ヒューマニスト2
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>


<鷲田清一>

 

 

鷲田 清一(わしだ きよかず、1949年9月2日 - )は、日本の哲学者(臨床哲学・倫理学)<Wikipedia>大谷大学教授、大阪大学名誉教授。関西大学文学部教授、大阪大学総長などを歴任した。専攻は臨床哲学・倫理学。現象学・身体論を専門としており、ファッションを研究している。また、大阪大学の教員とともに臨床哲学の実践のため数多くの社会活動を重ねてきた。サントリー学芸賞、桑原武夫学芸賞、読売文学賞評論・伝記賞など各賞を受賞している。


(折々のことば)43 教育において第一になすべきこ…(2015年5月14日朝日新聞)
教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを体に覚え込ませてやることなのである。(永井均)

生きる理由がうまく見つけられない人に、人生が生きるに値するものだと納得させるのは難しい。生きることは楽しいという肯定感が底にないと、自分の人生をしかと肯定できない。だから子どもに不幸な傷があっても、それ以上に楽しい経験をまわりが与えつづけること。ルールを教えるのはその後だ。「これがニーチェだ」から。(鷲田清一)

http://digital.asahi.com/articles/ASH47639YH47UCVL022.html

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(折々のことば)44 もっと先へ行きたい。でもそれ…(2015年5月15日朝日新聞)
もっと先へ行きたい。でもそれには摩擦が要る。ザラザラした大地へ戻ろう!(ウィトゲンシュタイン)

 役人のまるで書きことばのような語り、プレゼン慣れした生徒の流れるような語りは、淀(よど)みもひっかかりもなく、上滑りするばかり、やがていずこかへ失せる。ことばってこんなにも軽く、薄いものだったのかとうら悲しい思いに襲われたときに、ふと思い出す哲学者のことば。人の心にざわめきを引き起こすざらついたことばにいつも触れていたい。「哲学探究」から。(鷲田清一)
http://digital.asahi.com/articles/ASH574CF1H57UCVL00V.html

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(折々のことば)45 生きる知恵ってなものを全然使…(2015年5月16日朝日新聞)
生きる知恵ってなものを全然使わないから、ただただ快適なだけで、笑いあえるユーモアがぜんぜん生まれなくなります。(清水ミチコ)

友だちと温泉旅行で、たまりにたまった日頃のあかを落とす。「全てがものすごく贅沢(ぜいたく)で、サービス上等、ずうっと快楽三昧(ざんまい)!」。でもそのあと「モノマネの女王」はこう思い知る。ユーモアと笑いは、余裕のなさを超えようとするところ、悲しみのヴェールを押し開こうとするなかでしか、にじみ出てこないと。「主婦と演芸」から。(鷲田清一)

http://digital.asahi.com/articles/ASH4G4T7NH4GUCVL011.html

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(折々のことば)42 スキルと呼ばれるものは、隣の…(2015年5月13朝日新聞)
スキルと呼ばれるものは、隣の芝生に行って発揮されなきゃ実はだめなんじゃないか。(小山田徹)

アーティストがアートの分野で突きつめた表現をするのはあたりまえ。異なった分野に出かけていって、アートの分野で培った技をそこに翻訳し、活用できてはじめてそれはスキルとなる。アーティストとは隣の芝生に行けるパスポートを持っている人のことだ、とこの美術家は言う。宮城県女川町で試みた「対話工房」での発言。これは博士号についても言えること。(鷲田清一)

http://digital.asahi.com/articles/ASH475VPMH47UCVL01W.html

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(折々のことば)41 子どもを不幸にするいちばん確…(2015年5月12日朝日新聞)
子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか(略)それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。(ルソー)

現代社会では、子どもは幼くして消費主体となる。小遣いがあれば、親の許可をもらわずとも何でも買える。それが子どもに「何でもできる」という全能感を与えてしまう。だから小遣いが十分にもらえなくなると、過剰な無能感へと逆振れして、不幸ではないのに不幸だと思い込むことになる。「エミール」(今野一雄訳)から。(鷲田清一)
http://digital.asahi.com/articles/ASH476224H47UCVL020.html

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(折々のことば)39 見えてはいるが、誰も見ていな…(2015年5月10日朝日新聞)
見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。(長田弘)

