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チェコ共和国
The Czech Republic

ヨーロッパ

チェコスロバキア
1918年から1992年にかけてヨーロッパに存在した国家。現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国により構成されていた。これはトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュが唱えた、チェコ人とスロバキア人がひとつの国を形成するべきであるというチェコスロバキア主義に基づくものである。


■地理
チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。


中央ヨーロッパ
Central Europe、は、ヨーロッパの中央部に位置し、西ヨーロッパと東ヨーロッパに挟まれた歴史的・文化的世界で、人口が大きくかつ社会資本も高いレベルで充実しており、ドイツのようにすでに経済大国となっているかあるいはポーランドのように着実に経済大国化を進めている国々を含む非常に活発な地域である。中欧とも。


ヴルタヴァ川
Moldauは、チェコ国内最長の川である。ボヘミア盆地の水を集めプラハを通って南から北に流れ、エルツ山脈とズデーテン山脈に切れ目を通り、北ドイツ平原に流れ出てラベ川(エルベ川)に合流する。 さらに、ドレスデン、マグデブルグ、ハンブルグなどの都市を潤して北海に抜ける。また、南に遡って、ボヘミヤの森をこえるとドナウ川に至り、黒海にそそぐ。 日本ではモルダウ川(ドイツ語)として知られる。川幅500メートルほどでプラハの旧市街と城下町を隔てている。

オーデル川
Odraは、中央ヨーロッパを流れる河川である。チェコ共和国北東部のズデーテン山脈に源流を発し、ポーランド国内のシレジア(シロンスク)を北西に向けて流れ、ポーランドとドイツの国境(オーデル・ナイセ線)沿いの延長187kmを北に向かう。

モラヴァ川
March)は、ドナウ川水系に属し、中央ヨーロッパのチェコ・スロバキア・オーストリアの3カ国を流れる延長354kmの川である。チェコのモラヴィア地方に由来する、この地方の主要河川である。オーストリアではマルヒ川と呼ばれる。

エルベ川
チェコ北部およびドイツ東部を流れ北海へと注ぐ国際河川である。全長約1,091kmはヨーロッパでは14番目に長く、このうち727kmがドイツ国内を占める。ポーランド、チェコ国境地帯のステーティ山地に源を発し、チェコ北部、ドイツ東部を北へ流れ、ハンブルク付近で北海に注ぐ。

ズデーテン山地
Sudates、は、ドイツ東部からポーランド南部を経てチェコまでのびる山地。日本語ではスデーティ山地とも表記する場合もある。


オーバープファルツの森
ドイツ、チェコ国境にまたがる中低山地で、フィヒテル山地の南、バイエルンの森の北に位置する。北のヴァルトザッセンから南のヴァルトミュンヒェンまで全長100kmにわたって延びている。地質学上は、主に花崗岩からなっている。


<歴史>
■古代
ケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後、ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。
■907年
マジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになった。
■10世紀後半
カトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。
■15世紀
ヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。
■16世紀前半
ハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。
■18世紀後半
啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。
第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、民族自決の理念のもとチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。
■1935年
ナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。
■1940年から1945年
エドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。
■1946年
選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民共和国」となった(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発してノヴォトニー政権に代わって、スロバキア人のドプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。
■1989年
「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。
■1993年1月
チェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。
■2004年5月1日
チェコは欧州連合に加盟した。


ケルト人
Celt, Keltは、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ゲルマン人
Germanic peoples)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を話す諸集団(≠民族)の事を指す。ゲルマン人という用語を広めたのはユリウス・カエサルであると考えられているが、カエサルはこの言葉を「ゲルマニアに居住する非ケルト系の民族」「ガリア北東部に住む系統不明の民族集団」という二つの定義で用いた。後者の定義による集団は今日でもケルトかゲルマンか判然とせず、また前者の定義はゲルマニアにはゲルマン系だけでなく、ケルト系の民族も存在していた事を示している。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。

フランク人
Frankenは、西ヨーロッパにおいてフランク王国を建国した事で知られる部族集団。ラテン語ではFranci(フランキ)。語義は「自由な人」「勇敢な人」を意味すると言われ、英語で率直な性格を表す「フランク」の語源ともなった。また彼らの持つ独特の武器(フランキスカ)が民族名の元となったという説もある。

マジャル人
Magyarokとは、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。固有の言語はウラル語族のハンガリー語である。人種的にはモンゴロイドとコーカソイドが複雑に混じっているが、歴史的には後者の混交が多く進んだため、現在では外見的にモンゴロイドの痕跡は皆無といってよいほど認め難い。民族としてはユダヤ系(アシュケナジム)も混じっているので、一概的な定義はない。マジャル人の総人口は約1450万人で、そのうちハンガリーには約950万人(2001年)[19]のマジャル人が居住している。


アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。


モラヴィア王国
9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国。大モラヴィア王国などとも表記される。現在のモラヴィア、スロヴァキア辺りの地域を支配した。9世紀前半、文献にモラヴィア王国についての記述があらわれる。初代君主のモイミール(位830頃-846)は、カトリックのザルツブルク大司教座による布教をみとめた。しかし、846年に即位したラスチスラフ(ロスティスラフ)は、東フランク王国の圧迫に対抗する必要性から東ローマ帝国・正教会との結びつきを図り、宣教師キュリロスとメトディオスを招いた。


ルクセンブルク家
Haus Luxemburg, は、現在のルクセンブルクを発祥とした中世ヨーロッパの貴族、王家。963年にアルデンヌ伯ジークフリート がこの地にあったルクセンブルク城を本拠地に定め、その子孫が11世紀にルクセンブルク伯の位を神聖ローマ皇帝から与えられた。神聖ローマ帝国の域内とはいえ、フランスにも近かったため、ルクセンブルク伯はフランス王の封建家臣にもなっていた。1081年には、ルクセンブルク伯家出身のザルム伯ヘルマンが、皇帝ハインリヒ4世の対立王に選出されている。

ハプスブルク家
Haus Habsburgは、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。


三十年戦争
ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家、ブルボン家、ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。

フス戦争
Hussite Wars または Bohemian Warsは、15世紀に中央ヨーロッパで起こった戦争。ヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)の信者(ボヘミアとポーランドを中心とする)と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間で戦われた。1419年、第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス派戦争が始まった。ハンドキャノンの伝来により、フス戦争はヨーロッパ史最初の火器を使った戦いと言われる。1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した、手銃を戦車(馬車の一種)とともに活用する戦術によって、当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく、国民軍の原型のような軍隊を作り上げた。


白山の戦い
Schlacht am Weißen Berg, 1620年11月8日は、ボヘミア(現在のチェコ共和国)の首都プラハ近郊の山、白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘である。1617年、ボヘミア王国を支配していたハプスブルク家は、熱烈なカトリック信徒で異教徒迫害を行うフェルディナント大公(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)をボヘミア王に即位させた。これに反対するボヘミアのプロテスタント貴族は王を認めず、1618年には、国王の使者3人がプラハ城を襲った民衆によって窓から投げ落とされる事件が起こった(第二次プラハ窓外投擲事件)。


汎スラヴ主義
スラヴ民族の連帯と統一を目指す思想運動である。汎スラヴ主義は、19世紀初めのハンガリーの民族運動に触発されて始まった。初期の運動は主にハプスブルク君主国のハンガリー側で盛んであった。ハンガリー民族運動が領内スラヴ人への抑圧に繋がり、これに反発してスラヴ人の民族運動が盛んになったという構図がある。


啓蒙専制君主
Enlightened despotismとは、主に18世紀後半、東ヨーロッパの君主国のプロイセン・オーストリア・ロシア・トルコにおいて啓蒙思想を掲げて「上からの近代化」を図った君主をさす。当初、啓蒙専制君主は啓蒙思想を掲げる絶対君主として理解されていた。プロイセンのフリードリヒ2世がヴォルテールを自国へ招いた際には両者は数日で不和を招き、啓蒙専制君主は絶対君主よりも酷い物であるとヴォルテールは述懐している。こういった逸話は啓蒙専制君主の体制を、実質的には絶対君主制と何ら変らないとする理解をもたらした。こうして、啓蒙専制君主を絶対君主の概念から類推して説明する場合、この概念は「啓蒙絶対君主」とも訳出された。


<世界遺産>
プラハ歴史地区
プラハ歴史地区(プラハれきしちく)はチェコ、プラハにあるユネスコ世界遺産の日本における呼称である。1992年に登録された。プラハ市街中心部、ヴルタヴァ川の東岸に位置する旧市街から南の新市街まで、西岸のフラッチャニ地区およびマラー・ストラナ地区、計866ha が登録対象地域となっており、11世紀から18世紀にかけてのさまざまな時代様式の建築物が残る。

