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パラグアイ共和国
Republic of Paraguay

■地理
パラグアイはパラグアイ川によって、東西に東パラグアイ (Paraguay Oriental) と西パラグアイ (Occidental Paraguay) またはチャコと呼ばれる地域に分かれる。東部は国土の40%、人口の97%近くを有し、丘陵と平原が交錯する地形で、森林と肥沃な大地からなり、アマンバイ山脈がブラジルとの国境を形成している。


南アメリカ
南アメリカ大陸とその周辺の島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。ラテンアメリカに含まれる。西半球、南半球に位置し、西は太平洋に、東と北は大西洋に面している。北アメリカとカリブ海が北西に横たわっている。


パラグアイ川
パラナ川最大の支流で、全長2,549kmの川である。アマゾン川の支流であるタパジョス川の上流を水源とする。ただし合流点の確認はないのでアマゾン川とは別の水系になる。

ラプラタ川
ポルトガル語: Rio da Prataは、アルゼンチンとウルグアイの間を流れる川である。河口部が全幅約270kmの三角江(エスチュアリー)となっている。ラプラタ川はウルグアイ川、パラグアイ川、パラナ川の各河川をはじめとする無数の支流を含む巨大な水系としての意味も持ち、その流域面積はおよそ310万km2でパラグアイ全土、ボリビア南東部、ウルグアイの大部分、ブラジルおよびアルゼンチンのかなりの部分を含んでいる。

ピルコマジョ川
Rio Pilcomayoは、南米中央部を流れる河川である。パラグアイ川の西部の支流で最も長い川であり、流域は270,000 km2にも達する。川の流域にはおおよそ150万人が居住しており、内ボリビアに100万人、アルゼンチンに30万人、パラグアイに20万人となっている。

パラナ川
Rio Paranaは、ラプラタ川水系最大の川である。グアラニー語で神の母を意味する。全長4500kmのうち、パラグアイ川との合流点より上流2250kmはアルトパラナ川ともいい、パラナイバ川とグランディ川が南緯20°付近で合流したものである。全長のうち210km区間はブラジルとパラグアイの国境を流れる。

イグアス川
イグアス川は、南米パラナ川の支流中で最も壮大な流れを持ち、ブラジルの海岸山脈を起源とする川である。全長は1,320kmにおよぶ。ブラジル海岸山脈を発したイグアス川は、初めは西方へおよそ690km流れ、やがてパラナ川に合流する。合流点の手前25km地点に世界三大瀑布の一つであるイグアスの滝がある。イグアス川はブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三ヶ国にまたがっている。


グランチャコ
(Gran Chaco) は、ラプラタ盆地の人口がまばらな、非常に暑く乾燥した半砂漠の地域。ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルにまたがる。チャコ (chaco) とはケチュア語で狩猟の土地 (hunting land) を意味する。


<歴史>
■先コロンブス期
元々この地にはグアラニー人をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸集団が住んでいた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多く人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。

■スペイン植民地時代
1537年にブエン・アイレからの探検隊によりアスンシオンが建設されると、スペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。

■1617年
アスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。

■イエズス会
ブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチと呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後も他の地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。

■1750年代以降
グアラニー戦争により、 バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人達はスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。

■1776年
リオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイは余り大きな発展もしないまま月日が流れていった。

■独立とカウディージョの専制統治
1810年5月25日、ブエノスアイレスにてポルテーニョが五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどと共にブエノスアイレス主導の独立を認めず、1811年に共和国として、ラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。

■1838年
アルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。

■三国同盟戦争
1862年にカルロス・ロペスが死に、長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが後を継いで大統領になると、1864年にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となった三国同盟戦争が始まった。
■1870年3月
パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北を持ってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万km2 を割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減少した。成人男性に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。

■1932年
グラン・チャコ地方を巡ってボリビアがパラグアイに宣戦布告し、チャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利し、1938年のブエノスイアレス講和条約では植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得したが、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後社会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。

■1940年
エスティガリビアが事故死するとイヒニオ・モリニゴ将軍は第二次世界大戦を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、遂には1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの(パラグアイ内戦)、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。

■1954年
ブラジル軍の後押しを受けたクーデターによりチャベスは追放され、アルフレド・ストロエスネル政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。
■1993年5月
フアン・カルロス・ワスモシ (Juan Carlos Wasmosy) が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義は前途多難であった。

■1999年3月
ルイス・マリア・アルガーニャ (Luis Maria Argana) 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生し、オビエドとクーバス大統領が亡命した。

■2000年5月
クーデター未遂事件が発生した。その後2003年4月にニカノル・ドゥアルテ・フルートス (Nicanor Duarte Frutos) 大統領が就任した。

