ヒューマニスト63
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<浜田知明>

 

Wikipedia
浜田 知明(はまだ ちめい、1917年(大正6年)12月23日- )は、日本の版画家・彫刻家。日本の版画家が国際的に注目されはじめたのは1950年代からであるが、浜田は、棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎らと並び、第二次大戦後の日本を代表する版画家の一人に数えられる。1917年(大正6年)、熊本県御船町に生まれた。旧制御船中学校(現在の熊本県立御船高等学校)で東京美術学校を卒業後すぐに美術教師として赴任していた富田至誠に指導を受ける。飛び級で、16歳の歳東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学し、洋画家藤島武二の指導を受けるが、戦時色濃いこの時代にあって、浜田は1939年(昭和14年)の同校卒業と同じに日本軍(熊本歩兵連隊)に入隊し、中国山西省方面で軍務についた。1943年(昭和18年)満期除隊するが、翌1944年(昭和19年)には再び入隊し、伊豆七島の新島で軍務についた。20歳代の大半を軍隊で過ごした、典型的な戦中派であった。戦地でもスケッチなどを残しているが、作家としての本格的なデビューは第二次大戦の終戦を待たねばならなかった。

・・・日本国内のみならず、1979年にはオーストリアのウィーン(アルベルティーナ版画素描館)とグラーツ(グラーツ州立近代美術館)、1993年にはロンドン(大英博物館日本ギャラリー)で回顧展を開催、2008年にはイタリアのウフィツィ美術館で日本人版画家として初めて展示、収蔵され、1965年フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員、1989年にはフランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ章)を受章するなど、国際的にも活躍している。浜田は「冷たく、暗い、金属的な感じ」を求めた結果、技法的には一貫してエッチング(腐食銅版画)を主体に作成し、アクアチント(松やにを防蝕剤に使った銅版画の一種)を併用することもある。核戦争のような人間社会の不条理や人間心理の暗部といった深刻なテーマを、ブラックユーモアにくるんで表現している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浜田知明

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(人生の贈りもの)浜田知明(95):1(2013/12/13朝日新聞)
版画家・彫刻家

■脳裏に焼き付いた戦争体験を記録

 ――今年3年ぶりに新作を2点作りました。「杖をつく男」と、中国兵の死体がモチーフの「風景」。いずれも彫刻です

 3年前に転んで骨折し、入院しました。やっと起きあがり、杖をついた自分を見て、作ろうと。自刻像ですが、それを超えて、年をとることを老醜とだけ見るのではなく、枯れてゆく美しさもまたあると表現したかった。中国兵の死体は、1941年に従軍した中国の中原会戦(ちゅうげんかいせん)で見ました。暑い季節です。切り株に斜めに引っかかり、一日一日と腐ってガスで腹がぶわっと膨らんでいく。そのイメージがずっと頭に残っていました。残念ながら、作った後に壊れてしまいました。

 ――3年前の大規模な個展では、やはり従軍中に脳裏に焼き付いたイメージを、新作のデッサンで発表しました

 日本の軍隊が戦地でいかにひどいことをしたか、記録しておきたい。デッサンの「忘れえぬ顔」は民家の小窓から我々日本兵を見つけ、恐怖に顔をひきつらせた中国の少女を描きました。あの時、同じ隊の男が民家へ入り、少し経ってニヤニヤと服を整えながら戻ってきた。家には少女の母親もいた。母親の前でどんなことをされたか。僕は軍隊にいることが心底いやになった。

 描きたいけど、どうにも絵にならない体験もあります。行軍中に宿営した集落で仲間とだべっていると、使用人の中国人が「腹をこわしたので薬が欲しい」と言ってきた。星一つない、真っ暗な夜でした。1人の兵隊が「やるからついてこい」と立った。しばらくしてダーンと銃声が響き、闇の中から兵隊がにやりと笑って戻ってきた。日本ではごく普通の、店のおやじです。そんな人間が何の理由もなく、人を虫けらのように殺せるのが戦争なんです。ただ、どうしても絵にならない。舞台や小説なら効果的では、と考えることもあります。