チェスキー・クルムロフ歴史地区
チェコ・南ボヘミア州の小さな都市。クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、ドイツ語のKrumme Aueをその語源とする。1945年以降、チェスキー・クルムロフは荒廃状態にあった。町の伝統的な住民の多くを追放したことは、チェスキー・クルムロフのコミュニティーにとって大きな打撃となっていた。町の住居の多くは、その主を失い、一時、無人となった。1948年の共産主義化により、城郭などの歴史的建造物が「封建時代の遺構」とみなされ、価値を否定されたことも、その荒廃に拍車をかけた。ようやく歴史的建造物が徐々に補修されるようになったのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降のことであった。

テルチ歴史地区
チェコ・モラヴィア地方ヴィソチナ州の町。城と、良質の保存がなされているルネサンス様式の長い中心地が含まれる。1992年UNESCO世界遺産に登録された。

ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会
チェコのボヘミア地方とモラヴィア地方の境界に近いジュヂャール・ナト・サーザヴォウにある教会堂。イタリア系でプラハを中心に活躍した建築家ヤン・サンティーニ=アイヘルの傑作とされている。サンティーニは建物と装飾の両面で、ボッロミーニ的なバロック様式にゴシック的要素を統合した。1994年にユネスコの世界遺産に登録された。聖堂には丸みを帯びた正三角形の窓がある。主祭壇の聖ヤン・ネポムツキーの頭上には3人の小天使(プット)が配置され、丸みを帯びた正三角形から聖人に向かって光が降り注いでいる。これらの数字の3は三位一体を表すものとされているが、この教会における数字の5と3については、この聖人が53歳で没したからとする説明もある。もっとも、聖ヤン・ネポムツキーの生年ははっきりとは分かっていない。

ゼレナー・ホラのネポムークの聖ヨハネ巡礼教会
チェコのボヘミア地方とモラヴィア地方の境界に近いジュヂャール・ナト・サーザヴォウにある教会堂。イタリア系でプラハを中心に活躍した建築家ヤン・サンティーニ=アイヘルの傑作とされている。サンティーニは建物と装飾の両面で、ボッロミーニ的なバロック様式にゴシック的要素を統合した。1994年にユネスコの世界遺産に登録された。聖堂には丸みを帯びた正三角形の窓がある。主祭壇の聖ヤン・ネポムツキーの頭上には3人の小天使(プット)が配置され、丸みを帯びた正三角形から聖人に向かって光が降り注いでいる。これらの数字の3は三位一体を表すものとされているが、この教会における数字の5と3については、この聖人が53歳で没したからとする説明もある。もっとも、聖ヤン・ネポムツキーの生年ははっきりとは分かっていない。

クトナー・ホラ:サンタ・バーバラ教会とセドレッツの聖母マリアクトナー・ホラの聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂(クトナー・ホラのせいバルボラきょうかいのあるれきしちくとセドレツのせいぼマリアだいせいどう)はチェコ、中央ボヘミア州のクトナー・ホラおよびセドレツにあるユネスコ世界遺産。1995年に登録された。大聖堂のある歴史都市

レドニツェ-ヴァルチツェの文化的景観
チェコのモラヴィア地方南部、レドニツェからヴァルチツェにかけてのレドニツェ=ヴァルチツェ地区(チェコ語: Lednicko-valtický areál)の文化的景観に対する、ユネスコの世界遺産としての呼称である。1996年に登録。面積283.09 km2。ネオゴシック様式のレドニツェ城とバロック様式のヴァルチツェ城を軸とする風景式庭園の整備は17世紀から19世紀にかけて行われた。 リヒテンシュタイン家は13世紀半ばにレドニツェを、14世紀末までにヴァルチツェをその領地として城を建設していたが、同家のカール1世がヴァルチツェ城を居城と定め、レドニツェ城は夏の離宮となった。

■ホラショヴィツェ歴史地区
クロミェーシーッジの庭園と宮殿
チェコ・クロミェルジーシュにある司教の邸宅。1777年からはオロモウツ大司教の邸宅となっていた。権力のあるリヒテンシュタイン家が宮殿をバロック様式に改装するよう建築家フィリベルト・ルッケーゼに依頼してから、1664年までは司教のものではなかった。ルッケーゼの仕事の注目すべき作品は、城正面の娯楽用庭園である。

リトミシュル城
リトミシュル城は1999年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。 リトミシュル城は領主ペルンシュテイン家ブラティスラフにより1568年から14年の歳月を掛けて建設された。領主はスペインから嫁いだ妃ララのために、当時ボヘミアではみられない優雅で明るいルネサンス様式の城を建築した。城壁はスグラフィットという技法で描かれた壁画で全面覆われており、その数8千、同じ模様はひとつもないといわれている。中庭にある壁画は聖書から出典の物語が描かれ、出色の出来ばえとして有名。城内には城主が客人をもてなすために作ったバロック劇場がある。このバロック様式の劇場は、現在、世界に数ヶ所しか残っていない貴重な文化遺産。

オロモウツの聖トリニティ碑
チェコのモラヴィア地方、オロモウツにあるバロック様式のモニュメントである。高さは35メートル、最上部には銅に金めっきをほどこした三位一体の像、その下には聖母の被昇天の像、その他聖人像やレリーフなどで飾られ、最下層には礼拝堂がある。


カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭
Karlovy Vary International Film Festival)はチェコの西北部の都市カルロヴィ・ヴァリで開かれる国際映画祭である。国際映画製作者連盟公認の映画祭であり、東欧でも最大級の映画にまつわるイベントである。

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
Ceska filharmonie)は、チェコの首都プラハを拠点とするオーケストラ。チェコを代表するオーケストラの1つ。本拠となるホールはプラハの「芸術家の家(ルドルフィヌム)」内にあるドヴォルザーク・ホール。オーストリア・ハンガリー帝国時代のプラハ国民歌劇場の附属オーケストラが前身。1896年1月4日にドヴォルザークが自作を振ったときには、現在の名称が使われていたが、専任オーケストラとして独立するのは、1901年になってからである。


プラハの春音楽祭
毎年春にチェコのプラハで開催されるクラシック、特に管弦楽や室内楽のための国際音楽祭。ホスト役はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。その他にも著名な音楽家やオーケストラが招かれる。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団創設50周年にあたる1946年に、エドヴァルド・ベネシュ大統領の後援で、首席指揮者のラファエル・クーベリックの指導のもと第1回の音楽祭が開催された。


■国民
チェコ人が90.4%である。さらに、モラヴィア人が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。

■宗教
チェコでは歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。

■食文化
チェコはビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一である。2005年統計では一人当たり161. 5Lで日本の3.3倍の消費量。


ペトル・ネチャス
チェコ語: Petr Necas、1964年11月19日 - は、チェコの政治家。2010年6月28日から、市民民主党(ODS)党首として同国の首相を務めている。1991年に同党に入党。2006年9月4日から2009年5月8日にかけて、副首相と労働・社会問題相を兼任。2010年3月にミレク・トポラーネクから党首の座を引き継いた。

エドヴァルド・ベネシュ
(Edvard Benes, 1884年5月28日 - 1948年9月3日)は、チェコスロヴァキアの政治家。チェコスロバキアの首相(1921-22)、大統領(1935-38、1945-48)、外務大臣(1918-35)。ボヘミアのコジュラニ出身。独立以前は、プラハのカレル大学講師を務めていたが、第一次世界大戦中、トマーシュ・マサリクの右腕として独立運動を指揮する。1918年から1935年まで外務大臣、1935年からマサリクの後任として第2代大統領に就任。チェコスロヴァキア国民社会党所属。

マックス・ブロート
(Max Brod、 1884年5月27日 プラハ - 1968年12月20日 イスラエル・テルアビブ)はチェコ出身のユダヤ系の作家、文芸・音楽評論家、作曲家。生前は彼自身も多産な作家であったが、現在は主にフランツ・カフカの友人・紹介者として最もよく知られている。1884年、オーストリア=ハンガリー帝国領プラハに生まれる。ピアリスト会修道士の運営する学校に通った後、1901年よりプラハ大学に入学し法学を学ぶ。大学在学中よりすぐに文筆家としての頭角を表し始めた。1902年、ここで1年上の学年にいたフランツ・カフカと出会い親交を結ぶ。1907年に大学を卒業、すぐに兵役に就く。

ルボシュ・コホーテク
(Lubos Kohoutek、1935年1月29日 - )はチェコの天文学者。多くの彗星、小惑星を発見した。モラヴィアのZabrehに生まれた。ブルノとプラハの大学で物理学と天文学を学んだ後、チェコスロバキア科学アカデミーの天文学研究所で働いた。1967年にルボシュ・ペレクと1036の惑星状星雲を収録したカタログを出版した。ドイツのハンブルク天文台で働き、1968年のチェコ事件が起こると、ドイツに留まることを決めた。1970年代にコホーテク彗星 (C/1973 E1)などの発見で有名になった。その後スペインやチリの天文台で惑星状星雲の観測を行い、2001年に引退した。小惑星(1850)コホーテクはコホーテクの功績を記念して命名された。

