ヒューマニスト51
<その人の指向性、価値観、生き方、考え方>



<やなせたかし>

 

やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩(読み同じ)、1919年(大正8年)2月6日 - 2013年(平成25年)10月13日)は、日本の漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人。日本漫画家協会理事長(2000年5月 - 2012年6月)、日本漫画家協会会長(2012年6月 - 2013年10月)、有限会社やなせスタジオ社長。東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)生まれ、高知県香美郡在所村(現・香美市)出身。『アンパンマン』の生みの親として知られる。

2009年に東京都江戸東京博物館で開催された「手塚治虫展」では、「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」というやなせのコメントが紹介された(ちなみに、やなせは手塚より9歳年長である)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/やなせたかし


(惜別)やなせたかしさん 漫画家・絵本作家(2014/02/17朝日新聞)

明るく力強い言葉の裏には

「人生は喜ばせごっこ」。戸田恵子さんが大切にする、やなせたかしさんの言葉だ。アンパンマンの声優としてイベントで各地を一緒に回った。「自分の身を削っても、子どもたちを楽しませようとしていました」大病を重ね、入退院を繰り返しても、「リフレッシュ入院」と明るく受け止めるユーモアの持ち主。「落ち込んだところを見たことがない」とやなせさんの絵本を出版するフレーベル館の天野誠さん。「ナイーブなのに喜怒哀楽を表面に出さない。それは作品と重なると思う」5歳で父を亡くし、徴兵されて中国へ。弟は戦死した。作詞「てのひらを太陽に」など、明るく力強い言葉の裏には、孤独と哀切が込められていた。

50代で転機を迎える。それが「アンパンマン」だった。

「正義は自分が傷つくことを覚悟しないとできない。格好のいいものではない」。おなかをすかせた人に自分の顔を与える主人公は、大人向けの苦いお話として生まれた。やがて幼い心を魅了していく。なぜか。その答えは「僕にもわからない」。自分のシルエット柄が入った派手なシャツがお気に入り。サービス精神旺盛で、ぬいぐるみに囲まれた取材は決まって自作の歌で締めくくる。津波を耐えた岩手・陸前高田の一本松に自分を重ねて作った「松の木の歌」は振り付き。「オー、オー、オー」と拳をあげて歌えば、腹の底から元気がわいた。そばで支えた「やなせスタジオ」の越尾正子さんによると、1週間ほど前まで病院で仕事を続けていたという。視力は落ちたが「記憶にあるから」と太いペンを手にアンパンマンを描いた。3日前にこう口ずさんだ。「みなさん、ありがとう、ありがとう、ありがとう」。やなせさんらしい最後の言葉だった。(中村真理子)

     ◇

本名・柳瀬嵩(やなせたかし)

2013年10月13日死去(心不全)94歳

2014年2月6日お別れの会
http://digital.asahi.com/articles/ASG2D3TJ7G2DUCVL009.html?iref=comkiji_redirect

top


(人生の贈りもの)1 正義とは何か、ずっと考えていた(2011/01/31朝日新聞)

――子どもたちに大人気のアンパンマンが誕生したのは1973年。やなせさんは54歳でした。テレビ放映が始まったのはその15年後。遅咲きの漫画家と言われます。おもに食べ物にちなんだキャラクターは、すべてご自分で考えるそうですね


2009年3月までに登場したキャラクター数1768は、ギネス世界記録にも認定されているんですよ。その後も増えつづけて、もう2千は超えているね。2、3時間もあれば反射神経で、ぽんと出てくる。天丼を食べて「おいしいなあ」と思ったら、てんどんまんを描く。カレーパンがおいしかったら、カレーパンマンを描く。自分にキャラクターを作る才能があるなんて思いもしませんでした。友人の手塚治虫に、69年公開のアニメ映画「千夜一夜物語」のキャラクターを作ってくれと頼まれたのがきっかけです。「手塚くんがやればいいじゃない」と言ったら、「大人向けのものはできないから頼みたい」と。そのころの虫プロダクションは、子ども向けのアニメばかりだったのでね。ぼくは大人向けの短編漫画を描いていたのでアニメのことは何も知らなかったけれど、台本を読んだら「たぶんこういう顔だろう」っていうのが浮かんできちゃったんですね。「千夜一夜物語」に山賊の娘マーディアっていうのがいるんですけど、もとはとても軽い役だったんです。ところが、ぼくの描いた顔がよかったらしくて、どんどん重要な役になっていった。そのころのぼくは代表作もなく、自分の才能に絶望していました。ところが、キャラクターならすらすら描ける。それで楽しくなってね。