 ――戦地では写生したのですか

 そんな余裕などありません。僕の作品は全体に心象風景です。ただ、目に焼き付いた光景は消えることがなく、いまもよみがえります。もしも戦地を踏まなかったら僕の芸術観はもっと違っていたかもしれません。人生観も芸術への態度も、戦争体験と切り離して考えることはできなくなりました。

 ――創作のエネルギーの源は戦争への怒りなのですね

 もちろんそうですが、美術家としてものを作っている時こそ、生きていると実感する。作っていないと生きていてもしようがない気になるんです。ただ、最近は手の具合が悪く、彫刻がうまくいかない。デッサンは、仏教語の「会者定離(えしゃじょうり)」をテーマに取り組んでいます。どんなに親しく、愛し合っても、出会った者は必ず別れるという意味です。ここ数年、ずっとこの語が気にかかり、いろいろとやっていますが、まだものになりません。(聞き手・小川雪)

 はまだ・ちめい 1917年、熊本県生まれ。戦争体験に基づく銅版画「初年兵哀歌」シリーズなどで国際的な評価も高い。画集「浜田知明 よみがえる風景」(求龍堂)など。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201312160276.html?iref=comkiji_redirect

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(人生の贈りもの)浜田知明(95):2(2013/12/17朝日新聞)

どんな子どもでしたか

 熊本市郊外の御船(みふね)町に生まれ、10歳ごろから、小学校長だった父の世界美術全集を眺めるようになりました。興味を持ったのはヨーロッパの写実的な絵です。十字架から下ろされたキリストの手足に開いた穴が生々しい、ルネサンスの画家マンテーニャの「死せるキリスト」、スペインの民衆がナポレオン軍に銃殺される光景を描いたゴヤの「1808年5月3日」や、連作版画「戦争の惨禍」にひきつけられた。美術学校時代にはスケッチのために屠場(とじょう)に通ったこともあり、どこか生とか死のイメージにひかれる性があるのかもしれません。その影響は今に至るまであると思います。

――旧制御船中学校を1934年に飛び級で卒業し、16歳で東京美術学校(美校、現東京芸術大学)油画(ゆが)科に入ります

 僕が入学した年、御船中は陸軍士官学校や海軍兵学校の合格者が大変多く、軍国主義の雰囲気に満ちていた。軍人好きの父は、僕を士官学校に入れたかったのですが、美校受験を認めてくれた。次男坊だったので、好きな道を許してくれたようです。

――油画科の教授は著名な洋画家の藤島武二でした

 画家としては尊敬していたが、洋画壇トップの自負からか、学生の絵にどんどん手を入れ、自分のやり方を押しつける。「モデルを見たままに描け」と言う。それが嫌で、先生の姿が見えると教室を抜け出しました。でもある時、先生の意に沿わない絵を描いているところを見つかり、「学校をやめろ」とひどく怒られた。親の手前、さすがにまずいと先生の自宅を訪ねると、「家では自由に勉強すればいい。ただ、学校では方針に従うように」と。案外、物分かりの良い先生でしたね。

――美校のアカデミズムになじめなかった

 少し前の学生はアカデミズム志向でしたが、僕らの関心は、パリで活動する個性的な画家たち「エコール・ド・パリ」の動向や、シュールレアリスム(超現実主義)など、新しい潮流や芸術運動にありました。ピカソやダリ、モンドリアン、アルプらからは、複製を通じて大きな影響を受けました。

――当時の美校の雰囲気は

 僕がいた34〜39年は、暗い戦争の時代へ向かう途中の谷間というのか、東京音頭が流行し、銀座のカフェーがにぎわうなど、まだ世間に自由な雰囲気があった。僕は同級生と「デザミ」というグループを作り、シュールレアリスムを日本に紹介した画家の福沢一郎や評論家の滝口修造を招いた勉強会や展覧会を開きました。次第に右傾化していくのを眺めながら、「日本の進んでいる道はおかしい」と考えた。時代がきな臭くなるにつれ、警察へひかれた友人もいました。(聞き手・小川雪)
http://digital.asahi.com/articles/ASF0TKY201312170183.html?iref=comkiji_redirect

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(人生の贈りもの)浜田知明(95):3(2013/12/19朝日新聞)