ニコラ・テスラ
Nikola Tesla1856年7月10日 - 1943年1月7日は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。8か国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通していた。父母はセルビア人で、父はセルビア正教会司祭。姉が2人、兄デン(12歳で事故死)、妹が1人。兄を喪った5歳の頃から幻覚を頻繁に見るようになったとされる。また、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るために勉学に励み、特に数学において突出した才能を発揮したとされる。またエジソンの名言「天才は1%のひらめきと99%の汗(努力)」を聞いたテスラは、皮肉って以下の言葉を残している。「天才とは、99%の努力を無にする、1%のひらめきのことである」(「天才とは、1%の直観と99%の徒労である」とも)とはいえ当のテスラ自身はエジソンの工場に勤めていた頃、毎朝10時半から翌朝5時まで研究改良・製作に打ち込み続けた努力家であり、エジソンが「貴様にはかなわない」と言ったと伝わる、つまりはひらめきだけではない、努力の人でもあった。

アヴィグドル・ダガン
(Avigdor Dagan, 1912年6月30日 フラデツ・クラーロヴェー - 2006年5月28日 エルサレム )はチェコ出身のイスラエルの作家。カレル大学法学部を卒業し、外交官になる。1936年、ナチスを避けイギリス(ロンドン)に出国。終戦後に帰国するが、1948年クーデターによりイスラエルに出国、現在の名前に改名。外交官と作家を兼ねたが、1977年以降は作家活動にのみ没頭。詩人として出発し、のちに短編作家として知られるようになった。作品は1990年代にチェコにおいて(ほかの地域と比べ)最も多く出版された。

ヤン・フス
(Jan Hus, 1369年 - 1415年7月6日)は、ボヘミア出身の宗教思想家、宗教改革者。彼はジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手した。彼の支持者はフス派として知られる。カトリック教会はそうした反乱を許さず、フスは1411年に破門され、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。フスは処刑される直前に、もし異端であることを認めれば命は助けるという要請を拒否し、処刑されたが、彼の最期の言葉は「真実は勝つ(Veritas vincit)」だったとチェコ人の間に伝わった。後世、彼の「真実は勝つ」という最期の言葉は、外国支配の続いたチェコ人のよりどころとなった。

ヤン・フィシェル
(Jan Fischer, 1951年1月2日 - )はチェコの官僚。2003年から2009年まで同国統計局局長。2009年5月8日から2010年7月13日まで首相として暫定政権を率いた。フィシェルは1974年にプラハ経済大学で統計・経済学のエンジニアの学位を取得して卒業している。1985年に大学院過程に登録し、経済統計学で博士候補号を取得している。父親は遺伝学や薬学の分野で研究員であり、数学・統計学の応用をテーマにしている。

レオシュ・ヤナーチェク
1854年7月3日 - 1928年8月12日は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。モラヴィア地方の民俗音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラ作品は死後、1950年代にオーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力により中部ヨーロッパの外に出、1970年代以降広く世に知られるようになった。

カテリナ・エモンス
Katerina Emmons , 1983年11月17日 - はチェコのプルゼニ出身の射撃選手。旧姓はKůrková。かつては競泳の選手だったものの膝を痛め射撃に転向した。アテネオリンピックでは銅メダル、北京オリンピックでは金メダルと銀メダルを一枚ずつ獲得している。女子エアライフル10メートルで獲得した金メダルは全競技を通して第一号のメダルとなった。予選では満点となる400点をマークし、決勝もオリンピックレコードとなる503.5点を叩き出し、アテネで金メダルを獲得している杜麗に雪辱を果たした。

ヤン・ジシュカ
(Jan Zizka, 1374年 - 1424年10月11日)は、ボヘミアで1419年から起ったフス戦争の英雄。旧チェコスロバキアで流通した1958年 - 1972年発行の25コルナ、1971年 - 1988年発行の25コルナ紙幣でそれぞれ肖像が使用されていた。隻眼であったため、隻眼のジシュカと称された(晩年には全盲となった)。はじめ没落したボヘミアの小貴族であったが、智勇兼備の人物であったため、傭兵となって次第に頭角を現わす。1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)にも多くのボヘミア義勇隊に参加してポーランド王国に味方して戦った。

アダルベルト・ギロヴェッツ
Adalbert Matthias Gyrowetz, 1763年2月20日-1850年5月19日はボヘミア出身のウィーン古典派の作曲家。合唱指揮者の父親から、ヴァイオリン、クラヴィーア、作曲の手ほどきを受ける。プラハで法学を学ぶかたわら語学も学ぶが、経済的理由で学業を切り上げ、フランツ・フォン・フュンフキルヒェン伯爵の不動産の管理人として働く。モーツァルトは作者の名を明かさずにギロヴェッツの交響曲を上演し、演奏終了後に歓呼の声が上がるや、すかさず真の作者の名を明かしてギロヴェッツを紹介するといった粋な計らいもおこなった。モーツァルトと相談の末にイタリア留学を敢行、2年間のナポリ滞在中にパイジェッロらに師事し、《6つの弦楽四重奏曲》を作曲。

フランティシェック・ストラカ
(Frantisek Straka, 1958年5月21日 - )は、チェコ出身、ドイツ国籍の元サッカー選手、現サッカー指導者。2009年5月からチェコ代表の監督を務める。オーストリア・ブンデスリーガのFCヴァッカー・チロルでは「熱い魂を持つ監督」としてサポーターの間で「ここ20年間で最も人気の高い監督」に選ばれた。現役引退後は指導者の道へ進む。2003年9月1日からはFKテプリツェの監督に就任すると初年度からチェコカップ優勝、チェコリーグ2位の結果を残した。ヨーロッパカップではカイザースラウテルン、フェイエノールトなどヨーロッパの強豪を破りUEFAカップ本大会3回戦に進出し、FKテプリツェの奇跡と言われた。

バルタザール・ノイマン
(Johann Balthasar Neumann、1687年1月30日(推測)ヘプ(チェコ)- 1753年8月19日(?)ヴュルツブルク)はバロックおよびロココの建築家。ノイマンは1711年にヴュルツブルクの砲兵部隊に所属したが、司教ヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンの援助でイタリア、フランケン地方さらにはオランダで建築の腕を振るうこととなった。ノイマンは、バロックおよびロココの最も重要な建築家の一人であると考えられている。彼によって、南ドイツの建築物は、あるいはドイツ・カトリックのバロック建築はその頂点を築いたのである。その本領は、特に階段室や礼拝堂といった巨大なインテリアの創作に発揮されている。

パベル・ネドベド
Pavel Nedved, 1972年8月30日 - はチェコ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。オフェンシブなポジションでの出場が多い。14歳となった1986年からスコダ・プルゼンという地元のクラブに入団。デュクラ・プラハというクラブを経てチェコ屈指の名門スパルタ・プラハに入団。 一時期サッカー選手よりも医者になることを目指していた。チェコの名門スパルタ・プラハがネドベドをスカウトした際に、彼自身は大きな興味を示し、結果的には入団することになるが、まだ学生という身分を理由に周囲の人間からは猛反発された。ハビエル・サネッティはキャリアで対戦した中で最も厄介だった相手としてラツィオ時代のネドベドを挙げており、その理由にサイドを何度も上下するスタミナを挙げている。

カール・ワイデル・レイモン
(Carl Weidl-Raymon, 1894年3月28日 - 1987年12月1日)は、北海道函館市で独自のハム・ソーセージの製造に注力した食肉職人(マイスター)。「胃袋の宣教師」と呼ばれた。オーストリア=ハンガリー帝国(1867年~)・ボヘミア王国のカルルスバード(現在のチェコのカルロヴィ・ヴァリ)に、食肉加工職人の家庭に生まれる。その後14歳で家業を継ぎ、ドイツ、アメリカ、フランス、スペイン、ノルウェーなどで修行する。1919年、アメリカからヨーロッパへの帰国途中に日本に立ち寄り、函館で勝田コウと出会い、3年後カルルスバードで結婚。2年の故郷での生活を経て、1924年に再び函館に戻りハム・ソーセージの店と工場を開業する。

アントニン・レーモンド
(Antonin Raymond, 1888年5月10日 - 1976年10月25日)はチェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。1919年、帝国ホテル設計施工の助手としてライトと共に来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。。前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。

