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エクアドル共和国
Republic of Ecuador

エクアドルの歴史
エクアドルにおける人間の活動は、エル・インガやチョブシ洞穴の発掘により、およそ紀元前10000年ごろには始まっていたと確認されている。現在確認されている最大級の集落遺跡としては、サンタエレナ半島南部の海岸から2km内陸に位置するレアル・アルトが挙げられる。レアル・アルトは、紀元前2800年から同2600年ごろに著しく発展を遂げ、その規模は300m - 400m四方にまで達した。・・・このようにして現在のエクアドルに成立した諸文化は、最終的に15世紀後半にタワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝 トゥパク・インカ・ユパンキによって征服された。後にインカ帝国は、北はエクアドルとコロンビアとの国境、南はチリ北部にいたる南北4000kmを支配するまでの大帝国になった。


■スペイン植民地時代
1526年にスペイン人の植民地が建設されていたパナマから、征服者を指揮するフランシスコ・ピサロが内戦によって引き裂かれたインカ帝国の現エクアドル海岸部に上陸した。征服後、現在のエクアドルに相当する地域はペルー副王領の一部に編入され、スペイン人による植民地支配が始まった。キトはペルー副王領の統治下に置かれ、副王領の首都はペルーのリマに置かれた。18世紀後半頃から徐々にクリオーリョ(土着のスペイン人)と、本国から派遣されてくるペニンスラールの利害の対立が大陸的な規模で深まることになり、ペルーのトゥパク・アマルー2世の反乱や、アルト・ペルー(現在のボリビア)のトゥパク・カタリの反乱、ヌエバ・グラナダ(現在のコロンビア)のコムネーロスの反乱などに繋がることになったが、現在のエクアドルに相当する地域ではクリオーリョ自治運動は大きく発展しないまま19世紀を迎えた。

■独立戦争
現在のエクアドルに相当する地域でも1809年8月10日にキトでクリオーリョを主体とした革命評議会により、イスパノアメリカ初の独立宣言がなされた。この運動はペルー副王フェルナンド・アバスカルが派遣した王党派軍によって鎮圧されたが、1820年にチリからアルゼンチン人のホセ・デ・サン=マルティン率いる解放軍がペルーに上陸すると、もはや副王政府の権威喪失は明らかとなり、1820年10月19日にはグアヤキルが、11月3日にはクエンカが独立を宣言した。1830年1月13日にベネスエラの支配者ホセ・アントニオ・パエスが完全独立を宣言すると、4月7日、ボリーバルはコロンビア終身大統領を辞任し、ヨーロッパに最後の旅に出ることになった。ボリーバル派が多数を占めていた南部地区は1830年5月13日に完全独立を宣言し、初代大統領にスクレ陸軍総監が指名されたが、6月4日にスクレはキトに赴く途中に何者かにより暗殺され、8月10日に南部地区は国名を巡る諸地域の妥協の結果、フアン・ホセ・フローレス大統領の下でエクアドル共和国として独立を宣言した。

■自由主義革命の時代
19世紀後半には、カカオを求める世界の需要が高まり、シエラからコスタまでの商品流通経路が築かれ、同時にエクアドルは世界経済にプランテーション作物を供給するモノカルチャー国家として組み込まれることになった。1890年にはグアヤキルの資本家を支持者に自由党が結成された。1892年にフローレスに続き、同じく保守派のルイス・コルデロが大統領に就任した。1908年にはアメリカ合衆国の資本でキトとグアヤキルを結ぶ鉄道が建設された。1912年にアルファロは暗殺されたが、カカオ価格の低迷などの困難な状況の中でも、1925年までグアヤキルの自由主義者=金融業者による政治が進むことになったため、この時期を金融寡頭支配層期と呼ぶこともある。

■軍政とポプリスモ
1944年5月、軍、共産党、社会党を巻き込んだ広範な民衆蜂起により、アロヨ政権が崩壊し、亡命先のコロンビアから帰国したベラスコ・イバラが大統領に就任し、五月革命が成功した。しかし、第二次イバラ政権下で腐敗政治とインフレが進み、1947年に軍事クーデターでベラスコ・イバラは失脚し、アルゼンチンに亡命した。1968年にアロセメナが失脚すると、同年第五次ベラスコ・イバラ政権が誕生した。インフレが進み、対外債務も増大する中、1970年にベラスコ・イバラは独裁宣言を行うが、1972年に大統領選挙を4ヶ月前にして地主、学生の抵抗を受け、軍事クーデターにより失脚し、アルゼンチンに亡命した。

■革新的軍事政権
1972年、政権を握った軍部からギジェルモ・ロドリゲス・ララ将軍が大統領に就任した。ロドリゲス将軍は当時ペルー革命を推進していたベラスコ将軍に倣って「革命的民族主義」を掲げ、軍事評議会による民族主義的路線で政権運営をした。1977年10月にアストラ製糖工場でストが発生した時には、武装警察を出動させて政府発表で24人を虐殺した。軍事政権は民政移管を約束し、1978年には新憲法草案が国民投票で可決された。同年、ペルーとの軍事衝突が発生したものの、1979年には平和裏に民政移管した。

