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ヒューマニスト75
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<サーロー節子>

 

沈黙の閃光/ セツコ・サーロー(日本原水協antiatom.org)
いまから40年前の1945年8月6日、アメリカは広島に原爆を投下しました。当時、私は広島女学院に通う13歳の生徒でした。この一発の爆弾でおよそ14万の人々が命を失いました。私は生き残った者のひとりです。その後の人生の大半を、あのとき目の当たりにした恐怖と被害を二度とくり返させないために生きてきました。廃墟から這い出てきた私たちは、いま世界を脅かしている核の破局を垣間見ました。私のことをお話しするのは同情を得るためではありません。警告なのです。・・・その晩はいつものように空襲警報が鳴り、よく眠れませんでした。しかし翌朝は警報解除が鳴り、人々はいつもの仕事を始めようとしていました。美しい夏の日で、青空がいっぱいに広がっていました。6時30分に布団から出て朝食をとりました。綾子と英治は医者と美容院へと出かけました。7時45分頃、私も家を出て、生徒たちのグループといっしょになるために駅へと歩きました。私が班長でした。隊列を組み、市の中心から1.8キロメートルのところにある第二総軍司令部へとむかいました。「歩調をとれ!」「かしら、右!」と、私の号令で入り口の歩哨に敬礼した隊員たちを、暗号作戦の責任者であった柳井少佐が待っていました。少佐は、二階の大きな部屋に集まった私たちを前に演説し、元気で、天皇陛下のために一生懸命に働くよう話しました。ちょうど、私らが「わかりました。最善を尽くします」と言ったときでした。窓全体が青白い閃光でいっぱいになったのです。

 爆発音は聞きませんでした。市から何キロもはなれたところでは、落雷のような轟音がはっきりと聞こえました。しかし私たちは、爆心近くにいたほかのすべての被爆者と同じように何も耳にしなかったのです。静かな閃光だけがあったのです。それを見た瞬間、机の下に潜り込もうとしました。けれどなにか浮かび上がるような感じがしました。建物とともに、私の身体は落ちていったのです。気がつくと、辺りは静かで真っ暗でした。瓦礫の下敷きになっていました。爆弾が頭上に落ちたのだと思いました。市民の誰もがそういう感じを持ったようです。・・・
http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Hbksh/1008_setsuko-WC10.html

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被爆者の声、外交官に届いた ノーベル平和賞、ICAN事務局長(2017年10月8日朝日新聞)
ノーベル平和賞の受賞が決まった「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のベアトリス・フィン事務局長(34)=スウェーデン出身=は6日、朝日新聞の取材にそう答えた。この「人道第一」の考えの根底にあるのは、広島と長崎の被爆者や、核実験で被害を受けた人々が続けてきた証言活動だった。「(反対派が批判する核兵器禁止条約の内容よりも大事なのは)まさに人道的視点でしょ。被爆者は自らの体験を共有することで、核禁条約交渉の場に、不可欠な人道的視点をもたらしてくれた」「被爆者はただ自分の話をするためだけに、そこにいたわけじゃない。活動し、(各国政府に)圧力をかけ、(核軍縮に)変化を起こすためにいてくれた」フィン氏がいうように、今年3月の核禁条約交渉会議では広島の被爆者でカナダ在住のサーロー節子さん(85)が英語で証言した。「認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳のおいの姿が脳裏によみがえる」。こうした被爆者の声が、出席した外交官に届いたと評価する。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13171298.html

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ICANと活動、サーローさん「72年間、長い道のり」(2017年10月6日朝日新聞)
広島で被爆し、現在はカナダ・トロントで暮らすサーロー節子さん(85)は、被爆体験を世界で語り続けてきたICANの「顔」。6日早朝、ノーベル賞受賞が決まったことについて、自らの体を何度も抱きしめるようにして喜んだ。核廃絶への取り組みには今年、大きな動きが続いた。7月の核禁条約採択、そして今回のノーベル賞。「何十年も反核平和運動に参加したが、ここ数年は非常に集中的だった」と振り返る。「(核禁条約は)核兵器の終わりの始まり。この星を愛しているのなら、世界の指導者は署名してください」

「敬愛する姉が虫けらのように扱われても、涙一滴出なかった。それで自分を責めました」(2014年11月、ビデオでの証言)

 留学で米国を訪れたのは、その米国が太平洋ビキニ環礁で水爆実験を行い、漁船「第五福竜丸」が被曝(ひばく)した54年。地元紙の取材に「米国はとても非人道的なことをした」と答えると、「日本に帰れ」と批判する手紙が届く。

 「口をつぐむべきか、それともあえて公の場で発言をすべきか。そのときに将来の方向が決まりましたね」(10年4月、ビデオでの証言)

 カナダ移住後の75年8月6日、トロントで平和を祈る「ヒロシマデー」を企画。以後世界に向け、あるときは激しく、あるときは呼びかけるように言葉を紡いだ。

 「一発の爆弾が、今も被爆者を放射線の被害で苦しめている。核と人類は共存できない」(14年12月、ウィーン)

