ベルギー王国
Kingdom of Belgium

ヨーロッパ

<歴史>
■古代から中世
ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる。新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金、銅、錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる。

■14世紀以降
1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドの王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブリュッヘが征服されてしまう。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった。

■コンゴ自由国
1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカにコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取されコンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの拙劣な対応はコンゴ動乱やモブツ体制の確立など、コンゴの不安定化を大きく助長した。

■ベルギーの永世中立国への道
1839年オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これは新教国オランダにとって、旧教国フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。このようにベルギーの永世中立国化はオランダの安全保障が関わっていた。


アルデンヌ
オランダ語:Ardennenは、ベルギー南東部、ルクセンブルク、および一部がフランスにまたがる地域の名。この地名はフランスではアルデンヌ県、およびそれを含むシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏の名にも用いられている。海抜350ないし500mの丘陵が続き(アルデンヌ高地ともいう)、大部分が森林で被われている。ローマ時代にケルトの森の女神アルデュイナ(Arduinna;ディアーナ(ローマ神話)と習合された)にちなみ、Arduenna Silva(アルドゥエンナの森)と呼ばれたのに由来するが、これは現在のアルデンヌより広く、サンブル川とライン川の間を現在のドイツ領も含めて指した。

ベルガエ
ラテン語:Belgaeとは、ガリア(現在のフランス、ベルギー、スイス他)の内の北東部を指す古代ヨーロッパの地名である。また、ベルガエに住む部族を総称してベルガエ人(ベルガエ族)と呼ぶ。ライン川に面した地区であるため、元々はゲルマン系の部族とも考えられている。なお、ベルギー王国はこのベルガエの故地より名称を得ている。ガイウス・ユリウス・カエサルは自著「ガリア戦記」の中でガリアを3つの地区に分けており、ベルガエは北東部、アクィタニアを南西部、ベルガエとアクィタニアに挟まれた地区を「ガリア」(カエサルはケルタエ(Celtae)と呼ぶ)としている。ゲルマン人の住む地区に近く、キンブリ族やテウトネス族の侵入を単独で撃退したように、ガリアの3地区の中でも最も勇猛であった。

エブロネス族
(ラテン語:Eburones エブロネース)は、古代ガリア北東部のベルギウム(現在のベルギー)に居住していたゲルマン人出身の部族。ガリア人の一派であるベルガエ人にも数えられる。カエサル著『ガリア戦記』によれば、彼らはマース川とライン川の間に居住していた。主邑はアトゥアトゥカ(Atuatuca)であったとされている。

ネーデルラント連合王国
ナポレオン戦争中フランス第一帝国領となっていたネーデルラントに、1815年のウィーン会議によって設置された国。その領域は現在のオランダとベルギーとルクセンブルクに相当し、ネーデルラント連邦共和国と南ネーデルラント、およびリエージュ司教領から作られた。この新しい国の国王には、共和国の総督を代々務めてきたオラニエ=ナッサウ家の当主が就いた。

オラニエ=ナッサウ家
(Huis Oranje-Nassau)は、現在のオランダ王室。元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系であるナッサウ家の支流である。ネーデルラント連邦共和国時代には、総督の地位をほとんど独占した。


■地理
一般的に北部のフランデレン地域は平野が広がっているのに対し、南部のワロン地域はアルデンヌ高地を中心に丘陵地帯が多い。北部は豊かな土壌が広がり、野菜や果実等の都市近郊型農業や、農耕飼料を必要とする養豚・養鶏業等が営まれているのに対し、南部はアルデンヌ高地を中心に冷涼な気候で、酸性土壌も多く、肉牛、乳牛等の放牧による畜産業や、ビート栽培等が主流である。最高地点は東部ドイツ国境付近のボトランジュで、海抜693メートルに達している。


西ヨーロッパ
Western Europe)は、西欧ともいい、ヨーロッパ地域の西部を指す。東ヨーロッパとは地理的特徴よりむしろ歴史、文化により区別される。基本的に、この概念は民主主義と関連していて、イギリスでは大憲章マグナカルタにより議会がつくられフランスでも三部会が開かれたことにより西欧といえば民主主義国家と考えられるようになった。

北海
North Sea、は、大西洋の付属海。古名はゲルマン海(ラテン語 Mare Germanicum、英語 German Ocean)。東はノルウェー、デンマーク、南はドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、西はイギリス、北はオークニー諸島・シェトランド諸島に囲まれている。

マース川
(オランダ語:Maas、フランス語:Meuse ムーズ)は、フランス北東部を水源としベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川である。9世紀頃よりアルザス、ロレーヌ地方がフランスに併合されることとなるヴェストファーレン条約が締結された1648年まで、神聖ローマ帝国の西の国境線がこの河川であった。

スヘルデ川
フランス語:Escautは、フランス北部、ベルギー西部およびオランダ南西部を流れ北海に流入する川である。延長350km。名前はラテン語のScaldisに由来する。源流はフランス・エーヌ県にある。北流してベルギーに入り、ヘントでリス川(レイエ川)を合わせ、東に転じる。流域最大の都市アントウェルペン近くで西に転じ、オランダに入って北海に流入する。


フランデレン地域
オランダ語: Vlaams Gewest)は、ベルギーの連邦構成主体である3つの地域のうち、首都ブリュッセルを除いた国土の北半分を占める地域。 同じく連邦構成主体であるフラマン語共同体とは領域がほぼ同じであることから事実上統合されており、共通の政府・議会を有する。首府はブリュッセル。公用語はオランダ語である。

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ワロン地域
ワロン地域は、ベルギーの連邦構成主体である3つの地域のうち、国土の南半分を占める地域。首府はナミュール。公用語はフランス語とドイツ語である。


ベネルクス
(Benelux) は、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国の集合を指し示す名称。この3か国はいずれも立憲君主制を採用している。周辺の国に比べて国土が狭いという特徴があり、3か国すべてを合わせても、国土面積は隣国ドイツの1/5、フランスの1/9程度に過ぎない。


フラマン語
Flemishは、ベルギーおよびフランス北東部で話されている低地フランク語の系統の呼称。「フラマン語」という言語名は一般的に、フランス北東部、ベルギーのフランデレン地域からオランダ、ドイツ北西部にまたがって話されている低地フランク語のうち、フランス北東部とフランデレン地域のものを、オランダで話されているオランダ語と区別するために使われるが、独立した一言語ではなく、低地フランク語の中の社会言語学的な分類である。

ケルト人
Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。


ガリア戦争
Bellum Gallicum, ベッルム・ガッリクム/ベルルム・ガルリクム)は、紀元前58年から紀元前51年にかけて、ローマのガリア地区総督ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア(現:フランス、ベルギー、スイス等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした一連の戦争を指す。


メロヴィング朝
Merovingian dynasty)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。フランドルを支配していた小国の王クロヴィス1世(465年 - 511年、位481年 - 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いた。

カロリング朝
Carolingiensは、フランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテルにちなむ。ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。

南ネーデルラント
Southern Netherlands)は、スペイン(1579年 - 1713年)、オーストリア(1713年 - 1794年)及びフランス(1794年 - 1815年)により支配された低地諸国の一部の地域を指す。時代によって、スペイン領ネーデルラント、オーストリア領ネーデルラントとも呼ばれる。この領域は、現在のベルギーのほとんど(リエージュ司教領を除く:ここは神聖ローマ帝国の一部であった)とルクセンブルク(現在のベルギーのリュクサンブール州、ドイツのラインラント=プファルツ州の一部も含む)と、1678年までは北フランスの一部を含んでいた。

ベルギー独立革命
Belgische Revolution)は、1830年8月に生じたブリュッセルでの反乱に始まるベルギーのネーデルラント連合王国からの独立戦争を指す。ベルギーが国民国家としてだけでなく、ローマ・カトリックの国家としての独立を得るためのものであった。


■宗教
宗教はローマ・カトリックが75%、プロテスタントが25%である。1994年の統計ではイスラム教が3%であるが、最近は更に増加していると見られる。ほか、ユダヤ教など。

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カトリック教会
Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。カトリック教会自身による定義は「教会憲章(Lumen Gentium)」にみられる「ペトロの後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち(司教)によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」という表現にもっともよく表されている。

プロテスタント
Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。


ワロン人
Wallons)はワロン語を母語とする人々であり、ベルギーのワロン地域で多数派を構成する。人口は約400万人。気質は軽快で、権力に抗する気風がある。ワロン語はフランス語の一方言とみられ、風俗もフランスの延長といっていいほど似かよっている。宗教は伝統的にカトリックが多い。また社会党の勢力が強い。


ハプスブルク=ロートリンゲン家
Haus Habsburg-Lothringenは、ロレーヌ家出身の神聖ローマ皇帝兼トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファン(フランツ1世)とハプスブルク家のオーストリア大公兼ハンガリー・ボヘミア女王マリア・テレジア夫妻に始まる家系。


