freedom

ブルガリア共和国
Republic of Bulgaria

ヨーロッパ

<ブルガリアの歴史> 
■古代
いまのブルガリアにあたる地域には古代にはトラキア人が居住していた。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服され、ギリシア化した。さらに、紀元前1世紀にはローマの属州となった。

■中世のブルガリア
ローマの衰退にともないゲルマン民族のゴート人がこの地域に侵入。続いて遊牧民族のアヴァール人が侵入してきた。そして6世紀までにはスラヴ人(南スラヴ人)が居住。これをテュルク系のブルガール人が征服にて681年にブルガリア帝国を建国した。トドル(のちのペタル2世)とアセン(のちのアセン1世)という二人の兄弟が、1187年に東ローマ帝国から独立を果たした。都をタルノヴォ(現ヴェリコ・タルノヴォ)に定め、ブルガリア人のほか周辺民族も統治下においた。

■近代のブルガリア
19世紀に民族主義の気運が高まり、1853年のクリミア戦争ではロシア軍の諜報員や軍事顧問が数多く派遣されて情報組織がつくられた。しかし、バルカン半島の戦線が早々に膠着した上に主要大国が敵対あるいは中立するかたちとなったためロシア軍の支援が得られず組織も目立った成果を挙げることなくオスマン帝国の弾圧にあって崩壊。

■第一次世界大戦〜戦間期
大戦後の議会選挙では農民同盟と共産党が勢力をのばし、農民同盟のアレクサンドル・スタンボリスキが首相となった。スタンボリスキは農地改革などを推進したが、1923年の軍事クーデタにより失脚、殺害された。このクーデタにより成立したツァンコフ政権を国王ボリス3世は容認、その後は農民同盟と共産党に対する弾圧が行われた。

■第二次世界大戦から冷戦、民主化
1989年11月10日にはジフコフ共産党書記長は辞任。これを受けて非共産主義勢力の活動が活発となり市民団体が組織された。そして11月18日には環境保護と情報公開を求める市民団体が首都ソフィアのアレクサンデル・ネフスキー広場で集会を開催。5万人を越す民衆で広場は埋め尽くされた。集会では35年間にわたるジフコフ政権への不満と批判が噴出、さらに共産党1党独裁の放棄、複数政党制の導入、言論出版の自由、集会の自由、自由選挙の実施が叫ばれ、参加者も拍手でそれに呼応した。翌月には反体制同盟「民主勢力同盟」が発足し、共産党独裁体制は崩壊した。


■地理
ブルガリアはトラキア、モエシア、マケドニアなどの古くからの地方で構成されている。国土の三分の一を山岳地帯が占め、バルカン半島の最高峰であるムサラ山(標高2,925m)がある。


バルカン半島
Balkan、は、ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。

バルカン山脈
バルカン半島東部の山脈である。山脈は、ブルガリアとセルビアの国境をなすヴルシュカ・チュカ峰から東に560キロメートルにわたって延び、黒海岸のエミネ岬まで続いている。山脈はバルカン半島の名前の由来ともなっている。バルカン山脈は、ブルガリアの歴史の中で重要な役割を果たしてきており、ブルガリアとブルガリア人の形成と発展に大きく関与している。

ロドピ山脈
ギリシア東部からブルガリア南部への国境沿いに広がる山脈。全長289km、平均標高は896mで、最高峰はムーサラ山(標高2925m)。針葉樹林に覆われ、タバコ・果樹栽培、牧畜が盛ん。

黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。バルカン半島、アナトリア半島、カフカースと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、グルジアである。

シプカ峠
Shipchenski prohodは、ブルガリアのバルカン山脈(スターラ山脈)を越える景色の良い峠である。その峠は、ドナウ川に面するルーセからスタラ・ザゴラへ、さらにトルコのエディルネへと至る道の途中にある。峠の最高地点は、1,150 m (3,820 ft) ある。

オスム川
Osam、あるいはオサム川は、ブルガリア北部を流れる河川である。その流域は、北は水源のバルカン山脈(スタラ・プラニナ)から南は河口のドナウ川にかけてであり、西にはヴィト川(Vit)、東にはヤントラ川(Yantra)の水系と隣り合っている。

アゾフ海
黒海北部にある内海で、ケルチ海峡によって黒海と結ばれている。北はウクライナに接し、東のロシア連邦領タマン半島と西のウクライナ領クリミア半島に挟まれている。西岸には110kmにわたり、アラバト・スピット(堆積物が海中に突起したもの)が広がり、腐海には塩分濃度の高い湿地帯の入り江がある。

スレドナ・ゴラ山脈
Sredna Gora)は、ブルガリア中部の山脈である。バルカン山脈(スタラ・プラニナ)の南に平行して、西はイスクル川(Iskar)から、東はヤンボルの北のトゥンジャ川(Tundzha)が南に折れ曲がるところまで285キロメートルにわたって続いており、幅は最大で50キロメートルに達する。


バラの谷
Rozova dolina)は、ブルガリア中部の地域で、中央バルカン山脈のすぐ南にあり、同山脈とスレドナ・ゴラ山脈にはさまれた一帯を表す。渓谷は、バラの生産地として良く知られており、バラはこの地で数世紀にわたって栽培され続けてきた。ブルガリアはトルコと共に、香水に使われるローズオイルの世界最大規模の生産地の一つである。


トラキア
Trakyaは、バルカン半島東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。紀元前6世紀頃からトラキア地方にはギリシア人の植民都市が建設されたが、ペルシアのアケメネス朝が領域を広げると大部分はその支配下に入った、紀元前4世紀に西のマケドニア王国によって征服された。その後、一時独立を回復するも、南部は共和政ローマに支配され、ほぼ現在のブルガリアに含まれる北部もローマ帝国、東ローマ帝国の支配を受けた。

モエシア
Moesia)は古代ローマの属州であり、現在のセルビアとブルガリアの領域に位置した。この地域の住民は主にトラキア人とイリュリア人であった。地名は、当地に住んでいたトラキア人のモエシ族(Moesi)に由来する。

マケドニア
東ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的な地域。67,000km2ほどの広さにおよそ465万人が住み、中心的な都市は南東部にあるギリシャ領のテッサロニキ(サロニカ)である。


ブルガール人
(Bulgar)は、中世の東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民である。人種はかつてモンゴロイドに属していた。広い地域に分散した彼らのうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人ともいう。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。

アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。

アルーマニア人
バルカン半島南部一帯に住む民族。主に北部ギリシャ、アルバニア、マケドニア、セルビア、ブルガリアなどに200万人ほどが居住しているとみられる。中世東ローマ帝国時代には「ヴラフ人」(Vlachs)と称していた。

トルコ人
アナトリア半島とバルカン半島、アラブ諸国の一部に居住し、イスタンブル方言を公用語・共通語とするトルコ語を話すテュルク系の民族である。アゼルバイジャン人やトルクメン人とは民族的に親近関係にある。

ロマ
(Roma)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。


大ブルガリア
Velika Balgariyaはブルガリアの歴史的領域、および現代のブルガリアにおける民族統一主義、民族主義運動で、ドナウ川からバルカン山脈(スタラ・プラニナ)までの平原、南北ドブルジャ、ソフィア周辺、モラヴァ山地のピロト(Pirot)、ヴラニェ(Vranje)北トラキア、東トラキアの一部、マケドニア地域のほぼ全域をブルガリアの本来の領土とするものである。


大ブルガリア公国
Knyazhestvo Bulgariaは、1878年3月に露土戦争の講和条約として結ばれたサン・ステファノ条約によって、ブルガリアに成立した公国。ロシア帝国からの影響が強く、この新たな国家はロシアの地中海への南下政策を容易にするものであったためイギリス、オーストリアの反発を招き、事態の収拾を図ったドイツが主催したベルリン会議の結果、ベルリン条約によって大きく領土を縮小された。


ブルガリア帝国
現在のブルガリアを中心にバルカン半島の東部を支配したブルガリア人の帝国である。原住地の中央アジア西部を経てアゾフ海沿岸付近の広大な草原地帯から移住してきたテュルク系遊牧民のブルガール人によって建設された第一次ブルガリア帝国(681年 - 1014年)のもとでキリスト教を受け入れ、支配者のブルガール人と現地の南スラヴ人とが一体化してブルガリア人を形成、第二次ブルガリア帝国(1187年 - 1396年)のもとではイヴァン・アセン2世の時代に最大版図を実現したが、14世紀にオスマン帝国の度重なる侵略を受け、同世紀の終わりまでに併合し尽くされて消滅した。

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第一次ブルガリア帝国
First Bulgarian Empireは、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパの帝国。10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。

第二次ブルガリア帝国
Second Bulgarian Empireは、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。

ブルガリア王国
Kingdom of Bulgariaは、1908年10月に大ブルガリア公国の大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を称することで誕生したブルガリアの王国。君主号のツァールは皇帝の意味も持つため、第一次ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国に次ぐものとして第三次ブルガリア帝国とも呼ばれる。


サン・ステファノ条約
1877年の露土戦争の講和条約。イスタンブル西方の村・サン・ステファノにおいて1878年3月3日にロシア帝国とオスマン帝国のあいだで結ばれた。


第一次バルカン戦争
1912年10月から1913年5月まで行われ、オスマン帝国に対するバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)の戦争である。バルカン連合軍は兵員数で劣勢で戦略的にも劣勢なオスマン軍に勝利し、迅速な成功を成し遂げた。戦争の結果、欧州に残るオスマン帝国の領地は殆ど連合軍の手中に収められた。続いてアルバニアの独立にも結び付いた。成功にもかかわらずブルガリアは和平とオスマンの脅威が去ったことで不満を持ち、まもなく第二次バルカン戦争を始め、今度は第一次バルカン戦争の連合軍と闘うことになった。

第二次バルカン戦争
1913年6月29日にブルガリアはギリシャとセルビアに侵攻し、テッサロニキ、マケドニアを攻撃した。しかし、すでに対ブルガリアでギリシャとセルビアが秘密同盟を結んでおり、すぐに反撃する。それに乗じてモンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国もブルガリアに宣戦布告した。この結果、ブルガリアがバルカン諸国全てを敵にまわし孤立無援となった。7月30日にはブルガリアは休戦を求め8月にはブカレスト講和会議が開催された。


ヴァルナの戦い
1444年11月10日に、現在のブルガリア、ヴァルナ近郊で起きた戦闘。オスマン帝国のスルタン・ムラト2世軍が、キリスト教国連合軍を敗退させた。ハンガリー王国が組織したヴァルナ十字軍最初の戦いであった。


<世界遺産>
ボヤナ教会
この教会の世界的な知名度は、主として1259年に遡るフレスコ画に負っている。それらは元来、より早い時期に描かれていたフレスコ画の上に上書きされたものであるが、東ヨーロッパの中世美術のなかでも、最も完全で保存状態の良いものである。それらの壁画は教会の壁面に描かれており、240人の人物像によって89の場面が展開されている。作者は不明であるが、タルノヴォ派(Tarnovo Art School)の流れを汲む人物と考えられている。

マダラの騎士像
ブルガリア北東部シュメン州のシュメンの東、マダラ高原の崖に刻まれた中世初期の巨大なレリーフである。レリーフは高さ100mの断崖の地上23m付近に刻まれている。騎士は右向きで、馬の足元に横たわるライオンに槍を突き刺している。ワシが騎士の前を飛び、犬が騎士の後ろに従っている。この情景は、象徴的な形で戦勝を描いていると見なされている。

カザンラックのトラキア人の墓地
この墓地は、大規模なトラキア人共同墓地の一部をなしており、狭い回廊と丸い埋葬室とから成っている。この墓地は紀元前4世紀にまで遡るものであり、1979年にはユネスコの世界遺産にも登録された。

イヴァノヴォの岩窟教会
この地方の洞窟群には、後のブルガリア正教会総主教ヨアキムが居を定めた1320年代以降17世紀まで、修道士たちが住むようになっていた。彼らは、僧房、教会群、礼拝堂などを硬い岩から切り出しており、修道院建造物群はおよそ40もの教会群を頂点に戴いていた。その周りには、他の宗教施設用地が300ほどあったが、そのほとんどは現存していない。

古代都市ネセバル
ブルガリアの古代都市であり、現在では海岸沿いのリゾート地となっているブルガス州の町、およびそれを中心とした基礎自治体。トラキア語での名称はメネブリア (Menebria)、現代ギリシャ語ではメシンヴリア (Μεσημβρια、Mesimvria)、かつての名称はメセンブリア (Mesembria) である。ネセバルは3千年紀を超える長い歴史に裏付けられた、豊かな都市博物館である。

