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オーストリア共和国
Republic of Austria

ヨーロッパ

オーストリアの歴史
976年、バーベンベルク家(カペー朝のロベール家が遠祖でもある)のリウトポルトが、オーストリア辺境伯となった。1249年にバーベンベルク家が断絶するとオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したハプスブルク家のルドルフ1世が領有し、以後ハプスブルク家の支配が続く。1438年以降は神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が世襲するようになり、15世紀にはマクシミリアン1世は結婚政策でブルゴーニュ、フランドル、スペインにも家領を持つようになる。


■地理
国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈、パンノニア低地の一部、ウィーン盆地、ボヘミア高地に分けられる。


ノイジードル湖
Neusiedlersee)は、中央ヨーロッパで二番目に大きいステップ湖である。過去において、降雨や乾燥が湖の氾濫(1768年には最大の表面積515km2を記録している)や水位の減退を惹き起こしてきた。湖の層位は、この湖が出来た紀元前18000年から14000年頃から、少なくとも100回は完全に干上がったことを示している。近現代の歴史上でも、湖の完全な消失は何度も詳細に記録されている。

ドナウ川
ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。

イン川
Inn riverは、スイス・オーストリア・ドイツを流れる川である。ドナウ川の支流であり、長さは517kmである。水源はアルプス山脈にあり、水源に近いグラウビュンデン州のエンガディンは、この川(この地域では En と呼ばれる)にちなんで名付けられた。川は北東へ向かい、オーストリアに入る。チロル州を東向きに流れ、ランデックや州都インスブルックを通ってKufstein近郊でドイツのバイエルン州に入る。

アルプス山脈
Alpsは、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属し、ヨーロッパ中央部を東西に横切る「山脈」である。オーストリアを東端とし、スロベニア、イタリア、ドイツ、リヒテンシュタイン、スイス、各国にまたがりフランスを南西端とする。

パンノニア平原
中央・南東ヨーロッパに広がる広大な平原。鮮新世に存在したパンノニア海が干上がったものである。ドナウ川によって二分されている。

ライタ川
Leitha, は西部オーストリアに発し、ハンガリーのモションマジャローヴァール付近でドナウ川に合流する河川。 ハンガリー王国とオーストリアの国境になっていた。

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ドラーヴァ川
ヨーロッパ南部を流れる川である。イタリアの南チロル地方のドッビアーコ付近に源泉を発し、東側の東チロルからオーストリアのケルンテン州を通ってスロヴェニアに至る。

ボーデン湖
(Bodensee)はドイツ、オーストリア、スイスの国境に位置する湖。コンスタンツ湖とも称される。アルプス地方ではレマン湖についで第二の規模で、面積は約540平方キロ。

ヴェルター湖
オーストリア南部、ケルンテン州にある、周囲50キロメートル、総面積19平方キロメートル、東西16キロメートル、南北1〜1.5キロメートルの東西に細長く広がる小さな湖。ケルンテン州の州都クラーゲンフルト(Klagenfurt)は8万5千の人口をほこる商工業中心の文化都市としてにぎわっている。その西約3キロメートルがヴェルター湖の西岸にあたり、避暑地としてにぎわう湖。特に、ヨハネス・ブラームスは、湖の北岸にある寒村だったペルチャッハで交響曲第2番を作曲した。

グロースグロックナー山
オーストリアにある山で、国内最高峰である。標高は3,798メートル。ザルツブルク州、ケルンテン州、チロル州の東チロルにまたがる。周囲はホーエ・タウエルン国立公園となっている。

ネーデルラント
Netherlands )とは、「低地の国々」を意味し、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3ヶ国(ベネルクス)にあたる低地地域(オランダ語:ラーヘ・ランデン de Lage Landen 、英語:the Low Countries)内に存在した諸邦群を表す歴史学用語。

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ケルト人
Celt, Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残されている。紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。


ノリクム
(Noricum)は古代の歴史的地名で、現代のオーストリアとスロベニアの領域に位置したケルト人の王国、またはその後に成立したローマ帝国の属州である。ノリクムはケルト人など北部民族にとっての前哨地点であり、彼らがイタリアに侵攻するときに足がかりとする拠点だった。ケルト人侵入の第一報は、いつもノリクムからもたらされた。ノレイアから40km足らずのハルシュタットにある墓地遺跡などの考古学調査によると、文書が残るようになる何世紀も前の時代、この地には活発な文明が存在したことが示されている。


中央ヨーロッパ
英: Central Europe、独: Mitteleuropa)は、ヨーロッパの中央部に位置し、西ヨーロッパと東ヨーロッパに挟まれた歴史的・文化的世界で、人口が大きくかつ社会資本も高いレベルで充実しており、ドイツのようにすでに経済大国となっているかあるいはポーランド、ハンガリーのように着実に経済大国化を進めている国々を含む非常に活発な地域である。中欧とも。以下の国が代表的な現代中央ヨーロッパの国々である。


第二次ウィーン包囲
1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、大トルコ戦争へとつながった。この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシア(モスクワ大公国)らからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い戦争に入り(大トルコ戦争)、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。

オーストリア帝国
Kaisertum Osterreich)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組までオーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」という。)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。前身の、神聖ローマ帝国内外の王国・領邦の連合国家だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。

ナポレオン戦争
英: Napoleonic Wars, 仏: Guerres napoléoniennes)は、1803年にアミアンの和約が破れてから1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に没落するまでに行われた戦争である。狭義ではナポレオンが皇帝に即位して以後(つまり1804年から)の期間。ナポレオン率いるフランスとその同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦った。

オーストリア=ハンガリー帝国
Osztrak-Magyar Monarchia)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク家の君主が統治した、中東欧の多民族(国家連合に近い)連邦国家である。1867年に、従前のオーストリア帝国がいわゆる「アウスグライヒ」により、ハンガリーを除く部分とハンガリーとの同君連合として改組されることで成立し、1918年に解体するまで存続した。オーストリア=ハンガリーとも。


ナチス・ドイツ
国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、蔑称ナチ党・ナチス)が政権を掌握していた1933年から1945年の間の元首制的共和国としてのドイツ国を指す。正式な国名は帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じて「ドイツ国(Deutsches Reich、ドイチェス・ライヒ)」であった。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)、帝政ドイツ(1871年 - 1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国(独: Drittes Reich、英: Third Reich)」という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス・ドイツ政府はこの語の使用を禁じた。


東フランク王国
Ostfrankenreich)は、843年のヴェルダン条約によって成立した王国。ルートヴィヒ1世の死後、息子ルートヴィヒ2世が843年、ヴェルダン条約によりフランク王国東部を継承した。中部フランク王国の後退の際、メルセン条約により西フランク王国との間で国境を定め、ロタリンギア(ロレーヌ周辺地方)を獲得した。

マルヒフェルトの戦い
Schlacht auf dem Marchfeld)は、1278年8月26日に現在のオーストリアニーダーエスターライヒ州ゲンゼルンドルフ郡の都市デュルンクルトとイェーデンシュパイゲン近郊で起きた、ドイツ王ルドルフ1世及びハンガリー王ラースロー4世と、ボヘミア王オタカル2世との戦闘である。勝利したルドルフ1世は大きく勢力を伸ばし、ハプスブルク家がヨーロッパの有力家系に飛躍するきっかけを生んだ。

モハーチの戦い
Mohacsi csata,は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。オスマン帝国軍が勝利し、ハンガリー平原へと進出する。この戦いでハンガリーはハプスブルク家が統治することになる王領ハンガリー(ハンガリー王国)とトランシルヴァニア公国(東ハンガリー王国)、オスマン帝国領ハンガリーに三分割され、ハンガリー中央部のオスマン支配が150年間続いた。


宗教改革
16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。


ヴェストファーレン条約
Peace of Westphalia)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称である。英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である。

大トルコ戦争
Great Turkish War, 1683年 - 1699年)は、17世紀後半に起こったハンガリー、トランシルヴァニアを巡るオーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟とオスマン帝国の戦争である。1699年のカルロヴィッツ条約締結でオーストリアは再興のきっかけを作り、オスマン帝国は衰退の一途を辿っていった。

オーストリア継承戦争
War of the Austrian Succession,1740年 - 1748年)は、神聖ローマ帝国の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争。カナダやインドで英仏間の戦争にも発展した。主にオーストリアを支援したのは、フランスと対立するグレートブリテン王国(イギリス)とネーデルラント連邦共和国(オランダ)であった。後にザクセンとサルデーニャもオーストリアの側で参戦した。これと敵対する側に立ったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンであった。

