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ボスニア・ヘルツェゴビナ
Bosnia and Herzegovina

ヨーロッパ

<歴史>
■古代・中世
現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。

■オスマン帝国統治時代
15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。サラエヴォはオスマン帝国のボスニア州の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。

■近代
19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1875年にボスニア蜂起が起きると、この反乱を口火として露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。

■第二次世界大戦
第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。

■社会主義時代
ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。

■ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。

■ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後
デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮し、SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。


■地理
国土はおおよそ三角形の形をしている。歴史的に北中部はボスニア、南部はヘルツェゴビナと呼ばれてきた。南部には海抜高度2,000mを超える山地が多い。アドリア海に沿ってディナル・アルプス(Dinaric Alps)が伸びており、国土の南西部は石灰岩によるカルスト地形で乾燥している。南西のネウム付近では、アドリア海に面して20キロメートル程の海岸線を持っているが、ネウム周辺に大きな港はない。ボスニア・ヘルツェゴビナは、海に面した国としてはモナコに次いで世界で2番目に短い海岸線を持っている。


東ヨーロッパ
Eastern Europe)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。基本的にヨーロッパを東西に分けるのはあくまで便宜的なものである。この分類法に明確な定義はなく、時代や主観によって大きく変遷する。現在の民族的な分類では東スラヴ人が大半を占める地域を示すことが多いが、これもあいまいである。

バルカン半島
ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。

ミリャツカ川
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォとイストチノ・サラエヴォを流れる河川である。サラエヴォを象徴する川として知られ、サラエヴォの街自体そのものを直ぐに想起させる川でもある。1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃され第一次世界大戦の契機の一つとなった現場であるラテン橋など、いくつかの著名な橋がミリャツカ川には架けられている。

ウナ川
クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナを流れる河川で、全長は207km、流域面積は9,368km2である。ウナ川流域には100万人以上の人が暮らしている。ウナ川流域には170を超える薬効のあるハーブが群生し、ウナ・ブルーベル(Una Blue-Bell)と呼ばれる珍しいトルコ石色と緑色をした野草もある。また、28種の魚類も生息し、ウナ川では最大のサケ類のフッヘンも生息する。

サナ川
ボスニア西部のボサンスカ・クライナ地方を流れる川で、ウナ川の支流の中では最大規模の川である。本流のウナ川とネレトヴァ川はボスニア・ヘルツェゴビナの河川の中ではもっとも美しく清らかな川と考えられている。サナ川は全長146km、流域面積は3,370 km2で、サナ川の源流はムルコニチ・グラードのドニャ・ペツカ村近くにある3つのカルストの泉である。

サヴァ川
Save,は、東ヨーロッパを流れる川である。ローマ時代にはSavusと呼ばれていた。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアの各国を流れ、セルビアの首都ベオグラードでドナウ川に合流する。この川がバルカン半島の北端の付け根とされることが多い。

ネレトヴァ川
アドリア盆地東部では最大の河川である。大規模な高さ15m以上の水力発電用のダム4カ所と貯水池により治水されているが、自然美や多様な自然景観で知られている。川の生態系は人口の増加や開発によって傷つけられている。ネレトヴァ川はボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアにとってはもっとも価値のある天然資源として豊富な淡水資源となっており、重要なものとして認められている。

ドリナ川
Drina,はセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川である。ディナル・アルプス山脈の大きなカルスト河川で、ドナウ川水系に属する。346kmの長さを有しサヴァ川の支流で、大部分がボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの国境となっている。ドリナの名はラテン語のDrinusや古代ギリシャ語のDreinosから来ているとされる。

ヴルバス川
ボスニア・ヘルツェゴビナ西部を流れる川で、サヴァ川の支流である。流域の主要な都市にはヤイツェ、バニャ・ルカなどがある。

ジェリェズニツァ川
Zeljeznicaはボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川で、トレスカヴィツァ山麓を源流とする。上流部は美しい森林に覆われており、多くの急流がある。トゥロビ村(Turovi)からの流れは希少な自然や釜状の地形を作っている。カザニ(Kzani)には峡谷があり、その急流の美しさは旅行者をひき付けている。

ボスナ川
ボスニア・ヘルツェゴビナ国内を流れる3つの重要な河川の一つである。他の2つはネレトヴァ川(Neretva)、ヴルバス川(Vrbas)などで、ボスナ川は全長271kmの長さを有する。ボスナ川はボスナ川渓谷を形作る。ボスニア・ヘルツェゴビナの工業の中心や百万人近くの人が住む地域を形成し、主要都市はボスナ川沿いに立地している。

トレスカヴィツァ山
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォの南の町トルノヴォにある山である。ジョキン・トラニの山頂は標高2,088mあり、トレスカヴィツァ山はサラエヴォ周辺の山では一番標高が高い。

イグマン山
Igmanは、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央部に位置する山である。サラエヴォ南西部に位置し、ビイェラシュニツァ山やイリジャに接している。イグマン山の最高地点はヴラヒニャ峰(Vlahinja Ridge)で1,502mである。

トレベヴィチ山
Trebevicは、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央部に位置する山である。サラエヴォ南東部、イストチノ・サラエヴォに位置しヤホリナ山に接している。トレベヴィチ山の標高は1,627mでサラエヴォ周辺の主だった山の中ではイグマン山に次いで2番目に低い。