カレル・ゼマン
(Karel Zeman, 1910年11月3日 - 1989年5月5日)はチェコスロバキアのアニメーション監督、特撮映画監督。長編ではジュール・ヴェルヌの小説を数本映像化している。戦後直ぐにモラヴィアのゴットヴァルドフ(現・ズリーン)にあった人形アニメの国立スタジオに所属し、アニメーションの仕事をはじめた。晩年にはカナダのNFBで切り紙アニメーションの指導をしたほか、ズリーンで毎年開かれる児童映画祭の委員長を長く務め、1989年に同地で永眠。79歳。

ドミニク・ハシェック
(Dominik Hasek、1965年1月29日 - )は旧チェコの、ボヘミア・パルドゥビツェ Pardubice 生まれのプロ・アイスホッケー選手で、ポジションはゴーリーである。ヨーロッパ生まれのゴーリーとしてはNHL史上最も成功した選手といえるトップアスリートである。NHL加入がもう少し早ければ、パトリック・ロワを凌ぐ成績を残したかもしれないと評価する声もある。1998年冬期長野オリンピックでは、チェコチームを率いて同チームに金メダルをもたらした。特に決勝戦ではロシアチームを完封した。プラハでの祝勝会は数十万人の観衆で溢れたという。また、この勝利を題材にしたオペラ「ナガノ」が作られた。

グスタフ・マーラー
(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)はウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーが生まれ育った時期は、オーストリアが長らく盟主として君臨したドイツの統一から除外され、ハンガリーやチェコなど多数の非ドイツ人地域を持つ別国家として斜陽の道を歩み始めた頃でもあった。

ペーター・ホフマン
(Peter Hofmann, 1944年8月22日 - 2010年11月30日)は、ドイツのテノール歌手。チェコ(当時ナチス・ドイツの保護領)のマリエンバートに生まれる。1972年にリューベック市立歌劇場で『魔笛』のタミーノ役でデビュー。1976年にはバイロイト音楽祭にデビューし、その後ヴァーグナー作品の諸役を歌って高く評価され、カラヤンの指揮する『パルジファル』のCDでタイトル・ロールを歌う等、ルネ・コロ、ジークフリート・イェルザレムとともに、20世紀終盤を代表するヘルデンテノールとして活躍する。

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン
Albrecht Wenzel Eusebius von Wallenstein, 1583年9月24日、ボヘミア - 1634年2月25日、ボヘミア・ヘプ)は、三十年戦争期のボヘミアの傭兵隊長である。神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世に仕えて、帝国大元帥・バルト海提督・フリードラント公爵となって位人臣を極めたが、後に皇帝の命令で暗殺された。

ヤン・レッツェル
(Jan Letzel, 1880年4月9日 - 1925年12月26日)は明治末期から大正にかけて主に日本で活動したチェコ人の建築家。広島市の広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者として有名。1907年(明治40年)にはローマ、ミラノ、ヴェネツィアなどのイタリアの都市を訪れた後、6月に来日した。日本では横浜のゲオルグ・デ・ラランデの設計事務所(英版及び西版によるとフランス人の設計事務所)で働く。

アントニン・ドヴォルザーク
Antonin Leopold Dvorak1841年9月8日 - 1904年5月1日)は、チェコの作曲家。チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家というにとどまらず、クラシック音楽史上屈指の人気作曲家でもある。ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となった。ベドルジハ・スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。北ボヘミア、ロプコヴィツ家の本拠地のひとつであるネラホゼヴェスに生まれた。生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父親はツィターの名手として村では評判で、簡単な舞曲を作曲して演奏することもあった。

エミール・ザトペック
(Emil Zatopek、1922年9月19日 - 2000年11月22日)は、チェコ(現役当時はチェコスロバキア)の陸上選手。ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。また、インターバルトレーニングの創始者としても知られている。

マルチナ・ナブラチロワ
(Martina Navratilova, 1956年10月18日 - )は、チェコスロバキア(当時、現在チェコ共和国)プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。

イワン・レンドル
(Ivan Lendl, 1960年3月7日 - )は、チェコスロバキア・オストラヴァ出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。1980年代の男子テニス界に君臨した名選手である。4大大会通算8勝はフレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、ジミー・コナーズ、アンドレ・アガシと並ぶ男子シングルスの歴代7位タイ。世界ランキング1位の通算座位期間「270週」は男子シングルスの歴代3位。

ペトラ・クビトバ
(Petra Kvitova, 1990年3月8日 - )は、チェコ・ビロベク出身の女子プロテニス選手。2011年のウィンブルドン女子シングルスの優勝者である。これまでにWTAツアーでシングルス9勝を挙げている(ダブルス優勝はない)。身長182cm、体重70kg、左利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス196位。

ジョイ・アダムソン
(Joy Adamson、1910年1月20日 - 1980年1月3日)は、『野生のエルザ』で知られる作家、ナチュラリスト、芸術家。旧姓名はフリーデリケ・ヴィクトリア・ゲスナー (Friederike Victoria Gessner) 。オーストリア・ハンガリー帝国のシレジア地域のトロッパウ(現・チェコのオパヴァ)に、三人姉妹の次女として生まれる。十歳の時両親が離婚し、祖母と生活をともにする。ピアノと医学を学ぶ。

グイド・アドラー
(Guido Adler, 1855年11月1日 - 1941年2月15日)はオーストリアの音楽学者。アイベンシュッツ(現在のチェコ領イヴァンチィッツェ)出身。1868年から1874年までウィーン音楽院で学んだ。主専攻はピアノで、その他に作曲と音楽理論をアントン・ブルックナーとフェリックス・オットー・デッソフに学んだ。

ミレナ・イェセンスカ
(Milena Jesenská、1896年8月10日 - 1944年5月17日)は、チェコのジャーナリスト、編集者、翻訳家。彼女は1919年から1920年の間、作家フランツ・カフカと恋愛関係にあった。父親は保守的考え方の持ち主であったにもかかわらず、娘・ミレナをオーストリア=ハンガリー帝国初の女性向けギムナジウム「ミネルバ」に通わせ、ミレナは、そこで開放的な少女時代を過ごす。

パヴェル・ヴラニツキー
(Pavel Vranicky, 1756年12月30日、モラヴィア地方ノヴァージーシェ - 1808年9月26日、ウィーン)は、チェコ(モラヴィア地方)出身の古典派音楽の作曲家・ヴァイオリニスト・オルガニスト。モーツァルトと同年生まれの親友として有名で、モーツァルトも彼のことを高く評価し、また同時にフリーメーソンのメンバーでもあった。多作家で、膨大な数のオペラ・バレエ音楽・交響曲・協奏曲・室内楽などを残している。

カレル・アンチェル
Karel Ančerl, 1908年4月11日 - 1973年7月3日) はチェコの指揮者である。南ボヘミア地方のトゥカピ出身。1925年から4年間にわたってプラハ音楽院でアロイス・ハーバに作曲を、ターリヒに指揮を学んだ。1930年のミュンヘン現代音楽祭で初演された師ハーバの歌劇「母」の初演を指揮したヘルマン・シェルヘンのアシスタントを務めた事がきっかけとなり、ストラスブールの彼の指揮クラスで指導を受ける。

マリア・イェリッツァ
(Maria Jeritza, 1887年12月6日 ブルノ - 1982年7月10日 ニュージャージー州オレンジ)は、ドイツとオーストリアを中心に、フランスからロシアまで欧州各地で幅広く活躍した名ソプラノ歌手。オペラ界で活躍し、ヤナーチェクやコルンゴルトのような19世紀末から20世紀初頭の新作オペラに初演者として名を連ねた。

アルフレート・グリュンフェルト
(Alfred Grunfeld, *1852年7月4日 プラハ − †1924年1月4日 ウィーン)は、オーストリアで活躍したボヘミア出身のヴィルトゥオーゾ・ピアニストで作曲家。録音を遺した最初の著名なピアニストの一人である。

チェコ Czech
中央ヨーロッパの共和制国家。首都はプラハ。古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後、ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。つづいてアバール人が支配者となった。9世紀前半に漸く、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。

プラハ
Pragueは、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる。プラハは大戦中の戦火を免れたことから、多様な建築様式が混在しており、住宅に関しても例外ではない。マラー・ストラナ、スタレー・ムニェスト、ノヴェー・ムニェストなどでは4階建て程度の欧州に一般に見られる共同住宅が多い。


プラハ・カレル大学
1348年に神聖ローマ皇帝カール4世によって創立された大学である。その後フス戦争を挟んでの混乱期を経て再開されたものの、第一次世界大戦、第二次世界大戦期にたびたび分裂と閉鎖を繰り返し、現在はカレル大学(正式にはチェコ語名:Univerzita Karlova v Praze、英語名:Charles University in Pragueである)という名称で存在している。プラハ大学を創立したのは、まだドイツ王(ローマ王)になって間もなかったカール4世(在位:1347年 - 1378年)である。カール4世は1316年にプラハで生まれた後、1323年から1330年までパリの宮廷に預けられ、パリ大学にて学問を修めている。この経験が、後の大学創設に影響を与えたと考えられている。