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ポーランド分割
Rozbiory Polski、は、18世紀に、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語。

フランクフルト国民議会
Frankfurter Nationalversammlung)は、1848年から1849年にかけてフランクフルト・アム・マインで開催された議会。憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図り、その統一方式などを討議したが、最終的にはオーストリア、プロイセンといった有力君主国の支持を得られず頓挫した。正式名称は「憲法制定ドイツ国民議会」。

ケーニヒグレーツの戦い
Schlacht bei Koniggratz)は、普墺戦争における会戦の1つ。1866年7月3日にボヘミア(ベーメン)中部のケーニヒグレーツ(現在はチェコの都市フラデツ・クラーロヴェー)とサドワ村の中間地点でプロイセン王国とオーストリア帝国の軍の間で戦われた。分進合撃に成功したプロイセン軍はオーストリア軍を包囲し、決定的な打撃を与え、戦争終結を決定づけた。サドワの戦いとも呼ばれる。

サン=ジェルマン条約
Treaty of Saint-Germain,は、第一次世界大戦の後の1919年9月10日に連合国側とオーストリア(第一共和国)の間で結ばれた条約。なお、締結地サン=ジェルマン=アン=レーにちなむ名称であるので、正式にはサン=ジェルマン=アン=レー条約と呼ばれるべきであり、フランスではその名称が正式なものであるが、一般に(日本語はもとより英語、フランス語などでも)サン=ジェルマン条約と呼ばれる。

ウィーン攻勢
1945年4月2日から13日にかけてソビエト赤軍よってオーストリアのウィーンを占領するために行われた攻撃のことである。ウィーンの大部分は包囲の上、攻撃を受けた。

ブルゴーニュ公国
14世紀から15世紀のフランス東部からドイツ西部にかけて存在した、ブルゴーニュ公領(Duche de Bourgogne)を中心とする、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公(Duc de Bourgogne)の支配領域ないしその支配体制をいう。

バイエルン・オーストリア語
Boarisch)は、インド・ヨーロッパ語族西ゲルマン語群に属する言語である。公用語その他ではドイツ語の一種として扱われているが、言語学上は標準ドイツ語の方言として位置づけるのは適切ではないとの説もある。オーストリアとバイエルン州を中心に1000万以上の話者が存在する。

バイエルン人
Bajuwarn)は、南ドイツのバイエルン地方とオーストリアの大部分のほか、中欧から南欧に居住する民族。バイエルンの人々は系統不明の民族とされ、古代のゲルマニアにおいて、ケルト系のボイイ人とスエビ人の流れを汲むマルコマンニ人のグループが融合して成立したと考えられている。

アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。古代にはゲルマン人に次ぐ民族大移動の一部を成してポリーシャからヨーロッパ全域に拡張した。スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。英語で「スレイヴ」(奴隷)という誤解を含んだ不名誉なレッテルで語られることも多いが、しかしその語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するもの(スローヴォ)である。


■民族
ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっており雑多であるが、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。

■宗教
宗教は、5.530.000人(66,0 %)がローマ・カトリックに属している(2009年)。 プロテスタントのうち310,097人(3,7 %)がルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派に, 14.000人(0,165%)が改革派のオーストリア福音主義教会スイス信仰告白派に属している。 515.914人(6,2 %)がイスラム教に属している(2009年)。さらに、ユダヤ教もいる。


<世界遺産>
シェーンブルン宮殿と庭園
シェーンブルン宮殿は、ウィーンの中心部シュテファン大聖堂から西に直線で約5kmの位置にある。市内からは地下鉄U4号線に乗りシェーンブルン駅下車。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模で、1779年頃から公開されている。建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場がある。

ハルシュタット-ダッハシュタイン・ザルツカンマーグートの文化的景観
オーストリアの世界遺産のひとつ。風光明媚なザルツカンマーグート地方の中でも、真珠に喩えられるハルシュタット湖とダッハシュタイン山塊に囲まれるようにして発達した岩塩採掘の町ハルシュタットは、「世界の湖岸で最も美しい街」とも評される独特の景観美を呈している。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の撮影にも使われた。

センメリング鉄道
グロッグニッツ駅から途中ゼメリング駅を経由し、ミュルツツーシュラーク駅に至る。世界初の山岳鉄道として知られるが、他山岳鉄道同様、走行時の地勢の険しさや高低差も特筆に値する。走行距離は全長41.825キロ、高低差は460メートルになる。建設期間は1848年から1854年までの6年間である。

グラーツ市歴史地区
市内にはいくつもの美術館・博物館が点在する。なかでも郊外に位置するエッゲンベルク城は州立博物館アルテ・ギャラリーとして公開され、ビザンティン美術から19世紀絵画までを取り揃えている。

ザルツブルク市街の歴史地区
Hitoric Centre of the City of Salzburgは、オーストリア共和国の世界遺産のひとつ。ドイツとの国境に近い、オーストリア北西部ザルツブルク州の州都ザルツブルクに所在する。古来、塩の交易で栄えてきたザルツブルクであるが、都市としての歴史は、696年、ライン・フランケン地方の司教であった聖ルーペルト(Rupert von Salzburg)が亡命し、バイエルンのテオド大公が彼のために西はキームゼーから南はザルツァッハ川上流の土地を寄進、司教区管轄地とすることを認めて、彼がメンヒスベルク山麓に聖ペーター僧院教会を創設したことにさかのぼる。

ワッハウ渓谷の文化的景観
渓谷の両岸には古城や修道院が点在し、観光クルーズとして人気がある。ドナウ川流域には太古の人々が生活していた数多くの痕跡が残っているが、1909年にヴィレンドルフで発見された石像はその精緻さにおいては最上のものであり、「ヴィレンドルフのヴィーナス」と呼ばれている。

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ウィーン歴史地区
オーストリアの首都ウィーンは、古代ローマ時代からの歴史を持ち、その旧市街には様々な時代に立てられた様々な建築様式の建造物群が現存する。世界遺産の登録に当たっては、特にバロック時代以降の優れた建造物群や19世紀の都市計画の成果などが評価されたほか、近世以降「音楽の都」としてヨーロッパ文化史上で重要な役割を果たしたことなどが評価された。

フェルテー湖/ノイジードル湖の文化的景観
Neusiedlerseeは、中央ヨーロッパで二番目に大きいステップ湖である。集水域は約1120 km2である。南北に約36 km伸びており、東西の幅はおよそ6kmから12kmの間である。アドリア海からの平均の海抜は115.45mで、水深は深いところでも1.8mしかない。


ウィーン国立歌劇場
他の追随を許さない、世界最高の歌劇場である。ドイツオペラとイタリアオペラの両方をカバーするという点では、逆の立場(オーストリアの支配を受けていた)にあったミラノのスカラ座にも同様の性格はあるが、古くからイタリア人スター歌手も多く専属化するなど、ウィーンの国際性は一段と徹底している。劇場はウィーンの中心部、ケルントナー通りとリング通りの交点に面して建てられている。ネオ・ロマンティック様式の建屋は建築家エドゥアルト・ファン・デア・ニュル(意匠)とアウグスト・シカート・フォン・シカーズブルク(構造)によるもの。


ウィーン・フォルクスオーパー
(Volksoper Wien) は、オーストリア・ウィーン9区(アルザーグルント)にある歌劇場。ウィーンではウィーン国立歌劇場に次いで2番目に大きな歌劇場であり、着席1,473人・立席102人を収容する。オペラの他、オペレッタ・ミュージカル・バレエ公演やコンサートなどの会場としても使用され、毎年9月から6月までのシーズン中に約300公演を開催する。


ブレゲンツ音楽祭
Bregenzer Festspieleはオーストリアのブレゲンツで毎年7月から8月にかけて開かれる音楽祭。1946年より開催され、いくつかの会場で様々なイベントを開催する。レジデント・オーケストラはウィーン交響楽団。2010年にはおよそ100の公演を行い、20万人近くを動員した。

ザルツブルク音楽祭
Salzburger Festspiele ザルツブルガー・フェストシュピーレ)は、オーストリアのザルツブルクで毎年夏に開かれる音楽祭。モーツァルトを記念した音楽祭として、世界的に知られている。ウィーン・フィルを始め、世界のトップオーケストラ、歌劇団、指揮者、ソリストが集い、世界でもっとも高級かつ注目を浴びる音楽祭の一つである。

