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アルゼンチン共和国
Argentine Republic

■太古
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。


2007年10月、正義党から、キルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業、輸出、農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンは予断をゆるさないものの、再び回復しつつある。


■歴史
先コロンビア期:アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。その後15世紀後半に現ペルーのクスコを中心に発展したケチュア人の国家、タワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとワイナ・カパックの征服によって北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入され、征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャスーユの辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。

■スペイン植民地時代:植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカでは最も開発の遅れた地域だった。

■独立戦争と内戦:1806年、1807年の二度に渡るイギリス軍の侵略を打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日、五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。

■国家統一と西欧化:1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。民政移管から現在のアルゼンチン:1983年に大統領選挙と議員選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビーナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることが出来なかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線は後のメルコスール形成に繋がった。また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。


アルゼンチンの歴史
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にアジアからベーリング海峡を渡ってやってきた人々だった。彼等はパタゴニアに「手の洞窟」を残している。先インカ時代の15世紀以前からも、山岳地帯には、ケチュア系、アイマラ系の先住民(インディオ)が、ケチュア語でパンパと呼ばれた草原地帯や、同じくケチュア語でチャコと呼ばれた北部のサバンナ地帯にはチャルーア族や、グアラニー族といった狩猟民族や、原始的な農耕を行う部族が居住していた。


■地理
アルゼンチンの国土は、南北に3500km以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で二番目に大きい国で、面積は全体で2,766,890km2になり、陸地のみでは2,736,690km2に、水域のみでは30,200 km2に及ぶ。北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西に、アンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約20%を占める。


パンパ
Pampa) は、南米・アルゼンチン中部のラプラタ川流域に広がる草原地帯。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスを中心に、半径約600kmの半円形を描く地域である。関東平野の約60倍の大きさで、肥沃な土壌が広がっており、世界有数の牧畜地域でもある。アルゼンチンの人口の3分の1がここに集中している。

グランチャコ
(Gran Chaco) は、ラプラタ盆地の人口がまばらな、非常に暑く乾燥した半砂漠の地域。ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルにまたがる。チャコ (chaco) とはケチュア語で狩猟の土地 (hunting land) を意味する。


パタゴニア
(Patagonia)は南アメリカ大陸の南緯40度付近を流れるコロラド川以南の地域の総称。アルゼンチンとチリの両国に跨る。またブルース・チャトウィンがこの地を旅した体験に基づいてかかれた小説パタゴニア(1977年)も紀行文の名作として知られている。

ラプラタ川
Rio da Prataは、アルゼンチンとウルグアイの間を流れる川である。河口部が全幅約270kmの三角江(エスチュアリー)となっている。
ラプラタ川はウルグアイ川、パラグアイ川、パラナ川の各河川をはじめとする無数の支流を含む巨大な水系としての意味も持ち、その流域面積はおよそ310万km2でパラグアイ全土、ボリビア南東部、ウルグアイの大部分、ブラジルおよびアルゼンチンのかなりの部分を含んでいる。

イグアス川
南米パラナ川の支流中で最も壮大な流れを持ち、ブラジルの海岸山脈を起源とする川である。全長は1,320kmにおよぶ。ブラジル海岸山脈を発したイグアス川は、初めは西方へおよそ690km流れ、やがてパラナ川に合流する。合流点の手前25km地点に世界三大瀑布の一つであるイグアスの滝がある。イグアス川はブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三ヶ国にまたがっている。


イグアスの滝
南米大陸のアルゼンチンとブラジルの二国にまたがる、世界最大の滝である。イグアス (Iguazu) とは先住民のグアラニ族の言葉で大いなる水 (Y Guazú)という意味。イグアス川の下流にある。この滝を含むブラジルのイグアス国立公園とアルゼンチンのイグアス国立公園は、ともにユネスコ世界遺産に登録されている。最大落差80メートル以上。「悪魔の喉笛」(Garganta del Diablo) が有名な観光名所である。


ピルコマジョ川
Rio Pilcomayo)は、南米中央部を流れる河川である。パラグアイ川の西部の支流で最も長い川であり、流域は270,000 km2にも達する。ボリビアのポオポ湖の東のポトシ県、オルロ県など、アンデス山脈の麓に源を発する。チュキサカ県とタリハ県を通って南東に2,000km流れ、アルゼンチンのフォルモサ州とパラグアイのグラン・チャコ平原を流れてアスンシオン近郊のパラグアイ川に合流する。

パラナ川
Rio Paranaは、ラプラタ川水系最大の川である。グアラニー語で神の母を意味する。全長4500kmのうち、パラグアイ川との合流点より上流2250kmはアルトパラナ川ともいい、パラナイバ川とグランディ川が南緯20°付近で合流したものである。全長のうち210km区間はブラジルとパラグアイの国境を流れる。

アルヘンティーノ湖
Lago Argentinoはアルゼンチンのサンタクルス州にある淡水湖。位置、南緯50度2分西経72度4分。アルゼンチン最大の湖で、その表面積は1,466 km2 である。平均深度は150m、最も深い場所では500mある。湖はロス・グラシアレス国立公園内にある。ビエドマ湖から流れてくるラ・レオナ川や、南パタゴニア氷原にある多くの氷河から溶けた水などが湖に注いでいる。

ビエドマ湖
(Lago Viedma)はチリとアルゼンチンの国境付近のパタゴニア南部にある、長さ約80kmの湖。氷河の溶けた水で出来た、谷間の長く延びた湖である。

ヘネラル・カレーラ湖
ブエノス・アイレス湖(西: Lago Buenos Aires)またはヘネラル・カレーラ湖(Lago General Carrera)は、パタゴニアにある湖。アルゼンチンとチリにまたがっており、アルゼンチン名がブエノス・アイレス湖、チリ名がヘネラル・カレーラ湖だが、どちらも国際的に受け容れられている。

ビーグル水道
Beagle Channelは、南アメリカのフエゴ島と、その南側に位置するナバリノ島、オステ島を隔てる全長約240kmの海峡(水道)。西の端にはダーウィン・サウンド、東の端にはヌエバ島がある。チャールズ・ダーウィンが1831年から1836年にかけて行ったビーグル号による地球一周航海の際の経路であり、同水道の名前は同船に由来する。

フエゴ島
南アメリカの南端部に位置するティエラ・デル・フエゴ(フエゴ諸島、Tierra del Fuego)の主島。アルゼンチンとチリの両国によって分割され、統治されている。世界最南端の都市はアルゼンチン領のウスアイア。1520年、世界一周の航海の途上でマゼラン海峡を通過したフェルディナンド・マゼランによって発見された。スペイン語でティエラは陸地、フエゴは火の意味で、島に多数の焚き火を見たことから名づけられた。

マルティン・ガルシア島
Isla Martin Garcia)は、アルゼンチンとウルグアイの国境のラプラタ川の河口のウルグアイ領海内にあるアルゼンチン領の島である。1973年にウルグアイとアルゼンチンの間でアルゼンチンが保有し、自然保護区として管理することが合意されている。

ウシュアイア
Ushuaia、現地ではウスアイアまたはウスアヤと発音する。アルゼンチン南端、フエゴ島に位置する都市。同国ティエラ・デル・フエゴ州の州都である。2005年現在の人口は約64,000人。市はビーグル水道に面している。後背地の山が海に迫る地形であるため、市街地はビーグル水道に沿って発展している。

アコンカグア
Aconcaguaは、アンデス山脈にある南米最高峰の山である。標高 6,962 m。またアジア以外の大陸での最高峰でもある。死火山であるが、火口、噴火歴はない。アルゼンチンとチリとの国境付近のアルゼンチン側にある。

アンデス山脈
主に南アメリカ大陸の西側に沿って、北緯10度から南緯50度まで南北7500km、幅750kmにわたる世界最大の褶曲山脈。山脈はベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、チリの7カ国にまたがる。 最高峰はアコンカグア(6960m・一説には7021m)で、6000mを越える高峰が20座以上聳え立っている。新生代第三紀末(鮮新世)から現在までの太平洋プレート、ナスカプレートと南米大陸のぶつかり合いで隆起してできたと考えられている。

ドレーク海峡
Drake Passage)は、南アメリカ・ホーン岬と南極大陸との間の海峡。南極海の一部でもあり、世界でも最も荒れる海域の一つ。ギネスブックで世界一幅の広い海峡として認定されており、最狭部でも約650kmある。

マゼラン海峡
Estrecho de Magallanesは、南アメリカ大陸南端とフエゴ島とを隔てる海峡。太平洋と大西洋を結ぶ。1520年10月に、フェルナン・デ・マガリャンイス(フェルナンド・デ・マガリャネス)が7日間の航海でここを通過し、後に彼の名前を採って「マガリャネス海峡」と呼ばれるようになった。


コーノ・スール
Southern Cone)は、南アメリカ最南端を指す地理的範囲。南回帰線以南をいう。アルゼンチン、チリ、ウルグアイの全域に加え、パラグアイの一部と、ブラジル南部のいくつかの州を含む。


アルゼンチン領南極
Antartida Argentina)は、1942年以来アルゼンチンが自国の領土と主張している南極大陸の一部領域である。アルゼンチン領南極地域は、南極半島の一部とウェッデル海奥のロンネ棚氷、南極大陸本土を含み、西経25度から西経74度の間、南緯60度以南の範囲で南極点を中心とした扇形をなしている[1]。面積は965,597平方km。