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外務省:チェコ共和国
在チェコ日本国大使館


チェコ工科大学
Czech Technical University in Prague / CTU)はチェコ共和国・プラハの工科大学。

プラハ音楽院
プラハ音楽院は、アコーディオン、ギター、ピアノ、オルガンを含む器楽演奏や、声楽、作曲、指揮、演劇の教育を提供している。修業年限は6年間。カリキュラムには、一般教育とともに、専門的な音楽理論、語学教育も含まれる。プラハ音楽院は、1808年、地元貴族や市民階級によって創設された。ナポレオン戦争の影響で開学は遅れ、授業が開始されたのは1811年になってからだった。

プラハ芸術アカデミー
チェコのプラハにある1945年創立の芸術大学である。略称はAMU。音楽学部・演劇学部・映像学部の3学部から構成される。


ルズィニエ国際空港
Ruzyne International Airportは、チェコ共和国プラハにある国際空港。同国のチェコ航空のハブ空港になっている。


ブルノ
Brnoは、チェコ共和国第2の都市。モラヴィア地方の中心都市であり、スヴィタヴァ川とスヴラトゥカ川の合流点に位置する。11世紀末には、プシェミスル家の城がおかれており、12世紀末よりモラヴィア辺境伯領の中心地となった。この頃よりドイツ人の移住が盛んになり、ドイツ化が進んだ。1948年の共産主義化、1989年の東欧革命、1993年のチェコ・スロヴァキア分離を経て、現在はチェコ共和国に属し、モラヴィア地方の中心都市としての発展をみている。チェコ共和国の憲法裁判所、最高裁判所、最高検察庁など政府の重要な司法機関も設置されている。


モラヴィア
Moravia、は、チェコ共和国の東部の名称。西部はボヘミア(ベーメン)という。歴史的な中心地はブルノ。地名はモラヴァ川に由来する。古代にスラヴ民族の王国の名称となり定着した。この地方のチェコ語の方言を話す人々をモラヴィア人 といい、チェコ人の下位の民族集団ともとらえられる。


ボヘミア
(Bohemia)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した。ヨハン・アモス・コメニウスの属した共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派が三十年戦争でこの地を追われ、二度とここに戻ってくることができなかったことはヨーロッパの精神史の中でよく知られた事件である。


オストラヴァ
(Ostrava)はチェコ第3の都市。シレジア地方に位置する。ドイツ語ではオストラウ(Ostrau)と表記される。この都市で音楽家のレオシュ・ヤナーチェクが没した。18世紀後半までは小村であったが、石炭が埋蔵されていることが分かると、急速に工業が発展していった。

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オロモウツ
Olomouc、はチェコの都市。モラヴィア地方の中部に属するチェコ第5の都市。街の中心部にあるオロモウツの聖三位一体柱は、ユネスコの世界遺産に登録されている。モラヴィア地方中部の農業地帯に位置しており、モラヴァ川とビストジツェ川が近くで合流する。

プルゼニ
Pilsenは、チェコ共和国のボヘミア地方西部の都市。プラハ、ブルノ、オストラバに次ぎチェコ第4の都市。プルゼニ州の州都。プルゼニュの表記もあり、ドイツ語名のピルゼンでも知られる。 2015年に欧州文化首都となることが決定している。プルゼニで醸造されているビールはピルゼンビールと呼ばれる。ビールの醸造法であるピルスナーはこの名に由来する。

リベレツ
Libertsisはチェコ・リベレツ州の州都でナイセ川の河畔に位置する都市である。ドイツ語ではライヒェンベルクと称される。周囲はイェシュテド山をはじめ山地に囲まれている。人口は103,737人を有しチェコでは6番目に大きな都市である。かつて、14世紀からドイツ人やフランドル人などの移住民によって繊維工業が発達し「ボヘミアのマンチェスター」と称された。現在では、ほとんどのチェコ人にとっては巨大な娯楽施設と、ショッピングセンターであるバビロンセンターがリベレツを第一に想起させる存在となっている。

ブジェツラフ
(Breclav)はチェコの都市。ドイツ、スロヴァキア国境に近い。世界遺産として登録されている「レドニツェ-ヴァルティツェの文化的景観」地域へバスで30分程度。ユダヤの歴史とも関係の深い街で、15世紀初頭よりユダヤ人が居住していた記録が残されている。三十年戦争、第二次世界大戦の戦禍でシナゴーグが破壊されたが、1999年までに再建され、南モラヴィア地方におけるユダヤ人の歴史などが展示されている。

フラデツ・クラーロヴェー
Hradec Kraloveは、チェコ、フラデツ・クラーロヴェー州の都市。ドイツ語名ケーニヒグレーツは『王の城』を意味する。市の経済は、食品加工学、光化学、電機製造業などを基盤とする。伝統産業には楽器製造業も含まれる。PETROF製造のピアノは有名である。フラデツ・クラーロヴェーは、エルベ川とオルリツェ川とが合流する『黄金の道』と呼ばれる非常に肥沃な地域の中央部にある。

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ヘプ
Chebはチェコの町。ドイツ国境に近い。中世よりバイエルンからボヘミア(ベーメン)地方へと移動する中継地点としての役割を果たし、交易などを通じて栄えた。現在は木材、自転車工業などが盛んなほか、多くの観光客も集める。とりわけ、2004年にチェコが欧州連合(EU)に加盟したことは、隣国ドイツからの観光客を増加させることに大きく寄与した。

カルロヴィ・ヴァリ
(Karlovy Vary)は、チェコ・ボヘミア西部の都市。テプラー川とラベ川(ドイツ語ではエルベ川)の支流であるオフジェ川(ドイツ語ではエーガー川)の合流点に発展し、温泉保養地として世界的に有名である。街の伝統産業としては、陶器工業、ボヘミアン・ガラスに代表されるガラス工業、地元のビール産業など挙げられ、近年は化学、機械、製材、食品工業の成長もみられる。

ホドフ
Chodovは、ソコロフ郡 Okres Sokolov の都市。または1813年Frantisek Mieslにより創業されたチェコの磁器ブランド。このブランド、ショドフ(ホドフ)はチェコ第3の古窯であり、ローズカラーの磁器「ピンクポーセリン(ピンクチャイナ)」を生み出し、以後ボヘミアを代表する名窯となる。 1900年代初頭に「Haas&Czjzek」に移行し、それ以降、食器の裏面にある刻印は「H&C」のマークとなる。

ブジェゾヴァー
Brezova,は、チェコ共和国カルロヴィ・ヴァリ郡 にあり、テプラー川 (Tepla) に跨る人口500人の町である。1802年に工場が創設され、19世紀にはマイセン・セーブルに次ぐメーカーだった。今日でも、非常に品質が高く、手による装飾を施した陶器は世界各国に輸出されている。

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チェスケー・ブジェヨヴィツェ
Ceske Budejovice、は、チェコ南部の都市。ドイツ語ではベーミッシュ・ブトヴァイス。南ボヘミア州最大の都市で、政治・商業の中心地。カトリック教会のチェスキー・ブジェヨヴィツェ大司教座が置かれている。チェスケー・ブジェヨヴィツェは13世紀からビール醸造の長い歴史を持つ。一時期には神聖ローマ皇帝のための王立醸造所があり、ラガービールの一種であるピルスナーと平行して、ブドヴァイゼル・ビール(ブドヴァイスで作られたビール、英語ではバドワイザー)と呼ばれるようになっていった。

イフラヴァ
Jihlava、は、チェコ・ヴィソチナ州の都市。イフラヴァ川沿いに位置する、モラヴィアとボヘミアの間にまたがる古代の開拓地であった。チェコ最古の鉱業の町であり、クトナー・ホラより50年古い。初期ゴシック様式の聖ヤーコプ教会、聖母教会、ドミニコ会派の聖十字架教会、バロック様式の聖イグナティウス・ロヨラ教会、ゴシックやルネサンス様式の細部を持つ市営ホールがある。


マリアーンスケー・ラーズニェ
(Marianské Lazne)は、チェコのカルロヴィ・ヴァリ州の都市。人口は約1万4千人。カルロヴィ・ヴァリなどと並ぶ温泉保養地として有名である。ドイツ語ではマリーエンバート(Marienbad)で、国際的にはこの名称でよく知られる。ドイツからチェコにかけて広がる「ボヘミアの森」の中に位置する。海抜は約650メートルほど。カルロヴィ・ヴァリ、フランチシュコヴィ・ラーズニェと並ぶチェコ有数の温泉地である。


クトナー・ホラ
Kutna Hora、は、チェコ・中央ボヘミア州の都市。13世紀から16世紀、プラハを凌ぐ経済・文化・政治都市だった。クトナー・ホラの町は1142年シトー会の修道院がセドレツに建てられたことから始まる。1260年までに、修道院の領地内のクッテンベルク山でドイツ人鉱夫によって銀の採掘が行われるようになった。