ウィーン交響楽団
Wiener Symphoniker、は、オーストリア・ウィーンに本拠を置くオーケストラである。1900年、フェルディナント・レーヴェによりウィーン演奏協会管弦楽団(Wiener Concertverein Orchester)として設立された。1903年2月11日、ムジークフェラインザールにおいて、レーヴェ指揮によりブルックナーの交響曲第9番の初演を行った。


ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
Wiener Philharmoniker ヴィーナー・フィルハーモニカー)は、オーストリア・ウィーンのウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)に本拠を置くオーケストラである。ウィーン国立歌劇場のオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団(6管編成・150名ほど)の団員のうち、入団を認められた者が自主運営団体たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(5管編成・120名ほど)を構成する。


ハプスブルク家
Haus Habsburgは、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。

バーベンベルク家
(独: Haus Babenberg)は、フランケン地方のバンベルク、現在の北ボヘミアを出自とする一族。オーストリアの辺境伯そして部族大公として976年から1248年の間、断絶によってハプスブルク家に代わられるまでオーストリアを支配した。最も古く歴史に残っているのは、9世紀初めに現在のヘッセン州とテューリンゲン州の間の地域を支配したグラープフェルト伯のポッポ(Poppo I)である。ポッポの息子のハインリヒ(Heinrich I)は、フランケン公にして辺境伯と言われ、886年にはノルマン人と戦っている。


オーストリア料理
ドイツと共通のものや独自のもののほかに、旧オーストリア・ハンガリー各地―特にチェコ・ハンガリーの影響が強く、それらをオーストリア(ドイツ)風にアレンジしたものも多い。食材などにもドイツとは異なるオーストリア独特の言葉が使われる。


ハインリヒ・シフ
Heinrich Schiff、1951年11月18日 - は、オーストリアのグムンデン生まれのチェリスト、指揮者。ドイツ・オーストリア系の正統派チェリストとして評価が高い。6歳からピアノを、9歳からチェロを習い始め、トビアス・キューネに師事した。後にアンドレ・ナヴァラの指導も受けている。いくつかのコンクールでの入賞を基に音楽キャリアをスタートさせたが、1972年にオーストリアのグラーツで開かれた国際現代音楽協会(ISCM)演奏会で病気のムスティスラフ・ロストロポーヴィチの代役としてルトスワフスキのチェロ協奏曲を演奏し大絶賛を博し、これにより彼の名が世界に知れ渡るようになった。

アルノルト・シェーンベルク
Arnold Schö嚴berg, 1874年9月13日 - 1951年7月13日 はオーストリアの作曲家。調性を脱し無調音楽に入り12音技法を創始したことで知られる。若い頃の彼はブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。

 

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フランツ・シューベルト
Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日は、オーストリアの作曲家。各分野に名曲を残したが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、「歌曲の王」と呼ばれることもある。ウィーン近郊で生まれた。メーレン(モラヴィア)にいたドイツ系の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。少年フランツは仲間の徒弟たちから得るものが多く、彼らはフランツを隣接するピアノ倉庫にしばしば案内した。そのため余裕の無い貧しい家庭では触れないような良い楽器で練習する事ができた。当時演奏者として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代に、彼の初期の教育は充分なものではなかった。1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。

ハインツ・フィッシャー
(Heinz Fischer, 1938年10月9日 - )は、オーストリアの政治家。オーストリア社会民主党所属。同国連邦大統領(在任2004年 - )。1938年、グラーツで生まれる。1961年、ウィーン大学法学博士
1978年、インスブルック大学政治学部教授。1990年 - 2002年、国民議会議長。2004年 - 連邦大統領に選出される。2010年、連邦大統領選挙で再選される。

ヴェルナー・ファイマン
(Werner Faymann,1960年5月4日‐)は、オーストリアの政治家。連邦首相(2008年12月2日 - )、オーストリア社会民主党党首。1985年から1988年までファイマンは中央貯蓄銀行[訳語疑問点](現在のバンク・オーストリア(英語版))でコンサルタントをしていた。彼はそこをウィーン・テナント・カウンセリングの代表となる為に辞職した。ウィーン市議会の議員となった時に、社民党青年局ウィーン支部長を1985年から1994年まで務めた。彼は住宅建設と都市再開発といった様々な役職を歴任した。

マリア・テレジア
(Maria Theresia von Osterreich, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。後述するようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。

ヨーゼフ・ヒルトル
(Joseph Hyrtl, 1810年12月7日 アイゼンシュタット - 1894年7月17日)は解剖学者、医師。1837年プラハ大学教授、1845年ウィーン大学教授。肉眼的解剖学、局所解剖学を研究し、特に血管系、骨系の専門家。両舌下神経間に時々認められる吻合「ヒルトルの環(Hyrtl's anastomosis, Hyrtl's loop)」を発見。肖像は、1937年のオーストリアの切手になっている。アイゼンシュタットにはヒルトル通りがある。

ヨハン・ネポムク・フンメル
(Johan Nepomuk Hummel, 1778年11月14日 ポジョニ - 1837年10月17日 ヴァイマル)は当時で言うハンガリー(現在はスロヴァキア)出身のオーストリア系作曲家、ピアニスト。ポジョニ(独語名プレスブルク、現スロヴァキアのブラティスラヴァ)に生まれ、指揮者で弦楽器奏者でもあった父・ヨハネスに音楽の手ほどきを受ける。8歳のとき、アウフ・デア・ヴィーデン劇場の指揮者に就任した父に従ってウィーンへ移り、モーツァルトの家に住込みで2年間に渡ってピアノを師事。
1789年から父と共にヨーロッパ各地を巡演し、神童として喝采を浴びた。1793年ウィーンへ戻り、ウィーン音楽院にてアルブレヒツベルガーに対位法、サリエリに声楽作品、ハイドンにオルガンを学び、またベートーヴェンと親交を結ぶ。

ヨーゼフ・マティアス・ハウアー
(Josef Matthias Hauer, 男性, 1883年3月19日 - 1959年9月22日)は、オーストリアの作曲家、音楽理論家。シェーンベルクよりも早く、独自に12音技法を発展させていたことで知られる。父親は刑務官であったが、アマチュア音楽家でもあり、ヨーゼフの3歳になった頃からツィターを教えた。その後、生地の師範学校に学び、学校教員の技能としてチェロ、合唱の指揮、オルガンなどの音楽教育を受けたが、理論や作曲は独学であった。1918年にゲーテの色彩論に基づいた色聴についての音楽理論書を出版。1919年8月に12音による作曲技法を発明する。彼の作曲技法は、作品を追う毎に変化しており、1音1音を積木を積むように構築された作品もあれば、12音の並びから和声の連結を生成する手法を用いたもの、易学に基づくもの、図形楽譜まであり、非常に多彩である。

フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ
Franz Ferdinand Karl Ludwig Josef von Habsburg-Lothringen,1863年12月18日 - 1914年6月28日は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者、オーストリア=エステ大公。サラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺された。このサラエヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発した。大公夫妻はサライェヴォの町でセルビア民族主義を奉じる秘密組織黒手組の暗殺者ガブリロ・プリンチプによって暗殺される。時に大公51歳、ゾフィー46歳であった。

アントン・ブルックナー
(Josef Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家。ブルックナーは当時最も腕の立つオルガン奏者だった。ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学んだ。1863年ごろからリヒャルト・ワーグナーに傾倒、研究するようになる。さらに1866年、ウィーンで聴いたベートーヴェンの交響曲第9番に強い影響を受ける。

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フランツ・ウェルザー=メスト
(Franz Welser-Most, 1960年8月16日 - )はオーストリアの指揮者。リンツにおいて、肺疾患の専門医の父と国民議会議員の母のもとに生まれる。14歳で地元の音楽高校に入学する。ここで作曲家バルドゥイン・シュルツァーに学ぶ。当初の志望は指揮者ではなくヴァイオリニストだった。ところが1978年11月19日、シューベルト没後150周年記念日にシューベルトのピアノ五重奏曲『ます』の演奏のため会場に向かう途中、交通事故に遭遇して背骨を3ヶ所も折る重傷を負い、ヴァイオリニスト志望の断念を余儀なくされた。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 - 1791年12月5日)はドイツの作曲家、演奏家。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。ザルツブルクに生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領。3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。

ヘルベルト・フォン・カラヤン
(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)はオーストリアの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の芸術監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占して、圧倒的な権力を誇った。