視界には盲点があるだけでなく、見えているのに見ようとしないものがある。歴史のある時点ではだれにも見えないものもおそらくはあろう。だから、見ることにはそれなりの努力が要る。工夫が要る。他の人にはどう映っているかをこまやかに参照する必要もある。修業時代にふれたこのことば、わたしにとっては哲学の定義でもある。「読むことは旅をすること」から。(鷲田清一)
http://digital.asahi.com/articles/ASH3D6JJ8H3DUCVL02C.html

 


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論ステーション:「右肩下がり」の時代に 臨床哲学者・大谷大学教授/前大阪大学総長、鷲田清一さん(2013/01/09毎日新聞)<おおさか発・プラスα オピニオン>

◇しんがりに立とう
暮れの総選挙で日本の新しいかじ取り役が決まり、新年を迎えた。私たちは東日本大震災の復興途上にある現実をどう受け止め、社会がダウンサイジングしていく時代にどう対応していけばよいのだろうか。臨床哲学者で前大阪大学総長の鷲田清一・大谷大学教授(63)を訪ねた。

◇「お任せ」の末の専門家不信/解決の回路求め、動き始めた市民/見分ける力「価値の遠近法」
−−昨年末の総選挙は、「東日本大震災後初の総選挙」の意義がどれだけ意識されたのかという点で、違和感が残りました。投票率が59・32%と戦後最低だったことも驚きでした。

原発の問題が最大の関心事であるはずなのに、それが投票結果に出なかったのは、争点がぼやけたからでしょう。「脱原発」も「卒原発」も原発依存を低下させようという主張です。けれどもエネルギー問題についての確かな哲学や具体的工程が示されないので、選択肢になりえなかった。代わりに「この党にだけはやらせたくない」「問題はあるが一回はやらせてみるか」といった感情レベルで動いた票が、存外多かったのではないでしょうか。

−−それでも、東日本大震災を抜きに、これからの日本社会を考えることはできません。改めて、大震災が私たちに突きつけた課題は何だったのでしょうか。
この国、この社会がずっとこのまま継続する、そんな当たり前の前提が当たり前でなかったことが突然、明らかになったことです。原発事故周辺地に住む人は、生活の場、職業、自治体までも奪われました。そして少し想像力を働かせれば、それは全国で稼働する原発の周辺でも起こりうることだと分かる。場合によってはこの国を離れることすら考えねば……。そんな恐ろしい事態をさえ視野に入れる必要があると、多くの人が直感しました。もう一つは専門家に対する不信です。原発事故で、細分化された研究者は自分の専門領域については語っても、エネルギー政策や社会の安全を考える上での礎となるべき哲学や地域経済の問題などを含めた全体を論じることはありませんでした。メディアにあれだけ原子力工学者を名乗る人が登場したにもかかわらず、日本には「原子力工学会」という、厳格な入会審査のあるアカデミックな団体は存在しません。その結果、例えば被ばく量の安全基準が学者によって3桁くらい違った。判断は政治の責任だと言うが、政治家は学者の見解に委ねようとする。責任の所在が不明なまま、専門家が「原子力ムラ」をつくり、「原発安全神話」を築き上げていったのです。

産官学の不透明な密着による過酷な被害を、私たちの社会は既に公害という形で経験していたし、原発の危険性もさまざまに発信されていた。私たちはその警告を正面から受け止めず、「専門家が安全と言っているのだから大丈夫だろう」と、豊かな消費をうたう安楽な道を選んだ。それが今回の事故につながっています。「専門家への不信」は「専門家への信頼の過剰」の裏返しでした。そのことへの反省が強く迫られています。

−−私たちの社会のどこに問題があったのでしょうか。
「信頼の過剰」とは「預けすぎてきた」ということです。専門家への「お任せ」でした。しかも、原発に限りません。人間にとって一番大事なことは「生老病死」を互いにケアしあうことだと思います。出産から葬送まで、赤ん坊も老人も病人も、誰かの世話を必要とします。こうした営みは長い間、それこそ私が子どもだった頃まで、家族や地域社会で担われていました。こうしたいのちのケアをより安全かつ確実に遂行するために、国はこれまで国家資格を持ったプロを養成してきました。明治以降の日本は、それを世界最速のスピードで進めました。地域社会の運営は行政に任され、医療は医師や看護師に託され、教育は教員免許を持つ教師だけが学校で行う。紛争解決は裁判官や検事、弁護士が引き受ける。地域や家族が、みなで分担し、大切なこととして守り伝えてきた役割が、いつしか行政と専門家に肩代わりされるようになった。おかげで長寿になり、暮らしのクオリティーは向上しましたが、ふと気づけば、自分たちだけでは何もできない社会になっていました。「市民社会」と言いながら、その実、市民がすっかり無能化した社会なのです。