ヤホリナ山
Jahorina,は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南東部にある山で、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成するボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、スルプスカ共和国の2つの構成体にまたがっている。サラエヴォの南東部に位置し、ビイェラシュニツァ山と接している。ヤホリナ山は標高1,913mで、サラエヴォ周辺の山の中では中規模の高さの山である。

ディナル・アルプス山脈
Alpi Dinariche)は、南ヨーロッパ、バルカン半島の山脈。北はスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソヴォ、モンテネグロ、マケドニア共和国まで伸びる。

アドリア海
Adriatic Seaは、地中海の海域の一つ。イタリア半島とバルカン半島に挟まれている。アドリア海の海港として知られる都市には、ヴェネツィア、バーリなどがある。イタリア半島側に位置するルネサンス期のヴェネツィア共和国は、東方との貿易で利益を上げ、「アドリア海の女王」の異名で知られ、現在もその特異な町並みを見ることができる(世界遺産)。


■民族
住民はボシュニャク人が48%、クロアチア人が14%、セルビア人が37%などである。それぞれの民族の差異は主に宗教と歴史的経緯によるものであって、それ以外の言語・文化の面では3つの民族には大きな違いはない。それ以外の少数民族としては、ロマなどが住んでいる。


ブトミル文化
ボスニア・ヘルツェゴビナ、サラエヴォ郊外のイリジャ市ブトミルの近くで見つかった新石器時代の文化である。独特の陶磁器によって特徴付けられ、紀元前2600年から紀元前2400年ごろのヨーロッパの文化としてはもっとも調査が進んだ部類のものである。

ボシュニャク人
15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。

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クロアチア人
主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。血統や言語はセルビア人と同じだが、後に宗教の違いにより別民族とされる。クロアチア人は7世紀ごろセルビア人やスロベニア人とともにバルカン半島北西部に下った。東ローマ帝国の支配を経験したのち、9世紀半ばに独立国を形成する。

セルビア人
ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。7世紀ごろバルカン半島中西部に定住し東ローマ帝国の影響下で正教会を受容した。12世紀後半にセルビア王国を打ち建ててセルビア人は東ローマ帝国から自立し、新たにセルビア正教会を樹立して宗教上も独立を勝ち取った。14世紀半ばにセルビア王国は黄金期を迎えるが、その後急速に衰弱しオスマン帝国の圧制下に置かれることとなった。

ロマ
roma,は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり、ロマでない集団との関係は不明である。

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イリュリア人
古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、アドリア海からドラーヴァ川までの東西と、大モラヴァ川の東からヴィヨーセ川 河口の南までの範囲である。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。


■言語
言語は、公用語がボスニア語、クロアチア語、セルビア語である。それぞれボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の言語とされるが、これらの言語は19世紀から20世紀末にかけてセルビア・クロアチア語と呼ばれ、同一視されていた。多民族が混住するボスニア・ヘルツェゴビナでは、実際には、民族ごとに言語が異なることはなく、住民は民族の別に関わらず地域ごとの方言を話している。


ボスニア語
(bosanski jezik)は、南スラブ諸語に属する言語の標準形の一つであり、セルビア・クロアチア諸語のシュト方言が基本となっている。ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとする、旧ユーゴスラビア諸地域において、特にセルビア・クロアチア諸語を話すイスラム教徒の多くは自身をボシュニャク人と規定し、その母語をボスニア語と考えている。

クロアチア語
インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語である。クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナの公用語である。1991年にクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立する前は、セルビア語と同一の言語としてセルビア・クロアチア語として扱われていた。

セルビア語
インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国解体以前はクロアチア語・ボスニア語と同一のセルボクロアチア語とされていた。モンテネグロ方言をセルビア語とは別のモンテネグロ語だとする意見もある。


■宗教
ボシュニャク人の多くはイスラム教、クロアチア人の多くはローマ・カトリック、セルビア人の多くは正教会である。メジュゴリエでは聖母の出現があったと主張されているが、バチカンはこれを公認しておらず、メジュゴリエの教会もローマ・カトリック教会に属するものではない。


カトリック教会
Ecclesia Catholica)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座におくことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。

正教会
Orthodox Church)は、ギリシャ正教[9]もしくは東方正教会、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。

ボゴミル派
10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。

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イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。


ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦。ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。


ユーゴスラビア王国
バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を国土とし、1918年から1943年までの戦間期に存続した立憲君主制の国家。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。成立から11年の間、公式な呼称はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国であった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国である。この国家は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの前身である。その歴史はムルコニチ・グラードで反ファシスト・パルチザンによるボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会の会合が開かれた1943年11月25日よりはじまる。1990年に共産党による一党支配が終わり、民主化されたことによってボスニア・ヘルツェゴビナ共和国となり、更に1992年にユーゴスラビアから独立してボスニア・ヘルツェゴビナ共和国となった。


<世界遺産>

スタリ・モスト
スタリ・モスト(Stari Most,「古い橋」)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにある16世紀の橋で、市内を分けているネレトバ川に架かっている。町の象徴となっていたこの橋は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にあたる1993年11月9日午前3時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊されたが、その後復興計画が持ち上がり、2004年6月23日に復興工事が完了した。2005年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録された。