伝えたかった異常さ 銅版画で表現

――第2次世界大戦が始まった1939年に東京美術学校を卒業。現役兵として入隊し、中国大陸に渡りました

 軍国主義は嫌いでしたが、一方で、血なまぐさいイメージの絵にひかれ、ゴヤの戦争の絵に感動していた僕には、この目で戦場を見ることは、画家としてまたとない機会にも感じられました。戦地で目にしたのは、腐ってウジ虫のわいた死体や、その肉を求めて集まる鳥や野犬、皮をはいだ牛の赤い血と白い肉。純粋に造形的な面からのみ見れば、そこには善悪を超えたある種のすさまじくも美しい光景がありました。

――画家の業でしょうか

 そう言えるかもしれません。ただ、軍隊の不条理、愚劣さ、非人間性は僕の思いをはるかに超えるひどいものでした。軍では、入隊が一日でも早い人には絶対服従です。上の者は下の者を容赦なく殴り、殴られた者は新参者をまた殴る。思考などない暴力の連鎖。肉体的な苦痛はまだ耐えられたが、精神的な自由が全くないのはやりきれません。ここから逃れるには自ら命を絶つしかない。毎日そう考えるほど精神的に追いつめられた。兵士が足の指で銃の引き金を引こうとしている銅版画「初年兵哀歌(歩哨)」はそんな僕自身の姿なのです。

――51年から発表した全16点の銅版画「初年兵哀歌」シリーズには、芋虫になった兵隊、性器に棒を突き立てられた女性の死体なども。衝撃的でした

 最も弱い存在の初年兵に軍隊の矛盾の全てがのしかかった。人間ではなく芋虫扱い。「歩哨」と同じポーズをとったこともあります。日本軍の残虐な行為の数々を目にして、とにかく生きて戻り、この異常さを伝えたいとの思いが日に日に強くなりました。気力体力がもっとも充実した20代の5年間を、野蛮で残酷な軍隊に奪われた悔しさもありました。

――学校で学んだ油絵ではなく銅版画で取り組んだのですね

 記憶に焼き付いたもの、戦争や軍隊の本質を表現するために何が必要かを突き詰め、銅版画の金属的な鋭さ、画面の冷たい感じ、白と黒の世界が生む深い明暗こそが最適だと思い至りました。色は使わず、余計なものを極力省き、訴えねばならないことだけを表現したかったのです。美術界では50年代から抽象表現が盛んになりました。しかし、戦場で見てきたものを表現するには、あまりに抽象化するより、具象的に描くことでしか伝えられないものがあると信じました。(聞き手・小川雪)

http://digital.asahi.com/articles/ASF0TKY201312180287.html?iref=comkiji_redirect

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(人生の贈りもの)浜田知明(95):4(2013/12/19朝日新聞)

風刺画取り組み 幅のある表現に

――1950年代後半から、人間のずるさや愚かさなど、現代社会を風刺する作品も手がけます

 どうも面白くないことや、嫌なやつに出会うと、作品にしたくなる。ひねくれているんでしょうね。例えば、他人を気にして目をきょろきょろさせてばかりの四角四面な教師が、酒が入った途端にセクハラ男になる。56年の「副校長D氏像」は、そんな滑稽な姿を戯画化しました。悲劇から喜劇へ、重々しさから軽みへと創作の転換点にもなりました。経済成長で豊かになる一方、社会は管理化が進み、息苦しさやひずみが出てきた。そんな時代にはストレートに迫るより、ちょっとずらして皮肉を利かせる方が、表現にもメッセージにも幅が出ます。風刺画にこそ、文明批評の厳しい目と、機知と、人間への深い愛情がなくてはならない。やっぱり人間が一番面白い。そう思って取り組みました。

――一方で、ロッキード事件を題材にし、賄賂まみれの政治家やしらけた選挙、核への不安など社会問題も積極的に描きました

 冷静に見れば見るほど、現代社会は風刺画にとってモチーフの無限の宝庫です。核戦争の不安を描いた88年の「ボタン(B)」は、目に見えない危機感をどう表現するか、悩みました。縦に並んだ3人の男が目の前のボタンに次々に手をかけ、最後に決定的なボタンを押す男は顔を覆われて人格を抹消されている。現代の戦争の構造と恐ろしさを表せました。