−−震災でその姿があらわになりました。
震災後、市民のさまざまな不安に応えて、大阪大学をはじめいくつかの大学が専門の研究者をえりすぐり、解説のためのフォーラムを開きました。これまでなら「じゃあどうしたらいいんですか?」という質問がすぐに返ってきたものですが、今回は「何が問題なのですか?」といった問いが多かった。性急に解答を求めるのではなく、問題の把握を自分なりにしてみようという人が増えたのだと思います。しかし、すっきりした解決策はそう簡単には見つかるものではありません。原発をどうするか、被ばく量はどこまで安全かについても、正解はすぐには見えてこない。見えないからみな自衛しなくてはと思ったはずです。節電に取り組み、安全な食品が入手できるルートを探しました。解決への回路を自分たちで築こうと努力したのです。大震災を経て、私たちはようやく行政をはじめとする専門家集団に「任せすぎて」いたことに気づいた。自分たちなりにそれらの問題にコミットしないといけないといった機運も膨らみつつある。震災はそういうシチズンシップ(市民力)を喚起したのではないでしょうか。

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−−政治、経済、外交……。閉塞(へいそく)感が広がっています。どんな将来像を描いたらいいのでしょうか。
日本は人口減少の時代を迎えつつあります。多くの先進国に先駆けて「右肩下がり」の時代を迎えることになるのです。原発の是非に関して、政界や経済界からは「経済成長との両立」が言われますが、そもそも「経済成長」というコンセプトそのものが、企業はともかく国民、ことに若い世代にあってはリアリティーを持たなくなっています。バランスを失することのないダウンサイジングを迫られているのです。そこで必要なのが、私たち一人一人が、全体を見渡し、何が一番大事なのかを見極める「価値の遠近法」を身につけることでしょう。さまざまな事態に直面した際に、絶対に手放してはならないもの、あればいいというもの、明らかになくてもいいもの、絶対にあってはならないこと−−この四つを見分けられる判断力をつけることです。右肩下がりの退却戦で必要なリーダーは、先頭に立ってみなを率いるタイプの剛腕のリーダーではありません。要るのはしんがりを務められるリーダーです。つねに全体に気を配り、脱落者はいないか、だれかに無理がかかってないかを見届けつつ、じっくりと確実に隊列を進めてゆく、登山パーティーの最後尾を務められるようなリーダーです。ダウンサイジングの過程で国民に求められるのは、工夫と我慢です。リーダーにはだから、なぜそれを求めるかの説得の言葉が必要となります。弁舌の巧みさではなく、思想に厚く裏打ちされた言葉を持たないとしんがりは務まりません。市民一人一人も、政治サービスの顧客でいるのではなく、自ら問題解決のためのネットワークを編んでゆく能力を身につけることが必要でしょう。リーダーに見落しがないか、ケアしつつ付き従ってゆくのがフォロワーシップであり、これこそがシチズンシップの成熟の前提となります。市民にも賢いフォロワーとして「しんがりの思想」が求められているのです。【聞き手・鈴木敬吾編集委員】 ■人物略歴

◇わしだ・きよかず
1949年京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学・倫理学専攻。関西大学教授、大阪大学文学部教授、副学長を経て07年、大阪大史上初の文系出身総長に就任。1期4年を務め11年から現職。『モードの迷宮』『メルロ=ポンティ』『「聴く」ことの力』など著書多数。
http://mainichi.jp/area/news/20130109ddn013070036000c.html

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〈人生の贈りもの〉鷲田清一(63)(2012/12/21朝日新聞)
哲学者
■大事なもの ともに現場で考える
――「臨床哲学」を提唱しておられます
現場から考える哲学のフィールドワークです。問題が発生している場所へ行き、話を聴いてともに問題を抱え、理解し、考える。フィールドから一番遠いと思われている哲学の手法で。大阪大学にいた1992年ごろから学外で活動する人の中に入り、そこで起こっていることは何か考えてきました。