リオプラテンセ・スペイン語
Castellano rioplatense,カステシャーノ・リオプラテンセ。"「銀(プラタ)の川」のスペイン語"を意味する)とは、ラ・プラタ川流域のアルゼンチン及びウルグアイで話されているスペイン語の方言である。

マプチェ語
Mapudungun、とは南アメリカのチリやアルゼンチンに住む先住民族マプチェ族によって使用されてきた孤立した言語である。各国の最近の国勢調査によると、チリには604,349人、アルゼンチンには300,000人のマプチェ語話者がいるとされる。マプドゥングンは「大地の言語」を意味する。


マプチェ族
チリ中南部からアルゼンチン南部に住むアメリカ州の先住民族。民族名は、彼らが話すマプチェ語で「大地」(Mapu)に生きる「人々」(Che)を意味する。マプチェ族は、南アメリカ南部を支配し、インカ帝国やスペインの侵略に対し長く抵抗を続けた民族として知られている。彼らは生計を農業に依存し、ロンコ(lonco)と呼ばれる首長のもとで血縁関係を単位とした社会を構成していた。

グアラニー族
(Guaranies) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としてはほとんど絶滅し、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。元々が農耕民だったため、ラ・プラタ地域のチャルーア族のような攻撃的なインディオとは違って、スペイン人、ポルトガル人が来寇した直後から同盟が進み、それに伴ってスペイン植民地では主にパラグアイで、ポルトガル植民地ではブラジルで通婚、混血が進んだ。こうしてヨーロッパ人と同盟したグアラニー族は敵対部族を共同で攻撃した。

ヤーガン族
Yahgan, は、かつてフエゴ島の南の島々からホーン岬に存在を広げていた先住民である。孤立言語と考えられるヤーガン語を話す。ヤーガン族は、食物を集めるために島の間をカヌーで渡る遊漁民だった。男性はアシカを狩り、女性が甲殻類を集めるために海に潜った。ヨーロッパから持ち込まれた疫病に対し免疫力のなかったヤーガン族はヨーロッパ人との接触以降、その多くが病死し、入植者との武力衝突も加わり、急速に激減してしまった。生き残った僅かなヤーガン族も他の民族との混血が進んだため、純粋なヤーガン族はほとんどいなくなり、その文化の多くが失われてしまった。

チャルーア族
(Charrua,チャルーア)とは現在のアルゼンチン北東部のリトラル地方、ブラジル南部、そしてとりわけウルグアイに住んでいたインディオの部族である。当初は狩猟民であり、漁労と採集により生計を立てていた。大きな建築物を建てることはなく、最後までテントで暮らしていた。スペイン人による征服の直前において現ウルグアイの地域には5,000人程の先住民しかいなかったが、チャルーア族はグアラニー族と並んでその中で主要な民族だったようである。

テウェルチェ族
(Tehuelches)は、アルゼンチンのパタゴニアからチリ中南部に住むアメリカ州の先住民族部族の総称。パタゴニア族とも呼ばれる。
16世紀以降南アメリカに進出したスペイン人の報告に見られる長身の「パタゴン族」とは、同様に高い身長が特徴的なこのテウェルチェ族のことを指していたと推測される。

ケチュア
Quichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られるインディオ。また、この民族が用いている言語。現在では、ボリビア、ペルー、エクアドル、チリ北部、コロンビア南部など、主に南米大陸各国で1300万人が使用している。ボリビアとペルーでは公用語の一つになっている。過去にはインカ帝国において公用語であった。

アイマラ
Aymara)は、南アメリカのボリビア、ペルーやチリのアンデス地域に住む先住民族、インディオの一部族。ボリビア、ペルーのチチカカ湖周辺、およびチリやアルゼンチンの一部に住む。人口はおよそ300万人といわれている。アイマラ語を話す。

セルクナム族
Selk'nam)とはティエラ・デル・フエゴ諸島を含むチリ及びアルゼンチン南部のパタゴニア地域に嘗て居住していた民族。オナ族(Ona)とも。南米最後の先住民族の1つとされ、19世紀末にチリ・アルゼンチン両国政府がティエラ・デル・フエゴの探索と領有を進めた結果、絶滅に追い込まれた。

ガウチョ
(Gaucho)は、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のパンパ(草原地帯)やアンデス山脈東部に17世紀から19世紀にかけて居住し、主として牧畜に従事していたスペイン人と先住民その他との混血住民である。ガウチョはグアラニー語の「孤児」や「放浪者」を指した言葉が語源とされるが、マプーチェ族の言葉で「友達」(ガチュ)を表していたという説や、南ブラジルの方言で「牛殺し」(ガウデリオ)を表していたとも言われている。


<世界遺産>
文化遺産
グアラニーのイエズス会伝道所群
17世紀初頭にグアラニー族への伝道を開始したイエズス会は、グアラニーのキリスト教化を進めるための拠点として、いくつもの伝道所(伝道用の集落)を築いた。これは、同時に平和な理想郷の形成も企図したものであって、プランテーションなどでの強制労働や奴隷狩りから逃れた先住民たちも匿った。

サン・イグナシオ・ミニ
現在でいうブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどに30箇所築かれたイエズス会伝道所の中では、保存状態の良さという点で、このサン・イグナシオ・ミニが抜きん出ている。この遺跡は、グアラニー・バロック様式として知られる建築上や彫刻上の細部を現在まで良く伝えている。

ヌエストラ・セニョーラ・デ・サンタ・アナ
スペイン植民地時代にアメリカ大陸に多く作られたイエズス会伝道所の遺跡のひとつ。現在のアルゼンチン・ミシオネス州カンデラリア県にある。

ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート伝道所 (Reduccion de Nuestra Senora de Loreto) は、アルゼンチン・ミシオネス州カンデラリア県にあるイエズス会伝道所跡のひとつ。グアラニー族のキリスト教化などを目的として1610年に建造されたものであり、1767年のイエズス会退去令の後に放棄された。

サンタ・マリア・ラ・マジョール
サンタ・マリア・ラ・マジョール伝道所 (Reduccion de Santa Maria la Mayor) は、アルゼンチン・ミシオネス州カンデラリア県にあるイエズス会伝道所跡のひとつ。グアラニー族のキリスト教化などを目的として1626年に建造された。

サン・ミゲル・ダス・ミソンイス遺跡(ブラジル)
サン・ミゲル・ダス・ミソンイス (Sao Miguel das Missoes) は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州北西部の小さな町サン・ミゲル・ダス・ミソンイス市にある、イエズス会伝道所跡。

リオ・ピントゥラスのクエバ・デ・ラス・マノス
クエバ・デ・ラス・マノス(Cueva de las Manos、ラス・マノス洞窟)は、アルゼンチンのサンタ・クルス州にある洞窟。「(多くの)手の洞窟」を意味する名前の通り、多くの手の跡が残された洞窟壁画が印象的である。手形はしばしばネガになっている。つまり、洞窟の壁に手をつき、その周りに塗料を吹き付けることで、手形を浮き上がらせているのである。洞窟には手形以外にも、人、グアナコ、レアや、ネコ科の動物をはじめとする他の動物群なども描かれている。また、幾何学的造形やジグザグの線刻、太陽を表しているらしい絵や狩りの様子なども描かれている。なお、規模は小さいけれども、似たような洞窟壁画は近くの洞窟にも見られる。

コルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群
イエズス会伝道所 (Manzana Jesuitica) には、南米最古の大学の一つであるコルドバ大学(現在は国立大学。Universidad Nacional de Cordoba)、モンセラ中等学校 (Colegio Nacional de Monserrat)、教会、住居などが含まれている。そうした施設群を維持するために、イエズス会はコルドバ州に6つのエスタンシア(農園)を経営した。

ケブラーダ・デ・ウマワーカ
ウマウアカの谷 (Quebrada de Humahuaca)は、アルゼンチン北部のフフイ州にある、河川浸食によって出来た深く狭い渓谷である。この谷には、荒漠とした見事な景観があり、南北に点在する文化的に貴重な遺産が残されている。七色の丘 (Cerro de los Siete Colores)、マイマラ (Maimara)、ティルカラ (Tilcara)、ウマウアカなどで有名なプルママルカ (Purmamarca)はその代表的な例である。


自然遺産
ロス・グラシアレス
氷河の名をもつロス・グラシアレス国立公園は、アンデス山脈の南端パタゴニアに位置し、南極、グリーンランドに次ぐ世界第3の大きさの氷河群がある。

イグアス国立公園
アルゼンチン最大級の自然美を誇るイグアスの滝と周辺の亜熱帯の密林を対象とする。イグアス川の対岸には、ブラジルのイグアス国立公園が存在し、ともに世界遺産に登録されている。

バルデス半島
バルデス半島はアルゼンチンのチュブ州にある半島で、大西洋に面し、カルロス・アメギノ地峡で南アメリカ大陸本土とつながっている。特色ある動物相で知られる、長方形にも見える形をした半島である。

イスキグアラスト/タランパヤ自然公園群
アルゼンチン北西部にあるイスキグアラスト州立公園とタランパヤ国立公園から構成される。この地域には三畳紀の陸上の堆積物が広く露出し、最初期の恐竜を含めた当時の爬虫類の化石が多産する。2000年にユネスコの世界遺産に登録された。


■経済
IMFの統計によると、2009年のGDPは約3100億ドル(約27兆円)であり、日本の6%、神奈川県よりやや小さい経済規模である。アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどの農産物に加え、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。


 

■国民
人の占める比率は89.7%から97%と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。

■文化
アルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツであるヨーロッパから導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物の両方によって構成された結果として、しばしば南米で最もヨーロッパ的な都市だといわれてきた。もうひとつの大きな影響はガウチョやインカ帝国の文化に代表される、パンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。