■民政移管以降
1979年には新憲法下初の選挙により、キリスト教民主主義の人民結集党のハイメ・ロルドス・アギレーラが大統領に就任した。ロルドスは民主主義、社会正義を訴え、ニカラグアでの内戦に際し、アナスタシオ・ソモサ・デバイレ独裁政権と断交してサンディニスタ民族解放戦線を支持した。しかし1981年 5月24日にロルドスは飛行機事故で急死し、オスバルド・ウルタード副大統領が大統領に昇格した。1998年に人民民主党から就任したレバノン系のハミル・マワ大統領は、同年10月26日に結ばれたブラジリア議定書によりアマゾン地域の放棄を正式に認め、国民もこの措置を受け入れた。以降ペルーとの友好関係が不本意ながらも再開することになった。2006年11月26日にアルバロ・ノボアとラファエル・コレアが大統領選挙に出馬し、コレアが1979年以来の最高有効票を獲得して大統領に就任した。コレアはベネズエラのウーゴ・チャベス政権や、ボリビアのエボ・モラレス政権などの反米左派政権との関係を深め、親米右派を掲げるコロンビアのアルバロ・ウリベ政権に対する干渉的な政策を採っている。


アンデス危機
2008年3月に南米の親米国家コロンビアと隣国である反米国家ベネズエラ、エクアドルとの間で軍事衝突の危険を招いた事件である。発端は、2008年3月1日にコロンビア軍が左翼ゲリラ「コロンビア革命軍」を攻撃するためにエクアドル領内に越境したことがきっかけである。エクアドル大統領ラファエル・コレアは激烈な反応を示し、コロンビアとの国交断絶を発表。コロンビア国境に軍を集結させた。盟邦関係にあるベネズエラとニカラグアもコロンビアを非難し、「戦争も辞さず」との強硬姿勢を見せ、コロンビア国境に軍を集結させた。

 

グアヤス川
Guayas Riverは、エクアドル西部の川。その名はグアヤス県 (Guayas Province) の名称にもなっており、大西洋に流入しない南アメリカで最も重要な川である。グアヤス川は、アンデス山脈にその水源の一つがあり、チンボラソ山がエクアドルの最高峰の火山である。エクアドルの紋章は、山から下ってくる川を表現している。グアヤス (Guayas) は川の下流域の名称であり、グアヤス県の都市グアヤキルとドゥラン (Duran) の間で、西からのダウレ川と、東からのババオヨ川(英語: Babahoyo River)の合流点より始まる。

アマゾン川
Rio Orellana)は南米のブラジルとその周辺国の熱帯雨林(アマゾン熱帯雨林)を流れ、大西洋に注ぐ世界最大の河川である。数多くの巨大な支流を持ち、アマゾン川という名称はそれらの総称として用いられている。河口は大きく広がっており、どこからどこまでを河口と考えるかにより大きく異なるが、その幅は東京から名古屋・大阪までの距離に匹敵する 300 km とも 500 km ともされる。一般的には、九州より僅かに広い面積を持つマラジョ島は中洲島と考えられている。

アンデス山脈
主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500km、幅750kmにわたる世界最大の褶曲山脈。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。 最高峰はアコンカグア(6960m・一説には7021m)で、6000mを越える高峰が20座以上聳え立っている。

チンボラソ
Chimborazoは、エクアドル中央のアンデス山脈にある火山である。首都キトから南南西に150kmの位置にある。エクアドルの最高峰であり、山頂は地球の表面上で最も地球の中心から離れた地域にある。19世紀初頭まで、地球で一番高い山だと考えられており、17世紀から18世紀にかけて、多くの人たちが登頂に挑戦している。チンボラソの氷河は、国内のチンボラソ県やボリーバル県の水源になっている。2005年の夏に、都市部において深刻な水不足が起こったが、これは、氷河が著しく後退したためと考えられている。フランスの研究者によれば、アンデス高地の氷河の溶ける量は加速度的に増えており、大部分は近いうちに溶けてしまうと予想される。

コトパクシ山
Cotopaxi)はエクアドル中央部、アンデス山脈中にある活火山。標高は5,897m。コトパクシとは、ケチュア語で「光る巨大なもの」を意味する。別名コトパヒ山。富士山に似ていることから、「エクアドルの富士山」と日本人が呼ぶことがある。エクアドル国内ではチンボラソに次いで二番目の高さである。


アマゾン熱帯雨林
Amazon Rainforest)とは、南アメリカ・アマゾン川流域に大きく広がる、世界最大面積を誇る熱帯雨林である。面積は550万平方kmに及び、700万平方kmのアマゾン盆地の大部分を占め、地球上の熱帯雨林の半分に相当する。省略してアマゾンとも呼ばれる。7カ国が含まれ、60%はブラジルにある。

アマゾン盆地
Cuenca del Amazonas、は、アマゾン川流域に広がる盆地であり、全体の40%がブラジル、その他ボリビア、エクアドル、ペルーにある。アマゾン盆地は熱帯雨林が密集し、総面積は8,235,430km2である。


ガラパゴス諸島
東太平洋上の赤道下にあるエクアドル領の諸島。 Islas Galapagos は「ゾウガメの島」という意味。正式名称はコロン諸島(Archipiélago de Colon )、行政面ではガラパゴス県にある。約2万3千人が居住し、主要言語はスペイン語。ガラパゴス諸島の島々は、現在のフェルナンディア島に位置するホットスポットの火山活動によって代々形成されたと考えられている。大航海時代には捕鯨船によるゾウガメの捕食やヤギの繁殖が起こり、1832年にエクアドルが領有を宣言すると、次々と入植されていった。やがて航空路や横断道路が建設されると欧米を中心に観光客が訪れるようになり、環境破壊も深刻になった。今ではダーウィン研究所や国立公園管理事務所の設置、世界遺産への登録、観光客に対するナチュラリストガイド制度などの厳重な自然保護対策を講じている。