リラ修道院
伝承からリラ修道院は、ブルガリア皇帝ペタル1世の統治する時代(927年−968年)に、リラの聖イオアン(イヴァン・リルスキ)が設立したと考えられている。彼は教育を受けるため山脈へやってくる彼の教え子達が修道院を建設していた間、実際にその修道院からそう遠くない洞窟で生活していた。

スレバルナ自然保護区
ブルガリア北部の南ドブルジャ地方、シリストラ州にある厳正自然保護区。シリストラ (Silistra) の西18km、ドナウ川の2km南に位置するスレバルナ村近くにある。ウィア・ポンティカ (Via Pontica) 上のスレバルナ湖(水深は1mから3m)とその周辺を対象とし、ヨーロッパとアフリカの間の渡り鳥の通り道となっている。

ピリン国立公園
地域内が非常に起伏に富んでいることが、ブルガリア国内随一の植物種の多様性をもたらしている。域内の植物相の総調査は、19世紀末から20世紀初頭に行われた。
約1300種の高等植物が確認されているが、これはブルガリア国内の高等植物の30%に当たっている。これに加えて300種ほどのコケ類、多種にのぼる藻類なども観測されている。

スヴェシュタリのトラキア人の墓地
1982年に小さい丘から発見された墓地で、紀元前3世紀に遡る。当時のトラキア人の宗教建築の基本的な構造原理を伝えてくれる遺構である。建築上の装飾では、多彩色の半人半植物女人像の柱(カリアティード)と、彩色された壁画とが、非常にユニークなものとして目を惹く。


ブルガリア正教会
世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。ブルガリア正教会は自身を、唯一、聖、公、使徒教会と不可分の一員であるとし、総主教庁の名の下に自律している。ブルガリア共和国内では13の主教区がり、加えて西欧・中欧・米州・オーストラリアにおけるブルガリア人のための2つの教区がある。


フリスト・ストイチコフ
1966年2月8日-はブルガリア出身のサッカー選手、指導者。選手時代のポジションはフォワードまたはミッドフィールダー。1990年代にFCバルセロナの中心選手の一人としてリーガ・エスパニョーラ優勝などに貢献。ブルガリア代表としても1994年に行われたワールドカップ・アメリカ大会において6得点を挙げ得点王となり同国のベスト4進出(最終成績は4位)に貢献し、バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞。ブルガリア中部にあるプロヴディフ州の州都プロヴディフで生まれる。幼少の頃から活発な性格で、勉強は得意ではなかったが運動能力に恵まれ、小学生時代には陸上競技の学校代表に選ばれ、100m走でブルガリアのチャンピオンとなった経験を持つなど当時ストイチコフを指導した教師から「世界的な陸上競技選手になる」と太鼓判を押されたほどだった。

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ジュリア・クリステヴァ
Julia Kristeva、1941年6月24日 - は、ブルガリア出身のフランスの文学理論家で、著述家、哲学者。ユダヤ系。既に1970年代初めからクリステヴァは、家父長社会の中での女性のアイデンティティの問題を取り上げてきた。その精神分析との思想的な親近性のため、フェミニストの文芸理論家の一部から非難を受けたこともある。それ以前には、その著作がジェンダー研究に多大な影響を及ぼしていた時期もあるが、当時、「フェミニスト的」という呼ばれ方を彼女は頑なに拒絶していた。

ブラゴイ・アレクサンドル・イワノフ
Blagoi Alexandre Ivanov、男性、1986年10月9日 - は、ブルガリア出身のサンボ選手、総合格闘家。SKアブソリュート・ブルガリア/韓国サンボ連盟所属。2008年11月にコンバットサンボ世界選手権でエメリヤーエンコ・ヒョードルに勝利したことから「ヒョードルキラー」という異名を持つ。

エリアス・カネッティ
Elias Canetti, 1905年7月25日 - 1994年8月14日は、ブルガリア出身のユダヤ人作家、思想家。1905年にブルガリアのルスチュク(ルセ)で、スペインから逃れてきたユダヤ人の家庭に生まれる。母語は古いスペイン語だったが、幼くして英語を、次いでフランス語やドイツ語を学んだ。著述においてはドイツ語を用いている。1913年にウィーンに移住し、ウィーン大学で化学を学ぶ。1929年に学位を取得、この頃に代表作である小説『眩暈』(1935)を書き始める。

クリスト
Christo, 1935年6月13日 - は、ブルガリア、ガブロヴォ生まれの美術家。その「作品」は一言で言えば「梱包」である。彼の「梱包」は1958年、日用品の梱包から始まったが、もともとそのころから巨大な建物(後述のライヒスタークなど)や自然や公園の風景全体を梱包するアイデアはあった。1960年代以降、梱包は次第にその規模を巨大化させていく。美術館の建物を丸ごと梱包することにはじまり、オーストラリアの高さ約15メートル、長さ2キロメートルにおよぶ海岸を丸ごと梱包した「海岸の梱包」(1969)など、途方もない作品もある。

マリン・ゴレミノフ
1908年9月29日 - 2000年2月19日は、ブルガリアの作曲家。キュステンディル出身。弁護士の息子で最初は法律を学んだが、後に音楽に転向した。ソフィアで学んだ後、1931年から1934年までパリに留学し、作曲をスコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディとポール・ル・フレムに、エコールノルマル音楽院でポール・デュカスに学んだ。

マリア・ペトロバ
(1975年11月13日 - )は、ブルガリアプロヴディフ出身の元新体操選手。1993年から1995年にかけての世界新体操選手権において、史上2人目の個人総合3連覇を達成。また欧州選手権においても1992年と1994年の2連覇を達成。彼女の活躍によって新体操王国・ブルガリアが、1988年のソウルオリンピック以降続いた、ソ連(ロシア・ウクライナ)勢による王座を奪回することに成功した。

ベセリン・トパロフ
1975年3月15日 - )は、ブルガリアのチェス選手である。 2005年FIDE世界チェス選手権で優勝し、世界チャンピオンとなった。2006年1月のFIDEレーティング・リストにおいて、Eloレーティングは 2801 であり、引退したカスパロフに続いて第2位である。

ボジダル・スピリエフ
Bojidar Spiriev、1923年 − 2010年1月10日)は、ブルガリアのゴツェ・デルチェフ出身の統計学者。国際陸上競技連盟の陸上得点表であるスコアリングテーブルを考案している。

ツヴェタン・トドロフ
1939年3月1日 - )は、ブルガリア出身の思想家、哲学者、文芸批評家。ソフィア生まれ。1963年からフランスで活動。ロラン・バルトの下で、記号学を学ぶ。1967年に『文学と意味作用』を発表、構造主義的文学研究の先駆的存在となる。1965年『文学の理論』編訳で、ロシア・フォルマリズムをフランスに本格的に紹介。