ソコルル・メフメト・パシャ橋
ボスニア・ヘルツェゴビナ東部、スルプスカ共和国の町ヴィシェグラードにある橋で、市内を流れるドリナ川に架かっている。オスマン帝国の宮廷建築家だったミマール・スィナンが16世紀末に手がけた橋で、当時のオスマン帝国の建築水準の高さを例証する産業遺産として、2007年にユネスコの世界遺産に登録された。


ダニス・タノヴィッチ
1969年2月20日 - はユーゴスラビア(現在はボスニア・ヘルツェゴビナ)出身の映画監督・脚本家である。ゼニツァ生まれ。両親共にボシュニャク人。 サラエヴォで映画制作を学んだが、1992年にボスニア紛争が勃発。ボスニア軍にカメラマンとして参加し、最前線で紛争の様子を撮影した。ボスニア紛争を題材にした初監督作品『ノー・マンズ・ランド』でカンヌ国際映画祭脚本賞とアカデミー外国語映画賞を受賞。

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イビチャ・オシム
ユーゴスラビア(現・ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエヴォ出身のサッカー選手、指導者。日本代表で監督を歴任するなど、世界各国で豊富な指導歴を持つサッカー指導者である。労働者居住区であったグルバビツァで父ミハイリ、母カタリーナの息子として生まれ(妹が一人いる)、ドイツ人の血を引く。ミュンヘン出身の母方の祖母の影響で家庭内での会話はドイツ語中心で育つ。居住区では娯楽も物資も殆ど無く他の住民も似たり寄ったりの生活で必然的にサッカーが子供の遊びとなりオシム少年も靴下を丸めたものをボールに見立て路上でゲームをして遊び、本物のサッカーボールを叔母から贈られ大感激する。18歳でジェリェズニチャルのトップチームでプレイ。東欧の名門サラエヴォ大学理数学部数学科入学、数学や物理学、哲学などを学び、数学の学士の資格を保有。

インディラ・ラディッチ
966年6月16日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、バニャ・ルカ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、スルプスカ共和国、バニャ・ルカ)出身のポップ・フォーク歌手。民族的セルビア人。彼女の曲は旧ユーゴスラビア諸国やブルガリアなどのバルカン半島諸国で大変人気となり、同地域内の多くの人気歌手たちが彼女の曲をそれぞれの自国語でカバーしている。イヴァナとの相性の良さは良く知られており、多くの曲がカバーされ、また共演もしている。

スレイマン・ティヒッチ
Sulejman Tihic, 1951年11月26日 - は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。ボシュニャク人。ボスニア北部の村ボサンスキー・シャマツ出身。サラエヴォ大学法学部を卒業。ユーゴスラビアが崩壊へと向かっていた1990年、ボシュニャク人民族主義者のアリヤ・イゼトベゴビッチらと共にボシュニャク人政党民主行動党を結成。ボスニア紛争下ではスルプスカ共和国政府により、強制収容所に抑留された。紛争終結と共に釈放され、1994年から1999年まではボスニア・ヘルツェゴビナ外務省で外交官として活動、また、外相顧問も務めた。

ヴカシン・ブライッチ
1984年2月9日・サンスキ・モスト - は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のポップ・ロック歌手である。旧ユーゴスラビア連邦一円で2008年から2009年にかけて放映されたリアリティ番組・オペラツィヤ・トリユムフ(Operacija Trijumf)の第1シーズンに参加し、その名が知られるようになった。子供の頃から音楽に興味を持ち、初等学校の3年生のときに音楽学校に行きたいと両親に請うが、当時はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかであり、願いは叶わなかった。ヴカシンは書籍やインターネットを通じて独学で音楽を学び、鍵盤楽器やギターの奏法を身につけた。

ヨシップ・セサル
(Josip Sesar、1978年1月17日 - )は、クロアチアのプロバスケットボール選手。クロアチア男子プロバスケットボールリーグ1部A1リガのKKザグレブに所属している。ユーゴスラビア連邦ボスニア・ヘルツェゴビナヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県モスタル出身。ポジションはシューティングガード。198cm、92kg。

メホ・コドロ
Mehmed "Meho" Kodro , 1967年1月12日 - は、ボスニア・ヘルツェゴビナ・モスタル出身のサッカー選手。元ボスニア・ヘルツェゴビナ代表主将。ポジションはフォワード。1990年代に活躍し、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー史上最高のストライカーとしてその名を残す。現在はサッカー指導者。 1991年ユーゴスラビア紛争の影響もあり、リーガエスパニョーラのレアル・ソシエダへ移籍。恵まれた体格を活かしたダイナミックなプレーに繊細なテクニックを兼備し、強烈なシュートと正確なヘディングで移籍1年目から10ゴールを挙げる活躍。

ヴァヒド・ハリホジッチ
Vahid Halilhodzic, 1952年10月15日 - は、ボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)出身のサッカー選手、サッカー指導者である。選手時代のポジションはフォワード。FKヴェレジュ・モスタル、FCナント、パリ・サンジェルマンなどに在籍。ナント時代に2度のフランスリーグ得点王に輝いた。