<世界遺産>
ブリュッセルのグラン-プラス
ベルギーのブリュッセルの中心地にある大広場。ヴィクトル・ユゴーが賛嘆したことでも知られるこの大広場は、世界で最も美しい広場のひとつと見なされている。

フランダース州のベギン会修道院
ベギン会は北西ヨーロッパの自律的な女子修道会であり、その修道院は、一般には木々に囲まれた中に立てられていた。その建物には生活や信仰に関わるものだけでなく、共同体で使われる作業場も含まれた複合的なものであった。

中央運河にかかる4機の水力式リフトとその周辺のラ・ルヴィエール地域やル・ルー地域エノー
ベルギー王国エノー州のラ・ルヴィエールとル・ルーにあるサントル運河の4つのリフトは、水力式のボート・リフトで、1998年にユネスコの世界遺産に登録された。

フランダース地方とワロン地方の鐘楼
1999年にフランドル地方とワロン地方の鐘楼群(Belfries of Flanders and Wallonia)として32の鐘楼が世界遺産に登録されたのが最初。2005年にワロン地方のガンブルーの鐘楼、フランスのノール=パ・ド・カレー地域圏、ピカルディー地域圏の23の鐘楼の追加登録により、現在の名称となった。1999年の登録名は「フランドル地方とワロン地方の鐘楼群」。この時点ではベルギー単独の世界遺産だったが、2005年の拡張でフランスの鐘楼群も追加されたため、2か国にも跨る世界遺産となった。

ブルッヘ歴史地区
ブルッヘは中世には一大貿易拠点として繁栄した。その後、経済上の重要性を失って衰退したことで、かえってヘントなどに比べて中世の面影を残す町並みが多く残っている。市街の随所に幅の狭い運河が通じ、赤煉瓦の家屋の並ぶ美しい町並みは「天井のない美術館」とも称され、スウェーデンの首都ストックホルム同様に「北のヴェネツィア」の異称もある。

スピエンヌの新石器時代の火打石の鉱山発掘地/モンス市
採掘は紀元前4000年ころにはじまり、紀元前750年頃に終わった。採掘の井戸は深さ 15 m ほどまで掘られ、地下採掘坑内の面積は 100 ha に及ぶものである。しかし、それは時が来るまで埋もれていた。発見されたのは19世紀のことである。鉄道敷設中に古代の採掘跡の最初の痕跡が発見された。


■ブリュージュの歴史的中心地
■トゥルネーのノートルダム大聖堂

建築家ヴィクトール・オルタによる主な邸宅
建築家ヴィクトル・オルタは19世紀末から20世紀初頭にアール・ヌーヴォーと建築を見事に融合させた人物で、当時ブリュッセルで活動したアール・ヌーヴォー建築家たちの中心的な存在であった。彼の手がけた邸宅は数多かったが、世界遺産に登録された4件には、彼の革新性がよくあらわれている。

ベルギービール
1997年のデータによると、ベルギー国内に125の醸造所があり、銘柄数は、OEMや輸出用銘柄等のレーベル・ビールを含めて1053種類、そのうちオリジナル・ビールは780種類におよぶ。ベルギーでは中世に修道院の修道士によって作られはじめたのが始まりとなっている。その後ジャン1世がビール作りを推奨したことも手伝い発展してきた。

アンハイザー・ブッシュ・インベブ
(Anheuser-Busch InBev) は、ベルギーの酒類メーカー。2008年、ベルギーのインベブが、オランダ・フランスの大手金融機関から融資を受けバドワイザーで知られるアメリカのアンハイザー・ブッシュを買収・合併し、社名変更、CEOにはインベブCEOのカルロス・ブリトが就任する。


■音楽
古くは世界的伝説のジャズギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト、越路吹雪のカヴァーでも知られる『雪が降る』のアダモを輩出しているベルギーだが、ロック、生バンド系よりも元来テクノ・トランスなどのエレクトロミュージックが非常に盛んである。世界的テクノフェスティバルであるI LOVE TECHNOは毎年夏に開催される。FRONT 242, SUICIDE COMMANDO, IMPLANT, AH-CAMA-SOTZ, THIS MORN` OMINA等世界的ゴシック/EBMアーティストを多数輩出。世界最大規模のゴス/EBMレーベルALFA MATRIXは首都ブリュッセルスに本社を構え、ヨーロッパ全域にネットワークを持つ。


ベルギーの映画
フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフィを発明する一方、映画の発達に先駆け、写真技術の発達が見られるようになる。アニメーション手法を考案した人物の中に、実験物理学者のジョセフ・プラトーがいる。プラトーはゲント大学で1836年、初期のストロボスコープの装置であるフェナキストスコープを発明した。


■経済
1人当たりのGDPが世界最高クラスであり、製造業を中心に豊かな資本力を誇る。ただし、小国であるため貿易への依存傾向が強く、経済が安定しているとまでは言い切れない。1990年代は、上昇傾向にあったが、21世紀に入って停滞状態になった。日本では、チョコレートやベルギーワッフル等、加工菓子の産地として知られているが、ルーヴェンにある世界最大のビール会社であるアンハイザー・ブッシュ・インベブや化学会社のソルベーなども有名である。


■工業
ベルギーは人口規模、面積とも小さい国(世界人口の0.1%、陸地面積の0.02%)であるが、中世に起源を持つ繊維産業や石炭の採炭と関連して長くヨーロッパ域内で最も工業の進んだ地域であった。石炭産業の斜陽化に従い、1980年代前半まで、長期的な低迷傾向が見られた。その後、EC域内貿易の発展や財政再建によって再び工業が興隆し、石油化学工業、非鉄金属工業、自動車、食品工業を中心とした発展が見られる。


オードリー・ヘプバーン
Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日は、イギリスの女優。イングランド人でイギリスの保険会社に勤める父ジョゼフ・アンソニー・ヘプバーン=ラストンとオランダ人の母エッラ・ファン・ヘームストラ(バロネスBaronessの爵位を持ち、男性の男爵に相当する。)のもとに、ベルギーの首都ブリュッセルで生まれる。生後3週間で百日咳にかかり、発作のために心臓停止状態となるも母親の必死の心臓マッサージにより蘇生する。5歳でイギリス・ケント州にある寄宿学校に入学。第二次世界大戦中はオランダで、密かにドイツのオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊るなど、反ドイツのレジスタンス運動に従事していた。オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺された。彼女の異父兄弟もドイツの強制収容所に入れられた。オードリーは栄養失調のため急性貧血症で浮腫み、呼吸困難、水腫に罹り、黄疸が出る程の重体となりアムステルダムの病院に入院する、入院しても満足な治療を施せない物資不足の中、母親が必死で手に入れたペニシリンで九死に一生を得る。16歳の時、オランダの病院でボランティアの看護婦をしていたが、マーケット・ガーデン作戦で大激戦地となったアーネムの病院で一人のイギリス陸軍兵を介護する(20年後彼は映画監督になって彼女の作品を演出することになる―『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤングである)。

マルグリット・ユルスナール
Marguerite Yourcenar, 1903年6月8日 - 1987年12月17日は、フランスの小説家。本姓はド・クレイヤンクール(de Crayencour)で、「ユルスナール」はそのアナグラム。フランスの貴族の末裔であるの父ミシェルと、ベルギーの貴族の末裔である母フェルナンドとの間にブリュッセルで生まれた。母はこのときの産褥熱で世を去っている。もっぱら博学の父の教えによって古典の教養を身につけた。また幼いころから父に伴われて各地を旅行し、26歳のときに父を失って以降もヨーロッパや小アジア各地に遊学した。

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ペヨ
Peyo、1928年6月25日-1992年12月24日は、ベルギーのイラストレーター、漫画家である。コミック・ストリップのスマーフで最も良く知られている。本名はピエール・クリフォール(Pierre Culliford)だが、ペヨという名前で知られている。ペヨは1928年にブリュッセルでイギリス人の父とブルガリア人の母の間に生まれた。1992年のクリスマス・イブの日に心臓発作のためブリュッセルで64歳で死去した。

アンドレ・ヴァンデルノート
Andre Vandernoot, 1927年6月2日 - 1991年11月6日はベルギーの指揮者。ブリュッセルに生まれ、ブリュッセル王立音楽院で学んだ後、1951年にブザンソン国際指揮者コンクールで8位入賞。1952年からウィーン音楽院で学び、1954年からベルギー国立管弦楽団の指揮台に上がるようになった。1958年にアントウェルペンの歌劇場でコレペティトール(練習指揮者)を務めた後は、1960年にモネ劇場の音楽監督になり、1974年から翌年までベルギー国立管弦楽団の音楽監督を務めた。

ヤン・ファーブル
Jan Fabre、1958年‐はベルギー・アントワープ出身の、ベルギー人の芸術家、演出家、振付家。男性。青インクのボールペンで表面を青く描き埋め尽くしたドローイングや、コガネムシを用いて表面を埋め尽くした彫刻、空間演出で有名である。