グアヤキル
Santiago de Guayaquilはエクアドル共和国最大の都市にして最大の港湾都市である。グアヤキル湾に注ぐグアヤス川の河口から約60Km上流の沖積地(一部河口州)に位置し、2003年当時の人口は2,196,800人で周縁地区を合わせると300万人の人口を擁する。グアヤス州の州都でもある、南米有数の世界都市。グアヤス総合大学、サンチャゴカソリック総合大学、ビセンテ・ロカフエルテ・ライ総合大学およびエクアドル工科大学がある。

メスティーソ
白人とラテンアメリカの先住民(インディオ)の混血である人々。ポルトガル語ではメスチッソ、またスペイン語はメスティソ、メスチーソ、メスチソなどとも書く。Mestiçagemなど原語では、人種の違うもの同士での婚姻や交配を意味し、転じて混血児全般を表す言葉になった。特に白人とインディオの混血のことを指すことが多い。

ムラート
(Mulatto, Mulato)は、ラテンアメリカ及び北アメリカでヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血を指す言葉である。ムラットともいう。なお、女性だけを指していう場合はムラータ(Mulata)という。


■人口
1950年の調査で約327万人となり、1970年のセンサスでは8,884,768人、1983年年央推計では約1168万人になった。

■言語
公用語はスペイン語のみであるが、インディヘナによりケチュア語、シュアール語が話され、特にケチュア語は「統一ケチュア語」が制定されて学校教育でも教えられている。また、オリエンテのアマゾン低地に住む先住民によって多様な言語が使用されている。

 


インカ帝国
Imperio Inca、は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。首都はクスコ。


クスコ王国
Curacazgo Incaは、アンデス山脈山中の小王国。1200年頃にケチュア族が作った小規模の都市国家として始まり、和戦両様の同化によって成長し、インカ帝国により引き継がれた。インカ族=ケチュア族は、12世紀頃にクスコ地方で部族として成立し、マンコ・カパックの指揮の下、下図の赤く示された範囲に小規模の都市国家を形成した。


ケチュア
Quichuaは、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られるインディオ。また、この民族が用いている言語。現在では、ボリビア、ペルー、エクアドル、チリ北部、コロンビア南部など、主に南米大陸各国で1300万人が使用している。ボリビアとペルーでは公用語の一つになっている。過去にはインカ帝国において公用語であった。

クリオーリョ
criollo) とは、スペイン領植民地において、スペイン人を親として現地で生まれた人々を指す。人間に対してcrioulo, criolloという語が用いられたのは、黒人奴隷が最初であると考えられる。15世紀以降、奴隷貿易が発達するなかで、アフリカ大陸ではなく、近隣のサントメ島やカーボベルデ諸島、やがては新大陸で生まれ育った黒人奴隷が増加した。このため、諸島や新大陸生まれの黒人は"negro criollo"と呼ばれ、アフリカ大陸生まれの黒人("negro bozal", "negro africano")と区別されるようになった。

プラント・オパール
植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体(SiO2.nH2O) の総称である。Phytolith、Opal phytolith、Grass opalなどともよばれている。古環境の推定に用いられる分析法として花粉があげられるが、花粉に比べ研究が進んでいないため同定可能な種は限られる。しかし、乾燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境でも遺存するため幅広い環境で分析が可能であり、また広く飛散する花粉と異なり現地性が高いため、局所的な環境を推定する分析法として期待されている。

ペルー副王領
Virreinato del Peru)は、スペインが中南米の植民地化の間に作った4つのうち2つ目の副王領である。1543年に創設された副王領は当初は現在のベネズエラの海岸部を除くスペイン領南アメリカのすべてを含んでいた。1739年のヌエバ・グラナダ副王領、1779年のリオ・デ・ラ・プラタ副王領の創設により領地は分割された。

アウディエンシア
(Audiencia)はスペイン・カスティーリャ王国にあった最高司法機関である王立の大審問院(「聴訴院」とも訳される)を指し、新大陸のスペイン殖民領においては司法・行政・立法を司った王室機関で、副王と並ぶ重要性を持っていた。

ヌエバ・グラナダ副王領
Virreinato de Nueva Granada)は、スペインが中南米の植民地化の間に作った副王領のひとつである。1717年5月27日に初めてこの名前で創設され[2]、その後1723年に一時廃止、1739年に再び創設された。現在のコロンビア、パナマ(1751年以降)、エクアドル、ベネズエラを含み、その首都はサンタ・フェ(現在のボゴタ)に置かれた。

ミタ制
(mita )とは、スペイン統治下のペルーやボリビアにおける交代制の有償強制労働制度。インカ帝国時代の傭役制を規範として副王・トレドによって制度化された。メキシコのレパルティミエントに対応する制度である。ミタ制度は吏員や特殊技能者を除く原住民成人男子を対象にした労働力割当制度で、総数の7分の1ずつの原住民が数ヶ月交代で駆り出され、小麦やブドウ農園、オブラヘ、精糖所などでの労働に従事させられた。


コンキスタドール
(Conquistador) とはスペイン語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。代表的なコンキスタドールとしては、1521年にアステカ王国を侵略したエルナン・コルテス、1533年にインカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロが挙げられる。彼らは金銀を求めてアメリカ大陸を探索し、アメリカ大陸の固有文明を破壊し、黄金を略奪した。