――どんな現場ですか
まず、圧倒的に看護の世界。患者さんから聴くことが一番大事なのに激務で難しく、看護師さんがものすごくジレンマを抱えています。次に教育現場。臨床哲学試論として、大阪大教授だった99年に「『聴く』ことの力」という本を書きました。私自身が、自分の親と家内の親という複数の介護のど真ん中にいたころです。

――街へ出る手法として、哲学カフェも広めましたね
不特定多数の人が集まり、テーマを決め議論する場です。参加者には「あなたが哲学の主体です」と伝え、僕ら研究者は司会に徹する。ジョン・レノンの曲「人々に勇気を」をまねて、「人々に哲学を」ですよ。哲学は研究者と学生だけが独占するものじゃない。一人でも多くの人に哲学的な考え方を知ってもらうことが、社会における熟議のベースになるんです。

――なぜ臨床哲学を?
古来、哲学者は「しゃべり」すぎてきたのではないか。まとまった言葉は持たないけれど、哲学者よりよっぽど立派に生きている人がいる。そういう人のすることを聴いて言葉にすることこそ、哲学の基本にならなあかんという思いがあって。僕は哲学って、本当に大事なものは何か、という問いだと思う。哲学の仕事は理論を発明することやなしに、立派な生き方を発見することやないのか、と。

――活動を始めて間もない95年に、阪神大震災が起きました
あのとき、息子を死なせてしまったと自分を責め続ける母親の話を「聴くことしかできなかった」と述懐した人がいましたが、聴けたことがすごいんじゃないか。哲学を学び始めたころ、わからないことを意地でもわかってやろうと思ってた。でも、世の中には絶対にわからんことや解決しないトラブルがある。臨床哲学を進めるうち、そういうものの「重量」を意識するようになりました。

――反応はどうですか当初、学会では批判すらされなかった。無視です。でも、阪大で育った人が東京や仙台、熊本に散り、少しずつ知られるようになった。東日本大震災の被災地でも、哲学カフェが広がっているようです。

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■お屋敷の子に「負けるか!」
――京都の下町生まれですね 西本願寺の近くで。当時は堀川通は野球ができるほど車が少なかった。川に落ちたボールを拾って西本願寺で洗って、休憩所にある無料のお茶をいただいたり。

――実家は路地の奥に
長屋みたいな屋根続きの建物に近所のみんながひしめき合って生きていた。いつも誰かに見られているような感じがするのが、子どものころはいやでね。父は塗装業で、僕は朝ご飯をいつも職人のお兄ちゃん2人と食べた。同級生の親も職人さんか商店で、おすし屋さん、仏壇屋さん、段ボール箱や人形ケースを作るおうちとか。サラリーマンや大学出の親はほとんどいなかった。金持ちから生活に苦しい人、当時は珍しかったレズビアンの家とか、あらゆる階層の人がいて。「社会のリアル」を体で覚えた気がします。

――そこから中学受験を
教育熱心な小学校の先生に勧められ、放課後に同級生とグループ学習しました。めっちゃ難しいドリルの問題を解くのが楽しくて成績も上がり、今の京都教育大付属京都中学を受けて合格しました。ところが、入ってみたら環境が正反対。友達はみんなお屋敷の子で、遊びに行けばソファやピアノがある。僕の家に活字の本いうたら「家庭の医学」とお経しかないのに、こちらには文学全集やら置いてある。そこに強烈な違和感を感じる自分がいやで「負けるか!」と思った。読書とか音楽とか絵を描くとか、彼らの目指すものを彼ら以上にやろうとした。

――どんなふうにですか
中学2年から生徒会活動や新聞部、中3でバンドを始めました。リードギターでベンチャーズなんか弾いて。高1の時、京都駅前のデパート屋上であった軽音楽コンテストで優勝したんですよ。僕らが中学を卒業する時に付属高校ができて、ほとんど無試験で進学できたから勉強しなくなった。あとは文芸部で戯曲書いたり、「カラマーゾフの兄弟」とか分厚い本ばかり読んだりしてた。

――万事のめりこむんですね
「ほどほど」ができないタイプで。でもね、中学や高校は自分が本当にいるべき場所でないと思ったけれど、帰れば安らげるはずの地元からも浮いてしまった。着地できるものがない、引き裂かれた感じ。それでいて、見た目はうまくやる自分の仮面性も肯定できなかった。学業ほったらかしであれこれやったのも、学校には染まらないぞという意地かもしれない。生徒会、新聞部、バンドと、絶えず居場所を変えながら。 

