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ヒューマニスト14
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<濱一己>

 

 

〈ニッポン人脈記〉石をうがつ:7(2012年9月10日朝日新聞)
父と守った海 息子へ
濱一己(はまかずみ)(62)が操る小舟から飛び込むと、海には岩場が広がっていた。カワハギ、シマダイ、アジ……。いろんな魚が泳いでいく。和歌山県の西部、紀伊水道に突き出た日高町の小浦崎。「きれいやろ」。民宿「波満(はま)の家(や)」を営みながら漁師をしている濱が笑った。1975年、ここに原発の建設計画が持ち上がった。予定地は、民宿から海を挟んで約800メートルのところだった。

当時は、予定地の住民を、すでに原発ができた地域に視察旅行に連れて行くのが常だった。金は電力会社が出す。地元漁協の幹部だった濱の父、清一(きよかず)も、誘われて何度か参加した。視察といっても実際は観光がメーンで、夜になればどんちゃん騒ぎだ。清一はあるとき、一行を離れ、網の繕いをしていた老齢の漁師に声をかけた。「俺は和歌山からきた漁師です。原発ができてから、どんな案配ですか?」

その漁師はしばらく黙って手を動かしていたが、ふいに言った。「後継ぎがいるなら、こんなもの造らすな。ええことない」。原発から温かい排水が出るようになって水中がぼやけてみえ、アワビやサザエを取るのもままならなくなったという。同じ漁師の言葉は重かった。帰宅した清一は言った。「あがいなものいかん」跡取り息子の濱の反対運動が始まった。

手探りの中、関西の反原発運動のリーダー的な存在だった大阪大講師の久米三四郎(くめさんしろう)、「6人組」と呼ばれる京都大原子炉実験所の研究者らを招き、勉強を重ねた。6人組の1人、今中哲二(いまなかてつじ)(61)は広島出身の被爆2世。濱はビラの作り方から今中に教えてもらった。

夜中に母校の小学校に忍び込み、約2千枚のビラを刷って新聞に折り込んだこともある。漁もまともにする時間がなく、運動のため月に4万〜5万円は持ち出しになった。「反対運動をやれとは言ったが、そこまでアホとは思わんかった」。あきれる清一に濱は言い返した。

「金もうけは原発止めたら、したる!」濱の頭からは、福井県の原発の近くで聞いた漁師の言葉が離れなかった。「放射能漏れもあったし、取った魚は子どもや孫には食べさせられん」。漁師としてこんなに悲しいことはない。一進一退が続くなか、推進派の町長が最後の勝負に出た。90年、漁協が開いた総代会でのことだ。

「次の選挙は出ない」。そう表明した後、続けた。「だから最後の花道に、原発建設の事前調査だけ了解してもらえないか」町内の対立は漁協でも進み、意見が違えば結婚式や漁船の進水式にも出なくなっていた。町長は引退を口にし、情に訴えたつもりだろう。しかし、事前調査を認めたら、なし崩しで手続きが進むおそれがある。そうなれば確執はいっそう深まり、取り返しがつかないことになるだろう。濱は叫んでいた。「漁師の仕事は危険と隣り合わせでな、海に出たら『板子一枚(いたごいちまい)、下地獄(したじごく)』と言うんや。みんな仲良くせんと生きていけんのじゃ。わかるか!」濱の言葉に、町長は沈黙した。

「わかった。調査のことはもう持ち出さん」。漁協も「反対」で意見を一つにまとめた。約1カ月後の町長選で反対派が当選し、日高町の騒動は終わった。濱が反対運動に費やした時間は14年に及ぶ。清一はその2年後、79歳で亡くなった。

「波満の家」はいま、クエ料理を看板に、長男の一也(かずや)(33)夫婦が濱とともに切り盛りする。次男の直喜(なおき)(30)は漁師になり、今では指折りの水揚げを誇る。民宿はこの夏も多くの家族連れを迎え、大忙しだった。「6人組」は毎夏ここで合宿し、交流は続く。すぐ目の前には、昔と変わらぬ風景が広がっている。父から子へ、そして孫へ。海とともにある暮らしが受け継がれている。(大久保真紀)

http://digital.asahi.com/articles/
TKY201209070341.html


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