ヒューマニスト19
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<木原省治>

 

〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:12(2012年9月20日朝日新聞)
平和利用というけれど
8月6日、午前8時15分。67年前に原爆が投下されたのと同じ時刻、広島の原爆ドームの前に約150人が横たわった。死者のように倒れ込み、核廃絶を訴えるダイ・イン。その中にいた木原省治(きはら・しょうじ)(63)は、14年前に85歳で亡くなった母、フミ子(こ)の顔を思い浮かべていた。フミ子は爆心地から2・5キロの場所で被爆し、背中から肩に大やけどを負った。当時32歳。同じく被爆した父は8年後に脳卒中で亡くなり、母は郵便局に勤めながら一人で3人の子どもを育てた。しょっちゅう体調を崩し、寝込んでいた母。骨が折れやすく、リウマチや白内障、がんも患った。「うちを一人残して早う死んで憎らしい」。父のことを、よくそう言っていた。木原は地元の工業高校を卒業後、電電公社(現・NTT)に入った。

平和団体に参加し、交流活動で米国を訪れた1978年春。現地で運動を続けている人たちが言った。「私たちは毎年、8月6日のヒロシマ・デー、9日のナガサキ・デーには原発の前で抗議行動をやっているんです」「あっ」。虚を突かれる思いだった。核の「平和利用」も軍事利用も、人間に被害を及ぼせば同じこと。しかし、これまでその二つをつなげて考えたことがなかった。広島、長崎は悪魔のような核爆弾の被害にあった。でも、その科学技術が正しく使われれば未来を開くエネルギーになる。自分たち被爆者や2世は、その礎になったのではないか。そう考えることでこれまで、ある種の「救い」を求めていたのかもしれない、と木原は思った。帰国した木原は、「原子力の日」にあたるその年の10月26日、「原発はごめんだヒロシマ市民の会」をつくった。会には原爆詩人の故・栗原貞子(くりはら・さだこ)も参加した。仲間と学習会を開き、中国電力の原発計画に異を唱えた。
  
ソ連のチェルノブイリで原発事故が起きてから10年後の96年春、医療支援を続ける日本の市民団体に誘われ、木原は現地を訪ねた。南に100キロほどのところにあるウクライナの首都・キエフ。中心街の百貨店に入ると、人が群がる一角があった。みれば、ウリやスイカ、クッキー、小麦粉などが並んでいる。「放射性物質を体内から出す効果があるというペクチンを含んだ食べ物です」と説明員は言った。実際の効果がどれくらいかはわからないが、集まった子連れの母親や若い夫婦たちは、一言も漏らすまいと聴き入っていた。木原は、自分たちの姿を重ねた。体のだるさが続いたり、鼻血が出たりすると、はた目には取るに足らないものでも「被爆の影響だろうか」と考えてしまう。実際には手術で治ったが、50歳を過ぎて声帯が腫れた時は不安に襲われた。

原爆と原発、被爆と被曝(ひばく)。いずれもひとたび巻き込まれれば、歳月と世代を超えておびえがつきまとう。
何とも罪深いものを人間はつくった、と木原は思う。木原は、3年前に83歳で亡くなった久米三四郎(くめ・さんしろう)と親しかった。大阪大の講師を務めながら関西の反原発運動の先頭に立った久米から理論的な教えを受け、運動のあり方も指南を受けた。生前に、繰り返し言われた言葉を思い出す。「木原はん、広島の役割は大きいおまっせ」福島での原発事故を経たいま、ヒロシマ、ナガサキの存在意義、そして自分たち被爆2世の役割が問われている、と思っている。(大久保真紀)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201209190339.html


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見つめなおす夏:/2 「広島の役割」痛感 仁さんの願い受け継ぎ(毎日新聞 2012年07月20日 東京朝刊)
東京・神田の路地に建つ古い雑居ビル。約40年前、原水爆禁止日本国民会議の事務所を訪ねた木原省治さん(63)は5階の一室に案内された。資料が山積みになった薄暗い部屋で、気難しげな男が机に向かっていた。研究室を離れた新進気鋭の論客で、のちに反原発運動の理論的主柱となる科学者、高木仁三郎さん。10歳下の木原さんも会社勤めの傍ら広島で反核運動を始めていた。「広島の木原です」「ああ、知ってますよ」。意気投合した。「省ちゃん、会おうや」。高木さんは広島を訪れるたびに連絡してきた。繁華街の喫茶店。「広島では科学の最先端でできた原子爆弾で多くの人が殺されてしまった」「人を幸せにする科学って、何だろう」「後継者をどう育てようか」。コーヒーだけの長居は店に申し訳ないとアイスクリームを追加し、溶けるのも構わず何時間も語り合った。