ジュール・パスキン
(Jules Pascin、1885年3月31日 - 1930年6月5日)はブルガリア人の画家。エコール・ド・パリ全盛の1920年代、モンパルナスで華やかな浪費生活をし「モンパルナスの王子」の異名を得た。「パスキン」は、本名のピンカスのアナグラム。ブルガリアのヴィディンに穀物商を営むユダヤ系一家に生まれる。1902年、ヨーロッパや北アフリカ、アメリカなどを旅行。ウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどでデッサンを学ぶ。ミュンヘンで「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として専属契約を結び、早くも素描家として高い評価を得る。

スパルタクス
Spartacus、紀元前109年頃 - 紀元前71年)は、共和政ローマ期の剣闘士で、「スパルタクスの反乱」と称される第三次奴隷戦争の首謀者として知られる人物。スパルタクスはトラキアのマエディ族の出身と伝わる。その名前から稀に間違われることがあるが、スパルタ人ではない。マエディ族はミトリダテス戦争においてポントス王国側の傭兵として参戦していたことから、この過程でローマの奴隷となったと考えられる。

トドル・ジフコフ
Todor Hristov Zhivkov, 1911年9月7日 - 1998年8月5日はブルガリアの政治家。ジフコフはプラヴェツ(Pravets)近くの小さな村の貧しい家庭に生まれた。青年時代に職を求めてソフィアに移り住んだ。そこでマルクス主義者となり、1932年正式にブルガリア共産党に入党し、コムソモールの一員となった。第二次世界大戦時は、ナチス・ドイツに対するレジスタンス運動に加わり、戦後はブルガリア人民軍司令官として帰国した。その後のブルガリアは王制を廃してブルガリア人民共和国となり、事実上ソビエト連邦の衛星国となった。

ゲオルギ・パルヴァノフ
1957年6月28日 - は、ブルガリアの政治家。元同国大統領。1957年6月28日、ペルニク州シリシュトニク村(ペルニク州コヴァチェフツィ自治体)出身。1975年、ペルニク市の数学中学校を卒業。その後、ソフィア大学の歴史学部に入り、1981年に卒業。1988年、歴史学で博士号を取得。

マリア・イリエヴァ
Maria Ilieva)はブルガリアの歌手である。同北部ヴェリコ・タルノヴォ出身で、1980年12月1日生まれである。ミュージシャンの家に生まれ、幼いころからトレーニングを受けていた。本格的なデビューは1990年代の末で、リード・ヴォーカルとしてカッフェと共演したりもした。2001年には初アルバムLunen Cyn (月の夢)をリリース。同タイトルの収録曲「Lunen Cyn」や、ブルガリアのヒットチャートで13週連続1位をマークした「All Right」などの曲がシングルカットされた。

スラヴィ・トリフォノフ
Slavi Trifonovはブルガリア北部プレヴェン出身の芸人、俳優、歌手、ヴィオラ奏者である。深夜番組Slavi's Showの司会を務めている。同番組はトークショーの形式であり、その話題や内容の多くにブルガリアの風味を織り交ぜたものとなっている。トリフォノフはまた、プロのヴィオラ奏者である。1990年代前半にクー・クー・ベンドを結成、1996年には社会党政権を崩壊させた抵抗運動にも参加している。

エシル・デュラン
Esil Dyuran、1969年7月5日 - )は、ブルガリア国籍で民族的にはトルコ人のポップ・フォーク歌手である。ブルガリア国立音楽アカデミーを卒業した後、歌手として活動を始め、ズラトニヤト・オルフェイ音楽祭にも参加している。

ペトコ・スタイノフ
Petko Staynov, 1896年11月19日 - 1977年6月25日)は、ブルガリアの作曲家。スタラ・ザゴラ出身。幼時に失明するが、ドイツに留学してドレスデン音楽院で作曲とピアノを学んだ。1927年から1941年までソフィアの国立盲学校のピアノ教師を務め、そのかたわら1932年から1944年までブルガリア現代音楽協会の議長を務めた。

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アンナ=マリア・ラヴノポルスカ=ディーン
(Anna-Maria Ravnopolska-Dean、は、ブルガリアのハープ奏者、作曲家である。アンナ=マリア・ラヴノポルスカ=ディーンはソフィアに生まれた。彼女はイタリア人の博士でハープ奏者のLiana Pasqualiに学び、後にアメリカに移住して、インディアナ大学で、著名になる前のSusann McDonaldに師事した。

ガリーナ・コレヴァ・イヴァノヴァ
Galina Koleva Ivanova、1978年3月8日 - )は、ブルガリアの女子プロボクサーである。ブルガス出身。元WBC・WBA女子バンタム級世界王者。

ゲオルギ・アスパルホフ
1943年5月4日 - 1971年6月30日)は、ブルガリア、ソフィア出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはFW。1964-65シーズンには27得点を挙げ、ブルガリアリーグの得点王となった。同年、最優秀ブルガリア人選手賞とブルガリア・スポーツパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

ニーナ・ドブレフ
Nina Dobrev、1989年1月9日 - )は、ブルガリアのソフィア出身のカナダの女優、モデル。ブルガリア人民共和国の首都であるソフィアで情報工学者の父親とアーティストである母親の間で生まれた。2歳のときに家族と共にカナダに移住し、主にオンタリオ州トロントで育った。

スタニスラフ・アイエネフスキー
Stanislav Ianevski、1985年5月16日 - )は、ブルガリア共和国ソフィア出身の俳優。代表作は『ハリー・ポッター』シリーズのビクトール・クラム。イギリスの寄宿学校で学び始めて4年が経った頃、廊下で会話をしていた彼の声を、その学校を訪問していたキャスティング・ディレクターがたまたま耳にしたのをきっかけにオーディションを受ける。

テレザ・マリノワ
1977年9月5日-は、ブルガリアの陸上競技選手。2000年シドニーオリンピック女子三段跳の金メダリストである。世界ジュニア陸上選手権で優勝経験のある選手であり、2008年10月現在も世界ジュニア記録(14.62m)を保持している。

ブルガリア Bulgaria
東ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、マケドニア共和国、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。トラキアで紀元前4000年頃のものと思われる黄金製品の遺物を多数持つ遺跡群が確認されており、考古学者の間で新しい「文明」なのではないかと論じられている。