■食文化
日本ではほとんど知られていないが、大畜産国として発展の基礎を築いただけあって、肉料理などを中心に充実した食文化の歴史がある。その一例として、多くのイタリア移民が持ち込んだパスタ類や、ドゥルセ・デ・レチェなどの菓子類等もバラエティに富んでいる。

エンパナーダ
empanada)とは、具入りのパンまたはペイストリーである。この名前は、パンで覆うまたは包むという意味のスペイン語およびポルトガル語の動詞「empanar」から派生した。ガリシア州およびポルトガルのエンパナーダのフィリングには通常、ツナ、イワシ、チョリソが含まれるが、替わりにタラや豚ロースを使うこともある。


■言語
言語はスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカスティシャーノと呼ばれる。ポルテーニョ(ブエノスアイレス市民)のアクセントはイタリア語のナポリ方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話されるルンファルドと呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。スペイン語の他には英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、および多少の先住民言語なども使用されている。

■映画
世界初のアニメ映画は1917年に漫画家のキリーノ・クリスティアーニによってアルゼンチンで製作された。アルゼンチン映画は1930年代から1950年代にかけて黄金時代を迎え、現在、その時代の作品の多くはスペイン語による古典映画だとみなされている。映画産業はアルゼンチン映画初のスターとなり、タンゴの歌手でもある、リベルタ・ラマルケや、フローレン・デルベーネ、ティト・ルシアルド、ティタ・メレージョ、ロベルト・エスカラーダ、ウーゴ・デル・カリールのような俳優を輩出した。

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フォルクローレ
(folclore) は、英語のfolkloreがスペイン語化したもので、言葉本来の意味としては、音楽のみならず民俗学、民俗的な伝承一般を指すが、日本では、ラテンアメリカ諸国の民族音楽、あるいは民族音楽に基礎をおいた大衆音楽を特に指して、このように呼ぶ。民俗学一般を指す言葉としては、綴りは同じだが英語読みのフォークロアが使われる。


ルーチョ・フォンタナ
Lucio Fontana, 1899年2月19日 - 1968年9月7日は、 20世紀のイタリアの美術家、彫刻家、画家。空間主義(spazialismo)の運動の創始者。1899年、アルゼンチンのサンタフェ州のロサリオで、イタリア人の父、ルイージ・フォンタナ(1865-1946)と、イタリア系アルゼンチン人の母、ルチア・ボッティーニのもとに生まれる。父は商業的な建築装飾、彫刻の仕事をしていた。1914年、父とともにミラノに移住し、カルロ・カッタネオ建築専門学校で建築を学ぶが、第一次世界大戦の勃発により、1917年に一時的に学業を中断した。第一次大戦では陸軍へ志願し、歩兵隊の中尉にまでなったが、前線で腕を負傷し除隊となっている。戦争からの帰還後に学業を再開し、建築士の資格を取得した。1927年の半ばごろ、イタリアへ戻り、秋からミラノのブレラ美術学校の彫刻科に入学、アドルフォ・ヴィルト(Adolfo Wildt)の授業に通い、1930年に卒業した。

ネストル・マルコーニ
Nestor Eude Marconi, 1942年6月15日 - は現在、世界最高峰と言われているバンドネオン奏者、作曲者、指揮者、編曲者。11歳よりピアノと作曲の勉強を始める。音楽理論をSchneider,和声学と対位法をLuis Mirisiに師事。父親に買ってもらったバンドネオンに魅せられる。現在、バンドネオンのヴィルトゥオーゾ、最高のテクニシャンと言われるマルコーニだが、バンドネオン奏法はピアノで学んだ事をバンドネオンに応用させる、という形で独学で習得したのである。と同時にその当時の名手達(Laurenz、Troilo、piazzollaなど)の演奏に触れ、多大な影響を受ける。

フアン・マヌエル・デ・ロサス
Juan Manuel de Rosas,1793年3月30日 - 1877年3月14日は、アルゼンチンの政治家、軍人、カウディーリョ。同国史上、フアン・ペロンと並び評価の分かれる指導者である。1835年に州知事に返り咲き、17年間独裁政治を行い反対派や自由主義者を弾圧した。ロサスは保護貿易政策を巡る英仏やウルグアイとの戦争(大戦争)を乗り越え、1850年には英仏両国を撤退に追いやった。しかし、1852年に、腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサが反乱を起こすと、ウルキーサにカセーロスの戦いで敗れ、イギリス船に乗り込み、娘と共に亡命した。後の為政者とは違ってロサスは海外に資産を残さなかったため、サウサンプトンで困窮の内に死去した。

ホセ・デ・サン=マルティン
1778年2月25日 - 1850年8月17日は、アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。1811年にはスペイン軍の師団長にまでなったが、母国アルゼンチンでの独立運動を耳にして、今まで築いた全ての地位を捨てて帰国を決意する。1812年、ラ・プラタ連合州として独立していた母国に帰国し、ブエノスアイレスの革命政府に参加する。

クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル
1953年2月19日 − は、アルゼンチンの弁護士、政治家、上院議員。現在、同国大統領(第56代)。前職のネストル・キルチネルは夫である。1953年2月19日、ブエノスアイレス州の州都ラプラタ市に生まれ、ラプラタ大学在学中の1975年3月9日に、大学の先輩に当たるネストル・キルチネルと結婚した。

ディエゴ・マラドーナ
Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードまたはミッドフィールダー。アルフレッド・ディ・ステファノやペレと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手である。1960年10月30日、ブエノスアイレス南部のラヌース(Lanu's)に貧しい家庭の子として生まれた。幼少時から天才サッカー少年として脚光を浴び、9歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に入団した。幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けていた。

エルネスト・サバト
Ernesto Sabato、1911年6月24日 - 2011年4月30日は、アルゼンチンの作家。ブエノスアイレス州ロハスに生まれる。両親はイタリア系のアルバニア移民で製粉所を営んでいた。中学時代より文学、数学に親しみ、大学では物理学を学ぶ傍ら共産党に入党するが、国際会議に出て失望を味わってからは科学の世界に没頭した。1948年、最初の長編小説『トンネル』を発表。国内で評判を得たこの作品はカミュに絶賛されて仏訳され、彼の名を国際的に高めることになった。

フアン・ディアス・デ・ソリス
(Juan Diaz de Solis, 1470年 - 1516年)はスペインの探検家、コンキスタドール。ラプラタ川周辺を最初に訪れたヨーロッパ人の内の一人である。ポルトガル人のジョアン・ディアス・デ・ソリスとして生まれた。1516年1月20日、ブラジル沖を南下してきたディアス・デ・ソリスは現在のプンタ・デル・エステの近くに上陸する。ディアス・デ・ソリスはインディオが銀の装飾具を身につけているのを見て、そこに大量の銀があると誤解してこの巨大な川をラプラタ川(La Plata, 銀)と名づけた。しばらくこの誤解は続き、パラグアイに銀の山があるとの勘違いは、1536年に軍事拠点としてブエノスアイレス市を建設させることになった。

ラウル・アルフォンシン
(Raul Ricardo Alfonsin, 1927年3月12日 - 2009年3月31日)はアルゼンチン共和国の弁護士で第49代大統領(任期:1983年12月10日 - 1989年7月8日)。急進市民同盟(急進党)所属。アルフォンシン政権は軍政の負の遺産とでもいうべき莫大な対外債務やハイパー・インフレ、さらには軍政時代に人権侵害を行った軍人の処遇やチリとの領土問題、マルビーナス戦争(フォークランド紛争)による国際的孤立など複雑な問題への対処を迫られた。

ネストル・キルチネル
(Nestor Carlos Kirchner、1950年2月25日 - 2010年10月27日)は、アルゼンチンの政治家。第55代大統領。アルゼンチン南部パタゴニア地方のサンタクルス州リオ・ガジェゴス市生まれ。父親はスイスからの移民、母親はチリのプンタアレナス出身で、クロアチアからの移民を先祖にもつ。1970年代初期、ラ・プラタ国立大学で法学を学び、弁護士となる。70年代後半には軍事政権により2度投獄された。

フリオ・コルタサル
(Julio Cortazar、1914年8月26日 - 1984年2月12日)は、アルゼンチンの作家・小説家。主にカスティリャ語で書き、フリオ・デニス(Julio Denis)の筆名も用いた。ベルギーのブリュッセルに生まれ、1918年に両親の母国アルゼンチンに帰国し、ブエノスアイレスで育った。1936年にブエノスアイレス大学に進学するが、中退して1944年まで高等学校の教員として教壇に立ち、1938年には詩集を出版。イタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニによって短編小説「悪魔の涎」が映画化され(映画タイトルは『欲望』)、スペイン語圏を越えて世界的に知られる作家となった。

カルロス・サアベドラ・ラマス
(Carlos Saavedra Lamas、1878年11月1日 - 1959年5月5日)はアルゼンチンの学者、政治家で、1936年度のノーベル平和賞を受賞した。ラテンアメリカ人では初めての受賞だった。妻は前アルゼンチン大統領の娘である。サアベドラはブエノスアイレスの貴族の家庭に生まれ、ブエノスアイレス大学から法学の博士号を受けた。その後ラプラタ国立大学の法学と社会学の講師となり、後に教授となった。