――そして、京都大を受験
おやじは仕事が建築関係やから、工学部ならいいと言う。授業料が安い国立に、下宿はだめ、浪人は許さない、と。だから文学部志望なのにアリバイ作りで理系のクラスに入り、成績が落ちてた。高3最初の進路面談で、志望校を「京大です」って言ったら、先生に「2浪しても入れっこない」と笑われ、かちーんときた。やったろうやないかって。バンドも文芸部も全部やめて勉強一筋。親に黙って文学部に願書出して合格しました。ほんと、あの先生のおかげです。

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■きしみ渦巻く街 他者に関心
――1968年、京大文学部に入学しました当時のスター教授に、高校の時からあこがれていました。中国文学の吉川幸次郎、フランス文学の桑原武夫、東洋史学の貝塚茂樹とか。でも、僕が入るころにはみんな辞めはって。ショックやった。学生運動のころで、入学翌年には全学スト。授業は出なかったけど、下宿や喫茶店での読書会で勉強してました。映画もぎょうさんみた。昼間はバンドと読書会、夕方は家庭教師のアルバイト、週末は絵を描いて、結構忙しかった。

――なぜ哲学専攻へ?
 社会学かフランス文学をやりたかったけど、人気講座で入れなかった。ストばっかりで単位とれてなかったから。それで第3希望の哲学へ。カント「純粋理性批判」やヘーゲル「大論理学」、マルクス「資本論」を読書会で読むと、わかるのはせいぜい2、3割。でも、すごいという気配はわかる。

――後に専門とするメルロ=ポンティとも出会います「他者」をテーマに卒論を書いたので、「他者」と「身体」を論じたメルロ=ポンティが頼りだったんです。彼の「知覚の現象学」は当時、全文の邦訳がなく、フランス語の原書、英訳、注釈書と参照していきました。苦労の半面、哲学の世界はすごいなと思えて。新聞社を受けるつもりが、大学院進学に変えました。

――なぜ「他者」に関心を?
 幼いころから出自や貧富の差、見栄(みえ)や意地の張り合いなどが渦巻く街のど真ん中で育ってきました。さまざまな齟齬(そご)やきしみを経験するなかで、ひとは隔たりをはさむと思いやりがあるのに、近づくと相手の他者性が壁みたいに昂(こう)じるという力学を、幼心に感じていた。たぶんそれが原点です。高校時代に読んだドストエフスキーにはそういうことも書いてあったはずなんですがね。

――大学院を出て、関西大学へ赴任します28歳の時、専任講師で採用されました。当時珍しい全国公募で。32歳から34歳までは、ドイツのルール大学ボーフムに留学。師事したベルンハルト・バルデンフェルス教授は、メルロ=ポンティのお弟子です。理論家でありつつ、哲学に縁のない人向けにも、届く言葉をもっておられた。ヨーロッパで哲学は、中等教育から学ぶ市民教育の基礎。教授の弟子たちは、街に出て社会問題を議論する会をしていました。そんな経験も、臨床哲学につながっていますね。人生はあみだくじだと、僕は思うんです。すごい人や本に出会うと、自分の地盤がぽーんとずれて別の軸にいく。メルロ=ポンティが哲学について語った「おのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である」という言葉そのものです。

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■外様の僕が阪大総長 何やろこれ
――ファッションを論じた1989年の「モードの迷宮」は話題になりました。もともと雑誌「マリ・クレール」の連載でしたね
編集部にいた安原顕さんに口説かれ、「哲学用語は使わない」という縛りで書きました。僕は、日本の哲学者が無視してきたものに着目するくせがあるみたいです。その最初がファッション。季節で価値観がころころ変わるものを扱うなんて世も末だと、学界からは言われましたが。僕が研究してきたメルロ=ポンティは「身体」と「他者」に取り組んだ哲学者です。二つを重ね合わせたところにファッションがある。他者の前に出る時のいでたちをどう構成するかという話ですから。

――「顔の現象学」も
自我や人格は論じるのに、なぜか顔そのものは哲学の対象にならなかった。次いで「聴く」、そして「待つ」。こういうものを無視する形で理論を組み立ててきた限界、哲学のまなざしをいびつにしてきたものはなにか、という視点を貫いたつもりです。