ソフィア
Sofiaは、ブルガリアの首都。ヴィトシャ山のふもとに位置し、ブルガリアの政治・経済・文化・教育の中心地である。2008年の人口は1,346,665人である。ヨーロッパ最古の都市のひとつであり、セルディカ(Serdica)、スレデツ(Sredets)、トリアディツァ(Triaditsa)と呼ばれた。その歴史は7千年以上に及ぶ。有史以前の集落跡が現在のソフィアの中心や王宮の付近、オベリャ、スラティナなどで見つかっている。トラキア人が最も重要視していた、鉱泉の周囲に町を築いた紀元前7世紀にさかのぼる城壁は良いコンディションで保存されている。

ソフィアはかつてはトラキア人の集落であり、セルディカ(Serdica)またはサルディカ(Sardica)と呼ばれていた。おそらくこの呼称はトラキア人の部族セルディ(Serdi)に由来するものと考えられる。紀元前500年ごろ、別の部族オドリュシ(Odrysi)がこの地域に居住していた。彼らは独自の王国(オドリュサイ王国)を持った部族として知られる。


トラキア人
トラキア人は古代の東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族。インド・ヨーロッパ語族に属するトラキア語を話した。古代ギリシアやローマ帝国の文献に現れ、当時のヨーロッパでは有数の人口と勢力を誇ったといわれる。考古学的には多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡で知られる。

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外務省:ブルガリア共和国
在ブルガリア日本国大使館


ヴァルナ
Varnaは、ブルガリア北東部のヴァルナ州西部に位置する中心都市である。2000年代初頭の人口は約35万人である。ヴァルナはブルガリア東部の港湾都市であり、黒海西岸に位置している。ブルガリアの「海の首都」あるいは「夏の首都」の異名を持つ。


ヴァルナ空港
Varna Airportは、ブルガリアのヴァルナにある国際空港。


ブルガス
Burgasは、ブルガリアの黒海沿岸の都市。ソフィア、プロヴディフ、ヴァルナに次ぐ、四番目に人口の多い都市である。ブルガス州の州都であり、当地の工業と交通の拠点である。ブルガス国際空港は、ネセバル等の黒海沿岸のリゾート、景勝地への接続点となっている。

ルセ
Rousse、はブルガリア北部の都市。人口は166 056 人(2010)。ルセ州の州都。ブルガリア第5の都市。ブルガリアの北の国境であるドナウ川に面し、対岸にはルーマニアの都市ジュルジュ (Giurgiu)がある。紀元前3千年紀から紀元前2千年紀にかけてのトラキア人の集落が見つかっている。

スタラ・ザゴラ
Stara Zagora) はブルガリア中南部の都市。地元の商工会議所によれば、8000年の歴史を持つ、ヨーロッパで最も古い町のひとつだといわれている。スタラザゴラはブルガリアでも有名なビールの名前にもなっている。スタラ・ザゴラはブルガリア、そしてヨーロッパ全体で見ても最も古い部類に属する都市であり、紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけてトラキア人によって築かれ、「ベロエ」(Beroe、「鉄」の意)と呼ばれていた。

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ヴィディン
Vidinはブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴィディン州に属し、その州都である。セルビアおよびルーマニアとの国境に程近い。ヴィディンには2つの保存状態の良い中世の要塞パパ・ヴィダとカレト(Kaleto)があり、このほかに多くの古い正教会の聖堂がある。

ヴェリコ・タルノヴォ
Veliko Tarnovoはブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴェリコ・タルノヴォ州の州都である。町はヤントラ川沿いに広がり、第二次ブルガリア帝国の首都として多くの観光資源で知られている。ヴェリコ・タルノヴォはブルガリアでも最古の集落のひとつであり、5千年紀を超える歴史を有する。

ゴルナ・オリャホヴィツァ
Gorna Oryahovitsaはブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴェリコ・タルノヴォ州に属する。ヴェリコ・タルノヴォとドルナ・オリャホヴィツァに隣接している。近隣には、建築物保護区として、中世の要塞や民族復興期の建築物など多くの歴史的建造物が残されているヴェリコ・タルノヴォ市アルバナシ村がある。

スヴィシュトフ
Svishtovはブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。スヴィシュトフは、クラウディオス・プトレマイオスによって築かれた古代ローマの植民地でノヴァエ(Novae)と同定された。この町はローマ帝国による北方の蛮族に対する征伐に利用されてきた。また同地は、短期間の間、テオドリックによる東ゴート王国の首都がおかれていた。

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ヴラツァ
Vratsaはブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴラツァ州に属し、その州都である。ヴラツァの町は絵になるような美しさで知られる。この地方には多くの魅力的な自然の風景が見られ、ブルガリア北西部における休養地である。

プレヴェン
Pleven、は、ブルガリア北部の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プレヴェン州の州都である。ブルガリアで最大の黄金の財宝をはじめとする数多くの考古学的遺物が見つかっており、この地方に長く住んできたトラキア人の豊かな文化を示している。

モンタナ
Montanaはブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。モンタナ周辺の地方は、紀元前29年にローマ帝国の属州である上モエシアとなった。紀元後160年ごろ、かつてトラキア人の集落のあった跡地に帝国の軍事拠点が築かれ、モンタネンシウム(Municipio Montanensium)として都市格を得た。

ドブリチ
Dobrich)はブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ドブリッチとも。ドブリチ州に属し、その州都である。ドブリチはブルガリアで8番目に人口の多い街であり、南ドブルジャ地方の中心都市である。

スリヴェン
Sliven)はブルガリアのスリヴェン州にある都市で、ブルガリアでは8番目に大きな都市である。市の西側は「桃の谷」と呼ばれ、大きな桃畑が含まれている。スリヴェンは鉱泉でも知られ、肝臓の疾患や神経症の治療に用いられている。

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シュメン
Shumen)はブルガリア北東部の都市。シュメンでは紀元前より要塞が築かれていた。トラキア人やローマによっても様々な要塞が築かれている。

ペルニク
Pernik)はブルガリア西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ペルニク州の州都である。20世紀、ペルニクは炭鉱と重工業の町として急速に発展した。ペルニクの炭鉱が開発されるまでの間、石炭はイギリスのカーディフから運ばれてきた。

ハスコヴォ
Haskovo)はブルガリア中南部の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、ハスコヴォ州に属する。考古学的調査によると、ハスコヴォ地域には7千年前から人の居住が確認できる。ハスコヴォとその周辺には、先史時代からのトラキア人、古代ギリシア、古代ローマ、東ローマ帝国の時代の人の居住の痕跡が保存されている。