ピラミッド・アイ・タブレット
エクアドルのラ・マナで発見されたとされる石造のオーパーツである。個人の所有物であり、2001年にウィーンで行われたオーパーツの展覧会「未解明の謎展」で初めて一般に公開された。ピラミッド・アイ・タブレットやピラミッド・ストーン、ラ・マナの光のピラミッド(La piramide di luce di La Mana)など、各媒体ごとに異なった名称で紹介されている。高さ27センチメートルで、表面は3辺からなる三角形状になっており、頂点部分に一つの目が象嵌されている。また、目の下部には13の水平な段が刻まれている。底面には黄金の埋め込み細工で、オリオン座の配置が描かれている。


<世界遺産>
ガラパゴス諸島
エクアドル本土より西約900kmにあり、大小多くの島と岩礁からなる。現在、ガラパゴスの123の島に名前が付いている。 最も北のダーウィン島と南のエスパニョーラ島の間は220km離れている。
キト市街
キトの発祥は紀元1000年以前までさかのぼることができる。当時、その一帯は遊牧民たちの遊牧する土地であったが、その後今のキトの位置に市が開かれた。15世紀末にはインカ帝国の支配下に置かれ、11代インカ皇帝ワイナ・カパックの母親が当地の出身だったため、帝国の第二の首都として整備されることとなる。第一の首都であるクスコからキトまでは、インカ道が通された。フランシスコ・ピサロは1534年、キトへの殖民を開始。街は「サン・フランシスコ・デ・キト」と名づけられた。 地元民は改宗させられ、教会の建設などに酷使された。そしてその後300年にわたり、キトはスペインの植民地として支配されることとなる。
サンガイ国立公園*危機遺産
公園名の由来となったサンガイ山(標高5230 m)とトゥングラワ山(標高5016 m)という二つの活火山を持ち、さらにもう一つ、カルデラ湖を持つ休火山アルタール山(標高5320m)が聳えている。
サンタ・アナ・デ・ロス・リオス・クエンカの歴史地区
丸石で舗装した道路、塔のある教会、大理石や漆喰の建物が植民地時代の雰囲気をかもしだしている。この地にはカニャリ人による都市グアポンデレグが500年ごろに建てられた。スペイン人が到達する50年ほど前に、カニャリ人はインカ帝国に征服された。トゥパック・インカ・ユパンキはクスコに匹敵する都市の建設を命じたが、スペイン人に征服されたときはすでに廃墟となっていた。



*1810年代からコロンビア共和国とリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)が主体となって南米大陸各地の解放が進む中で、北のベネスエラからシモン・ボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレが、南のリオ・デ・ラ・プラタ連合州からホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は再び独立を宣言し、1822年のピチンチャの戦いでスクレ将軍がスペイン軍を破ると、最終的に現在のエクアドルとなっている諸地域の解放が確定した。

シモン・ボリバル
Simon Jose Antonio de la Santisima Trinidad Bolivar y Palacios、1783年7月24日 - 1830年12月17日は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家である。ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。

アントニオ・ホセ・デ・スクレ
Antonio Jose de Sucre, 1795年2月3日 - 1830年6月4日は南アメリカの諸国をスペインから独立に導いた軍人、政治家。第二代(初代はシモン・ボリバルが名目的な立場のみだったので事実上の初代)、ボリビア大統領。シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも)の部下で良き理解者としても知られる。1821年にエクアドルの独立派の救援に赴き、翌年ピチンチャの戦いでこの地のスペイン軍を破った。1823年からはペルーの独立派を援け、1824年にアヤクチョの戦いで南米独立戦争の最終的な勝利を決した。

ワスカル
ケチュア: Waskhar:喜びの太陽、1503年-1532年、在位1527年-1532年)は、インカ帝国の12代サパ・インカ(皇帝)である。父11代インカ皇帝ワイナ・カパックと兄で皇太子のニナン・クヨチがともに、天然痘と考えられている伝染病によりキトで亡くなると即位した。ワイナ・カパックは自らの母の出身地であるキトを愛し帝国の第2の首都としたため、晩年にはインカ貴族が首都クスコ派とキト派に分かれ対立していた。

フランシスコ・ピサロ
(Francisco Pizarro、1470年頃 - 1541年6月26日)は、スペイン人のコンキスタドール。ペルーのインカ帝国を征服した。カスティーリャ王国エストレマドゥーラのトルヒージョの生まれで、父はゴンサロ・ピサロ、母はフランシスカ・モラレス。父は軍人で小貴族、母は召使であったといわれる。教育されず、文字も知らないままで育った。

エディソン・メンデス
(Edison Vicente Mendez Méndez、1979年3月16日 - )は、エクアドル出身の同国代表、エクアドルのCSエメレク所属のサッカー選手。ポジションはMF。日韓共催W杯では対クロアチア戦で決勝点を挙げる活躍でエクアドル代表のW杯初勝利の立役者となり、2006年のドイツW杯においては2アシストを記録し、エクアドル代表の初のベスト16入りへ貢献した。

クリスティアン・ベニテス
(Christian Rogelio Benitez Betancourt、1986年5月1日 - )は、エクアドル・キト出身の同国代表サッカー選手。サントス・ラグナ所属。ポジションはFW。エクアドルリーグ最多得点記録を持つエルメン・ベニテスはクリスティアンの父親である。