――やなせさんより9歳下だった手塚さんとは親しかったそうですね


手塚くんは競争心、嫉妬心の強い人で、自分と似ている人とはいっしょにいたくないという感じなんだね。子ども向け長編漫画を描いていた手塚くんとは方向や世界がまったくちがったので、それがよかったのかもしれない。それに、ぼくはなぜか手塚くんの奥さんに受けがよくてね、ハハハ。「千夜一夜物語」が予想外にヒットしたら、手塚くんが「お礼にうちで短編を一本、自由に作ってください」と言うんだよ。それで生まれたのが70年に公開されたアニメ映画「やさしいライオン」でした。

――絵本になった「やさしいライオン」は24万部のロングセラー。いまの子どもたちも大好きです

おかげで出版したフレーベル館に信用ができてしまってね。編集者に「次の作品を考えてください」と言われて描いたのが、ひもじい子どもに自分の顔を食べさせる正義の味方、アンパンマンでした。じつは、それ以前に大人のメルヘンとして描いたことがあったんです。そのときは、汚いマントを着て、よたよた空を飛ぶ丸顔のおじさんでした。髪の毛もあったんですよ。戦争で飢えた子どものいる国にアンパンを配りに行くんだけど、国境を侵犯したために撃ち落とされる。そんな苦い、風刺のきいたストーリーでね。正義とは何か、ずっと考えていました。正義はスーパーマンみたいにかっこいいものじゃない、ほんとうの正義を行おうと思ったら自分も傷ついてぼろぼろになるはず。だから、汚いマントのおじさんだったんです。そう考えるようになったのは、戦争を経験したことと大きな関係がありますね。

http://digital.asahi.com/articles/TKY201310150223.html?ref=comkiji_redirect

top



 

(人生の贈りもの)2 飢えた子救うアンパンマンが正義(2011/02/01朝日新聞)


――生まれは東京、少年時代は高知県で過ごされました


ぼくが5歳のとき、東京朝日新聞の記者だった父が亡くなり、両親のふるさとの高知で育ちました。絵本を読んだり絵を描いたりするのが大好きな、おとなしい子どもでしたね。母が再婚することになって、父方の伯父の家に預けられたのが小学校2年生。勉強ができたから学校では級長をしていましたが、ベーゴマやメンコのような遊びは下手。絵はうまかったけれど、工作はからきしだめ。自分でもあきれるぐらい不器用でした。5年生のときに竹トンボを作る授業があったんだけど、設計図どおり竹を削って作ったのに、ぼくの竹トンボだけ飛ばなかった。悲しかったですよ。

――漫画家を志すようになったきっかけは何だったのでしょうか


小学生から中学生にかけて雑誌「少年倶楽部」を愛読していました。50銭硬貨を握って町に一軒しかない本屋に最新号を買いにいくときは、胸がときめきましたね。田河水泡の漫画や、高畠華宵(たかばたけかしょう)、樺島勝一、竹久夢二といった画家の挿絵に夢中になりました。中学になると「受験旬報」を読んでいましたが、勉強はそっちのけ。漫画や雑文のページだけ読み、漫画を投稿していました。同級生の稲垣穣(みのる)くんのお姉さんが、朝日新聞で「江戸っ子健ちゃん」を連載していた漫画家の横山隆一さんと結婚すると聞いたときには驚きました。横山さんが女優さんと写っている写真を見せてもらって、「漫画家っていいなあ」と憧れてしまったんですよ、ハハハ。看板を描いても食えるからと、デザインの学校に進むことにしました。ところが、入試に苦手な数学がある。しかたなく代数と幾何の問題集を丸暗記したら、合格した東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)だけ、3問ほど見覚えのある問題があったんです。当時は東京・芝浦に学校がありました。楽しかったですね。担任の先生が「机にかじりついているより、銀座で遊んでいたほうがよほど感性がよくなる」という方で、教えを守って遊んでばかりいました。