カザンラク
Kazanlak)はブルガリア・スタラ・ザゴラ州にあり、バルカン山脈麓のカザンラク平原に開けた都市である。カザンラクはブルガリアでは10番目に大きな工業都市で、2006年現在の人口は78,938人である。ローズオイル生産の中心地でもある。

キュステンディル
Kyustendil)はブルガリア西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。キュステンディル州に属し、その州都である。キュステンディルはキュステンディル渓谷南部にあって、ソフィアから90キロメートルである。

ペトリチ
Petrich)はブルガリア南西部、ブラゴエヴグラト州の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ベラシツァ山脈のふもとに位置している。ペトリチは取り囲む山々の景色で有名。

サンダンスキ
Sandanski)はブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。紀元前73年から紀元前71年にかけて反乱を起こしたローマ帝国の奴隷スパルタクスの出身地である。


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カルロヴォ
Karlovo)は、ブルガリア中部の町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、プロヴディフ州に属する。カルロヴォはバラの谷と呼ばれる渓谷にあり、世界的なローズオイルの産地である。この地で育てられたバラから取れるオイルは、香水に使用される。

ヴェリングラト
Velingrad) はブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。パザルジク州に属する。ブルガリアでもっともよく知られる温泉療養リゾートの町である。伝説によると、オルペウスはこの地に住んでいたことがあるといわれている。また、この地でスパルタクスは並外れた力を体得したとも伝えられている。

パナギュリシテ
Panagyurishte)、あるいはパナギュリシュテはブルガリア南西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。1949年12月8日の霜の降る朝、パヴェル、ペトコ、ミハイルのデイコフ兄弟は、パナギュリシテの近くのメルル(Merul)・タイル工場で働いていた。午前10時ごろ、新しい粘土層を掘削しているときに、彼らは珍しい物品を見つけた。現在、これらはトラキア人の宝物として世界的な知名度があり、国立歴史博物館で最も価値のある所蔵品のひとつとなっている。


ガブロヴォ
Gabrovoはブルガリア北西部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ガブロヴォ州に属し、その州都である。ガブロヴォを取り巻く地域は、新石器時代から人が居住しており、12世紀にヴェリコ・タルノヴォが第二次ブルガリア帝国の首都となると、その経済的重要性を増した。首都と、バルカン半島各地を結ぶ交易路に近かったガブロヴォは、職人と交易の街として繁栄した。


ガブロヴォ・ユーモア
Gabrovski Humorは、ブルガリアの都市ガブロヴォに関するユーモアやジョークの総称である。ブルガリアでガブロヴォは、ユーモアの街として知られている。ガブロヴォ・ユーモアに見られるジョークは一般に、ガブロヴォの人々が守銭奴であるとするステレオタイプと、彼らが隣接する街セヴリエヴォに対して有する対抗意識に関連している。20世紀後半、ガブロヴォには「ユーモアと風刺の館」が開設され、国際的なユーモアと風刺の首都を自称している。


■国名
公式の英語表記は Republic of Bulgaria。通称 Bulgaria。日本語の表記はブルガリア共和国。通称ブルガリア。漢字では勃牙利と表記され、勃と略される。


1.面積:11.09万平方キロメートル(日本の約3分の1)
2.人口:757万人(2009年、IMF)
3.首都:ソフィア
4.民族:ブルガリア人(約80%)、トルコ系(9.7%)、ロマ(3.4%)等
5.言語:ブルガリア語
6.宗教:大多数はブルガリア正教(ギリシャ正教等が属する東方教会の一派)。他に回教徒、少数のカトリック教徒、新教徒等

681年 第1次ブルガリア王国成立(〜1018年)
1185年 第2次ブルガリア王国成立(〜1396年)
1396年 トルコによる占領(〜1878年)
1879年 第3次ブルガリア王国成立(〜1944年)
1944年 共産主義政権成立
1946年 ブルガリア人民共和国成立
1989年 共産党独裁体制終焉
1991年 民主的な新憲法採択
2004年 NATO加盟
2007年 EU加盟

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■主要産業:農業(穀物・酪農)、工業(化学・石油化学、食品加工)

■貿易品目(1)輸出 衣服、靴、鋳鉄類、非鉄金属、機械類、石油製品(2)輸入 繊維、原油・天然ガス、機械類、運送設備、プラスチック・ゴム


レフ
1881年から使用されているブルガリアの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)は、BGN。補助通貨単位はストティンカ(stotinka、複数形:stotinki ストティンキ)で、1レフ=100ストティンキ。 1997年よりドイツマルクを基軸通貨とする固定相場制を採用。欧州通貨統合により基軸通貨はユーロとなり、?1=1.95583レヴァ固定。(2009年9月4日現在1レフ=67.97円) なお、現在の1レフは1ドイツマルクに相当する。


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バルカン同盟
Balkan Leagueは、1912年にバルカン半島に属する諸国である、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロの間で結ばれたオスマン帝国に対する同盟。オスマン帝国が弱体化するに伴い、バルカン半島で増加するオーストリアの勢力を押しとどめるためにロシアの主導により締結された。同盟諸国は1912年にオスマン帝国に対し宣戦布告し、バルカン戦争が勃発した。


ブルガリア社会党
Bulgarian Socialist Partyは、ブルガリアの政党。旧ブルガリア共産党の後継政党として、社会民主主義を標榜している。社会主義インターナショナル加盟政党。

ヨーロッパ発展のためのブルガリア市民
ブルガリアの中道右派の政党。2006年12月3日に結成された。公式な党首は、ソフィア副市長を務めたツヴェタン・ツヴェタノフである。しかし、実質的に党を指導しているのは、2005年にソフィア市長に就任したボイコ・ボリソフである。2006年の党結成に先立って、同じGERBの名を持った非営利団体が作られ、後に政党へと改組された。

民主勢力同盟
1989年12月創設。東欧革命でブルガリア共産党政権に反対した11の野党の連合として結成された。翌1990年、さらに6党が参加し、党組織も政党連合から単一政党組織「統一民主勢力」に改変された。UDFは欧州人民党(EPP)に加盟している。

権利と自由運動
Movement for Rights and Freedomsは、ブルガリアの政党。ブルガリア国内の少数民族であるトルコ系住民による中道政党である。権利と自由運動は、国際的には自由主義インターナショナルに加盟している。また、自党を自由主義政党、自党をフィンランドにおける少数民族であるスウェーデン人を代表しているスウェーデン人民党のような政党と規定している。議長(党首)はアフメド・ドアン。