■2008年4月
大統領選挙が行われ、野党連合「変革のための愛国同盟」(APC)の進歩派フェルナンド・ルゴが、与党コロラド党のブランカ・オラベル、元陸軍司令官リノ・オビエドを破り、当選した。


バンダ・オリエンタル
1815年に、ホセ・アルティガスがこの地域の権力を握り、東方州を建設するまで呼ばれた、ラ・プラタ地方の地域のことである。西はウルグアイ川を、北はラ・プラタ川を境にし、現在のウルグアイの全てと、リオ・グランデ・ド・スル州の一部を含んだ。リオ・デ・ラ・プラタ副王領の東方地域より大きかった。住人は自らをオリエンターレス(東方人)と自称し、フアン・アントニオ・ラバジェハ将軍と共にウルグアイ独立のために戦った33人の東方人が特に有名である。

33人の東方人
33人の東方人(Los Treinta y Tres Orientales)とはフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍に率いられたウルグアイ人の一団である。東方とはウルグアイ川の東方、つまりバンダ・オリエンタル、東方州を意味する。


■民族
パラグアイ国民の90%以上が、日本人と同じモンゴロイド系であるグアラニー人などのインディヘナの血が強い、スペイン人との間の混血(メスティーソ)である。

グアラニー族
グアラニー族 (Guaranies) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としてはほとんど絶滅し、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。

チャルーア族
現在のアルゼンチン北東部のリトラル地方、ブラジル南部、そしてとりわけウルグアイに住んでいたインディオの部族である。当初は狩猟民であり、漁労と採集により生計を立てていた。大きな建築物を建てることはなく、最後までテントで暮らしていた。

メスティーソ
Mestizoは、白人とラテンアメリカの先住民(インディオ)の混血である人々。ポルトガル語ではメスチース、またスペイン語はメスティソ、メスチーソ、メスチソなどとも書く。Mesticagemなど原語では、人種の違うもの同士での婚姻や交配を意味し、転じて混血児全般を表す言葉になった。特に白人とインディオの混血のことを指すことが多い。

■言語
スペイン語、グアラニー語が公用語であり、94%の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も75%の国民によって話されている。



■宗教
宗教はローマカトリックが90%だが、メノニータ、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)なども存在する。宗教選択は自由である。

カトリック教会
Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。カトリック教会の教説(教え)は「聖書と聖伝」という言葉であらわされるように、旧約聖書、新約聖書およびイエス・キリストと使徒の教えに由来し、教父たちによって研鑽され、多くの議論を経て公会議などによって確立されてきたものである。

メノナイト
Mennonite、メノー派)は、メノ・シモンズの名前に因んで名付けられたキリスト教アナバプテストの教派である。ただし、シモンズがこの集団に与えた影響は比較的小さい。メノナイトはブレザレン、クエーカーと共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動している。メノナイトという言葉は教派そのものと、その信徒を指すときの両方に使われる。2006年時点で、世界には約150万人のメノナイトがいる。世界中のメノナイトは、単に質素な生活を送る人々から一般の人とはすぐに違いを識別できるほど時代がかった服装や外観の人々までさまざまな程度で、メノナイトの生活習慣を受け継いでいる。


イタイプダム
イタイプダムは、ブラジルとパラグアイの国境を流れるパラナ川に作られたダムである。中空重力式コンクリートダム、ロックフィルダム、アースダムなど複数のダムで構成されており、コンバインダムの形態をとる。長く延びた堤頂の合計は7.7Kmを越える。1984年から送電を開始。その発電出力は1,260万キロワットで日本の原子力発電所10基に相当し、2006年現在、世界一の出力を誇る水力発電用ダムである。


インカ帝国
正式名称:タワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyo)は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。首都はクスコ。


テレレ
Terereは冷水でいれるマテ茶(Yerba mate)の飲み方の一種。 グアラニー族伝統の飲み物。パラグアイでよく飲まれている。木や動物の角などで作ったカップ(グアンパ)に茶葉(イエルバ)を入れ水を注ぎ、先に小さな穴がたくさん空いた特殊なストロー(ボンビーリャ)を使って飲む。


<世界遺産>
ラ・サンティシマ・トリニダード・デ・パラナとヘスース・デ・タヴァランゲのイエズス会伝道施設
ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群は、パラグアイにあるユネスコ世界遺産の登録物件名。2007年の第31回世界遺産委員会終了時点では、パラグアイ唯一の世界遺産である。ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナは、地元の人々からは単に「トリニダー遺跡」と呼ばれる。これは、パラグアイ南部やアルゼンチン北部を含むパラナ川流域に残る伝道所跡の一つである。パラグアイでは、最も身近な観光地となった史跡でもある。