セバスティアン・デ・ベラルカサル
(Sebastian de Belalcazar, 1479年? - 1551年?)は、スペインのコンキスタドール。事実として伝えられているのは、彼は1524年にフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバとニカラグアに入り、レオンの初代市長に就任したということである。彼は1527年までその職を務め、スペイン人知事たちの争いの結果ホンジュラスへ移動した。その後間もなくレオンに戻り、フランシスコ・ピサロの遠征に加わりペルーに航海した。

エクアドル Ecuador
南アメリカ西部に位置する共和制国家である。北にコロンビア、東と南にペルーと国境を接し、西は太平洋に面する。本土から西に1,000km程離れたところにガラパゴス諸島(スペイン語ではコロン諸島:Archipié煙ago de Coló剋)を領有する。首都はキト。最大の都市はグアヤキル。なお、国名のエクアドルはスペイン語で赤道を意味する。現在のエクアドル共和国に相当する地域には紀元前10000年頃の人類の生存が確認されており、その後様々な古代文明が栄えた。紀元700年から16世紀半ばまでを統合期と呼び、身分制、首長制を基盤とし、祭祀センターを備えた社会構造が存在したことが明らかになっている。

■地理
エクアドルは赤道直下にあり、本土は標高によって三地域に分かれる。 中央のアンデス山脈が縦断している地域をシエラ(La Sierra)、太平洋岸の亜熱帯低地をコスタ(La Costa)、東部のアマゾン川上流熱帯雨林が広がる地域をオリエンテ(El Oriente)と呼ぶ。また、太平洋上にガラパゴス諸島を領有している。

キト
キト (Quito) はエクアドル共和国の首都。グアヤキルに次いで人口が多い。南米有数の世界都市。赤道直下に位置しているが、アンデス山脈の中腹(標高2850メートル)にあるため比較的涼しい。人口1,399,378人(2001年)。


マリスカル国際空港
Mariscal Sucre International Airportは、エクアドルの首都、キトにある国際空港である。エクアドル独立の貢献者で、初代ボリビア大統領であるアントニオ・ホセ・デ・スクレにちなんで名付けられた。 2010年には、18キロ東に完成する新キト国際空港に移転する計画がある。

サンクリストバル空港
San Cristobal Airport)は、エクアドル共和国ガラパゴス諸島のサン・クリストバル島にある空港。ガラパゴス諸島への空の玄関の一つである。

新キト国際空港
NEW QUITO INTERNATIONAL AIRPORT)とは、エクアドルにあるマリスカル国際空港の東18キロに建設中の新国際空港である。


外務省:エクアドル共和国
在エクアドル日本国大使館


■主な高等教育機関
エクアドル中央大学(1586年)、グアヤキル大学(1867年)、クエンカ大学(1868年)などが挙げられる。


クエンカ
Cuencaは、エクアドル中南部にある都市。アスアイ県の県都。標高は約2,500mで、アンデス山脈中の谷に位置する。この地にはカニャリ人による都市グアポンデレグが500年ごろに建てられた。スペイン人が到達する50年ほど前に、カニャリ人はインカ帝国に征服された。トゥパック・インカ・ユパンキはクスコに匹敵する都市の建設を命じたが、スペイン人に征服されたときはすでに廃墟となっていた。

マチャラ
Machalaは、エクアドル南西部の都市。グアヤキル湾に面する肥沃な低地に築かれた、エル・オロ州の州都である。2008年の推計では42万6901人が暮らしており、国内第四の人口を有する。「バナナのメッカ」と称される。大学はマチャラ技術大学とサン・アントニオ・デ・マチャラ工科大学(UTSAM)の2校がある。多くの私立校があるが、公立高校は1校しかない。

プエルト・バケリソ・モレノ
Puerto Baquerizo Moreno、バケリソモレーナ、プエルト・バケリソ・モレーナとも表記される)はエクアドル共和国にある都市でガラパゴス諸島の中心都市でもある。ガラパゴス諸島東部、サンクリストバル島の南西部に位置している。人口は18,640人(2001年)で小規模な港湾都市となっている。ダーウィンがガラパゴス諸島を発見したときに初めて上陸した土地であるため、古くから比較的栄えている。

ヌエバ・ロハ
Nueva Lojaは、エクアドルの都市。ラゴ・アグリオ(Lago Agrio)とも呼ばれる。スクンビオス県とラゴ・アグリオ郡の中心都市で、1960年代に米石油大手、テキサコのベースキャンプとして建設された、同社の企業城下町。現在も石油採掘の点で重要視されている。州中部のアマゾン熱帯雨林に位置する、エクアドル北部の最重要都市のひとつ。第一次入植者の多くが同国南部のロハの出身だったことにちなみ名付けられた。


チンボラソ県
Provincia de Chimborazo)は、エクアドルの県。同国中部を貫くアンデス山脈にあり、サンガイ国立公園の一角を成す。県都はリオバンバ。エクアドル最高峰のチンボラソ山(6,267m)が聳える。

ナポ県
Provincia de Napo)は、エクアドルの県。県都はテナ。ナポ川が流れる。産業が育っていないため、あまり発展していない。スペイン人による征服から逃れた人々が、深いアマゾン熱帯雨林のなかで今でも暮らしている。アンティサーナ生態保護区とリモンコチャ国立生物保護区がある。