ミクロフ
Mikulov)は、チェコの都市。オーストリアとチェコの国境に位置している。ドイツ語ではニコルスブルク(Nikolsburg)と称される。人口は約7600人(2004年)。オーストリア・チェコ国境に位置しており、オーストリアのウィーンと、チェコ・モラヴィア地方を代表する都市であるブルノを結ぶ幹線道路が、ミクロフ近くを通過している。

ムニホヴォ・フラジシチェ
チェコ、中央ボヘミア州ムラダー・ボレスラフ郡の町である。ドイツ語名はミュンヒェングレーツ。人口は8,536人(2006年)。ヴァルトシュタイン家の出身でイチーンで暗殺されたアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインの遺骸は、1723年、この城内にある聖アンナ礼拝堂に移された。

クラドノ
Kladno)は、チェコ・中央ボヘミア州の都市。プラハの北西25キロ地点にある。州都であり、郊外の地域を含めると人口11万人を超える都市圏を形成する。クラドノの最初の記録は14世紀に遡る。1561年、都市権を与えられた。クラドノはボヘミア地方の重工業の誕生地である。何年も町は地域最大の雇用主ポルディ製鉄工場の本拠地であった。

コリーン
Kolin)は、チェコの中央ボヘミア州に位置する町。首都プラハから東に55km、エルベ川に面する。2005年春、市街の北端にトヨタ・プジョー・シトロエン・オートモービルの合弁工場が建てられた。現在は3000人が働き、一年で30万台の自動車を生産している。

ロヴォシツェ
Lovosice)は、チェコ西部のボヘミアの北部にある小さな町。交通の要衝で、ラーベ川に貨物港があるだけでなく、プラハとドイツとをむすぶD8高速道路やプラハからドレスデンに至る高速鉄道も通っている。化学や食品などの工業が盛ん。

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ナーホト
Nachod)は、チェコ、フラデツ・クラーロヴェー州の都市。円形の塔と邸宅からなるナーホト城は、13世紀にナーホト出身のフロン家が築いた。1544年に城を購入したジクムント・スミルツキがルネサンス様式で改修した。1632年から、城主である神聖ローマ帝国の将軍オッターヴィオ・ピッコロミーニが城をバロック様式に改造した。


ブドヴァル
ブドヴァルはチェコ・南ボヘミア州のチェスケー・ブジェヨヴィツェ市で作られるビール銘柄「ブドヴァイゼル」(Budweiser)の1ブランド(ブドヴァイゼル・ブドヴァルでブジェヨヴィツェ・ブドヴァル国営会社が製造・販売している。中世よりチェコではビールの製造が盛んで、ラガービールの最も有名な種類である「ピルスナー」はチェコのピルゼン(プルゼニュ)地方で作られたことに由来する。

ピルスナー・ウルケル
Pilsner Urquell)はチェコのプルゼニ(ピルゼン)で1842年から生産されているビールである。現在はSABミラーがピルスナー・ウルケルのブランドを所有しており、SABミラーはポーランド[2]やロシアでもピルスナー・ウルケルの生産を行っている。


チェスキー・クルムロフ
Cesky Krumlovは、チェコ・南ボヘミア州の小さな都市。クルムロフ城を含む優れた建築物と歴史的文化財で知られる。クルムロフは「川の湾曲部の湿地帯」を意味し、ドイツ語のKrumme Aueをその語源とする。チェスキー・クルムロフは、重要な文化の中心地である。いくつものフェスティヴァルやイベントが毎年開催される。最もよく知られているのは、6月の夏至の週末に開催される五弁のバラの祭典(the Five-Petalled Rose Festival)である。この際には、下町は歩行者天国になり、職人、芸術家、音楽家、地元の人々が中世の扮装をして、中世の町に模様替えした街頭へ繰り出す。ジョスト、フェンシング、伝統ある民俗舞踊などの多種な催しがされ、城、地元の公園、河岸などで民俗劇が上演される。

ホドニーン
ホドニーンの地にスラヴ人の城が建てられたのは10世紀である。1169年に初めて地名が記され、1228年にはボヘミア王国の王立都市となった。16世紀のホドニーンは、レイパ領主の領地で、多数をプロテスタント住民が占めていたが、白山の戦い後にカトリックへの再改宗が進められた。


ヴィシェグラード・グループ
ヴィシェグラード・グループまたはヴィシェグラード4か国は、中央ヨーロッパの4か国による地域協力機構。ヴィシェグラード諸国と表現されることもある。ヴィシェグラード・グループは、1991年2月15日にチェコスロバキア、ハンガリー・ポーランドの3か国がハンガリーの都市ヴィシェグラードで首脳会議を開いたときに組織された。首脳会議では、ヨーロッパ統合のプロセスを促進するために3か国で協力機構を設立することが決められた。チェコスロバキアが解体したのち、チェコとスロバキアがグループのメンバーとなった。この4か国は2004年5月1日にそろって欧州連合に加盟した。


プラハの春
1968年に起こったチェコスロヴァキアの変革運動。ソビエト連邦軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入のみを取り上げた場合はチェコ事件という。軍事介入によって改革目標の多くが頓挫する中、唯一実現されたのが連邦制の導入だったことは、少なからずチェコとスロヴァキアの間に亀裂を生じさせた。つまり民主化・自由化を犠牲にして連邦化という民族的利害の実現を優先させたという意識がチェコ人の改革派で持たれるようになった。この意識は、スロヴァキア人のフサークが「正常化」路線を推し進め、改革派やそのシンパに対する弾圧を強化し、経済資源を重点的にスロヴァキアに配分し、その工業化を進めたことによってさらに強まった。

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国名
英語での公式名称は Czech Republic(チェク・リパブリック)。チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。 プラハを中心とした “Cechy”(チェヒ・ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava”(ラテン名・モラヴィア)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko”(シレジア)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。


1.面積:78,866平方キロメートル(日本の約5分の1)
2.人口:1,052万人(2010年)
3.首都:プラハ
4.民族:チェコ人94%、その他スロバキア人、ロマ人等(2001年)
5.言語:チェコ語
6.宗教:カトリック26.3%、無信仰58.3%(2001年)
7.祝日:4月中(イースター・マンデー。年毎に異なる)、5月8日(戦勝記念日)、7月5日(ツィリルとメトディウスの日)、7月6日(ヤン・フスの日)、9月28日(チェコ国体記念日)、10月28日(独立記念日)、11月17日(自由と民主主義のための闘争の日)

9世紀 大モラビア帝国成立
10世紀 大モラビア帝国滅亡、ボヘミア王国成立
1620年 ハプスブルク帝国の支配下に
1918年 第一次世界大戦後、チェコスロバキア共和国成立
1938年 ミュンヘン協定により、チェコスロバキア共和国崩壊
1939年 ボヘミア・モラビア地方はドイツの保護領に
1945年 第二次世界大戦後、独立回復
1948年 共産主義体制確立
1968年 「プラハの春」事件
1989年 民主革命(「ビロード革命」)により共産主義体制が終結
1993年 スロバキアと平和裡に分離・独立

■主要産業:機械工業、化学工業、観光業

■主要貿易品目(1)輸出 電気機器、自動車及び関連機器、機械類(2)輸入 電気機器、機械類


チェコ・コルナ
ISO 4217コードはCZK。チェコ国内ではKcと表記される。補助通貨は Haler(ハレル/ハレシとも)で、1コルナは100ハレルになる。1989年のビロード革命により社会主義体制が終焉し、翌1990年には国名もチェコスロバキア社会主義共和国からチェコおよびスロバキア連邦共和国と変わったあとも、通貨は社会主義時代のチェコスロバキア・コルナが使われ続けていた。しかし、1993年1月のビロード離婚により、チェコとスロバキアは連邦を解消し分離したため、急いで両国の独立した通貨が発行されることになった。これが現在のチェコ・コルナである。

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■経済
オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリー等と並んで高い水準を維持している。


北大西洋条約機構
北大西洋条約に基づき、アメリカ合衆国を中心とした北アメリカ(=アメリカ合衆国とカナダ)およびヨーロッパ諸国によって結成された軍事同盟。略称は頭字語が用いられ、英語圏などでは NATO、ロマンス系諸言語圏(仏・伊・西・葡・ルーマニア等)では OTANと呼ばれる。

欧州連合
欧州連合の基本条約である欧州連合条約の正文は23言語で作成されており、そのため欧州連合の正式名称は23言語で表記される。略称としては、英語などでの表記の頭文字をとった EU があり、日本語圏においてもこの略称を使うことが多い。