アンソニー・ヴァン・ダイク
Anthony van Dyck[1]、1599年3月22日 - 1641年12月9日は、バロック期のフランドル出身の画家。上品でくつろいだ雰囲気で描かれたチャールズ1世をはじめ、イングランドの上流階級を描いた肖像画でよく知られている画家だが、肖像画以外にも歴史画、宗教画、神話画などにも優れた才能を見せており、水彩画やエッチングの分野においても大きな革新をもたらした重要な芸術家とみなされている。

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
Henry van de Velde, 1863年4月3日 - 1957年10月15日は、19世紀末から20世紀始めに活躍したベルギーの建築家。アール・ヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物。ベルギーのアントウェルペン生れ。父はパリ・コミューンに参加した革命家であり、死刑判決を受け、ベルギーに亡命していた。ヴァン・デ・ヴェルデは画家を目指してパリに渡り、印象派の絵画から影響を受けた。ベルギーに帰国し、1887年に友人らとアール・アンデパンダン(独立芸術)というサークルを結成した。スイスではロマン・ロランと交友したり、ミューラー家の依頼で美術館を設計した(現在、ゴッホのコレクションで有名なクレーラー・ミューラー美術館)。

フィリップ・ヘレヴェッヘ
フラマン語:Philippe Herreweghe, 1947年5月2日 - はベルギーの指揮者。ドイツ音楽の専門家として知られており、なかでもバッハから新ウィーン楽派までを得意としている。ヘント出身。少年時代をイエズス会の少年聖歌隊員として過ごす。実家が医者であったため、精神科医を目指してゲント大学の医学部で心理学を専攻するが、そのかたわらでヘント音楽院でピアノのほかに初期鍵盤楽器(オルガンおよびチェンバロ)を学ぶ。1970年代に職業音楽家として指揮活動に入り、コレギウム・ヴォカーレ・ゲントを創設するとともに医学を断念する。

セザール・フランク
Cesar-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck、1822年12月10日 - 1890年11月8日は、ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニスト。ベルギーのリエージュで生まれた。元来ドイツ系の家系で、父は銀行家であった。母はドイツのアーヘンの出身。弟のジョゼフ(1825年 - 1891年)とともに幼くしてピアノの才能を示し、父は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行った。

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ジャン=ミッシェル・セイブ
Jean-Michel Saive 1969年11月17日 - は、ベルギーの卓球選手。ベルギーのリエージュ出身。父親はベルギーランキングベスト10に入ったことがあり、母親はベルギー女子ダブルスチャンピオンとなったことがあるという卓球一家に生まれる。 9歳で卓球を始め、弟のフィリップとともに恵まれた練習環境を求めて、毎週末にはドイツのクラブで練習を重ねた。13歳で世界選手権に初出場し、ジュニア時代には練習のために単身でヨーロッパ、アジアを渡り歩く。「ザ・ファイター」、「ベルギーの虎」、「両翼を持った獅子」等のニックネームが示す通り、闘志を前面に出し「攻めに攻める」攻撃プレーが身上。「攻められたらロビングでしのぎ、チャンスがあれば攻め返す」粘り強さもトレードマーク。特にテーブル上で2バウンドするかしないかの、通常のプレーヤーなら台に指を打ちつけてしまう恐怖感から強打できないボールをいとも簡単に強打するプレーとその勇気は誰も真似出来ない。

アンリ・ヴュータン
Henri François Joseph Vieuxtemps, 1820年2月17日 - 1881年1月6日は、フランスで活躍したベルギー人のヴァイオリニスト・作曲家。ヴェルヴィエ(Verviers)出身。織匠とヴァイオリン職工の家系に生まれる。音楽を愛好する家庭環境のもとに、アマチュアの父親と地元の音楽家からヴァイオリンの手ほどきを受け、6歳でピエール・ロードの作品を弾いて公開デビューを果たした。1833年のドイツ楽旅では、ルイ・シュポーアやシューマンとも親交を結び、シューマンからは「小さなパガニーニ」になぞらえられた。それから10年間はヨーロッパ各地を歴訪しては、聴衆ばかりかベルリオーズやパガニーニのような大音楽家さえも、超絶技巧によって圧倒した。

ジョゼ・ヴァン・ダム
Jose van Dam, 1940年4月25日 - 本名ヨーゼフ・ヴァン・ダム(Joseph van Damme)はベルギーのバス・バリトン歌手。男爵。日本では「ホセ」「ヨゼ」「ファン」と表記することも多い。1940年、ベルギー・ブリュッセルに生まれる。17歳のときブリュッセル王立音楽院に入学、フレデリック・アンスパシュに学び、最優等で卒業する。オペラでのデビューは1961年、パリ・オペラ座でのロッシーニ『セビリアの理髪師』のドン・バジリオ役(異説あり)。同座には1965年まで在籍し、ビゼー『カルメン』のエスカミーリョ役を皮切りに主役級を歌うようになる。ヴァン・ダムはまたオラトリオ、リートの卓越した歌い手としても有名であり、その舞台およびレコーディングは数々の賞を獲得している。

ヒューベルト・ランポ
Hubert Lampo、1920年9月1日 - 2006年7月12日は、ベルギーの小説家。アントウェルペン生まれ。フランデレンにおけるマジック・リアリズムの祖。代表作は、キリストの死を想起させる状況で謎の人物ヨアヒム・スティラーが贖罪者として登場する"De komst van Joachim Stiller" (ヨアヒム・スティラーの到来、1960年)。ランポの作品に見られる別のテーマとしては、オルフェウスや聖杯の伝説がある。

ジャン・レー
Jean Ray、1887年7月8日 - 1964年9月17日はベルギーの小説家である。主として戦間期に幻想小説、SF小説、探偵小説を書いた。1887年にベルギーのヘントで生まれた。父親は船員で、ジャン・レーも15歳で船員となった。大学で勉強するため2年間ほどヘントに戻ったが、それ以外の時期は海で過ごし、複数の船に乗り組んだ。その中には密輸船も含まれる(フルマール号という船で、東南アジアを中心に猛獣などを密輸した)。陸に上がり、サーカスの猛獣使いなど職を転々とした後、ジャーナリストとなる[6]。1925年に、異次元を扱ったH・P・ラヴクラフト風の短編幻想SF『パウケンシュラーガー博士の奇怪な研究』("Les étranges études du Docteur Paukenschlager")を発表。これが認められ小説家としての活動を本格的に開始した。
1964年、「ジン中毒で」死亡した。

レイ・グーセンス
Ray Goossens, 1924年 - 1998年はベルギーのアニメーション監督。ベルギーのメルクセム生まれ。第二次世界大戦中および戦後しばらくは漫画家やイラストレーターとして生計を立てていたが、その後コマーシャル・フィルムの撮影を始め、知り合いの誘いによりベルヴィジョン・スタジオで初代『タンタン』の連続TVアニメや長編アニメ映画『ピノキオの宇宙大冒険』を手掛ける。『タンタン』のアニメといえばカナダのネルバナが製作した『タンタンの冒険』が一般に知られているが、本国ベルギーでもTVアニメが作られていた。グーセンスは初代のTVシリーズを手がけており、1964年に約1時間に編集した「ビーカー教授事件」が日本でもカートゥーン・ネットワークで放映されている。

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エリオ・ディルポ
(Elio Di Rupo, 1951年7月18日 - )はベルギーの政治家。2011年から同国首相を務めている。同性愛者である事を公表している。同性愛者である事を公表して首相に就任したのは、アイスランドのヨハンナ・シグルザルドッティル以来二人目である。2010年の総選挙以来、連立交渉が難航し本格政権を発足させられずにいた。欧州債務危機が深刻さを増す中、そのままの状態にして置く事に危機感を募らせた議会は急速に連立交渉を進め、2011年5月国王アルベール二世はディルポを組閣担当者(Formateur)に指名、そして同年12月にディルポは同国首相に就任、これによって535日間にも及ぶ暫定政権に終止符が打たれた。ワロン系の首相は1974年以来である。

イヴ・ルテルム
Yves Camille Desire Leterme、1960年10月6日 - はベルギーの政治家。キリスト教民主フランデレン党 (CD&V) 所属。2008年3月20日から同年12月30日までと、2009年11月25日から2011年12月6日までの2期、首相を務めた。2009年11月25日にヘルマン・ファン・ロンパウ前首相の後任に復権したが、オランダ語圏とフランス語圏が対立し2010年4月22日にアルベール2世に辞表を提出し受理された。2009年11月25日にヘルマン・ファン・ロンパウ前首相の後任に復権したが、オランダ語圏とフランス語圏が対立し2010年4月22日にアルベール2世に辞表を提出し受理された。しかし後継の首相が決まらず、2011年12月6日まで541日間も暫定的に政権を担った。これは正式な政権が存在しない世界最長記録である。