イエズス会伝道所
Missoesは、16世紀後半から18世紀にかけて、スペイン領アメリカ南部とポルトガル領ブラジルの一部(現在のボリビア東部、パラグアイ、ブラジル南部、アルゼンチン北東部にわたる地域)で、イエズス会宣教師によって、先住民(主にグアラニー族)の定住とキリスト教化を目的に建設された拠点村落。独自の共同生活や音楽教育に特徴を示し、最盛期には10万人以上の人口を抱えたが、18世紀後半のイエズス会追放令(1759年ブラジルから、1767年スペイン領から)にともない、その多くが放棄された。


イエズス会
Societas Iesuは、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。


アグスティン・バリオス
1885年5月5日 サン・ファン・バウティスタ・デ・ラス・ミショーネス - 1944年8月7日 サンサルバドルはパラグアイのギタリスト・作曲家・詩人。少年時代から音楽と文学に熱中する。バリオスはグアラニー語とスペイン語の二つを話したが、さらに3つの言語(仏語、英語、独語)を読むことが出来た。バリオス少年が音楽に目覚めたきっかけは、ポルカやバルスを含むパラグアイのフォルクローレであった。十代にならないうちから楽器に興味を持つようになり、とりわけギターを好んだ。1898年にバリオスは、グスターボ・ソーサ・エスカラダによって公式にクラシック・ギターの音楽に開眼する。その頃バリオスはすでにいくつかギター曲を創っており、旧師のアリアスが作曲した《 La Chinita 》や《 La Perezosa 》といった曲も弾いていた。

フェリックス・ペレス・カルドーソ
1908年11月20日 - 1952年6月9日は、パラグアイのアルパ奏者、作曲家。17世紀にヨーロッパからアメリカ新大陸に伝わったとされるアルパの楽器構造や演奏技術を著しく高め、パラグアイ音楽の伝承曲をまとめただけでなく自身も数々のアルパの曲を作曲した。アルパを中南米だけでなく世界的に認められる芸術の域にまで完成させた功績からアルパの父と呼ばれている。

ホセ・ルイス・チラベルト
1965年7月27日 - は、パラグアイ出身の元サッカー選手。元パラグアイ代表。ポジションはGK。日本ではサムデイと業務提供を結んでいる。1965年7月25日パラグアイのルーケで生まれる。1980年に15歳で街のクラブチーム、スポルティボ・ルケーニョ入団、すぐに先発ゴールキーパーを任され活躍した。またパラグアイユース代表にも選出されるなど頭角を現す。強面で自らFK、PKを蹴るなど一見すると傲慢に見受けられるが、実際はサッカー以外ではファン、特に子供達を大切にする。特に貧しい子供や体が不自由な子供たちに対する募金活動などボランティアなどの慈善活動に取り組み、積極的に活動、協力している。

ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア
(Jose Gaspar Rodriguez de Francia、1766年1月6日 - 1840年9月20日)は、パラグアイの政治家、初代元首。フランシア博士(Dr. Francia)とも。パラグアイの独立運動を指導し、初代元首である執政官を務め、独裁政治を敷き、先進的な政策を推進した。アスンシオン近郊のen:Yaguaró剋出身。ブラジルから渡ってきたポルトガル人を父に持ちまじめな性格に育つ。聖職者になるためにリオ・デ・ラ・プラタ副王領のコルドバのコルドバ大学に入学して神学(カトリック)の学位を得た。

フランシスコ・ソラーノ・ロペス
(Francisco Solano Lopez Carrillo、1826年7月24日 - 1870年3月1日)は、パラグアイの政治家。初代大統領カルロス・アントニオ・ロペスの長男で1862年に父の死を受けてパラグアイ共和国第二代大統領に就任した。特に彼が強い影響を受けたのは第二帝政であったフランスとナポレオン3世であったようだ。祖国に帰って軍の責任者になると早速軍服を第二帝政フランスと同じものに変更し、自らはナポレオン3世の王冠のレプリカを作らせている。

ニカノル・ドゥアルテ
(Oscar Nicanor Duarte Frutos、1956年10月11日 - )はパラグアイの政治家。同国第36代大統領。2003年にコロラド党からパラグアイの大統領に就任し、2008年まで務めた。

ラリッサ・リケルメ
(Larissa Mabel Riquelme Frutos、1985年2月22日 - )は、パラグアイのモデル・女優。2010 FIFAワールドカップの際、『美人過ぎるサポーター』として世界中でその名前と美貌が知られることとなった。インターネット上での彼女の名前の検索件数も爆発的に増え、スペイン最大手のスポーツ新聞『マルカ』は、リケルメを「ワールドカップの恋人」と称し、世界的に最も名の知れたサポーターとなった。