経済協力開発機構
Organisation for Economic Co-operation and Development, OECD、は、ヨーロッパ、北米等の先進国によって、国際経済全般について協議することを目的とした国際機関。本部はパリに置かれ、公用語は英語とフランス語。「先進国クラブ」とも呼ばれる。


ビロード革命
Velvet Revolutionとは、1989年11月17日にチェコスロバキア(当時)で勃発した、共産党支配を倒した民主化革命である。この革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。

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ビロード離婚
ビロード離婚(ビロードりこん)とは、チェコとスロバキアの両共和国によって1993年1月1日に実施されたチェコスロバキア連邦共和国の連邦制解消を指して主に西側メディアが名付けた通称である。チェコスロバキアの共産党政権が倒れた1989年11月17日の民主化革命に続いて、連邦解消時にもユーゴスラビア紛争のような武力衝突を免れたことから、チェコスロバキアの民主化を「滑らかな布」にかけて「ビロード革命」と呼んだことにちなんで西側メディアが離婚に見立てて名付けたものである。


プラハの春
1968年に起こったチェコスロヴァキアの変革運動。1967年に入ると、第4回チェコスロヴァキア作家同盟大会において、パヴェル・コホウト、ミラン・クンデラ、イヴァン・クリーマといった作家たちが党批判を行った。また10月末には、プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモを行い、党指導部がこれを警察隊によって鎮圧する事態に発展した。

二千語宣言
1968年のチェコスロヴァキア改革運動、いわゆる「プラハの春」を象徴する文書のひとつ。4月の『行動綱領』が党による改革の指針であるのに対して、『二千語宣言』は市民社会側からの改革への支持・期待の表明であった。起草者は、作家のルドヴィーク・ヴァツリーク。エミール・ザトペックやベラ・チャスラフスカをはじめとする著名人が名を連ね、1週間たらずで3万人以上の市民が署名した。

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チェコ社会民主党
中欧地域に位置するチェコ共和国における政党で、、社会民主主義を志向する中道左派政党である。欧州各国の社民主義政党が参加する欧州社会党と、社民主義政党の国際組織である社会主義インターナショナルにも参加している。

市民民主党
1991年、市民フォーラムから分離する形で結党。1992年の国民評議会選挙で第一党となり、連邦レベルでは民主スロバキア運動と連立政権を発足させ、チェコスロバキア連邦の解体を主導した。


ヤン・ネルダ
Jan Nepomuk Neruda, 1834年7月9日 - 1891年8月22日は、チェコのジャーナリストであり、19世紀のチェコを代表する作家、詩人。ヤン・ネルダは、プラハのマラー・ストラナ(小地区)と呼ばれる地区に食料品屋の子として生まれた。哲学と文献学を学んだ後、1860年まで教師として働き、またフリーのジャーナリスト、作家でもあった。結婚はしなかったが、作家であるカロリナ・スヴェトラと非常に親しい関係にあった。19世紀は、チェコの民族運動が育っていった時代であるが、ネルダもその誕生に貢献した。

フランツ・カフカ
フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、常に不安と孤独の漂う、夢の世界を思わせるような独特の小説作品を残した。

ベドルジハ・スメタナ
チェコの作曲家・指揮者・ピアニストであり、「ヴルタヴァ」(モルダウ)を含む一連の6つの交響詩から成る『わが祖国』(Ma Vlast)が特に知られる。ドイツ語名Friedrich Smetanaでも知られる。スメタナは1824年3月2日、ボヘミア北部のパルドゥビツェ州リトミシュル(Litomysl、ドイツ名:Leitomischl)でビールの醸造技師の息子として生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを学び、家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団で演奏していた。父親の抵抗にも拘らず、音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナは、ある貴族の家の音楽教師の座を獲得し、1848年には、作曲家フランツ・リストからの資金援助を受け、彼自身の音楽学校を設立した。

イジー・トルンカ
イジー・トルンカ(Jiri Trnka、1912年 - 1969年)はアニメーション監督、人形作家、絵本作家である。チェコのプルゼニュ出身。チェコを代表する人形アニメ監督である。トルンカの手によって産み出された作品はカンヌ映画祭で最優秀賞映画賞を受賞するなど、国際的な評価を得ており、人形アニメの第一人者として知られる。また多くの弟子を育成しており、日本人では川本喜八郎が単身チェコに渡り師事している。

ヤン・シュヴァンクマイエル
ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Svankmajer、男性、 1934年9月4日 - )は、チェコスロバキア・プラハ生まれのシュルレアリストの芸術家、アニメーション作家・映像作家、映画監督。初期の表記にはシュワンクマイエルなども。1934年にプラハで、陳列窓の装飾家である父と裁縫婦の母に生まれた。1954年にプラハの工芸高等学校を卒業し(高校在学中にシュルレアリスムに触れた)、チェコ国立芸術アカデミー演劇学部人形劇科に入学した。ここでいくつかの演劇作品に関わった。1958年から1960年まで兵役についたあと、シュルレアリストとして知られるエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーと結婚。その後仮面劇や人形劇の仕事を続け、またこのころからオブジェの制作を始めた。

ヴァーツラフ・クラウス
(Vaclav Klaus, 1941年6月19日 - )は、チェコ共和国第2代大統領(2003年-)、政治家、経済学者。プラハ生まれ。1963年に対外貿易専攻でプラハ経済大学を卒業した後、イタリア(1966年)およびアメリカ合衆国(1969年)留学を経て、チェコスロヴァキア科学アカデミー経済研究所研究員となる。1970年、政治的理由のため、チェコ国立銀行に左遷。1988年、科学アカデミー予測研究所指導科学職員。

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ベルナルト・ボルツァーノ
(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano,1781年10月5日 - 1848年12月18日)は、チェコの哲学者、数学者、論理学者、宗教学者。ライプニッツの哲学に影響を受け、反カント哲学の立場から、客観主義的な論理学や哲学を打ち立てた。その成果は、フランツ・ブレンターノやエトムント・フッサールらに影響を与えた。プラハ大学でカトリック神学、数学、形而上学、物理学を学び、ライプニッツやクリスティアン・ヴォルフらの哲学に興味を持つ。その後、カント研究にも勤しむ。生前はその業績はほとんど評価されなかった。数学の分野では、遺著『無限の逆説』は、その後、実無限概念の発展に寄与した[3]。解析学の分野では「ボルツァーノ=ワイエルシュトラスの定理」など、彼の名が冠される定理をいくつか残している。

カレル・チャペック
(Karel Capek, 1890年1月9日 - 1938年12月25日)は、チェコの作家、劇作家、ジャーナリスト。兄は、ナチス・ドイツの強制収容所で死んだ画家・作家のヨゼフ・チャペック。大戦間のチェコスロバキアで最も人気のあった国民的作家。戯曲『ロボット(R.U.R.)』において、「労働」を意味するチェコ語: robota (もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット という言葉を作ったと言われるが、彼自身は兄ヨゼフが作った言葉だと主張している。代表作『R.U.R.』『山椒魚戦争』はSFの古典的傑作とされている。

ミラン・クンデラ
(Milan Kundera、1929年4月1日 - )は、チェコ生まれのフランスの作家。ブルノ生まれ。プラハの音楽芸術大学 (AMU) 卒業。1963年発表の短編集『微笑を誘う愛の物語』で本格的な創作活動に入る。1967年に発表した共産党体制下の閉塞した生活を描いた長編小説『冗談』でチェコスロバキアを代表する作家となり、当時進行していた非スターリン化の中で言論・表現の自由を求めるなど、政治にも積極的にかかわるようになった。

ヤン・パトチカ
(Jan Patocka, 1907年6月1日-1977年3月13日)は、チェコの哲学者。東ボヘミアのトゥルノフに生まれる。1928年、パリのソルボンヌ大学に留学。1932年、カレル大学を卒業。ベルリンとフライブルクに留学し、フッサールやハイデッガーに学ぶ。1936年、カレル大学に提出した教授資格請求論文『哲学的問題としての自然的世界』を出版。1939年、ナチスのチェコスロバキア侵攻によって大学が閉鎖され、解職される。1945年、大学に復帰するが、1948年のチェコスロバキア共産党のクーデターによって再び解職。

トマーシュ・マサリク
Tomas Masaryk, 1850年3月7日 - 1937年9月14日は、チェコの社会学者・哲学者・政治家で、チェコスロヴァキア共和国の初代大統領(在任:1918年 - 1935年)。1850年、モラヴィアのホドニーンの労働者階級の家庭に生まれた。当時モラヴィアはオーストリア・ハンガリー帝国のオーストリア領内にあり、現在はチェコ共和国の領土となっている。マサリクは若い頃鍛冶屋として働いていた。マサリクはブルノ、ウィーン、ライプツィヒで研究をして、1882年にプラハ大学の哲学教授に任命された。翌年にマサリクはチェコ文化のための雑誌を出版、またオットー百科事典の編纂にも加わった。