バーナード・ウッセイ
(Bernardo Alberto Houssay、ベルナルド・ウサイとも、1887年4月10日-1971年9月21日)はアルゼンチンの生理学者。彼は1947年、カール・コリ、ゲルティー・コリ夫妻と共に、脳下垂体ホルモンが動物の血糖であるグルコースを調整する役割を見つけ出し、「糖の物質代謝において脳下垂体前葉ホルモンの演ずる役割の発見」の功績が認められノーベル生理学・医学賞を授与された。

ルイ・ルロワール
(Luis Federico Leloir、1906年9月6日-1987年12月2日)はアルゼンチンの生化学者、医師。彼が1970年に授与されたノーベル化学賞は、アルゼンチン人としてもヒスパニック系としても初の例であった。ルイはフランス生まれだが、彼自身が当地に在住した期間は短く、ほとんどの教育はブエノスアイレス大学などアルゼンチンで受けた。彼が受けた教育は小学校(Escuela General San Martin)、中学校(Colegio Lacordaire)そしてイギリスのボーモント大学での数ヶ月だけであった。後にパリの工科大学で建築を学ぶも成績は振るわず、すぐに退学してしまう始末だった。ルイのエピソードに、彼発明の「サルサ・ゴルフ」と名づけられたソースの話がある。おそらく1920年代であろう、マル・デル・プラタの海辺のクラブで友達グループと昼食を楽しんでいたとき、彼はケチャップとマヨネーズを混ぜ合わせた独特のソースを作りクルマエビ料理の味付けをした。後年、ルイが研究費の捻出に苦慮していた頃、「あのソースの特許を出願しておけば良かったよ。そうすればこんなに困ることはなかったのにね」とジョークを飛ばしたと伝わっている。

セーサル・ミルスタイン
(Cesar Milstein、1927年10月8日 - 2002年3月24日)は、アルゼンチン生まれの生化学者で、人生の大半をイギリスで過ごした。抗体を専門に研究し、ニールス・イェルネ、ジョルジュ・J・F・ケーラーとともに1984年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。ミルスタインはアルゼンチンのバイアブランカで生まれ、ブエノスアイレス大学を卒業し、生化学教授ストッパーニの下でアルデヒド脱水素酵素の研究を行い、博士号を取得した。1958年にブリティッシュ・カウンシルの支援を受けて、ケンブリッジ大学のマルコム・ディクソンの下でホスホグルコムターゼの金属イオンによる活性化機構の研究を行うことになった。

カルロス・メネム
(Carlos Saul Menem, 1930年7月2日 - )は、アルゼンチンの政治家。1989年から1999年までの2期大統領を務めた。アラブ系アルゼンチン人である。コルドバ大学で法学を学び、1957年には、反軍政活動に参加したために逮捕された経験を持つ。1973年、ペロン政権の下でラ・リオハ州知事に当選するが、1976年のクーデターのあと、軍事政権によって逮捕された。1983年、軍政が崩壊して民政に復帰すると、彼も釈放され、再びラ・リオハ州知事に復帰した。

セバスチャン・カボット
Sebastiano Caboto, 1474年頃 - 1557年は、16世紀のイギリスの航海者。父と共に北アメリカ大陸の発見者に名を連ねる。イタリア名はセバスティアーノ・カボート。1526年から翌年にかけては南アメリカのラプラタ川流域も探検したが、成果を挙げられずに帰国したためカルロス1世の怒りを買って投獄され、次いでアフリカへと追放された。1533年に赦免された後はイギリスへ戻り、「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands、モスクワ会社の前身で、レバント会社やイギリス東インド会社の先駆者)といった会社の総支配人や製図業者として北極海を通したロシア貿易航路探検隊や北東航路探検隊を組織し晩年を過ごした。

リベルタ・ラマルケ
(Libertad Lamarque, 1908年11月24日 - 2000年12月12日)は有名なアルゼンチンのタンゴの歌手であり、女優でもある。リベルタ・ラマルケは1908年に当時パラナ川の新興工業都市として発展著しかったロサリオで生まれた。7歳の頃から子役として仕事をしていた。17歳で歌手としてレコード録音を果たし、その後、映画出演と同時にタンゴ歌唱で有名になった。

フェルナンド・E・ソラナス
(Fernando E. Solanas,1936年2月16日 - )はアルゼンチン・ブエノスアイレス出身の映画監督・脚本家・政治家。演劇・法律・音楽を学び、1962年に映画監督としてデビュー。『タンゴ -ガルデルの亡命-』でヴェネツィア国際映画祭審査委員大賞を、『スール/その先は…愛』でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。

アストル・ピアソラ
(Astor Piazzolla, 1921年3月11日 - 1992年7月4日)はアルゼンチンの作曲家、バンドネオン奏者。タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出した。アルゼンチンに移住後、父の開いたレストランでバンドネオン、ハーモニカを演奏していたが、1938年にラジオで先鋭タンゴ「エルビーノ・バルダーロ楽団」に感動して初めてタンゴの音楽性を知る。1954年、タンゴに限界を感じたピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリでナディア・ブーランジェに師事する。当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚める。

マルタ・アルゲリッチ
(Martha Argerich, 1941年6月5日 - )はアルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。外交官の家庭に生まれ、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。1955年、アルゲリッチの演奏を聴いたフアン・ペロン大統領は、彼女に優れた音楽教育を受けさせるため、彼女の父親にウィーン赴任を命じた[2]。これに伴って家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。

エマニュエル・ジノビリ
(Emanuel David Ginobili、1977年7月28日 - )は、アルゼンチンのプロバスケットボール選手である。NBAのサンアントニオ・スパーズ所属。ブエノスアイレス州バイアブランカ出身。身長198cm、体重95kg、背番号は「20」。サウスポー。愛称は「マヌ」。ユーロリーグ優勝、オリンピック金メダル、NBAチャンピオンのすべてを成し遂げたのは、ビル・ブラッドリーとジノビリだけである。

ニコリノ・ローチェ
(Nicolino Locche、男性、1939年9月2日 - 2005年9月8日)は、アルゼンチンのプロボクサー。彼が王者の間にジュニアウェルター級からスーパーライト級に階級名称が改称された。その卓越したディフェンス技術は、「イントカブレ」(スペイン語で「触れられない」の意、英語なら「アンタッチャブル」)と形容されるほどであった。

カルロス・モンソン
(Carlos Monzon、1942年8月7日 - 1995年1月8日)は、アルゼンチン出身の元プロボクサー。元WBA・WBC世界ミドル級王者。身長181cm。1970年の王座獲得以来、無類のスタミナ、タフネスを武器に連続14度のミドル級王座防衛を達成した。1977年7月30日、ロドリゴ・バルデス(コロンビア)に15R判定勝ちして14度目の防衛に成功すると、「もうリングの中で証明するものは何も無い」と言い残し、統一王者のまま引退した。世界王者となってからは引き分けはおろか、一度の敗北も喫することが無く、1970年代のパウンド・フォー・パウンド最強の一人とされた。

メルセデス・ソーサ
(Haydee Mercedes Sosa, 1935年7月9日 - 2009年10月4日)はアルゼンチン・フォルクローレの女性歌手である。北西部のトゥクマンで貧しい労働者の家庭に生まれる。15歳の時にラジオ局のコンテストに優勝して二ヶ月の出演契約を結ぶが、ディレクターがフォルクローレをバカにしたことに怒って喧嘩して帰ってきてしまった、というエピソードが知られている。その後、首都ブエノスアイレスに出て様々な職を転々としたのち、1960年代半ば、30歳頃に歌手として世に出る。1973年、作詞のフェリックス・ルナ、作曲のアリエル・ラミレスと組んで、アルゼンチン史上の8人の女性(7人のアルゼンチン人と1人のボリビア人)を歌ったアルバム「アルヘンティーナの女(Mujeres argentinas)」を発表、フォルクローレ史上に不朽の名を残す。

アリエル・ラミレス
(Ariel Ramírez, 1921年9月4日 - 2010年2月18日)はアルゼンチンのサンタフェ生まれの作曲家。サンタフェでピアノの勉強を始めてから、ほどなくして、ラミレスは山岳地帯のガウチョやクリオーリョの音楽に魅せられる。コルドバで引き続き音楽の勉強を続けていた時、アルゼンチンの誇るフォルクローレ歌手アタウアルパ・ユパンキと出会う。テノール、混声合唱、打楽器、鍵盤楽器とアンデスの民族楽器のためのミサ曲『ミサ・クリオージャ』は、彼のもっとも有名な作品である。

ウニャ・ラモス
マリアーノ・ウニャ・ラモス(Mariano Una Ramos、1933年 - )は、アルゼンチンの音楽家、作曲家、ケーナ奏者であり、アンデス山脈地域のインディオの文化に由来する管楽器ケーナの奏者として、アルゼンチンの民族音楽の歴史において最も卓越した存在である。

エルナン・クレスポ
(Hernan Jorge Crespo, 1975年7月5日 - )は、アルゼンチン出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションはフォワード。プリメーラ・ディビシオン93-94シーズン、クレスポの言葉を信じれば「まさか」のトップデビューを果たす。当時監督だったダニエル・パサレラは成り上がりのクレスポをスーパーサブとして重宝し、クレスポはこのチャンスに13得点という数字で期待に応える。

クラウディオ・カニーヒア
(Claudio Paul Caniggia、1967年1月9日- )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手であり、元同国代表。ポジションはフォワード。1990年のワールドカップ・イタリア大会での準優勝、1991年の南米選手権・チリ大会優勝時等のメンバーとなっている。ディエゴ・マラドーナと数多くの大会で2トップを組み、「マラドーナの恋人」と呼ばれるほど高い連携を見せた。