スクンビオス県
Provincia de Sucumbios)は、エクアドル北東部の県。県都はヌエバ・ロハ(別名 ラゴ・アグリオ)で、県の最大都市でもある。総面積は1万8612 km2とエクアドルの県のなかで4番目に大きく、そこに1998年時点で14万4774人が暮らす。油田が発見されるまで、スクンビオスは原住民のみが住む未開発の地であった。


バルセロナSC
Barcelona Sporting Clubはエクアドルのグアヤキルに本拠地を置くサッカークラブ。FCバルセロナとの混同を避けたい場合には Barcelona de Guayaquil(バルセロナ・デ・グアヤキル)という呼称が用いられることもある。 FCバルセロナとは直接的な関係は無いものの、エンブレムは非常によく似ており親善試合も行ったことがある。


■国名
公式の英語表記は Republic of Ecuador。通称 Ecuador。国名はこの国を通る赤道(スペイン語でEcuador terrestre)に由来する。植民地時代には現在のエクアドルの領域はペルー副王領の一部であり、独立戦争中にシモン・ボリーバルの采配によってコロンビア共和国(大コロンビア)に併合された後は「南部地区」(Distrito del sur)と呼ばれていた。


1.面積:25.6万平方キロメートル(本州と九州を合わせた広さ)
2.人口:1400万人(2010年、国家統計調査局)
3.首都:キト
4.民族:欧州系・先住民混血79%、欧州系8%、先住民7%、アフリカ系・アフリカ系との混血3%(2001年、国勢調査)
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック

1822年 大コロンビアとして、スペインより独立
1830年 大コロンビアより分離独立
1979年 民政移管

■主要産業:鉱工業(石油)、農業(バナナ、カカオ、生花)、水産業(エビ)
■主要貿易品(1)輸出 石油、バナナ、コーヒー、生花、えび(2)輸入 石油製品、自動車、車両部品、鉄鋼


アメリカ合衆国ドル
United States Dollar)は、アメリカ合衆国の公式の通貨である。通称としてUSドル、米ドル、アメリカ・ドルなどが使われる。アメリカ以外のいくつかの国や地域で公式の通貨として採用されているほか、その信頼性から、国際決済通貨や基軸通貨として世界で最も多く利用されている通貨である。


石油輸出国機構
Organization of the Petroleum Exporting Countries)は、石油産出国の利益を守るため、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国の原加盟で1960年9月14日に設立された産油国の組織。本部はオーストリアのウィーン。


■農業
農地の地域分布は山地と海岸平野に二分される。降水量が少ないため農業に適さない山地で主食となる米やトウモロコシ、肥沃な海岸平野ではカカオ、コーヒー、サトウキビ、バナナなどの商品作物を栽培する。人口のわずか1%を占めるに過ぎない所有者が農地の4割を所有し、土地なし農民、一種の農奴として働く農民が少なくない。



■鉱業
鉱業は農業、漁業と並んでエクアドル経済を支える3本柱の一つである。埋蔵量が減少しているとはいえ、有機鉱物資源、特に石油は1920年代に開発されて以来エクアドルの主産業となり、2003年時点で輸出額の39.3%を占める最大品目である。東部のオレリャナ州の油田が有力。エクアドル政府は石油が貴重な外貨獲得源であることを理解しており、火力発電を抑え、地形を生かした水力発電に投資している。水力の総発電量に占める比率は70.3%にもなる。

■国民
エクアドルは非常に多様性に富んだ国である。2007年の時点では、国内で最も多い民族集団は国民の67%を占める メスティーソであり、二番目に多いのは22%を占めるインディヘナとなり、白人が12%を、ムラートやサンボを含んだアフリカ系エクアドル人が8%を占める。


セファルディム
(Sephardim,は、ディアスポラのユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリア、トルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した者を指す言葉。それ以前については目下不明である。スペイン系ユダヤ人などとも言う。語源はオバデヤ書に見える地名、セパラデ(イベリアと同一視された)である。セファルディはセファルディムの単数形である。

イスパノアメリカ
Hispanoamerica)は、スペイン語話者が居住しているアメリカ大陸の国家を表す厳密な地域区分である。これら諸国は重要な文化的共通性を相互の諸国とスペインと分かち合っており、これらはかつてスペインの植民地だったことによる。これら諸国では、スペイン語は国民大多数の主要言語か、グアラニー語、ケチュア語、アイマラ語、マヤ諸語、ナワトル語、マプーチェ語などと共に一つ以上のインディオの言語と共に使用される言語となっている 。

アンデス共同体
Comunidad Andina, CAN)は、アンデス地域を中心とした南アメリカおよびラテンアメリカの、統括的経済開発と均衡および自治を目的とした国家共同体である。加盟国は、ボリビア、コロンビア、エクアドル、ペルーの4ヶ国。1996年まではアンデス貿易協定 (Pacto Andino)やアンデスグループ (Grupo Andino)と呼ばれることも多かった。

南米諸国連合
Union of South American Nations、オランダ語:Unie van Zuid-Amerikaanse Naties)は、2007年に結成された「同一通貨、同一パスポート、一つの議会」を目指す南アメリカの政府間機構。南米国家共同体ともいう。2011年11月29日、パラグアイの首都アスンシオンで開催された。議長国となったパラグアイのフェルナンド・ルゴ大統領は、大国の介入なしに加盟国が直接対話することを強調し、自主的な地域統合を続ける決意を表明した。