エディン・ジェコ
Edin Dzeko, 1986年3月17日 - は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のサッカー選手。イングランド・プレミアリーグ・マンチェスター・シティFC所属。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表である。2011年1月7日、イングランドのマンチェスター・シティFCに移籍した。ヴォルフスブルクには移籍金3500万ユーロが支払われたが、これはプレミアリーグのクラブが支払った金額としては史上6番目であり、ブンデスリーガ所属選手に支払われた金額としては過去最高額となった。

ペータル1世
1844年6月29日 - 1921年8月16日はセルビア王国の国王(在位:1903年 - 1918年)にして初代セルブ・クロアート・スロヴェーン王である。西欧で教育を受けたペータルは、西欧型立憲君主制を創設するという目標のためにセルビアの自由化を試み、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』をセルビア・クロアチア語に翻訳しさえした。

サボ・ミロシェビッチ
(Savo Milosevic, 1973年9月2日 - )は、セルビアの元サッカー選手。元セルビア・モンテネグロ、セルビア代表選手。ポジションはフォワードである。長身を生かしたポストプレイを得意としており、足元の技術も優れていた。キャリア終盤では身体的な衰えも指摘されてきていたが、強力な左足を武器にプレーした。

ウラジミール・ラドマノビッチ
Vladimir Radmanovic、1980年11月19日 - は、セルビアのプロバスケットボール選手。NBAのアトランタ・ホークスに所属している。ユーゴスラビア連邦ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国トレビニェ出身。ポジションは主にスモールフォワード。セルビア人の血統である彼はユーゴスラビアボスニア・ヘルツェゴビナのトレビニェ地方の街トレビニェで生まれ、その後地方を転々としながら育った。NBA入り前は、現セルビアのベオグラード等のクラブチームで力をつけて行った。

エド・マーイカ
Edo Maajkaはボスニア・ヘルツェゴビナのラッパー。1978年12月22日生まれ、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ブルチコ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国ブルチコ行政区)出身。エド・マーイカことエディン・オスミッチはブルチコで生まれ、同地で小学校を卒業した。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発すると、エディンは祖国ボスニア・ヘルツェゴビナを脱出し、隣国クロアチアへ避難した。彼はザグレブに住み、同地の中等学校で機械工学を学ぶ。紛争が終結した後、エディンは再びボスニア・ヘルツェゴビナに戻り、トゥズラで刑法を学び始めるが、学校を卒業することはなかった。

エルヴィル・ボリッチ
Elvir Bolic、1971年10月10日 - は、ユーゴスラビア・ゼニツァ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。1996年からは10年間ボスニア・ヘルツェゴビナ代表としてもプレーし、同代表の歴代最多得点も記録した。2008年1月5日から5月17日までの間は、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表のアシスタントコーチとしてメホ・コドロを支えた。


ヴィルヘルム・フォン・ヴュルテンベルク
(Wilhelm von Wü粐鶯temberg, 1828年7月20日 - 1896年11月6日)は、ヴュルテンベルクの王族で、オーストリア=ハンガリーの将軍。ヴュルテンベルク公 (Herzog von Wü粐鶯temberg) 。1878年から1881年まで、オーストリア施政下のボスニア・ヘルツェゴビナ総督を務めた。

マテ・ボバン
(1940年 - 1997年7月7日)は、ヘルツェゴビナのクロアチア人政治家であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内で一方的に建国され、国際的に承認されることのなかった国家「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の指導者であった。ボバンは、1991年から1994年にかけてのヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の短い歴史の中で、唯一の大統領であった。

ボスニア Bosnia and Herzegovina
東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家、地域。首都はサラエヴォ。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国(セルビア人共和国)のふたつの構成体からなる連邦国家である。国土はおおよそ三角形の形をしている。歴史的に北中部はボスニア、南部はヘルツェゴビナと呼ばれてきた。

サラエヴォ
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。2007年7月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は合わせて304,065人である。サラエヴォはまた、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちのひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもあり、またサラエヴォ県の県都でもある。サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である。

ヴレロ・ボスネ
ボスニア・ヘルツェゴビナ中央部、サラエヴォの南西12kmにある自然公園及び泉である。ヴレロ・ボスネ(ボスナの泉)のその名が示すようにボスナ川の源泉となっており、ボスニア・ヘルツェゴビナの自然的なランドマークとなっている。ヴレロ・ボスネはサラエヴォ郊外にあり、イリジャの近くに位置する。サラエヴォ都市圏にありながら、この地域ではもっとも美しい自然景観の一つとして有名であり、ボスナ川の源流であるためボスニア・ヘルツェゴビナ国内でも重要な水源の一つにもなっている。


外務省:ボスニア・ヘルツェゴビナ
在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館


サラエヴォ国際空港
Sarajevo International Airportとは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都、サラエヴォにある国際空港。同国のフラッグ・キャリアであるB&H航空のハブ空港である。

モスタル国際空港
Mostar International Airportとは、ボスニア・ヘルツェゴビナのヘルツェゴビナ地方の中心都市でヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の県都でもあるモスタルにある国際空港。メジュゴリェ巡礼でよく使われる。