ブノワ・ポールヴールド
(Benoit Poelvoorde、1964年9月22日 - )は、ベルギー・ナミュール出身のコメディアン・俳優・映画監督。映画『スターは俺だ!』と『イン・ヒズ・ハンド』の演技でセザール賞の主演男優賞にノミネートされた。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
「ダルデンヌ兄弟」として知られる、兄のジャン=ピエール・ダルデンヌ(Jean-Pierre Dardenne, 1951年4月21日 - )と弟のリュック・ダルデンヌ(Luc Dardenne, 1954年3月10日 - )の二人の兄弟。ベルギーの工業地帯・リエージュ出身の映画監督である。二人で監督し、脚本も書く。ジャン=ピエールは舞台演出家を志してブリュッセルへ上がり、二人はそこで出会ったアルマン・ガッティに影響を受ける。 原発で働いた後、その資金で機材を購入。1974年以降、都市計画などの社会問題を映したドキュメンタリーを制作する。

ヨハン・ムセウ
(Johan Museeuw、1965年10月13日 - )は、ベルギー、Varsenare出身の自転車プロロードレース選手。1988年プロデビュー。2004年引退。1990年代最強チームであるマペイのエースの一人であり、その闘志あふれる走りで、「フランドルのライオン (Lion of Flanders)」の異名で呼ばれた。ベルギー国内で開催されるクラシックレースでは圧倒的な強さを発揮し、ロンド・ファン・フラーンデレンとパリ〜ルーベをそれぞれ3回制覇しているほか、チューリッヒ選手権でも2回優勝。

トム・ボーネン
(Tom Boonen、1980年10月15日 - )は、ベルギーのアントウェルペン州・モル出身の自転車プロロードレース選手。2002年プロデビュー。192cm・82kgという体格を活かした力強いスプリントスタイルと圧倒的な実力から「トルネード・トム (Tornado Tom)」という愛称をつけられている。2005年世界選手権優勝や2005〜2006年ロンド・ファン・フラーンデレン優勝を果たすなどクラシックを中心としたワンデイレースで活躍するほか、2007年ツール・ド・フランスでもポイント賞を獲得するなどの成績を残しているスプリンター。

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フィリップ・ジルベール
(Philippe Gilbert、1982年7月5日 - )は、ベルギー、ヴェルヴィエ出身の自転車競技(ロードレース)選手。アルデンヌクラシック(アムステルゴールドレース、フレッシュ・ワロンヌ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ)同一年度完全制覇や、2週間あまりでクラシック、セミクラシック級レースの4連続優勝を2回も果たすなど、クラシックレースで顕著な実績を持つが、グランツールでのステージ勝利経験もある。

ダニエル・ファン・ブイテン
(Daniel Van Buyten、1978年2月7日 - )はベルギー出身のサッカー選手。母はドイツ出身。ポジションはディフェンダー。ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘン所属。イワン・バイテンのリングネームを持つプロレスラーのフランツ・ヴァン・ブイテンは父。

レオ・ベークランド
(Leo Hendrik Baekeland, 1863年11月14日 − 1944年2月23日)はベルギー生まれのアメリカ合衆国の化学者、発明家。合成樹脂「ベークライト」を発明、工業化に成功し、「プラスチックの父」とよばれる。ベルギーのヘントで靴屋と家政婦の息子として生まれる。ベークランドはヘント大学で博士号を取得した後に、1889年にアメリカに移住した。ベークランドの初期の成功した発明は印画紙「ベロックス」だった。ベロックスは従来の印画紙よりも高感度であり、それまで焼付けには自然光が必要だったが、これによって室内の人工光でも作業ができるようになり作業効率が一気に改善されることになった。

ジョゼフ・プラトー
(Joseph Antoine Ferdinand Plateau 1801年10月14日 - 1883年9月15日) はベルギーの物理学者である。ブリュッセルで生まれ、リエージュ大学で学び、1829年に物理学と数理科学の博士として卒業した。境界と極小曲面に関する数学的な問題は彼の名前をとってプラトーの問題と名付けられた。彼は広範囲に及ぶ石鹸膜の基礎研究を行い、泡の中で石鹸膜が形成する構造を説明するプラトーの法則を公式化した。

ジュスティーヌ・エナン
(Justine Henin, 1982年6月1日 - )は、ベルギー・リエージュ出身の女子プロテニス選手。母国語はワロン語である。WTAツアーで4大大会7勝を含むシングルス41勝、ダブルス2勝を挙げた。身長167cmと比較的小柄な身体から飛び上がって打つ独特な片手打ちバックハンド・ストロークと、類い稀なフットワークを最大の武器にした。

ヘルマン・ファン・ロンパウ
(Herman Van Rompuy, 1947年10月31日 - )は、ベルギーの政治家。フラマン系キリスト教民主党所属。2008年12月30日から2009年11月25日までイヴ・ルテルムの後任として、同国首相を務めた。また、欧州連合(EU)政治に関して、2009年12月1日、リスボン条約で新設された常任の欧州理事会議長に初代として就任した。日本語メディアの報道では専らファン・ロンパウではなく「ヘルマン・ファンロンパイ」と呼称されている。

ゲラルドゥス・メルカトル
Gerardus Mercator, 1512年3月5日 - 1594年12月2日は、16世紀ネーデルラントの地理学者。ほとんどの場合メルカトルの名で呼ばれるが、本名はゲラルト・デ・クレーマーまたはクレメル(Gerard De Kremer)である。地図の投影法であるメルカトル図法で知られる。まだ年のいかないうちに両親が死んだので大伯父の世話を受け、 ルーヴェン大学(現ルーヴェン・カトリック大学)に入学した。そこで有名な数学者であるヘンマ・フリシウスから幾何学、天文学、地理学を学んだ。卒業するとすぐに地球儀、日時計、アストロラーベなど科学機器製作の仕事を始め、成功を収めるとともに、地図や海図の彫版にも手を染めた。

エミール・ヴェルハーレン
(Emile Verhaeren、1855年3月21日-1916年11月27日)は、19世紀後半から20世紀初頭のベルギーの詩人・劇作家。フランス詩壇で活躍し、ポール・ヴェルレーヌ、アルチュール・ランボーらとともに象徴派の一翼を担った。当時ベルギーの芸術界では、改革派の芸術家たちが作った芸術同人「二十人会」の活動が震撼をもたらしていた。世間が賛否両論に分かれる中、ヴェルハーレンは積極的に彼らの活動に賛同し、『若きベルギー』誌や二十人会の機関誌『現代芸術』誌で彼らを評価する記事を書き、注目を集めた。

ルネ・マグリット
(Rene François Ghislain Magritte, 1898年11月21日 -1967年8月15日) はベルギーのシュルレアリスムの画家。マグリットは、20世紀美術のもっとも重要な運動の一つであるシュルレアリスムを代表する画家である。マグリットの作品においては事物の形象はきわめて明確に表現され、筆触をほとんど残さない古典的ともいえる描法で丁寧な仕上げがほどこされている。少年時代の大部分をシャトレで過ごした。1912年に母が原因不明の入水自殺をとげるという事件があり、これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えた。マグリットは生活費を得るためにグラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしつつ、抽象画や、キュビスムの影響を感じさせる作品を描いていた。

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ナターシャ・レニエ
(Natacha Regnier, 1974年4月11日 - )は、ベルギーの女優。ドイツで生まれ、ベルギーのブリュッセルで育つ。1993年に映画デビューし、フランスのテレビに多く出演してきた。1998年の『天使が見た夢』でカンヌ国際映画祭女優賞、ヨーロッパ映画賞女優賞、セザール賞を受賞した。

アンリ・ピレンヌ
(Henri Pirenne, 1862年12月23日 - 1935年10月24日)は、ベルギーの代表的歴史家である。ベルギー東部のヴェルヴィエに生まれ、リエージュ大学で学ぶ。1883年から1885年にかけてパリ・ライプツィヒ・ベルリンに遊学し、ランプレヒトのドイツ中世経済史研究に刺激を受ける。第一次世界大戦時に、ドイツのベルギー占領に対する非暴力抵抗運動のリーダーでもあったため、ドイツ軍により不法な抑留生活を強いられた(1916年 - 1918年)が、この間も収容所で歴史のゼミナールを主催し、このときの講義はのちに『ヨーロッパの歴史』として結実し、西ローマ帝国の解体からルネサンスまでをあつかった壮大な概観となっている。

ロンド・ファン・フラーンデレン
(Ronde van Vlaanderen)とは自転車プロロードレースの一つ。ベルギーのフランデレン地域を走るワンデーレース。ロードレース人気の高いベルギーでも特に熱心なファンが多いとされるフランデレン地域での開催ということもあり、沿道はびっしりと観客によって埋め尽くされ、熱狂的な声援が送られる。

エンツォ・シーフォ
(Vincenzo "Enzo" Scifo, 1966年2月19日 - )は、サッカー選手、サッカー指導者。1980年代から1990年代のベルギーと欧州を代表するゲームメーカーの一人である。シチリアからの移民であり、雑貨商を営む貧しいイタリア人家庭の子として生まれる。1982年に強豪のRSCアンデルレヒトへ入団すると直ぐに頭角を現し、ベルギー協会の要請もあって1984年5月にベルギー国籍を選択、ベルギー代表として同年6月の欧州選手権に出場。次代のスター候補として脚光を浴びた。

 

 