シュテファン・ツヴァイク
(Stefan Zweig, 1881年11月28日 ウィーン - 1942年2月22日 ブラジル・ペトロポリス)はオーストリアのユダヤ系作家・評論家であり、1930年代から40年代にかけて大変高名であった。第一次大戦後はオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルクに滞在する。ザルツブルクでの住居はカプチーナベルクのパッシンガー城であった。1927年の『人類の星の時間』はドイツ語圏では、彼の代表作とされている。1928年にはソヴィエト連邦を旅行して、マクシム・ゴーリキーと交際する。1930年にはアメリカに旅行し、亡命中のアルベルト・アインシュタインに面会して 『精神による治療』(Heilung durch den Geist)を献呈する。

フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー
(Friedensreich Regentag Dunkelbunt Hundertwasser、1928年12月15日 - 2000年2月19日)はオーストリアの芸術家、画家、建築家。ウィーンのエルンスト(Ernst Stowasser)とユダヤ系チェコ人の母エルゼ(Else)のもとに生まれた。実家のシュトーヴァッサー家はシレジア地方(オーストリアン・シレジア)の家系で、オパヴァの古典文献学者ヨーゼフ・マーリア・シュトーヴァッサーは親戚である。幼い頃、森で花を摘み、押し花にするのが好きだった少年であったフンデルトヴァッサーは、花の色をきれいなまま残したいと絵を描き始めた。

グスタフ・クリムト
(Gustav Klimt, 1862年7月14日 - 1918年2月6日)は、帝政オーストリアの画家。グスタフ・クリムトは1862年にウィーン郊外のバウムガルテンに生まれた。父エルンストはボヘミア出身の彫版師、母アンナは地元ウィーン出身であり、クリムトは7人兄弟の第2子であった。ウィーン7区の小学校で学んだ後、1876年に博物館付属工芸学校に入学した。

イヴァン・イリイチ
(Ivan Illich, 1926年9月4日 - 2002年12月2日)は、オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家である。第二次世界大戦中はユダヤ系であることを隠すために身分証を偽造しフィレンツェで化学を、ローマのグレゴリアン大学で哲学と神学を、戦後はザルツブルクで歴史を学び、カトリックの神父となる。・・・他方で、ローマ・カトリックに対して、その「独善的、官僚制的、排外主義的体質」を認め公然と「文化帝国主義」と批判していたイリイチに対して、ボストンのクッシング枢機卿とメキシコ司教会議はイリイチの追放活動を展開。これに対して、スペルマン枢機卿やクエルナバカの司教メンデス・アルセオはイリイチを擁護し、1960年代末にバチカンと大西洋をまたぐ大論争が展開されることになった。

アンドレアス・マイスリンガー
(Andreas Maislinger, 1955年2月26日 - )は、オーストリアの政治学者であり、オーストリアの「Gedenkdienst」(兵役に代わりホロコースト犠牲者追悼のために奉仕する制度)の創始者である。1992年からは、ブラウナウ・アム・インにおいて毎年開催される現代史のシンポジウムの責任者として活動している。また2000年にはアドルフ・ヒトラーの生家の近くに「責任の家」(Haus der Verantwortung) を開設することを提案した。

フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
(Franz Karl von Osterreich, 1802年12月7日 - 1878年3月8日)は、オーストリア帝国の皇族。1802年12月7日、フランツ・カールはフランツ2世とその2人目の妃であったマリア・テレジアの間に第9子としてウィーンで生まれた。政治的野心とは無縁の人物で、長兄フェルディナント1世が1848年に退位した際は帝位継承権第1位であったにもかかわらず即位を辞退し、長男のフランツ・ヨーゼフに帝位を譲っている。一方文化活動には熱心で、リンツにあるオーバーエスターライヒ州立博物館の "Francisco-Carolinum" は支援者であった彼を記念して名付けられたものである。

クレメンス・メッテルニヒ
(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein、1773年5月15日- 1859年6月11日)は、コブレンツ(現ドイツの都市)出身。オーストリアの政治家として活躍し、外相としてウィーン会議を主宰したほか、のちオーストリア宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えた。

ヘルムート・バーガー
Helmut Berger, 1944年5月29日 - は、オーストリア、バート・イシュル出身の俳優。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品の常連で、秘蔵っ子だったことで有名である。ヴィスコンティ亡き後は自身を「わたしはヴィスコンティの未亡人」と呼んでいた。ホテルの経営者の一人息子として生まれ、跡取りとして運営等のノウハウを身につけるためにホテルの専門学校へ行かされるが、幼い頃から女装やちょっとしたコスプレが好きで、俳優になることを夢見ていた。大学在学中の1964年、クラウディア・カルディナーレ主演の『熊座の淡き星影』で、たまたまトスカーナ地方のロケに来ていたヴィスコンティらの撮影現場に居合わせた。

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ヘルマン・マイヤー
(Hermann Maier, 1972年12月7日 - )は、オーストリア出身のアルペンスキー選手。高速系の種目を得意とし、とりわけスーパー大回転では長年無敵を誇った。若い頃は夏は煉瓦職人、冬は父が経営するスキー学校の教師として働いていた。1996年に24歳でワールドカップにデビュー。1998年の長野オリンピックの滑降の競技中、風に煽られてバランスを崩しコースを大きく外れ転倒、防護ネットを突き破って50m近く転げ落ちた末にようやく止まり病院に運ばれた。幸い大事には至らなかったが、大事を取って直後に予定されていた複合を棄権、しかしこの大クラッシュのわずか3日後にスーパー大回転に出場し金メダルを獲得。さらに大回転でも金メダルを獲得したため、多くのファンに「不死身」というイメージを植え付けた。

フレッド・ジンネマン
(Fred Zinnemann, 1907年4月29日 - 1997年3月14日)は、アメリカ合衆国の映画監督。ウィーン大学在学中にキング・ヴィダーの『ビッグ・パレード』、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード』、カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』、セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』等の映画に夢中になり、映画で生計を立てることを決心する。

ヴェルナー・シュラガー
(Werner Schlager, 1972年9月28日- )は、オーストリアの卓球選手。第47回世界卓球選手権パリ大会男子シングルス優勝者。オーストリアのウィーナー・ノイシュタット出身。父親の影響で5歳から卓球を始める。幼い頃は卓球とともにサッカーもやっていたが、10代前半から卓球に専念するようになった。オーストリア国内でジュニアチャンピオンになった後、18歳の時にオーストリア代表チームに入る。

ライナー・キュッヒル
(Rainer Kuchl、1950年8月25日 - )は、オーストリアヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス生まれのヴァイオリン奏者。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の現役コンサートマスター。使用楽器は、1994年よりオーストリア国立銀行から貸与されている1725年製ストラディヴァリウス「シャコンヌ」。夫人は日本人。

バンビキラー
(Bambikiller,1981年9月6日生)は、オーストリア出身のプロレスラー。身長おおよそ192センチメートル、体重おおよそ112キログラム。オーストリア南東部のレオーベンという町に生まれ、1998年5月9日―16歳の時にプロレスラーの経歴を始動。それからというもの、母国オーストリアとその隣国たるドイツのプロレス団体群を主戦場としつつ、時には海を越えてエクアドル、コロンビア、イギリス、アイルランド、デンマーク、アメリカ合衆国、日本などといった数多の国々を舞台に活動してきた。

アンゲリカ・カウフマン
Maria Anna Angelika/Angelica Katharina Kauffmann, 英語よみ:アンジェリカ・カウフマン、1741年10月30日 クール - 1807年11月5日 ローマ)は、スイス出身のオーストリア人新古典主義画家。父親のヨーゼフ・ヨハン・カウフマン(Joseph Johann Kauffmann)は貧しいものの熟練した画家で、絵のためによく旅をしていた。娘にも絵を教えた。母親のクレオフェア・ルッツからは複数の言語を教わった。アンゲリカは絶えず読書し、音楽家としての才能も示したが、際だっていたのは絵画だった。

トーマス・モルゲンシュテルン
Thomas Morgenstern、1986年10月30日 - )は、オーストリア、シュピッタール・アン・デア・ドラウ郡出身のスキージャンプ選手。トリノオリンピック個人ラージヒル&団体金メダリスト。2006年のトリノオリンピックでは個人ラージヒルと団体で金メダルを2つ獲得するも、2006-2007シーズンまではわずかワールドカップ2勝にとどまっていた。しかし2007-2008シーズンは開幕から6連勝を達成。2月はじめの札幌での2連戦も連勝するなど圧倒的な強さで2月17日のヴィリンゲン(ドイツ)での大会で自身初、オーストリアチームとしてもアンドレアス・ゴルトベルガー以来12年ぶりの総合優勝を果たした。