カルロス・ガマーラ
(Carlos Alberto Gamarra Pavon, 1971年1月17日-)は、パラグアイ出身の元サッカー選手。ポジションはDF(センターバック)。パラグアイ代表のキャプテンを務めた。パラグアイ代表歴代最多キャップ数を誇る。

ロベルト・アクーニャ
(Roberto Miguel Acuna Cabello, 1972年5月25日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手。パラグアイ代表である。ポジションはミッドフィールダー。幼少時代にアルゼンチンからパラグアイに移住した。1989年にクラブ・ナシオナルでデビューすると、その後、アクーニャは4シーズンの間アルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズ、ボカ・ジュニアーズ、CAインデペンディエンテでプレーした。

サルバドール・カバニャス
Salvador Cabanas Ortega, 1980年8月5日は、パラグアイ・アスンシオン出身のサッカー選手。同国2部リーグのドセ・デ・オクトゥブレ所属。パラグアイ代表である。ポジションはFW。2003年にチリのアウダックス・イタリアーノからメキシコのチアパスFCに移籍した。2003前期リーグでは18試合に出場して5得点だったが、2004後期リーグでは15得点を挙げた。その後も8得点、8得点、9得点と安定した成績を残した。2006後期リーグでは14得点を挙げ、得点王に輝いた。

セルソ・アジャラ
(Celso Rafael Ayala Gavilá℃, 1970年8月20日 - )は、パラグアイ・アスンシオン出身の元サッカー選手。パラグアイ代表である。ポジションはDF。1990年代のパラグアイ代表をフランシスコ・アルセやカルロス・ガマーラらとともに支えた名センターバックである。

アウレリオ・ゴンサレス
(Aurelio Gonzalez、1905年9月25日 - 1997年7月9日)は、パラグアイ出身の元同国代表のサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはFW。パラグアイのサッカー史上、アルセニオ・エリコに次ぐ偉大なプレーヤーと言われる。1930年代には、パラグアイとボリビアとの間で起こったチャコ戦争にて戦場で戦うために、アルゼンチンのクラブサン・ロレンソからのビッグオファーを断っている。

ネルソン・アエド・バルデス
(Nelson Antonio Haedo Valdez, 1983年11月28日 - )は、パラグアイ出身のサッカー選手。バレンシアCF所属。ポジションはフォワード。ヴェルダー・ブレーメン在籍時にブンデスリーガとドイツカップのタイトルを、ボルシア・ドルトムント在籍時にドイツスーパーカップのタイトルを獲得している。

フリオ・セサール・ロメロ
(Julio Cesar Romero, 1960年8月28日 - )は、パラグアイ出身のサッカー選手。ミッドフィールダー。ロメリト(Romerito)の愛称で親しまれた。ユース代表からA代表に昇格して臨んだ1979年のコパ・アメリカで26年ぶりの優勝に貢献。1980年には巨額の年俸により北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスに移籍。スター選手らと共にプレイした。

パラグアイ Paraguay
南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。

アスンシオン
パラグアイ共和国の首都。人口は85万人ほどで周辺の都市とともにアスンシオン都市圏を形成する。名前は「聖母の被昇天 (Asuncion de Maria)」に由来する。アメリカ合衆国の首都のワシントンD.C.などと同じく、アスンシオンはパラグアイのどの州にも属さない特別区になっている。高度は約53m。


シルビオ・ペッティロッシ国際空港
Aeropuerto Internacional Silvio Pettirossiはパラグアイの首都アスンシオン郊外のルケにある空港である。3,353mの滑走路を1本有する。名称はパラグアイのパイロットであり航空のパイオニアであるシルビオ・ペッティロッシにちなむ。


外務省:在パラグアイ共和国
在パラグアイ日本国大使館


シウダー・デル・エステ
Ciudad del Esteは、パラグアイ東部にある都市。ブラジルの国境に近く、パラナ川の右岸に位置する。人口22万3350人。1970年代〜80年代 首都アスンシオンに次ぐ大都市へと成長する。1982年 イタイプダム完成。

コンセプシオン
(Concepcion)は、パラグアイ中西部、コンセプシオン県の県都。パラグアイ川沿いにある。人口3万5276人(1992年)。20世紀初期に、同国北部の中心都市として、グランチャコや川の港による富を開拓して、町は栄えた。1947年、パラグアイ内戦においても町はその拠点となった。

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エンカルナシオン
(Encarnacion)は、パラグアイ南東部、イタプア県の県都。アルゼンチンとの国境をなすパラナ川沿いにある。人口9万8123人(2002年)。1632年、町はイエズス会によって建設された。1845年の鉄道開通後、町の重要性が高まった。現在、町は新しいビジネス街と川までの旧市街の2つの地区に分かれている。

