ヒューマニスト16
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<田中三彦>

 

〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:9(2012年9月13日朝日新聞)
技術は何をもたらすか
1988年6月28日。かつて原子炉の設計に携わっていた田中三彦(たなかみつひこ)(69)は、ある体験を語り始めた。当時45歳。東京都心であった原発のシンポジウムでのことだ。田中は東京工業大を卒業した後、68〜77年に日立の系列会社に勤めた。当時、原発の心臓部ともいえる圧力容器の製造過程で、ひずみが見つかった。とった対策は、内側から3本のジャッキを入れて120トンの力で押し上げ、610度で3時間加熱処理をして形を整えるというものだった。圧力容器はその後、福島第一原発の4号機に設置された。鋼材にどんな影響が出るか、予測がつかない。最初からつくり直さねばならないケースではなかったか。最悪の場合、稼働中に破損してしまうこともあるのでは。田中は、そんな危惧をもって発言した。東京電力と通産省は「安全上問題ない」と反論した。その後、田中の自宅には「死ね」と脅す電話や無言電話がかかるようになった。
  
研究者になりたいと考え退社し、自然科学系の本を翻訳していた86年。田中は、チェルノブイリ事故の直後にソ連の映画監督、ウラジミール・シェフチェンコが撮影した現地の映像を見た。人が消えた街。行き場を失った農民。汚染されているであろう川魚で飢えをしのぐ人たち。言葉を失った。技術者や研究者は、自分の専門分野のことしか目に入らなくなりがちだ。原発の周りには、生活する人がいて、社会がある。そんな当たり前のことにさえ思いが至らなくなってしまう――。あの圧力容器のことを思い出した。当時は「会社の指示でやったこと」と抑え込んだ疑問がふくらんだ。「話せるのは自分しかいない」以後、原発の危険性を警告し続けている。

その田中の後に続こうと考えた人がいる。後藤政志(ごとうまさし)(63)。広島大工学部の学生だったころ、技術評論家の星野芳郎(ほしのよしろう)が編集した「日本の技術者」という本に出会った。先端技術が結果的に公害を生み出していること。効率優先で合理化が進む生産現場。科学技術のありようを見つめ直そうという内容だった。後藤は「内なる批判をもった技術者になりたい」と考えるようになった。大学を出て勤めていた海洋開発の会社が解散し、大手メーカーが原子力部門で人材を求めていることを知った。原発は本当に安全といえるのか、中に飛び込んで答えを探してみたいと思った。89年に入社。格納容器の設計にかかわったが、安全性をさらに深く考えるべきだと話した時には、同僚から「そんなことを言い始めたら設計ができなくなる」という声が上がった。想定を超す事故は起こらない、起こるかもしれないなどと考えてはいけないという雰囲気を感じた。

後藤は勤務を続けながら、柴田宏行(しばたひろゆき)のペンネームで原子力技術を批判する論文を書いた。田中らとグループをつくり、2009年に退職した後も執筆活動を続けた。 昨年3月11日。原発事故が、福島で現実のものとなった。何が起きているか一刻も早く知らねばならないのに、公的な情報は遅い。翌日、後藤は田中らと記者会見した。原発で炉心溶融が始まり、深刻な事態に至る恐れがあることを説明した。いまになって名前を明かして表に出ることに、批判を受けるかもしれない。しかし、そんなことを言っていられる状況ではないと思った。 後藤はその後、原発のストレステスト(耐性評価)に関する意見聴取会の委員にもなり、推進派が大多数の中で批判的な意見を繰り返し述べている。海洋開発の会社にいたとき、設計した海底掘削用のやぐらが沈んだことがある。幸い人的被害はなかったが、ものづくりは責任が伴うということを強烈に意識した。

 技術は社会に何をもたらすのか、みんなが見つめ直す時がきた。後藤は、そう感じている。
(大久保真紀)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201209120291.html


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