コンラート・ローレンツ
(Konrad Zacharias Lorenz, 1903年11月7日 - 1989年2月27日)は、オーストリアの動物行動学者。コンラッド・ローレンツとも表記される。刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られる。息子は物理学者のトマス・ローレンツ。父より先に死去した。ノーベル賞受賞に際して書かれた自伝的エッセイで、両親が「私の動物への尋常ではない愛情に対して、おそろしく寛容だった」こと、そしてセルマ・ラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』がガンへの情熱を満たしたことが科学者として重要だったと認めた。

ローランド・リンツ
(Roland Linz、1981年8月9日 - )はオーストリア出身の同国代表サッカー選手。ポジションはフォワード。15歳の頃、ドイツの名門1860ミュンヘンのスカウトに見出され、同クラブの育成部門に移籍。後、オーストリア2部のクラブで多くの得点を挙げたことにより、19歳でオーストリア・ブンデスリーガに属するFKアウストリア・ウィーンに移籍。

フェリックス・ゴットヴァルト
(Felix Gottwald、1976年1月13日 - )は、オーストリアザルツブルク州ツェル・アム・ゼー出身のノルディック複合選手である。2006年のトリノオリンピックでは7.5kmスプリント、4x5km団体(グルーバー、ビーラー、シュテヒャー)で金メダル、15km個人ではゲオルク・ヘティヒに敗れるも、銀メダルを獲得した。

オーストリア Austria
ヨーロッパの連邦共和制国家。首都はウィーン。中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。

ウィーン
オーストリアの首都。人口は171万9730人(2011年3月31日)。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。

ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。

市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は19世紀に大規模な治水工事が行われたことで、現在のようなまっすぐな姿になった。旧市街に接して、ドナウ運河が流れており、こちらをドナウ河であると誤解する観光客も多い。ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍の忘れていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で現在でも多くの観光客を惹きつけている。

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アイゼンシュタット
(Eisenstadt)は、オーストリア東部の都市。ブルゲンラント州の州都。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、アイゼンシュタット=ウムゲーブング郡の郡庁が置かれている。都市の周辺は葡萄畑に囲まれており、また都市周辺部には緑の多い自然豊かな都市である。 ハイドンが仕えていたエステルハージ家のエステルハージ城(邸宅)がある。また、北部にはユネスコの世界遺産に登録されているノイジードル湖があり、ヨーロッパ最大の遠浅の湖として知られる。

グラーツ
オーストリアの人口第2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。人口は約25万人。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、グラーツ=ウムゲーブング郡の郡庁が置かれている。古代ローマ帝国の時代に設けられた砦がグラーツの起源であり、町の語源はスラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきている。市内にはいくつもの美術館・博物館が点在する。なかでも郊外に位置するエッゲンベルク城は州立博物館アルテ・ギャラリーとして公開され、ビザンティン美術から19世紀絵画までを取り揃えている。

クラーゲンフルト
(Klagenfurt)は、オーストリアの都市。 ケルンテン州の州都。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、クラーゲンフルト=ラント郡の郡庁が置かれている。ヴェルター湖の東岸に位置する都市。ケルンテン州の経済・文化の中心。主に夏場には観光客も集める。交通の要所でもあり、オーストリア各地に幹線道路、幹線鉄道が延びている。近隣の都市としては、約35キロ西にフィラッハ、100キロ北東にグラーツ、65キロ南にスロベニアのリュブリャナが位置している。

ザンクト・ペルテン
(独: Sankt Polten)は、オーストリアの都市。ニーダーエスターライヒ州の州都およびザンクト・ペルテン=ラント郡の郡庁所在地であり、郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)に指定されている。ロマネスクから初期ゴシック様式のものをバロック風に改装した大聖堂など、多くのバロック建築が見られる。面積108km2。人口約5万人。

ザルツブルク
Salzburgは、オーストリアの都市。同名のザルツブルク州の州都である。ザルツは「塩」、ブルクは「砦」の意である。15キロほど南のバート・デュルンベルクで産出される岩塩をハライン (Hallein) 市において製塩し、大司教から特権を与えられたラウフェン(Laufen)の船乗りたちがハラインからザルツァッハ川(Salzach)を通じてヨーロッパ各地に送っていた。

リンツ
(Linz、Linz an der Donau)は、オーストリアの都市。オーバーエスターライヒ州の州都。人口は約19万人。ウィーン、グラーツに続くオーストリア第3の都市である。また、ナチスのアドルフ・ヒトラーの故郷はその近郊のブラウナウ・アム・インである。2009年の欧州文化首都に選ばれている。世界で最も古いケーキとも言われるリンツァートルテ発祥の地としても有名である。

インスブルック
(Innsbruck)は、オーストリア共和国の都市で、チロル州の州都である。風光明媚な観光地として、またウィンタースポーツの地として世界的に知られており、1964年と1976年にオリンピックを開催したことでも知られる。舞踏会や演劇といった芸術活動が非常に盛ん。ティロル州立劇場は1629年建築の重厚な古典様式の劇場であり、オペラ、演劇、ミュージカルなど様々なプログラムを上演している。


カフェ・ラントマン
ウィーンのインナーシュタット(ウィーン1区)のドクター・カール・リューガーリングにあるブルク劇場のそばのパレス・リーベン・アウシュピッツの地上階にある。 カフェ・ラントマンは、1873年10月、カフェ経営者フランツ・ラントマンによってウィーンで「ウィーンの最もエレガントで最も大きなカフェ」として開店した。ラントマンでは、世紀末にはグスタフ・マーラー、ペーター・アルテンブルク、ジークムント・フロイト、フェーリクス・ザルテン、カールマーン・イムレが語らい、少し後になると、ユリウス・ラーベ、クルト・ユルゲンス、オットー・プレミンジャー、ロミー・シュナイダーらが常連客となった。

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外務省:オーストリア共和国
在オーストリア日本国大使館


ウィーン大学
1365年創立の、ドイツ語圏最古・最大の大学である。ルドルフ4世がカレル大学に対抗して創立。「ルドルフ4世大学(Alma Mater Rudolphina Vindobonensis)」と当初は呼ばれていた。

インスブルック大学
(Leopold-Franzens-Universitat Innsbruck)は1669年に設立されたオーストリアの大学である。現在はオーストリアでウィーン大学、グラーツ大学に次ぐ規模の大学である。


ウィーン国際空港
Vienna International Airportは、オーストリアの首都ウィーンの南東18kmに位置するニーダーエスターライヒ州シュヴェヒャートにある空港。

インスブルック空港
Innsbruck Airportは、オーストリアのチロル州の州都インスブルックにある国際空港。インスブルックの旧市街から西に約5キロメートル離れた、イン川沿いのクラーネビッテン地区(Kranebitten)にある。

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オーストリア連邦鉄道
OBB, Osterreichische Bundesbahnen)は、オーストリアの国鉄事業を所管する国有企業グループである。1992年に政府系公社から国有の特殊会社に転換されたあと、2003年成立の連邦鉄道組織法にともない、2005年に主要子会社5社を傘下に持つ連邦政府100%出資の国有持株会社ÖBB-Holding AG(OBBホールディング株式会社)に改組された。


ブラウナウ・アム・イン
(Braunau am Inn)は、オーストリアのザルツブルクから北へ60キロメートルの、オーバーエスターライヒ州西北部のイン川の畔にある基礎自治体 (Gemeinde)。ドイツとの国境にある街。東南部にオーストリアで三番目に大きい都市のリンツがある。アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日にブラウナウに生まれた。1989年、市長のゲアハルト・シーバはヒトラーの生家の前に、戦争とファシズムに反対する石碑を建てた。1992年以降、現代史協会はブラウナウにおける現代史のシンポジウムを開催し、また1998年からは「ホロコースト記念施設での奉仕活動」の為の会合を、毎年ブラウナウにて行っている。地域新聞「ブラウナウ・ルントゥシャウ」は「ブラウナウはここに反戦、反ファシズムを掲げる」という署名運動を開始した。

ブレゲンツ
Bregenz,はボーデン湖の湖畔に位置する都市。オーストリア西端に位置し、湖を隔ててドイツ、スイスに接する。スイスに隣接していることから、気質もオーストリアよりスイス人に近いともいわれる。繊維、時計産業が発展しているほか、観光地として多くの観光客を集める。