――卒業の翌年、1940年に召集されて入隊します


まもなく戦争が始まり、43年の春、行き先も知らないまま門司を出港しました。上陸したのは台湾の対岸、中国の福州。戦争しているとは思えないほど静かなところでしたね。米軍が台湾を通り越して沖縄に上陸したので、本格的な戦闘のないまま、上海の近くの農村で終戦を迎えました。ぼくらは軍閥の悪政に苦しむ中国の民衆を助けなくちゃいけないと思って行ったのに、戦争が終わると「悪鬼のような日本軍」と石を投げられた。うちの部隊は学校を作って子どもに勉強を教えたり、食べ物をあげたりして、何も悪いことはしなかったのにね。

――2歳ちがいの弟・千尋さんは戦死されたそうですね

京都帝国大学の法科に進んでいましたが、人間魚雷「回天」の訓練を受けてフィリピンに向かい、輸送船ごとバシー海峡で撃沈されました。うちに帰ってきたのは木の札だけです。要するに正義は逆転するんです。A国にとっての正義がB国にも正義だとは限らない。では、逆転しない正義は何かといえば、飢えている人を助けることなんじゃないか。政治だって、飢え死にする人がいるなら、どこかまちがっているんですよ。悪党をやっつけるためにぶちこんだミサイルで罪のない人も死んでしまうなら、それは正義ではない。武器を持たないアンパンマンは飢えた子どもに自分の顔を食べさせます。それが、ぼくの考える正義なんですね。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310150227.html?ref=comkiji_redirect

やなせ・たかし 91歳 1919年、東京生まれ。高知県で少年時代を過ごし、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)卒業。73年に生まれた「アンパンマン」は、絵本が約780タイトル・計5500万部、CDとDVD・VHSが約1450タイトル・計1500万枚の人気シリーズ。

top


 

(人生の贈りもの)3 食えず「手のひらを太陽に」(2013/02/02朝日新聞)


――1947年10月、東京の三越に宣伝部員として入社されました

三越劇場で新劇をたくさん見られたのはよかったですね。「その妹」「女の一生」……。当時は小屋が少なかったので、みんな三越劇場でやっていたんです。ポスターを頼まれて、劇場に入り浸っていました。文学座の三津田健と丹阿弥谷津子が出演した「シラノ・ド・ベルジュラック」のポスターを描いたことはよくおぼえています。

――白地に赤い模様を散らした三越の包装紙「華ひらく」には、やなせさんもかかわりがあるそうですね

50年のクリスマス用に、画家の猪熊弦一郎さんにデザインをお願いしました。パリ帰りの猪熊さんはモダンで、いちばんの売れっ子でね。だけど、アトリエに受け取りに行ったら、白い紙に赤い色紙を切って貼ってあるだけ。「Mitsukoshiの文字は、やなせくんが描いて」と言うんだよね。ほんとうのところ、こんなに簡単でいいのかなと思いました。重役に「おまえ、これはひどいんじゃないか」と言われ、「ぼくじゃありません、猪熊先生です」と答えたら、「そう言われてみると、いいな」。ハハハ。ぼくもびっくりしたんだけど、印刷して品物を包むと、ものすごく目立つ。包装紙の革命でしたね。好評だったので、翌年の夏から定番になりました。たとえば高島屋の白地にバラもそうですが、デパートの包装紙が白地に変わるきっかけでした。

――1953年3月に三越を退社し、漫画家として独立されます

スポンサーにも社長にも文句ばかり言われるから、自由に描ける漫画のほうがよくなってね。投稿しているうちに仕事も来るようになっていたから、家を建てて、電話を引いたところで辞めました。ところが、関西から手塚治虫が上京し、少年漫画誌ができると、漫画界は長編漫画が主力になっていった。ぼくが漫画だと思う、細かく描き込まないユーモアのあるものは、新聞だけになってしまいました。「もう終わりかな」と思いましたね。 