ガブリエル・バティストゥータ
(Gabriel Omar Batistuta, 1969年2月1日 - ) は、アルゼンチン・サンタフェ出身の、プロサッカー選手。ポジションはフォワード。1990年代を代表するフォワードの一人で、長くイタリア・セリエAで活躍し、セリエAの外国人最多通算得点記録を保持している。またアルゼンチン代表にも選抜され、代表の歴代得点記録も保持している。2005年に引退した。ニックネームは獅子王、バティ、バティゴル(バティゴール)。

 

アルゼンチン共和国 Argentine
東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。

ブエノスアイレス
Buenos Airesは人口303万人(2007年)を擁するアルゼンチンの首都。世界有数のメガシティである。どの州にも属しておらず特別区として扱われる(ちなみによく間違われるが、1880年の首都令以来、ブエノスアイレス州の州都はラ・プラタ市である)。意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである.ラ・プラタ川に面しており、対岸はウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。近郊を含む都市的地域の人口は1,297万人であり、世界第21位である。「南米のパリ」の名で親しまれ、南米の中で最も美しい町の一つとして数えられる。


ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラプラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉や小麦、大豆やトウモロコシ、さらに羊毛や皮革などの輸出港として発展してきた。ラプラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。


外務省:アルゼンチン共和国
在アルゼンチン日本大使館


ラプラタ
(La Plata)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州の州都。ブエノスアイレスが連邦の首都として連邦地区となった1880年以降に開発された都市で、当時のブエノスアイレス州知事ダルド・ロチャによって建設が進められ、公式には1882年11月19日に開設が宣言された。人口は約54万人。ブエノスアイレスの南東にあり、ラプラタ川に面している。

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コルドバ
アルゼンチンのコルドバ州の州都。ブエノスアイレスの西北西に700kmに位置する。現在の人口は127万人であり(2001年)、ブエノスアイレスに次ぐ第二の都市である。ブエノスアイレスとコルドバを結ぶ高速鉄道建設事業が2008年に着工し、2年半から3年の期間をかけて完成する予定である。完成の暁にはブエノスアイレスまで3時間で結ばれる予定である。

ロサリオ
Rosarioは、アルゼンチン、サンタフェ州最大の都市で、アルゼンチン全体でもブエノスアイレス、コルドバに次いで3番目に人口の多い都市である。この都市はブエノスアイレスの350km北西のパラナ川右岸(西側)に位置している。2001年現在の人口は約91万人。


サン・ミゲル・デ・トゥクマン
(San Miguel de Tucuman)はアルゼンチン北部の都市。単にトゥクマンとも称される。人口525,853人(2001)。都市圏人口は806,000人でアルゼンチンにおいて第6位。 アニメ母をたずねて三千里で、主人公マルコが最後に母親にめぐり合う町としても有名。

サンティアゴ・デル・エステロ
(Santiago del Estero)は、アルゼンチンの北部にある都市。1550年ごろのスペイン人の入植により建設されたアルゼンチン最古の都市で、マードレ・デ・シウダーデス(都市の母)との異名を持つ。大学は1973年に設立されたサンティアゴ・デル・エステーロ国立大学と1960年に設立されたカトリカ大学の二校がある。街の見どころは大聖堂やサント・ドミンゴ修道院、州立考古学博物館などがある。

リオ・グランデ
(Rio Grande)は、アルゼンチン南端近く、フエゴ島に位置する都市。2010年現在、同国ティエラ・デル・フエゴ州の最大人口の都市である。2010年現在の人口69,175人。リオ・グランデは南緯53度47分 西経67度42分座標: 南緯53度47分 西経67度42分に位置する。市は南大西洋に面している。

メンドーサ
同国西部、遠くアンデス最高峰アコンカグアを望む、標高約800mの高原地帯にあり、チリ側に向かうアンデス横断鉄道や道路の要地である。1561年に創設され、1861年の大地震により都市部は壊滅状態となったが、現在は南欧風の近代都市に再生されている。

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サンティアゴ・デル・エステロ
(Santiago del Estero)は、アルゼンチンの北部にある都市。1550年ごろのスペイン人の入植により建設されたアルゼンチン最古の都市で、マードレ・デ・シウダーデス(都市の母)との異名を持つ。大学は1973年に設立されたサンティアゴ・デル・エステーロ国立大学と1960年に設立されたカトリカ大学の二校がある。街の見どころは大聖堂やサント・ドミンゴ修道院、州立考古学博物館などがある。

レシステンシア
(Resistencia)は、アルゼンチンの都市。アルゼンチン北東部、パラナ川の西岸に位置し、チャコ州の州都である。レシステンシアは「屋外の博物館」「彫刻の町」と呼ばれるとおり、街中に500を超える彫刻や芸術作品が配置されており、全国的に知られている。市は1988年からビエンナーレ国際彫刻コンクールを開催し、コンテスト終了後、展示されていた彫刻は、公園や歩道に設置されている。1997年以来、イベントはユネスコによって後援されている。また、多くの美術館や博物館がある。

コリエンテス
Corrientesは、アルゼンチンのコリエンテス州にある都市で、同州の州都。パラナ川の東岸に位置する。パラナ川対岸のレシステンシア(チャコ州の州都)へはヘネラル・ベルグラーノ橋が架かっている。近くのパラグアイ国境には世界最大級の水力発電施設、ヤキレタダムがある。

パラナ
Paranaは、アルゼンチンのエントレ・リオス州にある都市で、同州の州都。パラナ川の東岸に位置し、対岸はサンタフェ州の州都サンタフェである。行政の中心としてだけでなく、一帯から穀物、家畜、魚介類、材木が集積される主要河川港でもある。

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ポサーダス
(Posadas)は、アルゼンチンの都市。1973年にはミシオネス国立大学が設立され、1990年にはサン・ロケ・ゴンサーレス・デ・サンタクルス橋が開通してエンカルナシオンとの結びつきが強化された。

ネウケン
(Neuquen)は、アルゼンチンの都市。ネウケン州の州都である。州の東部に位置し、リメイ川とネウケン川の合流地点に位置する。人口355080人。パタゴニア最大の都市である。ネウケンとは以前にこのあたりの住民であったマプチェ人のマプチェ語で「隙間風の吹く」という意味のnehuenkenという言葉に由来する。マリオ・ロベルト・アルバレスが設計したBellas Artes国立美術館が2004年にオープンした。


ウシュアイア国際空港
Aeropuerto Internacional de Ushuaia Malvinas Argentinasは、南アメリカ最南近くのフエゴ島のアルゼンチンにある世界最南の都市ウシュアイアにある国際空港である。1995年11月27日に開業する。ウシュアイアの市域にあり、ウシュアイアの中心部より4km離れた場所にある。世界最南の国際空港である。

ホルヘ・ニューベリー空港
Aeroparque Metropolitano Jorge Newberyは、アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスにある空港であり、通称「アエロパルケ」と呼ばれる。名称は飛行家のホルヘ・ニューベリーにちなんで名付けられた。ラプラタ川に面した市街地に比較的近い場所に位置しており、国内線とウルグアイ・チリ・パラグアイ・ブラジルの一部行き近距離国際線はこの空港を離着陸する。

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エセイサ国際空港
Ezeiza International Airportは、アルゼンチン共和国の首都、ブエノスアイレス郊外のエセイサにある国際空港。正式名称はミニストロ・ピスタリーニ国際空港(Aeropuerto Internacional Ministro Pistarini)だが、ブエノスアイレス市街地から南西に約25kmで所在地のエセイサからエセイサ空港(Aeropuerto de Ezeiza)と呼ばれることが多い。 アグスティン・ペドロ・フスト・ロロン大統領時代(1932年〜1938年)に建設大臣だったファン・ピスタリーニにちなんで名付けられた。

イグアスの滝国際空港
Aeropuerto Internacional Cataratas del Iguazuは、世界三大瀑布の一つとして知られるイグアスの滝の最寄の空港のうち、アルゼンチン共和国ミシオネス州にある国際空港。


ブエノスアイレス地下鉄
Subte de Buenos Airesはアルゼンチンの首都ブエノスアイレス市内の地下鉄。郊外を走る公共鉄道路線とともにメトロビアス社 (Metrovias S.A.) によって運営されている。ブエノスアイレスにおける地下鉄の歴史は、1913年のA線開業から始まる。この地下鉄は、ラテンアメリカとスペインを含むスペイン語圏初の地下鉄として開通した。そのため、ブエノスアイレスの地下鉄はスペイン語本来のMetro(メトロ)ではなくリオプラテンセ方言のSubte(スブテ)と表記してある。ブエノスアイレスの地下鉄は日本最古の地下鉄銀座線建設のモデルにもなっており、この開業は日本地下鉄の歴史においても重要な出来事である。

アルゼンチンの鉄道
アルゼンチンには、かつては総延長4万km近くに及ぶ世界でも有数の鉄道網があったが、道路整備が進んだ20世紀末以降、バス・トラック輸送にその主役の座を奪われ、現在ではごく一部の路線で貨物・旅客列車の運行がされているのみである。

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トレン・デ・ラ・コスタ
トレン・デ・ラ・コスタはアルゼンチンの大ブエノスアイレス都市圏で運行されている、旅客輸送を行う電気鉄道である。路線はTBAミトレ線の支線の一つの終点であるバルトロメ・ミトレ駅に隣接するマイプ駅を起点に、ラプラタ川に沿う形(河岸ではない)でブエノスアイレス州のティグレ市にあるデルタ駅までの15.5kmである。起終点を含めて11駅がある。