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イリジャ
ボスニア・ヘルツェゴビナ中部の町、およびそれを中心とした自治体であり、同国の首都であるサラエヴォの郊外の都市としては最大級のものである。行政的には、同国を構成する2つの構成体のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のサラエヴォ県に属する。辺りを取り巻く美しい自然と、新石器時代にさかのぼる豊かな歴史的遺産で知られる。ボスナ川(Bosna)の源泉であるヴレロ・ボスネ(Vrelo Bosne)は、サラエヴォ郊外美しい自然公園として知られる。また、サラエヴォ国際空港も近い。1894年、ロンドンで発行される月刊誌『ザ・コンテンポラリー・レヴュー』(The Contemporary Review)の誌面で、E.B.レイニン(E.B.Lanin)はこの町を「地球上で最もすばらしい場所のひとつ」と評した。

バニャ・ルカ
ボスニア・ヘルツェゴビナの西北部にある同国で2番目に大きな都市である。また、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの共和国のうち、セルビア人主体のスルプスカ共和国の最大の都市で、事実上の首都となっている。

オプシュティナ
スラヴ圏の国々にみられる行政単位である。多くの場合、各国のオプシュティナは最小の行政単位(基礎自治体)であり、ドイツのゲマインデ(Gemeinde)、イタリアのコムーネ(comune)、フランスのコミューン(commune)、日本の市町村などに相当する。各国の言語によって呼称は若干異なるが、同根の語で表される。その中のオプシュティナとはセルビア語の名称である。

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ビハチ
ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。町が登場する最古の文献は、1260年のクロアチア・トプスコ(Topusko)の所領を示した、ハンガリー王国のベーラ4世のものであり、1262年に自由都市となった。ビハチ大学は1997年に開設され、7つの学部(工学、経済学、法学、生物学、教育学、医学、イスラム教育学)がある。

ボサンスカ・クルパ
ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属し、ウナ=サナ県の一部である。

ブジム
ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のウナ=サナ県に属する。

ツァジン
Cazinはボスニア・ヘルツェゴビナ北西部・ウナ=サナ県にある都市及び基礎自治体で、クロアチア国境に近い。ツァジンには歴史的な場所が多くありその多くは、14世紀にまでさかのぼる。また、先史時代の考古学的な発見もあり、古くから人が住む場所である。

サンスキ・モスト
Sanski Most,はボスニア・ヘルツェゴビナ北西部の都市及び基礎自治体である。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のウナ=サナ県に属する自治体で、ボサンスカ・クライナ地方のサナ川河畔にありプリイェドルとクリュチの間に位置する。

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ゼニツァ
現代のゼニツァ市街は新石器時代、イリュリアの古い町、ローマ時代のムニキピウムであるビストゥア・ノヴァなど古くの時代にまで遡ることが出来る。中でも重要な発見は2世紀から5世紀にかけての初期キリスト教の2つの聖堂である

イストチノ・サラエヴォ
Istocno Sarajevo)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうち、スルプスカ共和国に属している。市域面積は1450 km2でバルカン半島では最大の面積を持つ都市の1つ。サラエヴォ渓谷に位置し、山地や森林地帯に囲まれている。

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ブルチコ
Brckoはボスニア・ヘルツェゴビナ北部の都市であり、ブルチコ行政区の中心地。クロアチアとの国境となっているサヴァ川に面している。ブルチコはボスニアで最大の港町であり、サヴァ川に港を持っている。また、演劇のフェスティバルも開催されている。

ブロド
Bosanski Brodサヴァ川の曲流する流域に開けた町で、国境を挟み対岸はクロアチアの都市スラヴォンスキ・ブロドと接する。対岸のスラヴォンスキ・ブロドより多くの人が国境を越え日々、ボサンスキ・ブロドへ安い商品を求めてやって来る。

トレビニェ
Trebinje,はトレビシュニツァ川河畔のヘルツェゴビナ南部の町でクロアチアのドゥブロヴニクからは24km離れた場所に位置する。川沿いにはいくつかの製粉所や橋がありその中にはオスマン期の歴史的なアルスラナギッチ橋も含まれる。

キセリャク
首都サラエヴォの北西、ゼニツァの南に位置しフォイニツァ川、レペニツァ川、クレシェヴカ川などボスナ川支流の低地に位置する。また、ヴィソコ、フォイニツァ、クレシェヴォ、ラコヴィツァからの道路が交わる。

ビイェリナ
Bijeljina肥沃なセンベリヤ平原(Semberija)に位置し農業が盛んな地域である。スルプスカ共和国内ではもっとも農業が進んでいる地域で、ビートやトウモロコシ、野菜、キャベツ、トマト、スイカなどが栽培されている。

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プリイェドル
Prijedor,スルプスカ共和国では2番目に大きな都市で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも6番目に大きな都市である。 経済的にも豊かな都市で、幅広い工業やサービス等の産業、教育機関などが立地している。

ヴェリカ・クラドゥシャ
Velika Kladusa、は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西端、クロアチアと国境近くの町。

ネウム
Neumは、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アドリア海沿岸に位置する人口4300人ほどの町。この地域がボスニア・ヘルツェゴビナ唯一の海に面した部分であるが、国全体をまかなうような大きな港があるわけではない。