ザルツカンマーグート
Salzkammergutは、オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地である。ザルツブルク市の東方に位置する。ザルツカンマーグートは「塩の御料地」の意味であり、かつてこの地方の価値ある塩鉱がハプスブルク帝国の帝国直轄地だったことに由来している。

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シュタイアー
(Steyr)は、オーストリアのオーバーエスターライヒ州の都市で、行政的には郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。シュタイアーは、980年に歴史的な建物の大規模な改修を受けた。街はオーストリアで最も保存状態の良い街の1つである。"Stadtplatz"周囲の旧市街が有名。旧市街は数百年間とても良く保存され、第二次世界大戦後には大規模な修復がされた。

バーデン・バイ・ウィーン
Baden bei Wien, はオーストリア北東部、ニーダーエースターライヒ州バーデン郡に属する 基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。ウィーンの森の東麓、ウィーンの南約25キロに位置する。ローマ時代から「パンノニアの水」として知られた硫黄泉の湧く温泉地であった。

バート・イシュル
Bad Ischlは、オーストリアのオーバー・エースターライヒ州南部に属する基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。ハルシュタット文化の時代より居住が確認されており、1262年に最初の記述がある。 1419年アルブレヒト2世によって「Salzkammer」と呼ばれる地方議会がWildenstein城に設立された。

ハルシュタット
Hallstattは、オーストリア中部オーバー・エースターライヒ州に属する小規模な 基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。ダッハシュタイン山塊の山麓に位置し、ハルシュタット湖の湖畔に家々が並び立つ景観は、オーストリアの代表的な風景として観光ガイドに用いられ、近年では観光地として脚光を浴びている。

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ゼーフェルト
(Seefeld) は、オーストリアのチロル州インスブルック=ラント郡の都市である。周辺にはアイスクリーム屋や、観光客相手の土産物売り場がいくつかある。また駅からやや歩くと多くのレストランが存在する。

ウィーナー・ノイシュタット
Wiener Neustadt, は、ニーダーエスターライヒ州の都市。ウィーンの南方に位置し、郡(Bezirk; 行政管区)に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。第二次世界大戦ではオーストリア最大の爆撃を受けて市の80%が破壊され、アメリカの爆撃で数千人の市民が死亡した。1946年、街の復興のために市当局は市民に自発的に協力するよう呼びかけた結果、数千トンのがれきが片付けられる。1955年オーストリア国家条約が結ばれ、オーストリアが連合国の占領から完全に独立したときに、オーストリア最大の被害を受けたこの都市の復興事業も終わっていた。

クレムス・アン・デア・ドナウ
( Krems an der Donau ) はオーストリアのニーダーエスターライヒ州の都市で、行政的には郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。 ニーダーエスターライヒ州では、5番目に大きい都市で、ウィーンのおよそ70km西に位置している。

フィラッハ
(Villach) はオーストリアの都市。ケルンテン州に属し、州都のクラーゲンフルトに次ぐ第二の都市である。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、フィラッハ郡の郡庁が置かれている。人口は約5万9千人(2009年)。ドナウ川の支流であるドラウ川の谷に位置している。イタリアやスロヴェニアの国境に近く、南欧との物流拠点としての役割を果たす。

リエンツ
Lienz)は、オーストリアのチロル州リエンツ郡の 基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。チロル州の飛び地である東チロル地方の中心の町。人口約13,000人。登山とスキーなどリゾート地としてにぎわう。

シュヴァルツェンベルク
Schwarzenberg, は、オーストリアのフォラールベアーク州のブレゲンツの森にある村。ブレゲンツ郡の一部。2002年現在、人口は1,805人。村の中心地は下見板造りの家のため遺産保護されている。この地では毎年、国際的に有名なリートおよび室内楽の音楽祭「シューベルティアーデ・シュヴァルツェンベルク(Schubertiade Schwarzenberg)」が催されている。

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ブルゲンラント州
Burgenland)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はアイゼンシュタット。1921年にトリアノン条約とサン=ジェルマン条約によってハンガリー王国から領土を割譲され成立した。

チロル州
Tirol, は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。オーストリア西部に位置し、北チロルと東チロルからなる。州都は北チロルにあるインスブルック。東チロルの中心都市はリエンツ。州都インスブルックでは1964年と1976年に冬季オリンピックが開催された。


チロル城
Schloss Tirol)は、現在のイタリア領南チロル、ボルツァーノ県メラーノ(メラン)近郊にある城。チロル伯爵家の元の居住地であり、またチロル(ティロール)という一国の誕生の地でもあった。15世紀になって交通の便がよいインスブルックに政治の中心が移動するまでは、チロル城は国主の居城であった。2003年、この城に南チロル文化・歴史博物館が設置された。

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ニーダーエスターライヒ州
(Niederosterreich)は、オーストリアの連邦州の一つ。オーストリア北東部に位置する。「ニーダーエスターライヒ」とは「低地オーストリア」の意味で、この国の中では比較的標高が低い。州都はザンクト・ペルテン。

オーバーエスターライヒ州
Oberosterreich)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はリンツ。面積約12,000平方km、人口約140万人。州内にアドルフ・ヒトラー出生の地ブラウナウ・アム・インがある。西南部のザルツカンマーグート地域は山と湖の風光明媚な地形で国内外から多くの観光客が訪れる。ハリウッド映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった。

ケルンテン州
Karnten)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はクラーゲンフルト・アム・ヴェルターゼー。ドイツ語の Kärnten はケルト語に由来すると考えられており、二つの説がある。一つは「友人」や「親類」を意味する carant で、これは青銅器時代のイリュリア人を指しているとする。

シュタイアーマルク州
Steiermark)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はグラーツ。人口約118万人、面積16,392平方km。州の紋章は銀豹。鉄資源が豊富で鉄鋼業が盛んなため「鉄の辺境地」(Eisener Mark)とも呼ばれている。

ザルツブルク州
Salzburg)はオーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都は同名のザルツブルク市。州の大部分がアルプス山脈北東部にあたり、州内を南西から北へ逆L字に流れるザルツァッハ川沿いに都市が発展してきた。

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フォアアールベルク州
Vorarlberg, は、オーストリアの最西部の連邦州で、ウィーン州についで2番目に狭い州。州都はブレーゲンツ。最大の都市はドルンビルン。


国民議会
ドイツ語: Nationalrat)とはオーストリア共和国の代議機関。国民議会は二院制である同国議会の第一院に相当し、連邦各州の州議会で選ばれた議員によって構成される第二院とは互いに独立して設置されており、連邦全体にかかわる特別な案件については両院が連邦会議を合同で開く。

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連邦議会
ドイツ語: Bundesrat)はオーストリア共和国の議会上院。下院である国民議会と並んで、連邦制である同国の立法を司っている。
ドイツの連邦参議院とは異なり、連邦議会の議員は自由に立候補することができる。議員は採決のさいに協調することができるが、所属会派や出身連邦州ごとで議員の採決行動を制約する規定は存在しない。

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■政治
政体は連邦共和制。議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。


オーストリア国民党
オーストリアの中道右派のキリスト教民主主義、保守主義政党。日本語では「オーストリア人民党」と訳される場合もある(こちらの方が原語の意味には近い)。
第一共和制時代のキリスト教社会党の後身。国際民主同盟に加盟している。現在の党首はヨーゼフ・プレル (Josef Pröll)。党のシンボルカラーは黒である。

オーストリア社会民主党
オーストリアの中道左派、社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟。2008年以降の党首はヴェルナー・ファイマン。1999年に国民党が極右政党であるオーストリア自由党と連立を組んだために野党に転落し、2002年の国民議会(下院)選挙では36年ぶりに第1党の座を失ってしまった。2006年の国民議会選挙では、議会第1党の座を奪回し、グーゼンバウアー党首が連邦首相となった。2008年の国民議会選挙では、議会第一党の座を守ったものの、11議席を減らした。


緑の党
Die Grunen - Die Grune Alternative)は、オーストリアの環境保護政党。グローバルグリーンズ加盟政党で、欧州緑の党のメンバーでもある。1986年に オーストリア・オルタナティヴ・リスト(ALÖ) と、より保守寄りの オーストリア緑の連合 (VGÖ)が合流し 緑のオルタナティブ として結成。この年の国民議会(下院)総選挙で初めて議席を獲得した。以後、下院総選挙では毎回、議席を獲得し続けている。1993年に現在の党名になった。2004年現在で3000名の党員がいるが、それ以外にも党の活動を支える多くのボランティアがいる。環境問題以外ではマイノリティの人権擁護、直接民主主義、非暴力、フェミニズム、自己決定権などを掲げる。