■交通
約215,471 kmの道路網と734 kmの高速道路があり、その多くが民営化された。 多車線の幹線道路は現在幾つかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。


オールド・パタゴニア急行
オールド・パタゴニア急行は、アルゼンチンチュブ州を走る列車である。愛称名は「トロチータ」(La Trochita)。イギリス人の作家、ポール・セルーの著書で紹介されたことから一躍有名となったが、1990年代初頭に廃止。現在は観光列車として復活を遂げている。


コルドバ大学
(Universidad Nacional de Cordoba, UNC)は、アルゼンチンのコルドバに位置する国立大学である。1613年に創立された南米でも最古の部類に入る大学であり、アルゼンチンにおいては最古の大学。コルドバ大学歴史博物館を含め校舎の一部は当時のものが残存しており、世界遺産に登録されている。20世紀初頭よりブエノスアイレス大学に次いでアルゼンチン第二の大学としての地位を有している。

ブエノスアイレス大学
(Universidad de Buenos Aires, UBA)は、ブエノスアイレスに位置するアルゼンチンの国立の総合大学である。ブエノスアイレス大学は、当時のブエノスアイレス州内務相ベルナルディーノ・リバダビアによって、1821年8月12日ブエノスアイレスに設立された。大学には中核となるキャンパスが存在せず、学部ごとに数多くのキャンパスに分散している。現在13学部とそれに6病院、10の博物館と大学附属の3つの高等学校を擁し、約30万人の学生総数を誇るアルゼンチン最大のマンモス大学である。

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トルクァト・ディ・テラ大学
(UNIVERSIDAD TORCUATO DI TELLA、UTDT)とは、アルゼンチン、ブエノスアイレスにある私立大学である。 トルクァト・ディ・テラ基金およびトルクァト・ディ・テラ研究所によって、1991年に建学された。建学の精神は、「次世代を担う、企業家/経営者、政治家、社会活動家、学者を育成する」ことであり、特に社会科学の分野での研究が盛んである。


ウマウアカ
(Humahuaca)はアルゼンチン北部のフフイ州 (Jujuy)にある町。1591年にフアン・オチョア・デ・サラテ (Juan Ochoa de Zárate)により作られた。この町の最大の行事は、8日間も続くカーニバルである。ウマウアカのカルナバルを歌ったフォルクローレ、エル・ウマウアケーニョ(ウマウアカから来た男もしくはモノ)は、アンデスのフォルクローレの中でも特に有名な曲の一つである。 町の観光名所はウマウアカの谷である。

メンドーサ
Mendoza)は、アルゼンチン共和国メンドーサ州にある都市。同州の北部のアンデス山脈の東側に位置する。アルゼンチン西部の遠くアンデス最高峰アコンカグアを望む標高約800mの高原地帯にあり、チリ側に向かうアンデス横断鉄道や道路の要地である。1561年に創設され、1861年の大地震により都市部は壊滅状態となったが、現在は南欧風の近代都市に再生されている。

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マル・デル・プラタ
(Mar del Plata)は、アルゼンチン、ブエノスアイレス州の港湾都市。ブエノスアイレスの南西390kmに位置する。人口541,733人(2001年)。アルゼンチン第7位の大都市であるとともに最大のビーチリゾートであり、観光業が経済に大きな割合を占め、国内から多くの観光客が訪れる。

サルタ
(Salta)は、アルゼンチンのサルタ州の都市である。サルタ州の州都である。アンデス山脈の麓、標高1,152mのレルマ谷に位置する。 気候は温暖で乾燥している。国境手前の町、サン・アントニオ・デ・ロス・コブレスとの間を往復する列車は、雲の列車(Tren de las nubes)と呼ばれる高地の自然を眺望するための観光列車となっている。途中、標高は4,220mの地点を通過するため、高山病対策の酸素ボンベを配備するとともに看護師が同乗している。

サンタフェ
Santa Fe)は、アルゼンチンのサンタフェ州の都市である。サンタフェ州の州都である。パラナ川とサラド川の合流地点近くに位置する。 都市の人口は約369,000人(2001年調査)、都市圏の人口は454,238人である。サンタフェは、穀物、植物油、食肉を生産する豊かな農業地帯にあるため、商業や輸送の中心地である。

サンフアン
(Ciudad de San Juan)は、アルゼンチンのサン・フアン州の都市で、同州の州都である。クージョ地域にあり、サン・フアン川の西、トゥルン谷に位置する。標高46m、人口は約112,000人(2001年調査)、都市圏の人口は450,000人以上である。

バイアブランカ
Bahia Blanca、"白い湾"の意)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州の大西洋沿岸、ブエノスアイレスの南西635kmにある都市。2001年国勢調査によれば人口274,509人。水深12mの重要な海港。

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コリエンテス州
(Provincia de Corrientes)は、アルゼンチン共和国の州。アルゼンチンの東部メソポタミア地方に位置する。州都はコリエンテス。フォルクローレのチャマメの発祥地として有名である。コリエンテス州は、アルゼンチンでは唯一かなりの数の黒人が住んでおり、黒人文化の影響が見て取れる。ラスギド・ドブレはチャマメをよりリズミカルにしたものである。黒人はカンバ(グアラニー語で黒を表す)と呼ばれ、彼ら独自の地域を持っている。


ブエノスアイレス州
Provincia de Buenos Aires)は、アルゼンチンの州。中東部ラプラタ川河口右岸に位置する。州都はラプラタ。ブエノスアイレスから概ね30〜40kmの地域は、大ブエノス・アイレス圏 (Gran Buenos Aires) に属し、住宅・商工業施設が密集しており、ブエノス・アイレス特別区と共に首都圏を構成している。

ティエラ・デル・フエゴ州
(Provincia de Tierra del Fuego, Antartida e Islas del Atlantico Sur, 「フエゴ島、南極、および南大西洋諸島州」)はアルゼンチンの州である。アルゼンチン本土とはマゼラン海峡によって隔てられている。ティエラ・デル・フエゴの東側部分とイギリスとの間で領有権争いがあるフォークランド諸島(マラビナス諸島)やサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島、現在は領有権の主張を凍結しているアルゼンチン領南極もこのティエラ・デル・フエゴ州に含まれる。

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フォークランド紛争
Falklands Conflict/Crisisとは、フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名:マルビナス諸島。以下はフォークランド諸島で記載を統一)の領有を巡り、イギリスとアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争」(Guerra de las Malvinas)と表記されることが多い。フォークランド紛争は、近代化された西側諸国の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。


サンロレンソの戦い
Combate de San Lorenzo)とは1813年2月3日、サンロレンソでホセ・デ・サン=マルティンの指揮するリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合軍の騎兵隊が、ホセ・サバラの指揮するスペイン王党派軍を撃破した、アルゼンチン独立戦争の最初の戦い。この戦いの最中に、サン=マルティンは落馬して足が馬の下敷きになり、身動きが取れなくなっているところを王党派軍に攻撃された。ファン・バウティスタ・カブラルが身代わりの盾となったため、危機一髪で命を救われた。カブラルはサン=マルティンの命を救った者として、後世に名を残すこととなる。

三国同盟戦争
Guerra de la Triple Alianza、1864年-1870年は、パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争。戦争はパラグアイの完全な敗北に終わった。開戦前にアルゼンチンのミトレ大統領が三ヶ月で終わるといった戦争は実に五年に渡り、政府軍同士による戦いが終結した後も長期に渡るゲリラ戦が続き、捕虜はサン・パウロの奴隷市場で売り飛ばされ、軍民問わず多数のパラグアイ人が死亡した。ある推測によると、戦争および戦争中の疫病により、開戦前にいた525,000人ほどのパラグアイ人のうち、211,009人しか生き残らなかったと言われている。

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アルゼンチン・ブラジル戦争
(Guerra Argentino-Brasilena)は、バンダ・オリエンタルを巡ってリオ・デ・ラ・プラタ連合州とブラジル帝国との間に起きた戦争である。独立後のラテン・アメリカでは初の本格的な域内戦争となった。500日戦争と呼ばれることもある。


バンダ・オリエンタル
1815年に、ホセ・アルティガスがこの地域の権力を握り、東方州を建設するまで呼ばれた、ラ・プラタ地方の地域のことである。西はウルグアイ川を、北はラ・プラタ川を境にし、現在のウルグアイの全てと、リオ・グランデ・ド・スル州の一部を含んだ。リオ・デ・ラ・プラタ副王領の東方地域より大きかった。住人は自らをオリエンターレス(東方人)と自称し、フアン・アントニオ・ラバジェハ将軍と共にウルグアイ独立のために戦った33人の東方人が特に有名である。

非同盟
非同盟または非同盟運動または非同盟諸国運動(英語: Non-Aligned Movement、NAM)は、第二次世界大戦後の東西冷戦期以降に、東西いずれの陣営にも公式には加盟していない諸国による国際組織である。


汚い戦争
Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。この弾圧の始まりについては諸説あり、既に1973年には労働組合員が暗殺の対象とされており、実際の弾圧発生の時期がいつからかについては今も議論が続いている。なお、独立作戦(Operativo Independencia)と呼ばれる対ゲリラ作戦を実行中の1975年にイサベル・ペロンによって布告された「絶滅命令」がこの汚い戦争の起源とする説もある。

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■国名
式名称は、Republica Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。アルゼンチン Argentina の名は、この「銀の川」にちなみ、ラテン語で「銀」を意味する Argentum に拠って、地名表現のために女性縮小辞を添えたものである。