――ちょうどそのころ、1960年に「手のひらを太陽に」を作詞されたとお聞きしました

仕事もないのに「漫画家は徹夜しなくちゃ」と思い込んでいて、闇のなかで手に懐中電灯を当てて遊んでいたんです。そうしたら血が透けて見える。落ち込んでいても血はこんなに元気なんだなと。だから、ほんとうは「手のひらを懐中電灯に」。漫画だけでは食えなくて、ラジオ番組の構成や舞台の仕事をしていたときに知り合った、いずみたくちゃんが曲をつけ、宮城まり子が歌ったけど、最初は何の評判にもなりませんでした。それが現在まで歌われているんだから、わからないものですね。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310150228.html?ref=comkiji_redirect


(人生の贈りもの)4 子どもに容赦する必要はない(2013/02/03朝日新聞)


――1973年に誕生した「アンパンマン」。はじめのうちは、あまり評判がよくなかったそうですね

「あまり」どころか、すごく評判が悪くてね。出版社にも「パンが空を飛ぶなんて、こんなくだらない絵本はもう描かないでください」と言われるし、批評家にも「図書館に置くべきではない」なんて言われてね。幼稚園の先生に「顔を食べさせるなんて残酷です」と言われたこともあります。

――手応えを感じるようになったのは、いつごろからですか

5年ぐらいたったころかな。出版社に頼まれて幼稚園でお話をしたり、紙芝居をしたりしていたんですが、「よく来てくださいました」と園長先生が飛び出してくるようになりました。トイレに連れていかれて「怖がって行きたがらなかった子どもが、壁にアンパンマンを描いたら、よろこんで行くようになりました」と言われたことも。どこの幼稚園でも絵本はぼろぼろで、図書館の貸出率も第1位。出版社もころっと態度が変わって、「もっと描いてください」。アンパンマンは子どもたちが見つけてくれたんだね。

――なぜだったのでしょうか

わかりません。子どもに受けようと思って作ったわけじゃないしね。子どもにとって、いちばん身近で大切なのは食べること。ぼくの言いたいことが本能でわかったんじゃないかな。
じつは「アンパンマン」には、環境問題や生物多様性といったテーマも入れています。昨年公開の映画「それいけ!アンパンマン ブラックノーズと魔法の歌」では拉致問題を意識しました。でも、見た人にはわからなかったと思う。気づく必要もありません。作者として、基本は何かを考えておかなければいけないというだけです。教育しようなんて、あからさまな気持ちになったらだめ。「グリム童話」や「アンデルセン」でも、大人になって初めてわかることがある。気づく人も気づかない人もいる。それでいいじゃない。「論語」の素読のようなものです。子どもに容赦する必要はないというのが、ぼくの持論。だから、「アンパンマン」のテーマ曲に「何のために生まれて、何をして生きるのか」という哲学的な歌詞を入れたわけ。

――やなせさんの答えは見つかりましたか

生まれ変わっても同じことをしたいから、結局はうまくはまったんだろうね。5月にはホールで歌の発表会をやる予定だし、朝日小学生新聞に連載している話を壁かけ絵本にする計画もある。がんも心臓病もやって、頭の先から足の先まで悪いところだらけだけど、おもしろいことが多すぎてね。もうちょっと生きていないといけないから困っているのよ、ハハハ。
(聞き手・田中順子)=おわり

http://digital.asahi.com/articles/TKY201310150229.html?ref=comkiji_redirect

top


BACK


 

カウンター
biansline

|バースデザインビアンスアンディムジークプロニティヘキサグラムアロットユニバーソーリドメモランダム物置小屋ラブソンググランブルーな人々へ
デザイン寺子屋リンク・県別リンク・世界の国リンク・世界のインテリジェンスリンク・ニュースリンク・サイトリンク・ヒューマニスト

サイトポリシーサイトマップリンクについて著作権お問い合わせ