ユナイテッド・フルーツ
(United Fruit Company, UFCO) は、かつて存在したアメリカ合衆国の企業。第三世界諸国のプランテーションで栽培させたトロピカルフルーツ(主にバナナ)をアメリカ合衆国やヨーロッパで販売した。

ロイヤル・ダッチ・シェル
(Royal Dutch Shell) は、オランダのハーグに本拠を置くオランダとイギリスの企業である。世界第2位の石油エネルギー企業であり、スーパーメジャーのうちの1社である。第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社である。


■宗教
カトリック教徒が国民の80%であるが、近年、先住民社会を中心にプロテスタントの数が増加しつつあり、社会問題になっている。他にはユダヤ教やイスラーム教を信仰するものが少数存在する。ユダヤ人にはセファルディムが多い。


■先住民教育
エクアドルでは総人口の約25-30%を占める先住民の教育のために、異文化間二言語教育(Educacion Bilingue Intercultural)と呼ばれる施策が行われている。エクアドル先住民連盟(CONAIE)によって1988年に設立された異文化間二言語教育局(DINEIB)は教育文化省と協定を結んでキチュア語とスペイン語による二言語教育を実施し、さらに先住民文化と西欧近代文化の綜合を教育の中で試みている。


■文学
エクアドルの文学は先住民の口承文学に伝統を持ち、スペイン人による征服以後も独自の発展を遂げた。独立前後の作家としては、エウヘニオ・エスペホ、ホセ・ホアキン・オルメド、フアン・モンタルボなどが有名である。エクアドルにおける小説はミゲル・リオ・フリオの『解放された女』(1863)によって始まった。ロマン主義の時代にはインディオをテーマにした『クマンダー』(1879)のフアン・レオン・メラの名が特に挙げられる。シエラからコスタのプランテーションに向かう人々を描いたルイス・マルティネスの『海岸へ』(1904)が出発点になった。フェルナンド・チャベスの『銀と青銅』(1927)によってエクアドルでもインディヘニスモ文学が始まった。後に国際的に最もよく知られたエクアドルの小説となった[6]ホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』(1934)では、土地を追われ、政府軍によって殺戮される悲惨さの極致としてインディオが描かれた。イカサとは対照的に、ウンベルト・マタが『塩』(1937)で描いたインディオは、政府軍に対しての抵抗は失敗するものの、イカサのインディオ像には欠けていた人間の尊厳を持ち合わせていた。


●森を守る基金のピンチ
2011/10/30  アマゾン最上流部、ペルーとの国境に広がるヤスニ国立公園のITT地区にはエクアドルの石油資源の約2割に当たる大油田が眠っている。しかしこの森は生物の宝庫であり少なくとも200種の哺乳類、600種の鳥類、120種の爬虫類、150種の両生類、2700種の樹木が青森県ほどの広さに存在すると米科学誌が発表した。2010年森を石油開発から守る基金が国連開発計画に設立されたが、年末までに必要な最初の1億ドル(78億円)が集まらず頓挫の危機にある。


アントニオ・バレンシア
Luis Antonio Valencia, 1985年8月4日 - は、エクアドル出身のサッカー選手。エクアドル代表である。プレミアリーグ、マンチェスター・ユナイテッドFC所属。ポジションはミッドフィールダー。1985年8月4日、アマゾン熱帯雨林に囲まれるヌエバ・ロハ(ラゴ・アグリオとも呼ばれる)に生まれた。地元のサッカークラブのスタジアム外で飲み物を売り歩く仕事で家計を助け、空容器を回収することで得られる預り金(ボトル・デポジット)でも収入を得た。両親や5人の弟妹と暮らす家の隣にある空き地で裸足でボールを蹴っていたが、11歳の時にスカウトに見初められて契約し、スクンビオス県のスポーツアカデミーに入団した。

ラファエル・コレア
Rafael Vicente Correa Delgado, 1963年4月6日 - は、エクアドル首都キトの外港に位置するグアヤキル生まれの経済学者、左派政治家、元経済相、エクアドルの大統領。ルーヴァン・カトリック大学にて経済修士を、また2001年にイリノイ大学にて経済博士を取得している。左翼政党連合(国民同盟:Alianza PAIS と左翼拡大戦線:PS-FA)の支援を受け、2006年のエクアドル大統領選挙に出馬、11月26日の決選投票で56%を得票して当選し、2007年1月15日、大統領に就任した。

アグスティン・デルガド
Agustin Javier Delgado Chala、1974年12月23日 - は、エクアドル出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションはFW。アレックス・アギナガなどと並んでエクアドル・サッカー界の英雄的存在である。初出場した日韓W杯ではメキシコ戦で同国初のW杯ゴールを決め、クロアチア代表戦ではW杯初勝利に貢献するアシストを記録した。

アレックス・アギナガ
Alex Dario Aguinaga Garzon、1968年7月9日 - は、エクアドル出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはMF。代表出場試合数は109試合で、イバン・ウルタードに次ぐ同国第2位の記録である。実力は同時期に活躍したコロンビア代表のカルロス・バルデラマと比較しても遜色が無い程のゲームメーカー型の選手であった。

