発生した地震。現在に至るまで記録上ペルーで最も被害の大きかった地震でもある。地震による死者・行方不明者は約70,000人で、500,000人以上が家屋を失った。震源地に近かったアンカシュ州の州都ワラス(Huaraz)では当時の人口の約半分にあたる30,000人以上が死亡し、建物の約90%が倒壊した。

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トゥパク・アマル革命運動
Movimiento Revolucionario Tupac Amaru − MRTAは、ペルーの左翼武装組織である。活動拠点は主としてリマに存在した。1983年に、アメリカ革命人民同盟(APRA)を中心とする武装闘争路線を採るペルーの左翼組織が合流し、ビクトル・ポライ・カンポス(通称「ロランド司令官」)により結成された。

コロンビア・ペルー戦争
アマゾン川流域の国境地帯を巡って引き起こされたコロンビアとペルーの武力衝突である。小規模な戦闘ののちに、国際連盟の仲介などで解決した。事件は1932年にペルー国内での暴動から始まり、イキトスは蜂起した市民が支配する状態となった。ペルー国内は、同年7月に武装蜂起が起きるなど、政情不安であった。同年9月1日、イキトスの過激派市民は、越境してレティシアへ侵入し、コロンビア官憲を排除して占拠してしまった。

アンコン条約
1883年10月20日に結ばれた太平洋戦争におけるペルーとチリの講和条約。太平洋戦争において、ペルーはチリに首都・リマを占領され、軍はアンデス山中に撤退し、抵抗を継続していた。しかし、その抵抗も限界と判断されたため、ボリビアはチリと戦闘を継続していたものの、ペルーはチリと講和することとなった。
1883年10月20日にリマの北の町、アンコンで講和条約は結ばれた。これにより、両国は戦闘を停止し、ペルーは南部のトラパチャ地方をチリに譲渡した。

アメリカ革命人民同盟
Alianza Popular Revolucionaria Americana、略称:APRA)は、1924年5月7日にビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレが亡命先のメヒコ市で設立したペルーの社会民主主義政党である。社会主義インターナショナルに加盟している。党名の略称から単にアプラ(APRA)党とも。


ミタ制
(mita )とは、スペイン統治下のペルーやボリビアにおける交代制の有償強制労働制度。インカ帝国時代の傭役制を規範として副王・トレドによって制度化された。ミタ制度は吏員や特殊技能者を除く原住民成人男子を対象にした労働力割当制度で、総数の7分の1ずつの原住民が数ヶ月交代で駆り出され、小麦やブドウ農園、オブラヘ、精糖所などでの労働に従事させられた。特にポトシ銀山では莫大な労働力を確保するために特殊な、「鉱山ミタ制度」が敷かれていた。

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■経済
産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。石油やガスなどの天然資源も産出する。また、中華人民共和国に次いで世界第2位(2003年)の漁獲高を誇る水産業もペルーの主要な産業である。


■国民
ペルーの民族構成はメスティーソ45%、インディヘナ(先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、ヨーロッパ系ペルー人15%、アフリカ系ペルー人、中国系ペルー人(華人)と日系をはじめとするアジア系ペルー人などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。


アンティクーチョ
(Anticucho)は、南米アンデス地域各国でよく食されている串焼き料理の1つである。インカ帝国の血を受け継ぐ国々で広く人気のある料理となっている。ペルー、ボリビア、チリなどでは屋台や出店(anticucherias)などで売られている。数cm角に切り分けた肉類を唐辛子(アヒ・アマリージョ)、ニンニク、クミン、赤ワインなどで作ったタレに漬け込み、5-6個を金串や竹串に刺して焼く(平らに切り出したハツを波打つように串に刺して焼く場合もある)。

インカ・コーラ
(INCA KOLA)はペルーのJose R. Lindley社が発売しているコーラ。ペルーの首都リマ市の建設400年を記念して1935年に発売された。黄色のコーラで、甘味が強く炭酸はあまり強くない。ペルーの飲料で、コカ・コーラをおさえてペルー国内シェアNo.1のコーラである。