ドボイ
ドボイはスルプスカ共和国鉄道最大の分岐点で鉄道輸送の要衝である。歴史が古い町の一つである他、ボスニア・ヘルツェゴビナ北部では重要な中心都市の一つである。

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チャプリナ
ネレトヴァ川が市域を横切って流れ、クロアチア国境を越えるとまもなくプロチェ付近でアドリア海へと注ぎ込む。町の象徴となっているのはトミスラヴ1世の像である。カトリック教会のアッシジのフランチェスコ聖堂も町の象徴的な建造物である。

モスタル
ヘルツェゴビナ地方の最大の中心都市で、ボスニア・ヘルツェゴビナでは5番目に大きな都市である。市内をネレトヴァ川が流れている。モスタルの経済はアルミニウムや金属加工業、農業、石材加工、観光などにより成り立っている。民間部門では中小企業がここ数年、顕著な伸びを示しており積極的なビジネス傾向となっている。

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ブゴイノ
この地域は広大な森林が広がっており狩猟が盛んな地域でかつて、ユーゴスラビアの大統領であったヨシップ・ブロズ・ティトーが狩猟などで好んだ場所の一つである。

メジュゴリェ
(Medugorje)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の小さな町である。その地名の由来は、山々の間の地、から。海抜200メートルほどであり、温暖な地中海性気候である。ここで1981年以来、聖母マリアの出現が起きた、と主張する者たちがいる。

ヤイツェ
街は、プリヴァ川がヴルバス川に合流する地点の美しい滝で知られている。滝は高さ30メートルであったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に洪水があり、その後は高さ20メートルとなった。洪水の原因は、地震か、あるいは軍事攻撃による上流の水力発電所の破壊と考えられている。

ゴラジュデ
ゴラジュデはボスニア南西部のフォチャ、ソコラツとヴィシェグラードの間のドリナ川河畔の都市で、ヤホリナ山の東斜面に位置し標高は345mである。

トラヴニク
トラヴニクはラシュヴァ川の渓谷に作られた町で東はボスナ川渓谷、西はヴルヴァス川渓谷とつながっている。トラヴニクはいくつかの居住地の発見から青銅器時代に遡るとされる。歴史的には紀元前数世紀に遡るとされ、当時の多くの物はローマ集落の存在を示しており要塞や他の建物跡が残され、初期のキリスト教聖堂などやローマのコインや飾り額等も見付かっている。

オジャク
ボスニア・ヘルツェゴビナポサヴィナ県の都市及びそれを中心とした基礎自治体でボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する。オジャクが初めて言及されたのは1593年のことで、当時オジャクには要塞があった。19世紀までは、オスマン帝国の支配下にあった。

トゥズラ
ボスニア・ヘルツェゴビナの都市、およびそれを中心とした基礎自治体。1991年の調査では人口は13万1千人であった。その後の避難民の流入などによって、現在の人口はおよそ16万人程度と見られている。

バノヴィチ
ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のトゥズラ県に属する。バノヴィチの集中的な開発が始まったのはブルチコとバノヴィチを結ぶ鉄道の建設と一緒で1946年のことであった。質の高いバノヴィチの褐炭はヨーロッパ中では良く知られている。

フォチャ
ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうちスルプスカ共和国に属し、ドリナ川の東岸、フォチャ地方にある。フォチャ地方の中心的な都市である。

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ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗
紺色の地に黄色の三角形、およびその斜辺に沿って8つの星を配置した国旗。配列された8個の星のうち1個は上下二つに分かれ、上下の端に配置されている。黄色の三角形は国土の形を図案化したものであり、三角形の3つの辺はこの国を構成する民族のムスリム、セルビア、クロアチアを表象しているとも言われている。


■国名
正式名称は、ボスニア語・クロアチア語で Bosna i Hercegovina(ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、公式の英語表記は、Bosnia and Herzegovina。


1.面積:5.1万平方キロメートル
2.人口:384.3万人(BH統計局推計、2008年)
3.首都:サラエボ
4.言語:ボスニア語、セルビア語、クロアチア語
5.宗教:イスラム教、セルビア正教、カトリック

6世紀 スラヴ人定住開始
14世紀 ハンガリーに抵抗しつつボスニア王国を確立
1463年 オスマン・トルコによるボスニア征服
1878年 オーストリア・ハンガリー帝国支配下の一州となる
1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
1945年 ユーゴ構成共和国の一つとして発足
1992年2月 独立を問う住民投票の実施
1992年4月 本格的紛争に突入
1995年12月 デイトン和平合意成立

■主要産業:木材業、鉱業、繊維業、電力

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兌換マルク
兌換マルク(だかんマルク、Konvertibilna Marka)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨。コンヴェルティビルナ・マルカとも呼ばれ、KM(ラテン文字)またはКМ(キリル文字)と省略される(ボスニア・ヘルツェゴビナの公用語にはラテン文字を使う言語とキリル文字を使う言語とがある)。ISO 4217の通貨コードはBAMである。補助通貨単位はペニーガ (Pfeniga) で、1兌換マルクは100ペニーガである。


■経済
穀物栽培に適当な土壌が多いことから、かつては豆・タバコ・ザクロ・ぶどう・オリーブ・イチジク・メロンなどの農作物が栽培され、主要な羊の飼育地でもあった。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響から、農耕地の多くが現在 使用できなくなっている。現在の主要産業は林業、鉱業、繊維業などであり、GDP(MERベース)は194億ドル(2008年)、一人当たりにして4,848ドルである。