――その間、92年に関西大から大阪大へ移ります
30代終わりから校務が忙しくなり、授業のコマ数も多かった。やりたい研究が山ほどあるのにと思っていたら、阪大教授の塚崎智先生からお誘いを受けたんです。キツネにつままれた気分でした。というのは僕、院生の頃、自分の学会発表で塚崎先生の上司にたてついたんです。批判を受け、きつくやり返してしまった。でも、うれしかった。最初は、敵地に乗り込む気分でしたけど。

――教授を経て、副学長に
2003年に選挙で文学部長になってしまい、翌年、当時総長だった工学部出身の宮原秀夫先生から副学長をやってくれ、と。これも驚いた。宮原先生とは大学法人化の未来構想をめぐって大げんかしたことがあったから。最初は断りました。でも、理系が強い阪大で、文系でよその大学出身の僕を、大げんかした相手が呼んでくれた。懐が深いなあと。この人のためやったら、いいかなあと。阪大の文系のためにも。

――07年、阪大では文系出身で初の総長に
 副学長終えて教授に戻るつもりでいたら、総長選に出てくれと人に頼まれて。やる気まんまんの人への批判票を集めたいからと。名前だけ貸すつもりでいたら過半数とってしまって。話違うで……。

――総長在任中も、街へよく出ておられましたね
たとえば地元商店街と組んだインターンシップ。何をするか、学生が一から決めるんです。遊園地で遊具に乗ることではなく、何もない原っぱで何かをすることが求められます。これ、学内には評価してくれない人も多かった。世界レベルの研究をする大学が、何で商店街なんだって。でも、専門家が専門の仕事するには、専門家じゃない人を説得せなならん。お金を集めたり、助けたいという気にさせたり。それを体感する機会という理念がありました。外様だから気楽だと思って来た阪大で総長に。僕の人生、いつも予想と違う展開になる。何やろ、これ。

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■「ほどほど」じゃなく「とことん」
――大阪大総長は1期4年で辞めて、大谷大の教授に
2期目をやるつもりはなかったんです。2007年の就任後すぐにがんが見つかり、手術して無理してたし。一教授に戻りたくて、お誘いのあった京都の大谷大へ移りました。自宅から歩いて8分だし、創立時から哲学に力を入れているから、最高の環境ですよ。

――その京都で生まれ育って感じることは?
「京都の平熱」という本で、エクストリーム(両極)が離れて明確なほど、人はその間で自由になれると書きました。あ、これが京都なんだって、大人になってから気づいたことです。ファッションなら、坊さんと舞妓(まいこ)さんという両極が、日常に溶け込んでいる。政治も両極が見えやすい。28年間務めた革新系の蜷川虎三府知事のころ、京都市は保守系に転じた高山義三市長だった。議員選でも自民党と共産党がトップ争いをすることがある。ただ、下宿したことがないことと、言葉を変えられたことがないことは、僕のコンプレックスですね。結婚も早く、生まれてからずっと家族と一緒。仮に大学が東京だったら、下宿先で味付けもルールも違う家庭を知ったかもしれない。その場合、普通は一度言葉を捨てますよね。寂しい半面、自分への密着から自分をひきはがすことでもある。

――アートへの期待も大きいですね
 阪大で副学長になったとき授業に取り入れました。教育の普遍的な方法として。大学院生が方法としてのアートに学ぶコミュニケーションデザイン・センター(CSCD)という組織も作りました。アーティストが創作するとき、とことんこだわるでしょ。その「とことん」が学生に伝染する。おざなりなことはできないという姿勢が自然に身につくんです。今の教育は何でも「ほどほど」。若者は「とことん」が嫌いなんやなくて、知らないだけです。

――次に何をしたいですか
哲学理論として「所有論」を書くつもりです。なぜすべてのものは「誰かのもの」として現れるのか。「所有」が人間精神に根深いのはなぜか。十数年かけて準備してきました。残りの人生をかけたライフワークになります。戦前に京大教授だった哲学者、九鬼周造の評伝も書きたい。遊廓(ゆうかく)の美意識を「『いき』の構造」に著しましたが、男爵の父と、祇園出身の母という、融和しない両極に引き裂かれていた人でもありました。「人としてある」ことの哀(かな)しみが、ここまで伝わってくる哲学者は、ほかにいない。僕はものごとにのめり込むタイプ。でも、哲学に関しては、まだのめり込めてない感じがあるんです。(聞き手・星野学)

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