オーストリア自由党
(Freiheitliche Partei Osterreichs、略称:FPO)は、オーストリアの極右政党。「自由党」を名乗るが、自由主義政党というよりも、極右ポピュリズム政党、ドイツ民族至上主義政党の性格が強い。これは、同党が第一共和国時代において「ドイツ民族主義派 」と呼ばれた「農民同盟」・「大ドイツ人党」・「護国団」などの大ドイツ主義的な小政党の連合体に由来するところが大きい。

オーストリア未来同盟
Bundnis Zukunft Osterreich; BZOは、オーストリアの中道右派政党。オーストリア未来連合などとも訳される。2008年11月19日以降は党首が不在で、ヘルベルト・シャイプナーが代行している。また国民議会における会派代表 (Klubobmann) にはヨーゼフ・ブフナーが務めている。

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■国名
公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国。国名の Osterreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。ドイツ語の reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。


1.面積:約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)
2.人口:約840万人
3.首都:ウィーン(人口約160万人)
4.民族:主としてゲルマン民族
5.言語:ドイツ語
6.宗教:カトリック約78%、プロテスタント約5%

1270年 ハプスブルク家ルドルフ公、オーストリア王権確立
1918年 第一次世界大戦敗北によりハプスブルク帝国崩壊、共和制開始
1938〜1945年 ナチス・ドイツによるオーストリア併合
1955年 連合国との国家条約締結により独立を回復。永世中立を宣言、国連加盟。
1995年1月 EU加盟

■主要産業:機械、金属加工、観光

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ユーロ
1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。


■経済
2005年の一人当たりGDPは世界第10位に位置し、経済的に豊かな国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。


シェンゲン協定
ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定である。欧州経済共同体に加盟していた当時の10の加盟国のうちベルギー、フランス、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツの5か国が1985年6月14日にルクセンブルクのシェンゲン付近を流れるモーゼル川に投錨していたプランセス・マリー=アストリ号において署名した文書。


ウィーン会議
Congress of Viennaは、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された会議。ヨーロッパ諸国の代表が集い、議長はオーストリアの外相メッテルニヒが務めた。ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月1日から開催された。

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国際モーツァルテウム財団
Die Internationale Stiftung Mozarteum)はオーストリアのザルツブルクにある非営利民間財団。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの研究、出版、コレクションの収集を行う世界的な機関である。また、モーツァルト美術館の運営、国際モーツァルト週間の開催などの事業も行っている。国際モーツァルテウム財団の建物はマカルト橋に近い新市街に位置し、以前はザルツブルク・モーツァルテウム大学と同居していたが、現在は財団単独で入居している。隣接する大ホールも財団の管理運営下にある。


エーリヒ・クライバー
Erich Kleiber, 1890年8月5日 - 1956年1月27日はオーストリアのウィーン出身で20世紀前半を代表する指揮者の一人。指揮者のカルロス・クライバーは息子。古典派から新ウィーン楽派までの作品で、引き締まった演奏を聴かせた名指揮者であった。プラハ大学で歴史と哲学を学ぶ。学生時代から劇場通いを頻繁に行い、マーラーの指揮に影響され、自身も指揮者への道を本格的に志すようになった。プラハ音楽院で指揮を学習した後、1911年に指揮者デビューする。

ニコラ・テスラ
Nikola Tesla1856年7月10日 - 1943年1月7日は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。1856年7月9日深夜、ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピチ (Gospić? 近郊のスミリャン村 (Smiljan) で生まれる。1880年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交流電磁誘導の原理を発見する。

ワルター・クリーン
Walter Klien, 1928年11月27日 - 1991年2月10日はオーストリアのピアニスト。グラーツ出身。ウィーン音楽アカデミーでアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに師事。ボルツァーノのブゾーニ国際ピアノコンクールと、パリのロン=ティボー国際コンクールを制覇した。

クリスチャン・ドップラー
Johann Christian Doppler, 1803年11月29日 - 1853年3月17日は、オーストリアの物理学者、数学者、天文学者。観測者と震動源との相対運動によって振動数が変化することを詳しく調べ、1842年、それをもとに数学的な関係式をつくった。いわゆる「ドップラー効果」である。

カール・ヴェルスバッハ
Carl Auer von Welsbach、1858年9月1日 - 1929年4月8日はオーストリアの化学者、発明家である。科学的研究の才能だけでなく、商業的に成功した製品を発明した。化学者としての功績は1885年に希土類元素のプラセオジム、ネオジムを発見した。

ハンス・アスペルガー
Hans Asperger、1906年2月18日 - 1980年10月21日は、アスペルガー症候群を名付けた、オーストリア・ウィーン生まれの小児科医である。1944年、彼はアスペルガー症候群の最初の定義を著した。4人の男児において、彼が「自閉的精神病質」と呼んだ、自閉症(そのもの)と精神病質(人格の疾患)を意味する行為や能力のパターンが見られた。そのパターンには、「共感能力の欠如、友人関係を築き上げる能力の欠如、一方的な会話、特定の興味における極めて強い没頭、ぎこちない動作」が含まれる。彼はアスペルガー症候群(AS)の子供達が、興味のある事柄について非常に詳細に語る能力を持っていることから、彼らを「小さな教授たち」と呼んだ。

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ヴィクトール・フランクル
Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 - 1997年9月2日は、オーストリアの精神科医、心理学者。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。著作は多数あり、日本語訳も多く重版されている。精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。

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アルフレッド・アドラー
Alfred Adler 独語での発音はアルフレート・アドラー、1870年2月7日 - 1937年5月28日は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。アドラーは、幼い頃に、声帯のけいれんとくる病に苦しんだ。また、3歳年下の弟が生後1年でジフテリアで死んだこと、そして、アドラー自身が4歳頃に肺炎にかかって危うく死にかけたことから、医師になる決心をした。アドラーの最初の診療所は、プラーター遊園地の近くにあったので、彼の患者には、遊園地で働く、料理人や軽業師、芸人等が少なくなかった。それらの人々を援助する中で、アドラーは、彼らが、身体的な弱点を克服して、むしろそれを強みにしたり活かしたりして遊園地での仕事を得ていることに気がついた。アドラーは、自分自身の体験と、そして、主にプラーター遊園地の患者を援助する中で、器官劣等性がある人は、そのような自分の身体的な弱点を努力によって、補償あるいは過補償を行うという理論を発展させた。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
1889年4月26日 - 1951年4月29日はオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。ウィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でメンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ブラームスやマーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた。ルートヴィヒの兄パウル・ウィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している。家族から引き継いだ負の遺産としては鬱病や自殺の傾向がある[注釈 3]。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた。

ヴィッキイ・バウム
Vicki Baum, 1888年1月24日 - 1960年8月29日は、オーストリアの作家。バウムの作品を原作とした映画『グランド・ホテル』(1932年)がアカデミー賞最優秀作品賞を獲得。ウィーンのユダヤ人一家に生まれた。バウムは、ブルジョワ的な環境のなかで幼少期を過ごし、8歳でハープを習い始め、およそ6年間、ハープ奏者としての専門的な教育を受けた。また、10代の頃には、すでに趣味で小説を書き始めていた。1914年にジャーナリストと結婚するも、すぐに破局。しかし、この結婚をきっかけとして、バウムは、ウィーンの文学界に導かれることになり、やがて著作を発表し始めるようになる。離婚後、バウムはドイツに出向き、3年の間、オーケストラのハープ奏者をつとめるとともにダルムシュタットの音楽教師として働いた。また、第一次世界大戦の間には看護士としても働いた。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ) - 1809年5月31日 ウィーン、但し遺体はアイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。たくさんの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。6歳のときに親戚の家に送られ、音楽の勉強を始める。1740年、ウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められたことから、ウィーンに住むようになる。その後はここで聖歌隊の一員として9年間働いた(後半の4年間は弟ミヒャエル・ハイドンも聖歌隊に加わった)。ロイターはろくに隊員に食事を与えず、教育も適当であったが、音楽の都でプロの音楽家として働くという少年時代の経験からハイドンが得たものは大きかった。

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イグナツ・プライエル
(Ignaz Josef Pleyel, 仏:Ignace Joseph Pleyel 1757年6月18日 - 1831年11月14日)はオーストリア出身の古典派音楽の作曲家である。若いころ彼はおそらくヴァンハルと共に学び、1772年からアイゼンシュタットのヨーゼフ・ハイドンの生徒になった。プライエルは、彼の13年後に生まれたベートーヴェンと同様に、彼の研鑽において貴族階級の後援―この場合はエルデーディ・ラースロー伯(1746年 - 1786年)―から恩恵を受けた。プライエルは明らかに、彼を優れた生徒だと考えていたハイドンとよい関係にあった。