ペドロ・フアン・カバリェロ市
Pedro Juan Caballero)は、パラグアイの都市で、アマンバイ県の県都。ブラジルのポンタ・ポランと国境を接し、安価な電子機器や消費財が入ってくることで知られるが、他方で麻薬密輸の中心地でもある。標高は国内の都市で最も高い670メートルである。


アルト・パラグアイ県
Departamento de Alto Paraguayは、パラグアイの県。この県には数多くの大自然が残っている。国立公園も何箇所か存在し、それぞれ特色がある。このうちパラグアイ北部で最も標高の高いセーロ・レオンの丘にあるデフェンソレス・デル・チャコ国立公園は国内で最も大きい国立公園である。

アルト・パラナ県
Departamento de Alto Paranaは、パラグアイの県。県都はシウダー・デル・エステ。この県は過去50年間に急速に経済・人口成長した。1961年にパラグアイとブラジルをむすぶ「友好の橋」が建設されて以降、県都を中心にして発展を遂げた。


パラグアイの国旗
パラグアイの国旗は、赤白青の横三色旗。表面の中央部には国章が、裏面の中央部はライオンと自由の帽子、「平和と正義」(PAZ Y JUSTICIA)と記したリボンを配置した国庫証印がある。国旗に表裏があるのはこの旗のほかにはモルドバの国旗とサウジアラビアの国旗のみ。

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■国名
公式の英語表記は Republic of Paraguay(リパブリック・オブ・パラグアイ)。パラグアイ(Paraguay)とは元々グアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とはパラナ川のことである。その他にも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。


1.面積:40万6,752平方キロメートル(日本の約1.1倍)
2.人口:628万人(2009年、IMF)
3.首都:アスンシオン(人口約52万人)
4.民族:混血(白人と先住民)95%、先住民2%、欧州系2%、その他1%
5.言語:スペイン語、グァラニー語(ともに公用語)
6.宗教:主にカトリック(信教の自由は憲法で保障)

1811年 スペインから独立
1864年〜1870年 三国戦争(対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合軍)で人口激減
1932年〜1935年 チャコ戦争(対ボリビア)に勝利
1954年 ストロエスネル将軍がクーデターにより政権掌握。以後35年間にわたり独裁政権継続
1989年2月 クーデターによりロドリゲス将軍が政権掌握
1989年5月 ロドリゲス将軍、大統領に就任
1993年8月 ワスモシ大統領就任(文民政権)
1998年8月 クーバス大統領就任
1999年3月 ゴンサレス大統領(前上院議長)就任
2003年8月 ドゥアルテ大統領就任
2008年8月 ルゴ大統領就任

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■主要産業:農牧業(綿花、大豆)牧畜業(食肉)、林業

■主要貿易品目(1)輸出 大豆(世界第4位)、食肉、穀物、木材(2)輸入 機械機器、電子機器、原油・燃料、自動車


メルコスール
欧州連合(EU)のような自由貿易市場の南米での創設、具体的には域内での関税撤廃と域外共通関税を実施することを目的として、1991年にパラグアイのアスンシオンでアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルの4カ国が調印し、1994年12月には4ヵ国首脳がブラジルのオウロ・プレットに集まり最終議定書に調印し、1995年1月に発足した。


■政治
国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。

■経済
メルコスール、南米共同体の加盟国である。2008年の経済成長率は5.8%で、農業が10.5%と高い。農業はGDPの27%、輸出の84%を占める。しかし、天候や市況に左右されることが、人口の4割に達する貧困層を生み出している。


■社会問題
パラグアイは経済的に不平等で貧しい国家であり、約4割の国民が貧困に喘いでいると見積もられている。農村部では41.2%が、都市部では27.6%が最低限の基本的なニーズを満たすための収入を得ることが出来ない。上位10%の人間が国富の43%を牛耳るが、下位10%の人間はわずかに0.5%にすぎない。


チャコ戦争
Guerra del Chacoとは、1932年から1938年にかけてボリビアとパラグアイの間で行なわれた戦争。両国の未確定国境地帯であったグラン・チャコに石油の埋蔵があるという仮説を受けて、その地域の国境を確定させ、また国土拡大の為にボリビアの先制攻撃で始まったが、戦闘はパラグアイが優勢となった。

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コロラド党
(Asociacion Nacional Republicana − Partido Colorado、ANR-PC) は、1887年にベルナルディーノ・カバジェーロによって設立された、パラグアイの政党。通常、コロラド党として知られている。1887年から1904年までにかけて初めて政権を取った。また、1946年のイヒニオ・モリニゴがパラグアイ大統領となった時代には、二月党とともに与党を構成した。