チェルノブイリ事故の後だった。原爆被害に遭いながら原発を次々と建設する不条理を今の世にどう訴えるか。「被爆者がもっと声を上げるべきだ」と言う高木さんに思わず反論した。「仁さん、それは酷だ。被爆者にそんなことまで期待しちゃだめだ」。母を思い出していた。木原さんの両親と2人の姉は広島で被爆した。父が急死し、病弱になった母は女手一つで3人の子を育てた。過酷な人生を背負わされ、高齢になった親の世代にこれ以上求められない。「むしろ親の生き様を間近で見てきた、僕たち2世の役割だ」。高木さんは静かにうなずいた。そのころ木原さんは山口県で浮上した上関原発の建設反対運動に関わっていた。だが、中国地方の経済の中核を担う広島では「核兵器廃絶」と違い「反原発」は広がりにくかった。自分たちを苦しめた核の「平和利用」という呼び方に、救いのような思いを抱く被爆者もいた。高木さんはその後も「広島の役割は大きい」と言った。うれしくもあり、時に重くも感じられた。病を重ねた母は98年7月30日、85歳で他界した。同じ日、高木さんは東京で大腸がんの手術を受けていた。「お葬式にも行けなくてごめんね」。後日かかってきた電話の声は弱々しかった。2年後、高木さんは62歳でがんとの闘いに力尽きた。心の支えを失った。

     ◇

昨年3月の福島原発事故。高木さんが地震や津波で炉心溶融に至る可能性を指摘していたことを思い出した。無力感に襲われている時、海外メディアの取材が殺到した。どの社からも受けた質問があった。

「ヒロシマからフクシマにどんなメッセージを送りますか」

母や多くの被爆者の顔が浮かんだ。放射能への不安を、また新たに背負う人たちが生まれてしまった。「心の痛みを共有し、連携したい」と答えながら、高木さんが語っていた「広島の役割」を改めて思った。今年、高木さんの享年を越えた。これほどの事故が起きても、また原発が稼働する。仁さんがいたら、この国を憂えるだろうか。いや、いつも希望を語った人だから、こう言うに違いない。「省ちゃん、一緒に進もう」【須田桃子】=つづく
http://mainichi.jp/feature/news/20120720ddm041040193000c.html


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【木原省治さんからのメッセージ】 ※ビデオメッセージ

「原発はごめんだヒロシマ市民の会」の、木原省治です。
「3・11追悼さよなら原発のつどい」にご参加の皆さん、私は今日のこの会で「今年はエネルギー政 策を変える勝負」と題してお話しをすることになっていましたが、このような映像の形でお話しをすることになりましたことをたいへん申しわけなく思っています。現在アメリカショージア州のアトランタに来ています。 こ承知とは思いますが、1979年3月に起こった、スリーマイル原発事故以来、アメリカは新規の原子力発電所については、発注を行わないでおりました。ブッシュ政権の終わりの頃の時期に「原子力ルネサ ンス」として、原発建設の動きもありましたが、それも現実のものになりませんてした。しかし、新聞なとで報道されていますか、現在、アメリカ南東部地方を中心に原発を建設しようとする動きが強まっています。その数20基以上と言われています。 日本の福島事故を知っておりなから、そして福島以来アメリカの中ても原発反対の世論か特に大きくなっているにも関わらずなのです。その計画を進めている中心が、日本の経済界の後押してあり、具体的には、原発メーカーてある東芝といってよいと思います。アメリカの原発メーカーてあるウエスティンクハ ウス社を、買収し子会社化した東芝は、アメリカの地に原発新設を進めることによって日本で原子力発電 所の復活をたくらんでいると私は思っています。

私かアメリカに行って、集会に参加してスピーチをしたり現地の人たちと交流するからといって、計画 が終わるようなものとは思いませんか、アメリカでの原発建設を止めることは、日本における原発復活の 動きを止めることになると思い、参加することにしました。 3・11は、世界中で原発反対の集会や行動か行われています。 さて、今日私か話す予定たったように「今年は日本のエネルギー政策を変える勝負の年」です。あのような大事故を経験したのてすから、原発は中止になるたろうと思っている方も多いと思いますが、財界を中心に、現在点検なとで停止している原発の再稼動。原発復活の動きは強烈てす。ます、その事をみなさ んよく知っておいていたたきたいと思います。 こ承知の事でしょうか、現在国内て運転されている原子力発電所は東京電力の柏崎刈羽原子力発電所6号機と北海道電力泊原子力発電所3号機てす。柏崎刈羽原発はこの3月中には、定期点検により停止する ことになっていますし、北海道電力泊原発3号機は、4月にはやはり定期点検によって停止するとされ ています。こうなれば、日本国内の原発は全て停止するということになります。しかし、泊原発について は、停止時期を1か月以上延長しようとする動きもあります。全ての原発が停止するという事態は、政治的にますいのて延長を図って、その間他の原発のストレステストを終えて、再稼動に持って行きたいとい う意図も働いていると思います。そこには、原発の危険性を思って不安を感じている市民や、いまだに避 難生活をしている人のことはそっちのけと言えます。 しかし、原発の再稼動はストレステストの2次評価や、立地自治体の同意というステップを踏むことが必要てすから、私たちは自治体に対しても、運転再開を許さないようにとの働きかけが必要だと思ってい ます。原発立地自治体は、さまざまな交付金、電力会社からの寄付金、また核燃料税を始め多くのお金を原発によって受け取っていますので、自治体に対しても私たちの「原発いらない」の声が大切だと思います。 福島事故以来、原発や電力会社が莫大なお金と国の政策によって「国策」として守られていたこと。事故直後に「たいしたことはない。」などといって、事故の現実を隠し通して、あくまても「原子力村」を守ろうとしていた見にくい事実。本当の原子力発電を知っているいわゆる学者という人がいないということなど、まさに呆れるばかりてはないでしょうか。