ロベルト・ムージル
(Robert Musil、1880年11月6日 - 1942年4月15日)は、オーストリアの小説家。 ケルンテン州クラーゲンフルトで生まれたムージルは、当初軍人を目指し、シュタイアの実科ギムナージウム、アイゼンシュタットの陸軍初等実科学校、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン(チェコのフラニツェ・ナ・モラヴィェ)の陸軍上級実科学校に学んだが、機械工学の道に転じてブリュン工科大学に入学。その後再び哲学に転じると、ベルリン大学でエルンスト・マッハ研究で博士号を取得する(1908年)。しかし結局、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906)で踏み出していた作家としての道を選ぶ。1905年には「特性のない男」の草案を日記に書いている。

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ベルンハルト・ヴィッキ
(Bernhard Wicki,1919年10月28日 - 2000年1月5日)はオーストリアのニーダーエスターライヒ州ザンクト・ペルテン出身の俳優・映画監督。1950年代から多くの映画に出演したが、監督も手がけ、特に第二次世界大戦中に、町を守るために召集された少年兵たちを描いた映画『橋』は高い評価を得た。1959年(昭和34年)11月25日から6日間にわたって東京で開催されたドイツ映画祭のため、俳優のトニー・ザイラー、女優のリゼロッテ・プルファー、マルギット・ニュンケらと共に来日。

クルト・ゲーデル
(Kurt Godel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)は、オーストリア・ハンガリー二重帝国(現チェコ)のブルノ生まれの数学者・論理学者である。業績には、完全性定理及び不完全性定理、連続体仮説に関する研究が知られる。1931年、ゲーデル数の概念を用い、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンら当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。

ハンス・ホライン
(Hans Hollein, 1934年3月30日 - )は、現代オーストリアの代表的建築家の一人。ウィーン生まれ。ウィーン実業学校建設科に学び、1956年、ウィーン美術アカデミー・建築学科を卒業。1958年からアメリカ合衆国に留学し、1959年まで、シカゴのイリノイ工科大学建築学科に学び、1960年、カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学大学院を修了する。

エゴン・シーレ
(Egon Schiele、1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアの画家。幼少期にシーレは初等教育を受ける為にクロスターノイブルク市へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められている。教師からの推薦を受けた事はシーレにとって大きな後押しとなった。16歳の時にグスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校(ドイツ語版)に学んだ。ただ異なったのはクリムトがそのまま職工として開業したのに対し、よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場であったウィーン美術アカデミーへ更に進学した点であった。

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インゲ・モラス
(Inge Morath、1923年5月27日 - 2002年1月30日)はオーストリアの写真家。グラーツで科学者の両親の元に生まれる。ウィーンやパリで通訳、ジャーナリストとして働いた後、マグナム・フォトに編集者として参加するようになる。その後ロンドンに移り写真を学んだ。アンリ・カルティエ=ブレッソンのアシスタントを勤めた後、写真家として活動し始めた。

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オスカー・シュトラウス
(Oscar Straus, 1870年3月6日 - 1954年1月11日)はオペレッタの作曲家。ブラームスに楽才を祝福されてウィーン音楽院に学んだ後、ベルリンでマックス・ブルッフに師事し、ユーバーブレットル・カバレット(文芸酒場)で楽団指揮者を勤める(この時期、楽団の編曲家としてシェーンベルクを雇う)。その後ウィーンに戻りオペレッタの作曲に専念し、フランツ・レハールのライバルとして名を揚げる。

アンドレアス・ゴルトベルガー
(Andreas Goldberger、1972年11月29日 - )は、オーストリア、オーバーエスターライヒ州リート・イム・インクライス出身の元スキージャンプ選手。1990年代を代表するジャンパーで、ゴルティの愛称で日本でも人気が高かった。1991-1992シーズンから本格的に参戦、総合8位となると参戦3シーズン目から総合1位、3位、1位、1位、6位と大活躍を見せた。

ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル
(Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Kochel, 1800年1月14日 - 1877年6月3日)は、音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者。正確にはケッヒェル['kœç?l]。1862年にモーツァルトの全作品目録を出版、そこで作品に振られた番号はケッヘル番号として現在も使われている。1851年、ケッヘルの友人フランツ・ローレンツから著作『モーツァルトのこと』が送られてくる。そこにはモーツァルトの作品が散逸してしまうのではないかという懸念が表明されていた。それに刺激を受けケッヘルは作品目録の作成を開始した。完成した目録は1862年ブライトコップ社から『モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録 Chronologisch-thematisches Verzeichniss sämmtlicher Tonwerke Wolfgang Amade Mozart's』として出版された。

オタカル2世
(Otakar II, 1230年? - 1278年8月26日)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1253年 - 1278年)。オーストリア公も兼ねた(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世とドイツ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。1253年、父の死によりボヘミア王として即位すると積極的な対外政策を展開し、ダルマチアの一部を相続してハンガリー王国と対立した。さらに神聖ローマ帝国が大空位時代を迎えると、次の皇帝候補の1人となった。

カール大帝
742年4月2日 - 814年1月28日、アーヘン)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン、714年 - 768年9月28日)の子で、カール1世ともいう。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早逝したため、以後43年間、単独の国王として長く君臨した。

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フリードリヒ2世
(Friedrich II., 1211年4月25日 - 1246年6月15日)は、バーベンベルク家最後の第5代オーストリア公(在位:1230年 - 1246年)。第4代オーストリア公レオポルト6世と妃テオドラ・アンゲリナの3男。明確なビジョンも無く対外戦争を繰り返して自国を破滅させたことにより、仇名は喧嘩公(the Quarrelsome)とも闘争公(the Warlike)とも呼ばれている。

エンゲルベルト・ドルフース
(Engelbert Dollfuß, 1892年10月4日 - 1934年7月25日)は、オーストリアの政治家および独裁者。ドルフースはオーストリアのテクシング(現在のメルク郡テクシングタール)で生まれた。幼年期は神学校で学び、その後ウィーン大学で法律を専攻、続いてベルリン大学で経済学を学んだ。第一次世界大戦の間、彼は徴兵に合格するには身長が足りなかったが、結局徴兵され1918年にはアルプスに送られ、間もなく戦時捕虜となる。

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クルト・シュシュニック
(Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg, 1897年12月14日 - 1977年11月18日)は、オーストロファシズム期の政治家。1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併合され、彼は逮捕・拘束された。彼はオーストリア・ハンガリー帝国のトレント近郊リーヴァ・デル・ガルダ Riva del Garda am Gardasee (現在南チロル)で生まれ、第一次世界大戦中にオーストリア・ハンガリー帝国の軍隊で戦った。戦後、シュシュニックはインスブルックで弁護士となる。

ミヒャエル・ハネケ
(Michael Haneke, 1942年3月23日 - )は、オーストリアの映画監督・脚本家。2012年現在、ウィーン在住。ウィーン大学で哲学、心理学、演劇を学ぶ。卒業後は映画批評家として数年働き、次にドイツのテレビ局で編集者・脚本家となる。さらに舞台の監督も手がけるようになる。2001年の『ピアニスト』では第54回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞し、主演のブノワ・マジメルとイザベル・ユペールにも賞をもたらした。2009年第62回カンヌ国際映画祭では『白いリボン』(原題: Das weisse band)で最高賞パルム・ドールを受賞し、ゴールデングローブ賞でも外国語映画賞を受賞している。

パウル・ギュルダン
(Paul Guldin,1577年6月12日 - 1643年11月3日)はスイス生まれのオーストリアの数学者である。彼はユダヤ人の家系のプロテスタントの家庭に生まれたが、後にカトリックに改宗した。パウルという名前はその時改名した名前である。彼の数学上の業績はパップス=ギュルダンの定理と呼ばれる回転体の体積に関するものしかおそらく知られていない。

ハンス・ロット
(Hans Rott, 1858年8月1日 - 1884年6月25日)は、オーストリアの作曲家。作曲家としては習作的な管弦楽曲を残したに過ぎず、今日では無名だが、生前は恩師アントン・ブルックナーや学友グスタフ・マーラーから高く賞賛されており、ブルックナーは、いつしかロットが大収穫をもたらすことを信じていた。マーラーは《交響曲第1番》において、ロットの交響曲から引用を行なった。

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