ベルギー Belgium
西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。欧州連合の原加盟国であり、その主要機関の多くが首都ブリュッセルに置かれているため、ブリュッセルはEUの首都とも言われている。

カトリック国家ベルギーは、もともとカトリックのハプスブルク=ロートリンゲン家(オーストリア・ハプスブルク家)の飛び地領土ネーデルランドであった。

ブリュッセル
人口103万人(2007年)。欧州有数の世界都市であり、欧州連合の主要機関が置かれるなど、欧州の政治の一拠点ともなっている。都市名は、オランダ語で「沼の村」を意味するブルークゼーレに由来するといわれ、新石器時代の紀元前2250年ごろから農耕民族が住んでいた。

ブリュッセル首都圏地域
ベルギーの連邦構成主体である3つの地域のうちの一つ。他の2つの地域と比べて面積は161km2と相対的に狭いが、約30km2の森林地域を除いて、その領域のほとんどが市街化されている。100万人以上の住民が住む。ブリュッセル首都圏地域は公式な2言語地域であり、多数のフランス語話者(85%から90%を占める)と少数のフラマン語話者(10%から15%を占める)が住んでいる。

ヘント
Ghent古くはGaunt) は、ベルギー・フランデレン地域のオースト=フランデレン州にある都市で、同州の州都。南東に位置するブリュッセル、北東に位置するアントウェルペンに次ぐベルギー第3の都市。南西に位置するフランスのリールにも近い。花の都市という異名を持つ。

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ゲント美術館
Museum voor Schone Kunsten Gent)はベルギーのゲントにある美術館である。14世紀から20世紀前半までのヨーロッパの巨匠たちの作品を収蔵している。1798年に設立されたベルギーで最も古い歴史をもつ美術館のひとつで、15世紀以降のフランドル美術を中心に所蔵しているが、20世紀前半のヨーロッパ美術まで網羅している。


アントウェルペン
Antwerpはベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、ベルギー第2の都市。言い伝えによれば、街の名称はスヘルデ川沿いに住む神話上の巨人アンティゴヌスと英雄ブラボーの伝説に由来しており、市庁舎前の「ブラボーの噴水」に、この伝説にちなんだ像が建てられている。

トンヘレン
Tongresは、ベルギー、フランデレン地域のリンブルフ州の都市。古代ローマ時代にアトゥアトゥカ・トングロルム(Atuatuca Tungrorum)の名称で開かれて以降、2000年以上の歴史を有し、ベルギー国内ではトゥルネーと並んで最も歴史の古い街の一つでもある。紀元前54年冬に、エブロネス族の族長アンビオリクスがユリウス・カエサル配下のローマ軍を急襲して、軍の指揮を任されていたクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌスらを敗死させた地としても知られている。


外務省:ベルギー王国
在ベルギー日本国大使館


リエージュ空港
Aeroport de Liegeは、ベルギーリエージュ州の州都であるリエージュの北西部にある国際空港である。主に貨物を扱っていて、TNT航空のハブ空港である。

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ブリュッセル国際空港
Brussels Airport、、Brussels National Airport または Zaventem Airport とも呼ばれるこの空港はベルギー王国の首都ブリュッセル近郊、フラームス=ブラバント州Zaventemに位置する国際空港である。この空港は、ブリュッセル航空の本拠地であり、かつてのサベナ・ベルギー航空のハブであった。

ブリュッセル・サウスシャルルロワ空港
AEroport de Charleroi Bruxelles Sudは、ベルギー・ワロン地域のシャルルロワに位置する空港である。シャルルロワの市街地からは約7km、ブリュッセルからは約46km離れている。比較的ブリュッセルに近く、1919年の開港当初より現在までパイロットの飛行訓練のための利用が盛んである。


ルーヴェン・カトリック大学
(Katholieke Universiteit Leuven)はベルギーのルーヴェンにある大学。フランデレン地域政府管轄、よってフラマン語(オランダ語)が主言語。1968年に分離されたフランス語話者の為の同名の姉妹大学は現在ルーヴァン=ラ=ヌーヴに移転。

ケント大学
University of Kentは、英国・イングランドのケント州カンタベリーに位置する国立大学である。メインキャンパスのカンタベリーのほかに、ベルギー・ブリュッセル、トンブリッジ、メッドウェイ、ワイなどにキャンパスがある。創立は1965年。敷地面積はおよそ300エーカー(東京ドーム26個分)。

モンス=エノー大学
Universite de Mons-Hainaut, UMH)は、ベルギーのモンスにある大学。フランスとの国境近くに位置する。6つの学部(理学部、心理・教育学部、医学・薬学部、法学部、経済学部、人文科学・社会学部)と国際通訳学校 、言語学院 (Institut de Linguisique) からなり、約4,500人の学生が在籍する。

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シャルルロワ
(Charleroi)は、ベルギー南部ワロン地域エノー州の都市。2008年1月1日現在で人口は201,593人であり、ワロン地域最大、ベルギー第4の都市である。都市圏人口は約50万人。工業地帯として鉄鋼、ガラス、化学、電機を中心に発展している。

メヘレン
Malinesは、ベルギーのアントウェルペン州の都市。州南部に位置し、州北部の州都アントウェルペンと首都ブリュッセルの中間に位置する。大ベギン会修道院 - フランドル地方のベギン会修道院群、聖ロンバウツ教会の鐘楼、市庁舎の鐘楼 - ベルギーとフランスの鐘楼群

ヴェルヴィエ
(Verviers)は、ベルギー・ワロン地域・リエージュ州の都市。リエージュ州で3番目の人口を抱え、リエージュ市とドイツ国境との中間地点に位置する。ワロン地域圏の『水の都』と称される。

ブルッヘ
Brugesは、ベルギー北西部、フランデレン地域の都市で、ウェスト=フランデレン州の州都。ベルギーの代表的な観光都市の一つであり、2002年には、スペインのサラマンカとともに欧州文化首都に選定された。伝統的なレース産業のほか、造船業も盛ん。世界遺産にも定められたその美しい街並みは多くの観光客を集めており、観光産業も発展している。

ナミュール
Namenは、ベルギーのワロン地域、ナミュール州の都市。町はアルデンヌを横切る東西、南北の交易ルートの中継地として、ケルト時代から人が定住していた。古代ローマ人も、ユリウス・カエサルが地元のアドゥアトゥキ族を打ち負かした後に定住した。ナミュールはワロン工業地帯の重要な商業・産業中心地である。機械生産、製革業、製鉄や磁器生産がなされている。

モンス
Montは、ベルギーのワロン地域の都市。旧エノー伯領の首都であり、現在はエノー州の州都となっている。ベルギーに5つある控訴院のうちの1つが設置されている。モンスは、もともとはCastri Locus(城のある場所)と呼ばれていた。後に、「城のある山」と呼ばれるようになり、さらにMontへと名前が変わった。現在の名前Monsはラテン語のmons、montis(山)に由来しており、町の起伏に富んだ地形を描写している。

リエージュ
ベルギー東部ワロン地域のリエージュ州にある工業都市で、同州の州都である。 ベルギー第5の都市。この地はローマ帝国時代に既に移住者がいたが、リエージュが記録に現れるのは558年のレウディクス村(Vicus Leudicus)としてである。リエージュは沢山の教会で有名であり、その中で最も古いものが、682年からある聖マルタン教会である。リエージュは、名目上は神聖ローマ帝国の一部であったが、実際には、かなりの独立性を有していた。

ハッセルト
(Hasselt) は、ベルギーの商業都市。リンブルフ州の州都で、首都ブリュッセルの東約80kmに位置する。面積は102平方キロメートル。人口は約7万人。人口あたりのブティック軒数が多く、「ファッションの町」として知られる。

ワーヴル
Waverは、ベルギーのブラバン・ワロン州にある町ないし基礎自治体(コミューン)。同州の州都である。1475年に完成したゴシック様式の聖ヨハネ教会。主塔には50鐘のカリヨンがある。かつてはカルメル会の教会だった18世紀の市庁舎。中庭を見下ろすつくりになっている。

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トゥルネー
Tournai,は、ベルギーのワロン地域、エノー州の市。面積213.75平方キロ、人口67,341人(2004年1月)。ベルギー最古の町であり、フランク王国初代のクロヴィス1世が生まれた地であるため、フランス揺籃の地とも言われる。世界遺産も2件登録されている。フランス国境に近い。

バストーニュ
Bastogne、は、ベルギー、リュクサンブール州の都市。アルデンヌ高原にあり、ルクセンブルク大公国の国境とは12kmしか離れていない。12月16日、ドイツ歩兵隊はバルジの戦いで、バストーニュ周辺にまばらに配備されたアメリカ軍を攻撃し始めた。一時はドイツがバストーニュを包囲し、劣勢に立ったアメリカ側にドイツが降伏を迫ったところ、アンソニー・マコーリフ将軍は短く「ふざけるな!」(Nuts!)答えた。1944年12月26日、ジョージ・パットン指揮のアメリカ軍がこの行き詰まりを打破した。