■音楽
ブルガリアの伝統音楽はドブルジャ、ソフィア、ロドピ、ピリン・マケドニア、トラキア、ドナウ川といった地方ごとに特色のあるものである。祝祭日や、結婚式、パーティーなどではブルガリアの伝統音楽をよく耳にすることが出来る。もっとも代表的な伝統音楽のオーケストラは、フィリップ・クーテフの率いるソフィアの国立合唱団であろう。クーテフはこんにちのブルガリア国立放送合唱団を創設した。

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ブルガリアの音楽
ブルガリアは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する国家である。主要民族であるスラヴ系のブルガリア人のほか、トルコ人、ロマ、ポマク、ブラフ人などの民族が住んでいる。また、ブルガリア帝国、東ローマ帝国、オスマン帝国などにより多くの文化圏と接触を持ち、それらの影響下でブルガリアの音楽も発展してきた。


ブルガリア語
ブルガリアの公用語。インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派南スラヴ語群に属する言語。マケドニア共和国の公用語マケドニア語とはきわめて近しい関係にあるとされる。


ブルガリア料理
ブルガリアはバルカン山脈、ロドピ山脈から供給されるきれいな水があり、また地中海性気候から亜寒帯、高山気候まで気候変化に富んでおり、各地でさまざまな農作物が生産されている。

■ヨーグルト
中央アジアのステップ地域からこの地方に侵入した遊牧民のブルガール人が、ヤギの皮で作った袋にミルクをいれて保存し、発酵したものがヨーグルトの起源であるともいわれている。

■タラトール
タラトール(Tarator)はヨーグルト、キュウリ、ニンニク、クルミなどを原材料とする冷たいスープである。ブルガリア、およびマケドニア共和国の代表的な料理で、ヨーグルトの酸味がある。

■カヴァルマ
カヴァルマ(Kavarma)はブルガリアの代表的な料理である。肉と野菜類をトマト味で煮込んだ土鍋料理であり、上に卵やチーズが載せられている。

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ヴェッセリーナ・カサロヴァ
ヴェッセリーナ・カサロヴァ(またはカサローヴァ)(Vesselina Kasarova )はブルガリア人メゾソプラノ歌手。1989年にチューリヒ歌劇場と契約し、まもなく聴衆の支持を得た。同年、BMGクラシックスのオーナー、ベルテルスマン後援によるドイツの国際ギュータースロー声楽コンクールにおいて首位を獲得、これによってBMGクラシックス(RCAレッド・シール・レーベル)と契約を結ぶ。それから2年後に、コリン・デイヴィス指揮のもと、モーツァルトの《皇帝ティートの慈悲》のアンニーオ役により、ザルツブルク音楽祭にデビューし、またロッシーニの《セビリアの理髪師》のロジーナ役によりウィーン国立歌劇場にも初出演を果たす。

ゲルガナ
1984年11月30日 - 本名ゲルガナ・ゲオルギエヴァ・カツァルスカはブルガリア中南部ハスコヴォ州のディミトロヴグラト出身のポップ・フォーク歌手。2003年に突如としてポップ・フォーク界で注目を集めるようになった。ゲルガナは子どもの頃から、プロフェッショナルのスポーツ選手となることを考えており、特にいとこであるサッカー選手ストイコ・サカリエフ( Stoyko Sakaliev)の影響によりサッカーに興味を持っていたが、歌手になることもまたゲルガナの子どもの頃からの夢であった。2002年から、ゲルガナはパイネルにポップ・フォーク歌手としての披露をみせ、与えられた課題を全て通過した。翌年、彼女はレコード会社との契約によって歌手としての活動をはじめ、それ以来パイネル所属の他のスター歌手たちとともに各地をツアーしている。

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リュボミール・ピプコフ
1904年9月4日 - 1974年5月9日は、ブルガリアの作曲家。父は作曲家のパナヨト・ピプコフ。ソフィアの音楽アカデミーで学んだ後、1926年から1932年までパリに留学して、エコールノルマル音楽院でポール・デュカスとナディア・ブーランジェに作曲を師事した。帰国後、ソフィア歌劇場のコレペティートル兼合唱指揮者となり、最終的に音楽監督になった。1948年から音楽アカデミーの声楽の教授を務めた。

アレクシス・ワイセンベルク
1929年7月26日 - ブルガリアのソフィア出身のピアニスト。幼い頃から作曲家のウラディゲロフに作曲とピアノを学び、ピアニストとしてのデビューは14歳の時であった。第二次世界大戦中は収容所に入れられ、苦難の日々を送るが、イスラエルを経てアメリカに逃れる。その後、1946年にニューヨークのジュリアード音楽院に入学。現在としても良く知られているピアニスト、サマロフ、ランドフスカ、そしてシュナーベルの指導を受けた。その後、1956年から約10年間、自分の音楽を鍛えなおすために、演奏活動から身を引く。1966年、パリでのリサイタルで奇蹟的な復活を遂げると、1967年からはカラヤンと競演を重ねる。

パンチョ・ヴラディゲロフ
Pancho Haralanov Vladigerov, 1899年3月13日 チューリヒ - 1978年9月8日 ソフィアはブルガリアの作曲家・音楽教師・ピアニスト。ブルガリアの作曲界の第2世代に属し、1933年にはブルガリア現代音楽協会(ブルガリア作曲家同盟の前身)にも創立メンバーとして名を連ねた。本格的に数々のジャンルを手懸けた作曲家の最初の一人としてブルガリア音楽史に名を遺しているだけでなく、国民楽派的な音楽作品を確立したことや、次世代のブルガリア人作曲家の逸材を育てたことでも名高い。とりわけピアニストのアレクシス・ワイセンベルクの恩師として知られる。

アンドレ・ブクレシュリエフ
Andre Boucourechliev, 1925年7月28日 − 1997年11月13日はブルガリア出身のフランスの作曲家。ソフィア出身。ソフィア音楽院でピアノを学び、パリに留学してエコール・ノルマル・ド・ミュジックにて研鑚を積み、後に同校ピアノ科で教鞭を執った。最初の作曲の試みは1954年に遡り、その頃ダルムシュタットの有名な現代音楽講習会に携わるようになっていた。ミラノでルチアーノ・ベリオとブルーノ・マデルナを探し出して作曲技法に磨きをかける。
公式サイト