真正急進自由党
(Partido Liberal Radical Autentico、PLRA) はパラグアイの自由主義政党。党は自由主義インターナショナルのメンバーの一員。「自由主義者」として知られているようにコロラド党の一党制の粉砕に尽力した。彼らはアルフレド・ストロエスネル時代に弾圧された自由党の政治的後継者となった。1989年にストロエスネルの独裁が終わった頃から彼らは現在のこの地位を確立した。

南米諸国連合
Union of South American Nations、は、2007年に結成された「同一通貨、同一パスポート、一つの議会」を目指す南アメリカの政府間機構。南米国家共同体(なんべいこっかきょうどうたい)ともいう。

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マテ茶
マテ茶(Mate)は、南米を原産とするイェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ成分を浸出した飲料。地域によっては、イェルバ・マテを使わなくても乾燥茶葉に水や湯を注いだ飲料を一般にマテと呼ぶこともある。ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く、飲むサラダとも言われている。このため、コーヒーや茶と同様の嗜好品ではあるが、単なる嗜好品の枠を超えて、野菜の栽培が困難な南米の一部の地域では重要な栄養摂取源の一つとなっている。


■農業
メルコスール加盟国の一つである。パラグアイの産業で最も重要な働きをしているのは農業であり、パラグアイは世界でも三番目の大豆輸出国である。輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。近年は甘味料や健康食品、化粧品の原料としてしられるステビア生産にも力を入れている。

ステビア
ステビア(学名:Stevia rebaudiana)は、パラグアイをはじめとする南アメリカ原産のキク科ステビア属の多年草。草丈は50cmから1m前後、茎は白い細毛に覆われている。夏から秋にかけて、枝先に白い小花を咲かせる。別名はアマハステビア。1971年に大阪の守田化学工業によって世界で初めて商品化された。ステビオシドはショ糖の300倍の甘味度を持ち、ダイエット用食品や糖尿病患者用メニューなどに砂糖の代わりとして用いられている。

キャッサバ
Manihot esculenta)は、トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属の熱帯低木。マニオク、マンジョカとも呼ばれる。2002年時点の全世界の生産量は1億8000万トンで、穀物以外のヒトの食料用のデンプン源作物(いも類など)としてはジャガイモに続いて世界第2位である。州別ではアフリカ州が1/2強、アジア州が1/4強を占め、残りが南アメリカ州である。

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■鉱業
パラグアイの鉱業はまったく未開発の状態にある。長年にわたり、ごく小規模な鉄鉱床を除けばパラグアイには鉱物資源がほとんど存在しないと考えられてきた。鉄鉱石の採掘は古くは三国同盟戦争以前から続いていたが、1990年に至っても鉱業セクターはパラグアイのGDPのわずか0.5%を占めるに過ぎなかった。状況が変わったのは南西部のエンカルナシオンで埋蔵量3億トンに達する鉄鉱床が見つかった1990年代からである。

鉄鉱石
鉄鉱石の主要成分は酸化鉄であり、多く使われる鉄鉱石は赤鉄鉱 (Fe2O3)、磁鉄鉱 (Fe3O4)、褐鉄鉱 (Fe2O3●nH2O)、磁鉄鉱の粒状鉱物である砂鉄などである。古来、製鉄に使われた鉱石は砂鉄(磁鉄鉱)であった。磁鉄鉱は比重が約5.2と商業的に利用できる鉄鉱石の中で最も大きく、流水による選鉱により純度の高い鉱石が容易に得られた。


パラグアイ文学
パラグアイの文学は、独立以来長らく続いた独裁政権との関係の中で培われ、そのために内外から貧弱なものとして扱われてきた。スペインによる植民地化後、年代記作家のルイ・ディアス・デ・グスマンは短編小説の先駆とも言える『ラ・アルヘンティーナ』(1612)を著している。イエズス会によってグアラニー人に対する布教村落が運営され、一定の自治を経験していたパラグアイでは、文化に於いてもイエズス会の占める地位は大きかった。


■民俗音楽
パラグアイ・ポルカ(en:Paraguayan polka)は三つのリズムと二つのリズムの組み合わせであり、ヨーロッパでは二つのリズムのみが用いられる。最も有名な音楽スタイルはグアラニアであり、1925年にパラグアイの音楽家のホセ・アスンシオン・フローレスによって大成された。グアラニアはゆっくりしたリズムとメランコリーな特性を持ったメロディーの組み合わせを用いてこの様式を達成した。

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アルパ
アルパ(arpaまたはharpa)は、撥弦楽器の一種でスペイン語でハープの意味である。日本では特にラテンアメリカのフォルクローレで用いられる民族的な楽器を指す。パラグアイ・ペルー・メキシコ・ベネズエラなどで演奏されており、特に盛んなのはパラグアイである。