ディナン
(Dinant)は、ベルギー、ナミュール州の都市。ディナン一帯は、新石器時代には既に人が住んでおり、続いてケルト人、古代ローマ人が進出した。ミューズ川の軍事要所に位置することから、公然の敵から常ではないがディナンは戦闘と略奪にさらされた。

オイペン
(Eupen)は、ベルギーのリエージュ州にある都市。ドイツ国境、オランダ国境から近く、アーヘンとマーストリヒトから15キロほど離れている。近くに自然保護区域Hohes Vennがある。

ナミュール
Namur,は、ベルギーのワロン地域、ナミュール州の都市。町はアルデンヌを横切る東西、南北の交易ルートの中継地として、ケルト時代から人が定住していた。古代ローマ人も、ユリウス・カエサルが地元のアドゥアトゥキ族を打ち負かした後に定住した。

ルーヴェン
Leuvenは、ベルギーのフラームス=ブラバント州の州都である。20世紀、この町は2度の世界大戦によって重大な損害を受けた。第一次世界大戦の緒戦において侵入したドイツ軍はルーヴェンで虐殺をなし、市街やK.U.ルーヴェンの図書館を焼き払った。

ダンメ
Damme)は、ベルギーのウェスト=フランデレン州に属する自治体。13世紀、レイエ川でブルッヘとつながっていたダンメはブルッヘへの関所であった。川は後に直線化されて運河となり、両岸には並木が植えられ、オランダとの境までつながった。市街は星型をした要塞で、現在でも背の高いポプラ並木や壕にそれが見て取れる。


リエージュ=ギユマン駅
Station Luik-Guilleminsはベルギー東部の都市リエージュにあるベルギー国鉄の主要鉄道駅である。リエージュ市内ではもっとも大きな鉄道駅で、ベルギー国内の高速列車網の重要な結節点となる拠点駅でもある。


アントウェルペン中央駅
仏語:Gare Centrale d'Anversはベルギー、アントウェルペンにあるベルギー国鉄が運営する鉄道駅である。 元の駅は1895年から1905年にかけて建て替えられた。ブリュッセル・メヘレン・アントウェルペン鉄道のターミナル駅であった。石に覆われたターミナルの建物と待合ホール上の巨大なドームはベルギーの建築家Louis Delacenserieが設計したもので巨大な鉄(高さ44m、長さ185m)とクレメント・フォン・ボガードによるガラスで構成されている。当駅はベルギーの鉄道建築でもっとも素晴らしい例として広く見なされている。駅への高架橋は地元の建築家ヤン・ファン・アスペレン(Jan Van Asperen)によって設計された注目に値するものである。

アントウェルペン王立芸術学院
(オランダ語:Koninklijke Academie voor Schone Kunsten van Antwerpen)は、ベルギーのアントウェルペンにある美術学校。1663年にDavid Teniersによって創立され、ローマ(1588年)、パリ(1648年)に次いで美術アカデミーの中でも最も古く伝統のある学校の一つ。保存修復科と視覚芸術科が開設されている。視覚芸術科には写真、グラフィックデザイン、ジュエリーデザイン/金工、ファッション、コスチュームデザイン、ファインアートがある。さらにファインアートの中は彫刻、絵画、In Situ (現代表現)、版画のコースに分かれている。

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■国名
公式の英語表記は、Kingdom of Belgium(キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞はBelgian(ベルジャン)。ラテン語表記もBelgium(ベルギウム)である。ベルギーという名称はガリアに住んでいたベルガエ人から取られたといわれている。


1.面積:30,528平方キロメートル(日本の約12分の1)
2.人口:1,075万人(2009年)
3.首都:ブリュッセル
4.言語:オランダ語、フランス語、ドイツ語
5.宗教:キリスト教(カトリック)が大勢

814年〜 ウィーン会議によりオランダの支配下
1830年 独立宣言(フランスの7月革命の影響)
1839年 オランダによるベルギー独立承認
第一次、第二次世界大戦の対独戦により占領を受ける
1944年9月 独の占領より解放

■主要産業:化学工業、機械工業、金属工業、食品加工工業、金融業
■主要貿易品(1)輸出 化学工業製品、機械、電機製品、輸送用機械、金属および金属加工品等(2)輸入 化学工業製品、鉱物性燃料・同製品、機械、輸送用機械等

ベルギーは1993年の憲法改正により連邦制に移行した。連邦は、ブリュッセル首都圏地域、フランデレン地域、ワロン地域の3つの地域と、フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成される。

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ユーロ
99年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。


■政治
ベルギーは立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年に妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。

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キリスト教民主フラームス
Christen-Democratisch en Vlaams 略称:CD&Vは、ベルギーの政党。オランダ語系のフラマン語圏であるフランデレン地域を基盤とする中道右派・キリスト教民主主義政党である。キリスト教民主フランデレン党、あるいはフラマン系キリスト教民主党、フランデレン系キリスト教民主党 と表記されることがある。

フラームス自由民主
Vlaamse Liberalen en Democraten、略称:VLDは、ベルギーの政党。オランダ語系のフラマン語圏であるフランデレン地域を基盤とする自由主義政党である。フラマン系自由党 と意訳されることも多い。

改革運動
Mouvement Reformateur、略称:MRは、ベルギーの政党。フランス語圏のワロン地域を基盤とする自由主義政党である。ワロン系自由党 と意訳されることもある。2007年の選挙では、下院である代議院では150議席のうち23議席を獲得、上院である元老院では71議席(王族を含まない)のうち11議席を確保した。選挙後はイヴ・ルテルム連立政権に参加、与党となった。

社会党 (ベルギー・ワロン地域)
Parti Socialiste、略称:PS)はベルギーの政党。フランス語圏のワロン地域を基盤とする社会民主主義政党である。ワロン系社会党 と意訳されることも多い。2007年の選挙では、下院である代議院では150議席のうち20議席を獲得、上院である元老院では71議席(王族を含まない)のうち8議席を確保した。選挙後はフランデレン地域の党とは異なりイヴ・ルテルム連立政権に参加、与党となった。またワロン地域議会のほか、ドイツ語共同体議会にも進出している。

フルン!
(Groen) はベルギーの政党。オランダ語圏であるフランデレン地域を基盤とする環境政党である。党名は 緑 の意味。1970年代の環境保護運動 アハレフ (Agalev) を源流とし、1981年の選挙で初めて国会入りした。

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エコロ
(Ecolo)はベルギーの政党。フランス語圏のワロン地域を基盤とする環境政党である。ヨーロッパレベルでは欧州緑の党の、世界レベルではグローバルグリーンズのメンバーとなっている。1981年の選挙で初めて国会に議席を獲得した。


エルジェ
1907年5月22日 - 1983年3月3日はベルギーの漫画家。代表作『タンタンの冒険旅行』(Les aventures de Tintin)の作者として知られる。他にも「クックとプッケ」(Quick et Flupke)シリーズなどの作品を描いている。エルジェにはポールという弟がおり、彼は第二次大戦後ベルギー占領軍の司令官を務めたこともある職業軍人でもある。後述する『タンタンの冒険旅行』シリーズにおいて、主人公であるタンタン、そしてスポンツ大佐の風貌は彼がモデルとなっているとされる。中学生のときに、学校のボーイスカウト雑誌でイラストを描き始め、その後1923年より『ベルギーのボーイスカウト』誌(Le Boy-Scout Belge)に描くようになる。エルジェのペンネームを使用しだしたのはこの翌年からである。

ジャック・ブレル
Jacques Romain Georges Brel、1929年4月8日-1978年10月9日は、ベルギーで生まれフランスで成功したシャンソン歌手、作詞作曲家、またその作詞の素晴らしさから詩人とも評された人物。英語圏においてもその詩は数多く翻訳され知られている。またフランス語圏では俳優および映画監督としても有名である。

ルネ・マグリット
Rene François Ghislain Magritte, 1898年11月21日 -1967年8月15日 はベルギーのシュルレアリスムの画家。マグリットは、20世紀美術のもっとも重要な運動の一つであるシュルレアリスムを代表する画家である。マグリットの作品においては事物の形象はきわめて明確に表現され、筆触をほとんど残さない古典的ともいえる描法で丁寧な仕上げがほどこされている。しかし、その画面に表現されているのは、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、指の生えた靴といった不可思議なイメージであり、それらの絵に付けられた不可思議な題名ともども、絵の前に立つ者を戸惑わせ、考え込ませずにはいられない。マグリットは1898年、ベルギー西部のレシーヌに生まれた。一家はマグリットの生まれた翌年にはジリという町に移り、1904年シャルルロワ近郊のシャトレに移る。マグリットは1913年の一時期シャルルロワに住んだこともあるが、1904年から1916年まで、少年時代の大部分をシャトレで過ごした。1912年に母が原因不明の入水自殺をとげるという事件があり、これは少年マグリットにとっては当然のことながら大きな衝撃を与えた。