――戦後9年間は東京で中学教師をしながら創作を続け、57年からはずっと熊本ですね

 新しい動向を吸収するには、展覧会も仲間も多い東京が一番。でも義理の両親が娘や孫と離れて暮らすのがつらそうで、妻子は熊本に残しました。妻の実家の繊維問屋の婿養子でしたが、画家の僕は経済的な期待なんて最初からされていないし、その必要もありませんでした。熊本に戻ると、地方都市の不快な点が目について、それも作品になりましたね。

――作家活動と並行して、高校や大学の教壇に長年立ちました

 教員は制作の時間がとれるのが魅力でした。ただ、学生に押しつけるような指導はしなかったし、自分の作品も見せません。ある時、個展に足を運んでくれた学生から「同姓同名ですが、もしかして先生ですか」と尋ねられたくらいです。

――60代半ばから独学で彫刻を始めました。なぜですか

 もともと彫刻は好きでした。版画制作の参考にと粘土で人体を作ってみたら、手でじかに形づくる生の感覚が面白くて。僕は彫刻は「三次元のデッサン」だと思うんです。デッサンのできる人なら、彫刻はできる。立体だからこそ、獲得できた表現があります。(聞き手・小川雪)

http://digital.asahi.com/articles/ASF0TKY201312190198.html?iref=comkiji_redirect

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(人生の贈りもの)浜田知明(95):5(2013/12/20朝日新聞)

言論の自由 美術家として模索

――これまで大英博物館(イギリス)やウフィツィ美術館(イタリア)で個展が開かれ、昨冬はニューヨーク近代美術館の戦後日本美術展でも「初年兵哀歌」シリーズなどが展示されました

外国でも一応通用した。それ以上のことではありません。僕は、一般人の海外渡航が自由になった1964年、46歳で初めて渡欧しました。本当は、本場のヨーロッパで本格的に学び、仕事をしてみたかった。そうしたら、もっと己の創作に厳しくなれたでしょう。

――59歳の時、母校の東京芸術大学の教授就任を打診され、断ったそうですね

 体調がすぐれなかったのが一番の理由ですが、肩書にも魅力を感じなかった。勲章とか、何々会員とか、名誉にこだわる美術家もいますが、僕はあまり興味がありません。結局は、いい作品を作れればそれでよいのですから。

――2007年に出版された画集「よみがえる風景」に寄せた、「戦争を知らない世代の一部の人達(たち)の中から、最近勇ましい言葉が聞かれるようになった。出征していった兵士達と、白木の箱に納まり、戦友の腕に抱かれて返ってきた英霊達の姿が(私の瞼〈まぶた〉には)まだ残っているというのに」の一文が、いま改めて心に響きます

 最近の日本は戦前を想起させる空気に急速に傾いています。権力を握った政治家は思い通りの国をつくろうとする。本来は、まず国民があって国づくりをすべきなのに、今は国ありきで、そこに国民をはめこもうとしている。非常に危ない感じがします。ある新聞に先日、「日本には武士道の伝統があり、明治以降も立派な軍人がいた。その日本軍が残虐なことをしたはずがない」という趣旨の、年配の女性の投書が載り、びっくりしました。虐殺や強姦(ごうかん)をした人が、家族や友人に話すことはほとんどないでしょうが、それにしても……。最近はインタビューをお断りすることが多かったのですが、まだまだ語らねばならないと思い直しました。

――芸術家は社会にかかわっていくべきだと

 美術界には僕の考えを邪道だと言う人もいるでしょう。純粋に造形を追究していればよいとか。ならば、ピカソの「ゲルニカ」はどうでしょう。フランコ独裁政権への、ピカソの抗議が強く込められたからこそ生まれた傑作です。僕の作品も戦争や社会に対する思想が入ることで強固になった。

一番大切なのは自由にものが言える社会であることです。物事を自由に考え、疑問を呈したり、批判したりする人たちを迫害する社会に戻ってはなりません。そのために、作品を通じて美術家にもできることがある。そう信じて、もう少しやってみます。(聞き手・小川雪)=おわり

http://digital.asahi.com/articles/ASF0TKY201312200295.html?iref=comkiji_redirect

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