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ヒューマニスト53
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<宮本 憲一>

 


宮本 憲一(みやもと けんいち、1930年2月19日 - )は、日本の経済学者。元滋賀大学学長、大阪市立大学名誉教授、滋賀大学名誉教授。専門は財政学、環境経済学。経済学博士(京都大学)(1972年)。ケインズ経済学とマルクス経済学を批判・検証する形で公共政策や地域経済を研究。公害問題や環境問題に関しても積極的に発言してきた。四日市公害を初めて紹介し、原告側証人として告発。返還後の沖縄調査、カナダ先住民の水銀調査なども行ってきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮本憲一

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(人生の贈りもの)環境経済学者・宮本憲一:1 「原発事故は史上最大最悪の公害だ」(朝日新聞)

――東日本大震災の被災地に何度も足を運んでいます

3・11の2カ月後、まず宮城県石巻市と岩手県陸前高田市を訪ねました。アスベストを含む災害廃棄物が安全に処理されているか、心配でした。阪神大震災では対策を怠り、がれき撤去にあたった人たちが肺がんや中皮腫で亡くなった。自衛隊員や作業員がつけたマスクは専用のマスクではなかったし、住民の大半は何もつけていない。私たちが書いた本「終わりなきアスベスト災害」を被災した自治体や関係団体に送りました。

――「原発事故は史上最大最悪の公害」と訴えています


公害は、子どもやお年寄りといった弱い立場の人と農漁業者に被害が集中し、社会的な差別を受けるのが特徴です。今回は地域のコミュニティーが壊れて、住民は故郷に戻れなくなった。明治時代の足尾鉱毒事件で栃木県谷中村が滅んで以来のことです。

――原子力は最近まで環境行政の対象外でした

公害対策基本法が1967年に制定された時、国は「原子力基本法があるから」と除外した。一橋大教授だった都留重人さんと僕たち研究仲間で編集した専門誌「公害研究」(71年発刊、現「環境と公害」)で、米国のアレン・クネーゼ博士をはじめ、反原発の論客の論文を紹介しましたが、話題にならない。非力で残念です。

――関係者の多くは、事故は起きないと安心していました

原発だけじゃない。2005年、クボタは工場の近隣住民のアスベスト被害を認め、見舞金を出すと決めた。それまでアスベストの被害が及ぶのは、工場で働く人と受け止められていましたが、周辺の大気が汚染され、多数の住民が亡くなっていたのです。僕は「しまった」と。アメリカの学者からアスベスト被害を警告されて、85年の「公害研究」に論文を書きながら、現場を調べてはいませんでした。責任を感じて被害者の支援団体を訪ねると、「研究者で訪ねてきたのはあなたが初めて」と言われました。

――どうしたらいいのですか

公害の被害が発生したら、まず被害の実態を調べ、原因を究明し、被害者の救済と賠償を原因者に求めます。一方で防止対策を講じ、同じことがほかで起きないように予防措置をとる。こんな流れで進むはずが、原発事故では事故の全貌(ぜんぼう)がいまだにつかめず、東京電力や政府の責任はあいまいなまま。汚染はなお続いている。水俣病や三重県四日市の大気・水質汚染の失敗を繰り返している。今こそ、公害の教訓を学ぶ時でしょう。(聞き手・杉本裕明)
   *
 みやもと・けんいち 83歳 1930年、台北市生まれ。大阪市立大名誉教授、元滋賀大学長。環境経済学の第一人者で「環境経済学」「都市経済論」など著書多数。

http://digital.asahi.com/articles/
TKY201311110216.html?iref=comkiji_redirect

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(人生の贈りもの)環境経済学者・宮本憲一:2 広島で戦争のむごさと責任を知った(朝日新聞)