ジャン=クロード・ヴァン・ダム
Jean-Claude Van Damme, 1960年10月18日 - は格闘家、映画俳優。本名はジャン=クロード・カミーユ・フランソワ・ヴァン・ヴァレンベルフ(Jean-Claude Camille François Van Varenberg)。ベルギー・ブリュッセル出身。ベルギーのブリュッセルで生まれる。ヴェロニカという名前の姉がおり、両親は花屋である。クラシック音楽、絵画、カーリングに関心を持つ子供だったが、父親の勧めで体と心を鍛えるためにバレエ、マーシャルアーツ、ボディビルを習う。

モーリス・メーテルリンク
Maurice Maeterlinck, 1862年8月29日 - 1949年5月6日 は、ベルギーの詩人、劇作家、随筆家。ベルギーのヘントで、フランス語を話す裕福なフラマン人カトリック教徒の家庭に生まれた。法律を学ぶ間に詩や短編小説を著したが、その後それらを処分してしまったため、今日ではその断片が伝わるだけとなっている。学校を卒業後、パリで数ヵ月を過ごした。そこで当時流行していた象徴主義運動の活動家達と知り合う。その経験は後の作品に大きな影響を与えた

ピーテル・ブリューゲル
Pieter Bruegel de Oude, 1525/30年 - 1569年9月9日は、16世紀のブラバント公国 (現在のベルギー)の画家。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。『農民の踊り』、『子どもの遊戯』、『雪中の狩人』などの風俗画で有名な画家であるが、生年は(1525年から1530年の間と推定されているが)不明である。生地についてもブラバント公国のブレダとする説もあるが、確かなことはわかっていない。

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フランス・ハルス
Frans Hals, 1581年/1585年頃 - 1666年8月26日は、17世紀のオランダで活躍した画家。ハルスは、オランダ絵画の黄金時代を代表する画家の1人で、レンブラントよりはやや年長ながら、ほぼ同時代に活躍している。オランダのハールレムで活躍し、作品にはハールレムの住人を描いた肖像画が多い。

ヤーコプ・オブレヒト
Jacob Obrecht, 1457年/1458年11月22日 ヘント-1505年7月 フェラーラは、ベルギーのヘント生まれのフランドル楽派の作曲家。父ヴィレムはヘント市のトランペット奏者。生涯について詳しい事柄は不明。一連の短期間の任務に就くが、その多くはどれも理想の環境とはならずに終わったようだ。オブレヒトは、ほかならぬ簿記の不注意から少なくとも2度、財源の不ぞろいに見舞われており、雇用主に作品を寄贈することによって勘定書きにおける不足額を補ったことを示す面白い記録がひとつ残っている。

アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ
1741年2月8日 - 1813年9月24日は、ベルギーの作曲家。1767年以降はフランスで活動した。グレトリはリエージュの貧しい音楽家の家に生まれ、サン・ドニ教会で聖歌隊員を務めた。その後はリエージュの教会オルガニストや楽長に師事して鍵盤楽器や作曲を学んだ。しかしグレトリにより大きな影響を与えたのは、イタリア・オペラ団の公演に出演した際に受けた実践的指導であった。この時に彼はガルッピやペルゴレージらのオペラを耳にし、すぐに自分自身の勉強をイタリアで完成させたいという希望を抱いた。

ウジェーヌ・イザイ
Eugene-Auguste Ysaye, 1858年7月16日リエージュ - 1931年5月12日ブリュッセルは、ベルギーのヴァイオリン奏者、作曲家、指揮者。ヴァイオリニストとしては、アンリ・ヴュータン、ヘンリク・ヴィェニャフスキの指導を受けて才能を伸ばし、その高い技術で多くの聴衆を惹き付け、ヴァイオリン音楽に大きな影響を与えた。作曲家としてはヴァイオリンのための曲を残しており、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを強く意識した無伴奏ヴァイオリン・ソナタがよく演奏される。

ジャンゴ・ラインハルト
Django Reinhardt 1910年1月23日 - 1953年5月16日は、ベルギー生まれのジャズ・ミュージシャン、ギタリスト。ロマ音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)の創始者として知られる。また、しばしば「ヨーロッパ初の偉大なジャズ・ミュージシャン」とも評される。短い生涯の中で後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を発表した。出生届けに書かれたフルネームはジャン・バティスト・ラインハルト(Jean Baptiste Reinhardt)。「ジャンゴ」というニックネームは、ロマ語で「私は目覚める」という意味。両親はロマの旅芸人の一座におり、ベルギーのリベルシーに滞在していた時にジャンゴが生まれた。

アンドレ・クリュイタンス
Andre Cluytens, 1905年3月26日 - 1967年6月3日は、ベルギーのアントウェルペン出身の指揮者である。アンドレ・クリュイタンスは1905年3月26日、アントウェルペンで代々音楽家の家系に生まれた。父も音楽家で、幼少時より音楽教育を受けて育った。9歳からアントウェルペン王立音楽院でピアノ・和声・対位法を学び(同窓に作曲家のジェフ・マースがいた)、同時に王立劇場の指揮者であった父からも教えを受けた。多言語国家ベルギーは、フランス語のほかにフラマン語を主な公用語としており、ドイツ語は王室の言語として公用語ながら1%程度しか使用人口がないが、父は「フラマン語のオペラなどないのだから、そんなものを学んでもどうにもならない」と言って息子にドイツ語を教えたという。このようにしてフランスのラテン系文化とドイツのゲルマン系文化を幼少時より身につけ、この教養は、クリュイタンスがドイツ音楽とフランス音楽という、一般には相反すると考えられるジャンルの音楽を自在に演奏することに繋がっている。

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ジョルジュ・シムノン
Georges Simenon, 1903年2月13日 - 1989年9月4日は、ベルギー出身のフランス語で書く小説家、推理作家。100編以上ある、ジュール・メグレ警部(Jules Maigret, 後に警視)が登場する一連の推理小説で有名。1903年2月13日、ベルギーのリエージュにあるレオポルド街で、保険会社社員のデジレ・シムノンと妻アンリエット・ブリュールの子として生まれる。1908年から1914年までサン・タンドレ小学校に学ぶ。1914年にイエズス会系のサン・ルイ中学校に給費生として入学し、サン・セルベ中学校に転校するが父デジレの病気により中退。その後、小説を書く時間がとれるとの理由で教会か軍隊に入ることを計画していたが、兄が死去したため本屋などで働く。1919年1月、リエージュの新聞社『ガゼット・ド・リエージュ』の記者となり、コラムを担当する傍ら小説を書き始める。「ジョルジュ・シム」の他「ジャン・デュ・ペリー」「クリスチャン・ブリュース」等のペンネームで300ほどの短編を書き、その収入で1928年に購入しジネット号と名付けた小船でフランス中の運河を巡る。しかし短編の乱発には空しさも覚えていた。真面目に創作に取り組むため、ジネット号の2倍の大きさがあるオストロゴート号で世界を巡りながら小説を書く。1929年9月、オストロゴート号船底の修理のためにオランダ北部のデルフザイルの港に停泊中、メグレ警部が初めて登場する小説"Pietre-le-Letton"(『怪盗レトン』)を執筆。

アドルフ・サックス
Antoine Joseph Adolphe Sax, 1814年11月6日 - 1894年2月4日は、ベルギーの楽器製作者。サクソフォーン(Saxophone)を考案したことで知られる。アドルフ・サックスはベルギーのディナンで生まれた。父シャルル=ジョセフ(en:Charles-Joseph Sax)もまた楽器製作者であり、ホルンの設計に功績を残している。アドルフ自身も早い時期から楽器製作に取り組み、15歳の時には、コンペティションにフルートとクラリネットを出展し、入賞を果たしている。

ダミアン神父
Father Damien、1840年1月3日 - 1889年4月15日はベルギー出身のカトリック司祭。ダミアンは修道名で、本名はヨセフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)。アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島で当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落とした。1840年1月3日、ベルギーのトレメロの農家で七人兄弟の末っ子として生まれたヨセフ・デ・ブーステルは修道院に入っていた兄や姉の影響を受けて、自らも1859年にイエズス・マリアの聖心会に入会、司祭として神と人々に自らの一生を捧げることを誓った。

アンソニー・ヴァン・ダイク
Anthony van Dyck、1599年3月22日 - 1641年12月9日)は、バロック期のフランドル出身の画家。上品でくつろいだ雰囲気で描かれたチャールズ1世をはじめ、イングランドの上流階級を描いた肖像画でよく知られている画家だが、肖像画以外にも歴史画、宗教画、神話画などにも優れた才能を見せており、水彩画やエッチングの分野においても大きな革新をもたらした重要な芸術家とみなされている。

ピーテル・パウル・ルーベンス
(Peter Paul Rubens, 1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期のフランドルの画家及び外交官。17世紀、バロック時代のヨーロッパを代表する画家である。ルネサンス期絵画の均整のとれた構図や理想化された人物表現とは一線を画し、ルーベンスの絵画は、動きの多い劇的な構図、人物の激しい身振り、華麗な色彩、女神像などに見られる豊満な裸体表現など、バロック絵画の特色が十二分に発揮されたものである。