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ピスコ
(Pisco) は、ペルー原産のブドウ果汁を原料とした蒸留酒。色は無色透明、あるいは淡い琥珀色でアルコール度数は約42度。16世紀にカナリア諸島からペルーへブドウが持ち込まれ、気候等の条件が合っていたため栽培が盛んに行われ、ピスコの製造が始まった。


■言語
公用語はスペイン語(ペルー・スペイン語)、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。


■宗教
ローマ・カトリックが89%程であるが、近年カトリックの数は減少しつつある。その他の宗教としては福音派プロテスタントが6.7%など。

■教育
主な高等教育機関はサン・マルコス大学(1551)、ペルー・カトリカ大学、太平洋大学(1962)など。

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イポカンポ出版社
Ediciones del Hipocampoはペルーに本社を置く出版社。本社を首都のリマに置く。2000年に創業。外国人旅行者を強く意識して、主にペルーの観光地の魅力を紹介する出版事業を行なっている。リマ、クスコ、ナスカ、アレキパ、マチュ・ピチュといったペルーの有名観光地やインカ文化とり上げた写真集や観光ガイド、絵葉書、カレンダー、トランプカード等を出版している。


インディヘニスモ
Indigenismoは、ペルー先住民(「インディオ」あるいは「インディヘナ」)の擁護と文化的、社会的復権を求める社会運動。19世紀から20世紀にかけてのペルーにおいて、思想や文学に大きな影響を与えたほか、ラテンアメリカの各地域に共通する思想として、メキシコやボリビアへも波及した。

クリオーリョ
criollo)とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。"criollo" ”crioulo" という単語は "criar"(育てる)という動詞から派生しており、もともとは「現地で育った」あるいは「元来の土地とは異なる場所で生まれ育った」ことを意味する。したがって、動植物や、言語・料理に関しても、「その土地で生まれた」「その土地固有の」という意味合いで"criollo"という形容詞が付加されることもある(例えば馬のクリオーリョ種)。

メスティーソ
Mestizo、は、白人とラテンアメリカの先住民(インディオ)の混血である人々。ポルトガル語ではメスチッソ、またスペイン語はメスティソ、メスチーソ、メスチソなどとも書く。Mestiçagemなど原語では、人種の違うもの同士での婚姻や交配を意味し、転じて混血児全般を表す言葉になった。特に白人とインディオの混血のことを指すことが多い。

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■音楽
国内の全域において、ニューヨーク生まれのサルサが愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『コンドルは飛んで行く』をはじめとするケーナやチャランゴを使ったアンデスのフォルクローレである。クリオーリャ音楽は、ペルーに土着したアフリカやヨーロッパの音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。


コンドルは飛んでいく
この曲は1913年にペルー人作曲家であり民俗音楽研究家であったダニエル・アロミア=ロブレスが、自身で採譜した伝承曲のメロディをモチーフにして書いたオペレッタの序曲として発表された。すなわち、彼の作曲作品である。オペレッタそのものは当時のロシア革命やメキシコ革命などを時代背景として先住民系鉱山労働者の団結とアメリカ人鉱山主との闘争をうたったかなり政治的メッセージ色の強いものだったが、序曲であったため原曲には歌詞はない。


ダニエル・アロミア・ロブレス
1871年1月3日 - 1942年6月18日はペルーのオペラとサルスエラの作曲家、音楽学者。フォルクローレをもとに、サルスエラのために『コンドルは飛んでいく』を作曲した。この曲はサイモン&ガーファンクルの編曲によって知られている。
ワヌコ出身。1882年に一家はリマに移住した。1892年に国立サンマルコス大学の医学部に入学するが、1894年に大学を辞め音楽の道に進んだ。南米各地の民謡を収集し、1910年にアンデス音楽の構造は五音音階であることを論文で発表した。

