〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:15(2012年9月25日朝日新聞)
よりよく生きるために
1971年3月。東京都立大の学生だった中里英章(なかざとひであき)(62)は迷っていた。成田空港の建設に反対する三里塚闘争に参加すべきかどうか。大学の助教授で、兄のような存在だった高木仁三郎(たかぎじんざぶろう)に相談した。「逮捕は覚悟の上です」と言う中里に、高木は言った。「逮捕なんか覚悟すると、だいたい逮捕されるんだよね。でもね、自分が楽になる方を選んじゃいけないね。苦しくなる方へ進むと道が開けるんじゃないかな」
◇
高木は群馬県立前橋高校を卒業後、東京大の理学部に進んだ。専攻は核化学。新しいエネルギーの未来を信じて61年に日本原子力事業に就職し、放射性物質の研究を始めた。炉水を分析すると放射線汚染の数値が予想以上に高い。基礎的な研究をもっと重ねるべきだと訴えたが、会社はそれを喜ばなかった。高木は会社を去り、東大原子核研究所を経て、30歳で都立大の助教授に迎えられた。高木は子どものころ、元士族の祖母から武士教育を受けた。懐刀を前に「志と異なることがあれば切腹してでも節を守れ」と教えられた。7歳の時に日本は戦争に負けた。潔く切腹すると思っていた軍人たちはそれをせず、軍国教育を進めた学校の先生の言動は一変した。「自分で考え、自分の行動に責任をもたなくては」。幼心に、そう思った。高木のもう一つの原点は、都立大に移ってから通った三里塚だ。農民たちの抵抗もむなしく、農地はブルドーザーで押しつぶされた。自分の学問は彼らにとって何の意味があるだろうか。彼らと不安を共有するところから出発するしかない――。考えた末に35歳で大学を後にし、在野の科学者になる道を選ぶ。
75年、科学史家の武谷三男(たけたにみつお)らと脱原発を目指す民間の研究機関、原子力資料情報室をつくった。その後、代表になった高木は「反原発運動の父」と呼ばれるようになる。原発が出す放射性廃棄物は、何万年にもわたる管理が必要だ。そんなものの責任を取れる人間は存在しない。それを認識することが真の知性であり、理性ではないかと高木は訴え続けた。
著書にこう書いている。
「反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である」
その後、出版社の七つ森書館を起こした教え子の中里は、2000年の夏、高木に呼ばれた。大腸がんで病床にいた高木は「私がこれまで書いてきたものをまとめてほしい」と言った。高木はその年の10月8日、62歳でこの世を去る。中里は2年半かけて高木の著作集を出版した。全12巻。そう売れるものではなく、会社は傾いたが、カンパで何とかしのいだ。「社会のために役に立たない下らないものは出したくない」。中里はその思いをいまも貫く。福島で起きた原発事故は、日々の暮らしを壊し、ふるさとを奪い、家族を引き裂いた。1年半がたった今も約16万人が県内外に避難する。
高木はかつて、脱原発法の制定を求める運動を進め、330万人の署名を集めて国会に請願した。しかし、結果は審議未了で、事実上の不採択。挫折感の中で、高木はうつになった。それから21年。高木と活動した弁護士や市民が働きかけ、この9月7日、政府に脱原発を実行させるための法案が超党派の議員によって国会に提出された。法案は政治の場での議論を待つ。三里塚に共に通った同志でもある高木の妻、久仁子(くにこ)(67)は、高木の言葉を思い出す。「しかたない」や「あきらめ」からは何も生まれてこない。あきらめずにやってみなきゃ。人々の心の中に希望の種をまき、一緒に助け合いながら育てていこう――。「未来は一人ひとりの選択と行動にかかっています」久仁子はそう言って、写真の中で笑う高木を見つめた。
(このシリーズは、文を編集委員・大久保真紀、写真を伊ケ崎忍が担当しました。文中の敬称は略しました)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201209240250.html
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