オードリー・ヘプバーン
(Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリスの女優。ベルギーの首都ブリュッセルで生まれる。生後3週間で百日咳にかかり、発作のために心臓停止状態となるも母親の必死の心臓マッサージにより蘇生する。5歳でイギリス・ケント州にある寄宿学校に入学。その頃、両親は離婚し、ファシズムに共鳴した父親は家族から去った。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間アーネム・コンセルヴァトリーでバレエの特訓を受ける。15歳には有能なバレリーナになった。

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ギヨーム・ルクー
(Guillaume Lekeu, 1870年1月20日 - 1894年1月21日)はベルギー生まれの作曲家。セザール・フランクの最後の弟子として将来を嘱望されたが、24歳で夭折した。感受性豊かで情熱的な筆致が特徴。ベルギーのヴェルヴィエ生まれ。6歳からピアノとヴァイオリンを始め、後にチェロも学んだ。1879年に両親とともにフランスのポワティエに移り住み、1885年に当地のリセに進学。リセの物理教師からバッハ、ベートーヴェンの後期作品とワーグナーの音楽を教えられ、彼らの作品に強く惹かれていたという。

スール・スーリール
(La Sœur Sourire 1933年10月17日 - 1985年3月29日)はベルギーの歌手である。ラ・スール・スーリールは第二次世界大戦中、一家でパリに居住。ここで父はレジスタンス運動に参加していた。1945年、一家はベルギーに帰国。サン・アンリに住んで学校に通ったが、1953年に単身パリへ留学し、美術学校に学ぶ。美術教師としての訓練を受けてブリュッセルに戻り、女子校で教壇に立った。しかし1959年、ベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院に入ってシスター・リュック・ガブリエルを名乗る。この修道院でギターを習い始め、作曲を始めたところ音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表。このアルバムに収められた『ドミニク』が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入る。

マルク・ヴィルモッツ
Marc Wilmots, 1969年2月22日 - はベルギー王国出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。ベルギー代表としてプレーし、2012年からベルギー代表監督を務めている。1990年にプロデビューを果たし、1年目でベルギー・カップ決勝まで進むなど、注目を集める。1991年に国内の強豪スタンダール・リエージュに移籍すると、2年目に22ゴールを挙げるなど大活躍。

ジャン=マリー・プファフ
(Jean-Marie Pfaff, 1953年12月4日 - )は、ベルギー・ブリュッセル出身の元サッカー選手。ポジションはGK。プレースタイルは、俊敏性に長け、判断よくゴールを飛び出し、ハイボールにも強い。最後列から味方を鼓舞し、自軍の士気を高める、指揮官タイプの選手。1976年5月22日のオランダ戦でベルギー代表デビューを飾り、1980年のUEFA欧州選手権1980で準優勝した。また1986年の1986 FIFAワールドカップ4位に貢献。エンツォ・シーフォと並んでベルギーを代表する選手の一人である。

ジェームズ・アンソール
(James Ensor, 1860年4月13日 - 1949年11月19日)は、19世紀〜20世紀のベルギーの画家。近代ベルギーを代表する画家の一人。1860年、北海沿岸の海岸リゾート地であるオーステンデ(オステンド)に生まれた。1877年に首都ブリュッセルの王立絵画アカデミーに入学し、1880年に帰郷するが、この3年間を除いて、長い生涯のほとんどをオーステンデで過ごした。長い生涯を独身で通したアンソールは、当時の美術の中心地であったパリとも無縁で、オーステンデの両親の家の屋根裏部屋をアトリエとして孤独な制作を続けていた。その画風は19世紀〜20世紀の多くの画家たちのなかでも他に類のない個性的なもので、特定の流派に分類することはむずかしいが、パウル・クレー、エミール・ノルデなど多くの著名な画家に影響を与え、また20世紀の主要な美術運動であった表現主義やシュルレアリスムにも影響を与えていることから、20世紀美術の先駆者として高く評価されている。

アントワーヌ・ヴィールツ
(Antoine Wiertz, 1806年2月22日 - 1865年6月18日)は、19世紀ベルギーの画家、彫刻家。ベルギー象徴派の先駆的な人物。神話などに題材を取ったルーベンス風の大画面の作品を制作する一方、死や狂気を描いた超現実的・幻想的な作品を遺した。

ドミニク・ピール
(Georges Charles Clement Ghislain Pire、1910年2月10日・ディナン - 1969年1月30日)はベルギー系ドミニカ人の司祭で、第二次世界大戦後のヨーロッパで難民の救済活動を行い、1958年にノーベル平和賞を受賞した。ローマのドミニカ大学で神学と社会学を学び、1934年に神学の博士号を取得した。彼はその後ベルギーのユイにある修道院に戻り、貧困世帯の救済に当たった。第二次世界大戦中はピールはベルギーの抵抗組織の従軍牧師となり、同盟国のパイロットの国外への密航を手助けした。彼には戦後、この活動に対して多くの賞が贈られた。

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アルベール2世 (ベルギー王)
(Albert II、1934年6月6日 - )は、第6代ベルギー国王(在位:1993年8月9日 - )。第4代ベルギー国王レオポルド3世の第3子。第5代国王ボードゥアン1世の弟。即位前はリエージュ公爵の称号を持っていた。兄のボードゥアン1世には子供がいなかったため、長らく推定相続人の立場にあった。1993年、兄の死を受け即位した。

アドルフ・オイゲン・フィック
Adolf Eugen Fick, 1829年9月3日 - 1901年8月21日)はドイツの生理学者、物理学者、医師である。1855年膜を通過する気体の拡散についてフィックの法則を導いた。

サルヴァトール・アダモ
(Salvatore Adamo、1943年11月1日 - )はイタリアのコーミゾ(シチリア)で生まれたベルギーの作曲家、歌手。レジオンドヌール5等受勲者。イタリア語読みでサルヴァトーレ・アダモ。単に「アダモ」と呼ばれることもある。ジャック・ブレルは「アダモは『愛の植木職人』」と言い、レイモン・デヴォは「アダモは歌であり、詩であり、心を揺らすもの」であると言った。

エルウィン・ヴァンデンベルグ
(Erwin Vandenbergh, 1959年1月26日 - )は、ベルギー出身のサッカー選手である。ポジションはフォワード。1977年にリールセでキャリアをスタートさせる。1979-1980より3シーズン連続でベルギーリーグ得点王となり、1981年にはベルギー・ゴールデンシュー(最優秀選手)にも選ばれた。

カール・ゴッチ
(Karl Gotch、1924年8月3日 - 2007年7月28日)は、プロレスラー、プロレスコーチ。本名はカール・イスターツ(Karl Istaz)。1961年まではリングネームとしてカール・クラウザー(Karl Krauser)と名乗っていた。プロフィール上はドイツ・ハンブルク出身とされているが、実際はベルギー出身と言われている。レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得。ロンドンオリンピック(1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場。

ポール・デルヴォー
(Paul Delvaux、1897年9月23日 - 1994年7月20日)は、ベルギー・リエージュ州生まれの画家。16世紀のマニエリスト達の女性像や、独自の夢とノスタルジーの世界を築く。作品の中では、裸体、建物、電車などが主題としてくり返し表現され、背景には古代ギリシャの神殿がよく用いられる。

スタニスラス=アンドレ・ステーマン
(Stanislas-Andre Steeman, 1908年 - 1970年)はベルギーの小説家。リエージュ出身。1924年にブリュッセルの"La Nation belge"誌の記者となる。1928年に"La Nation belge"の同僚のSintairと合同で推理小説を執筆し、1932年までに5冊を刊行した。1929年からは単独でも執筆をし、1931年に"Six hommes morts"(邦訳『六死人』)でフランス冒険小説大賞を受賞。

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アメリー・ノートン
(Amelie Nothomb, 1967年8月13日 - )は、ベルギーの小説家。現代フランス語圏最有力の作家の一人であり、数多くの文学賞を受けている。外交官の娘として神戸に生まれる。5歳まで日本で育った後、父親の転勤によって中国・ニューヨーク・バングラデシュ・ビルマ・ラオスと移り住む。17歳の時にベルギーに帰国。それまでずっと外国を転々としていたため、故国に帰国子女として戻ってきても「自分が外国人のような感じがした」という。

ヤン・クーレマンス
(Jan Ceulemans, 1957年2月28日 -)は、ベルギー出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。ベルギー代表最多となる96試合出場記録を持つ1980年代のベルギーを代表する選手である。ギー・ティス監督の下で中心選手として1980年のUEFA欧州選手権1980準優勝。1982年のFIFAワールドカップ・スペイン大会では前回優勝国のアルゼンチンを下し2次リーグ進出。

ポール・ヴァン・ヒムスト
(Paul van Himst、1943年10月2日 - )は、ベルギー出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW。ベルギー代表としては1960年10月19日のスウェーデン戦で代表デビューを飾り、1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会出場に貢献。1972年のUEFA欧州選手権1972では3位入賞に貢献するなど、国際Aマッチ81試合出場30得点を記録した。

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