ピエルマリア・オッドーネ
ピエルマリア・オッドーネ(Piermaria J Oddone, 1944年 - )はペルー生まれのの粒子物理学者である。アシンメトリック(非対称)Bファクトリー(B中間子を大量に作り出してCP対称性の破れを検証する実験法)の発明によりパノフスキー賞を受賞した。

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マリオ・バルガス・リョサ
ホルヘ・マリオ・ペドロ・バルガス・リョサ(Jorge Mario Pedro Vargas Llosa, 1936年3月28日 - )は、ペルーの小説家。アレキパ出身。ラテンアメリカ文学の代表的な作家でありジャーナリスト、エッセイストでもある。主な作品に『都会と犬ども』『緑の家』『世界終末戦争』など。1976年から1979年、国際ペンクラブ会長。2010年ノーベル文学賞を受賞。

ホセ・マリア・アルゲダス
1911年1月18日 - 1969年12月2日は、ペルーの小説家、文化人類学者。ケチュア語を活かした独自の文体でインディオ世界を描くインディヘニスモの大家で、ペルーの国民的作家として敬愛された。代表作に『深い川』『すべての血』など。両親ともに白人で、父はインディオの権利を擁護する弁護士[1]であった。早くに母を亡くし、3歳で祖母のもとへ行く。6歳の時に継母を迎えるが、資産家であった継母に嫌われ、調理場の桶の中で寝泊まりするような生活を強いられた。そのため、もっぱら使用人のインディオ達に囲まれて育つことになるが、これにより少年時代はスペイン語よりもケチュア語を得意とした。

グスタボ・グティエレス
グスタボ・グティエレス・メリノ (Gustavo Gutierrez Merino, 1928年6月20日リマ - ) はペルー出身のドミニコ会のカトリック司祭、神学者。解放の神学の提唱者の1人。ノートルダム大学で神学のジョン・オハラ枢機卿教授資格を持ち、教皇庁立ペルーカトリック大学の教授である。欧米の大学でも客員教授としての経験を持つ。ペルー言語学院の会員であり、1993年にはレジオンドヌール勲章も受賞している。

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タニア・リベルタ
Tania Libertad、1952年10月24日はペルー出身の歌手。1952年10月24日にペルーの北部のサーニャ(Zana)に生まれる。本名は、Tania Libertad de Souza Zuniga である。チクラージョ(Chizlayo)にて、育つ.5歳の時から、歌手として活躍している。十代のころ、リマに移り、ナイトクラブで歌う。ラ・コンタマニア(La Contamania)のRCA Victor のレコード録音が、ペルー国内でヒットし有名になる。ペルーの黒人系音楽風の曲を、いろいろリリースする。政治的メッセージの強いヌエバ・カンシオンの歌を、少なからず手がける。

アルマンド・ロブレス・ゴドイ
Armando Robles Godoy, 1923年2月7日 - 2010年8月10日は、ペルー共和国の脚本家、映画監督。1970年の日本万国博覧会を機に開催された日本国際映画祭において、初めて日本に紹介されたペルー映画『みどりの壁』(1970年)の監督として注目を集めた。続いて公開された『砂のミラージュ』(1972年)では、その詩的な映像美で強い印象を残した。

ホルヘ・チャベス
1887年1月13日 − 1910年9月27日はフランス系のペルー人で航空のパイオニアの一人である。アルプス越えの飛行に挑戦し、着陸寸前に墜落し事故死した。パリでペルー人の両親のもとに生まれた。Violet Schoolで工学を学んだ。ファルマン兄弟の飛行学校に入学し1910年2月28日ランスで初飛行した。フランスやヨーロッパ各国の飛行競技会に参加し8月8日にはイギリスのブラックプールまでブレリオ単葉機で飛行し1647mの高度記録を記録した。リマの国際空港はホルヘ・チャベス国際空港と命名されている。