――台湾生まれですね

台湾電力の経理課長だった父と母、弟3人の6人家族です。1944年暮れ、通う中学の教師が生徒全員に「予科練(海軍飛行予科練習生)を受けよ」と告げましたが、私は将校を養成する海軍兵学校を受験しました。45年3月、僕ら兵学校の合格者を乗せた輸送機は、ゼロ戦2機に守られて台湾から福岡へ向かいました。一方、予科練に合格した級友が乗った駆逐艦は、本土に向かう途中に潜水艦に撃沈されました。

――兵学校の生活はどのようなものでしたか

長崎県の針尾島で暮らしました。英語教育が徹底され、英語の授業はもちろん体操の号令も英語。その後、山口県防府市に疎開しましたが、爆撃で校舎が全焼し、兵器も焼失。そこで終戦を迎えました。台湾は封鎖されて家に戻れず、私は石川県の伯父宅へ。乗り込んだ貨車が広島駅に近づくと一面焼け野原。ぼろを着た人が「乗せて」と懇願するのを振り切り、列車は発車しました。戦争のむごさと責任を知りました。

――石川県での生活ぶりは

伯父の家で2カ月ほど暮らすうち、無性に勉強したくなった。県庁を訪ねて、金沢市の中学に入れてくれるよう頼みました。証明するものは兵学校の合格電報くらいなのに第二中学に編入でき、飛び級で第四高等学校(現金沢大)の理系に進学しました。同じ頃、帰国が許されない父を残し、母と弟3人が日本に戻ったので、一緒に金沢市の引き揚げ者住宅で暮らし始めました。家族を養うため、私は何でもやりました。線路の保線作業はきつく、保険の勧誘では同級生の家を訪ねて回った。四高の最初の1年はほとんど通学できず、留年しました。

――「資本論」を書いたマルクスと出会います

47年に父が帰国し、学校に通えるようになりました。当時の学生は「資本論」を論じるのが当然という雰囲気で、私はマルクスを研究するサークル「社会科学研究会」に入りました。自治会の役員にもなり、文系に転科しました。理系は忙しく学生運動に費やす時間がとれないからです。48年秋、レッドパージに遭った長野師範学校の学生の支援に向かうため、退学届を提出。でも学生を救えず、四高に戻ろうと小島伊三男教授に相談すると、退学届を預かってくれていて復学が許されました。

――その後、名古屋大経済学部に進みました

東大を落ちて名古屋大に入ったのですが、これが幸いした。「経済学の父」と言われるアダム・スミス研究の権威、水田洋教授のもとで古典をみっちり学びました。3年の夏休み、実家に戻った私は金沢大の図書室に潜り込んで卒論を書いていました。すると正木一夫教授の目にとまり、「うちに来ないか」と声を掛けられて。卒業後、助手として金沢大に採用されました。(聞き手・杉本裕明)

http://digital.asahi.com/articles/
TKY201311120245.html?iref=comkiji_redirect&ref=reca

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(人生の贈りもの)宮本憲一(83):3(朝日新聞)

 ――公害と向き合い始めたのは
 1961年、静岡市であった自治労(全日本自治団体労働組合)の集会に参加しました。「地域開発の夢と現実」と題した報告があり、三重県の労働者の話に衝撃を受けました。自治体が大学に委託した大気と水質の汚染調査の結果を暴露したのです。三重の四日市コンビナートは開発モデルとされ、公害は発生しないと言われていたが、実際は亜硫酸ガス、廃油、重金属で空気や海が汚され、約800人のぜんそく患者が出ていた。自治体が報告書を伏せる中での勇気ある告発でした。
 ――それで四日市へ
 四日市市職員労働組合の宿舎に泊まったのですが、悪臭がひどくて眠れない。翌日、昭和四日市石油を訪ねて「報告書にコンビナートの油が原因で海の魚が臭いと書かれている」と言うと、総務課長は「戦争中に海軍燃料廠(しょう)のタンカーが爆撃された。そこから流れ出た油が原因」と。コンビナートそばの病院には、ぜんそくの患者さんがベッドに横たわっていました。まったく救済されていない。怒りで胸がいっぱいでした。
 ――公害の実態を記した「恐るべき公害」(64年)は42万部のベストセラーになりました
 福岡の八幡市(現北九州市)など各地を回り、62年、雑誌「世界」に「しのびよる公害―その政治経済学」を発表しました。社会科学者が公害を論じた初の論文として評判になり、岩波書店から出版の依頼が来ました。「自然科学者と一緒に学際的な内容にしたい」とお願いし、大気汚染の大家で京都大教授だった庄司光さんを紹介されました。

