ヒューマニスト18
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<小笠原厚子>

 

〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:11(2012年9月19日朝日新聞)
ここから先は譲れない
2002年秋。北海道函館市に暮らしていた小笠原厚子(おがさわら・あつこ)(57)のもとに、青森県警大間署から電話があった。津軽海峡をフェリーで100分。函館の対岸にある下北半島の大間町は、小笠原のふるさとだ。署を訪れると、捜査員は「最近起きた強盗事件を調べている」と言った。むつ市の建設会社の社員らが車を運転していて発砲され、運んでいた7千万円の現金を奪われたという。実はその金は、小笠原の母、熊谷(くまがい)あさ子(こ)の土地を買収しようとこの建設会社の社長が用意したものだった。何もかも初耳で、小笠原は実家に住む母にただした。聞けば、住まいとは別に、海のそばにもっている土地が大間原発の予定地になっていて、売却を持ちかけられていた。娘に心配をかけまいと、ずっと黙っていたという。「事件」はその後、自作自演だったことがわかった。母は売却に応じず、宙に浮いた金を使い込んでしまった交渉役の社員らが、窮してでっち上げていた。

先祖伝来のその土地は、約1ヘクタール。炉心の予定地から100メートルほどしか離れていない。一帯は10年ほど前から買収が進められ、唯一残ったのが母の土地だった。母のもとには無言電話がたびたびかかった。「お前が粘ってるから生活できない。俺らを殺す気か」と書かれた手紙も送られてきた。 それでも母は頑として受け付けなかった。理由がある。一人娘だった母は、腕のいいマグロ漁師だった父親――小笠原の祖父が残した言葉を守りたかった。「海と土地があれば生きていける。何かあっても、絶対に土地は売るな」。苦しかった戦時中も、魚をとり、畑を耕してしのいだ経験から出た言葉だった。小笠原は、家族がいる函館から通いながら、母とともにできることをやろうと思った。設置主体の電源開発は、炉心の位置を200メートル移し、母の土地がぎりぎりのところで原発の敷地外になるよう計画を変更した。

2人は、ここに小屋を建てようと思った。ひょっとしたら「公共の利益のため」と土地を強制収用されるかもしれない。簡単にそうさせないためには住んでしまうしかないと考えた。地元で引き受けてくれる大工はおらず、2人で3カ月かけてログハウスを建てた。いよいよ引っ越そうとしていた06年5月、母は急病で亡くなった。68歳だった。小笠原は、この家を「あさこはうす」と名付けた。電気は太陽光と風力でまかない、畑を耕す。いずれは牛や鶏も飼うつもりだ。鉄条網で仕切られた原発の敷地内ではすでに、建設が4割まで進む。動きを止めることは難しいかもしれない。それでも、記念碑のようにこの小屋を保ち、住み続けていくつもりだ。「海と土地があれば生きていける。何のための原発か」。そのメッセージを、次の世代へ伝えたいと思う。同じ下北半島のつけ根にある六ケ所村では、菊川慶子(きくかわ・けいこ)(63)が土と向き合っている。戦後、樺太から引き揚げた両親が入植し、農業を営んできた地だ。

菊川は中学卒業後に集団就職で上京し、結婚した。田舎暮らしにあこがれて、家族で移住を考えていた時、六ケ所村で核燃料サイクル施設の建設が進められ、地元の農民が反対していることを知る。長く離れていたふるさとへの思いがふくらんだ。90年、41歳の時に帰郷した。無農薬で野菜をつくりながら、建設に反対の声を上げる日々。だが、その中でも多くの住民は雇用の場として必要と考え、整備は進んだ。

菊川は、核燃施設に頼らなくても村が生きていける道を模索する。観光の売り物にならないかとたくさんのチューリップを育てて花園を開いた。いまはハーブ類を栽培してジャムづくりにも取り組む。「この地で仕事をつくり、若い人に受け継いでもらいたい」。その思いが菊川を動かす。(大久保真紀)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201209180295.html


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