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大理石
石材としての石灰岩の一般的な呼び名である。古代より建築や彫刻に使われている。「大理石」という名称は、かつての大理国(現在の中華人民共和国雲南省大理ペー族自治州大理市を中心とする地域)でこれが産出されたことに由来する。英語ではマーブル (marble) である。「マーブル模様」は大理石の模様や色ムラに由来する。


ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議
略称AVNOJ は、第二次世界大戦中のユーゴスラビア人民解放戦争において、各地で反ファシスト闘争を進め、臨時的な統治機構の役割を担うとされた諸機関を統括する機関である。枢軸国支配下のユーゴスラビアのパルチザンの解放区にて1942年11月26日に設立された。会議は、ユーゴスラビアにおける枢軸国・ファシスト勢力との戦いを担う抵抗勢力の政治的指導部としての役割を果たした。

ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会
ボスニア・ヘルツェゴビナの国家機関の1つ。ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の各民族から4年ごとに1名ずつの代表を出し、計3名で構成。3名は8か月ごとに輪番制で国家元首に相当する大統領評議会議長(国家元首)に就任する。ボスニア人代表・クロアチア人代表はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦から、セルビア人代表はスルプスカ共和国から選出される。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、ボシュニャク人とクロアチア人を主体とする共和国で、独自の大統領、政府、立法府を持つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の51%を占める。


自主管理社会主義
第二次世界大戦後、社会主義化されたユーゴスラビア連邦人民共和国で導入された経済政策。自主管理制度は簡単に言うなら「逆ピラミッド」型の3層からなる。制度の基幹部分は最高意思決定機関としての「自主管理基礎組織(OOUR)」。基本的には職場単位で組織されるが、職場規模が小さい場合等は工場単位という事も有り得る。分かり易く言うならば、「基礎組織」が職場であり、「労働組織」が工場、「連合労働組織」が会社であると考えると良い。

セルビア民主党
ボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を拠点とする右翼民族主義政党。セルビア民主党はアメリカ合衆国による制裁下に置かれている。制裁は、資金や物資をアメリカ合衆国からセルビア民主党に渡したり、その逆の行為を禁じている。

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クロアチア民主同盟
HDZ BiHは、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア人を主体とする右翼政党。クロアチアの同名の政党の姉妹政党であり、欧州人民党(EPP)のオブザーバー政党である。

独立社会民主同盟
略称СНСД / SNSDは、ボスニア・ヘルツェゴビナの議会政党である。党首は、スルプスカ共和国の首相を務めるミロラド・ドディクである。

民主行動党
1990年、ユーゴスラビア内のスラブ系ムスリム(ボシュニャク人)の権益を代表する民族主義政党として、アリヤ・イゼトベゴビッチ、ムハメド・フィリポビッチ、スレイマン・ティヒッチ、フィクレト・アブディッチらにより設立された。


デイトン合意
1995年11月にアメリカ合衆国オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地においてまとまり、同年12月14日にパリで署名された和平合意。デイトン・パリ合意などともいう。この合意によりユーゴスラヴィア紛争の1つである、3年半にわたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結した。


ベルリン会議
1878年6月13日 - 1878年7月13日は、露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイツのビスマルクが主催した国際会議。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が参加し、バルカン半島の新独立国の領域が決定された。1875年にヘルツェゴヴィナ蜂起(英語版)が起こった際、始めロシアを除く欧州各国は1856年のパリ条約で定められた、欧州各国の勢力均衡に基づくバルカン半島の体制が崩れることを危惧し、国際紛争へ発展するのを防ぐべく調停に動いた。


チェトニック
Chetnik、は、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。1941年4月6日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツは国防軍の大部隊でユーゴスラビアを攻撃し、瞬く間に占領した。ユーゴスラビア正規軍は10日程度で壊滅したものの、民衆による抵抗がこれに代わった。当初、ユーゴスラビアに抵抗組織は2つ存在し、1つがヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビア共産党を中心とする「人民解放パルチザン部隊総司令部」(通称パルチザン部隊)、もう一つが本項で詳述するユーゴスラビア王国軍で降服を拒否したセルビアの将兵達が結成した「チェトニック」である。


イヴォ・アンドリッチ
1892年10月9日 - 1975年3月13日は、ユーゴスラビアの作家・詩人・外交官。1892年、オーストリア・ハンガリー帝国の占領下にあったボスニアのトラヴニク近郊に生まれる。幼くして父を亡くし、ドリナ川に面するヴィシェグラードで幼少期を過ごした。ザグレブなどで哲学を学んだ後、第一次世界大戦中は独立を目指す秘密結社「青年ボスニア」との関与を疑われ投獄される。1961年のノーベル文学賞受賞者。

エミール・クストリッツァ
1954年11月24日 - は、旧ユーゴスラビアのサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)出身の映画監督、音楽家、俳優。クストリッツァ自身はサライェヴォ出身だが、父はセルビア人、母はモスレム人であり、自身はユーゴスラビア人であると称している。カンヌ映画祭の最高賞であるパルム・ドールを2度受賞し、世界三大映画祭すべてで監督賞に輝いている稀有な映画監督である。