共著にする条件で庄司さんが示したのは、「宮本は酒が飲めるのか」。酒を浴びるほど飲んでは議論しました。


 ――本は公害と向き合う住民団体のテキストになりました
 64年9月、公害反対の住民の勉強会に招かれ、静岡県沼津市を訪ねました。コンビナートを誘致したい静岡県に対し、「四日市の二の舞いにするな」と反対していた。2万5千人が集会に結集し、保守と革新が共闘する姿を見て、「計画は早晩潰れる」と確信した。企業が進出を断念したのは、その翌月でした。地元の高校教師や研究者らが、公害を予測する環境アセスメントを実施したのが大きかった。「公害は出ない」と言う国の調査団と討論会で対決し、論破したのだから。
 ――63年に公害研究委員会を結成しました
 一橋大教授だった都留重人さんの提案で、庄司さん、都市問題に詳しい都立大助教授だった柴田徳衛さんら7人が集まりました。全国の公害の現場を調べて回り、国や自治体に政策を提言しました。これが79年に研究者や弁護士らで発足した日本環境会議の母体です。(聞き手・杉本裕明)

http://digital.asahi.com/articles/
TKY201311130310.html?iref=comkiji_redirect&ref=reca

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(人生の贈りもの)宮本憲一(83):4(朝日新聞)

■大気汚染訴訟 研究者の視点で証言

――ぜんそく患者9人が三重県四日市市のコンビナート6社に損害賠償を求めた大気汚染訴訟で、原告の証人になりました

水俣病など4大公害の裁判で四日市訴訟は最も困難でした。ぜんそくは大気汚染以外でも症状が出るからです。被告は巨大企業で、工場ごとに出した煙がどれだけの被害を与えたのかわからない。僕は戦前までさかのぼる大気汚染の歴史、地域開発と公害の関係を証言しました。公害裁判で研究者が証人に立つのは初めて。メモやノートを法廷に持ち込むことは許されず、真剣勝負でした。

――勝てると思いましたか

津地裁四日市支部の尋問の日、裁判長に食事に誘われて、「どんな本を読めばいいでしょう」と尋ねられました。陪席の若い裁判官は「悪臭で寝られない」とこぼした。裁判官が現地に住み、公害を実感しているのだから、勝てると思いました。1972年7月の判決は原告の完勝でした。政府と企業が公害防止に取り組む一大転機になりました。ぜんそくと大気汚染の因果関係を疫学で立証したのは、三重県立大(現三重大)教授だった吉田克己さん。共同で煙を出し、被害が出れば責任があるとの共同不法行為論を唱えたのは、名古屋大教授だった森島昭夫さん。僕はコンビナート立地の過失を論証した。判決は3人の主張を認めた。でも、裁判所前で勝訴を知らされた患者さんの言葉が忘れられません。「裁判に勝っても煙は上がっとる」

――大阪空港の騒音訴訟では、公害訴訟として初めて夜間飛行の差し止めを求めました

一審は原告が実質敗訴し、大阪高裁の控訴審で証人になりました。空港に公共性があると言うが、環境の公共性を守るべき政府が、住民の人権を侵すことはできないと訴えた。75年、夜間飛行の差し止めなどを認めた逆転判決が出ました。最高裁でまたひっくり返りましたが、高裁判決は住民の願いが届いた名判決でした。