フォルクローレ
英語のfolkloreがスペイン語化したもので、言葉本来の意味としては、音楽のみならず民俗学、民俗的な伝承一般を指すが、日本では、ラテンアメリカ諸国の民族音楽、あるいは民族音楽に基礎をおいた大衆音楽を特に指して、このように呼ぶ。民俗学一般を指す言葉としては、綴りは同じだが英語読みのフォークロアが使われる。


■ジャズ
パラグアイには小規模だが力強いジャズのコミュニティが存在する。特筆されるべき奏者はパリート・ミランダ(アルト・サックス)、レミヒオ・ペレイラ(トロンボーン)、ビクトル・「トティ」・モレル(ドラム)、ホルヘ・「ロビート」・マルティネス(ピアノ)、カルロス・スバルツマン(ギター)、カルロス・セントゥリオン(ピアノ)、グスターボ・ビエラ(ギター)、エドゥアルド・「タト」・シジ(ベース)、ビクトル・モレル・フニオール(ドラム)、ヘルマン・レマ(オルガン)、ホセ・ビリャマジョール(ギター)、ブルーノ・ムニョス(テナー・サックス、アルト・サックス)等々である。

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■クラシック
主な演奏者はアグスティン・バリオス、ホセ・アスンシオン・フローレス、フアン・カルロス・モレノである。シルバは外国で学び、ヨーロッパの技法に基づいて土着の音楽であるグアラニーの発声法を再導入した。モレノはロマン的古典方針にてポピュラーなテーマに霊感を得て作品を作曲した[2]。


グアラニア
グアラニア(Guarania)は、1900年代始めにできたパラグアイの音楽。他のラテン系の明るい音楽と違い、哀愁を帯びたものが多い。その演奏ではハープ(アルパ・パラグアジャ)が主要な役割を占める。

アルパ
アルパ(arpaまたはharpa)は、撥弦楽器の一種でスペイン語でハープの意味である。日本では特にラテンアメリカのフォルクローレで用いられる民族的な楽器を指す。パラグアイ・ペルー・メキシコ・ベネズエラなどで演奏されており、特に盛んなのはパラグアイである。別名、ラテンハープ、インディアンハープとも呼ばれる。


■教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は94%である。主な高等教育機関としては、国立アスンシオン大学(1889年)などが挙げられる。

パラグアイの教育
1992年憲法の第73条によって教育を受ける権利が、第75条によって教育を受けさせる社会の責任が、第85条によって教育予算が国家予算の20%を下回ってはならないと定められている。後期中等教育の人文科学バチリェラートか商業バチリェラートを修了した者は高等教育を受けることが可能になる。学部は4年制から6年制である。1989年に高等教育に関する規制が取り払われるまでは、国立アスンシオン大学(1886)とパラグアイ・カトリック大学(1960)以外の大学は存在しえなかった。

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パラグアイ文学
スペインによる植民地化後、年代記作家のルイ・ディアス・デ・グスマンは短編小説の先駆とも言える『ラ・アルヘンティーナ』を著している。イエズス会によってグアラニー人に対する布教村落が運営され、一定の自治を経験していたパラグアイでは、文化に於いてもイエズス会の占める地位は大きかった。イエズス会士のペドロ・ロサノ神父は『パラグアイ州におけるイエズス会の歴史』を、ドミンゴ・ムリエル神父は『パラグアイ史』を残し、イエズス会によって建設された神政的、共産的な世界についての記録を残している。


フェルナンド・ルゴ
フェルナンド・アルミンド・ルゴ・メンデス(Fernando Armindo Lugo Mendez 1951年5月30日 - )は、パラグアイの政治家。現在、同国大統領(第37代)。変革のための愛国同盟に所属し、同党のリーダーである。パラグアイのサン・ペドロ・デ・パラナ県のサン・ソラノ生まれ。1970年代後半から1980年代前半にかけて、エクアドルの貧民街で宣教活動をおこない、「解放の神学」に共感を抱いていった。

アウグスト・ロア=バストス
Augusto Roa Bastos、1917年6月13日 - 2005年4月26日はパラグアイのジャーナリスト、脚本家、小説家。パラグアイ史上最も著名な作家であり、ラテンアメリカ作家の中でも最重要人物の一人である。ロア・バストスはパラグアイの首都アスンシオンで生まれ、幼年期をアスンシオンから南200kmのところにある小さな町イツルベで過ごした。彼の父親は砂糖の精製業を営んでいた。1932年にパラグアイとボリビアの間にチャコ戦争が勃発すると、10代だったロアは学校を中退して、補助の衛生要員として兵士になり、そしてこの期間に彼は残りの人生を強く規定することになる決定的な恐怖を体験した。