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ウラジミール・プレローグ
Vladimir Prelog, 1906年7月23日 − 1998年1月7日は著名な化学者でノーベル化学賞受賞者。プレローグは、自然界の化合物と立体化学の研究への貢献によって、ジョン・コーンフォースとともに1975年のノーベル化学賞を受賞した。彼の科学論文は400以上に上る。独特のスタイルで雄弁な講師として、彼は多くの世代の化学者を育成した。私人としては彼は、数々の逸話を持つ人物である。また彼は幅広い文化の背景を有する知識人であり、権威を主張せず争いを好まなかった。

ゴラン・ブレゴヴィッチ
1950年3月22日 - は、サラエヴォ(ユーゴスラビア、現ボスニア・ヘルツェゴビナ)出身の作曲家。元は音楽学校でヴァイオリンを学んでいたが、16歳でロックバンド「ビィェロ・ドゥグメ」 (Bijelo Dugme、「白いボタン」)を結成し大成功を収める。1980年代後半よりフリーとなり、映画のサウンドトラックなどを手がける。バルカン半島の民族音楽やロマ(ジプシー)の音楽を現代風にアレンジした作風で知られており、ユーゴスラビアを代表する作曲家である。映画監督エミール・クストリッツァとは付き合いの長い旧友であり、彼の監督作品の音楽を多く担当している。

レパ・ブレナ
1960年10月20日生まれ、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ブルチコ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国ブルチコ行政区)出身の歌手で、現在はレコード会社のオーナー。

ソコルル・メフメト・パシャ
(Sokollu Mehmed Pasa, 1506年 - 1579年)はオスマン帝国の大宰相(首相)。スレイマン1世に見出され、セリム2世、ムラト3世の3代に渡って仕えた。その功績は大きく、名宰相との呼び声が高い。1506年、ボスニアに住む正教徒の家に生まれる。10歳のときデヴシルメによって徴集されイスラム教に改宗したが、イェニチェリではなく軍学校に送られた。その後、まずはスレイマン1世付の近衛兵として配属され、モハーチの戦い(1526年)と第一次ウィーン包囲(1529年)には兵士として参加した。

デヤン・ボディロガ
Dejan Bodiroga、1973年3月2日 - は、セルビアズレニャニン出身の元プロバスケットボール選手である。ポジションはシューティングガード/スモールフォワード。欧州だけでなく、世界的に名を残した名選手。ブラジルのオスカー・シュミットと共にNBAにドラフトされたがNBAに行かなかった選手としては、随一の選手の一人と言われている。

ヤドランカ
Jadranka Stojakovicは、日本で活動するシンガーソングライター、歌手。ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)サラエヴォ出身。16歳の時にドイツに住んでいた叔父のジャズグループに加わり、ベースとボーカルを担当。フィロゾフスキー大学で心理学を専攻し、卒業後、更にサラエヴォ国立美術大学で絵画を学ぶ。1984年、サラエボオリンピックのメインテーマ曲を作詞、作曲。自らそのテーマ曲を歌い、一躍ユーゴスラビアの国民的歌手となる。

ズヴェズダン・ミシモヴィッチ
Zvjezdan Misimovic、1982年6月5日 - は、ドイツ・ミュンヘン出身のサッカー選手。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表のキャプテン経験がある。チームの攻撃を司る司令塔タイプの選手。右足からの正確なパスでゲームをコントロールし、チャンスがあれば威力のあるミドルシュートを放つ。

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アリヤ・イゼトベゴヴィッチ
1925年8月8日 − 2003年10月19日)は、ボシュニャク人活動家で、弁護士、作家、哲学者、政治家であり、1990年にボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領となった。イゼトベゴヴィッチは1996年まで大統領職を務め、その後ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会の一員となり、2000年までその地位にあった。イゼトベゴヴィッチはまた、多くの著書を残しており、特に『イスラム宣言』(The Islamic Declaration)などが知られる。

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ラドヴァン・カラジッチ
1945年6月19日 - )はボスニアのセルビア系元政治家、詩人、精神科医であり、戦犯として旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(以下ICTY)から指名手配され、逮捕された。カラジッチに対しては、ジェノサイドに関与したと考えられる正当な理由があるとして、ICTYのRule61に基づいて国際令状が出されている。アメリカ合衆国はカラジッチとラトコ・ムラディッチの逮捕に500万ドルの懸賞をかけている。ラドバン・カラジッチと表記されることもある。

ネボイシャ・ラドマノヴィッチ
1949年10月1日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。セルビア人。ユーゴスラビアの一部だったボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国のグラチャニツァ出身。バニャ・ルカの学校からベオグラード大学哲学部に進んだ。2006年10月1日、ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会のセルビア人代表に選ばれ、11月6日にほかの2人のメンバー、ハリス・シライジッチとジェリコ・コムシッチとともに就任。

ナセル・オリッチ
1967年3月3日 - )はボスニア・ヘルツェゴビナの軍の元司令官である。1992年から1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にセルビア人勢力に包囲された東ボスニアの町スレブレニツァを防衛していたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBiH)の師団の指揮官であった。

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