1.面積:278万平方キロメートル(我が国の約7.5倍)
2.人口:3,988万人(2008年世銀)
3.首都:ブエノスアイレス(Buenos Aires)
4.民族:欧州系(スペイン、イタリア)97%、先住民系3%
5.言語:スペイン語
6.宗教:カトリック等

1816年 独立
1946年 ペロン政権の成立
1973年 軍部介入など変遷の後再度ペロン大統領が就任
1976年 クーデターにより軍事政権成立
1982年4月〜6月 フォークランド(マルビーナス)諸島紛争
1983年12月 アルフォンシン大統領就任(民政移管)
1989年7月 メネム大統領就任
1995年7月 メネム大統領再度就任
1999年12月 デ・ラ・ルア大統領就任
2002年1月 ドゥアルデ大統領就任
2003年5月 キルチネル大統領就任
2007年12月 フェルナンデス・デ・キルチネル大統領就任

■主要産業:農牧業(油糧種子、穀物、牛肉)工業(食品加工、自動車)

■主要貿易品(1)輸出 燃料、大豆油かす、自動車、動植物油、穀物(2)輸入 機械、自動車、電気機器、化学製品

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アルゼンチン・ペソ
アルゼンチン・ペソ(peso)は、アルゼンチンの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)はARS。補助通貨はペソの1/100のセンターボ。紙幣には2, 5, 10, 20, 50, 100 ペソがある。硬貨には5, 10, 25, 50センターボと、 1, 2, 5ペソがある。


正義党
Partido Justicialista,略称:PJとはアルゼンチンの政党である。通常ペロン党(Partido Peronista) として知られている。アルゼンチンにおける最大政党であり、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領の与党である。またアルゼンチン下院においては最大議席を保有しており、上院においても多数派を占めている。なお、支持者はペロニスタと呼ばれる。

急進市民同盟
Union Civica Radical, 略称:UCRとはアルゼンチンの政党である。「急進党」とも呼ばれる。正義党(ペロン党)とともに、アルゼンチンにおける二大政党制を担っている。1891年6月26日の結成である。国民自治党(Partido Autonomista Nacional)の政権に反対し、その当時の暴動にも関与していたとされる。


テアトロ・コロン
Columbus Theatreは、ブエノス・アイレスに位置するオペラ劇場。1960年、テアトロ・コロン劇場内に芸術大学(芸術高等研究所)が設立された。国際的に著名な卒業生にはバレエダンサーのパロマ・ヘレーラやリリアーナ・ベルフィオーレ、また声楽家のベルナルダ・フィンクやマリア・クリスティーナ・キーアなどがいる。

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タンゲリア
(tangueria)とは、タンゴを生演奏する店のことである。アルゼンチンのブエノスアイレスやウルグアイのモンテビデオばかりでなく、世界中にあるタンゴ生演奏の店をタンゲリアという。軽い食事とワイン、オリーブ、その他の酒類をたしなみながら、タンゴ楽団の演奏を直に聴けるという場所である。「タンゴ・パプ」 という言葉もある。店によっては、プロダンサーによるタンゴダンスを行っている店もある。


音楽
1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退を辿るが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。タンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ(民謡)が存在する。
クラシックやジャズやポップスの分野でも、作曲家のアルベルト・ヒナステラ、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、イングリット・フリッター、ラロ・シフリン等、時折注目すべき人物を輩出することもある。1960年代生まれからは、作曲や指揮の領域でも傑出した人材を輩出している。その他に特筆されるべき音楽家としては、扇情的なサクソフォーンとフリージャズを構成するガトー・バルビエリが存在する。

タンゴ
タンゴはアルゼンチン・ブエノスアイレスやウルグアイ・モンテビデオのダンスおよび音楽。および、それを擬したダンス・音楽で、音楽業界から「タンゴ」と公認されたもの。ポピュラー音楽およびダンスの一形態で、カンドンベ、ミロンガ、ハバネラなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス、モンテビデオ近辺のラ・プラタ川流域で生まれたとされる。


チャマメ
(Chamame)とはアルゼンチンのメソポタミア地方(リトラル三州)でのフォルクローレの音楽ジャンルである。チャマメには−オリジナルのチョッティスはヴォルガ・ドイツ人の移民によってもたらされたが−特筆されるべきグアラニー族の衝撃があった、20世紀初頭にこの地域に渡って来た移民によってもたらされたスペイン人のギターとヨーロッパのアコーディオンが混成した。

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チェ・ゲバラ
Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日は、アルゼンチン生まれの政治家、革命家で、キューバのゲリラ指導者。未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。ブエノスアイレス大学で医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人のアルベルト・グラナードとともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験した。旅の過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞するほか、ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受けマルクス主義に共感を示すようになった。
1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・ペレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ(社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス
Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo、1899年8月24日 - 1986年6月14日は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)として知られるアルゼンチン出身の作家、詩人。家庭では英語とスペイン語の二ヶ国語が同じように使われていた。一家にはまた文学的伝統が受け継がれており、父方の先祖には何人かの詩人、文学者もいた。父は幾つかの文学作品の執筆を試みており、父方の祖母も80を過ぎてゴールズワージーやH・G・ウェルズに親しむ大変な読書家だった。1921年3月、一家とともにブエノスアイレスに帰郷したボルヘスは本格的な作家活動を開始し、この年に若い作家を集めて壁雑誌『プリスモ』を発行した。

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キリーノ・クリスティアーニ
Quirino Cristiani、1896年7月2日 - 1984年8月2日は、アルゼンチンのアニメーション監督および漫画家であり、世界最初の長編アニメーション映画2本と、世界最初の音声を備えた長編アニメーション映画1本の制作者であると考えられている。クリスティアーニは世界最初の純粋な切り絵アニメーションの制作者でもある。1896年7月2日、クリスティアーニはイタリアのサンタ・ジュレッタで生まれた。1900年にクリスティアーニ一家はアルゼンチンのブエノスアイレスに引越し、キリーノはこの南米の大都市で先進的かつ左翼的な政治思想を吸収しながら少年時代を過ごした。1931年9月16日、クリスティアーニは『ペルードポリス』を公開した。この作品は世界初の音声付き長編アニメーション映画であった。

キンケラ・マルティン
Benito Quinquela Martin、1890年3月1日 - 1977年1月28日は、アルゼンチンの画家。キンケラ・マルティンは、1890年3月20日にブエノスアイレスで修道女に捨て子として発見された。正確な生まれた日時は分からず、戸籍上は3月1日としている。6歳のとき、チンチェジャ(Chinchella)夫妻の元に養子として引き取られた。キンケラ(Quinquela)は、彼の養父の洗礼名から来る。14歳の頃、ブエノスアイレスのボカ地区(La Boca)の夜間美術学校に通う。1925年にはフランスのパリに行く。1927年にはアメリカ合衆国のニューヨークへ行く。1929年にはイタリアのローマに行く。1930年にイギリスのロンドンに行き、アルゼンチンに戻る。それからは主にアルゼンチンに根差して、画家としての活動に終始する。アルゼンチンでは篤志家として、学校や病院のために金を出した。1938年にはアトリエの建物を購入し、一階が幼稚園となるようにした。この建物が今のキンケラ・マルティン・ボカ美術館となる。また、ボカ地区での色彩感覚のある家並みの実現に寄与した。

ホセ・エルナンデス
Jose Hernandez、1834年11月10日 - 1886年10月21日)とは、アルゼンチンの詩人、ジャーナリスト、軍人、政治家である。ガウチョの生活風景を歌った詩文にして、ガウチョ文学の最高峰、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれ、アルゼンチンの国民文学と称される『マルティン・フィエロ』(Martí錘 Fierro)の著者として知られる。

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レオポルド・ルゴネス
Leopoldo Lugones, 1874年6月13日 - 1938年2月18日は、アルゼンチンの詩人。アルゼンチンを代表する文学者の一人で、モデルニスモ文学の担い手の一人。行動的な性格と旺盛な知的好奇心の持ち主で、著作の中には哲学や数学に踏み込むものもある[1]。斬新な詩風と巧みな修辞が評価されている。アルゼンチンのコルドバ州サンタ・マリア・デル・リオ・セコに生まれる。大学を卒業後、1891年にブエノスアイレスへ出て郵便局員などさまざまな職業に就く。

マヌエル・プイグ
Manuel Puig、1932年12月28日-1990年7月22日はアルゼンチンの作家。主な作品に『蜘蛛女のキス』、『ブエノスアイレス事件』、『このページを読む者に永遠の呪いあれ』、『赤い唇』、『リタ・ヘイワースの背信』など。ブエノスアイレス州ヘネラル・ビジェーガスで生まれる。5歳のころから映画館通いをする少年で、グレタ・ガルボ、リタ・ヘイワースなどのハリウッドスターに憧れる少年時代を過ごす。1945年、首都ブエノスアイレスの寄宿学校で学び、大学では外国語、哲学の学習に励んだ。

フアン・マルダセナ
(Juan Martin MALDACENA、1968年9月10日 - )は、アルゼンチンのブエノスアイレス出身の理論物理学者である。専門は素粒子理論。アメリカ合衆国のプリンストンにある高等研究所自然科学部門の教授を務めている。ブエノスアイレス大学、クヨ大学のバロセイロ研究所で物理学を学び、1996年にプリンストン大学で博士号を取得。その後ラトガーズ大学を経てハーバード大学助教授、准教授、教授に就任し、2001年から現職に就く。