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アパリシオ・ゴンサレス
Aparicio Gonzalez、1941年2月11日 - は、パラグアイのアルピスタ(アルパ奏者)、ギタリスト、作曲家。「アルパの父」といわれるフェリックス・ペレス・カルドーソから連綿と続いてきた伝統アルパ奏法を受け継ぐ最後の巨匠とされ、現役アルピスタ中、最も高い評価を受けている一人である。1941年2月11日に南米パラグアイのサプカイ村で生まれる。アルピスタであった父の影響で、6歳からアルパを始める。20代の頃からソリストとして、パラグアイ本国をはじめ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ、ベネズエラ、メキシコ、スペイン、フランス、オランダ、ドイツで世界的な音楽祭に出演し、CDも多数リリースしている。

アルセニオ・エリコ
Arsenio Erico、1915年3月30日 - 1977年7月23日は、パラグアイのサッカー選手。ポジションはフォワード。パラグアイの首都アスンシオン出身。17歳のときにクラブ・ナシオナルからアルゼンチンのCAインデペンディエンテへ引き抜かれた。入団4年目の1937年に47得点を挙げリーグ得点王となると、翌1938年に43得点、1939年には40得点を挙げ3年連続得点王となった。この活躍によりインデペンディエンテのサポーターの人気を得た。

ロケ・サンタ・クルス
ロケ・ルイス・サンタ・クルス・カンテロ(Roque Luis Santa Cruz Cantero, 1981年8月16日 - )はパラグアイ・アスンシオン出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。ニックネームは「男の子」を意味するスペイン語、「チコ(Chico)」。16歳の時、パラグアイの名門オリンピア・アスンシオンでプロデビュー。1998年のコパ・リベルタドーレスでは、母国パラグアイ代表のゴールキーパー、ホセ・ルイス・チラベルトからハットトリックを達成し、一躍脚光を浴びる。

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セバスチャン・カボット
Sebastian Cabot,は、16世紀のイギリスの航海者。父と共に北アメリカ大陸の発見者に名を連ねる。イタリア名はセバスティアーノ・カボート。ヴェネツィアの航海者ジョヴァンニ・カボートの子として生まれる。1484年にイギリスに帰化。1497年には、ブリストルを出航してアジア航路を開拓する船団に参加。1526年から翌年にかけては南アメリカのラプラタ川流域も探検したが、成果を挙げられずに帰国したためカルロス1世の怒りを買って投獄され、次いでアフリカへと追放された。

カルロス・アントニオ・ロペス
(Carlos Antonio Lopez、1790年11月4日-1862年9月10日)は、パラグアイの政治家。パラグアイ共和国初代大統領(在任1844年-1862年) 。前統治者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアの築いた体制を改革・継承し、近代化路線をとってパラグアイを南米諸国中最も安定した国に育て上げた。ロペスはパラグアイ独立の英雄で独裁者であるホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアの甥であったが、法学と神学を修めたロペスは知識人やブルジョワ階級を弾圧したフランシアに疎んじられ、アスンシオン近郊の農園で農耕を営みながらの隠遁を余儀なくされた。

アルフレド・ストロエスネル
Alfredo Stroessner、1912年11月3日 - 2006年8月16日は、パラグアイの軍人、政治家。1954年から1989年まで通算8期35年間に渡りパラグアイ大統領を務め、独裁者として君臨した。冷戦が終わりつつあった1989年に、アンドレス・ロドリゲス将軍(後に大統領)のクーデターによって政権の座から追われ、自宅軟禁のあと国外亡命を許されブラジルに脱出した。当初はある程度の影響力があったが晩年は余り話題にならず、ひっそりと暮らし近所の人も滅多に姿を見ることはなかった。

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ホセ・フェリクス・エスティガリビア・インサウラルデ
(Jose Felix Estigarribia Insaurralde、1888年2月21日 - 1940年9月7日)はパラグアイの軍人、政治家。チャコ戦争でボリビアから勝利を勝ち取り、1939年には大統領に就任した。1888年、エスティガリビアは農民で、兼業で銀細工師をやっていたマテオ・エスティガリビアの息子として、カラグアタイで生まれた。生活や学業を修めるのに決してよい環境ではなかったが、トリニダードにある大学に進み、農学部を卒業した。その後1910年に軍に入り、チリで、次いでフランスのサン・シール陸軍士官学校で教育を受けた。

デニス・カニサ
Denis Ramon Caniza Acuna, 1974年8月29日 - は、パラグアイ出身のサッカー選手。CDイラプアト所属。パラグアイ代表である。ポジションはDF(センターバック)。センターバックとしては小柄ながら、パラグアイやアルゼンチン、メキシコの各クラブで活躍した。パラグアイ代表として1998年から3大会連続で出場した。

 

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