カレル・チャペック
Karel Capek, 1890年1月9日 - 1938年12月25日は、チェコの作家、劇作家、ジャーナリスト。兄は、ナチス・ドイツの強制収容所で死んだ画家・作家のヨゼフ・チャペック。大戦間のチェコスロバキアで最も人気のあった国民的作家。戯曲『ロボット(R.U.R.)』において、「労働」を意味するチェコ語: robota (もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット という言葉を作ったと言われるが、彼自身は兄ヨゼフが作った言葉だと主張している。代表作『R.U.R.』『山椒魚戦争』はSFの古典的傑作とされている。

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ボフミル・フラバル
(Bohumil Hrabal,1914年3月28日 - 1997年2月3日)はチェコの小説家。共産党体制下の検閲によって作品の出版を禁じられながら、粘り強く執筆を続けたことで知られる。ミラン・クンデラ、ヨゼフ・シュクヴォレツキーと並んで、20世紀後半のチェコ文学の代表者の一人と目されている。代表作には『あまりにも騒がしい孤独』『断髪式』『わたしは英国王に給仕した』などがある。

マックス・ヴェルトハイマー
(Max Wertheimer, 1880年4月15日 - 1943年10月12日)は心理学者。ゲシュタルト心理学の創始者の一人。しばしば、マックス・ウェルトハイマーと表記。チェコのプラハでユダヤ系の子として生まれる。ベルリン大学で心理学を学ぶ。ウィーンからラインラントに向かう汽車の中偶然、仮現運動の発想(ゲシュタルト心理学の原点)をひらめく。そして、フランクフルトで途中下車をして、フランクフルト大学で同じユダヤ系のクルト・コフカと非ユダヤ系のヴォルフガング・ケーラーとともに実験を行った。

ミレク・トポラーネク
(Mirek Topolanek, 1956年5月15日 - )はチェコの政治家。同国首相。中道右派の市民民主党に所属し、2002年11月に、のちに大統領に選出されるヴァーツラフ・クラウスの後を受けて同党党首となる。2009年3月24日に下院で不信任決議の可決されたことにより、同年5月8日に首相を辞任した。

ペトル・チェフ
1982年5月20日 - は、チェコ、プルゼニ出身の同国代表のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。2001年夏に移籍金70万ユーロ(約9200万円)で同国の名門・ACスパルタ・プラハへ移籍。チェフは移籍後すぐにポジションを射止めると、リーグではもちろん、UEFAチャンピオンズリーグでもスパルタ・プラハの堅守に貢献し、グループリーグで前年覇者のバイエルン・ミュンヘンを完封するなどの活躍を見せた。

マルタ・クビショヴァー
(Marta Kubisova、1942年11月1日 - )はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェ出身の歌手。1960年代から音楽活動を開始する。プラハの春およびワルシャワ条約機構軍による軍事侵攻があった1968年に、ズデニェック・リティーシュ作詞によるチェコ語でカヴァーしたビートルズの"Hey Jude"で知られる)

カレル・ローデン
(Karel Roden 1962年5月18日 - )は、チェコの俳優。チェスケー・ブジェヨヴィツェ出身。祖父の代からの俳優一族に生まれ育つ。プラハ芸術アカデミーに学ぶ。『15ミニッツ』以降、ハリウッド映画への出演も増えたが、現在もプラハに在住している。ハリウッド映画では、ロシア人など東欧系の悪役を演じる事が多い。

ヨゼフ・チャペック
Josef Capek, 1887年3月23日 - 1945年4月はチェコの画家、作家。オーストリア=ハンガリー帝国のボヘミア地方(後にチェコスロバキアを経てチェコ共和国)・フロノフに生まれる。チェコの国民的作家であるカレル・チャペックの実兄として知られるが、13歳で学業のため家族と離れ、20歳でカレルと再会して以降は画家としての活動に留まらず、カレルとの共著で多くの舞台劇や短篇の物語(主に児童書)、批評文を執筆したり、また、カレルの著作を含めた多くの書籍の装丁や挿絵を手がけた。「Lidov Noviny 紙」に入社して紙面の風刺漫画を担当したが、ナチズムとアドルフ・ヒトラーに対する際どい批判により、ドイツがチェコスロバキアに侵攻した1939年に逮捕・収監され、1945年4月、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で亡くなった。

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ヨハン・ロシュミット
(Johann Josef Loschmidt、1821年3月15日 カールスバート近郊プチルン Putschirn(現チェコ・ポチェルニ Počerny)- 1895年7月8日)は、オーストリアの化学者、物理学者である。1872年からウィーン大学で物理化学の教授を務めた。研究分野は熱力学、電気力学、光学、結晶におよぶ。ロシュミットは、1856年気体分子の大きさを求めた。1861年ベンゼンの構造を有名なケクレに先駆けて発見した。1865年にアボガドロ定数の計算を行ったので、ドイツ語圏の国では、現在もアボガドロ数をロシュミット数と呼ぶことがある。または0℃、1気圧の1cm3の体積に含まれる分子の数をロシュミット数(NL=2.6869×1019個/1cm3と呼ぶ。

ヤロミール・ヤーガー
(Jaromir Jagr、1972年2月15日 - )はチェコスロバキアクラドノ出身のアイスホッケー選手。1990年ピッツバーグ・ペンギンズよりドラフト一巡目、全体5位で指名を受ける。 1990-91シーズンにNHLデビューを果たし、80試合に出場し27ゴール30アシストを記録する。オリンピックではチェコ代表として長野オリンピックで金メダル、トリノオリンピックで銅メダルを獲得している。背番号の『68』は移籍されても変わることがないが、これは祖父がなくなった原因でもあるプラハの春を忘れないようにつけられたもの。

ヨゼフ・スデック
(Josef Sudek, 1896年3月17日-1976年9月15日)は、戦間期を主として活躍し、「プラハの詩人」と呼ばれたチェコ出身の写真家である。第一次世界大戦へ出兵中に右腕を負傷し、のち失うこととなる。1920年代に写真家として活動をはじめる。その作品は、広告写真を写真家としての活動の皮切りとしているも、プラハの町を撮影対象とした、風景写真、都市写真がほとんどを占める。代表作としては、第二次世界大戦下、ナチにより撮影活動が制限されたことを受けて、主として自身のアトリエの窓からの眺めを撮影した作品をまとめた、「スタジオ(アトリエ)の窓辺より」というシリーズがある(1940年代)。

ベラ・チャスラフスカ
Vera Caslavska 1942年5月3日- )はチェコスロバキア、プラハ出身の体操選手。1964年の東京オリンピックで、チャスラフスカは人気選手となる。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられた。彼女は1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入、プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。

ヤン・コレル
(Jan Koller, 1973年3月30日 - )は、チェコ、スメタノヴァ・ルホタ出身の元同国代表サッカー選手(フォワード)。身長202cmの長身を生かし、得点源として活躍し始めたのは1996年にベルギー・ジュピラーリーグのロケレンへ移籍してからで、1998-99シーズンには27得点を挙げて得点王に輝き、1999年にはアンデルレヒトへ移籍すると同時に同年のチェコ最優秀選手にも選ばれた。

トマーシュ・ロシツキー
(Tomas Rosicky, 1980年10月4日 - )はチェコ・プラハ出身の同国代表、プレミアリーグ、アーセナルFC所属のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。チェコ代表ではキャプテンを務める。各年代の代表を経た後、2000年2月23日のアイルランド代表戦でA代表デビュー。同年に開催されたEURO2000にも出場した。

ハナ・マンドリコワ
(Hana Mandlíkova, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会女子シングルス「4勝」を挙げた名選手である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス7位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス19勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。

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ヤナ・ノボトナ
(Jana Novotna, 1968年10月2日 - )は、チェコ・ブルノ出身の元女子プロテニス選手。1998年のウィンブルドン選手権女子シングルス優勝者である。サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、ネット・プレーと片手打ちのバックハンド・スライスも得意であった。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス1位。10代で活躍する早熟選手が多い女子プロテニス界にあって、遅咲きの名選手としても貴重な存在だった。

 

アントン・シンドラー
(Anton Felix Schindler, 1795年6月13日  - 1864年1月16日 ボッケンハイム Bockenheim)は、モラヴィア出身のドイツの音楽家であり、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの伝記を記したことで知られている。法律家を目指してウィーンにやってきたシントラーは1823年頃からベートーヴェンの秘書を務めるようになった。当初はあまり信用されていなかったようであるが(弟のヨハンや甥のカールに宛てた手紙には「あの軽蔑すべき男」、「彼の悪い、狡智に長けた性格」と記している)、病苦に苛まれ、身寄りのいなかったベートーヴェンの身の回りの世話を一手に引き受けていた。

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