ウリセス・デ・ラ・クルス
Ulises Hernan de la Cruz Bernald, 1974年2月8日 - は、エクアドル出身のサッカー選手。ポジションはDF、MF。1990年代から2000年代にかけてエクアドル代表の不動の右サイドバックであった。代表デビューは1995年5月28日に行われたキリンカップの日本戦。その後、代表に欠かせない存在として成長し、2002 FIFAワールドカップ南米予選全18試合に出場する。持ち前のスピードとテクニックでエクアドル代表のワールドカップ出場に大きく貢献した。本大会では華麗なパフォーマンスを披露し、全得点にアシストで貢献した。

ガブリエル・ガルシア・モレノ
Gabriel García Moreno、1821年12月24日 - 1875年8月6日は、エクアドルの政治家。1861年に大統領に就任すると15年間、カトリック教会中心の国家を目指し、自由主義者を弾圧する独裁政治をした。

ホセ・マリア・ベラスコ・イバラ
Jose María Velasco Ibarra、1893年3月19日- 1979年3月30日は、エクアドルの政治家。労働者や大衆の支持を集めたポプリスモ政治家であり、「我にバルコニーを与えよ。されば大統領たらん」という発言で知られるとおりの雄弁家で抜群の政権獲得能力を示して、1934年から1935年、1944年から1947年、1952年から1956年、1960年から1961年、そして1968年から1972年の生涯に5度エクアドルの大統領に就任したが、その政権を任期満了までつとめられたのは1952年から56年の1期だけで、残りの4期はすべて彼の失政に耐えかねた軍によって政権を追われている。首都キトにて土木技師の息子として生まれた。彼は小学校に通わず、代わりに彼の母によって教育を受けた。16歳の時に父が死ぬとサン・ガブリエル高校へと進学し、さらにエクアドル中央大学に進学して法解釈学の分野で博士号を取得し、パリ大学に留学した。

トゥパック・インカ・ユパンキ
Tupac Inca Yupanqui、?-1493年、在位1471年-1493年)は、インカ帝国の10代サパ・インカ(皇帝)(上王朝5代目)である。トパ・インカとも。父は9代インカ皇帝パチャクテク、王妃はママ・オクリョ、子に11代ワイナ・カパックがいる。彼は父帝により1463年インカ軍隊の最高司令官に任命され、アンデス山脈に沿って北方へ帝国領土を拡張し、現エクアドルにまで達し、クスコの建築技師により再建されたキトの町に対し特別な愛着を持つようになった。この頃、父帝パチャクテクは、これまでのクスコ王国を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。

ワイナ・カパック
Wayna Qhapaq?-1527年、在位1493年-1527年は、インカ帝国の11代サパ・インカ(皇帝)(上王朝6代目)である。父は10代インカ皇帝トゥパック・インカ・ユパンキ、母は現エクアドル南部のカニャーリ族の女と言われている。インカ皇族は通常兄と妹による近親結婚によって生まれた一族であり、最も有力な後継者候補は、この近親結婚により産まれた皇子になるが、父帝の正妻に皇子がなく、側室の子ながら父の後を継ぎ即位したと言われている。


アタワルパ
Atawallpa1502年頃-1533年8月29日、在位:1532年-1533年は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。


ホセ・デ・サン=マルティン
Jose de San Martin, 1778年2月25日 - 1850年8月17日は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。1778年、アルゼンチン北東部の小さな村である、コリエンテス州のヤペユーにスペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の子として生まれる。1813年2月3日、サンロレンソの戦いでサン=マルティン指揮するラ・プラタ軍はスペインを撃破する。 革命の英雄だったインカ帝国復古派のマヌエル・ベルグラーノ将軍がアルト・ペルー(現在のボリビア)に対する解放戦争をアルゼンチン北西部のサルタから進めていたが、結局険しい地形に遮られ既に数度の敗北を喫していた。ラ・プラタ連合の真の独立にはアルト・ペルーの解放が必要不可欠だと考えていたのは誰もが同じだったが、サン=マルティンはここでチリ経由のアンデス越えを持ってまずチリとペルーを解放し、然る後アルト・ペルーを解放しようという壮大な作戦を練り始めた。

チャールズ・ダーウィン
Charles Robert Darwin, 1809年2月12日 - 1882年4月19日はイギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。エディンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。5年にわたるビーグル号での航海は彼をチャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持した著名な地理学者として確立した。またその航海記は人気作家としての地位を固めた。

イバン・ウルタード
(Ivan Hurtado, 1974年8月16日 - )は、エクアドル出身の同国代表サッカー選手。センターバック。ウルタドとも。現役ながら150を超える代表キャップ数が示す通り、代表ではもはや替えの利かないセンターバックである。実際、彼がいるといないとでは守備の安定感が大幅に違い、失点数もかなり変わってくる。また、後継者が育っていないため彼が代表を続けざるを得ないというのも事実である。

イバン・カビエデス
(Ivan Kaviedes, 1977年10月24日 - )は、エクアドル出身の同国代表サッカー選手。ポジションはフォワード。1998年にCSエメレクでプロデビューを飾り、1シーズンで43得点を挙げた事で注目を集め、1998-99シーズン途中にイタリアのACペルージャへ移籍した。ペルージャ時代は中田英寿と同僚であった事で日本でも知名度があった。

アルフレド・パラシオ
(Luis Alfredo Palacio Gonzalez 、1939年1月22日 - ) は、前エクアドル共和国大統領、政治家、心臓医学者。1939年1月22日、グアヤキルで生誕する。グアヤキルと、オハイオ州クリーブランドのケース・ウェスタン・リザーブ大学、ミズーリ州セントルイスで心臓医学を学習。

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