 「被爆から70年になろうとしているのに、現状は変わっていない。今こそ行動するときだ」(同2月、メキシコ)
http://digital.asahi.com/articles/ASKB663YSKB6PTIL02D.html

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(MONDAY解説)発効へ向け、早々に50カ国署名 核禁止条約、脅威増す今こそ 松尾一郎(2017年9月25日朝日新聞)
核禁条約の「魂」は被爆地にある。広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」がそれだ。カナダ在住の広島被爆者サーロー節子さん(85)は3月、条約の交渉会議でこう証言した。「認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳のおいの姿が脳裏によみがえる」サーローさんの体験談は、核被害者の救済義務など人道的見地を盛り込んだ画期的な条約に結実した。前文には「核兵器の使用による犠牲者(ヒバクシャ)ならびに核兵器の実験による被害者にもたらされた受け入れがたい苦痛と被害を心に留める」との一文が盛り込まれた。きっかけは、2007年に国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が結成されたことだ。核不拡散条約(NPT)の会合で、軍縮の議論は後回し。ICANは核を禁じる法的枠組みの必要性を訴えた。それが、核軍縮を進めない核保有国に対する、非核保有国の不満のマグマと結びついた。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13149996.html

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被爆者、世界動かした 「将来世代の命、危険にさらし続けない」 国連総立ち、拍手・涙(2017年7月9日朝日新聞)
「亡くなった数十万の人々。彼らはみな、それぞれに名前を持っていました。そして、みな誰かに愛されていました」核兵器禁止条約採択後の7日午後(日本時間8日早朝)、米ニューヨークの国連本部。カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(85)の力強い声が響く。「私はこの日を70年以上待ち続けていました」訴えかけるような英語のスピーチに各国代表やNGO関係者らが耳を傾ける。これまでの核抑止政策を失敗と断じ、「我々は取り返しのつかない環境汚染を繰り返しません。将来世代の命を危険にさらすことを続けません。世界各国の指導者たちに懇願します。もしあなたがこの惑星を愛しているのなら、この条約に署名してください」。最後は、こう締めくくった。「核兵器はこれまでずっと、道徳に反するものでした。そして今では、法律にも反するのです。一緒に世界を変えていきましょう」

 会場はほぼ総立ち。盛大な拍手が送られた。涙ぐむ人、嗚咽(おえつ)する人……。胸に去来したのは、思いを受け入れてくれたという深い満足感だ。取材にこう答えた。「やっとここまでこぎ着けた」・・・ 広島女学院高等女学部の生徒だった1945年8月6日、動員先の第2総軍司令部(現・広島市東区)にいた。13歳だった。午前8時15分、原爆が投下された。責任者の訓示中に閃光(せんこう)を見たと同時に気を失う。その後、目の当たりにした光景は忘れられない。がれきの街と炎。眼球が飛び出たり、皮膚が垂れ下がったりしている人々。姉と4歳のおいが大やけどを負い、死へと向かう姿を、ただ見ていた。・・・

■不参加日本を批判

 今回の条約は待ち望んでいたものだ。「われわれ被爆者の気持ちを理解し、核廃絶を目指す人々の情熱が加わった」一方で会議に参加しなかった日本政府を「被爆者のサポートをちっともしてくれなかった」と批判。会議に参加しなかった核保有国には「人類の脅威を作り出した国が条約に向き合わないのは無責任」と憤る。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13026640.html

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日本の交渉不参加、被爆者「裏切られた」 核禁止条約(2017年3月29日朝日新聞)
米ニューヨークの国連本部で開かれている「核兵器禁止条約」の交渉会議で28日、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(85)が演説し、日本の交渉不参加を痛烈に批判した。「自国に裏切られ、見捨てられ続けたという被爆者の思いを深めた」と述べ、参加国に対し、核兵器を違法化する条約の制定を求めた。サーローさんは「広島に人々を招くことで、核軍縮で重要な役割を果たしていると日本政府は言うが、米国の『核の傘』に入り続けるのなら、空っぽでごまかしの行動だ」と非難した。13歳で被爆したサーローさんは「広島を思い出すとき、認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳だったおいの姿が脳裏に最初によみがえる」と証言。人類は二度と核兵器の苦しみを体験するべきでないとの確信から、生存者たちは核廃絶の運動を続けてきたと説明した。さらに、各国の外交官に「将来世代だけでなく、広島や長崎の犠牲者の支持も感じながら」交渉に当たって欲しいと呼び掛け、核兵器の違法性の国際基準が確立されることを期待した。
http://digital.asahi.com/articles/ASK3Y0PNZK3XUHBI04G.html?iref=pc_extlink

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核禁止条約交渉「第一歩に過ぎぬ」 被爆者サーローさん(2017年3月23日朝日新聞)
広島での被爆体験の証言を各国で続けるカナダ在住のサーロー節子さん(85)が21日、ロンドン大学で講演した。27日に米国で始まる核兵器禁止条約交渉について「これは第一歩に過ぎない」と語った。広島市出身のサーローさんは13歳の時、爆心地から約1・8キロの地点で同級生らとともに被爆。姉やおいを失った。「こんな非人道的な体験を、人類は二度と経験するべきではない」と英語で訴えた。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12854938.html

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