2012年3月11日
昨年の秋から、内閣府の原子力政策大綱策定会議が開始され、経済産業省のエネルギー基本計画策定会 議などが始まりました。この二つの会議だけでなく、コスト検証委員会、事故調査委員会、国会内にも政府内にも、調査検討会議など余りにも多くの会議が並行して開催されております。数が多すぎてとても理解できない状況ですが、これらの会議を経て、エネルギー環境会議、そして野田総理大臣を議長とする「国家戦略会議」を経て、この国のエネルギー政策が決まろうとしています。 4月からは、環境省の外局組織として、「原子力規制庁」が発足することになっています。この規制庁 は、約480人の人たちによって立ち上がるのですが、原子力安全保安院と経済産業省の職員の勤務場所が、 ただ単に移動しただけの組織では、心もとないものでしょう。文字通り「規制庁」としての、しっかりとした権限を持つべきだと思います。そのためには、民間やNGO組織などから原子力発電所の危険性につ いて知識を持っている人の参加が必要でしょう。 また、7月から「再生可能エネルギー法」が施行されます。太陽光発電、風力発電、地熱発電、水力発電、バイオマス発電により発電された電力を、電力会社に買取りを義務付ける法律ですが、今後、買取り価格や買取り量について、この春に向けて議論され決定されると思います。電力会社の本音は、この法律をやっかいな物と思っていますので、行方を見ていくことが必要です。私は、この法律の施行をきっかけに「日本版グリーンニューディール政策」のさきがけになるように、私たちの力によって、変えていかなければならないと思います。 民主党のエネルギー政策プロジェクトチームの座長に、大畠章宏元経済産業大臣が就任しました。菅前総理大臣をという声もありましたが、大畠さんに押し切られました。彼は日立で原発の設計や建設に携わっていた人で、原発推進の先頭に立っています。枝野経済産業大臣も、原発運転再開をおおやけに発言しています。このような状況の中で、国のエネルギー政策が夏には決まろうとしています。 まず国がやらなければならないのは、乳幼児や妊産婦の人たちが、安心して食べ物を口に入れることができるように、きちんとした放射線測定器を各地に配備して、いつでも放射線の値を確認できるような体制をつくることが大切だと思います。 座していて、この国の原子力政策は変わりません。世界中の人びとが、この国の世論を注視しています。 1000万人署名が、成功するかどうかなどなどです。 私なりの例えですが、犯罪を犯した者の取調べや罪に対する罰も決まらないのに、その犯罪者が再び犯罪を犯すのを黙って見ているようなものだと考えます。この夏に向けて私たちが、粘り強く原子力一辺倒のエネルギー政策を改めさせるために動くことです。政府内などでの、さまざまな会議に対して意見をいうこと。自治体に対しては、原発の廃炉と原発に頼らない町作りを求めること。このような集会を行って多くの人たちに原発の危険性を理解してもらうこと。署名を集めること。などなど、様々な形の「さよな ら原発」の声が必要だと思います。 これで、私の映像によるメッセージとさせていただきます。改めて、直接お話しができる事が出来なかったことをお詫びいたします。 ありがとうございました。

きはら・しょうじ1949年、佐伯郡五日市町生まれ。67年、電電公社(現NTT)入社。2009年、定年退職。現在は契約社員。両親と姉2人が被爆者の被爆2世。78年の国連軍縮特別総会前に企画された米国の平和運動団体との交流のため渡米。それを機に、「原発はごめんだヒロシマ市民の会」を結成(現在まで代表)。広島県原水禁常任理事、中国地方反原発反火電等住民運動市民運動連絡会議事務局長、上関原発止めよう!ヒロシマネットワーク代表。さよなら原発ヒロシマの会運営委員(呼びかけ人)。著書に『ヒロシマ発チュルノブイリー僕のチェルノブイリ旅行』(1977年)『僕のヒロシマノート』(2005年)『原発スキャンタノレ』(2010年)
http://zeronpphiroshima.daa.jp/fdata/120311kiharamesg.pdf


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