ワマン・ポマ
ワマン・ポマ(Felipe Guaman Poma de Ayala、1550年? - 1616年?)はインカ帝国出身のインディオ。1936年に出版された『新しい記録と良き統治』の執筆者として知られると共に、インカ帝国史及び植民地社会における重要な証跡を残した人物である。『新しい記録と良き統治』は、1615年に当時のスペイン国王フェリペ3世に宛てた1000ページ・挿絵500点を超える膨大な書簡で、インカ帝国時代、あるいはそれ以前のアンデスの歴史、スペイン人による征服史などの記録と植民政策に対する提言がカスティーリャ語で書かれたものである。

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ホセ・デ・サン=マルティン
1778年2月25日 - 1850年8月17日は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。1778年、アルゼンチン北東部の小さな村である、コリエンテス州のヤペユーにスペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の子として生まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。

シモン・ボリバル
1783年7月24日 - 1830年12月17日は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。

アントニオ・ホセ・デ・スクレ
1795年2月3日 - 1830年6月4日は南アメリカの諸国をスペインから独立に導いた軍人、政治家。第二代(初代はシモン・ボリバルが名目的な立場のみだったので事実上の初代)、ボリビア大統領。シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも)の部下で良き理解者としても知られる。

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フアン・ベラスコ・アルバラード
(Juan Velasco Alvarado、1910年6月16日 - 1977年12月24日)は、ペルーの軍人、政治家。ベラスコはトゥパク・アマルー2世による反乱以来、ペルー近代史上はじめてペルーの抱える病理に対して抜本的な対策を採った人物であり、ペルー革命によってインディオの復権が進められた結果、インディオはピサロの征服以来400年以上の長きに渡って失われていた自尊心を取り戻すきっかけを掴み、革命以降白人に対してのインディオやチョロによる卑屈な態度は著しく減少した。

アラン・ガルシア
(Alan Gabriel Ludwig Garcia Perez、1949年5月23日 - )は、ペルーの政治家。同国の大統領を2度(1985-1990、2006-2011)歴任した。リマの中流家庭の出身。父親もAPRAの書記で、ガルシアは幼い頃からAPRA支持者の子供向けの学校「カサ・デル・プエブロ(人民の村)」に出入りしていた。APRAの創設者、ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレから教えを受けたこともある。

マンコ・カパック
Manqu Qhapaq 、1200年前後)は、インカ神話によるクスコ王国の初代国王である。マンコ・カパックの出自については複数の伝承が伝えられている。マンコ・カパックは太陽神インティ(Inti)の息子にして天の神パチャカマック(Pachacamac)の兄弟とされており、自身は炎と太陽神として崇拝されたという神話がある。

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ
(Inca Garcilaso de la Vega、1539年 - 1616年)はメスティソの歴史家、文筆家。ペルーに在住し、1561年にスペインに移った。父はスペイン人の征服者、カピタン・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガで、母はインカ王女のチンプ・オクリョ(チンプ・オクリョは、ワイナ・カパックの四男のワルパ・トゥパック・インカ・ユパンキの娘)。

ホセ・カルロス・マリアテギ
(Jose Carlos Mariategui、1894年6月14日 - 1930年4月16日)20世紀ペルーの政治思想家、ジャーナリスト。「ラテン・アメリカ最初のマルクス主義者」と称される。8歳の時に血腫で左膝を痛め、以来左足が不自由になる。4年間の病院生活の間で、手に入る書物をすべて読みあさったという。14歳からリマの『ラ・プレンサ』紙で働き、20歳頃からファン・クロニケル(Juan Croniquer)のペンネームで詩を書きはじめた。

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ホセ・ルイス・カランサ
(Jose Luis Carranza, 1964年1月8日 - )は、ペルー・リマ出身の元サッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィールダー。デビューしてから引退までをウニベルシタリオ・デポルテス一筋で過ごし、ペルー代表としては55試合に出場した。

アマドール・バルムブロシオ
(Amador Ballumbrosio Mosquera、1933年11月26日 - 2009年6月8日)は、ペルー出身のミュージシャン、ダンサー。アフリカに起源をもつ、アフロペルー人を代表するミュージシャンである。ペルー南西のイカ県のチャンチャの農家の家の生まれ。15人の兄弟はすべてミュージシャンである。ヴァイオリンやカホンの演奏者として早くから注目を浴びた。