イポリト・イリゴージェン
Juan Hipolito del Sagrado Corazon de Jesus Irigoyen Alem、1852年7月12日 - 1933年7月3日)は、アルゼンチンの政治家、大統領。1916年に男子普通選挙で選出された初の大統領である。2度大統領に選出されたが、1930年に軍部のクーデターで退任に追い込まれた。イリゴージェン政権下でアルゼンチン経済は繁栄を謳歌していた。第一次世界大戦中は中立を貫き通し、主要な輸出品の肉類や穀類の新市場の開拓や牛肉価格の高騰による恩恵を受けた。

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フアン・ペロン
(Juan Domingo Peron、1895年10月8日 - 1974年7月1日)は、アルゼンチンの軍人、政治家、大統領。大統領に3回当選したが、独裁者と呼ばれたこともあり、アルゼンチン国内でもその評価は分かれる。ペロンの支援者「ペロニスタ」が母体となった正義党は、現在でも同国内で大きな影響力を持っている。1895年にアルゼンチンの首都のブエノスアイレス郊外のロボスで、中産階級の下の家庭でイタリア系の父とスペイン系の母の間に生まれた。なお、私生児とされ、母方の家系をさかのぼれば、先住民の先祖にたどりつく。

イサベル・ペロン
(Isabel Martinez de Peron、1931年2月4日 - )は、アルゼンチンの政治家、大統領。フアン・ペロンの3番目の夫人。世界初の女性大統領として世界から注目を浴び、国民からはエバ・ペロンの再来として期待されたが、政治家としての力量はなく、治安、経済共に悪化させ遂には解任された。ラ・リオハ州で六人兄弟の末っ子として生まれ、父親を早くに亡くし苦しい生活をおくりながら母親に育てられた。18歳で職業ダンサーとなり各地で巡業し、パナマでナイトクラブで働いていた時に亡命していたペロンと知り合う。

カルロス・ガルデル
(Carlos Gardel, 1890年12月11日? - 1935年6月24日)は不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優であり、その人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した事と相まって、現在なおタンゴ界の偶像というにとどまらずアルゼンチンの国民的英雄としての地位を不動のものにしている。ガルデルは歌のみならず、タンゴの作曲の世界でも名を残している。元々自分のレパートリーを広げるために始めた作曲だったが、ガルデルの作品は他のタンゴ楽団もこぞって取り上げ、現在でもタンゴ歌手のほとんどが程度の差はあれ、レパートリーにガルデルの作品を加えている。

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アルベルト・ヒナステラ
(Alberto Evaristo Ginastera,1916年4月11日 - 1983年6月25日)は、アルゼンチンのクラシックの作曲家。ヒナステーラとも呼ばれる。ブラジルのヴィラ=ロボス、メキシコのチャベスやポンセらと並び、ラテンアメリカでもっとも重要なクラシック作曲家の一人である。ブエノスアイレス生まれ。1938年、ブエノスアイレス音楽院を卒業。1945年から1947年にかけてアメリカ合衆国を訪れ、アーロン・コープランドにタングルウッド音楽センターで学んだ。その後ブエノスアイレスに帰り、そこで作曲家協会を共同で設立した。

ラロ・シフリン
(Lalo Schifrin、1932年6月21日 - )は、アルゼンチン出身の作曲家、編曲家、ジャズピアニスト、指揮者。『ブリット』、『ダーティハリー』、『燃えよドラゴン』といった映画や、『スパイ大作戦』、『スタスキー&ハッチ』といったテレビシリーズの作曲家として有名。本名は、ボリス=クラウディオ・シフリン。ブエノス・アイレス生まれ。父はヴァイオリン奏者。6歳からピアノを習い始め、エンリケ・ダレンボイム(ダニエル・バレンボイムの父)、次いで、アンドレア・カラリスに師事し、アルゼンチンの大学でクラシックを学んだ。ジャズにも傾倒していたが、1950年代初頭にパリに留学し、パリ国立高等音楽・舞踊学校で、オリヴィエ・メシアン、シャルル・ケクランに師事した。

マリオ・ケンペス
(Mario Alberto Kempes、1954年7月15日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。長髪をなびかせて突進する姿と豪快なプレー、高い得点能力で『エル・マタドール(El Matador、闘牛士)』と称されたアルゼンチンを代表するストライカー。地元開催となった1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会では、6得点を挙げて得点王とMVPを獲得し、アルゼンチンのW杯初優勝に大きく貢献した。決勝のオランダ代表戦では、延長前半に持ち味のドリブルから決勝ゴールを決め、前半の先制点と合わせて2得点の活躍だった。

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エバ・ペロン
(Maria Eva Duarte de Peron, 1919年5月7日 - 1952年7月26日)は、アルゼンチンの女優、政治家。フアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも手腕を発揮した。親しみを込めて呼ばれる通称としてエビータ(Evita) のほか、アルゼンチンではサンタ・エビータ(聖エビータ)という呼称もある。現在でもアルゼンチン国内では偶像的な存在である。バスク系アルゼンチン人。貧困者の優遇政策に務め、女性参政権を実現(1947年)したのも事実で、特にアルゼンチン国民の多くを占めるブルーカラーの労働者階級から支持を受け、エビータと愛称で呼ばれるようになり、当時のアルゼンチンで最も影響力のある人物となった。1952年に33歳で子宮癌によって死去、ブエノス・アイレスで行われた葬儀には数十万の市民が参列した。また、エバ・ペロンの墓の建立のために寄付金が集められたが、台座のみが作られただけであった。その後遺体はエンバーミング処理を施されて展示された。

フェルディナンド・マゼラン
Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、マゼランが率いた艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。マゼランはヨーロッパから東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への西回りでの渡航ルート発見を目指して旅立ったポルトガル人航海者である。人類初の世界一周航海(周航)を達成した艦隊は「マゼランの艦隊」として後世に名を残している。マゼラン海峡のほかマゼラン星雲、マゼランペンギン、宇宙探査機マゼランなど多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられ、また南米パタゴニアや太平洋の名はマゼランが名付けたとされる。

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シルエロ・カブラル
(Ciruelo Cabral 「椰子の木のカブラル」 1963年7月20日 - )、本名グスターヴォ・カブラル(Gustavo Cabral)はアルゼンチンのファンタジーイラストレーターである。特にドラゴンを得意とする。シルエロはブエノスアイレスに生まれた。先天的に色覚異常があったが、それを物ともせず13歳でフェルナンド・ファデル美術学校(Instituto Fernando Fader)に入学し正式に勉強を始めた。18歳でグラフィック広告会社でイラストレーターとして働き始め、すぐに漫画の表紙を担当するようになる。

アタウアルパ・ユパンキ
Atahualpa Yupanqui, 1908年1月31日 - 1992年5月23日)はアルゼンチンのフォルクローレのギタリスト、歌手、作家である。1929年、処女作「インディオの小径」(Caminito del indio)でデビューし、1930-40年代に多くの作品を発表するが、その活動が反政府的と目されて1950年代初頭にはヨーロッパへの亡命を余儀なくされたこともある。その後アルゼンチンに帰国したが、後年には再び生活の拠点を海外(フランス)に移し、死の直前まで世界各国で演奏活動を行っていた。

レオン・ヒエコ
Leon Gieco、1951年11月20日 -)は、アルゼンチンのフォーク・ポップス歌手。伝統的なフォルクローレとロックミュージックの融合で人気を博した。社会派でメッセージ性の強い曲を数多く発表しており、「アルゼンチンのボブ・ディラン」とも呼ばれている。アルゼンチンサンタフェ州北部の貧しい家庭に育つ。8歳のとき、自らお金を貯めて入手したフォークギターに熱中し、上達した腕前は学園祭でプロミュージシャンと共にステージに立つ程だった。

グラシェラ・スサーナ
(GRACIELA SUSANA、1953年1月22日-)はアルゼンチン出身の歌手、ギタリスト。菅原洋一により見出され、1971年11月に初来日し、1970年代にヒットした。幼い時からギターに関心を持ち、アンヘル・パラシオ、アルノルド・ピントに師事した。また、歌をミセス・アルバ・デ・ベリオンに師事した。

オマール・ナルバエス
(Omar Andres Narvaez、男性、1975年7月10日 - )は、アルゼンチンのプロボクサー。現WBO世界スーパーフライ級王者。元WBO世界フライ級王者。アマチュアボクシングで培ったテクニックをベースにした攻防兼備のアウトボクサー。アルゼンチン代表として1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピックの2度のオリンピック出場をしている。「El Huracan(ハリケーン)」の愛称を持つ。2012年10月20日、ブエノスアイレスにてジョニー・ガルシア(メキシコ)と対戦し、11回KO勝ちで5度目の防衛に成功した。総試合40,勝ち37,KO勝ち20,敗け1,引き分け2

リオネル・メッシ
Lionel Andres Messi, 1987年6月24日 - )は、アルゼンチン共和国サンタフェ州ロサリオ出身、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するアルゼンチン代表のサッカー選手。アルゼンチンのロサリオにて、工場労働者の父とパートタイムの清掃員である母の間に生まれた。父方の祖先アンジェロ・メッシはイタリアのアンコーナ出身であり、1883年にアルゼンチンに移住した 。5歳の時には父親がコーチを務めるクラブで本格的にサッカーを始め、1995年には地元のクラブであるニューウェルス・オールドボーイズに入団する。3度のバロンドールに輝くなど、世界最高の選手の1人とされ、ジョゼップ・グアルディオラやシャビ、セルヒオ・バティスタなど、歴代最高の選手とする声も多い。

 

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