ボイコ・ボリソフ
Boyko Metodiev Borisov、1959年6月13日 - は、ブルガリアの政治家。現在、同国首相。ヨーロッパ発展のためのブルガリア市民(GERB)の実質的な指導者であり、2005年11月から2009年7月まで同国の首都ソフィアの市長を務めた。1982年から1990年まで内務省職員として、消防士および警察学校の教師を務めた。ボリソフは1980年から空手をやっており、ブルガリア代表のコーチや国際試合の審判員の経験もある。

アスパルフ
644年頃 - 700年頃)は、第一次ブルガリア帝国(ドナウ・ブルガール・ハン国)の建国者(在位:681年 - 700年頃)。ブルガール人のハンで大ブルガリアを打ちたてたクブラトの息子で、ブルガール人のオノグンドゥル族を率いてドナウ川河口付近に拠点を置いた。たびたび東ローマ帝国領を襲い、680年に派遣された東ローマ皇帝コンスタンティノス4世の討伐軍も撃退した。

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クルム (ブルガリア皇帝)
755年 - 814年)は、第一次ブルガリア帝国のハーン。先代カルダムの息子。東ローマ皇帝ニケフォロス1世を殺害し、アヴァール領、東ローマ領を攻撃してブルガリアの領土を大きく広げた。先代カルダムの後を継ぎ、803年にハーンに即位した。805年、アヴァール人の衰退を見たクルムはアヴァール領に侵攻し、トランシルバニアからパンノニア東部にいたる領土を得た。

アレクサンドル・スタンボリスキ
1879年3月1日 - 1923年6月14日)は、ブルガリアの政治家。第一次世界大戦後、首相(1919年10月6日 - 1923年6月9日)を務めるが、クーデターにより失脚。スラヴォヴィツァ(現パザルジク州セプテムヴリ自治体)の農民出身。ドイツで教育を受ける。1902年からブルガリア農民人民同盟の指導者。1908年から国会議員、1911年から大国会議員。1915年、政府の親独政策を批判し逮捕、終身刑を言い渡される。1918年9月、釈放。

シメオン・サクスコブルクゴツキ
Simeon Borisov Sakskoburggotski、1937年6月16日 - )はブルガリア国王(在位:1943年8月28日 - 1946年9月15日)、ブルガリア共和国首相(在任:2001年7月24日 - 2005年8月17日)。国王在位期間中の呼称はシメオン2世。ブルガリア王ボリス3世と王妃イオアンナの第2子・長男としてソフィアに生まれる。第1子は長女マリア・ルイザで、弟妹はいない。第二次世界大戦中の1943年、父王ボリス3世が急死したことを受けて、シメオン2世として6歳で即位し、叔父プレスラフ公キリル王子、首相ボグダン・フィロフらの摂政団が政務を執った。

セルゲイ・スタニシェフ
1966年5月5日 - )は、ブルガリア共和国の政治家。前首相。ウクライナのヘルソン市出身。1989年にモスクワ国立総合大学歴史学部を優秀な成績で卒業。1994年、歴史学の博士号を取得。2005年6月、ブルガス選挙区から議会代議員に選出される。議会会派「ブルガリアのための連合」の議長を務め、同年8月16日に首相に選出された。

ドーブリ・フリストフ
1875年12月14日 - 1941年1月23日)はブルガリアの作曲家。同国のヴァルナ出身。1900年から1903年までプラハ音楽院でドヴォルザークに学び、帰国後はブルガリアの近代音楽の父として国立音楽学校等で後進の指導にあたり、合唱音楽やオーケストラの作曲も行った。ブルガリア民謡の収集にも尽力している。

アネリア
Anelia Georgieva Atanasova)は1982年7月1日生まれ、ブルガリア共和国中南部スタラ・ザゴラ出身のポップ・フォーク歌手。アネリアの母親はピアニストであった。アネリアは幼稚園時代から音楽とのつながりを持っていた。彼女の両親はアネリアを音楽学校に通わせ、アネリアはヴァイオリンを始めた。初等教育の初期のころ、彼女を教えた民謡歌手のスラヴカ・イヴァノヴァは、アネリアの歌唱と音楽の才能を見出し、アネリアは合唱グループに入った。

ゲオルギー・ロザノフ
Georgi Lozanov、1926年7月22日 - )は、ブルガリアのソフィア生まれの医学博士(精神医学、心理療法、脳生理学、内科)、また、教育学者。サジェストロジーの提唱者、インテグラル・サイコセラピー、サジェストペディアの開発者。自伝によれば、ロザノフは1926年7月22日に、ギムナジウムの歴史教師で後に大学準教授となった父と弁護士であった母の間に生まれた。ロザノフの少年時代についてはあまり明らかにされていない。自伝では、2歳のときに母を亡くしたこと、その母をずっと思慕していたことのみが紹介されている。

ボリス・クリストフ
(Boris Christoff, 1914年5月18日 - 1993年6月28日)は、ブルガリアのバス歌手。20世紀におけるもっとも偉大なバスの一人に数えられる。学校教師の父とロシア系の母の息子としてソフィアに生まれる。クリストフは早くから歌唱の才能を示し、少年のうちからソフィアのアレクサンデル・ネフスキー大聖堂の合唱隊に加わった。1930年代には大学で法律を専攻し、一旦は司法関係の職に就いたが余暇にはソフィアのグスラ合唱団で歌を続け、1940年には同合唱団のソロイストとして成功を収める。

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ニコライ・ギャウロフ
(Nikolaj Gjaurov), 1929年9月13日-2004年6月2日)は、ブルガリア出身のオペラ歌手(バス)。戦後最高のバス歌手の一人とされ、広い音域で深みのある声を持ち、知的でよくコントロールした歌唱を聴かせた。バルカン系バス特有の癖が少なく、スラヴ・オペラ、イタリア・オペラ、フランス・オペラ、モーツァルト作品までまったく違和感のない歌唱を聴かせる。

ヴァレリ・ボジノフ
Valeri Bozhinov, Valeri Bojinov, 1986年2月15日 - は、ブルガリア・ゴルナ・オリャホヴィツァ出身の同国代表のサッカー選手(FW)。愛称はブージエ。13歳の時、当時USレッチェのスカウトであったパンタレオ・コルヴィーノがブルガリアのユース代表で既に頭角をあらわしていた彼をマルタのクラブから獲得し、レッチェの下部組織に入団。15歳11ヶ月でセリエAデビューしセリエA外国人選手の最年少出場記録を更新。

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