――海外にも目を向けます

70年、海外の代表的な経済学者を招いたシンポジウムで、「環境権」を提唱しました。75年には「世界環境調査団」を組織し、僕が団長に。僕は熊本大助教授だった原田正純さん、東大助手だった宇井純君と、アメリカやカナダの水銀中毒を調べました。カナダのオンタリオ州では、先住民に水俣病と同じ症状を持つ人がいました。州政府を訪ね、原因と見られるパルプ工場の対策と患者の救済を求めましたが、「中毒はない」の一点張り。その後も現地を再訪したり、症状に苦しむ先住民の人たちを日本に招いたりしました。

――草の根の国際連帯です

80年代、多国籍企業が途上国で環境汚染を引き起こす事件が相次ぎ、僕らは韓国や台湾と情報交換を始めました。91年にタイで第1回を開いた「アジア・太平洋NGO環境会議」は、2011年までに10回を数えます。各国の研究者や住民団体が参加し、草の根の交流を続けています。(聞き手・杉本裕明)

http://digital.asahi.com/
articles/TKY201311140260.html?iref=comkiji_redirect

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(人生の贈りもの)宮本憲一(83):5 (2013年11月15日朝日新聞)

■環境再生運動 公害被害者も参加

――1980年前後から環境行政は後退します

78年、環境庁(現環境省)は大気中の二酸化窒素の環境基準を3倍まで緩和。87年には公害健康被害補償法を改定して新たな患者は認定しないと定め、「産業公害は終わった」と言い始めた。対策が進んだのも一因だが、市場万能主義の登場で規制緩和がもてはやされ、規制を伴う公害行政は障害とみられたのでしょう。

――アメニティー(住みやすさ)に注目し始めます

公害がなくなっても、それで環境問題が解決するわけではありません。白砂青松を求める「入浜権」や「町並み保存」など、暮らしやすさを求める運動が広がりました。従来の経済学は開発のメリットだけに目を向け、貴重な自然が失われても損失とはとらえませんでした。環境と資源を考慮した経済学であるべきです。和歌山県では、万葉集に歌われた景勝地、和歌の浦に橋をかけようと建設着工した県を相手に、景観が損なわれると住民が裁判に訴えました。橋で経済的利益を得ても、景観を失っては取り返しがつかない。原告のために意見書を裁判所に出しました。計画は止められませんでしたが、判決は「文化的環境の一環として歴史的景観が存在しうる」と、その価値を初めて認めてくれました。

――92年に環境再生の動きを紹介する「環境と開発」を出しました

保全だけではなく、失われてしまった環境を再生することも必要だと思い始めました。ヒントはイタリアにありました。86年に訪ねたラベンナは、農薬で汚染された農地を海や湿地に戻していた。ボローニャでは、歴史的な街の保全を掲げながら都心の再生を目指していました。

――ぜんそく患者たちが企業から得た和解金の一部でまちの環境再生を進めています

西淀川公害裁判の原告団長だった森脇君雄さんに「被害者が環境再生に貢献できたら」と提案したら、「ええ考えや」と。96年にあおぞら財団(大阪市)が生まれ、患者と市民、職員が環境調査にあたっています。私も昨年まで理事を務めました。患者が環境の再生に参加するなんて、世界でも例のないことです。

――長野県佐久市で20年にわたり、宮本塾を続けています

工場を誘致する「外来型開発」より、地元の企業や住民が環境を守りながら経済を発展させ、福祉を高める「内発的発展」を訴えてきました。京都市の自宅から手弁当で毎月通い、古典を読み、酒を酌み交わし、議論し、白書をつくりました。その輪の中から町長が生まれ、都会からIターンした人が有機農業に取り組んでいます。いま「戦後日本公害史論」を書いています。高度経済成長期を賛美する話は多いけれど、世界的に深刻な公害が起き、解決に向けて苦闘した時代でもあります。その経験は国内外を問わず貴重な教訓となるはず。それを伝えることが僕に与えられた使命です。(聞き手・杉本裕明)=終わり

http://digital.asahi.com/articles/
TKY201311150268.html?iref=comkiji_redirect

 

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