カパック・ユパンキ
Qhapaq Yupanki=すばらしい計理士、生没年不詳、在位1320年頃〜1350年頃)は、クスコ王国の5代サパ・インカ(皇帝)(下王朝5代(最後))である。父は4代サパ・インカであるマイタ・カパック、王妃はインカの敵であったアンタの首長の娘ママ・クシ・ヒルペイ(又はコリヒルペイ、ママ・チュキ・イリュパとも)、子に上王朝の始祖で6代サパ・インカであるインカ・ロカがいる。

トゥパック・インカ・ユパンキ
Tupaq Inka Yupanki:高貴な計理士の王、?-1493年、在位1471年-1493年)は、インカ帝国の10代サパ・インカ(皇帝)(上王朝5代目)である。彼は父帝により1463年インカ軍隊の最高司令官に任命され、アンデス山脈に沿って北方へ帝国領土を拡張し、現エクアドルにまで達し、クスコの建築技師により再建されたキトの町に対し特別な愛着を持つようになった。この頃、父帝パチャクテクは、これまでのクスコ王国を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。

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ネストル・セルパ・カルトリニ
Nestor Cerpa Cartolini, 1953年8月14日- 1997年4月22日は、ペルーの左翼反政府武装組織トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の指揮官。ペルー南部アレキパ出身。工場労働者。労働運動を経て1980年頃MRTAに加入し、すぐにリマのサン・マルティン地区のリーダーとなる。その後は外国商店や政府系企業に対する武装強盗や放火などのテロ活動を行っていたが、セルパを一躍有名にしたのが1996年12月17日の在ペルー日本大使公邸占拠事件である。

フランシスコ・デ・アビラ
(Francisco de Avila、1573年 - 1647年)は、南アメリカで活動した司祭である。彼は「偶像崇拝撲滅運動家」でありつつも、インディオの儀式と慣習に関しての、彼の時代における最も活動的な調査員の一人であった。1573年 - クスコにおいてスペイン人とインディオの女性との間に生まれたが、貨幣検査官のクリストバル・ロドリゲスの家の前に捨てられ、その家で育った。

マリオ・テスティーノ
(Mario Testino, 1954年-)はペルー出身・イギリス在住の写真家である。イタリア人の父とアイルランド人の母のもとにペルーで生まれる。大学卒業後の1976年にイングランド、ロンドンに移住し、ヴォーグやヴァニティ・フェアの写真家として活躍。

リマのローザ
(Santa Rosa de Lima,1586年4月20日- 1617年8月24日)は、カトリック教会の聖人。ペルー生まれの、アメリカ大陸初の聖人である。ローサはペルーの首都リマで生まれた。本名はイサベル・フローレス・デ・オリバIsabel Flores de Oliva。裕福な家の出身で、父ガスパルはスペイン軍兵士。母マリアは、インカとスペインの血を引いていた。

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センデロ・ルミノソ
(Sendero Luminoso、スペイン語で“輝ける道”の意)は、ペルーの極左武装組織。毛派共産党。1920年代にラテンアメリカ全体でも独創的なマルクス主義思想家として活動したホセ・カルロス・マリアテギが、インディヘニスモに近い立場から独自の革命理論を説いた理論書『マリアテギの輝ける道』にちなんで命名された。

アレハンドロ・トレド
(Alejandro Celestino Toledo Manrique、1946年3月28日 - )は、ペルーの政治家。元大統領(在任2001年7月28日 - 2006年7月28日)。1946年に、アンカシュ地方のケチュア系の家族の16人兄弟の1人として生まれ。レンガ工を父に持つ。チンボテで育つ。チョロ。20歳の時に、奨学金を得て、アメリカ合衆国のサンフランシスコ大学に留学する。そこで、経済学学士の学位を取得する。

 

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